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彼女とローリング浪人
第五章 ローリング浪人

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 第五章 ローリング浪人

 何ヶ月か振りに机の上に参考書を広げた俺は、紙面の上の黒い数式が読めないことに驚愕した。全く何を書いているのかわからない。しかし、題名の部分積分や置換積分といった言葉は知っていたはずである。行列の行が縦横のどちらであるか。数列のシグマ。加法定理。何回見ても覚えることができない。これらも、かつては考えもせず、条件反射的に思い出してサクサクと解いていたはずのものである。概念を辛うじて思い出しても、具体的な解くという作業がからっきしできない。昔のノートを広げてみると、人の話も聞かずにつらつらとなぐり書きした黒鉛が筆圧でめり込んでいて、参考書の模範解答と全く違うことが書いてある。しかし、それでも最後に書いてある答えはどちらも同じで、参考書と昔の俺がライバルのように盛り上がっていて、二人とも今の俺には手を差し伸べない。

 高校の頃の俺が勉強をそれほどしていなかったというのは嘘ではないはずだった。しかし、このような謎の呪文を書いたノートを目の当たりにした今、俺はこのノートから怨念のようなものを感じざるをえなかった。実家にはいつに書いたのか、それほどの時間を割いたことが思い出せないほどの大量のノートが積み上がっている。これだけのものの中身が、一時だけであっても俺の脳の中に詰まっていたのだと考えると、質量保存の法則を無視しているのではないかと思えてくる。生活費のために、あるものを片っ端から売っていったが、この気持ち悪いノート群にだけは値がつくはずがない。振り返れば、「俺は勉強をそれほどしていなかった」ということの真偽は別にしても、勉強以外に特別これを遣り遂げたというものが何一つなかった。

 それが何故かと言う答えを俺は知っている。きっとそれが俺のアイデンティティーだったからだ。用事が無ければ人は振り向かない。積み上がったノートは俺の体をなす輪郭であったとともに、それが他人と交流する俺の唯一のコミュニケーションツールであったのだ。本棚にも収納されず、ただ高く積み上がっているそれは、地震がくれば崩れてしまって、俺の目を通してですらただのゴミにしか見えないはずだった。

 そんな疎通に欠陥のある俺でも人を好く。詳しくは書かなくてもいい。その子は他の同級生と同じように、俺に勉強のことを聞きに来た。参考書の数式をじっと見て、口を軽く開けて頷くその子の顔を、俺は口では説明しながら、頭の方は上の空で見ていた。その子が人差し指を口にあてて考え出したあたりから、訳の分からないことを言い出し始めた俺の様子を、中本は見逃さなかった。

「お前どうしたんだ? なんか挙動不審だったぞ」
「……あの子名前なんて言うの?」
「片岡さんだろ? どうしたんだお前? 名前も知らずに教えてたのか?」
「……」
「ははーん、なるほど」

 長年一緒に行動していた中本には見透かされてしまった。中本に聞いても、その子のことはあまり知らないという。中本はおもしろそうに俺をからかってくる。

「あははは、お前もその調子で高校生しようぜえ! 勉強し過ぎだって!」
「うるせえな! お前、それが勉強教わってる者の態度か!」
「チャンスは次の文化祭ですよお! 勝野くーん!」

 中本が目をキラキラさせて俺の肩を叩いてくる。それからしばらく、中本は口を開けばその話ばかりをしてきて、ついに洗脳された俺は、その子が六回目に問題を聞きに来たとき、必死の思いで文化祭を一緒に周ろうと誘ったのである。

「ねえ片岡さん」
「早紀でいいよ。ここを挟んで無限遠に飛ばすんだ。難しいね」
「文化祭どうするの?」

 早紀は少し変な顔をして答える。

「……なんで?」
「いやあ、暇だったら一緒に周らない?」

 中本に「できるだけ軽い感じで言え」と助言され、死にそうなほどに重たい心中を全部隠して、力一杯薄っぺらいかんじを装う。

「……べつにいいけど。寄りたいところあるんだけど、いい?」
「いいよ! いいよ! 全然!」
「……それにしても良く勉強してるね。勝野君は普段どんな本で勉強してるの?」
「あのね、いろいろあるんだけど、これなんか解説が分かりやすくていいんだよ……」







