Neetel Inside 文芸新都
表紙

エクセレント・ガヴァネス
ひきこもりに捧げる愛 〜ガヴァネス・デビュー〜

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「あ~、まぁ私どものメイドにそういう粗相があったことはお詫びいたしますが、でもお客様、だからといってそういう暴言を立て続けにおっしゃられるのはね~…え~私はですからね、それならそれですぐに本社にご連絡いただけるか、メイド本人から本社への連絡をするお時間をいただければその場で対応はいたしましたのに~…いやそうじゃなくってね、今更そんなことをおっしゃられても事が済んでしまってからではいかんとも~…」
小島さんが鉛筆を回しながら、もう20分以上も苦情電話の応対をしていた。
「またあのお客さんですか…」
事務員の一人がうんざりした顔でその様子を眺めていた。
小島さんは時にはぐらかし、時に正論を突きつけ、時には多少脅しと皮肉の効いた物言いで丁寧にクレーマーをあしらっていた。
「その場でメイドさんの謝罪を受け入れて、冷静に応対をさせていただければこちらもお客様の損になるような応対はしないのですが…頭に血が上られた挙句、メイドさんを執拗に叱責するというのではこちらも困ってしまいます」
村本さんはハァとため息をついた。

トゥルルル…トゥルルル…
ガチャ。村本さんは電話を素早く取った。
「はい、こちら総合家事派遣サービスでございます。…あ、これはいつもお世話になっております…。あ、柴田ですね。あいにく柴田なんですが、次の水曜日は既に別の予約がございまして…申し訳ございません。えっと…それでしたら、ご予約の通りハウスキーピング業務は山本がお伺いいたします。それでガヴァネスのほうなんですが、実は私ども、このたび教養ある素敵な淑女をガヴァネスとして採用しておりまして、もしよろしければ研修中の身でございますので割引料金でサービスをさせて頂きたいと思うのですがいかがでしょうか?…あ、本当ですか、ありがとうございます。それでは次の水曜日、当日は山本と、その新しいガヴァネスがお伺いをいたしますので…はい、はいありがとうございます」
丁寧に挨拶をして、村本さんが電話を置いた。
「お、今のお電話は石坂さんですかね?」
ようやく文句タラタラのお客をあしらった小島さんが、村本さんのほうを見た。
「ええ。今週もガヴァネスは直前まで空白で…よほどに柴田さんが気に入っておられるんですね」
「ま、それは仕方ないよ。柴田さんが来たらどんなお客さんだって途端にその魅力に感動してしまうよ~。それはそうと、その様子だと初芝さんのガヴァネスデビュー、決まったみたいだね」
小島さんはニヤリと微笑んだ。
「ええ、山本さんが一緒ですし、あそこでしたら大丈夫だと思います。初芝さんもガヴァネスとして採用したからには、そろそろ本番を体験していただかないと」
「高い給料払うんだし~、そろそろがっぽり稼いでもらわないとね~。ここまでのハウスキーパーとしての働きぶりも概ね好評だし、いいガヴァネスになると思うよ~」
「ええ」
村本さんはそう言うと、出勤予定表の初芝の欄に、次週水曜日の出勤を書き足した。



ブロロロロ…
初芝のガヴァネスデビューは、先輩メイドの山本さんの車に乗ってというものだった
「初芝さん、いよいよガヴァネスデビューね。教えられたことを大切にして、頑張りなさいよ」
「はぁ…でも、ガヴァネスって勉強だけでなく、テーブルマナー、文化芸術、新聞の見方に社会常識…お客様の子供さんに色々教えないといけないわけですよね。それってとても責任重大ですよね」
初芝はハァ、と一つ大きなため息をついた。
「まぁ、あんたみたいなペーペーにそこまでの仕事は求めてないわよ。そりゃあ柴田さんならそんな事もできるでしょうけど、あの人は特別。普通のガヴァネスは基本的には勉強を見てあげる家庭教師に毛の生えた程度のことしかしてないわよ。肩の力抜いて気楽に行きなさいな」
山本さんはアハハハと笑って初芝を励ました。
ハンドルを右に切ると、赤いスポーツカーは足回り軽くスッと路地へと入っていった。
「柴田さんって…確か研修の時に1,2回講師として来てくださっていた人ですか?あの左目の下に泣きぼくろのある美人の方…」
「ん、その通り。あの人はウチでただ一人のエグゼヴティブ・メイド。私たち普通のメイドさんは会社の方針に従った契約で仕事をして、決まった給料を貰っているんだけど、あの人だけは契約の予約やスケジュール管理だけが会社で、細部の業務契約は柴田さんに一任されているし、給料も歩合制で貰っているのよ」
「そうなんですか…」
「ちなみに私たちのハウスキーピングが1日6時間で22,000円、ガヴァネスが1日6時間で33,000円なのに対して、柴田さんの予約派遣は1日6時間で66,000円なの。その半分が柴田さんの歩合給というわけ。実はこれ以外にも講師派遣などの収入があるから、実報酬は多分年800万を下らないわね」
「そんなにすごいんですか!」
初芝は思わず驚きの声を挙げた。
「ええ。ただ月20~22日の出勤全てが予約で埋められるわけでなくて、会社の方針で予約は月16日まで。残りは特にメイドさんを指名しない派遣に充てられるし、ガヴァネスであっても月5日は通常のハウスキーピング派遣をする。これは柴田さんであっても変わらないの。だからその時はとても運のいい人は通常料金の税込み23,100円で柴田さんのサービスを受けられるという訳。普段はウチの上得意、超VIPなお客さんの予約で満杯という柴田さんのサービスですもの。そんな幸運なお客さんは1日至福の時を味わえるわよ…」
山本さんはうっとりとした顔で、力説した。

