Neetel Inside ニートノベル
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彼女とローリング浪人
第六章 ひとりごと

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 第六章 ひとりごと

「きみはあれか、現役か」
「はい」
「やっぱりそうか。そんな空気が出てるよな、やっぱり」
「そんな空気?」
「あのね、良いように言えば真っ直ぐなんだけど、混ざり気が無いというかね。そのまま気がつかなきゃ楽だけど、世の中の仕組みというか、そういうのも分かっとかないと失敗したときに立ち直れないぜ」
「おっしゃる意味が分かりません」
「まあ無事ストレートで受かって良かったなってことだ。もう大学生活は慣れたかい?」

 夕方頃に急に呼び出され「早く来い」と言われた私は、お化粧もそこそこに地下鉄で駅に向かいました。山崎助教はヒールは危ないから底の平らな靴で来なさいとおっしゃり、私は一体どこに連れて行かれるのかと思ったほどです。

「きみ、いつも一番前の席で寝てるらしいな」
「うーん……。つまんなかったら寝ちゃう……。ゾンマーフェルト展開なんて飽きちゃった」
「えっ! きみ一回生だよな?」
「はい」
「こりゃたまげたぜ。今時の女の子ってそんなのなのか?」

 山崎助教は驚いてこちらを見ました。

「いや、私はちょっと違うかなって。『明ちゃん、なんでそんなこと覚えてるの?』って言われたりするんですよ。あまりそんなつもりはないんですけど」
「ああ、なんでも覚えちゃう子か。そりゃあ便利だな。今月食った晩御飯全部言える?」
「高校の頃からずっと自炊してますので、大体は。昔のごはんはちょっと考えないと思い出せないんですけど」
「本当かよ。コンピュータみたいだな」

 山崎助教は煙草の煙を吐きながらケラケラと笑っていました。私は今までこんな風に男の人に相手をしてもらったことがありませんでした。同じ搭屋の上、ジャケットに染みついた煙草の臭いが漂ってくるのも、私は嫌ではありませんでした。

「それで、お話しってなんですか?」
「問題です。ここはどこでしょう?」
「知りませんよそんなこと! 先生が連れてきたんでしょう! ほんとあの階段危なかったんですから!」

 本当に、こんなに得体の知れない謎のところに連れてこられて、それでも黙ってついていくのは世間知らずな私ぐらいのものです。しかし私は山崎助教のことを花見のときから気になっていたのです。山崎助教はあぐらを組んだまま、左手を自分の左太ももに置き、右手で指をさしながら説明を始めました。

「あれが美奈川だろ。まあそれは分かるとして、あれが高速道路の湾岸線だ。あっちは岡島方面になるな。それでここからは見えないが、あの高層ビルの後ろの方に高速道路が通っていってるだろ? あの下あたりを北野麦川と北野麦線が通ってる。北東に伸びてる西麻野線も出だしはこのビルの後ろにある」
「はあ」
「それであのデカいターミナルが東大麦駅。高速のあっちの方向は静知方面で、それと同じ方向に行ってるヤツが東丸線だな。それでここから一番よく見える、あの線路が四本走ってるヤツが麦鉄だ。あそこに麦鉄デパートも見えるな」
「……」
「いい眺めだろ?」
「こんなとこ連れてきてどうする気ですか?」

 ひとしきりの説明を終えた山崎助教は相変わらず笑ったままでした。

「いやあ、警戒すんなよ。今日はそういうつもりじゃない」
「今日はっ、てなに?」
「今日は真面目に真剣に。貴方を口説きに参りましたよ」

 口ではそう言いながらも山崎助教は口元が笑っていて、始めのうちは、私にはとてもそうは見えませんでした。

「嘘ばっかり」
「本当さ、ここを他人に教えたのも初めてだ」
「何なんですか! ここは! さっきも言いましたけど、こんなところ勝手に入っていいんですか!」

 山崎助教はちびた煙草をぐりぐりと消すと、新しいのを取り出してライターで火をつけました。

「きみ、予備校どこか行ってた?」
「予備校?」
「高校の時さ。塾だよ塾。今だと川木とか寸田とか世々日とかじゃねえの?」
「どこも行ってません」
「どこも?」
「田舎なんで。一人でしてました、勉強」
「一人でか」
「はい」

 山崎助教は目を細めて美奈川の方を向くと、煙を吐きました。

「やっぱり田舎からのポッと出の方が持ってるモノが恐ろしいな」
「なんの話ですか?」
「いやね、今でこそ予備校はたくさんあるんだけど、昔は近章予備校ぐらいしかなかったんだ。だから大学受験する奴は、俺の周りでも大体は近章に通ってた。それでもやっぱり地域に独学してる奴はいて、模試とかで好成績取ってくる奴はそういうのが多かったな」

 山崎助教はひとつ大きく吸い込むと、煙をしばらく溜めて吐き出しました。

「俺、近章に通ってたんだ」
「そうですか」
「ここだよ、ここ」
「えっ?」
「ここ、予備校だったんだよ」

 そう言うと山崎助教はあぐらを組むのを止めて足を伸ばしました。

「どうにも来ちゃうんだよね、ここに。いろいろ考えると当時を思い出しちまう」
「ダメでしょ、勝手に入ったら」
「ダメだね。捕まっちまうね」
「ちょっと! 何考えてるんですか!」

