ウェイン氏の加入により、これで芹高第二野球部のメンバーは全員揃った事になるが、1つ宙ぶらりんになったままの問題を解決しなければならないだろう。辻堂夜次の妹であり、最終的にウェイン氏獲得の鍵となった辻堂朝乃元マネージャーの処遇についてである。
辻堂夜次対芦屋歩の変則3打席勝負は、卑怯な手ではあったものの八戸心理側の勝利となった。その際、八戸心理がつきつけた条件は、あくまでも「入部」であり、2人の正式なメンバー採用ではない。とはいえ夜次に関しては、元陸上部員の足に対する評価と運動神経、人員不足から考えてもレギュラーは妥当であるが、朝乃は何と言ってもやはり女子であり、同じ女子として八戸心理がその体力に不信を覚えるのは仕方ない面もある。
しかしながら、朝乃には野球経験があり、学年女子内で言えばトップクラスに運動神経が良い。ウェイン氏以外の外野2人よりもこの段階での能力は高かったと見てまず間違いはないだろう。更に本人は心から野球をやりたがっており、ましてや対戦相手がこれまでマネージャーを務めていた正規野球部のメンバーともなれば、力を試したいという想いもある。八戸心理とはベクトルが違えど、いわゆる世間の一般常識とは離れた思考を持ち、実の兄と一線を越えてしまう人間ではある為、1度滾らせてしまった情熱には歯止めがきかない。
辻堂夜次が生まれて初めて野球の練習を始めてから、朝乃もそれに倣って似たメニューをこなしている。が、八戸心理から直接メンバーとして採用するという通告はまだ受けておらず、むしろマネージャーとしての雑用を命じられる時まである。そんな時に、レギュラーという餌を前にぶら下げられれば、直情型の辻堂朝乃はどんな事でもしてしまうという結果がもたらされる。
既に勘の良い方ならお気づきかもしれないが、ウェイン氏獲得の際、辻堂朝乃に似合わないコスプレまでさせて弁当までこしらえさせたのはこの餌による釣りあげが成功したという事に他ならない。しかしこの取引は、第二野球部にとってみれば貴重な即戦力を確保し、辻堂朝乃は大好きな野球が再び出来るという、八戸心理の提案にしては珍しく両者共が得をする取引だったという事になる。ただし、辻堂朝乃のコスプレが辻堂夜次にバレなければという条件付きではあるが。
かくして、野球をするのに必要な9人のチームがここに完成した。6本指のピッチャーと、落語家を目指すキャッチャーと、感動屋のスラッガーと、秘密を共有する双子の兄妹と、運動神経信者の悪童と、ヒーローを信じる半病人と、実在を求める哲学者と、元メジャーリーガーの30歳高校生と、そして勝つためには手段を選ばないマネージャー。最初に述べた通りの形となった訳だ。
八戸心理が、部室のホワイトボードに名前と対応する直筆のイラストを貼り付けて並べ、腕を組む。
「良く揃ったもんだ」
と、隣で見ていた芦屋歩が呟いた。
「9人揃えるだけなら誰でも出来る。問題はこのボンクラ共でどうやってあのカタワ野郎に勝つかだ」
「誰でも出来る……ねえ。あの野球部と野球で勝負すると知ってて参加する奴を9人揃えるなんて俺には神業としか思えんよ」
芦屋歩が達成感を覚えるのは無理もない話だ。芹高での野球部の地位は、前にも述べた通りの最上位であり、芹高の象徴でもある。
「勝つ事だけを考えろ」
しかし八戸心理には一片の余裕も無い。
「へいへい、じゃあ練習してきますよ」
「待て、歩。率直な意見を聞かせろ。今の所、お前の見立てでは勝率はどれくらいだ?」
八戸心理式、人への物の頼み方の中でもかなり下手に出ている方ではある。芦屋歩はその必死さに思わず笑いそうになったが咳払いで誤魔化し、並んでホワイトボードを見つめる。
「打線に関しては、まず賀来先輩と久我先輩とウェインさんの3人が主力になるだろうな。クリンナップもこの3人でほぼ決定だろう。だけど下位打線がちょっと……な」
「使えないゴミばかりだからな」
八戸心理は誰に聞かれようと憚らずに言う。
