Neetel Inside ニートノベル
表紙

芹高第二野球部の莫逆
ウェインズナーディーライフ

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「何だこりゃ?」
「さあ?」
「誰が貼ったんだ?」
「ウェインがさっき」
「監督は?」
「知らねって」
「……クソ、好き勝手やりやがって」
「おいおい、勝手に剥がして良いのか?」
「じゃあ勝手に貼っていいのかよ。ここはベンチだぜ。ロッカーじゃない」
「ロッカーにはもう貼りきれなくなったんだろ」
「隣まで侵食してるからな」
「だからってベンチに貼るかね」
「この位置だとファンから見える」
「彼女に見られたらどうするつもりなんだ、あいつ」
「いや、そいつだよ」
「あん?」
「今お前さんが剥がしたそいつが、ウェインの彼女だ」
「何だって?」
「目のデカさがうちの婆ちゃんの手作りクッキー程もあるこの女が?」
「俺はこの前そいつと結婚したと聞いたぞ」
「結婚したってのは聞いたがそれとは別の女だった」
「意味が分からん」
「おい」
「おっと」
「よう、ウェイン」
「何してんだお前ら」
「何って? 別に?」
「マーク、お前が持ってるそれ何だ?」
「ただのポスターだよ」
「あるいはウェインの嫁さん」
「お前が剥がしたのか? 剥がして、破いて、そうやって丸めたのか?」
「おいウェイン、ちょっと待てよ」
「答えろ」
「ウェイン、落ち着け」
「バットを置け、ウェイン」
「……クソ野郎、許せねえ。ぶっ殺してやる」
「ウェイン! 待て!」
「マーク逃げろ!」
「ウェイン!!」


 メジャーリーグの長い歴史を振り返っても、ベンチ内での味方チーム同士の本格的な乱闘はこれが最初でおそらく最後だろう。ウェイン・プレスコット外野手は、18歳で某メジャー球団に入団して以来、10年以上に渡って第一線で活躍してきた名選手だったが、その歴史もこの日で一旦幕を下ろした。
 当初、乱闘の原因はチームメイトとの不和とだけ報じられたが、被害者側の選手が被害届を出した事によって事件の詳細が明らかになった。被害者であるマーク氏が、ベンチに貼られたウェイン氏所有のポスターを剥がし、廃棄した事にウェイン氏は腹を立て、近くにあったバットでマーク氏を襲った。マーク氏は4針を縫う怪我をし、選手生命に別状はないものの、その日の試合は欠場という形になった。
 初犯であった事と、その発端がマーク氏の器物破損であった事から、かろうじてウェイン氏に前科はつかなかった物の、代わりに多額の慰謝料を支払う事でこの事件には決着がついた。「こっちが慰謝料をもらいたいくらいだ」とはウェイン氏の言葉であるが、残念ながら誰もそれを本気だとは思わなかった。
 事件の翌日、球団側はウェイン氏との契約を破棄。ウェイン氏はこれに関しても多額の賠償金を球団側から請求され、結果的に豪邸を売り払う事となったが、ウェイン氏がアメリカを発つ最後の日まで反省の言葉は聞けなかった。
「新しい人生を始める良い機会になった」
 そう言い残したウェイン氏が、社会的地位を捨て、億単位の年俸を蹴っ飛ばし、地元のファンを裏切り、大量の荷物を抱えて向かった先は日本だった。元々メジャーリーガーの中でも変わり者として名の知れていたウェイン氏ではあったが、この行動は誰の目から見ても奇妙その物だった。
 しかしウェイン氏にはウェイン氏なりの正義があった。チームメイトをバットでぶん殴った時にも、その正義は何にも増して重要であったし、だからこそウェイン氏は自分の行動に後悔はしていなかった。
 なぜ、ウェイン氏は日本に来たのか。
 その理由を述べるにはまず、あの日チームメイトが破ったポスターが、一体何のポスターだったかについてを説明しなければならない。
 私自身、この分野については正直言って疎く、インターネットで調べたり、娘に尋ねたりしてどうにか聞き齧った程度の知識しか無いので、もしも間違いがあれば謹んでお詫びさせていただく事になる事を、ご承知願いたい。
 ウェイン氏が自身の人生をかけてまで大事にした物、それは、『魔法少女デビカルえれな』の主人公えらなが魔法の巨大T字カミソリを持ってポーズを取っているポスターだった。ちなみにゲームの限定版初回特典らしい。
 繰り返そう。
「魔法少女デビカルえれな」である。
 これはジョークではない。


