Neetel Inside ニートノベル
表紙

彼女とローリング浪人
第四章 男と彼女

見開き   最大化      

 第四章 男と彼女

 荻賢一は、一世一代の大勝負の日であった。長年狙っていた彼女の側から初めてメールをもらったのである。彼女は苗字を篠原と言った。篠原に呼び出された荻は、便所の鏡の前で何度も髪型を確かめた後、平静を装いつつ屋上に向かった。篠原はバスケットコートの横の何もない空間をじっと見つめていた。化粧もせず、髪もボサボサ、眼を腫らした篠原に振り返るなり睨まれ、荻は早速怖気づいてしまった。引き攣った笑顔で荻が頑張っていると、篠原は今から話をするから、少し黙って聞いていなさいと言う。篠原に近づいた荻は、未だかつてこれほどまでに、篠原から愁いの影を感じたことがなかった。

「なんだい。君の方からメールくれるなんて珍しいじゃないか」
「……なんで私がここにいるか知ってる?」

 荻は無論、篠原が何故ここに通っているかを知っていた。

「最近来ないね」
「あのね、私も帝西大志望だったの」
「すごいね! 篠原さん! 頑張ってるんだ!」
「あたしなんかが通るわけないじゃないの!」

 荻は篠原に機嫌を直してもらいたかった。しかし、篠原は右手に持っていた帝西大学の過去問集を地面に叩き付けると、膝から座り込んで、内股座りで泣き始めた。

「おおう、おいっ! どうしたんだよ!」
「……あたし…………失敗しちゃった……」
「なにが?」
「……」

 篠原の様子が七月に入った頃からおかしくなっていたのは知っていた。だから何かがあったことは荻もそれとなくは把握していた。

「……勝野……君はね……。やれば……できる子……なの……」
「ああ、知ってるさ。高校で断トツのトップだったじゃないか。模試でも成績上位の常連だったし」

 篠原は泣き顔を上げて荻を見た。

「勝野君の傷、えぐっちゃったああ……」
「えっ?」

 いつも強気な篠原が涙でぐしょぐしょになっているのを見て、荻はただ篠原の話を黙って聞いているしかない。

「あたしね……虐められてたときも……いろいろ助けてもらったのにね……あたしね……」
「……」
「……あたし…………勝野君の……あんな顔…………見たことない……」

 篠原は両手で顔をおさえるが、唇を歪めて泣く息がこぼれる。涙も腕を伝わり、篠原の袖やスカートを濡らす。

「元気になってくれると思ったのにいいいいっ…………」
「んん……。まあ……。誰にだってスランプはあるし……」
「早紀のせいよお!」

 篠原は何も知らない荻に大声で訴える。

「えっ?」
「早紀がちゃんと試験に来てたらああ……! こんなことにはならなかったのお…………!」

 涙と鼻水でくしゃくしゃの顔を真っ赤にして、篠原は地団駄を踏む。

「私じゃないの……! 勝野君は早紀が好きなの……! もお……ころおしいてえやあるううううぅぅぅぅううう!」

 声を絞り出して本音で暴れる篠原の見たことも無い様相は、五年間蓄積した、ややもすると腐りかねなかった片思いの念を一度に炸裂させた。

 ふーん、ふーんと泣き声を上げる篠原を荻は衝動的に抱きしめる。

「…………! …………。………………」
「わかった。わかったよ。俺もつらい」
「……」
「……」
「……付き合ってほしいんでしょ?」
「……ああ」
「……あんたまで……予備校に追っかけてくることないのに……」







 ものすごく時間が経ったような気もするが、実はそうでもない。目を開けたまま、自覚なく硬直していた自分に気づき、慌てて時計を見ても、最後に時計を見たときから三秒しか経過していなかった。後頭部に目が生えていて、そこから何かを見ていたような気もするが、それはただの疲れからくる幻覚である。

 夜中、特に一時を過ぎたあたりから行動を開始すると、周りが素晴らしく静かで、流れる時間が非常に優秀である。日中もずっと起きていた人間と昼夜が逆転している人間とでは、質が大きく異なり話も違うが、慣れてしまえば、日中の怠惰な行動継続を助走と割り切ってしまえば良い。重要なのは夜中の生活に持てるエネルギーのすべてを注ぎ込むことである。

 人間は昼間に生活するように出来ていて、夜間労働の時給は昼間よりも良いという。しかし、中学生、高校生の頃の俺にとって、時間は作るものでは無く、ただただ与えられて消費するものであった。一人で夜の中を飛び立ち、世間から隔絶された頭の創作する暇を、喜び勇んで持て余し、たった一人が君臨する半球面状の静寂を、星明りに照らされながら自由自在にさまよい続ける。知識の詰め込みを暴力的に行い、アダルトサイトを忙しくない方の手で展開し、オンラインゲームやチャットで実態を纏った仮想キャラクターを量産し、あるいは溢れる嘘の洪水にサーフボードを浮かべて浮き沈みする現実をせせら笑う。白んでくる窓の外、体の反応に気がついて現実に連れ戻された瞬間が時間切れなのである。

