月姫
十一月二十七日現在。僕は、月姫に恋をしている。
もちろん、彼女は本物の姫でもなければ、月に住んでいるという意味でもなくて。
喫茶『霜月』でアルバイトをしている、姫路さん。
マスターが不意に冗談で言った、『月姫』という呼称が妙に似合っていたのと、少しばかり、満更でもなさそうに頬を染めた姫路さんが可愛らしかったことから定着した呼称だ。
――もう少しばかり詳しく紹介しよう。
『月姫』――姫路彩さん。学校は僕と違うけれど、年齢は同じで、高校二年生。
去年の四月から。つまり高校入学とほぼ同時に、店の雰囲気に惹かれ、霜月でアルバイトを始める。以後、マスター一人で切り盛りしていた霜月の看板娘として、ごく小範囲の常連たちの支持を集める。
……誓って言っておくが、僕は彼女のストーカーの類でもなければ、怪しい情報を用いているわけでもない。彼女がアルバイトに入るよりも昔から霜月に入り浸っていた僕自身が、常連として、彼女の友人として、友好な関係を築いた末の情報である。そこにまったくの下心が無かったと言えば、まあそれは嘘になると言わざるを得ないけれども。
「おや、もう着ていたのかい。いらっしゃいませ。いや、これはいらっしゃいまして、かな? んん、なんだか変だな」
「今日は特にやるべきこともなかったからね。いつも通り、本でも読もうかと」
少しだけ皮肉な笑みを浮かべ、長い黒髪をなびかせて、軽やかな足取りで、月姫が、僕の隣に舞い降りた。妙な日本語と、メニュー表と、水を載せたお盆を携えてはいるけれど、それでも『舞い降りた』。
「どうぞ」と差し出されるメニューに取りあえず目を通して、結局「いつもの」と答えて、「承りました」と返ってくる。
平日の午後四時。ランチタイムはとっくに終わっていることもあってか、店の客は僕一人。頁を捲る紙の香りに、珈琲の風味が混ざる。
「お待たせしました。珈琲です。お代わりは自由ですので、お気軽に声をお掛けください」
丁寧に言うと、白い陶器に注がれた珈琲を二つ、テーブルに静かに置く。
一つはもちろん僕のものだろう、ではもう一つは?
「失礼するよ」
答えを僕が出すまでもなく、姫路さんが僕の正面の席に腰掛けた。
「マスターが、少し外せない用事があると言ってね。休憩がてら店番を頼まれてしまったよ。始まったばかりなのにね」
そう言うと、先ほどよりも少しだけ笑顔を柔らかくして、「休憩に含まず、労働時間ってことになっているから良いのだけれど」と続けてから珈琲を口に運んだ。習って、僕も小さく笑って珈琲を味わう。
ふと入り口を見やると、OPENの看板が硝子越しにこちらを向いている。成程。これは確かに席について珈琲を飲みでもしないと、マスターがいつ帰ってくるのかもわからない。
あの中年が少し、と言って本当に少しであったことなんて数えるほどにしかないのも、常連の間では周知となっていることだ。
しかしこの場合、姫路さんにはお気の毒であるかもしれないが、僕にとってはこの一年と七ヶ月で最大の好機であると断言できる。
心から珍しく、中年の気まぐれに感謝しよう。
「その、今読んでいる本はなんだい?」
中年に感謝して肝心の本題を忘れた僕に、姫路さんが、テーブルの隅においてある閉じられた本を指す。僕が本を手に取り、カバーを少しだけ外してタイトルだけを見せる。
「浮雲……? 聞いたことはあるような気がするけれど、誰の作品だったかな……」
「作品よりも作家名の方がずっと知れているからね。正解は、ほら」
カバーを全て外すと、ああ、と理解の声が一つ。
現れる正答は、本を読まない人でも名前を知っていて、本をそれなりに読む人でも作品まで深く知っている人は意外に少ない、そんな人。
「成程。二葉亭四迷か。確かに良く聞く名前だ。それなのに彼について知っている事なんて二つぐらいにしかないものね」
「くたばってしまえ! は凄く有名な話なのに、不思議だよね」
飲み終えたカップを、威嚇するように強くテーブルに置いた僕。