 ウェイン氏は5年程前から極度の「オタク」と呼ばれる人種だったようだ。
 出会いは偶然インターネット上の動画投稿サイトで見つけた日本産アニメで、一目見た時から一気にのめりこみ、1日で全24話を観てしまったが為にその翌日のデイゲームに危うく遅刻してしまいそうになったという。以来、そのアニメのDVD、原作漫画、キャラクターグッズ、同人誌の類をネット通販を使って片っ端から買い集め、ウェイン氏の日常はアニメ一色に染まっていった。
 作品をより楽しむ為、日本語の勉強は欠かせなかった。同チームにたまたまいた日本人選手を捕まえて、試合中でも単語の意味を尋ね、文法を習い、手紙のやりとりまでしたという。やがてそのアニメを楽しみつくすと、インターネットの情報を頼りに他のアニメへと手を伸ばし、これもことごとくハマった。野球の練習をサボる事だけはしなかったが、それも野球自体が目的だったのか、新しいアニメグッズを買う為に稼ぐのが目的だったのかは自分でも分からないという。
 極度の凝り性も去る事ながら、ウェイン氏の野球漬けの人生を、ほんの20分そこそこで劇的に変えてしまったジャパニメーションの力もあなどれない。その後、ウェイン氏はアニメのみならず日本産の成人向けゲームにも手を出し始め、フィギュアやら同人音楽やらweb漫画といったアンダーグラウンドな方向へと迷う事なくどんどん進んでいった。当時付き合っていたモデルの女性はそんなウェイン氏に愛想を尽かして出て行ったが、本人はまるで気にしなかった。二次元の少女を「嫁」と呼んで憚らず、抱き枕を小脇に抱えながらタイムズスクエアを歩く姿が目撃された。毎日の寝不足が祟って成績不振な時期もあったが、それでもレギュラーの地位は守り抜いた。
 だが、それも事件が起きるまでの事だった。
 オタクになってからというもの、ウェイン氏は何度もオフの時期に日本に訪れている。毎旬30本以上放送される新作アニメは魅力であったし、それに日本には聖地秋葉原がある。知人の名義でマンションを購入し、滞在中はそこでトレーニングとアニメ視聴を行った。
 引退後は日本に住みたい。というのがウェイン氏の口癖であり、楽観的に見ればその願いはかなり早めに叶ったという事になる。
 しかしウェイン氏の夢は、日本に住むという事だけに留まらなかった。




「分かってるのか? 素人ばっかり集めたって仕方が無いんだぞ」
 登校中、芦屋歩がそう声をかけると、八戸心理は不機嫌そうに答えた。
「そんな事は十分承知だ。だがあのクズ2人もやる気だけはある。もし鍛えてみて、使い物にならなかったら捨てればいいだけの事だ」
 この場合、八戸心理の指す「クズ2人」とは、泉野鏡太郎と前田優人の両名に他ならない。他の部員に比べて経験が浅く、体力の面でまずついていけていない。
「杵原は頑張ってどうにかなる相手じゃないぞ」
「死ぬ気でやらせる。何なら死んでも構わない」
「……2人が聞いたら泣くぞ」
 授業開始まではまだ時間があるものの、八戸心理本人が決めた朝練には遅刻している2人は、足早というよりほとんど駆け足で学校に向かっている。
「試合まであと1ヶ月しかない。本気で勝ちたいならもっと即戦力が必要だろ」
「分かりきった事を言うな。それと、試合までは1ヶ月と1日ある」
「1日で何が出来るって言うんだ? メジャーリーガーの知り合いでも出来るのか?」
 からかい半分の芦屋歩に、八戸心理は憮然と答える。
「可能性はゼロではない」
 ゼロではない。確かに、ゼロではなかった。
 呆れたようにため息をつく芦屋歩を無視し、八戸心理がその角を曲がった時、ちょうど反対側から歩いてきた人物と身体がぶつかった。
 昔の漫画にありがちな、王道中の王道とも言える出会いのパターンだった。
 だがこの時は、八戸心理だけが吹っ飛ばされ、後ろからついてきていた芦屋歩がその身体を受け止める形となった。
「おっと、ゴメンなさい。アー、大丈夫ですか?」
ぶつけられた側の人物は微動だにしておらず、すぐに八戸心理の事を気にかけてきた。
「お前! 私にぶつかっておいてタダで済むと思うなよ」
 衝突して2秒で脅しにかかる八戸心理。
「オー、本当に本当にスミマセン。私、ウェインと言いマス。それじゃ、お礼にコレ、どうぞ」
 と、ウェイン氏が差し出したのは、自身が着ている制服の第二ボタン。
「日本では、好きな人の来ている制服の第二ボタンをあげる習慣がありマス」
 自信たっぷりに言うウェイン氏。
「……何を言っているんだこいつは」
 珍しく困惑する八戸心理だったが、芦屋歩の方はこの時点でうっすらと、目の前にいる人物が何者なのかに気がついた。だが、すぐに信じられる事ではない。
「オー、分からない? ワタシとアナタ、運命ある。なんでか? 角でぶつかった! 高校生の男と女が学校行く途中に角でぶつかる。コレ、運命ネ」
 そう言って豪快に笑うウェイン氏。
 八戸心理が眉をひそめた。