 平日が無くなってしまえばいいのにと思ったことはいくらでもあるが、平日どころか土日をも失った今現在の俺に、時間切れの概念は存在しなかった。無限に続いて欲しいマゾヒスティックな航行に臨む俺は、墜落する前から解放されていたのである。彼女は毎日俺の枕を盗み、マットレスに転がり込んで眠る。そして起き上がると、これまた俺のデジタル音楽プレイヤーを盗んで特等席から外を眺める。大事な自己完結の道具も彼女になら喜んで献上する。一方で俺は、もう一方の自己完結の道具、パソコンから離れると、床に就いてバイトの時間まで眠る。バイトから帰ってくるぐらいの時間で、彼女は枕に手を伸ばすのである。

 眠る彼女の体は反則で、二日に一回はシャツがめくれてモノが見えていた。彼女のせいで毎日無駄に溜まる亜鉛貯金は全部便所に流した。手は出さないと決めていたのは、汚いシミがつくと残念だからである。打ち抜かれてしまった部屋の入口から涼しげに入る風、それがテープで止めた風鈴をこもらせながらも歪に響かせ、耳をイヤホンで塞いで頬杖をつく彼女は外の空の飛行機雲を眺める。こちらの呼びかけには直ぐに振り向くようになったが、やはり部屋を出ていこうとする形跡は無く、部屋が狭いとはいえ、俺の傍に居続けようとする彼女が、風に髪をなびかせている様子、ただそれだけで、俺はもうこれ以上のことが無いかのように思っていたのである。そんなことをやって、毎日、常にどちらかが起きている状況を作り、何かがあった時のために備えていた。

 そうしているうちに、病院へ向かう用事ができた。

 大麦東病院は一昨年に病棟が新築された病院で、全部で十五階建て、病床数も千を超えるマンモス病院である。上昇するエレベーターは近代的で小奇麗なガラス張り、使われなくなったばかりの煤けだした旧病棟を見下ろしながら上昇し、一方俺にも容赦なく下向きの圧力をかけてくる。降りるとすぐにナースステーションがあり、少し不審な挙動を見せながらも思い切って問い合わせると、1205の大部屋にいるという。あまりに突然で、まして昼夜逆転の生活を送っていた俺は、伝えられた事情をいまひとつ把握することができない。

 包帯に巻かれた腕や脚から固定のための金属の棒が飛び出ていて、全体がフックから吊り下げられている。包帯の隙間から見える顔は腫れ上がっていて誰か分からず、首の付け根に空けられた穴から管を通して息をしている。喧嘩ができる性格でなかった俺は、人の顔がここまで腫れ上がっているのを嘗て見たことがない。目の前の男がもし「誰よりも健康であるアノ男」であるならば、本来俺にとってはそれで十分であり、その他の客観的な査定は意味をなさないはずだったのである。それを、ひどい外傷を口実に、必要もない線引きで健康から隔て、それをわざわざ俺に突き付けてくるとはどういう用件だろう。しかし、看護婦の様子を見ても重症であるという事実を否定しようがなく、ここに寝ている男の感覚を共有できる自信を、俺は完全に喪失していた。

 「例の件をすべて話さなかった男」と、目の前の顔の腫れた男とは違う人物であって欲しかった。俺がこの男に話さなかったことに積極的な理由があったわけではない。そんな自己弁護も、俺の頭のなかで反響するだけで誰にも聞こえない。俺がこの男から感じたのは、俺の中から沸き上がる不道徳で理不尽な斥力のみだった。死にかけて運び込まれたというこの男の寝るベッドには、何回見ても「中本進」と書かれた名札が付いている。離れたくても思考の統制が取れずに足が動かない俺は、気がつけば自己崩壊を偽装した迷彩を甘受し、周りで寝ている患者達の意識混濁をこそこそと身にまとって、過重負担を回避するためだけに中本の顔を見つめ続けるしかなかった。それを防げなかったなんていうのはきっと嘘だ。俺の薄情さや卑しさは俺が一番よく知っている。五感の麻痺をいいことに、「話さなかったのは選択ではなく結果にすぎない」という妄言に思考の根幹を明け渡していた俺は、重症の中本の前で、中本に対し何をするわけでもなく、ただつっ立っているだけだった。

 整理できない事実に負けて、深層心理でポイント切り替えされた俺は、俺自身の卑小さに不安定な主導権を奪われたまま、碌にもしゃべることができない。「またくるよ」と正しいかどうかもわからない台詞を口から絞り出し、そそくさとエレベーターホールに逃げ込んだ。行きは直ぐに来たエレベーターがなかなか来ない。



「おまえどうするんだ。これが決断できる最後だぞ」



 電話越しに中本のこの言葉を聞いたとき、そして彼女に抱きつかれたとき、俺の足は果たして本当に地に着いていたのか。それは昼に寝て夜に行動している俺に判断できることではなかった。夜の暗闇に反逆して地上を貪る人間にとって、普通とは一体なにを言うのか。入試が終わるまでの間、コンセントに繋がって夜を飛び回る俺は蝿のように無分別で、まして閉塞感を感じたことなどなかったのだろう。頭の塗り替え作業と並行して乗る下りのエレベーターはふわりと軽く、旧病棟の煤けがあっと言う間に近づいてくる。