姫路さんは頷いて、珈琲にミルクを足す。マドラーで混ぜられ、黒の弱くなった珈琲を再び一口飲んで、一つ息をこぼした。
「月姫は? 今何を読んでいるの?」
「今更だけども、こころ、さ。石で口でも漱いでいるよ。しかし……仕事があまり関係ない状況で呼ばれると中々に恥ずかしいものだね」
普段の皮肉そうな笑みや、自信家のようにも見えるそれではなく、本当に少しだけ照れくさそうに、頬を掻いて姫路さんが笑う。
少し……訂正。かなり心を持っていかれそうになったけれど、なんとか耐え切った僕は言葉を紡ぐ。
「漱石、ね。ありきたりかもしれないけど、僕は漱石が一番好きだな」
そう言う僕の理由も聞かずに「私も、だね」と、あっさり普段の笑顔を取り戻した姫路さんが返してくれる。
これを皮切りに、僕らは他愛もないことを、本格的に話し込んだ。
お勧めの本の話、一月程前に互いに終えた学校祭の話。そこから学校の話へと繋がる。
姫路さんの交友関係は、意外、と言うべきかも知れないが、広い。
彼女がバイトをしている姿を見るため、男女を問わず、霜月にはそこそこの頻度で学生がやって来る。
そういった時、常連やマスターは月姫、と呼ぶことを禁じられている。無論、月姫本人に。
一度口を滑らせかけた中年……もといマスターは、トレーで頭を思い切り叩かれていた。あの時の、普段の冷静さをどこかへやって顔を赤くした姫路さんを思い出すと少しだけ、可笑しくなった。
「ん。何か面白い事を言ったかな?」
「いや、何もないよ。うん、本当に」
少しだけ訝しげに「ふうん」とだけ返して、会話は続けられる。
学校の話題は互いに初めてだったからか、長く続いた。
成績の話、得意苦手教科、授業の進行度。
制服の違い、どっちが格好いいか、可愛いか。
体育で行うスポーツ、微妙な校則の違い。
嫌いなタイプの教師、担任の話。
時たまずれた意見が出る事もあっただろうけど、僕らはこの時、とても『高校生』をしていたように思う。
そうして会話が始まってから約二時間。既に日が沈んでいる事に気付いたのは、将来の話をしている時だった。
ふと、会話を止めて、月を見上げてから、月姫が笑う。
何故だろうか、儚げに、朧げに。
「なんだ、もう夜か。……楽しい時間が過ぎるのが早いというのは本当みたいだ」
「そうみたいだ。マスターは、まだ帰ってこないみたいだけどね」
僕の軽口を、その儚げな一笑で流して、三杯目の珈琲を飲み干す月姫。静かに立ち上がって、月明かりが入り込む窓辺に歩み寄る。
窓縁に手を置いて、月を見上げる姿。それはまさに、月の姫君にしか見えなかった。
長い黒髪が、月明かりに薄く、鈍く、美しく輝く。
訪れる沈黙を十秒程度で破り、月姫が言う。
「キミに、夢は、在るかい? 将来的なものでも良いし、ごく近い未来での目標でも、なんでも良い。――キミに、夢は在るかい?」
尋ねてこそいるけれど、僕に答えは求めていないのだろう。
事実、僕の方を見ようともせずに、一つ、息を吸う音が聞こえた。
「私には在るんだよ。二つ。両方ともありきたりなのだけれどね。それでも、その片方はとても叶えられそうになかったんだ」
だから、と前置いて、再び息を吸う音。
僕は相槌も打たないし、言葉を遮ることもしない。
僕に何かが求められている瞬間はイマではないだろうから。
「言われてみたい言葉がね、在るんだ。キミなら叶えてくれるかもしれないけど、それはそれで、少しね。折角だし、私がその言葉をキミに贈ってみようと思うのだけれど」
「キミは、どう答えてくれるのかな」と、そう悲しそうに笑った月姫は、それでも僕には一瞥もくれない。
ゆらり、ゆらり、ゆらゆらと。堕ちてしまいそうな月の下で。
消えてしまいそうな月姫が、こらえた涙を流すように、月を見上げて、呟いた。
「月が、綺麗ですね」
何故だろう。紡がれた言葉を僕が理解することに迷いも、時間も必要なかった。きっと、月姫が月の下に立った瞬間から、この展開は決まりきったものであったから。
