Neetel Inside 文芸新都
表紙

ネクラが覗く世界
縮小していく理科室のスケッチ

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 簡易電気分解装置の中で、二本の試験管に気体が溜まっていく。中学生の描写にこのような小洒落た言葉遣いもなんではあるが、その試験管の前で分解を見ている彼もまた、気体ならぬ期待に胸を膨らませているのだった。少しずつではあるが、左右にほぼ2:1の割合で泡(あぶく)を出していく二本の試験管を見ながら、彼はしきりに左隣の理香ちゃんを気にしていた。
「時間、かかりそうだねぇ。」
不意に話しかけられたので彼ははっとして一瞬言葉が出てこなかった。しかしこの「一連の行動」を悟られてはなるまいと、すぐに彼女の大腿から視線を上げ、彼女の目もとを見て言葉を継ぎ接ぎしていった。
「ああ、うん……あれ? やっぱりこっちの気体の方が倍くらいになってるよ。うちだけかな」
と彼はまわりの班の分解装置をきょろきょろ大げさに見渡した。
「でも、ちゃんと準備したじゃん。言われたとおりに。」
心配性なんだね、と屈託なく笑う理香ちゃん。その笑顔以上に、彼は理香ちゃんの自然な「じゃん」という言葉に惹かれた。むろん、もとから惹かれっぱなしではある。

 彼女は今年の夏休み明けに転校してきた。
「北海道の夏休みは短いんですね、びっくりしました。」
とだいたいの転校生が紋切り型の感想を口にする中、やはり彼女も同じような事を喋った。ただ、これまで彼が見てきた転校生と違ったのは、「びっくりしちゃいました」と屈託なく笑った後の、「東京はまだ三十度あるんです。」という一言だった。
 それは、明治気質(かたぎ)の庶民がはじめて大正モダンに浸りに浸ったモガを見た時のようでもあったろうし、一人の若い男が、運慶の所業に「大自在の妙境に達している。」と語ったときのようでもあったろう。どこか輪郭のぼやけた、はっきりとは思い出せない感情だった。ただ、とにかくその五文字が、「とうきょう」の五文字が、彼に理香ちゃんへの淡い憧れを抱かせたのだった。
 「じゃあ、丁度あそこの席が空いているから、座ってくれるか。」と、彼の隣の席に座る……という陳腐なプロットのひな形のように上手い具合に行くこともなく、そこはかとない憧憬を背に感じながら、彼の二学期は静かに始まった。

 「そろそろ、反応終わったかな」
理香ちゃんが聞いてきた。彼はまた、焦りながら顔を、そして視線を上げる。
「う、うん、そうかもね」と言いかけてまた、試験管に泡が上がっていく。
「もう、少しかな。」
「ほんとだね」
理香ちゃんはまた試験管と理科のノートとを交互に見はじめる。彼もまた視線を下げる。少し日に焼けた彼女の大腿は、しなやかで、それでいて力強く、彼女の人間としての心の強さをも彼に垣間見せるようであった。毎日トラックを走り抜ける彼女の姿。排球部の彼はほとんど見る事が出来ないでいた。滑らかな曲線を形づくる膝の関節、脚を曲げたときだけに見える膝裏の筋。少しばかりのやましい気持ちを隠しきれないまま、それでも彼は彼女のスカートから伸びる脚線から目を逸らす事が出来ずにいた。

 「おい、平田、どこ見てるんだよ」
後ろから、ぼそっと声がした。振り返ると、彼の隣の実験班で、彼と親しい道下がいた。
「エロいこと考えてるんじゃないだろうな?」
「そんなんじゃないよ」
「本当かぁ? まあ、たいがいにしておけよ。でも、あんまり見てると、折角くじ引きで同じ班になったのに、取り消されるぞ」
まったく、と道下は両隣の友人とちょっとだけいやらしい笑みを浮かべていた。いやらしくはあったが、その笑みにあまり悪意が無いのは救いであった。
 道下が話しかけてきた事もあって、彼らのいる一帯がすこしざわつき始めた。

 教室の後ろの方にいた花田は、道下や平田が笑い合っているのを見て、少し面白くない思いだった。おもむろに分解装置に手を伸ばす。幸か不幸か、花田の班の他のメンバーも黒板近くにいる道下や平田のほうを見て何があったのか興味深そうにしている。こんな様子も花田には気に食わなかった。分解装置をそっと傾けていく。容器を伝って、溶液が黒光りする机の上に溢れていく。
「先生! どうしよ、水酸化ナトリウム触っちゃいましたっ!」
ひときわ目立つ声で叫んだ。
 先生は呆れ顔で黙って花田のもとに行き、花田の頭を叩いた。
「わざとやっただろ! 見てたんだぞ。何やってんだ、お前は。溶液は薄めてあるから大丈夫だ。早く手を洗ってこい、この野郎。ったく……」
花田のおふざけは毎度の事だったが、怒られてクラスが沸くのも毎度の事だった。
「またかよ」
「バカだなぁ」
そんな事を言いながら皆が笑い合う。
「こらうるさいって! あんまりうるさい奴は一人ずつこれ飲んでもらうからな」
とこれもいつもの調子で叱った。

 教室が、どっと沸いた。
「実験のときの先生、面白いんだね。」
理香ちゃんが言った。そういえば理香ちゃんが来て初めての実験かぁ、と彼は独り合点して、
「そうだね」
と言った。彼女は屈託ない笑顔を見せる。彼は初めて自然に彼女の目を見る事ができたような気がした。嬉しくて、勝手に笑顔が出た。二人で笑い合った。

       

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