 思いなおせば、中本の総べる健康な世界というのは、俺自身が病気であろうという主観と対になる形でしか存在しえない砂上の楼閣ではなかったのか。すなわちその砂というのが流動できずに停滞している俺自身の劣等感ではなかったのか。あげ足を取るという意味でなくとも常に健康な人間は存在しえない。大学入試が終わる前、俺が中本に勉強を教えていたとき、すなわち中本が現役合格して俺がすべる前に、果たして俺は塔の天守閣に中本を据えて崇め奉っていたのだろうか。景色の良さを羨んで下から見上げていたのだろうか。地盤の揺らぐ原因が卑しいことさえ認めてしまえば、楼閣の存在そのものを否定しうるのではないか。

 病院から出て振り返った十二階は高く、中の様子はもはや分からない。外膜を新調された俺は、外の世界の二点間の距離を掴むことができない。



「あんまり彼女に感情移入すんなよ」



 と中本がかつて俺に言った忠告も、今となっては潔いほど遠くにあって、俺には感知できなかった。そもそも例の件の始めの対応に関しても、警察に言うか言わないか、それで意見が分かれていたのである。中本と意見が異なるのは、中本と住む世界が異なることからも自明であったが、銃の件を中本に話さなかったことが、線引きがなくともすでに中本をより向こう側の人間へと押しやりつつあった。

 しかしである。だからと言ってこの期に及び、すなわち「中本の怪我が例の件に関わっている」ということが誰が考えてもわかるであろうこの状況を以ってしてまで、例の件の事実を警察に話しにいかないのはどうだろうか。

 それでも俺は話に行かなかった。

 他の意見は知らない。

 警察に言わない理由はもはやひとつしかない。

 重大な分岐点の上を知らないままにすべった俺は、浮かんだまま止まりもせずに、彼女が窓辺に座る下宿へと戻ることにした。







 帰りは東丸線に乗って二十分程、とりあえず目はギンギンで、下ばかり見ていると眼球がこぼれ落ちそうなかんじがする。耳の後ろのあたりが痛いのを、電車の窓に後頭部をこすりつけて紛らわす。天井を回る扇風機がこちらを向くのは少しだけだ。西から流れてきた雲に色を奪われた建物群が、灰色に角張って左から右へ流れていく。 下宿に置いてきた彼女は大丈夫だろうか。

 時計を何回も見る。

 いつもと同じように銃は彼女に渡してある。しかしそうは言っても、故障でもないのに、扇風機の回転速度が徐々に遅くなっているような気がする。最後のトンネルを抜けて現れた東大麦駅も、いつもとは違う駅に見え、味方にはなってくれそうもない。この時間はラッシュも終わって空いているらしいが、それでも下宿の前を通る電車に乗ろうとは思えない。周りの足音から自分を切りとりながら、行きより速く歩いて高層ビル群をくぐり抜け、例の商店街は避けつつ踏切に向かう。とりあえず下宿へ帰ることだけを考え、動く二本足の動物も、動かない一本足の無機物も、俺を邪魔するためだけに無駄に散りばめられた障害物として、余分な注意は払わずに避ける。思ったよりも俺の足を止める信号の数が多く、赤信号のせいで目の充血がひどくなる。つのる不安と麻痺で内臓まで浮かんできそうな俺は、戸が無い部屋に異様さを感じる暇もなく、着いた途端に急いで彼女を探した。

 彼女は窓際で自分の爪を見ながら「あーあーうーあー」と小さな声で歌っていた。部屋にも特に変わりはない。

 安堵した俺は尻から床に落ち、彼女は驚いてこっちを見る。床の振動は彼女の尻で止まり、部屋の外に発散する。

「…………疲れた……」

 彼女はイヤホンを外してこちらに近づいてきた。今日は随分と反応が良く、頭の巡りも調子が良い様だ。床の上には鞄の中身が散らばっていて、筆箱やらノートやら、この間手続きした模試の受験票やらが散乱している。彼女が暇つぶしに漁っていたのであろうか。ノートにもミミズが震えたような何かが書いてあるが、ここからは遠くて読めない。

「……それなに? なに書いたの?」

 見せてもらっても汚くて読めない。文字ですらなく、どう見てもぐちゃぐちゃと波打ったペン先の跡が残っているだけである。「もうこのノートはあげるよ」という趣旨のことを言おうとした。見上げたシャツの下から彼女のモノが見えている。しばらく黙ってそれを眺めながらも、そろそろ男物を着させ続けるのも限界だなあ、と感じざるをえない。生理用品もなく、慌てて無理矢理代用させていたティッシュもあと一箱しかない。

 ふっきれた俺は、大家の管理が適当であるのをいいことに、用意していた八月分の家賃を全部買い物に注ぎ込んでしまうことにした。机の上で軽く埃をかぶり始めていた銃を手に取り、安っぽい半袖のシャツを着たまま彼女と外へ出る。雲が退散している下宿の周りは日差しが強く、断熱材も碌に入っていない茶色の屋根が熱い。

 週三で通う銭湯の前を今日は素通りし、蝉にうるさく野次を飛ばされながら、しばらく影らしい影の無い灼熱の道を通る。公園と駐車場の間を抜けて、徐々に勾配が急になる坂道を上る。向こうの山は空の額縁にしては濃すぎる量で、ずうずうしく緑を塗りこんでいる。本格的に山が始まる少し手前に大きな丁字路があり、それを右折して小さな橋を三つ超えるとショッピングモールに着く。