「……まあ否定は出来ないが、声のボリュームは落とせよ。泉野先輩と前田先輩がどこまで成長してくれるかが鍵だな。でも、お前は伸びると信じてるんだろ?」
「伸びてもらわなくては困るだけだ」
「そういう信頼の形もあるさ」
言った後のしたり顔に、「気持ちが悪い」と一蹴が入る。
「全くの未知数なのは夜次先輩と朝乃先輩だな。夜次先輩の足はあの野球部に通用するのか、朝乃先輩もやる気は満々だけど……女子だからな」
「だから何だ?」
「……いや、失言だ忘れてくれ。野球さえ上手けりゃ性別は関係ないな」
「試合まであと1ヶ月、こいつらが最大限成長したとしたと仮定して、私達が勝てる確率は何パーセントある?」
八戸心理の質問に、しばらく考えた後、芦屋歩が答えた。
「1%って所かな」
「ふざけるな」
手を振りかぶり、ビンタのモーションまで入ったが、今回それは炸裂しなかった。その代わりに、鋭い睨みを芦屋歩にぶつけ、答えを迫る。
「……理由を聞かせろ」
「いいか? 野球ってのはチームでやるスポーツだ。チームの団結が重要な場面がいくらでもある。そんな事くらいは分かるだろ?」
「……まあな」
第二野球部結成の日、ピッチャーが全て三振させてバッターが1本ホームランを打てば勝ちと言い切っていた頃の八戸心理に比べれば、チームプレイの重要性を認めただけでもかなりの成長ではあるが、心からの納得はいっていない様子。
「相手の野球部はその点で完璧だ。毎日の練習を共にして、お互いがお互いの実力を知っていて、何度も試合をこなしているから、既に本物の信頼関係が出来上がっている。即席のチームで個人技がいくら強くても必ずどこかでボロが出る。それに……」
「それに、何だ?」
芦屋歩がその時口に出そうとした名前を八戸心理は知っていた。知っていてもなお尋ねる。
「杵原良治がいる」
胸倉にかかっていた手が外れ、解放された芦屋歩は続ける。
「あいつは本物の天才だぞ。偽物じゃ勝てない」
「そんな事は……分かっている」
その才能の輝きに触れて、かつて八戸心理には存在しないかと思われていた恋心が芽生えたのだから、今更確認するまでもない。
「杵原良治に対抗するには、こっちにも相手並かそれ以上のチームワークが必要になる。実力を高めて信頼関係を作り、実戦をこなして連携プレイの練習をするんだ。仲間になるしかない」
「莫逆と言え」
八戸心理の突然の発言に、芦屋歩が疑問符を浮かべる。
「何だって?」
「莫逆だ」
莫逆。互いに逆らう事のない関係を意味し、一般的には仲の良さを表す言葉だが、八戸心理にとってみれば自分に逆らわない人間こそが唯一心の許せる存在であるとも解釈出来る。
「私は仲間だとか友達だとかチームワークだとか信頼だとか連携だとか団結だとかいう言葉は大っ嫌いだが、唯一この言葉だけは認めている。この言葉には力がある。莫逆ならば使う事を許してやる」
「……妙なこだわりだな。でも、気に入ったよ」
ここに1つの莫逆が成立する。
「で、その莫逆の為にまずは何をする?」
「練習試合だ」
この八戸心理の発想は悪くはない。今抱えている問題を明確にする為にまず実戦をこなしてみるというのは手だ。
「相手にあてはあるのか?」
「ない。今から見つけてくる」
と、八戸心理が部室を飛び出し、その日の夕方に見つけて帰ってきたのは近くにある商店街の野球チームだった。しかしまだこの時点において、八戸心理はその商店街チームに杵原良治の父が所属している事を知らずに試合の予定を組んでいた。
芹高第二野球部の莫逆
莫逆
芹名ニコニコ商店街の草野球チーム「芹名アンダーカバーズ」は芹高正規野球部ほどではないにしろ、そこそこ歴史のあるチームである。
そもそも芹名ニコニコ商店街(旧名・芹名横丁)は、古くから地元民に愛され、また数多の野球選手を育ててきたと言っても過言ではない由緒正しき商店街でもある。芹高出身のプロ選手は、必ず1度は精肉店「むらまさ」の玉コロッケを口にした事があるし、スポーツ用品店「アルプス」でグローブやバットを買った事がある。