     

 正規野球部、第二野球部、両者それぞれ朝練を終え、1限目が開始する前に、八戸心理のクラス担任から転校生の紹介があった。高校での転校生は珍しいので、それだけ注目が集まるのも自然な事だったが、今回の場合は事前に流れていた噂と、教師が教室に入ってくる前に八戸心理が行ったある「事前工作」から異質な雰囲気が漂っていた。
「えー、それじゃあ転校生のウェイン・プレスコット……君。入ってきなさい」
「ハーイ」
 ドアが開くと、外国人が立っていた。生徒一同はもちろんざわついたが、八戸心理が睨むとすぐに収まった。
「お邪魔しマス」
 と、若干間違っている挨拶を口にして、ウェイン氏が教室に入った。
 その時、ウェイン氏の背が高すぎたのか彼は額をドアの上部にぶつけ、「アイテテテ……」と古風なリアクションを取った。これがウケ狙いだったのか天然だったのかは賛否が分かれる所だが、気の毒にも1つとして笑いは起きなかった。
「……それじゃウェイン君、自己紹介を」
「エー、ワタシ、ウェイン・プレスコットと申しマス。アメリカから来まシタ。見ての通りのガイジンですが、実は忍者デース。シュシュシュ!」
 手裏剣を投げる動作。これでも笑いは1つも起きない。
「ハハ……日本人みんなチョットシャイね」
 見かねた教師が助け舟を出す。
「ウェイン君は、元メジャーリーガーだそうだ。年齢も30歳と、君達よりも人生経験は豊富だ。海外の事とか、野球の事で聞きたい事があったら聞いてみるといいだろう」
「あとアニメとゲームについて語レル人、ゼヒ仲良くなってくだサーイ」
 クラスの一部でざわめきが起きたが、そちらの方を八戸心理が振り向くと、殺されたように黙った。
「……あーまあそういう事だ。何か質問ある奴いるか?」
 と、教師が尋ねたが、誰からも手は挙がらない。
「……え? 誰もないのか?」
 不思議そうに教師が見渡す。
「外国人で30歳の元メジャーリーガーが転校してきたんだぞ。なのに興味なしか? おいおい、どんだけ他人に興味無いんだお前ら」
 教師の疑問も無理はなかったが、これこそが八戸心理の「事前工作」の成果だった。
 転校初日、ウェイン氏の行動が全くウケなかったのは、彼自身のギャグセンスのズレももちろんあるが、それ以上に八戸心理の影響が大きかったと言えるだろう。
 八戸心理の「事前工作」とは、いじめ開始の通達だった。
「これから来る転校生には誰1人関わるな。何を言われてもされても無視しろ。いいな? 関わった奴がいたら私が地の底まで追いかけてやるからな」
 こう八戸心理に言われて、歯向かえる人間は同じクラスにはいない。というより、関わらない方が身の為だという事は周知の事実だった。普段ならここに芦屋歩以外という注釈がつくが、今は彼も八戸心理に仕方なく味方していた。