「この先に予備校があるんだ。でももう全然行ってないや。はははは」

 と言ってしまってから、彼女に言い訳してなんになるんだと後悔した。彼女はイヤホンを耳に入れたままよそ見をしていて、聞いていない様子である。予備校へはショッピングモールを経由しても着くことができるが、ショッピングモールの場所は少しだけ標高が高くなっていて、周囲は舗装もそこそこに捨て置かれた小さな坂が多い。その上、七月頃からは蚊も増え始めるため、田舎臭いだけでなく実に面倒くさい。しかし、背中に手を組んで雲を目で追っている彼女は、相変わらず風を従えていて涼しそうであり、彼女ばかりを振り返って見ていた俺は手足の其処彼処から蚊に血を奉仕してしまった。

 勝手がわからない。でしゃばると白い目で見られる。ショッピングモールに着いて、しばらく入口の案内を見ながら考えあぐねていると、彼女は天井の梁を眺めるのを止めて、こちらに近づいてくる。

「……よくわかんないから自分で選んでくれないかな。……選べる? 予算三万円二千円」

 彼女は音楽プレイヤーを握っていた腕を揺らすのを止め、それを両手で持つと、顎を引いて俺を見た。そんなつもりではなかったようだ。耳からシャカシャカと音が漏れる。

「……まあその、下着でなくてもさ、買いたいもの買えばいいから」

 彼女は首を傾けてハの字の眉を正面からそらすと、目線を床に落として顔を赤く染める。彼女の目線が俺と床の間を行ったり来たりするので、意を決した俺は彼女の腕を掴み、始めの一件の中へと引っ張り込んだ。掴む腕に集中しすぎて誰とでも、宇宙人とでも会話ができそうな気分だ。彼女は顔を赤らめたまま、何も言わなかった。

 下着はサイズが無いだとか言われ、店を五件ほどまわって苦労したが、とりあえずひとしきりのものは揃えた。クーラーから熱を吸収されてすっかりエネルギーを使い果たした俺は、三千円弱を残して下宿に帰ろうとした。それほど広くないフロアを見渡すと、彼女は売り物の実演されている流し素麺器を眺めている。見覚えのある店だった。思い出して奥を見ると、風鈴を売っていたエリアはキャラクター商品を売るエリアに変わってしまっていた。流し素麺器のドーナツを流れる素麺は、やがては被る埃のことも気にせず、無邪気に同じところをぐるぐると回り続ける。店内には同じく見覚えのあるバーゲンワゴンの中、相も変わらず申し訳なさそうに同じクッションが並んでいる。毎日彼女が盗む俺の枕は俺が嗅いでも油臭い。当然「ひとしきりのもの」に入れるべきと思った俺は、そのクッションも一つ買って帰ることにした。

 残金が三百円弱になってしまった素寒貧の帰り道は、周りの暑さも無視できるほど清々しい。坂を下りて銭湯を過ぎ、いつもの自販機でアイスクリームを買ってしまえば、もうペットボトル飲料も買うことができない。ところが、俺の奇妙な達成感をよそに、アイスをもぐもぐと食べていた彼女は、下宿につくと突然アイスを食べるのを止め、階段をのぼらずに花壇の方へ歩いていった。アイスが垂れはじめても立ち尽くしている彼女を不審に思った俺は、どうしたのかと彼女の方へ近づいていった。







 マウスのクリック音やキーボードのタイプ音がうるさいので動かしていた手を止め、有機的な重みは彼女の寝息に預ける。腕を組みながら光と音を目と耳の外へ追い出し、条件文の矢印を抱え持って無機の屋形に閉じ込もってみる。俺には銃の潜在能力についての認識が欠落していた。男と対峙する前に、一度腹を据えて様々な可能性を検討する必要があった。しかし、そうは言っても思考は、この銃を使って男から如何に逃げるか、ということに集約されてしまい、まして如何にして儲けるか、資金を集めるかということには、興味が向かない。

 八面体は逃避先としたいところに置いておけばよい。そうすると、緊急時に自分を撃てば、そこまで逃げてくることができる。では、電車や飛行機に乗っている場合、あるいは落下中はどうだろう。慣性の法則が成立していれば、機中で撃たれた途端、時速千キロのスピードで擦れ潰れて肉塊になってしまうのではないか。エネルギーや慣性系といった概念を絞り出すのが精一杯な高校物理の範囲では、これらのことを考えるのも限界だ。とりあえず、地球は自転していることだし、今までそんな地球の上でもひどいことになったことはない。周りの物体群との関連性や系の設定方法は全くもって不明であるが、出現先で都合よく静止するのだろう、と勝手に解釈すれば、ハイジャックされた旅客機からも一人だけ逃げ果せることが可能である。

 敵を移動させたい所に八面体を置いておけばよい。たとえば牢屋の中に八面体を置いておけば、撃った敵を移動先で閉じ込めることができる。しかし、狙いを外してしまえば、置いてあった八面体が無駄に現れるだけで、以後はどうしようもない。つまりチャンスは一回なのである。動くものに銃を当てる際は、集中して慎重に狙いを定めないといけない。