 差し出された参考書には見覚えがあった。



「……あれっ?」



 参考書を持った彼女が、伸ばした両腕をフラフラと上下に揺らしている。

 それが捨ててしまったはずの参考書だと気がついた俺は、彼女に聞いた。

「……それ捨てなかったの?」

 例によって顎を引いて俺を見ていた彼女は、黙ったまま頷く。参考書を手に取り、

「どこに置いてたのそれ?」

 と聞いても、彼女は耳にイヤホンを詰めて窓辺に行ってしまった。







 あの日、男が視界から消えた後、やがて小さな激突音を聞いた俺は、急いでビルの一階まで降りた。血溜まりの中、男は目を見開いたまま、頭の中身を地面にこぼして動かなかった。銃での移動を思いつかなかったのか、銃のチャージが間に合わなかったのかは分からない。男は先ほどまでの暴れ具合が嘘であったかのように、電池を抜かれたかのように静かだった。死体を見るのは初めてで、映画のワンシーンのように、他人事のように眺める。なんとも呆気ない最期だった。

 男はきっと、最後の最後まで大きな勘違いをしたままであったに違いない。あれ程急いで引き返す必要は全くなかったはずである。俺が手を突っ込んでいたポケットは二つ、しかし八面体の入ってない方のポケットは空だった。銃を彼女のところに置いてきていた俺は丸腰だったのである。いろいろと男と対峙するシミュレーションをしたものの、どうしても銃を持ってくる気にはならなかった。銃の使いどころというものが、彼女を守るという以外に思いつかない。俺は自由自在に銃を使いこなせる自信がなかった。彼女に銃を持たせてきた俺は、男に撃たれれば即死だったのである。

 そんなことも知らずに血溜まりを広げる男を見ていても、銃でできることなんて本当に限られているような気がして仕方がない。使う気になれば移動手段として、たとえば銃を携帯していれば、下宿と廃ビルとの間を短時間で行き来できたはずである。しかし、そんな意欲的な積極性には社会的な必然性が伴わなくては意味が無い。俺が一人で便利になっても仕方がないのだ。情を失った俺は、男が持っていた銃だけを回収し、死体を放置したままトボトボと帰ってきた。

 敵に仕立て上げることのできる具体的存在を失った今、漠然とした周りの世界に対抗するには分厚い核シェルターに避難するしか方法が思いつかない。残された選択肢は、いよいよ彼女と共に引きこもるという一つしかない。金を稼ぐためにだけ外に出る。飯を買って帰ってくる。週に三回銭湯に行く。中本からも連絡が来なくなった携帯は解約して売り払う。少しでももたせるために家賃を躊躇なく滞納する。シェルターの天井はいつ崩れてくるかわからない。そのような中で奇跡的に潰されず、昨日と同じ今日を彼女と生き抜くことは俺の何よりの喜びであり、ぬるま湯と揶揄されても微動だにしない刹那主義者と化した俺の排他的目的そのものでもあった。ところがそうして目途がついた俺の前に、突然捨てたはずの参考書が現れ、あろうことか、俺は参考書を開いてしまったのである。今まで何の疑問も無く指揮を執っていた俺は、そこで初めて、同様に廃棄すべきであったあるモノを捨てられずに底に溜めている自分に気がつき、自ら刹那主義者の称号を剥奪されてしまった。ノートを見ても何一つわからないという異常な事態に、俺は焦りを感じざるをえない。何故ならそれは、俺自身が問う「指揮をとる資質」に直接関わる物事であり、俺自身が持ちうる正真正銘最後の輪郭、瓦解を防ぐ最後の砦とも言うべき境界線だったからである。

 ここ数ヶ月にいろいろありすぎて頭が変になったのだろうか。あちらこちらの参考書やノートを見ているうちにバイトの時間が来てしまい、何もわからないままその日が終わる。次の日になると振りだしに戻り、進歩が無いまま時間だけが無為に過ぎていく。入試なんてものは余裕であると高をくくっていた俺は、退化するはずがないと信じて疑わなかった自分の解く力がごっそり抜け落ちていることに気がつき、俄かに焦りだしたのである。少しでもなにか勘を取り戻せないかと思った俺は、藁をも掴む思いで、月謝を払いこんでいない予備校へと忍び込むことにした。ちょっとしたきっかけで元に戻るかもしれない。かつて余裕をかましていた俺は入試までの時間が本当に無いことを悟り、もう十月に入ってしまって秋風が吹き始める中、すっかり蝉の全滅した道を通り抜けて予備校へと向かった。

