花火大会に行ってはいけない
ドクター
――[07]――
僕達は、人通りの少ない裏路地を進んでいた。
てるてるの提案により、目立つ大病院よりも彼女の知り合いがやっている小さな診療所に行くことにしたのだ。
「満足な設備は無いかも知れませんけど、お医者様に見てもらえないよりは、いいと思います」
腕も確かですし、と付け加えててるてるは黙った。僕は考える。確かに、パニックになったあの群衆がパッと見病院とわかるところに駆け込むのは容易に想像できた。そこで彼らは「火の粉が頭にかかったんです」とか「なんだか息苦しいんです」などとわめきながら長蛇の列を作るに違いない。そうしたら、しづれは医者に会う前に事切れてしまう……それはいやだ。多分、しづれの悲惨な状態を見て順番を譲ってくれる人もいなくはないだろう。だが、たとえいたとしても、数人だけじゃどうにもならない。やっぱり、まずは専門家に見てもらうのが先決だ。
てるてるは街灯が規則的に並ぶ住宅街を右に三回曲がり、左に二回曲がった。僕はこの町に来るのは初めてじゃないけど、こんな場所は全く知らない。てるてるがいてくれて、本当によかったと思う。しづれは本当にいい友達を作ったんだな。一方で、僕は無力だ。今はしづれをただ背負って走ることしか、できない。
今は、それだけしてなさい。
ふいに、すぐそばでねーちゃんの声が聞こえた――気がした。
ふざけんな。なんでもっとあの時強く言ってくれなかったんだよ。ちゃんと教えてくれたんなら、伝えてくれたんなら、こんなことにならなかったのに!
頭の中でそこまで叫んで、結局僕がねーちゃんの忠告を気にかけなかったのがいけないことだと気づいて、僕は、僕は自分が嫌になって。
「……大丈夫ですか?」
てるてるが僕の顔をのぞき込んできた時、初めて涙を流している自分を知った。
みっともないよ、僕。
「着きました。さぁ、早く入って診てもらいましょう」
僕の返事を待たず、それだけ言って、てるてるは古びた建物の中に入っていってしまった。月明かりに照らされた看板には『藤宮診療所』と書かれている。昭和のかほりが残る、あまりの外見のボロさにちょっと不安がよぎったけれど、気にしている場合じゃない。僕はすぐに続いて扉の奥に足を進めた。
待合室を素通りして、薄明かりのついた診察室に入る。外見を裏切らない内装の古さが、そこにはあった。
「藤宮さん。夜遅くにすみません。私です。照子です」
いつになくハッキリとした口調でてるてるが声をかけた先に視線を移す。そこには、赤茶色のカバーがボロボロになっていてあまり座り心地がよさそうには見えないソファーに体を預けながら眠りこけている、白衣姿のおじいさんがいた。
「ふが?」
パチン、という音が鳴りそうな勢いで、おじいさんは目を覚ました。アゴまでびっしり生えた白ヒゲが、ぶるぶると逆立ちしている。
「……」
「藤宮さん――」
てるてるが何かを言おうとした途端。
「しまった。ワシとしたことが、またこんなところで……」
おじいさんは残念そうな顔になり。
「今日の『走る世間は鬼ばかり』を見逃してしまった……無念じゃ」
そう言って、落ち武者のように目を閉じた。
大丈夫かよ、この人。オイ。
僕は不安を全面に醸しだした表情で、てるてるの方を見た。てるてるは済まなそうな顔をして、もう一度「藤宮さん! 患者さんです!」と言った。
すると、おじいさんが飛び起きた。
「どこじゃ! どこに患者がおるんじゃ!」
「ここです藤宮さん。頭を強く打っていて……」
てるてるの台詞に合わせて、僕は近くにあった小さな診察台の上にしづれを横たえた。しづれは何も言わなかった。うんとも、すんとも言わない。ただ、血まみれだった。
おじいさんは慌てて近寄り、途端、酷く真剣そうな顔をした。
「これはこれは……ひどいもんじゃな。この子は交通事故にでも会ったのか。てるこちゃん」
名前を呼ばれたてるてるが答えた。
「花火が、当たったんです」
おじいさんは目を丸くした。
「なんじゃと。わけがわからん。そういえば浴衣じゃな、この子もてるこちゃんも。むふ」
こいつただの変態じゃないのか。僕はきっ、とおじいさんを睨みつける。もちろん、無視された。
「花火大会があって、かなり近い所で見ていたんです。それで、四発目……でしたよね?」
てるてるが不安そうな顔をして僕を見てきたので、僕はうんうんと首を振った。なんで四発目を僕に確認したのかは、わからない。
「それが、打ち上がる途中で突然爆発して、その破片がしづれちゃんの頭に……」
それ以上、てるてるは言わなかった。下を向いて黙ってしまったので、僕が補足をする。
「息は、してます。首も折れてないと――」
「そんなことは見りゃわかる。ふむ、まずは輸血じゃな。てるこちゃん、手伝ってくれんか」
「あ、はい」
てるてるは慣れた手つきですぐ近くの棚に手を伸ばした。すごいな、てるこちゃん。
一方、おじいさんも迷いなくしづれに処置を施していく。僕はただ、近くでしづれのことを見守っていることしかできない。
「命に別状は……ないぞ。お前さん、この子のいいなづけかい?」
「は?」
僕は顔が赤くなるのを感じた。こんな時に、ふざけないでほしい。
でも、ちょっと嬉しい気持ちが僕のどこかでぴくり、と動いた気がした。
おじいさんは僕の反応なんて気にしないで、しゃべり続ける。
「もうちょっと遅れたら、危なかったかもしれんがの。まぁ、輸血して頭の傷を縫合をしておけば大丈夫じゃろう。ただ、一応レントゲンは取らせてもらうぞ。それと、近くの大病院で精密検査もやっときなさい。何かあってからじゃ、遅いんじゃからの」
「はい」
僕は小さく返事をした。
おじいさんは、なんで僕達が大病院に行かずまっすぐここに来たのかも、祭りがどうなったのかも尋ねなかった。
ただ、黙々と、しづれ――――運び込まれた患者と向き合っていた。
てるてるがタオルでしづれの顔についた血を優しく拭きとった。僕にはそれが、毒リンゴを食べてしまった白雪姫のように、かわいくも、美しくも見えた。普段はそんなこと、全然思わないのに。
「しづれ……」
僕はそのまま、床にへたりこんだ。安心が、一気に僕の緊張の糸をほぐしたせいだろう。でも、だめだ。しづれがちゃんと治るまで、そばにいなきゃいけない。
そうだろ、ねーちゃん。
僕は、今もきっとまな板の上で小説をカリカリ書いてるあいつに確かめるように、つぶやいた。