 敵が敵の銃で逃げようとした場合はどうすればいいだろう。放っておくならそれでよい。もし敵の後を追うつもりがあるならば、敵が放電領域を形成する際、その中へ自分が持っている八面体を投げ込んでしまえばよい。投げ込んだ八面体と一緒に敵が移動した後、自分の銃で自分を撃てば、自分も相手の移動先へ出ることができるのである。しかし、移動先で敵が何を企んでいるかは分からず、追うのに積極的な目的がある場合であっても、実行は躊躇せざるを得ない。

 敵が俺を狙って撃ってきた場合、敵は俺を殺そうとしている、と考えてまず間違いない。相手の銃には決して当たらないよう必死に逃げないといけない。撃たれたことを確認してから逃げるのは不可能だ。そういう意味では先手必勝で、先に敵を殺すつもりで撃ってしまえばよいという考えもわかるが、そういう危険なところへ八面体を置きに行く行動力そのものが物騒である。うまく躱せた場合は、できた放電領域に八面体を投げ込めば、相手の移動先、相手の処刑場を乗っ取ることができる。しかし、そんな軽業みたいなことが俺にできるはずがない。

 定期考査の直前のような睡眠不足で机を見たまま真剣に考えていると、頭を支える首に無意識に力が入ってしまい、頭を上げた途端、首の緊張と一緒に頭の中が放散してしまうような気がする。知らない間に集積する一方の焦燥感は、そんなことをしている間も虎視眈々と、俺の様子を窺っている。考えが中本の受傷原因に及ぶと、青アザ塗れの妖怪に化けたそいつ等が、此処ぞとばかりに中へ侵入してくる。気を許すと遠慮もない妖怪は、天井やら壁やらから音も無く染み出てきて、「よくもこんな顔にしやがったな」と俺の背後を捉える。聞こえる囁きを彼女の寝息の力を借りて外へ閉め出す。門の外と内で押し合い圧し合いをしているうちに、やがて朝日が射し込み出して彼女が起きだす。日光消毒を受けたそいつ等はすごすごと引き返していくのだが、次の夜にはさらにひと回り大きくなって、ディスプレイの隙間から俺を縛り首にしてやろうと覗き込んでくる。

 買い物に連れて行ったとき、彼女は始めパジャマのような頼りない服ばかり買おうとした。余所行きの服も要ると言うと、口を尖らせて声も出さずに拗ねる。俺は店員の力を借り、襟付きカットソー、チュニック、ワンピースと、よくわからないまま三着の服を買った。しかし、彼女は買った服を袋から出しもせず、洗濯のしすぎで白けたシャツを着たまま、相変わらずヨレヨレの襟元からイヤホンのコードを垂らしていた。一方で、ノートを得た彼女は窓辺ではなくノートに向かうことも多くなり、耳からシャカシャカと音を漏らし続ける彼女は、

「ぷーん。ぷぅーん」

 と意味のわからないことを言いながら、ノートにミミズを徘徊させ続ける。

 こちらを見て笑う彼女は俺の全ての鬱屈を吹き飛ばした。それでも根が深い俺の鬱々は、刈り上げられてもしぶとく生えてくるばかりであった。







 八月の五日になって、彼女が寝ているのを確認した俺は、一人で下宿の外へ出た。今まで夜中に外に出る用事はコンビニへ向かうことぐらいしかなかった。夜中にこれほどの遠出をするのは異様である。しかし半球面の静寂の中を一人で踊り続けた俺にとって、自分が君臨する領域に客観的な外と内は無かった。民衆のいない王様は、城にいようが城下町にいようが関係が無い。まして、辺りには人影も無く、最終列車も通過してしまった。べとべととへばり付く汗の具合は、虫の鳴き声を聞いたところで、外と筒抜けの下宿となんら変わりが無い。踏みしめる足の裏はステップをきめる様に軽い。雑草を蹴散らす足を痒いとは思わないが、左右に少しフラフラするようだ。来たる対峙に備えてか、体からはダラダラと汗が噴き出る。一方、ポツポツと点在する街灯に白く照らされた頭は、そこだけが血が通っていないかのように冷え切っていた。向かう先はひとつしかない。

 本格的に青い、青すぎて土臭い香りが生臭くもある線路沿いを進み、左右も見ずに線路を横切り、誰もいない商店街にならぶ車道の真中をポケットに手を突っ込んだまま歩く。最後の予行演習は内容をぶつぶつと唱えることで確認し、小さく首を振って頭の中を整理する。暴走族がバイクをふかす音は遠い。歩道橋の上に至り、周りに誰もいないことを確認した俺は、止まって鼻で大きく深呼吸をした後、そのまま階段を下りて廃ビルに向かった。

 見上げた廃ビルは今までで一番黒く見えたが、目が慣れたのか、剥き出しの鉄骨の輪郭は何故かしっかりと見えた。廃ビルの向こうでは月と星が、早く上がってこい、と俺を急かしてくる。心臓の鼓動に頭の調律を任せ、織金網の隙間を抜けて、転がっている人形の横を通る。非常階段を上り、各階毎に息を止めて戸を開け、建物内部の様子を窺っていく。足音だけが響く階段を一段も踏み抜かずに上る間に、階段の隙間から見える地上が徐々に遠くなっていく。なんの変哲も無い階が続き、最後の階を見渡して異常がなかった俺に残された場所は、屋上しかなかった。