こう断言する理由は、何もこの商店街がただ芹高から1番近くにあるという理由だけではない。いくら名門といえども、卒業生全てがプロになれる訳でもなく、抜群のセンスを持っていたとしても、怪我、不運、跡継ぎ問題などで夢を諦めた名無しの名選手達はいくらでもいる。
何も野球だけが人生ではない。そしてもちろん地理的必然や、あるいは思春期における出会いという影響は大きく、単刀直入に言えば、この商店街には芹高野球部のOB達が何人も店を構えているのである。
無論、商店街に関わる人間が全員そうという訳ではないが、少なくとも芹名アンダーカバーズを構成する50名余りのOB達は漏れなく芹高野球部の伝統のしごきを3年間耐え抜き、甲子園の土を踏んできた猛者達である。現在進行形で芹高に息子や娘を通わせている父兄も多く、その関係性はまさに密着している。
草野球チームにも関わらず1軍2軍が存在し、草野球の関東大会でも毎年好成績を残し、何年か前にはトライアウトからのプロも排出した「芹名アンダーカバーズ」が、第二野球部の練習試合の相手にとって最適であると八戸心理が判断した事自体はある意味で正しい。
ただし、その交渉手段には若干の問題があった事は否めない。
「なぁに、どうせプロにすらなれなかった中途半端なじじい共だ。軽くのしてやればいい」
大言壮語の八戸心理に、芦屋歩はいつものように不安を覚える。
「そうは言ってもな、相手は実質芹高のOB連中だぞ。即席チームで簡単に行くとは思えんが……」
「やる前から弱気になってどうする? 貴様は腰抜けか?」
悪くなりつつある空気をつぶさに察知し、内海立松が呟く。
「それにしても良くOKしてくれたね。しかも今週の日曜なんてあと3日だし。予定が空いていて助かったね」
「予定はあったらしいが、私が取り消させた」
「ああそう。やっぱりね」
ここまで来れば芦屋歩も気づく。いつものパターンという物に。
「まさかお前、また何か弱みを握って商店街の人を脅したのか?」
「そんな悪どい真似をするか」
「するよ」
「するじゃないか」
「するだろ」
と、部室の隅でひたすら無言で筋トレしていた久我修也も乗っかった。八戸心理はやや不服な表情で大衆の意見を棄却する。
「する訳がないだろう。今回はただ、予定していた別の草野球チームとの試合をキャンセルしてもらう代わりに、交換条件を提示させてもらったまでだ」
「交換条件?」
「ああ、簡単な事だ。もしも我々が試合に負けたら、1ヶ月チーム全員で商店街でタダ働きをすると約束した」
『何だって?』
久我修也以外の2つの声が重なった。
「おいおいおいおい、1ヶ月のタダ働き? 本番までずっとじゃないか。練習時間はどうなる」
芦屋歩の詰問に、八戸心理は相手の胸倉を掴んで睨みつけるという礼儀作法で持って答える。
「もう1度訊かせてもらうぞ。貴様は腰抜けか? 『負けたら』と言っているだろうが。負けさえしなければ何の問題もない。それとも何か? お前はもう引退したクソじじい共相手にすら勝たずに、あのかたわのチームを倒そうと思っていたというのか? 答えろ」
「ちょ、ちょっと落ち着きなよ2人共」
内海立松に促され、拘束が解かれる。芦屋歩は襟を正し、ふう、とため息をついてから諦めの言葉を口にした。
「……ああ、分かりましたよ。勝てばいいんだ勝てば。マネージャー様の仰る通り。俺達はどの道勝つしかない」
かくして、試合は両者同意の上で本決まりとなり、いよいよ日曜日がやってきた。
芹名アンダーカバーズの平均年齢は約36歳。第二野球部の約18歳(ウェイン氏が若干引き上げてはいる)と比べれば実に2倍の年の差がある訳だが、体力差以上に経験差はある。また、第二野球部がつい2、3日前に出来上がった即席チームであるのに対し、芹名アンダーカバーズには10年来の選手が何人もいる。1番の課題である莫逆については、何をか言わんやといった所だ。
八戸心理との交渉にあたった、芹名アンダーカバーズ主将兼芹名ニコニコ商店会々長の武藤氏は私の取材に対してこう語ってくれた。