それならば、この先の顛末も決まりきっているのだろう。
月姫の夢で在る言葉。それは同じく、僕の夢でも在る言葉だったから。
どんな答えを求められているのか、僕はどんな答えを求めているのか。今、目の前に居る月姫は、紛れもなく僕でもあるのだ。
――そうして一つ思い出す。
作品は知らない。けれど、知っている事は二つであると、言っていた。もう一つ、作品よりも知れ渡っていることが、在る。
それは、僕が漱石を好きな理由で、きっと月姫もそうである理由。
判ってしまったのならば、あとは言葉にしてしまえばいいだけだ。
立ち上がる必要も、月姫を見ることも、珈琲を飲む事も必要はない。
同じように月を見上げて、夢を、お姫様に捧げることにしよう。
「ええ。この綺麗な月となら、月姫となら、――貴方となら、死んでもいい」
そうして、やっと月姫は僕を振り返る。
柄にも無い、くしゃくしゃになった笑顔で、それを隠そうともせずに、僕に手を差し出す。
「やっぱり、キミだったね」
「光栄です。月姫」
席を立ち、手を取り、片膝をついて、その手の甲に口付ける。
芝居掛かったような動作だけれど、今に限っては、それを気恥ずかしく思うつもりもない。
「そういえば、僕だって、夢ぐらいあるんだ。偶然にも、二つ」
手を取ったまま、立ち上がって、少しだけ僕のほうが高い目線で向かい合う。月姫は何も言わずに、ただ聞いてくれる、さっきまでと反対の立場。
「この霜月をね、父さんの店を、継ぎたい。父さんと母さんみたいに、夫婦でこの店を続けたい。……母さんは早くに亡くなってしまったけど、僕は、――僕らは長く、永くやっていきたい」
「……私の二つ目の夢は、素敵なお嫁さんになること、だよ。とても陳腐だけれどね。……同時達成は充分可能範囲内だと思う」
これは、了解してくれたと思ってもいいのだろう。涙声で、照れた月姫の笑顔が、確認の言葉を遮った。
「僕らのもう一つの夢も、今から叶う。おんなじ、だったから」
やっぱり、答えるだけ、貰いっぱなし、というのは男としてどうかと思うのだ、僕も。彼女もあげっぱなしではいられないだろう。
僕から、彼女に言わなければならない言葉。
僕が彼女に伝えたいこと。
僕らはとても、とても弱いから、直接的な言葉では言えない。
わからなければ良い、と保険をかけておきたくなる。
それでも、弱くても、弱いなりに維持を張る時が、イマなんだ。
他人の言葉を借りてでも、戦う時なんだ。
「I (月が)love(綺麗) you(ですね)」
夏目(ぼ)漱石(く)はこう言った。
「I (貴方の)love(為なら) you(死んでもいいわ)」
そして、二葉亭四迷(月姫)は、こう言った。
月姫が、正面から僕の首に腕をまわす。
その額が僕の心臓に触れる。
「やっぱり、私は漱石の方が好きだよ。死んでもいいだなんて言わなくても、この気持ちは通じたことだしね」
「それでも『月が綺麗』に、『月が綺麗』とは返さないんだね」
僕がそうやってからかうと、初めて月姫と呼ばれた時のように頬を赤く染めて
「それじゃあ情緒も、浪漫も、風情もないし……なにより、きっとキミよりも、私の方が強く思っていることを伝えられない」
首に掛かる手の強さが、ぐっと強まる。
苦しいけれど、言わずもがな。そんなもの気にならないぐらいに今は幸せだ。
例えば未来になって、このこころが浮かんだ雲のように淡く流れるものだったとしても、それでもきっと僕はまた月を探すだろうし、月はまた十一月に微笑むのだろう。
「好きだよ、姫路さん。月は綺麗だし、貴方の為なら死んでもいい」
「私も、だ。霜月君。月は綺麗だけれど、私の為に貴方を死なせるつもりなんて毛頭無いよ」
そうして、静かに、静かに、笑いあう。
朧な満月が、霜月と、月姫を照らし出して、宵闇から世界を切り取った。
夜空が澄んで綺麗に見える季節が、ついそこまでやってきていた。