 俺はポケットの中身を確かめて握りしめると、一度だけぐっと歯を食いしばって、屋上へ上がる最後の階段を上りあげた。

 地上から隔絶されて風を泳がせる屋上は、地上よりも明るいように見える。左側には航空障害灯を並べたビル群が見え、右側には美奈川が注ぎ込む湾と緩やかな弧を描く水平線が見えるはずだ。俺は左、前、右と確かめ、まだチェックしていない後ろを回れ右の要領で振り返った。



「座れよ」



 今くぐり抜けてきた搭屋を振り返った俺は、男を目で捉える前に話しかけられてびくついた。搭屋の上、足を美奈川の方向へ伸ばし、縁で煙草をふかしているのは例の男だった。俺が気づいたことを確認した男は、目線をもとの美奈川の方へ戻しながら、左手の煙草を口へ持って行った。男が吸った煙を肺に溜め込んだまま動かないので、神経を集中させて構えていると、男はふうと煙を吐いて、こちらも見ずに言い放った。

「いいから座れよ。身構えすぎだ。肩の力抜けよ」
「……」

 男は立てた右足の膝に銃を持った右手の肘をひっかける。男の声は、張ったビニルがビリビリと共鳴するように主張強く響く。

「講義をしてやるよ」

 男の謎な発言に俺はたじろいだ。

「……抗議?」
「レクチャーだよ。この前の話の続きさ」

 男は銃口を上にして銃を持ち、カチャカチャと無駄な音を鳴らしながら銃先を眺めた。その男の暇つぶしとも思える行動に、俺の不信の念は増幅する。俺は立ったまま、もう一度ポケットの中身を握って確認し、男の横柄な態度に気を解かないよう構えた。

「もうわかってると思うが、運送屋ってのは嘘だ。君みたいなのをいつも相手してるんだ、僕は。義務っていうのはそういうことを言うんだ」
「中本をやったのはお前か?」

 半ば男の発現を無視して聞くと、男は笑ってこちらを向いた。

「いやあ、アレは驚いたぜ。アレは危険だった。まあ、はずみさ。手が出ちまったものはしょうがねえ。怪我は知らんが、お前ので撃てばもどる」
「はあ?」
「謝ってほしければ謝るぜ。まあ男だからいいじゃねえか」
「……なんなんだ、お前は! その銃はなんだ?」

 男は鼻筋を少し上にあげて、ふっと笑うと、例によって目を細め、サングラスの下から俺を見下す。男のワイシャツの捲くられた左袖が風に揺れる。銃に目線を戻した男は話を続ける。

「こっちは試作品のものだ。早川・茂木テンソル式のAnk次項からBnk次項にかけて、プラスとマイナスが違うのさ。君が今直面しているとおり、銃は二個ある。ということはつまり『式そのものが実在可能性だけでなく実在そのものを示す』と。そういうことが証明済みであるいうわけさ。絶対値は同じなのだよ」

 男が何を言っているのかわからない。

「ところで僕のジャケット返してくれないかな。アレ、お気に入りだったんだけど」

 男はこちらに目線を戻すと、さも自分に非は無いとでも言いたげに、平然と要求をしてきた。八面体を公園で回収したときに出現した謎のジャケットは、八面体を抜去した人形と同様、例の銃でどこかへ移動させてしまった。

「ねえ、ジャケットは?」
「……011番と入れ替わった」
「飛ばしたのか! かーっ、それじゃあ掘り起こさないといけないじゃないか!」

 男は舌打ちして煙草を投げた。煙草は重力に従って放物線を描き、階下の闇夜に消えていく。011は掘り起こさないといけない、ということは、あのとき011にダイヤルが合わさっていれば、僕と彼女は埋まって死んでいたのかもしれない。

「…………まあいいや。ポケットに穴空いてたしな。面倒くさいから捨ててしまおう」
「ふざけるなよ。そんなところに八面体埋めやがって。危うく生き埋めになるところじゃないか」
「はっ! 知るか! お前らが勝手にやったんだろうが。それとな、その番号が付いているヤツはマーカーと言うんだ。定義をしっかり決めないと議論は上滑りになる。形が八面体であることには消極的意味しかない」

 男はポケットから新しい煙草を取り出すと、火をつけて煙をはいた。男はもう一回吸ってから、こちらを見ずにペラペラと話を続ける。

「それとな、マーカーダミー内のマーカーは自動補正が効くのさ。自動補正の機能は一人のシフトでしか試したことがない。お前らどこもちょん切れなかったのか?」
「マーカーダミー?」
「人形だよ! ここの一階にも落ちてるだろうが! いいか。補正無しで三次元に表出される形は球面だ。どちらにしても両端を持ったヒモで以って切りとられるんだよ。……っと、美奈川大学の学生だよね君? あそこのレベルじゃ難しいかなあ……」

 男の話す内容がわからないことに加えて、男が俺にそのような話をしてくる動機も不明である。男は俺に誤解を解く暇も与えず、一人でしゃべり続けたまま、美奈川の方向を向いて体勢を変え、ヤンキー座りで座りこんだ。

「まあトポロジーが好きな奴は違うことを言うと思うがな。俺に言わせればドーナツでも丸餅でも好きな方をとればいい。パラメータやアプローチの違いを認識しておけば問題ない。現れ方なんていうのは本質ではないのさ」
「……」
「まあ別解ということだ」