 俺は彼女から参考書を渡されていながら、彼女と過ごすことの意味について愚鈍にも感知しなかった。



 教室の後ろからこっそり忍び込んだはずであったが、入った途端に後ろの浪人生数人に気づかれ、そのざわめきが徐々に教室内に広がっていく。周りの好き勝手に話し始める声の大きさが予想よりも大きく、俺は不審に思いながらも一番後ろの席についた。ここの予備校の警備はザルで、忍び込みは割りと頻繁に行われている。まして月謝を払っているかいないかなんて、浪人生は知るはずがないはずだった。しかし、このまま謎の騒ぎが大きくなってしまえば、流石に帰らないと気が引けてしまう。騒ぎは月謝未納のせいだろう、と根拠も無く勝手に思い込んで、帰るか帰らないかを考えていると、一人の浪人生が突然話しかけてきた。

「さすがだね、勝野君」

 その浪人生には見覚えがあった。高校の頃、俺に勉強を聞きに来ていた同級生の一人である。名前は失念してしまって思い出せない。

「予備校にこなくても一生懸命勉強してるんだ。えらいなー」

 馴れ馴れしいその浪人生の態度に苛立って無視していると、浪人生は構わずにしゃべり続ける。

「最近篠原さん来ないけど、君が教えてるの?」

 言われて見回すと、確かに幸恵はいなかった。どうしたのだろう。そういえば花火を誘ってもらって以来、携帯を解約してしまうまで、一度も幸恵とのやりとりが無かった。

「それにしてもすごいなあ。尊敬するよ。今年こそ帝西大間違いないね!」
「……さっきからなんのことを言っているんだ?」
「おいおい、とぼけるなよお。こないだの模試だよ」

 いつの模試のことだろう。その浪人生が話す内容を聞いていてもピンと来ず、浪人生の顔を凝視していると、ようやく浪人生も違和感を覚えたのか、笑っていた口元が平らになって、心配そうに話しかけてきた。

「おい、どうしたんだよ。勉強のし過ぎで疲れてるんじゃねえか? ……なんか、痩せた? 」

 確かに俺は痩せたと思う。足元はフラフラするし、最近は鼻血も良く出る。栄養が足りていないのかもしれない。そんなことを考えていると、浪人生は予想もしないことを言い出す。

「……あれか。……やっぱり結婚されると辛いよな」
「……あ?」
「……あれだよ。引きずってるんだろ? 片岡さんのこと」



 何を言ってるんだこいつは。そんなことは知らない。俺は高校の頃からよく噂の種にされていた。話題にするのが面白いらしい。だから俺との交流が皆無に近い奴が、一方的に俺のことを良く知っている。それは構わないとしても、世間から隔絶されていた俺はそんな情報を知らない。こいつはいきなりズケズケと何を言っているのか。



「……結婚?」
「知らないの? 君よく彼女に教えてたじゃない? 二次会とか呼ばれなかったの? 篠原さんは行ったって言ってたよ」



 そんな呼ばれなかったなんていう情報はいらない。全身の血が制御を失って逆流した俺は、浪人生の声を聞き取ることができない。俺の周りの世界が俺を置いて動き続けるのをいいことに、全身を痺れさせる感覚までもが頭の中に浸潤してくる。ビリビリと振動する脳味噌が処理量に耐えられない。

 気がつくと浪人生の横に予備校の事務の人が立っている。逃げ遅れたと思ってももう遅い。

「勝野君! 流石ですね! 春頃は振るわなかったみたいだけど、杞憂でした。全くもって頼もしい! この調子で頑張ってくださいね! 月謝は特待扱いですので今年度はもう結構です」