「最初は何を言われてるのかさっぱり分かりませんでしたね。第二野球部の存在自体を初めて知りましたし、何故勝負を挑まれているのかも分からなかった。当然断りましたよ。でもこの時期は商店街の方も祭りの準備やら盆休みに向けての調整で忙しいですし、無償労働というのは正直魅力的だった。チームの皆さんにも相談した結果、受ける事にしたんです。まあそれに、趣味でやってる草野球とはいえ、僕らにもプライドというのがある。若造の挑発に怖気づいているようでは、商売人としても舐められますしね」
勝つ自信は99%あった。と、武藤氏は言ったが、当日両メンバーが揃うと、その自信は半分ほどまで落ちたとも言う。
何より最初に目を引いたのは、元メジャーリーガーのウェイン氏だった。野球が趣味の男達がその名を知らないはずがなく、サインを求める姿もあったらしい。それから芦屋歩はリトルリーグで活躍している姿を何人かが覚えており、久我修也もその悪名と合わせて他の競技での結果を知っている人も多かった。
一方で芹名アンダーカバーズの方も、ピッチャーは過去に芹高を優勝に導いた経験のある沼田氏や、主砲である4番には元プロで怪我を原因に引退した佐々木氏もいた。他レギュラーも当然のように甲子園の経験がある。一般的な草野球チームレベルからすれば、これは随分と豪華な面子である。
この練習試合に関しては、私も実際に見た訳ではなく、試合記録は八戸心理の手にあり、即ち入手不可能であった為、参加者の記憶を頼りに書き起こすしか手段がないのが現実だ。これに関しては仕方が無く、また、重要ではあるものの本題ではない試合なのでどうかご容赦願いたい。
立ち上がり、芦屋歩はほとんど得意の変化球を使わずに、持ち前のコントロールのみで三振を奪っていった。6本指からなる変幻自在のピッチングが彼の売りである事は試合前から敵チームには伝わっていたので、最初は球を良く見てくるはずだという判断が彼と、彼のリードをする内海立松の中にあり、これは見事に的中した。例え球速がそこまで出ておらず、目が簡単に球を捕えていたとしても、手を出させない戦略。球の変化を見極めてから勝つべきだというバッターの判断は、結果からすれば間違っていた。何故なら、3回の表から少しずつ見せ始めた芦屋歩のアンセムボールは、ゲームセットの瞬間まで完璧に読みきる事など出来なかったからである。
バッティングの面で言えば、久我修也、ウェイン氏、賀来啓の3本柱の存在がやはり大きかった。ウェイン氏に関しては言わずもがなだが、久我修也のセンスはやはりずば抜けた物があり、野球に関してはほとんどこれが初めての実戦経験であったにも関わらず、持ち前のパワーで当てれば必ず長打に持っていった。賀来啓は訳も分からず呼ばれた試合であるにも関わらず、試合前に「うちは貧乏で妹にランドセルを買ってやれない。この試合でもしも勝てれば商店街の人たちからプレゼントしてもらえる」という八戸心理(末っ子)から吹聴されてやる気は満々であったので、打点5をあげる活躍を見せた。
一方、守備の面ではやはり粗が目立った。何せ外野のレフトとライトがほとんど素人の為、外野まで球を運ばれると半自動的にエラーとなり、それでランニングホームランまで成立する場面もあったという。内野はショートの辻堂夜次が穴だったが、辻堂朝乃がイニング毎に指示を出し、その度に見る見る改善していった。更に言えば、そもそも芦屋歩の球を打ち分ける事が難しい為、穴だと分かっていてもそこを突く事は出来ず、大量失点には繋がらなかった。
この試合によって明確になったのは、芹高第二野球部はかなりオフェンシブなチームであるという事だ。打者の面子が、という意味だけではなく、精神的にもそうといえる。1点取られても、2点3点と取り返すという意識を全員が持っており、これはまさにマネージャーである八戸心理の持つ性格をそのまま受け継ぎ、共有している。