「講義を受けていたときは確かにすごい授業慣れしていたなぁと思ったんですが、そんなに柴田さんのサービスってすごいんですか…」
「そりゃあもう、すごいなんてもんじゃないわよ。もう痒いところに手が届くというのか、お茶が欲しいなとご主人様が思っている時期に測ったようにお茶の準備がされているのよ。茶葉の知識、料理の準備・給仕のテクニックの素晴らしさ…ご主人様の顔色一つ、物音一つでその日の希望を推察して料理を準備するんだから。そして何よりも語学堪能で博識。どんなご主人様のどんなお話にも、気の効いたお話ができる最高のメイドさんよ。無論ガヴァネスとしても超一流。これまでどんな家庭教師にも心を開かなかった子が、柴田さんのおかげで立ち直ったという話もあるわ」
さらに力説する山本さん。柴田さんのすごさをこれでもかこれでもかと並び立てる。
「柴田さんってそんなすごい人だったんだ…」
「ええ。ひとたびメイドとして、ガヴァネスとして身を立てたなら柴田さんみたいな人になりたいわ。あれが人妻だっていうんだから…旦那がうらやましくて仕方ないわよ」
「えっ、結婚してるんですか!」
意外な事実に、初芝はびっくりした。
「ええ、旦那がいるのは事実。前にサービスに行ったアラブの王族に、年100万ドル出すから自分のメイドになって欲しいと頼まれたときも旦那がいるし日本は離れられない。それにこの仕事が好きだからって言って断ったらしいしね」
「うわ~…カッコいい…」

さらに山本さんの講釈は続く。
「柴田さんは元々秋田の人らしいんだけど、東北大学を中退してフランスのストラスブールにあるマルク・ブロック大学に留学して、近代哲学を勉強してたらしいの。でもそのとき学費が苦しくて、いろんなところのハウスキーピングを副業にしてたらしいわ。卒業してからフランスの企業で秘書をしてたんだけど、実家のお母さんが急病になったので介護のために退職して帰国。そして幼なじみと結婚して上京の後、ここで仕事をしてるんですって…」
柴田さんの経歴のあまりのすごさに、初芝はしばし絶句した。
「そんなすごい経歴の人がいるなんて…この会社、すごいんですね」
「うちは社員の面倒見がいいからね。将来の母たる淑女の教育という社是の元、社保完備、有給産休育給完備、長期休暇の確保に社員への奨学金貸与、あげくに結婚の世話だってしちゃう。超勤手当ては全額支払うし、だからこそすごい経歴の人がガヴァネスとして働いてくれるのよ」
「へぇ…私も確かにすごい待遇のいい会社だとは思ってたんですけど…」
「うん、私もだからこそこうして働いてるのよ。転職して正解だったわ」
「山本さんって、転職したんですか?」
「そうよ。人材紹介会社経由でここの非公開求人でヘッドハンティングよ」