 事務の人までもが訳の分からないことを言って、俺に封筒を手渡してくる。見るとそれは、申込みだけをして結局受けなかった八月の模試だった。俺の方はそれどころではない。早紀の話を聞いた今、幸恵が花火に俺を引っ張り出そうとした理由がそれとなく浮かんできて、目の玉の裏側から胸の下までが重苦しい。キリをつける機会を知らない間に失った。今度こそ無理だろう。寝耳に水の話に麻痺したまま、俺の目には渡された封筒が封筒と分からずに映り込む。俺はその封筒を開けようともせずにずっと握っていた。

「それがそうなんだろ? ちょっとお前の答案拝ませてくれよ!」

 なにもしない俺に痺れを切らした浪人生が謎なことを言う。白紙の答案用紙が入っているはずの封筒を渡すと、浪人生はビリビリと封筒を開けて答案を取り出した。

「すげー! 本当に数学と物理満点じゃーん!」

 浪人生の手元に目を遣る。出てきた答案用紙は白紙ではない。事務の人が間違えたものと思って、俺は白けて見ていた。

「……これ、勝野君の字?」
「…………違うに決まってんだろ。俺はその模試受けてな……」

 結果が印刷された紙を手に取りながら、そう喋ろうとした俺は、そこに俺の名前と受験番号が印刷されているのを見て絶句した。それは間違いなく俺の答案用紙であった。おかしい。寝ているのだろうか。夢遊病みたいなことになっているのか。受けたことを忘れていたのか。結果は断トツ、ブッチギリの一番である。封筒から出てきた問題用紙を見ても、その問題に見覚えはない。

「ちょっと! ちょっとそれよこせ!」

 俺は浪人生から答案用紙を引っ手繰った。目を見開いて眺める。綺麗な字でびっしり書かれた答案に赤ペンで大きな丸がついている。想像を絶する高得点で、全盛期の俺でもこんな点は取れない。その理路整然とした答案は、ノートの上を凸凹をつけて走る俺の走り書きとは天と地ほどかけ離れていた。数学と物理が満点であり、英語は書いたところにはすべて丸がついていた。英語の答案は途中から真っ白になり、国語の答案に至っては全く何も書いていない。それでも数学と物理が難しすぎたという今回の模試では、その満点が異常な好成績であり、総合得点では国語の零点を補って余りある点数で一位を叩き出していた。

 納得のいかない俺は、なにか思い出せないかと思い、目を皿にして答案用紙を舐めるように見回した。二重丸が並ぶ数学の答案には日本語ではなく英語が並び、ましてや各答案の最後に書かれている「Q.E.D」なんて言葉を俺は使ったことがない。物理の答案用紙には、円運動の正射影で解くはずの振動の問題に、三角関数のみならず自然対数や虚数までもが踊り狂っている。どう考えても俺の答案ではない。



 英語の答案用紙の裏に見覚えのあるミミズを見つけた俺は、頭のブレーカーが落ちた。







 顔馴染みの暴走族が「洒落にならない」と言って電話をかけてきたので、井田警部は自宅からタクシーを飛ばして現場に向かった。現場には本部から駆り出された警官が既に到着していた。

「井田さん!」
「……ほんと、お前らはろくなことしねぇな。勝手にこんなとこ入っちゃイカンだろうが!」
「そんなこと言ったってよぉ! アレ、ほんと洒落なんねえよ! ……気持ち悪い!」
「ふざけるな! ちょっとは反省しろ! 反省しないからこういうことになるんだ!」
「……」
「大人しくしてろ! お前らも全員聴取だ!」

 暴走族の中には吐いている者もいた。井田警部は暴走族が黙り込んだのを見て、他の警官に彼らの聴取をまかせ、織金網の隙間をくぐった。

「お休みのところすみません、お疲れ様です。なにか会合する場所でも探してたみたいで、波止場追い出されたって」
「弟須兵羅斗(デスペラト)が幅を利かせとるんだ、最近。アイツラもちょっとシメんといかんのだが……。おちおち休みも取れないぜ。それで、一課の刑事はもう来とるのか?」
「もうすぐ着くそうです。死体は六体、こちらの階段を下りた先です。地上にも一体ありまして全部で七体ですね」
「よくもまあそれだけ殺せるものだな」
「ただね、妙なのですよ。儀式かなにかというか、カルト的で」
「あ?」
「死体の下なんですけど、なにか台みたいになってるんですよ」
「なんだそれ? 愉快犯か? そりゃタチがワリいなあ」