 山崎助教はケラケラと子供のように笑って、罪悪感の欠片も持ち合わせてはいないようでした。山崎助教は話を続けます。

「いやあ、五年ぐらい前に研究のひとつが手詰まりになってよ。それまで全部チェッカークリアしてたのに、最後の最後で駄目になったんだよ」
「帰無仮説ですか」
「僕にしては珍しく確率統計から真っ当に攻めたやつだったんだけどね。みんな手を出してるだけあって、何個か並行してやってるヤツの中でも、それが一番簡単で行けそうなヤツではあったんだ。でもやっぱり観察が先のヤツはどうにも駄目だ。合ってない。あえて観察を捨てるというのが必要だね、俺には」
「邪道じゃないですか」
「……言うね、きみも」

 山崎助教は口を閉じて左の眉毛を上げました。

「マイケルソンとモーリーに謝ってください」
「ぷっ!」
「なんですか」
「あはははははは! こりゃあ頼もしいぜ! きみは古典的だな」

 それほど変なことを言ったつもりはなかったのですが、笑われた私は顔が熱くなってしまいました。

「いやあ失敬失敬。きみが優秀なことは良くわかってるんだ。是非うちの研究室にきみを迎え入れたい。きみなら飛び級も余裕だろ? 教授にもかけ合って、今から五年で博士号まで取らせてやるよ。今日はその研究室見学ってところさ、お嬢様」
「……不法侵入」
「まあ、そんなに気悪くすんなよ。ほら、宿題だ」

 山崎助教は内ポケットからくしゃくしゃになったレポート用紙を出して私に手渡しました。私はレポートのしわを広げ、山崎助教の手書きの数式を読みました。

「……花見で書いてたヤツですか?」
「ご名答。一瞬でそこまで分かるとは流石だね。興味津々に覗いてただろ?」
「えっ! いいんですか!」
「いいよ、手伝ってよ。それ、ちょっと繰り込みが面倒くさいんだ。パソコンでもちょっと扱えない演算で」
「やります!」
「困ったら教授のとこにある本使ってもいいし。早川・茂木テンソルだったら俺が今ここで教えてやってもいい」
「でもここの十二ページのここの、こういうことですよね! わかります! うわあ! やったあ!」

 それから私はしばらくレポートに釘付けになっていました。それを見た山崎助教は私からレポートを取り上げてしまいました。

「やっぱり、ぼっしゅー」
「あああああん!」
「また後でヤルよ。それより見てみろよ。夜になってきただろ?」
「……はい」
「今日何の日か知ってる?」
「ああ! 今日は花火があるんですよね!」
「当たり。配属のお祝いさ」







 起きた私は疲れて寝ていたのだと思いました。未だに少し重たい頭、寝起きの頭で立ち上がったそこは、いつも時間がありさえすれば居座っていた研究棟八号館の休息室でした。周りには得体の知れない人形が並んでいます。となりに少し離れて落ちていた二丁の銃は山崎助教が私に見せた銃でした。その落ちている銃がどうにも憎たらしく、私はコーヒーも飲まずに休息室を後にしました。


「あなた! 深川さん! 深川さんよね! よかったあ 心配してたのよ」
「…………はい?」
「どこ行ってたのよ、もう! あなた捜索願が出てるわよ! 五月からいなくなったて! もうあなたまでいなくなったら……。ほんと私も気持ち悪くて、この仕事辞めようかと思ってたところなのよ……」
「…………いなくなった?」
「あの小野田君が亡くなってね! もうほんといい子だったのに……。それに、それどころか茂木教授も山崎助教も、藤田社長まで行方不明なのよお! ねえほんと、どうしたのかしら! 田島さんが事故で亡くなってから、なにかね、呪われてるんじゃないかしらって……」


 気がつくと五ヶ月以上も経過していたのです。五月に入ったばかりだったような気がした私の感覚は、窓の外の紅葉に否定されてしまいました。まだ少し疲れているのを感じた私は、耳に音楽プレイヤーをさしたまま、その日はそのまま下宿に帰ろうとしたのです。

 話しかけてきた掃除のおばさんの通報で有無も言わさず警察に連れてこられた私は、失踪していた間になにをしていたのか、あれやこれやと尋問されました。どうしても思い出せない私と警察とでは話がつながりませんでした。「見覚えないか?」と見せられた写真も誰なのかわからず、嘘発見器を持ち出そうか、と言う話まで出だしたところで、「そんなもん役に立たん」と言いながら部屋に入ってきた髭の刑事は、私に向かってこう言いました。

「本当に見覚えないのか? この男」
「知りません」
「…………んん、まあいい。いいでしょう。それならね、覚えてるところ、記憶があるところまででいいですからお話して頂けますか?」
「覚えてるところ……」
「こちらの話に対するあなたの反応を見ていたのですがね、さっきから山崎先生の話になるとどうも目が泳いでますね。詳しくお話し頂けませんかね。あなたが山崎先生の家に入り浸っていたという話は聞いてるんですよ」