 男は銃の先で頬やこめかみやらを掻き出した。この男は自分の話している内容が少しでも俺に伝わっているものと本気で思っているのだろうか。男の謎の頭の中から俺に分かる内容のことを少しでも探り出してやろうと思い、男に質問をしてみる。

「……あの撃たれた後の気持ち悪いのは、なんだ?」
「今の自分が本当にもとの自分かということだな? テレポテーションなんて呼ぶ奴は割りとそのあたりを気にしやがるな。まあいい。確率論というのは必ず議論しなきゃならんが、ある程度はlogのオーダーを考慮して定量的、さらに進めば定性的に扱うことが可能なわけだ。少なくとも『箱を開けないと中がわからないんじゃないか』ということは、これにはあたらないのだよ。そもそも生きているなんていうのが幻想なのさ。ただし変換の過程がある。ウェッジ積とかテンソル積があるだろう? 銃と並行するシフトは単位テンソルになるんだが、銃を持っていない場合は変換の過程で写像に変化してしまってるわけだ。まあ時系列順に追加の積は後続していくから、さっき言ったように君が持ってる方を使えば変換はキャンセルされるわけだけどね。なんにせよ、一度確率論を退けてから時間空間の理論を始めてみると、逆に確率論の実態とか、そういうことが見えてくる。測定事実と主観をすり合わせようなんて考えがそもそも間違いなのさ」
「……」
「きみは知っているか? 自然定数やπのような重要な定数は他にもうじゃうじゃと在野に溢れているんだ」

 話している内容は全然分からない。しかし男から感じる異様さの正体について、俺は一つの納得できる結論を得た。男は今までに随分と銃を濫用しているようであったが、その実用性そのものについては幾分と無頓着で、男が鼻を高くして話すことは、どうやら銃の原理的なことばかりなのである。

「……お前は」
「あ?」
「お前は銃を悪用しているだろう」

 男はこちらを向いて少しキョトンとした後、また例のごとく「はっ」と笑って煙を吐いた。

「おいおい、工学の連中と一緒にするなよ。いいか。さっきも言ったがコレは試作品でだな、お前が持ってるものよりチャージが遅いんだよ。こんな楽な仕事をする輩は蔑むしかねえぜ」

 男は相変わらず大きな声をビリビリと響かせる。

「もっと言うとだな、工学の連中だけじゃねえんだよ。一般大衆共はすぐに何でも削減しようとしやがるんだ。高尚さがわからねえんだよな。私腹を肥やすのに忙しすぎて、取り出せるエネルギーに限りがあるとか、その分の費用がかかるとか、という簡単なことがわからねえんだ、あいつらは。君、魚屋に漬物の漬け方を聞くか? 八百屋に刺身で食えるかどうかを聞くか? いいか? 多数決なんていうのはな、正解が分からないまま漬物を腐らす。鰻を血だらけの刺身で食べちまう」

 気を抜くと男の確信の図々しさに話の腰をもっていかれそうだ。

「パフォーマンスで押し切る洗脳集団にはパフォーマンスで対抗しないと均衡が保てないのさ。お前の友達の件も、モラルハザードではなく啓蒙活動と考えてもらいたいね」

 この発言で、この男が一人で好き勝手していることは間違いない、と確信した俺は、飛んでもないことを言い出した男にかつて無いほどの腹立たしさを感じた。こんな奴の旅行プランにはめられて死ぬなんていうのは、死んでも死にきれない。しかし、そんな男の話に俺がこれほど耳を傾けたのは何故か。男の話を聞こうと思わせた俺の中の一抹の何かは、敵の情報を集めよう、といった一般不変の自然な動機だけではないように思えた。その正体がわからないまま、男が思うままに積み上げる世界に誘導され、とりあえず男の話を聞き続ける。

「要するにそこに集約されるわけさ」
「お前は何がしたいんだ?」
「まあ、こういうふうに銃のことがバレちまったわけだが、いいかげん『置き場』も限界なんだよ。リサイクルしてもいいかなと思いだしたんだ。リクルートさ。俺の目に留まったことに感謝するんだな。どうだ? おもしろいだろコレ?」

 男はこちらを向くと、上げた銃を手首でちらちらと俺に揺らして見せた。男はどうやら俺を殺す気はないようだ。そこで俺は、この偉そうな物言いの男が偉そうにしている理由であろう最も重要な根幹に対する質問、銃を見たときからずっと消えることのなかった疑問を男にぶつけた。

「その銃は……」
「あ?」
「その銃はお前が作ったのか」

 そこで男は突然黙り込んだのである。歯ぎしりを始めた男は穏やかでない。様子がおかしい。

「僕じゃない……」
「……?」

 男の返事は今までが嘘のように小さい。

「導出は僕じゃない……くそっ! うるせえ! そんなことは関係ねえんだよ!」

 男は声量を元の大きさに戻すと、突然拳を握りしめて塔屋に打ちつけ始めた。打ちつけるたびに微かに血が飛び、地上から隔絶された夜の静寂が崩れる。あのパンチをくらってしまえばひとたまりもない。暴走する男の叫びが屋上を支配する。