 ビルの地下に転がっていたのは報告通り六体の死体であった。階段を下りながら夏の暑さの醸成する腐敗臭を嗅いでいた井田警部は、この臭いは流石に十年前と同じか、と一課に配属されていた頃を思い出していた。しかし死体の状態を見ると手袋をつけていた手をぴたりと止め、急に黙り込んでゆっくりと死体に近づいて行った。

「待て……。こりゃ……」
「どうされました?」

 死体の横たわる床の上には六体ともに死体を中心とした円状の段差があった。その円の内側は外側のコンクリートとは異なる木製の床やらPVC樹脂の床やらで、繰り抜かれた円の中に埋まっている。井田警部はその円の輪郭の様相、さらにはその死体の一人に見覚えがあった。

「富士鷹の社長……」
「どうされました?」
「……あれだ! 乗本と波野を呼べ! すぐだ! この件はウチで預かる!」

 興奮する井田警部の様子を、事情を知らない警官達は不思議に思って眺めていた。ビル全体の捜索を始めると、地下だけではなく屋上にも多数のエグレが見つかる。一階の織金網の傍に例の人形、三階の捨て置かれた教卓用机の下に、宇野の下宿から盗まれたものと思われる段ボールを見つけた井田警部は、これは間違いないと確信した。

「鑑識! ここの死体の周りの床と土砂、別々に採取しといてくれ! この地上の一体も一応採取だ! マルガイの身元と並行して土砂の異同鑑別をする!」

 これでこの事件の捜査も大きく進展するに違いない、と意気込んでいた井田警部は、二階から降りてきた警官の一人に声をかけられて振り向いた。

「警部。二階でこんなものを見つけました!」
「なんだ?」
「スニーカーです」
「え?」
「片方だけなんですが……。もう一方も引き続きビルを中心に探します」
「……」
「……いいですか? 警部?」

 しかし、井田警部はそのスニーカーのもう一方がどこにあるかを既に知っていた。







 随分と星が遠い。夏の星座が見えない。出ている星はどれがどの星座に属するのかもわからないまま、ただ遠くで綺麗に瞬いて見える。一ヶ月ほどではあるが、かつてはいつもここに寝ていたのである。もう秋が始まっていて、冷たく澄んだ夜中の空気が澱んだ熱気を振り払う。背中のコンクリートは現実からの逃避を許さず、風と手を組んで俺から体温を奪い、俺の頭の先から爪の先にまで当然のように重力を伝えてくる。夏休み明けの模試の結果も出揃い、いよいよ先が見えだすこの時期に、ましてやこんな夜遅くに屋上でバスケットをする浪人生はいない。ぼんやりと眺めている間に星との距離を背中で掴んだ俺は、うまく冷えた体を持ち上げて、屋上から引き揚げた。

 忍び込んだ屋上から降りると、まだ蛍光灯が点いている教室があり、中には轟々と温風が注ぎ込まれている。名物教師の大きな声が薄暗い廊下を伝わって響いてくるが、授業中寝てばかりだった俺は、この人の声を最後まで聞きとおしたことがない。そういえば四月ごろ、この名物教師の授業予定が変更される、という連絡の紙を、幸恵が屋上に持ってきてくれたことがある。その日の午後に紙を失くし、変更の存在を忘れて違う参考書を持ってきた俺に、幸恵は何を感じたのだろう。俺は人の話を聞かない。中本の話すら聞かない。ひとりで作った頭の中が滑稽以外のなにものにも思えない。冷静に思い返せば、あるいは意図的に気づかない振りをしていたのだとしても、男はあのとき「撃てば治る」と言っていた、それが事実なのである。

 なぜ彼女が箱から出てきたのか。花火の日に彼女はどこへ消えたのか。なぜ彼女は例の銃を手に帰ってきたのか。男がなぜ俺を呼び出したのか。なぜ中本がやられて俺が無事なのか。男が俺を殺ろうとしなかったのはなぜか。

 なぜ彼女が廃ビルの場所を知っていたか。なぜ男は「邪魔なんだよ」と言いつつも、試作品の銃を持って自分から彼女のところへ向かおうとしたのか。男の目的は何だったのか。彼女が下宿にいようとするのはなぜか。