 転校初日、それも初めて教室に入る前から陰湿ないじめの標的とされたウェイン氏は本当に気の毒で仕方が無いが、仮に八戸心理の工作が無くとも、普通の生徒はそうやすやすと彼には近づけなかっただろう。変わり者という点では八戸心理と何ら遜色なく、当たり前だがガタイが良いので、普通の高校生は一発殴られただけでひとたまりもない。その上言葉が不自由ときている。気さくに話しかけるにはかなりの会話スキルが必要だった。
 とはいえ、ウェイン氏は相当クラスメイトのこの反応に堪えたようだった。一時限の開始前から周りの席の生徒に対し、手当たり次第に話しかけスパムを行ったが、誰も反応を示さない。おどけて見せても、誰でも答えられる質問をしても、今日の天気の話を振っても無視される。その様子を見てほくそ笑む八戸心理。
 朝、ウェイン氏と運命の出会い(ウェイン氏談)を果たしてから、八戸心理は芦屋歩に流れている噂の委細を聞いた。元メジャーリーガーが、アニメにどハマりしてオタクになり、全てを捨てて日本に来た。しかもあろう事か本人は日本での学校生活に憧れており、高校に入学したがっている。そしてその高校に選ばれたのが、芹高らしい。
「どうしてその馬鹿外人は高校生になりたがったんだ? アニメでもラノベでも何でも見て、好きなだけマスかいてればいいだろ」
「お前よくそんな平気でオタを敵に回すような事言うよな。……まあそりゃあれだろ? 大体そういうアニメとかゲームって高校が舞台なんだよ。取材が必要無くて、男女が一緒にいて、若い。大抵の奴は高校に通った経験があるし勝手が分かってる、と」
「詳しいな、お前もオタク野郎だったのか?」
「あくまでも一般論な」
「死ね。よし、こうしよう。まずはそのウェインとか言う奴をクラスで孤立させて、そこに漬け込む。友達になろうってな。で、チームに引き入れる。ほら見ろ即戦力の完成だ」
「孤立させるったって、一体どうやって?」
「クラスのボンクラ共に命令して無視させればいい。それにこの方法なら本物の野球部の奴らにウェインを盗られる心配もない。野球部にとっても即戦力だろうからな」
「お前天才だな。人の心を平気で踏みにじる天才だ」
 という流れで決まった作戦だったが、これは八戸心理自身が考えていたよりもうまくいった。昼休みに入った頃にはウェイン氏は理想と現実の壁に押しつぶされそうになり、体躯も一回り小さくなったように見えた。誰も昼食を共にしてくれなければ、目すら合わそうとしない。夢にまで見た二次元の世界は、1つ上の次元によって厚みもないくらいに押しつぶされてしまった。
「ようウェイン、元気なさそうだな」
 唐突に、芦屋歩が話しかけた。ウェイン氏の机の前の椅子の背もたれに腕を掛けて座り、わざとらしいくらいに慣れ慣れしく。それでもウェイン氏にとっては砂漠の水だった。
「オー! 朝に会いましたネ! 名前何です? アシヤ? アユム? オオ、アユムと呼んでいいデスカ? ワタシ、ウェイン。よろしくネ。何、これからゴハン? 一緒に食べようヨ、アユム。ワタシ達友達。ちなみに女の子の番号とワタシの噂について何か知っテル?」
 決壊したダムのように喋りまくるウェイン氏に、やや引き気味の芦屋歩。視線で助けを求めると、真打が登場した。
「ウェイン。先ほどはすまなかったな」
 八戸心理の顔を見るやいなや、ウェイン氏はそっぽを向く。
「すまなかったと言っているだろう。機嫌を直せ」
「初メテの人相手に、あそこまでF爆弾を連発スル娘はアメリカでもなかなかいませんヨ」
「そう言うなよ、ウェイン。3人で友達になろうじゃないか」と、芦屋歩が親身に言うと、ウェイン氏も少しだけ態度を改めた。しばらく2人の顔を交互に見て尋ねる。
「ところで2人は恋人カ?」
「断じて違う」
 と、2人の声が重なった。