 山崎助教に初めて会ったのは去年の四月です。教室の机の上に大量に積み上がっていたチラシの中から何故それを選ぶのか、私は数少ない理学部の女子達から非難を受けました。「あなた本当に女として終わってしまうわよ」とのことで、いろいろな部活の新歓に引きずられていったわけですが、私にばかり電話やメールが来るのがおもしろくないのか、そのうちに彼女達からもお呼びがかからなくなり、自由になった私は例のチラシを手に、一人で集合場所の教室へ向かったのです。その日も着信が鳴りっぱなしの日曜日でした。

「あのきみ、何回生? 一応新三回生以上が対象なんだけど……いいの?」
「構いません。続けてください」
「……そうかい? 少し難しいよ」
「まあいいじゃねえかあ! それだけ教授の研究室が魅力的なんですよお、教授! 私なんか欠片もわかりませんわい! あっはっは!」

 茂木教授は少し困っていた様子でしたが、ツナギを着た中年のおじさんの口添えのおかげもあり、私はその場にいてもいいことになりました。私が見たかったのは院に進学する人のための春の研究室紹介でした。紹介は波数エネルギー空間における中性子分解に始まり、コズミックインフレーションやブレーンワールドといった方面へと続きました。しかし、私が目まぐるしく変わるお題にときめいている間、教壇に向かって左右の壁に並べられたパイプ椅子、パソコンを抱えた演者さん達がたくさん座っている中で、一人だけ足と腕を組んで不機嫌そうに床を見つめている男の人がいました。

「山崎君、きみもやるかい? 一応」
「……」
「やらないの? 発表できる数少ない機会だよ。院生とらないと君の研究もポシャるんじゃないの?」

 男の人は黙ったまま立ち上がって教壇に立つと、不愛想に「山崎です」と言い、左手に多量の紙の束を持ったまま、黒板に板書を始めました。男の人の説明に反応する人は誰一人いませんでした。各分野を研究する先生達が綺麗なレイアウトのスライドで紹介を終えた後、一人だけチョークを持ってぐちゃぐちゃと書き殴っていたその男の人は本当に不愛想で、どうせお前らには分からないだろう、というやるせなさが教室中に垂れ流されていました。しかし、私にはその泥臭いかんじが気になり、辛うじて分かるところや節々に見え隠れする発見に一人だけ感嘆符を出していたのです。むしろ、この教室中の誰もが気がつかないという冷たい空気を少しばかり不思議に感じていたほどでした。

「うーん、彼の研究の軸足は量子重力にあると思うんだが……ちょっとよくは分からんね。直接聞いてみたらいいんじゃないかな。報告書は上がって来るんだが、読んでもよく分からんのだよ。彼は私が早川君と作った実験式が重要だって言うんだがね。あの内容に適応するのは、簡単には説明できないけど飛躍があると思うんだけどなあ……」
「そうですか」
「いやね、彼は本当に優秀なんだよ。私の研究を手伝ってもらってたときは、ほんとにテキパキしてたからね。ただ自立するって言いだしてからの彼は本当によく分からん。数学者の教授に見てもらったこともあるんだけどね、これはウチの分野じゃないって突っ返されちゃった」
「はあ」
「……きみに愚痴を言っても仕方なかったね、すまんすまん。興味があるんだったら、うちの研究室にきたらいくらでも本貸してあげるよ。山崎君の他にも優秀なのがたくさんいるしね」
「ほんとうですか!」
「そのかわり将来はうちの研究室にきてよ。ウチの研究室、男臭いからね、君みたいなのが入ったら皆シャキッとするかもしれんね」
「ははは、違いねえや!」

 研究室紹介の後には、そのままお花見がありました。私は先ほど口添えを頂いたツナギの方が誰なのか、茂木教授に聞いてみました。

「彼は田島さんだよ。藤田精密機械重工業の社員さんさ。うちの研究室のコライダーのメンテナンスしてもらってる」
「いやあ、それがね教授! 今度うちで富士鷹っていう機器輸送専門の子会社を作ることになったんですわ! それでワシもそこへ移動になりそうでねえ、まだ本決まりじゃあないんですが」
「ああ、聞きましたよ。田島さんは続けてウチのラボ担当して頂けるんですよね?」
「そういうことです! まあほとんど変わりはないと思いますがね! ちょいと経理の方は入金分割になるはずですが、そこはお手数おかけします! ほら社長もこっち来て!」
「教授、失礼します。プラントEのサイクロトロンは来週の月曜からやらして頂きますのでよろしくお願いします」
「ああ、どうもどうも。社長も一杯飲んでください」
「いやあ、それにしても、こんな若い女の子が遊びに来てくれちゃあ楽しくなりますね! 小野田の野郎が聞いたら、ちょっとは遅刻せずに飛んでくるようにならねえかなあ!」
「小野田君、最近見ませんね」
「なんかソフトボールが忙しいらしいっすわ! 大型トラックの免許取るとか言ってたのはどうなったんだか! ははは! 深川さんみたいな殊勝な子もいると言うのに!」
「でもあれですね、藤田社長はどうしてまた運送を分けることにしたのですか? 社長が直々に指揮をとられるそうですね」
「いやあ、実は機器を安全に運ぶマニュアルとか技術ってのは、意外とオリジナルでやってるんですよ、企業秘密と言うやつで。そこから展開していこうっていう新しい方針を提案されましてね…………」