 そのすべては最後まで俺にはわからないだろう。

 しかし、俺はしなければならないこと、男が言うように言えば「義務」のようなものを、この時確信をもって感じていたのである。模試の結果を渡された日に彼女に手をかけてしまった俺には、もう彼女と過ごしたいと思う資格が無かった。

 また何時に気がふれてしまうかわからない俺には残された時間が無い。俺は銃と八面体を持つと、歩いて東大麦駅に向かい、そこから東丸線に乗った。天井の扇風機はそれぞれが別の方向を向いたまま動かない。俺は席に座って、外の景色は見ず、彼女が持ち帰ってきた銃だけをずっとながめていた。男のかつての思念が見え隠れし、一人で行動する俺の考えは、男のそれと近からずとも遠からずなのかもしれない。銃は見た目よりも重量があって重い。駅に着いて、他には誰もいない車両から降りた俺は、もう二度と通らないだろうと思っていた改札を通り抜けた。

 着いてみると花と手紙が置いてあり、足は嘗ての面影も無いほど痩せ細っている。目の前の事実は俺が知らないふりをして意図的に避け続けていたことだった。七月に中本の母から連絡を受けたとき、「意識があるかどうかわからないけど話しかけてあげてください」と言われた時、俺はその時の電話の受け答えを含めても冷静ではなかった。反射は残っていて脳の画像も全く異常がない、顔面の骨折はひどいが髄液瘻とか言う病気も無い、と言われたらしい中本は、俺の目の前で目を閉じたまま意識が無い。ここに来るだけでもかなりの精神を削られた俺には、覚悟して決めた方針を今さら変える気などない。中本の首から伸びる管のもう一方の端は壁に備え付けられた装置に繋がっている。一度切れても直ぐに医者を呼べば問題ないだろうと勝手に思い込む。最後にもう一度「撃てば治る」といった男の発言を再生した俺は、八面体を上に投げると、持っていた銃で未だに意識の回復しない中本を撃った。

 賭けでもあった。男の言ったことを信用できる保証はない。結果として中本は死んでしまうかもしれない。しかし、詰んでいる俺には安全と呼べる発想や態度を選ぶ権利がない。中本は放電領域に包まれると一度消え、瞬時に空中の八面体と入れ替わり、えぐれたベッドと一緒にどしんと落ちてきた。

 病室は銃の音を最後に静まり返った。隣の病室は今の音に驚いてざわつき始める。「今の何の音?」と言う看護婦の声も聞こえるが、それでも俺は中本だけを凝視していた。可能性があるとすれば、それが中本を中本であると認識できるようになる最後のチャンスだった。

「……」

 現れた中本は目を開けて俺を見た。

「……!」

 なにかをしゃべろうとしているが、首の管から息が抜けてしゃべれない。

「……おお。……中本」
「……!」
「わかるか? 中本!」

 中本は鼻の曲がった顔を動かして頷く。

「…………よかった。……中本。……すまん」
「……」
「……中本。……ほんとによかった」
「……」
「すぐに看護婦さんに管繋いでもらうぞ。本当に悪かった」

 俺はナースコールのボタンを押し、そのまま中本が話せないのをいいことに、一方的に話し散らした。

「ありがとう。まあ、なんというか、お前が寝てた間にいろいろあったんだ。お前が言ってたことが体に染みたぜ」
「なにしてるの君! ベッド壊れてるじゃない!」
「じゃあな、また会ってくれよ、お前しかいないんだ、中本」

 言い切ることはできなかった。看護婦が近づいてきたので振り切って逃げる。「誰か! 今の子捕まえて!」と看護婦が叫ぶ。ガタイの良い医者が廊下の向こうから走ってきた。追い詰められた俺は一番近かった病室に入り込み、患者達の真ん中を突っ切ると窓を開けて飛び降り、持っていた銃で自分を撃った。