 そのまま3人は部室に移動して昼食を共にした。会話は常にウェイン氏のちょっとズレたボケに芦屋歩がぎこちなく相槌を打ち、八戸心理が録音した笑い声を足すという形式で進んでいったが、それでもウェイン氏は日本の学校での昼休みの過ごし方として十分に満足したようだった。親睦が深まった頃合を見計らい、八戸心理が合図を出して、芦屋歩が尋ねた。
「ところでウェイン。部活は何に入るか決めているのか?」
「オー、もちろんヨ。ワタシ、MLBで野球やっていた、元プロ。コッチでも野球やるのは当然ネ。野球大好き、高校を卒業したら日本でプロになるネ」
 順序がごちゃごちゃになったような経歴になるが、そんな事はまるで意に介していないようだった。
「ちょうど良かったなウェイン。ワタシは野球部のマネージャー件部長だ」と、八戸心理が宣言する。
「そう。で、俺がピッチャー。一応エースって事になってる」と、芦屋歩が乗っかる。
「オー! 本当ニ!?」
「もちろん」
 第二野球部も野球部の一種であるのなら嘘ではないのかもしれない。
 何もかもが順調に進んでいるようだったが、ここに来て問題が発生した。
「それはチョウド良かった。デハ早速監督に挨拶しに行ってきマス」
「あ……いや、ウェイン。ちょっとそれは困る」
 当然、第二野球部に監督はいない。そして正規野球部の桐藤監督は第二野球部の存在すらこの段階ではまだ知らない。ウェイン氏の提案は、八戸心理にとっては致命傷だった。
「監督はちょうど出張で今いないんだ」と、八戸心理の嘘。
「オー、イツ戻ってくる?」
「そうだな……1ヶ月、くらい先かな」試合にさえ持ち込めばこっちの物だと言わんばかりの横柄さだが、結果的にはそれがとどめとなった。
「……嘘ネ。昨日ワタシ連絡した。今日会う約束モしてる」
「何だと?」
 八戸心理は思わず立ち上がった。今までしていた不自然な愛想笑いすら捨て去り、ウェイン氏を睨みつける。
「お前、桐藤監督と知り合いなのか?」
「フム? だからワタシ芹高キタ。チームに入れてクレルと聞いた」
 この発言を聞いてからの八戸心理の台詞は、最早発禁レベルで酷かった。ウェイン氏曰く、FやらSやらCやら、ありったけの知識を駆使して罵倒してきた挙句、中指まで立てた。海外なら殺されても文句は言えないが、ウェイン氏はアニメ以外の事では温厚なので仕方なく許したという。
 しかし八戸心理からしてみれば、全く溜まった物ではなかったはずだ。妥当正規野球部の即戦力が、既に予約済みだったのだから。

     

 最終的にウェイン氏が第二野球部のチームに加わっている以上、これしきの事で諦める八戸心理ではなかったという事ではあるのだが、今回は脅迫も使わなかったし、その他の犯罪行為に手を染める事もなかった。割合平和的な解決手段だったと言う事は先に断っておこう。
 そうなった理由を説明するにはまず、そもそもウェイン氏が日本に来たのは、芹高正規野球部の桐藤監督と知り合いであったという事実を語らなければなるまい。他人の血縁関係についてをここに書くのはいささかマナー違反であるようにも思えるので、少しばかり事実と変えさせてもらうが、ウェイン氏の妹の夫の叔父の妻の双子の姉が桐藤監督の妻にあたる人なのだそうだ。一流のメジャーリーガーと甲子園の常連優勝高の監督にも繋がりがあるというのはスモールワールド現象と言う他にないが、ウェイン氏は日本に訪れた際、必ず桐藤監督の家に寄り挨拶をする建前上の理由はこれであるし、先に書いた滞在中のマンションの名義人というのは、桐藤監督本人である。
 ウェイン氏の主張によれば、日本滞在中だった昨年の正月、酒の席にてウェイン氏はこう提案した。
「もしもメジャーを引退する事になったら、芹高のチームに『選手として』入れてもらえますか?」
 これに桐藤監督はYesと答えた。
 が、桐藤監督の主張によれば、ウェイン氏の提案はこうだったと言う。
「もしもメジャーを引退する事になったら、芹高のチームに『コーチとして』入れてもらえますか?」 メジャーで年間150以上ヒットを打つウェイン氏が打撃コーチとして加わればチームは更に強くなる。もちろん答えはYesだった。
 そしてウェイン氏が来日し、桐藤監督に入部届けを持っていった際にこの行き違いが発覚した。ウェイン氏は酒の席とはいえ約束した以上チームに入れてもらいたいと訴えたが、まさか30歳で高校に入学してまで甲子園を目指すとは常識的に考えられないとして桐藤監督はこれを退けた。コーチとしてならば迎え入れる準備はあるとも言ったが、ウェイン氏は拒否した。
 こうなるとウェイン氏も気の毒ではあるが、口約束は口約束である。契約社会のアメリカにおいてはあってはならないミスだが、日本のなあなあ文化に少し毒され過ぎたとも解釈出来る。しかし桐藤監督の立場にとってみれば、ウェイン氏を選手として受け入れるのはリスクがありすぎる。仮にウェイン氏を芹高野球部レギュラーに据えて甲子園を制覇しても、マスコミからの非難は必至であるし、他のチームメイトへの影響も良いはずがなく、そもそも高野連は選手としての出場に年齢制限を設けている。桐藤監督にとってみれば芹高野球部は人生その物であり、例え遠い親戚といえど、その聖域を侵すのであれば毅然とした態度をとるのは当然の事だった。
 途方に暮れるウェイン氏に、そっと悪魔が近づいた。
 職員室でのやりとりをきっちり盗み見ていた八戸心理である。
「ウェイン。第二野球部にならお前の空きがあるぞ」
 という流れでウェイン氏は第二野球部に入部した。
 ……と、なるほどウェイン氏も安易ではない。
 何せ転校初日だけで八戸心理がウェイン氏に浴びせたFワードは延べ50回以上。これで信頼関係が築けていると思っていた八戸心理の方が珍妙だ。