 おじさんが集まってきて、なにやら蚊帳の外になった私は、どこか違う輪に入ろうかと辺りを見回したのです。皆は既にお酒で出来上がっていてワイワイと騒いでいました。そんな中で、そこから少し離れた桜の木の下、ひとりだけさっきの紙の束を持って計算を書き連ねていた人が、例の男の人、山崎助教だったのです。

 そういうイキサツで八号館に入り浸りだした私は、一般教養科目と並行して研究の勉強も始め、いろいろと本棚から本を引っ張り出しては読み漁るようになりました。分からないところがあれば山崎助教に聞くことを毎日毎日繰り返していました。山崎助教は実験棟にはほとんど行かず、八号館の休息室の横にある仮眠室で計算ばかりをしておられました。だから、疑問ができれば仮眠室に行くということを繰り返しているうちに、私は隣の休息室にずっと居座る様になってしまったのです。休憩室の机に図書室の本を積み上げて、コーヒーメーカーのコーヒーもほとんど一人で全部飲んでいた私は、勝手に休憩室を私物化しているようなものでした。しかし誰にも叱られることなくそのまま好き勝手をやり続け、山崎助教の板書も分かるようになってきたこの頃が、今振り返ると一番楽しかった時期だったのだと思います。小野田さんと初めて話したのもこの休憩室でコーヒーを飲んでいるときでした。

「きみがうわさの深川さん?」
「……どうも」
「いやあ、こりゃスゲエ、たしかにかわいいなーっ。天は二物を与えるんだなあ」
「もう。お世辞はいいです」
「へへっ、いやあでも凄いよ、現役?」
「はい」
「ああーやっぱりかーっ。こんなべっぴんさんが帝西大学現役とか、腰抜かすべやー」
「……」
「俺なんか三流のアホ大学しか入れんかったわー。いやあ、僕は美奈川大学なんだけどね」
「はあ」
「もうアレじゃん、男もとっかえひっかえできるじゃん」
「……」
「うらやましーっ」
「なにか御用ですか?」
「あっ、ごめんごめん、田島のおっさんが美人美人って騒ぐもんだからさ、一度うわさのあなたにお会いしたかったのですよ。ここにいるとは知らなかったぜ」
「バイトされてるんですか?」
「そうそう。いやね、本当は金曜にはバイト入れてないんだけど、この土日は地元に帰るから、今日仕事を終わらせに来たんだよ。きみ、地元どこ?」
「秋形です」
「秋形か、遠いよねえ。この土日は帰るの?」
「え?」
「……あ、そうか! きみ未成年なんだ!」

 私は最近漂い出した研究室の張りつめた空気の正体を知りました。その原因は夏の大選挙にありました。小野田さんが言うには、財政再建のために研究費を削減する話が出始め、その矛先は十中八九この研究室にも向けられるであろう、ということだったのです。小野田さんが厳しいと言っていた予想は当たり、民意を得た時の首相はついに指揮する内閣府機関を通じて支出の大削減を敢行し始めました。花見の時にあのままおじさん達のところに居続けていれば、そういう世の中の話も聞けていたのかもしれません。しかし私にはあまり興味のないことでした。

 山崎助教は予定していた研究費の全削除を突き付けられて帰ってきました。山崎助教が出向いた委員会で研究内容をどのように説明し、その必要性をどのように強調したのかは予想がつきます。山崎助教は「意味がわからない」と言われたことに激怒して、椅子を蹴り潰して帰ってきたそうですが、それは別に驚くことじゃない。それよりも私が驚いたのは、茂木教授の研究室までもが全体で三分の二もの予算を削減されたことでした。超大型直線コライダーの必要性を産業的戦略をも踏まえて懇切丁寧に説明した茂木教授は、ただ一言「見合わない、宇宙のことが分かってなんになるのか」という言葉で退けられ、開いた口が塞がらなかったと言います。私が嬉々として数式で遊んでいる間、研究室全体の士気はそれとなく下がり、ましてや山崎助教の不機嫌は右肩下がりにますます悪くなる一方だったのです。



「先生、ご機嫌いかがですか?」
「うるせえよ、なんだ今日は」
「プラッツベクセルエネルギーというのはグルーオンとイコールでいいのですか?」
「……」
「先生?」
「……やっぱり君は古典的なんだな。そりゃ名付けられた背景が随分違うぜ。適当に返してもいいが、スーパーストリングスを細かく詰めないと返せない質問だ、厳密には」
「はあ」
「…………そんな資料は家にしかないな」