話によると、山本さんは東京の旅行ホテル関係の専門学校を卒業して、大手旅行代理店で働いていたのだそうだ。学生時代は一流ホテルでのバイトも経験した筋金入りの観光畑の人で、日本中のホテルや旅行代理店、果てはJR・私鉄・航空会社などにも友達がいるすごい人である。
「ま、そういうわけでね。特急券・飛行機のチケットにホテルの手配、家族旅行の計画までそういったことはお茶の子さいさいでね…これは私だけのオプションサービス。本当はそれを買われての事務職での転職だったんだけどそれだけだと給料安いし、前にホテルの仕事もしてたから、それを生かしてメイドもやってるうちにあちこちそういうお呼びがかかるようになったというわけですよ~」
山本さんはニカニカ笑いながら車のハンドルを軽快に切っていく。
「まぁ初芝さん、ウチの会社はそういう一芸に長けたメイドさんが多いのが特徴なのよ。ガヴァネスはもっとすごいわよ。小野寺さんは元シリコンバレーの腕利きプログラマ、猪俣さんは元国際線フライトアテンダント。他も皆、内外の一流大学を卒業して人生経験豊富ないずれ劣らぬ美女揃い。奈村さんはすごいわよ。防衛大学卒業して、元陸上自衛隊の一尉まで勤めた自衛官だったんだから」
「ええっ、元自衛官!」
「そうなのよ。メイドとしては淑女の振る舞い、でもひとたびガヴァネスとなれば熱血指導で大人気なの。柔道3段の腕前で、下手なことしたら腕の一本は覚悟したほうがいいわね。さっぱりしたショートカットで背も高くてキリリとした、女が惚れる女性とはまさに奈村さんのことを指すといっていいわ」
「ひぇ~」
まさにメイドさんの常識を覆す武闘派メイド、それが奈村さんだった。
まだ会ったことはないが、奈村さんと会うときは絶対粗相があってはいけない。そう思った初芝だった。


     


「さぁ、今日の職場に着いたわよ」
成城にある二階建ての家。ここが今日のご主人様の家である。
ピンポーン…
「おはようございます。総合家事派遣サービスの山本です。本日のお仕事のため、お伺いしました」
インターホン越しに挨拶をする。
「あ、山本さん。お待ちしておりました。さぁどうぞお上がりください…」
インターホンからは女性の声が聞こえてきた。
「はい、それでは失礼いたします」
山本さんと初芝は、鍵のかかっていない鉄門を開け、庭へと入った。
そして扉の前に立ち、ノックをして家の中に入った。


「あらあら、よくお越しくださいました…」
玄関には、30代半ばぐらいの女性が立っていた。
「おはようございます、総合家事派遣サービスの山本です。こちらは私どもの新人で、本日のガヴァネスを勤めさせていただく初芝と申します」
山本さんが丁寧にお辞儀をする。
「総合家事派遣サービスの初芝です。本日はご主人様のご子息さまのガヴァネスを勤めさせて頂きます。至らぬこともございましょうが、精一杯お勤めさせて頂きますので、なにとぞよろしくお願い申し上げます」
初芝も丁寧にお辞儀をした。
「いえいえ、ご丁寧にありがとうございます…どうかお気楽になさってください。隆春ー!今日の先生がお越しになられましたよ。こちらに来てご挨拶をなさい!」
女性が奥から人を呼ぶ。
「はい…」
廊下の奥から、男の子がおずおずと姿を見せた。
「石坂…隆春です。先生…おはようございます」
男の子が、ぎこちなくお辞儀をした。
「あなたが隆春君ですね。初めまして。私、本日貴方のガヴァネスを勤めさせて頂く初芝葵と申します。今日一日、よろしくお願いします」
初芝はできる限りの笑顔で男の子に挨拶をした。
「さて、それでは契約のご確認をさせて頂きます。まずは…」
山本さんが今日の契約について説明し、ご主人様の同意を得る。そしてクリーニングの有無を確認し、支払方法を決定する。ここまではいつもと同じ。
「ご主人様、それでは私は契約に基づいて業務を開始させて頂きます。後は隆春様の今日の指導方針ですが、そちらのほうはガヴァネスの初芝にお尋ねください」
「分かりました。今日もよろしくお願いします」
「はい、それではまずは邸内の確認から…それでは失礼いたします」
山本さんは手馴れた様子で書類をバックにしまい、早速邸内の清掃に取り掛かった。


広い応接室に、依頼主の母親と子供さん、そして初芝が向かい合って座った。
「それでは…本日午前中は息子さんの受講している通信教育の講義・指導業務をさせて頂きます。40分毎に10分間の休憩を挟み12時まで。昼食と30分の休憩を挟みまして、13時30分から1時間は英会話のマンツーマン講習。そしておやつ・アフタヌーンティーができますまで遊び相手をして、最後の4時から5時までは特別講習に当てます。講習内容は…お金について。まぁ具体的にはお金とは何かということやお金の歴史、銀行、相互保険の役割など金融に関するお話をする予定です。時間割は事前のFAXにお送りしたものと変わりありません。いかがでしょうかご主人様」
「結構です。子細は先生にお任せいたします」
母親は、静かにうなずいた。
「ありがとうございます」
初芝も丁寧に挨拶を返す。


