Neetel Inside 文芸新都
表紙

放課後の寂寞
シロツメクサ

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 島の南東、景色の良いお気に入りの岬へ行く途中の原っぱにはクローバーが群生している。子供の頃は夢中で遊んで、幸運の四つ葉のクローバーを見つけると、おおはしゃぎで悪戯に摘み取ったりした。母さんにプレゼントすると、すごく嬉しそうにしていた。
 でももう長く、クローバーの原っぱに足を踏み入れたことはない。
『四葉のクローバーを見つけるために、三つ葉のクローバーを踏みにじってはいけない。幸せはそんな風に探すものじゃない』
 その言葉の足枷が、いつからか長い鎖を引きずるように重くなっていた。



 削り取られたように崩れた島の岬から、果てのない雲の海を眺めていた。どこまでも続く白の砂漠は、ふわふわと柔らかい大地のように思えた。その幻想の大地から、円柱が一本飛び出る。下から吹きつける風が螺旋を描いて巻き上がるので、ちょうど雲の柱が突きだしたように見えるのだ。僕らはそれを鉄砲雲と呼んでいる。見飽きるほど雲海を眺める内に、鉄砲雲が起きる兆候もなんとなく分かるようになった。雲散していく白い柱をぼんやりと見つめて、その白の大地が実際にはそうではないことを頭に植え込む。それでも岬の崖から飛び降りれば、クッションみたいに自分の身体を受け止めてくれそうで、そのまま雲海の終わりまで走っていけるような気がしていた。
「まーたくだらないこと考えてるんでしょー?」
 岬の最先端から三メートルほど先、空中に身を浮かせた女の子が僕に話しかける。雲の保護色にでもなりそうな真っ白のワンピースだけを着ていて、靴も身につけていない。気の強うそうな大きな瞳に、呆れた色を浮かべて視線を寄越す。
「くだらなくないって! この雲の上を走って向こう側まで走っていけそうだと思ってたんだ」
「行けるわけないじゃないの。君ってもしかして馬鹿?」
 さらさらな黒絹の髪を指に弄びながら、彼女は大げさにため息をついた。
「雲ってただの水蒸気なんだよ? 学校で習わなかったの?」
「知ってるよ、それくらい! それとこれとは話が違うだろ!」
 いくら子供とはいえ、空中に漂う水分子を自分の体重を支える力がないことくらいもちろん分かってる。でもこうして見ていると、どうにかした拍子に出来そうだと思えるんだ。
「あ、わかった。それって男のロマンとかってやつ?」
「え? あー……そう、かな」
 違う気もするけど、説明するのが面倒だったのでやめた。
「本当に男の子ってわけ分かんない。なんでそういうとこだけ変に夢見がちなの?」
「えー……」
「だいたいさぁ――ってわきゃああ!!」
 彼女が高圧的な口調で話し始めようとしたまさにその時に、真下の雲から突風が吹き上げた。風に巻き込まれた白い雲が一瞬で彼女を包み込んで、風の終わりと共に徐々に雲散していった。
「びっくりしたぁ……!」
 彼女は心底驚いた様子で、鉄砲雲が吹き出したあたりを見下ろしている。
「やっぱり風で吹き飛ばされそうになったりするの?」
「そんなことないけど、なんていうの? 反射?」
「ああ」
 気持ちは分かる気がする。でも咄嗟にスカートを抑えた彼女の姿が可笑しくて、少しだけ吹き出してしまった。
「なによ!? 幽霊の私が今のにびっくりしたのがそんなにおかしい!?」
「いや、そういうわけじゃないよ」
 無言で抗議の眼差しを向けられるが、気付かぬふりでやり過ごす。
「そんなところにふわふわしてないで、島の上にいればいいのに」
「やだよ。自分が死んでること、忘れちゃいそうだもん」
 彼女はにべもなくそう言い放った。その表情の翳(かげ)りを隠すように僕から視線を外す。
「忘れちゃえばいいのに。こうして普通に話せるんだから」
「普通に話せちゃうから忘れたくないの」
「そういうもの?」
「私はね」
 そう言って力なく笑う彼女を見ると、もう僕は何も言えなくなってしまうのだった。



 彼女の身体がこの世から消えてしまったのは、まだほんの数週間前だという。大きな突風雲に煽られた島の岬が崩れて、彼女は雲海に飲み込まれた。空に浮かぶこの島から生身で落ちて助かった人はいないから、きっと彼女も死んでいる。けれどどうしたわけか、彼女は幽霊になって岬の少し先でふわふわと浮いていた。いつもそこにいるので、岬の地縛霊にでもなったのかと聞いてみたら、猛烈な勢いで否定された。以来、地縛霊は禁句になった。
 本当はどこへでも好きに行けるのだという。実際に僕は彼女が岬のずっと先で漂っていたのを見たことがあるし、本人もそう言っている。でも彼女は島の中には入って来ようとしない。自分が幽霊であることを忘れないようにと、意固地になって空中に浮かんでいる。僕はそれが気に入らなかった。
 せっかく話すことが出来る。どこへでも行ける。それなのに、彼女は自分で自分を中空に縛り付けている。
 それを気に入らないと思うのは、きっと同族嫌悪に似た感情だ。どうしようもなく悲しいことがあったから、もうそこにある幸福を掴みたくはないような気がする。掴んではいけないような、気がする。不愉快で不可解で不合理な、けれども抗いがたい僕らの感情。卑しくて愛しい僕の心が、彼女を攻撃しろと命じるんだ。
 僕は渡す人がいなくなったクローバーを探すの止めて、ついでに幸せも手にとることも止めてしまった。彼女は死後の世界を受け入れた代わりに、生前の幸福を受け付けなくなってしまった。多分どちらも同じくらい馬鹿馬鹿しいことをしてる。