特に1番辻堂夜次から続く、2番芦屋歩、3番久我修也、4番ウェイン氏、5番賀来啓という流れがピッチャーに与えるストレスはなかなかに無視できない物があったようで、それが下位打線においても有効に働く場面は多かった。女子と見て手を抜けば辻堂朝乃がその隙をつき、走者を出せば打順が一巡するという状況がコントロールを乱して四球を呼ぶ最悪の流れだ。
攻撃に特化している反動故か、守りに関してはその分甘い。やはり未経験者勢のプレーはたどたどしい所があり、何かミスをする度に八戸心理がプレッシャーを与え、ついには泉野鏡太郎の土下座が飛び出したが、鬼マネージャーからの許しの言葉は出ず、練習メニューの追加は決定事項となった。
試合結果は、11-6で芹高第二野球部の勝利となった。
露骨な敬遠策などは取らずに、最後まで正々堂々と戦った芹名アンダーカバーズもよくやったと私は褒めたい所だが、最後はやはり若さとセンスが差を分けたようだ。
しかしこの試合で注目すべきはむしろ、第二野球部の勝利がほぼ確実となった、9回裏、2アウトランナー無しという場面での事だ。芹名アンダーカバーズ側にちょっとした異変が起きた。既に諦めムードだったベンチから、代打の宣言が出た。バッターボックスに立ったのは、チーム内でもわりとご高齢の、中年というよりむしろ老年に近い58歳、定年間際の会社員だった。特別に肉体を鍛えているという訳でもないらしく、細い腕に腹の肉だけがついた、見るからに非スポーツマン体型である。
しかしまだ泥のついていないユニフォームに書かれた名前は「杵原」とある。
彼こそが、杵原良治の父親である、杵原辰巳(きねはら たつみ)氏だった。
打席の結果は見事なまでの空振り三振。ゲームセット。
挨拶を済ませた後、ベンチに帰って落胆する杵原氏に声をかける者がいた。
「失礼します。お宅の息子さんにフラれた者です」
八戸心理にしては珍しく、真っ向勝負だった。
そもそも芹名ニコニコ商店街(旧名・芹名横丁)は、古くから地元民に愛され、また数多の野球選手を育ててきたと言っても過言ではない由緒正しき商店街でもある。芹高出身のプロ選手は、必ず1度は精肉店「むらまさ」の玉コロッケを口にした事があるし、スポーツ用品店「アルプス」でグローブやバットを買った事がある。
こう断言する理由は、何もこの商店街がただ芹高から1番近くにあるという理由だけではない。いくら名門といえども、卒業生全てがプロになれる訳でもなく、抜群のセンスを持っていたとしても、怪我、不運、跡継ぎ問題などで夢を諦めた名無しの名選手達はいくらでもいる。
何も野球だけが人生ではない。そしてもちろん地理的必然や、あるいは思春期における出会いという影響は大きく、単刀直入に言えば、この商店街には芹高野球部のOB達が何人も店を構えているのである。
無論、商店街に関わる人間が全員そうという訳ではないが、少なくとも芹名アンダーカバーズを構成する50名余りのOB達は漏れなく芹高野球部の伝統のしごきを3年間耐え抜き、甲子園の土を踏んできた猛者達である。現在進行形で芹高に息子や娘を通わせている父兄も多く、その関係性はまさに密着している。
草野球チームにも関わらず1軍2軍が存在し、草野球の関東大会でも毎年好成績を残し、何年か前にはトライアウトからのプロも排出した「芹名アンダーカバーズ」が、第二野球部の練習試合の相手にとって最適であると八戸心理が判断した事自体はある意味で正しい。
ただし、その交渉手段には若干の問題があった事は否めない。
「なぁに、どうせプロにすらなれなかった中途半端なじじい共だ。軽くのしてやればいい」
大言壮語の八戸心理に、芦屋歩はいつものように不安を覚える。
「そうは言ってもな、相手は実質芹高のOB連中だぞ。即席チームで簡単に行くとは思えんが……」
「やる前から弱気になってどうする? 貴様は腰抜けか?」
悪くなりつつある空気をつぶさに察知し、内海立松が呟く。
「それにしても良くOKしてくれたね。しかも今週の日曜なんてあと3日だし。予定が空いていて助かったね」
「予定はあったらしいが、私が取り消させた」
「ああそう。やっぱりね」