 ある日、煙草を口に持っていった山崎助教はそう言うと、持っていた紙の束を机に置いて、珍しく私に目線を合わせてきました。資料が家にしかないというのは嘘です。なにしろ図書室にはそれ関係の本がたくさんある上、そのとき私が持っていた本が他ならぬその資料だったからです。私はゴミ箱を見ました。それは私が仮眠室に入るたび、山崎助教が慌てながら、「孕む孕む」と茶化しつつティッシュを捨てていたゴミ箱でした。

「顔赤くすんなよ」

 家で教えてやるから来い、と言われたことの意味は分かっていました。ノコノコと出向いて行った私がどうなったかはご想像にお任せしますが、大方の予想通りです。仮眠室の壁のヤニは既にこれ以上付かないだろうほどに付いていましたが、床に散らかっている缶コーヒーの缶や机の上の吸い殻の量は私が行くたびに目に見えて増えていきました。掃除を始めた私は「ゴミ箱には触るな」と言われていました。山崎助教は自分でゴミ箱の中身を捨てておられましたが、その頃はそれでも間に合わなくなって床にまでこぼれ出していた頃でした。だから行った私がどうなるかは分かっていたのです。山崎助教が感じていたストレスは相当なものだったと思います。それでも事後は机に本を積み上げて、「まだ痛い」と言っている私を椅子に座らせ、「世の中の不思議はピタゴラスの定理と二乗から始まる!」だとかいう雑談を交えながら、山崎助教は憑りつかれたように何時間も講義を続けてくれたのです。私はそんな二人だけの特別講義に喜んでいました。私はところどころ口答えをしながらも、ニコニコしながら山崎助教の話を聞いていたのです。山崎助教の書く内容は本のどこにも見当たらず、次から次へと新しいことが聞ける快感は他のモノには代えがたいものでした。私は山崎助教を尊敬し、彼の気分転換に体を奉仕するのも嫌だとは思わなかったのです。

 ところがある日を境に山崎助教のお話は詰まり出したようでした。

「……」
「先生?」
「間違えたかな。単位がおかしい。ここか? いや、これはスカラー量だからあってるな」
「ここは絶対値が1に近似できる定数がついて単位が変わるから合ってますよ」
「いや、そんなはずはない」
「ほら、先生ここの式で省略を認めてますよね。だからこっちもこれで合ってますよ。こっちの式の方が間違ってます?」
「……」
「先生?」
「ちょっとこっち来い」
「…………えええ! いやあん、またですかあ」

 浴室に連れて行かれて使われる回数も増えだし、ほとんど帰らないという山崎助教の家も、仮眠室に負けず劣らずの勢いで汚れはじめた頃です。予算を没収された山崎助教は、来年度からはどこかの研究チームを手伝う形でしか残ることができず、今進めている研究を形にしなければ後がなかったのです。「ちょっと講義できない」と言われた日も、私は山崎助教の家に半ば押し入る形で通い続けました。コーヒーや煙草は体に悪いのです。それの杯数や本数が少しでも減ればいいと思った私は、たまにしてもらえるご褒美のような講義を期待しつつ、そのまま冬まで通い続けたのです。

 仮眠室の掃除をしていた私は、床に見慣れない少し黄ばんだ紙の束を見つけて、それをとりあげました。山崎助教の数式はたくさん見てきましたが、そこに書かれているものは見たことがないもので、先生の字のわりには綺麗に丁寧に書かれたものでした。それを私は、講義のために新しいお題を探してきてくれたものと勘違いしてしまったのです。持って帰ってじっくりと検討するとわかりましたが、それは大変に難しいものでした。途中で終わってしまっているそれの続きが気になった私は、授業にも研究室にも行かず、夢中になってそれを完成させました。これできっと褒めてもらえる。一週間ほどかけてできあがった三十枚弱のレポートを持ち、私は喜びながら下宿を飛び出しました。ボサボサの髪で向かった先、山崎助教は仮眠室から出て行こうとしていたところでした。

「せんせーい」
「……ああコレ探してたんだよ、どこいったのかと思って」

 ところが山崎助教はそれを見ると様相が変わり、くわえていた煙草を口から落として黙ったまま固まってしまいました。レポートをめくる手と目線だけを動かしている山崎助教に、私は評価を聞こうと思ったのです。

「どうですか先せ……」
「そんなわけあるか! 待てよ! 落ちつけ! ここの番号の振り方に重複か繰り込みのミスがあるに違いない!」

 山崎助教はUターンして仮眠室に閉じこもってしまいました。三十分程して出てきた山崎助教に、閉め出されていた私は話しかけました。

「先生……」
「大変だ……認めないぞ……何かの間違いだ! あそこは収束するはずがない!」

 歯ぎしりをしたまま出て行ってしまった山崎助教のあんな顔を見るのは初めてでした。しばらくして帰ってきた山崎助教は煙草のカートンを五、六本脇に挟んでいて、手にも大量の缶コーヒーが入った紙袋を提げていました。

