美術室の最奥の棚、上から四つ目の引き出しの中に無造作に置かれているたくさんの風景画。平凡な高校生を圧倒するその精緻な絵の数々は、けれども私以外のほとんどの美術部員はその存在すら知らない。もともと部員が全学年合わせて二桁をようやく満たす程度の小規模な部活だったことに加え、その存在を見つけて以来口外することはかったから。
理由は二つ。
それは私にとってささやかな宝物だった。部員の中にこれほど上手に描ける人間はいなかったから、その描き手は間違いなく部外の人間だろう。その人の絵が好きだった。どこか渇いていて、何か足りないものを求めて彷徨っているようで。その何かを探しては、そこにないことを記録していくような、そんな言いようのない寂しさに惹かれていた。
もう一つは、この絵はあまり人に知らせない方が良いものだと思ったからだった。絵が密かに増えているのだ。つまり描き手は未だにこの学校に在籍していて、定期的に美術室に絵を置きに来ていることになる。何故姿を見せないのか、何故わざわざ美術室に置いておくのか、その理由はわからない。それを知ろうとも思わない。ただもしもそれを知ってしまえば、もう描き手がここに来ることはないだろうという予感がしていた。部員達の間で騒ぎになってしまえば、あの絵を描く人と会ってみたいという人間がいても不思議ではない。そうなった時、きっともうあの絵の続きを見ることはないのだ。その当てのない直感に従い、私にだけ手の届く宝物をそっと秘匿した。
誰もいない部室で、そこに描かれた静かな寂しさを覗いていた。絶え間なく、季節を追うように切り取られた風景をぼんやり眺めながら。夥しいほどの数の絵を、一枚一枚本のようにめくって、おそらく優越感に酔っていた。誰も知らない自分だけの愉しみがあるということと、誰かの心の内を撫でて確かめるような、その背徳的な行為に。
○
それに変化があったのは十月の終わり、袖を伸ばした制服に吹きつける風が、やや冷たくなってきた頃だった。木曜の放課後、例の絵をこっそり覗くために美術室にいた。
いつの間にか魅入っていた。描かれた情景の渇きは渇望に、寂しさは静寂に変わっていた。描かれた街からは一切の人が姿を消していた。それだけでも強烈な違和感があったが、よく見ている内にそれだけが違和感の正体ではないことに気付く。何気ない街の描写にあるべきものがない。ドアノブのない扉、対称を映さない鏡、赤しかない信号、……一見、人がいないだけの街の描画は、所々に描き手の狂気が偏在している。目立たぬように、けれど確実な歪みを残して。凍り付いたような硬質な線画は、どこまでも静かに描き手の虚しさを受け止めていた。見ていると背筋が寒くなる。恐怖さえ覚えるほど、鮮烈に現実的な非現実の描写。呼吸を忘れてしまいそうなほど、それに見入っていた。
故に、気付かなかった。
扉はいつの間にか開いていた。男の子が一人立っていた。部活では見たことがない。がっしりして背の高い、無造作に髪を伸ばした少年。熊のようだ、私は呆然とそう思った。
「見つかってたか」
彼は私の手に持つ絵を見て、ぽつりと零した。私にはほとんど聞き取れないくらいの囁き。ちょっとだけばつの悪そうな顔で。
「あ……え? あなたが、描いたんですか?」
彼は頷くと、一枚の画用紙を私に手渡した。いつものタッチで描かれた線画だった。
「美術部の人はみんな知ってる?」
およそ感情の籠もってない声で、彼は私に聞く。冷たいけれど、素敵な声音だった。女の子を雌にしてしまえそうな、気持ちの良いトーン。くらりとくる。
彼の質問にうまく答えられずに、ぶんぶん首を振った。
「良かった。じゃあ内緒にしておいて。その内捨てるから」
それだけ言って、彼は美術室を出て行こうとする。
「あ……」
「ん?」
呼び止めようとして上手く出なかった声にも彼は反応してくれた。
「名前、聞いてもいいですか?」
彼は不思議そうな顔をする。どうしてそんなことを聞くんだ? と顔に書いてあるようだ。
「好きなんです、あなたの絵」
どうにかそれだけ言うと、彼は興味が削がれたように私を見て、
「ヤジマ」
そう短く答えた。
「絵、捨てちゃうなら貰ってもいいですよね?」
「……じゃあ、見つからないようにそれの管理頼むよ。それが条件」
その一瞬、彼が微かに笑ったように見えたので、つい嬉しくなって、
「分かりました!」
そんなふうに勢い込んで答えていた。
彼は今度こそ振り返りもせずに出て行ってしまった。
○
以来、私は無意識に彼を視界の中に探していたんだと思う。校内で彼の姿を見かける度、自然とそちらに目がいってしまっていた。視線はほとんど合うことはなかった。
ある時、校内で彼が描いているところに出くわした。
私がこっそりと近づいて行くと、彼はちらとこちらを見てすぐにキャンパスに視線を戻した。
「見てても良いですか?」
「良いよ」
その返事が思いの外軽かったので、私はすっかりいい気になってその場に腰を下ろして、彼の写生を観察していた。ほとんど無言だったけれど、それは心地良い時間だった。「寒いですね」「……そうだな」とか、それくらいの短い会話をいくつか交わした。彼は人と話すことに飽いているような素振りを見せるくせに、返答だけはちゃんとしてくれた。私は飽きもせずに彼の手が刻んでいく線の数々の瞳に映しては、思い出したように短い言葉を投げつけた。
決して次に続くことはないぶつ切りの言葉達が、沈黙の内に降り積もっていった。雪のように冷たくて、落ち葉のようにさっと燃え上がってしまいそうなその言葉の堆積は、結局私の中で澱にしかならないだろうと、この頃から予感はあったのに。
○
四月になった。
呆気なく、本当に呆気なく、彼とはそれきりになった。最後のチャンスだと思った卒業式の時さえ、彼の姿を見かけることはなかった。
ただ一枚だけ絵が増えていた。それだけで、彼との何もかもが途絶えた。
彼が最後に描いたのは、散り始めた一本の桜だった。艶やかに咲き乱れて散っていく薄桃の花弁、その合間から覗く、人の乗らない一脚の車椅子。私には理解できない、透き通った孤独がそこにあるのだと思う。
もうこの学校に彼はいない。残されたのは夥しい数の絵だけ。
誰もいない美術室で、私は今でも彼が切り取り続けた景色を眺めることがある。そうして膨らみ、しぼむこの感情はなんだろう。憧憬よりも仄甘く、けれど恋情には冷たく淡い。
持て余した感情には画材の匂いが染みんでいる。きっと何年先も、この匂いが思い出させてくれる。この放課後の寂寞を。