 きっと中本はもとに戻ったのだと思う。そして、そうすれば否が応にも突き付けられる事実がもうひとつある。俺が目にしている彼女は、本当の彼女ではない。男はなにやら難しいことを言っていた。主観的に生きていることが錯覚であったとしても、客観的に正しいと呼べる別の彼女、生来の彼女が俺の知らないところで存在していたのである。俺は中本を軽視していた一方で、頭悪くも彼女の素性を考えようともしなかった。彼女が僕の範疇に属するという考えが不味かった。

 「廃ビルに来い」と言った男が、廃ビルに来る前、どこに八面体を置いてきたのか。灰色の八面体はどこに配置されていたのか。俺はそれを既に知っていた。試作品の方の銃も死んだ男から取り上げた俺は、そこまでしておきながら灰色の八面体は回収せずに放置していた。そこで、そのことを思い出した俺は回収作業をあえてせず、男から取り上げた方の銃で自分を撃つことにした。万が一、移動先で死に掛けても、男がした様に即座にもう一回自分を撃てばここに戻って来ることができる。そして何より俺がどうなろうとも、彼女の正体を放置することを俺自身が許せなかった。俺が中本のところに向かったのは、男が八面体を置いた場所を把握した後のことだった。

 俺が出てきたのは当然ながら見知らぬ部屋だった。冷蔵庫の振動音。理科室で見たような黒い机。隣の部屋からは巨大な排気音が聞こえている。西日が射し込んでくる外が眩しく、電気の点いていない部屋の中には窓からオレンジ色の三角が伸びる。周りには例の人形が三体座っていて、俺は人形と一緒に並ぶ形でこの部屋に出現してきた。人形の中を開けてみれば、三体とも、中に入っていたのは灰色の八面体だった。

 部屋の中を見回す。大量の謎なメモ書きと一緒に、緊急時の連絡先を書いた紙がコルク製の掲示板に画鋲で止められている。書いてある名前はどれもこれも知らない名前である。黒い机の上には分厚い英語の本がたくさん積み上がっている。コーヒーメーカーの横に積んであったと思われる紙の束は、そこに数枚だけ紙を残して、残りは床に散乱していた。目を通してみると何かの論文が英語で書かれているようだが、俺にはさっぱり分からない。しかし、論文を拾った俺が目をやった先、俺は一つのフォトフレームを見つけた。

 フォトフレームの中の人間は、マジックやラメペンで上から落書きを受けたまま文句も言わない。茂木研究室新歓花見と題された写真には、全部で十名の人間が映っていた。他の皆がビールやら酎ハイやらの缶を持って騒いでいる中、一人だけシャーペンと煙草をくわえてレポート用紙の束を見ている男。その男の横でおにぎりを持って余所見をしている彼女。

 既に模試の結果を見たときから許容量の限界を超えていた俺は、ここにきて少し安心したのである。俺が知っているはずの二人は、頭の上に俺の知らない名前を書かれたまま、ぴくりとも動かない。彼女はここで真っ当と呼べる社会的生活を営んでいたに違いなかった。体に穴のようなものが開いたのを感じた俺は、分厚い抜け殻が主を失って捨て置かれるように、油が引かれた木製の床の上に座り込んだ。床に散乱していた論文をもう一度見る。オレンジ色の光の中に黒々と印刷されている執筆者の名前を、写真に書き込まれた名前と照らし合わせる。この論文はこの人達が書いたものに間違いない。彼女の名前もそこにあった。

 折角の綺麗な星も俺がいると澱んで見えなくなってしまう。彼女は沈んだ底の居心地も、満更悪くないと思っているに違いない。それはきっとわかる。ただ、思考回路が周りから放置され、一人で徘徊していた狭小な俺は、ある一点についての査定だけはどうしても譲ることができなかった。何回読んでも欠片も意味が分からない論文の内容に脱力するしかない。

 そこまで固執したのは早紀のせいもある。やっとのことで二人でまわる約束をとりつけた文化祭は、会って十分も経たないうち、早紀が一人で体育館へ走って行ったことで幕を閉じた。早紀は軽音部のコンサートを見るなり、今までが嘘の様に嬉しそうな顔をして、ひとりで観客の中へ飛び込んでいってしまった。皆が定番曲だと言って盛り上がっているその曲を、俺は聞いたこともなかった。曲が終わると舞台袖のギターボーカルのところへ走って行った早紀を見て、俺は体育館を出てそのまま家に帰った。