 とはいえ、そろそろウェイン氏入部の決め手となった話をしなければならないだろう。
 ウェイン氏が正規野球部の入部を諦め、それでも第二野球部に入部する事を拒否し、アメリカに帰国すると言い出すと、流石の八戸心理もお手上げ状態だった。ウェイン氏の血縁関係をあたり、人質にとれそうな者がいないかチェックしていたという芦屋歩の証言はおそらく事実だろう。しかしウェイン氏が日本に持ち込んだ物といえば、大量のアニメグッズくらいの物だった。
 ウェイン氏がオタクである事は既に周知の事実であって、これは弱みにならず、辻堂兄妹や前田優人の時のような脅迫は使えない。そしてウェイン氏は八戸心理のすぐ豹変する性格に辟易としていたし、泉野鏡太郎の時のように楽にはいかない。また、ウェイン氏はドーピングを嫌っている上、使いたいと思えば本国に専門のトレーナーがいるので久我修也とした取引も出来ない。内海立松のように恩義を作った訳でもなく、賀来啓のように扱いやすい人間ではない。
 つまり八方塞りだった。これまで使ってきたあらゆる手が、ウェイン氏には通用しなかった。
 だがもしもウェイン氏を獲得出来れば、間違いなく最強の戦力となる。
 あの規格外の超高校生、杵原良治を攻略するのにこれ以上ない程に頼れる人物であるし、もしかすると初めて杵原良治に敗北を与える人間となるかもしれない。
 八戸心理は考えた。犯罪的手段はもちろんの事、自身に前科がつく事も承知の上で、あらゆる犠牲を払ってでもウェイン氏を獲得したかった。
 だがその手が思いつかない。