「あの……先生……」
「帰れ!」

 山崎助教はカートンの一個を思い切り私に投げつけると、そばにあった装置用のパイプを蹴り潰して仮眠室に再びこもってしまったのです。







「明君。これが何かわかるか?」
「……」
「座標置換装置とでも呼ぼうか。きみが持ってきた数式で理論全体がとんでもない方向に固まった。光速度の意義が変わっちまった結果がコレだ。藤田んとこに作らせた」
「……」
「きみはとんでもないことをしてしまったんだよ。もはや振動次元の有限性どころか、エネルギーと呼ばれたパラメータすら忘却の彼方だ。とんでもない。俺の研究は完成してしまった。こつこつ八年やったのが馬鹿みたいだ」
「……」
「二丁あるのは超対称性からくる。きみにも責任があるんだ。こんなものが出回ったら大変なことになる。僕が君に言い続けてきたことを聞いていればわかると思うが、これからは一緒に……」
「私は」
「あ?」
「私は先生と一緒に勉強がしたいです」
「もう終わったんだよ! 全部!」
「……」
「おめえの方が上なんだよ! 俺よりも! はるかに!」
「……そんなこと言わないでください」
「もうお前に教えるこたあない! 全くない!」
「……いいっ」
「泣くな! 泣きてえのはこっちなんだよ! お前のせいで無茶苦茶だ!」
「……いいっ、せんせえい」
「もういい! 帰れ! 二度とくるな!」
「びいいいっ」
「出ていけ!」



「そのあとも、何回か先生の家に行ったんですけど」
「……」
「そこからは覚えてません」
「……じゃあ、じゃあこの銃は山崎先生と藤田精密機械重工業で作ったのかね?」
「……」
「深川さん?」
「みたいです」
「論文は?」
「知りません。忘れました」
「忘れた?」
「全体は分かりません。それに私が覚えているところを書いたところで、意味がわからないと思います。論文だけなら仮眠室にまだ落ちてるかもしれませんが」
「まあ覚えてるだけでもいいんで一応ここに書いてもらえますか?」
「…………ん、まあ」
「ん?」
「それはいいんですけど。あの」
「はい?」
「あの、茂木先生とか。早川先生とか」
「……」
「藤田さんとか。田島さんとか。小野田さんとか。みんなと会ってここ数ヶ月のお話伺いたいんですけど」
「……」
「みんなとお話ししたいんですけど」
「………………亡くなったよ」



 行方不明になっていたみんなは全員あの廃ビルで死んでいたといいます。それなら何故か生き残っている私に容疑を向けられるのも当然で、私自身も「きみが殺したんじゃないか」と言われると、なぜだかそれが的を射ているような気もしていました。私が目を覚ました休息室に髭の刑事を連れて行くと、人形やら銃やらが落ちているのを見て髭の刑事は興奮していたようでした。しかし、肝心の銃を髭の刑事が握ってみても、銃はうんともすんとも反応しませんでした。

「この銃が動かない限りは実証できませんよ、警部」
「ううむ……」
「そんな非科学的なこと通るわけがありません」
「なんか病院で見たって言ってたヤツいただろ? そいつに見せろ。この人形も大事な証拠だ」

 その日、山崎助教の家にあったという靴を警察から渡された私は、およそ五ヶ月ぶりにその靴を履いて自分の下宿へと戻ったのです。







 その後も二年間、髭の刑事は定期的に私の様子を尋ねてきました。始めのうちは一週間おきに訪ねてきて「なにも思い出さないか!」「なにも思い出さないか!」と、それはもうしつこいものでした。いろいろと質問されましたが、山崎助教がおかしかったかどうかなんてことは私が決めることじゃない。しかしひとつだけ、「山崎助教が亡くなったことは知ってたんじゃないか」という質問をされたときは、理由を説明できないなんとも不可解な気持ちになり、そのときの私の様子を見逃さなかった髭の刑事は、やはり私も犯人なんじゃないか、という可能性を捨てなかったようでした。しかし私が言うことはいつも同じで、髭の刑事は髭をポリポリ掻いては諦めて帰るばかりでした。

 知らない間にみんな死なれてしまった私が八号館や実験棟に近づきたいと思えるはずがありません。前期の単位を全て落とし、後期の履修登録もしなかった私は留年が確定し、その次の年度も二回生となることになりました。ときどき他の研究室から飛び級でうちの院に入らないかなんてお声を頂くこともありましたが、なんだかまた同じようなことになるような気もして、どうにも興味を取り戻すことができませんでした。気分を変えようと二回目の二回生の春に入ったテニスサークルでは、始めのうちはちやほやされ、サークル内で彼氏もできたのですが、時間が経っても一向に自分が馴染んでいかないことに気がつき、ときどきテニスコートにまで髭の刑事が来ることがバレてしまったこともトドメとなって、秋には辞めてしまいました。クラスにもうわさが流れ、もともと留年組であることもあって浮いていた私は、補講の情報などを知らないまま語学の出席日数計算を間違え、二回目の留年が確定してしまいました。夢のような時間が終わった後、呆れたようにスカスカの時間が流れていったのです。