ここまで来れば芦屋歩も気づく。いつものパターンという物に。
「まさかお前、また何か弱みを握って商店街の人を脅したのか?」
「そんな悪どい真似をするか」
「するよ」
「するじゃないか」
「するだろ」
と、部室の隅でひたすら無言で筋トレしていた久我修也も乗っかった。八戸心理はやや不服な表情で大衆の意見を棄却する。
「する訳がないだろう。今回はただ、予定していた別の草野球チームとの試合をキャンセルしてもらう代わりに、交換条件を提示させてもらったまでだ」
「交換条件?」
「ああ、簡単な事だ。もしも我々が試合に負けたら、1ヶ月チーム全員で商店街でタダ働きをすると約束した」
『何だって?』
久我修也以外の2つの声が重なった。
「おいおいおいおい、1ヶ月のタダ働き? 本番までずっとじゃないか。練習時間はどうなる」
芦屋歩の詰問に、八戸心理は相手の胸倉を掴んで睨みつけるという礼儀作法で持って答える。
「もう1度訊かせてもらうぞ。貴様は腰抜けか? 『負けたら』と言っているだろうが。負けさえしなければ何の問題もない。それとも何か? お前はもう引退したクソじじい共相手にすら勝たずに、あのかたわのチームを倒そうと思っていたというのか? 答えろ」
「ちょ、ちょっと落ち着きなよ2人共」
内海立松に促され、拘束が解かれる。芦屋歩は襟を正し、ふう、とため息をついてから諦めの言葉を口にした。
「……ああ、分かりましたよ。勝てばいいんだ勝てば。マネージャー様の仰る通り。俺達はどの道勝つしかない」
かくして、試合は両者同意の上で本決まりとなり、いよいよ日曜日がやってきた。
芹名アンダーカバーズの平均年齢は約36歳。第二野球部の約18歳(ウェイン氏が若干引き上げてはいる)と比べれば実に2倍の年の差がある訳だが、体力差以上に経験差はある。また、第二野球部がつい2、3日前に出来上がった即席チームであるのに対し、芹名アンダーカバーズには10年来の選手が何人もいる。1番の課題である莫逆については、何をか言わんやといった所だ。
八戸心理との交渉にあたった、芹名アンダーカバーズ主将兼芹名ニコニコ商店会々長の武藤氏は私の取材に対してこう語ってくれた。
「最初は何を言われてるのかさっぱり分かりませんでしたね。第二野球部の存在自体を初めて知りましたし、何故勝負を挑まれているのかも分からなかった。当然断りましたよ。でもこの時期は商店街の方も祭りの準備やら盆休みに向けての調整で忙しいですし、無償労働というのは正直魅力的だった。チームの皆さんにも相談した結果、受ける事にしたんです。まあそれに、趣味でやってる草野球とはいえ、僕らにもプライドというのがある。若造の挑発に怖気づいているようでは、商売人としても舐められますしね」
勝つ自信は99%あった。と、武藤氏は言ったが、当日両メンバーが揃うと、その自信は半分ほどまで落ちたとも言う。
何より最初に目を引いたのは、元メジャーリーガーのウェイン氏だった。野球が趣味の男達がその名を知らないはずがなく、サインを求める姿もあったらしい。それから芦屋歩はリトルリーグで活躍している姿を何人かが覚えており、久我修也もその悪名と合わせて他の競技での結果を知っている人も多かった。
一方で芹名アンダーカバーズの方も、ピッチャーは過去に芹高を優勝に導いた経験のある沼田氏や、主砲である4番には元プロで怪我を原因に引退した佐々木氏もいた。他レギュラーも当然のように甲子園の経験がある。一般的な草野球チームレベルからすれば、これは随分と豪華な面子である。
この練習試合に関しては、私も実際に見た訳ではなく、試合記録は八戸心理の手にあり、即ち入手不可能であった為、参加者の記憶を頼りに書き起こすしか手段がないのが現実だ。これに関しては仕方が無く、また、重要ではあるものの本題ではない試合なのでどうかご容赦願いたい。