「おいおい、なんだいそのオーラ。人でも殺す気かい?」
 それでウェインが仲間になるのなら、と八戸心理は答えかけたが、その声の主に気づいてむすっと黙った。
 飄々とした立ち振る舞いに、張り付いたような笑顔。八戸心理による賀来啓強奪作戦を阻止したが、結局部長の方を篭絡した事によってその功績もおじゃんにされた男がそこにいた。設楽寿々芳。正規野球部1番ショートである。
「あ、知らなかった? ここ僕の実家の道場なんだよ」
 設楽寿々芳が出てきたのは古武術の道場だった。古めかしい門構えに、表札には設楽とあり、その上には「設楽流古武道」と達筆の大きな看板もある。
「学校への方角が一緒だから、時々君を見かける事もあったんだけど、話しかけたのはこれが初めてだね」
「失せろ。話しかけるな」と、初めて返事をする八戸心理。
「いいじゃないかちょっとくらい。1ヵ月後には試合をする仲じゃないか」
 設楽寿々芳がご機嫌だったのは、ウェイン氏の事情と、それにまつわる八戸心理とのやり取りを噂に聞いたからだった。
「しかし危なかったよ。ウェイン・プレスコットがそちらのチームに加わったとなれば、流石の良治も分からなかった。とはいえ、明日にはアメリカに帰るというからこちらとしては一安心だけど。八戸さんとしては残念だったね」
 この挑発には八戸心理でなかったといえどもキレていてもおかしくはない。が、目の前の男は仮に反撃をしてきても一撃の下に叩き伏せる事が出来るのを知っていてやっているのだからタチが悪かった。更に言えば、今は八戸心理が杵原良治への復讐に夢中で、他には興味が無いという事も計算ずくだ。
「彼氏の方も良かったんじゃないか?」と、急に話を振られる芦屋歩。「いや、俺は別に彼氏じゃ……」と否定するも、設楽寿々芳は相手にしない。
「だって八戸さんは試合で1番活躍した選手の物になるんだろ? そこにメジャーリーガーが加わったら彼氏としては気が気じゃないだろう」
 久我修也との契約がどこでどう湾曲されて伝わったのか、芦屋歩も途方に暮れる。
「いずれにせよウェイン氏は今日で最後らしいからさ、迷惑かけたならお礼に何かあげなよ。記念にもなるしさ。あ、そうだ。お弁当なんかいいんじゃないか? 彼、確かオタクなんだろう? ふふふ」
 余裕の設楽寿々芳。
「じゃ、僕は先に行ってるよ」
 走り出す設楽寿々芳の背中を見ながら、八戸心理が不吉に笑った。


 昼休み、再びウェイン氏は八戸心理に拉致されて部室まで来ていた。当然拒否はしたものの、芦屋歩の顔を立てるという日本人より日本人らしい義理立ての為だった。
「八戸サーン、アナタもう少しレディーとしての心構えを学ぶべきデス」
 愚痴りつつ、弁当を取り出すウェイン氏。八戸心理がそれを止める。
「それなら、お前に会わせたい奴が1人いる」
 胸を張った八戸心理がドアを開くと、そこに1人の少女が立っていた。
「も……萌え萌え~……にゃん♪」
 辻堂兄妹の妹、辻堂朝乃である。
 朝、学校をサボって八戸心理が買いに行ったのはメイド服と、猫耳と、ニーソックスだった。それらのチョイスはいかにもだったが、ウェイン氏のツボにはハマった。
「オオーー!! かわいい!」
 普段は快活で男勝りなイメージのある辻堂朝乃も、これらオタク受け要素をふんだんに取り入れた格好をさせられると形無しとなった。むしろ凛とした面持ちがたどたどしくほぐれ、可憐にも見えた。
「朝乃先輩はともかく、よく夜次さんが了承したな」と芦屋歩がこっそり呟くと、「内緒に決まってるだろ。2年の授業中に八戸が突然乱入してきたらしいぞ」と内海立松が答えた。
「私がよく行くメイド喫茶でもコンナにかわいい娘いないヨ。記念写真いいデスか?」
「そ、その前に、私からご主人様にプレゼントがある……にゃん」
 八戸心理に強制された語尾を崩さず、笑顔もキープし続ける辻堂朝乃。
「ワット? 何デスか?」
 取り出したのは、お弁当箱だった。
「私の手作りだにゃん。ぜひご主人様に食べて欲しい……にゃん♪」
 辻堂朝乃がここまでするのにはもちろん訳がある。が、ここではそれは割愛しておく。
 これには流石のウェイン氏もぐらついた。三次元に興味を無くしたとはいえ、目の前にいるのはむしろどちらかといえば二次元に近いくらいの理想の少女だった。圧倒的に媚びているものの、無理にやらされてる感が微妙に微笑ましかった、とはもちろんウェイン氏の言である。
「どうだ? 入る気になったか?」
 うーん、と唸り始めたウェイン氏に、とどめを刺すように八戸心理が付け加える。
「もしもうちの部に入ったら、これから試合まで毎日お前だけに朝乃先輩が弁当を作ってくるそうだ」
「入りマス」
 後にウェイン氏はこう語っている。
 アニメの女の子が毎日無償で弁当を提供するのは日本の誇る伝統であり、主人公の特権である。それをちらつかされて黙っていられる男はいない。理由なく好意を寄せる少女。にも関わらず鈍感な男。剣と魔法よりもファンタジーな世界観がそこにはある。

       

表紙

和田 駄々 先生に励ましのお便りを送ろう!!

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