 もう大学にいてても仕方がない、実家に帰ろうか、なんてことを思い出した三回目の二回生の春頃でした。



 起きると昼が過ぎていて、部屋の電気をつける気にもなれないまま、私は日頃は見ないテレビをつけました。テレビでは流行アイテムの特集が流れていました。テレビをしばらく呆けて見ていた私は、昨日回した洗濯機の中身がそのままであることを思い出し、それを干そうとベランダを開けたのです。昨晩電話で私を振ったばかりの彼氏の服も干し終わり、部屋に入ろうとしたとき、テレビに映っているお店にどうにも見覚えがあるような気がした私は、戸も閉めずにテレビに顔を近づけました。テレビの向こうで小型扇風機やら流し素麺器やらを売っているお店は見れば見るほど見覚えがあり、「あれ?」と思って眺めていた私は、ちょうど部屋の中に風が入ったとき、お店の奥で売られていた風鈴が揺れたように感じ、そのなかでも一番小さな風鈴、それを私は間違いなく知っていたのです。







「帰ろうか」

 と言った彼は裸足でした。彼の靴は私が履いていたからです。私がアイスの自販機を見ていたときも、一度帰った彼が走って私のところへ戻ってきたときも、もう一人の子に謝ってから私を下宿に連れて帰ったときも、彼は裸足でした。そして、私が突然あのビルに行きたいと言い出して、二人で外へ出たときも、私に靴を履かせていた彼は裸足だったのです。彼が外へ履いていける靴は一足しかありませんでした。それをあの日に失くし、片方だけにしてしまった私を抱きしめてくれた彼は、もう外へ出るための靴を持ち合わせてはいなかったのです。

 すっきりと思い出せない。椅子に座った彼が手を頭の後ろで組んで壁を見つめています。机の上にはただひとつ、英語の単語帳だけがぽつんとあり、開けたままうつぶせになっています。背中を曲げて両手をだらんと落とした彼は、私の座っているこちらは見ずに玄関の方を向いてしまいました。部屋の隅で寝ている彼のところへ行って抱きついてみても、彼に反応はありません。

 私に話しかける彼は、軽薄でへらへらした様子を貼り付けてないといけない、と考えているようでした。ある日、彼は「いいだろ?見かねた店長がくれたんだ」と言って、それはそれは軽々しいかんじで誰かの靴を履いて帰ってきました。彼はバイトの日にはその靴を履いて出かけて行きましたが、それでもやっぱり靴は一足しかありません。ショッピングモールでも勝手に私の服を買い、私が靴を指さすのを笑って流して最後のお金でクッションを買った彼は、やっぱり裸足だったのです。

「なんかね。裸足であるいたら少しは目が覚めるかなとも思ったんだけど、慣れちゃったらそんなこともないね」

 と言う彼の傍、靴を履かされていた私は彼の裸足を見るのが嫌で、ずっと目線を上へ向けていました。

「節約足つぼ健康法さ! あははは!」

 と言って笑いながら私を見る彼は、新しい靴を買う気がなかったのです。椅子に座って思い詰めたように固まっている彼は、私が椅子のすぐ後ろから眺めていることにも気がつきませんでした。

 彼がもう一方の銃を持って帰ってきたのはそれから数日後です。私に銃を渡して外へ出ていった彼は、しばらくするともう一方の銃を手にして帰ってきました。それが何を意味するか、帰ってきてからゲロゲロと吐いてばかりだった彼が何を見たのか、私は考えたくありませんでした。ただ、口の中に手を突っ込んで「おえっ」「おえっ」と顔を真っ赤にしてよだれを垂らしたり、雨の日に外へ飛び出して行って叫び散らしたり、それまで時々あった彼の挙動不審な行動も、この日を境に目に見えて増えるのを目の当たりにした私は、何か彼の望むようになることはないか、時々はっきりとする頭ではそんなことを考えていたはずでした。彼の鞄の中の特待のチラシを見て裸足で外へ出た私は、彼の替玉として答案用紙に彼の名前を書いたのです。

 窓から外を見ていた私は、階段を上る足音が私の後ろで止まったのに気づき、振り返りました。一時間もせずに帰ってきた彼は目の色が変わっていました。彼はどこかから取ってきた封筒を部屋の隅に叩き付けると、座って見上げていた私の両脇に腕を入れ、そのまま私をひねり倒しました。驚く私が手足を縮こめるのに構わず、彼は私の着ていたシャツの襟をつかんでビッと引き伸ばしました。

「あーっ! あーっ」

 ぶちっと言って服が千切れ、私の上半身は二、三秒で剥かれてしまいました。彼は本気でした。私がしめた腋と曲げた肘で曝された胸を持ち上げると、彼は左手を私の頭、右手を私の顎に添えたのです。

 風鈴の音が鳴りました。

 顔を近づける素振りを見せていた彼は目線を動かさずに固まってしまったのです。

 私はあのとき、彼の頭を自分の手で引き寄せてしまえばよかったと、本当に後悔しているのです。彼は重ねた両手で自分の顔を押さえると「……ちくしょう」と言って部屋の端で丸まってしまいました。私は伸びたシャツを着たまま、もうどうすることもできませんでした。彼は「……ちくしょう」と言った後、しばらく動かなかったのです。

「知らねえよ! 離せよ!」

 私は彼に一度だけ会っていました。

「知らん! そんな女は知らん!」
「深川さん、ほんとにコイツ知りませんか?」
「知りません」
「ほら! 知らねえって言ってんだろうが! もういいだろ!」
「ほらもう一度よく見て」