 ギターのひとつも買ってみようと思わなかった俺は、今考えれば、モテるために頑張ろうとする真っ直ぐな健全さが足りなかったのだろう。俺はしばらく予想通り「ギター練習しようぜ!」と言って近づいてくる中本を無視し続けた。今から始めたところで壇上のレベルに到達できるはずがなく、評価されるも糞も関係が無い。努力が認められればいいだなんていうと聞こえは良いかもしれないが、俺の前を通り過ぎた十八年の世の中は、それほど単純にはできちゃあいなかったと思う。音楽室に転がっていたギターを触ってみて無理を悟った俺は、本当に魔がさしてしまった行動だったと後悔し、その後も中本の行動を腹立たしいものとしか捉えることができなかったのである。しかし、中本がその話をしなくなった頃、意外にも早紀は何食わぬ顔で俺に勉強を聞きに来た。

 だからそれは何もない俺が勝負できる唯一の盤面だった。



 病院から銃で移動してきた俺は、下宿の花壇の八面体と入れ替わり、花壇はかなり削れてしまった。病院に移った八面体を回収するならばなにかを銃で撃たないといけないが、この作業で花壇がさらに削れてしまうのはどうにも億劫だ。それに、銃の使用が次で最後のつもりでいた俺には、八面体を回収する意味がなかった。

 彼女は下宿で枕を抱いて眠っていた。耳にはイヤホンを入れたままである。今となっては、俺は彼女の名前も知っている。誰も知らない曲ばかりを卑屈に詰め込んだデジタルプレイヤーは寝ている彼女の耳元で再生中である。それを飽きもせずに朝から晩まで聞く彼女は、俺の手が全く届かないほどの天才に違いなかった。唯一の盤面を失った俺は、なにを元に生きればいいかもわからない。この世に生を受けて以降、無駄に複雑化し劣化した感覚はもとに戻せない。こうなると、高校時代の俺はそれなりに幸せであったのではないかという疑問も湧く。昨日が今日より楽しければ、いくら凄惨な今日でも明日よりは楽しい可能性があり、たとえぼやける先が見えなくとも、彼女が俺を止めたように、それはそれで刹那主義的に明日の襲来を受け入れる意味にはなると思うのだ。

 早紀との会話は、十二月頃に「名前の順で席が近いから答えを教えあおう」なんてふざけたことを言っていたのが最後になった。センター試験の点数は中本よりも悪く、マークシートにひとつズラして解答していたようだった。話を聞いて唖然とする中本の顔も忘れられない。関われない人間の最善は関わらないことであり、要らないことをしないこと、元に戻すこと、自分の影響を消すことである。先々月は要らないことをしてしまったばかりに、男は転落して死んでしまった。目の前で寝ている彼女はそれを知ったらどう思うのだろうか。

 ただ、道具には道具の使い方というものがあって、俺はここにきて、たったひとつ、たったひとつだけ銃の正しい使い方を思いついたのである。

 サイレンの音が聞こえてきた。下宿の前の道路から車の戸の閉まる音が聞こえ、サイレンの音が止む。数人の階段を上る足音を聞く俺に、残された時間はほとんど無い。戸の無い玄関を一度だけ振り向いた後、俺は試作品の方の銃を手にとった。

 彼女が箱から出てきたとき、俺は何を考えていたのだろう。今までの行動に疑問を持たなかったのはなぜか。分かってはいたが、言ってしまえば俺は中本を裏切り、彼女をとったのである。そういうことで言うなら、それもまた因果応報、原因と結果ということである。

 重い重りは気球が飛び立つ時には捨てるのがいい。思えばこの下宿の存在自体がゴミ箱でしかなかったものを勘違いした俺が、掃除をすればそれで何とかなると思っていたのが大きな間違いだったのである。この狭くてカビ臭い線路沿いの一点でしか、俺と彼女は一緒にいることができなかった。それもまた人数が一人増えたただの漂流であるのであれば、自分で歩き出す手段も力も無い俺では、彼女を遠くへ連れて行くことはできない。



 だからそれが願い事に終わってもいいのである。

 きっと彼女はもっと遠くの空を跳べる人間なんだ、と思うんだ。


       

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