立ち上がり、芦屋歩はほとんど得意の変化球を使わずに、持ち前のコントロールのみで三振を奪っていった。6本指からなる変幻自在のピッチングが彼の売りである事は試合前から敵チームには伝わっていたので、最初は球を良く見てくるはずだという判断が彼と、彼のリードをする内海立松の中にあり、これは見事に的中した。例え球速がそこまで出ておらず、目が簡単に球を捕えていたとしても、手を出させない戦略。球の変化を見極めてから勝つべきだというバッターの判断は、結果からすれば間違っていた。何故なら、3回の表から少しずつ見せ始めた芦屋歩のアンセムボールは、ゲームセットの瞬間まで完璧に読みきる事など出来なかったからである。
バッティングの面で言えば、久我修也、ウェイン氏、賀来啓の3本柱の存在がやはり大きかった。ウェイン氏に関しては言わずもがなだが、久我修也のセンスはやはりずば抜けた物があり、野球に関してはほとんどこれが初めての実戦経験であったにも関わらず、持ち前のパワーで当てれば必ず長打に持っていった。賀来啓は訳も分からず呼ばれた試合であるにも関わらず、試合前に「うちは貧乏で妹にランドセルを買ってやれない。この試合でもしも勝てれば商店街の人たちからプレゼントしてもらえる」という八戸心理(末っ子)から吹聴されてやる気は満々であったので、打点5をあげる活躍を見せた。
一方、守備の面ではやはり粗が目立った。何せ外野のレフトとライトがほとんど素人の為、外野まで球を運ばれると半自動的にエラーとなり、それでランニングホームランまで成立する場面もあったという。内野はショートの辻堂夜次が穴だったが、辻堂朝乃がイニング毎に指示を出し、その度に見る見る改善していった。更に言えば、そもそも芦屋歩の球を打ち分ける事が難しい為、穴だと分かっていてもそこを突く事は出来ず、大量失点には繋がらなかった。
この試合によって明確になったのは、芹高第二野球部はかなりオフェンシブなチームであるという事だ。打者の面子が、という意味だけではなく、精神的にもそうといえる。1点取られても、2点3点と取り返すという意識を全員が持っており、これはまさにマネージャーである八戸心理の持つ性格をそのまま受け継ぎ、共有している。
特に1番辻堂夜次から続く、2番芦屋歩、3番久我修也、4番ウェイン氏、5番賀来啓という流れがピッチャーに与えるストレスはなかなかに無視できない物があったようで、それが下位打線においても有効に働く場面は多かった。女子と見て手を抜けば辻堂朝乃がその隙をつき、走者を出せば打順が一巡するという状況がコントロールを乱して四球を呼ぶ最悪の流れだ。
攻撃に特化している反動故か、守りに関してはその分甘い。やはり未経験者勢のプレーはたどたどしい所があり、何かミスをする度に八戸心理がプレッシャーを与え、ついには泉野鏡太郎の土下座が飛び出したが、鬼マネージャーからの許しの言葉は出ず、練習メニューの追加は決定事項となった。
試合結果は、11-6で芹高第二野球部の勝利となった。
露骨な敬遠策などは取らずに、最後まで正々堂々と戦った芹名アンダーカバーズもよくやったと私は褒めたい所だが、最後はやはり若さとセンスが差を分けたようだ。
しかしこの試合で注目すべきはむしろ、第二野球部の勝利がほぼ確実となった、9回裏、2アウトランナー無しという場面での事だ。芹名アンダーカバーズ側にちょっとした異変が起きた。既に諦めムードだったベンチから、代打の宣言が出た。バッターボックスに立ったのは、チーム内でもわりとご高齢の、中年というよりむしろ老年に近い58歳、定年間際の会社員だった。特別に肉体を鍛えているという訳でもないらしく、細い腕に腹の肉だけがついた、見るからに非スポーツマン体型である。
しかしまだ泥のついていないユニフォームに書かれた名前は「杵原」とある。
彼こそが、杵原良治の父親である、杵原辰巳(きねはら たつみ)氏だった。
打席の結果は見事なまでの空振り三振。ゲームセット。
挨拶を済ませた後、ベンチに帰って落胆する杵原氏に声をかける者がいた。
「失礼します。お宅の息子さんにフラれた者です」
八戸心理にしては珍しく、真っ向勝負だった。