 髭の刑事は彼の頭をつかんで私の顔に近づけました。振り返ると最後のチャンスでした。

「…………知りません、会ったことないです」
「そらみろ! 知らねえってんだろ! そういうことだ!」

 しかし、彼はそう言う前、少しだけ苦笑いをしたのです。彼は公園でいたときからずっと、ついに私のことを最後まで言わなかったのです。いくら忘れていたとはいえ、よくもあれほど冷たい態度が取れたものだな、と私の感覚を疑ってしまいます。だから私はそのことを思い出したとき、本当にいてもたってもいられなかった、垂れる涙が止まらなかったのです。

 こんなに大事なことなのに、また忘れてしまうかもしれない。近章のビルから歩いていける距離にあったはずの彼の下宿は、きっとビルから見えた東大麦駅から伸びる路線、そのうちのどれかの傍だと思われました。単線ではなく二本の複線であったことぐらいしか思い出せず、電車の外観も思い出せない私は、本当に何もせず窓際で呆けていたに違いありません。それでも彼は時々私の横に来ると「今何見てるの?」だとか「今ヘリコプターが飛んでるね」などと言って、私の目線に合わせようとしてくれていました。東大麦駅からはたくさんの電車が出ていて、私がそこへ行っても果たしてその電車に乗れるかというのは、わかりませんでした。しかし、未だに失ったものが多すぎる私は、今どこで何をしてるかもわからない彼が恋しく、彼が許してくれるなら私は彼の下宿に戻りたかった。最後まで彼は黙っていたのです。髭の刑事にすぐに言いにいこうとは思えませんでした。

 化粧もせずに財布だけを持って下宿を出た私は、上京して以後一度も乗らなかった西麻野線に乗り、東大麦駅に向かいました。終点の東大麦駅に近づいたとき、電車は高速道路の下をくぐりました。その高速道路の伸びる先、同じく高速道路の下をくぐる川と並行して走る線路沿いは、私が彼と通った道、彼と二人で星を見ながら帰った道でした。私は彼と通ったこの道を一人で通って辿り着く自信がありませんでした。ラッシュも終わって一息ついたらしい十一時頃、階段を下りて少し低くなったホームへ向かい、本数の少なくなった北野麦線に乗った私は、そこからずっと窓の外を見ていたのです。

 黒い油汚れの目立つ電車でした。私は進行方向から見て左側をみていました。右側を並んで流れる北野麦川はやがて切れてなくなり、各駅停車で見知らぬ光景が続きます。あまりにも景色に見覚えがないので、私は川沿いを通ったことも、もしかすると気のせいだったのかもしれない、と思いだしました。川が途切れてしばらくすると線路沿いの道が無くなってしまい、あのときはそれからしばらく彼の後ろをついて歩いていたのです。少しは思い出すかと思いましたが、相変わらず風景に見覚えがなく、私は電車を間違えたと思っていたのです。

 頭の調子がよくなった日、未だに山崎助教のことで頭の中が一杯だったとき、私は勝手に花火の案内を彼のパソコンで刷りました。ずうずうしくも彼にみせたことは本当に後悔しています。彼は死のうとしていたのです。それでも図々しい私は、花火の日の歩道橋の上、私の目線が彼と合ったとき、彼が初めて真面目に言った言葉、

「きみとずっとあの下宿にいられたらいいなと思うんだ。二人でずっと。勝手だけど。きみがよければ俺はそれでいいんだ。行くところないんならちょっと考えてくれよ」

 と言ってもらったそれを真に受けることしかできなかったのです。

 ふと見た進行方向の右、遠くに見えた歩道橋は近章ビルのそばの歩道橋、例の歩道橋でした。いつの間にか進行方向右側の商店街を見過ごしていたことに気づいた私は急いで左側を振り返りました。ラーメン屋さんのある大通り。煙突だけ見える銭湯。アイスクリームの自動販売機。私は切なくなっておでこをドアの窓につけ、食い入る様にそれを見ていました。彼の下宿の二階はもうすぐ、電車と同じ高さに窓が現れ、そこで呆けていた私と目が合えば、忘れていたこともすべて思い出せるのではないかと思ったのです。

 こちらからは見えないはずの花壇は私が削った花壇でした。

 その花壇の残骸は下宿の建物がまだ残っていれば、電車に乗っている私からは見えないはずだったのです。

 あっと言う間に通り過ぎてしまって、私は進行方向と逆の方向をずっと見つめていました。

 電車から降りて見に行く勇気はありませんでした。

 もしかしたら、始めからなにもなかったのかもしれない。

 帰りももう一回だけ見たのです。

 それでもそこにはなにもありませんでした。

 捨て置かれた私は、もう自分から何かをする気は残っていませんでした。

 ふてくされて布団に包まった私は彼にもらった音楽プレイヤーを再生しました。

 あの窓辺で聴いた音楽ならいくらでも聴ける。

 あの髭がまた来るまでの間だけでもいい。

 寝てしまおうと。



 そう思ったのでした。




                  〈完〉

       

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