Q,真実はいつも1つなのですか? (投稿者)匿名
A,日常生活に度重なる困難をその都度解決し、平穏、あるいは高揚のさ中に自分を保ち続けるため必要な道具の一つが信条であり、それは正しいと思うものを信じること。そして正しく、信じるべきものが真実であります。このとき『正しいと思うものを信じる』というのが厄介で、十人十色の個性が咲き乱れる人間社会でありますから、そういう意味では真実は一つと限ることはできません。ただしそれは客観的、巨視的な見方であり、個人的、主観的に人生を見た時にはやはり真実はたった一つに他ならないのであります。
主観的に日常生活をとらえたとき、誰それがいつ損をしたとか、某氏がどこで得をしたとか、それらは本来どうでもいいことであります。お前はひとと違ってどうだとか、いいかげん空気を読めだとか、そんなんだからいつまでたってもどうだとか、ばかばかしい話であります。とはいえ主観的、個人的に輝いて見える真実は大抵の場合、社会の厄介者であり、ツマハジキであり、集団から孤立する要因であり、個性は常に嫌われるのであります。共有可能の個性は個性ではなく公性です。共感は個性ではなく馴れ合いです。個性は孤独性と書き換えることが出来ると思います。真に個性的とは変質者、異質の代名詞であります。人々よ個性を捨てよとテレビ電波が教えてくれます。人々よ反抗せよと芸術家たちが呟いています。真実をどう捉えるかは真実自分次第でありましょう。
個人の対岸に立つのはいつも他人であり、彼らは常に組織だった嫌がらせを企てており、事ある毎に集団であなたを取り囲み、指を差し、嘲笑います。そのチャンスをいつも窺っているようなやつらで、邪悪の化身であります。他人の真実と自分の真実が食い違うとそういうことが起きます。本来他人とは相容れぬものであり、受け入れがたい異質、即ちそれこそが共有不能の個性なのであります。真実は一つではない。複数あるとしてもその中には必ず理解の範疇を外れた代物もあり、取り扱い注意、二重に錠をかけて厳重保管、決して封印を解くべからずとおフダを貼り付けておくべきでしょう。理解できぬものは理解できぬままにしておきましょう。
ひとと意見は食い違うものであります。個性は百花繚乱咲き乱れて然るべしですが、しばしばそれを理由に衝突を起こすまことにアツい人々もいる様子です。それを眺めて陰口を叩くひともいます。目もくれず耳だけをそばだてるひともいます。個性に正解などありません。その代わり不正解もないのですから、即ち個人の真実に間違いなど存在しないのであります。尊重されるべきものです。各々の真実を胸に携えて、人々は日々を暮らしているのです。
主観的に生きる個人の頭の中で何が起こっているかを少しだけ。日常を生きる個人が外界を知覚するための五官(センサー)から送られてくる情報信号は、脳(ソフトウェア)によって増減幅、定型化され、心という劇場(モニタ)に映し出されます。それをぼんやり怠惰に眺めているのがあなたの意識です。脳を信頼しすぎてはいけません。実を言うと、あなたは脳という無意識、仮想人格によって既に騙されていたりするのです。そのテーブル上の赤いリンゴの色は、あなたの友人が見たリンゴの赤と同一だという保証はどこにもありません。主観的に生きようとしても脳によって阻害されているのです。真実は脳(無意識)によってねじ曲げられています。本当のリンゴの赤い色は、誰であろうと見ることができないのです。あなたの意識は無意識によって蝕まれており、同時に庇護を受けています。要はウイルスバスターみたいな存在なんですが、しかし本当に脳は主観的生活の邪魔をしているのでしょうか。対ウイルスソフトが快適PC生活を阻害していると考えれば、深く考えずとも、そうともいえるかもしれません。もしくは、脳によってねじ曲げられた情報しか知覚できないのだから、それを信じることが主観的に生きるということなのだと考えるべきかもしれません。
他人の信条、客観的な真実は非個人的なシロモノですから、主観的生活とはもともと相容れぬのであります。皆がそうだからとか、仲間はずれが嫌だからといって、簡単に信条を鞍替えするひともいます。悪いことではありませんし非難すべきことでもありませんが、私にとってどうしても理解に苦しむ考え方です。逆に私といえばいつまでも子供じみた固執を捨てきれず、頑固者と蔑まれ変人と石を投げられる悲惨な過去を歩んできた男であります。それはそれ、他人は他人で奔放に生活してきましたが、この世の真実が多岐に及ぶならば享楽の形もまた同じでありましょう。ひとに陰口を叩かれようと、本人に後ろ暗いところがないので楽天主義は継続できるのです。
この世に生を受けた自意識という厄介な存在をどう捉えるか、その大問題の大いなるヒントが歴史に埋もれています。偉大な先人たちの哲学の足跡を辿ることで、自分について、世界についての認識が確実に豊かになります。
大昔、この世の真実を教えてくれたのは口伝のおとぎ話でした。それが大きくなったのが宗教で、哲学はそれに真っ向から喧嘩を売る形で発生しました。科学の進歩に伴って地球は太陽の周りを回り始めました。宇宙空間はただっ広く、人間はもともと猿だったと言う人も出てきました。それでも宗教は現代にも滅亡することはありません。どころか人殺しがまかり通る紛争地帯を作り上げてしまいました。思えば遠い昔、見上げた星空は現代と少しも変わりなく煌いており、私たちの祖先は寂しさに体を震わせながら感傷に浸っていたのです。自分は一体どこから来たのだろう。ひとが初めて疑問に思ったことであり、原始の昔から現代に至るまでその問いが私たちを呪っているのです。呪縛。もっとも純粋な郷愁が私たちの狂気を掻き立てます。思うに真実の追究とは、自分の行き先を定め、信じることに他ならぬのではないでしょうか。
さて、大げさになってきたところでお開きとしましょう。
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以下は余談になります。本文とまったく関係ありません。あしからず。
姉のラーメン哲学は奇妙なもので、曰く、行列に並ばない、ガイドブックを読んではいけない、席に着く前に注文する、麺の固さは訊かれる前に申告する、漫画を広げてはいけない、麺を噛み切ってはいけない、紅ショウガの投入は替え玉後に限り、替え玉は茹で時間を見越して早めに注文すること、丼を抱えてスープを飲み干し、入店後十分以内に必ず店を出る、といった厳しいルールを自らに課している変人であります。
いつだったか二人でラーメン屋に入ったときなど、暖簾をくぐった瞬間には「ラーメン一つ、カタ麺ね」といって一人だけ先にラーメンを拝し、遅れて注文した猫舌の私をお構い無しにゾゾゾと麺をすすり、湯気にメガネを曇らせ、一言も口をきかずに二杯(替え玉含む。姉の丼のスープの海から麺がなくなった瞬間に給仕さんが「おまちどうさま」と言いました)平らげ、喉を鳴らしてスープを飲み干すと、このとき初めて口をつけたお冷をグイと傾け「ごちそうさま」と元気よく言い残して店の外へ出て行ったものであります。去り際、店内に伝票と私を残して。調理場の奥からは店主らしき年かさのおじさんが、勘定場を華麗にスルーする姉と取り残された私をキョロキョロと見比べたのはいうまでもありません。そのとき私は「スプリガン」第一巻を片手に広げていました。
ようやく私が店を出たとき、姉は軒先のベンチに腰を下ろし、文庫本を広げていました。「おそい」と言われました。あんたが早すぎるんだよと。
ラーメン哲学秘伝を聞いたのはその帰り道でした。特別強要するようにも言われませんでしたが、姉はなんとも楽しそうに語るのでした。変な姉です。