「花が好きだって言ったじゃん?」
 夕刻の岬で、彼女にわずかに挑発的な口調で尋ねてみる。
「うん。なに? 急に」
 興味を引かれたのか、彼女の瞳はちょっとだけ見開かれたように思えた。
「ちょっと先にさ、いっぱい花が咲く原っぱがあるんだ。行ってみない?」
「島の中?」
「うん」
「じゃあ嫌」
「……どうして?」
「前に言わなかったっけ?」
 彼女の声に微かに棘が混じる。
「生きてると勘違いしちゃいそうなこと、したくない」
 嫌悪の伴う明確な拒絶だった。
「やればいいじゃん!」
「したくないの!」
 僕も彼女も、いつの間にか怒気を含ませて叫んでいた。
「なんでだよ!」
「君にはわからないよ!」
「……そりゃあ、そうかもしれないけどさ」
 語気は自然と弱くなった。彼女と僕は、触れることさえできないくらいには断絶されている。
「それでもさ――」
「――じゃあ」
 彼女が押し殺したような声が被せられる。
「君がこっちまで来てよ?」
 冷たい眼差しで、岬の先で、地に着かない足を空に泳がせて、彼女は言った。
 泣きそうな顔で。
「そこまで行けばいいの?」
「いいよ。ここまで来て手をとってくれるなら」
 岬の先、三メートル。触れることの出来ない右腕を伸ばす。
「そこまで行けたら、絶対に僕と来る?」
 彼女は応えず、無言で僕を見返していた。
 返答を諦めて、岬を背にした。歩き出すと、背後で張り詰めていた彼女の気配が弛緩するのが分かった。岬から雲海へ飛び出したら、その先にあるのは死への直滑行だけだ。自分で人を殺す無理難題を言い出した割りには、実行に移されることを怖がっていたみたいだ。本当に意固地な奴。
 振り返る。彼女が息を飲むのが分かった。彼女の先に広がる真っ白な雲海を見据えた。
 それから、間をおかずに走り出す。
「嘘……待って! ストップ!!」
 彼女が叫ぶけれど、今更足を止めてなんかやらない。

 僕らの家族にとって母さんの存在はあまりに大きすぎたようで、母さんが亡くなった時から、僕も父さんも修復不可能な虚空を持て余していたんだと思う。ただどうしようもなく生きていて、帰る場所も行く場所もなくて、結局流れ着いたように、雲海のよく見える岬にいつもいた。そこから見える雲の果てに走って行けたら良いと、甘えた幻想を捨てきれなかっただけ。
 岬へ行くまでの道にある原っぱを横目に、持って行くあてのない四つ葉のクローバーを探していた。四つ葉のクローバーを見つけるのに、どうしたって他のクローバーを踏まねばならない。そうして探さないと得られない幸せの白詰草を、渡す人もいないのにどうして摘み取れるんだろう。父さんが言っていた、幸せはそんな風に探すものじゃないなんて言葉が、いつも耳から離れない。探すことさえ止めてしまった足は、けれども言の葉の枷を引きずるように重くなった。走ることが億劫になったのはそのせいか。

 重くなった足は、十分な助走の距離をとったのにも関わらず、あまりスピードをくれなかった。それでもぐんぐんと彼女が近くなる。岬の先も。必死に静止を訴える声は、岬から吹き付ける逆風に掻き消されていった。
 岬の先端から思いっきり飛び出したのに、ようやく彼女の許まで届くほどにしか跳べなかった。緩やかな放物線を描いた僕の身体が彼女に向かっていく。泣き出した彼女はどうにか僕を抱き留めようとして――
 その身体をすり抜けた。
 重力に引き寄せられるまま落ちていく。
 見下ろした雲海に、渦巻く雲の兆候を見つける、瞬間、雲の柱が一直線に突きだした。鉄砲雲が僕に直撃する。岬さえ削ってしまう旋風が、身体を滅茶苦茶に押し上げてくる。耳が千切れるかと思う暴風に煽られ、上下左右の感覚を喪失したまま、空中に思いっきり投げ出された。雲海から斜めに突きだした鉄砲雲は、目論見通り僕を島へとたたき返しくれたようだ。身体を捻ってかろうじて受け身をとるが、無事に着地なんて出来るはずもない。転がりながら不格好に衝撃を受け流して、地面に大の字になった。顔だけ岬へ向けると、彼女が呆然と僕を見つめていた。
「嘘……」
 全身打撲の痛みを堪えて立ち上がる。ふらふらだけど、彼女の驚愕と安心と呆れた表情を見ると、悪戯っぽく笑うのをやめられない。
「痛てて……っと、じゃあ行こうよ」
 彼女は動かない。
「約束したじゃん」
 だめ押しの一言に、ようやく彼女は返事をくれる気になったらしい。僕はその唇がゆっくりと動き出すのを眺めていた。
「……君って」
「うん」
「本当に馬鹿だ」
「知ってる」
 自分でも思わず笑ってしまうくらいには。
「なんでそこまでして」
「頼み事があるんだよ」
「……なに?」
「四つ葉のクローバー探して欲しい」
「は?」
「一人でやると大変だからさ」
 脳天気に笑って見せたら、彼女は盛大にため息をついた。
「ほら、早く」
 彼女に背を向けて歩き出す。ふらつく足取りに、もうあの重さはなくなっていた。
「わ、待ってよ」
 彼女が僕の後をふわふわと付いてくる。
「まったく、なんで今更四つ葉のクローバーなんか……」
「え? 幸せ探しだよ」
 不満そうに愚痴る彼女とは対照的に、僕は満足げに答えた。
 彼女がいれば、三つ葉のクローバーだって踏まずに済むのだ。

       

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