「畜生……! 八年かかったのに! 畜生!」

 やはりこの男は危険である。俺は白けて様子を見ていたが、一人で勝手に突沸して暴れる男の怒りが収まることはなく、男は持っていた八面体の一つをポケットから取り出して、自分の立つ搭屋に叩き付けた。

「あああああああああああ!」
「……」
「っああ! もういい! もう! ダメだ! やっぱりあっちが先か!」

 男はバラバラになった八面体の残骸から背を向けると、袖で額の汗を拭き、二つ大きな息を声を混ぜて吐くと、再びポケットから煙草を取り出して火をつけた。そして平静を装うかのように再び話し始めた。

「……まあ俺はね、事情をよくわかっていない君まで殺す気は無いんだ。富士鷹のバイトはちょっとややこしいことになりそうだったから殺ってしまったが、別に必要性が明確だったわけじゃない。また講義してやるからちょっとそこで待ってろよ」

 男はゼエゼエと肩で息をしながら煙を吐くと、銃のダイヤルを確認し、その銃で自分を撃った。放電領域が男の周りに形成される。

 しかし俺は男の目的を知っていたのである。男が合わせたダイヤルの番号も知っていた。ただ男がそのことを知らなかった。買い物の帰り、下宿の一階の庭でアイスを垂らしながら彼女がじっと見ていたのは、灰色の八面体だった。俺はポケットの中の灰色の八面体を取り出した。

 これを屋上から投げてしまえば、男は転落して死んでしまうに違いなかった。そして、中本に重傷を負わせたのをパフォーマンスだと言い放った男を、その瞬間の一度だけ殺してやろうかとも思ったことも事実だった。しかし、まだまだ男の話が聞きたかったような気がした俺は、その灰色の八面体を屋上から投げてしまうことをせず、そばの床にポンと投げて置くことにした。しかし、出現した男は下にズレたグラサンの上から近距離にいる俺の姿を目撃し、俺と目が合うや否や予想外の展開に眼を見開いて、これは不味いと思ったのか、即座に自分を撃って再び引き返そうとしてしまったのである。それほど焦る男に元居た搭屋を振り返る余裕があるはずもなかった。



 搭屋の縁、風に押されて落ちかかった八面体と入れ替わった男は、再び戻った搭屋で足をすべらせた。







「またかよ、うっせえなあ」
「なんか言ってやがるな、外で。 あっ、それチーだ! チー!」
「そんなカンリャンピン哭くなよ……。最近多いの?」
「もうしょっちゅうだぜ。『ぎゃああああ』って。何言ってるか全然わからん」
「おいおい、今雨降ってるんだぜ?」
「知らねえよ。五月ぐらいからなんかビチャビチャやってやがるんだけど、ほんとに最近多いんだよなあ」
「近いな。どこからの声だ? ちょっと見てきてやろうか?」
「もういいもういい! ややこしいことするな! 上に住んでる奴だよ」
「上って……。アレか! アイツか! 前にお前が言ってたヤツ!」
「そうそう、時々下に降りてきて叫びやがるんだ」
「あそこの花壇って、もしかしてそいつがやったのか?」
「さあな、さっぱりわーかりませんっよっと」
「ローン! チャンタドラ二! ザンク!」
「やっちまった。端牌は切っちゃうよねえ……」
「おいおい、それよかさあ、めちゃくちゃかわいい子いるじゃん、このアパートに住んでる子!」
「あ?」
「あれだよ! 線路の向こう側から見たら、窓のとこにいるんだ! いっつも薄着なんだよ、そそるぜ」
「あー、もしかして二階の一番端?」
「そうそう! それだよ! あの子誰? 回覧板とか回しにいかねえの?」
「……そこはな、今外で叫んでる奴の部屋だ」
「………………マジ?」
「いいから早く点棒よこせよ。ジャラジャラ行こうぜお客さん」
「お前はジャラジャラしすぎなんだよ! お前、こないだの模試受けたのか?」
「いやあ、チャンタマンはトイレで戯れていたのさ」
「マジかよ、何人喰ったら気が済むんだ」
「違う違う! そのときは前日に四十度のエチルチルと死闘を繰り広げた後だったのさ。その証拠に答案用紙には立派な勲章が」
「きたねえな!」
「人のこと言えんのかよ! お前のノート煙草の臭いしかしねえじゃねえか! みんな仲良くD判定だよ!」
「あー、彼女ほしー。ここ三ヶ月ぐらい御無沙汰なんだよなー。あの子無理かなー」
「いけるんじゃね? 彼氏は見ての通りだし。最近は良く外出してるぜ、あの子」
「マジで? 来たきたキターっ! ドラが来たーっ!」
「ドラかよ」
「まあ、やるんなら一人で頑張ってくれよ。応援するぜ」
「おいおい、お前の協力無くしてこのミッションの成功はないぜ?」
「もう来月に俺、ここ出るんだわ」
「えーっ、マジか! お前、激安激安って喜んでたじゃんよ?」
「いやあ、隣の大家のとこに家族の人が迎えが来てさ。認知症大分ひどいんじゃねえかな。もうこのアパートもどうなるか分かんねえよ」


       

表紙

カズアキアベ 先生に励ましのお便りを送ろう!!

〒みんなの感想を読む

Tweet

Neetsha