この家の一人息子、隆春くんは中学入学しばらくして不登校となっており、つい最近まで家から一歩も出ることがなく、ひきこもっていた。
父親は大きな会社を経営しているのだが、その関係で忙しく、息子を構ってやる事ができなかった。
このため母親は一人で息子と広い家の面倒を見なければならなくなり、学校に行かない息子のために家庭教師をつけるなどしたのだが、隆春くん自身すっかりひきこもってしまっていて、大学生を中心とした家庭教師には手におえない状況になっていたのだった。

「家の仕事と息子の世話でホトホト困っていたとき、偶然にこの会社を紹介して頂き、藁をも掴む気持ちでメイドさんとガヴァネスを紹介していただいたんです。その際にガヴァネスとしてお越しくださった柴田さんが、本当に親身になって息子の面倒を見てくださいまして…今の通信教育を紹介していただいて普通の学校と同じペースの授業が受けられるようになりました。今はこうして定期的にガヴァネスを派遣していただいて、勉強を見ていただくと共に英会話講習やためになる講義を面白く分かりやすくしていただけるようになりまして、本当に助かっています。私どもはこの会社と柴田さんのおかげで、息子の将来にかすかな希望を見出すことができたんですよ…」
母親はしみじみと、初芝に喜びの声を語った。
「ありがとうございます。私はまだ見習いの身でございますので何かと不手際もございましょうが、どうか一日よろしくお願い申し上げます」
「こちらこそ…息子をよろしくお願い申し上げます」
お互いに深くお辞儀をして、謝意を示す。
「それでは、お時間も惜しいですし、そろそろ隆春様の勉強を始めましょう」
そう言うと初芝は立ち上がり、息子さんの前に立った。
「隆春様、それでは本日のお勉強の時間です。お部屋に参りましょう」
「うん…お願いします」


息子さんの机には、この2週間で解いた通信教育のワークブックが積まれていた。
「うん、前回に比べても順調に進んでいるみたいですね。まずは分からなかったところ、聞いてみたいところとかあれば私におっしゃってくださいね」
「うん…じゃあこれ…教えてください…」

ガヴァネスを頼む家は、土日に頼む場合を除けば大抵はこの家の息子さんのような不登校になってしまった子たちである。こうした場合、単なる家庭教師では手に負えないケースが多い。
こうした一筋縄ではいかない子供達を指導するという業務となればこそ、この会社の教養と人生経験豊かなガヴァネスたちの力が発揮されるのである。
当所は派遣時にのみ勉強を見ていたのだが、柴田さんの提案により、こういった不登校、ひきこもりの生徒に学校相当の勉強をさせるため、信頼できる通信教育業者と提携を結んで学校のカリキュラム通りの教材を提供して電話と郵送による添削を柱とした自主勉強をさせ、その上で月1~2回のペースでガヴァネスを派遣して進捗状況を管理するというシステムが作られた。
また希望があれば英会話や野外活動などのオプション講義を付与したり、派遣するガヴァネスの過去の経歴や実績に沿った講義をすることもできる。
無論通常の家庭教師としてのサービスを3時間、あるいは6時間で組むこともできるし、場合によってはマナー講習、話し方講座、各種社会勉強、ハイキングなどの引率をするサービスもある。これらはガヴァネス個々の能力に応じて提供されるので、そういった技術についてはガヴァネス間でも研修を通じて技術の向上に努めている。
無論有名家庭教師派遣会社並に有名私立小・中学校への受験対策や大学選びの進路指導、時には難関国公立大・有名私立大学への対策を合わせて講じるサービスもある。
こうした総合的な学習支援サービスは、ガヴァネスの派遣料が1日6時間で1回33,000円。通信教育が月々6千円。その他オプションサービスによって金額が変わってくる。
こうした並みの家庭教師以上の面倒見の良さ、確かな学歴を持ち見目麗しく博学のガヴァネスが揃っていることもあって、この会社のガヴァネスサービスは口コミで広がって人気になっており、従って常にガヴァネスの供給は不足していたのである。


「えっと…なんかxの前に4があって、yが…」
「うん、あの~そこのx同士は同じ数が入るわけで…、それが分かれば、(3-4)xと纏められるわね。そうしたらあとは…」
東京大学在学中には小学生から医学部の受験希望者まで、多くの家庭教師を経験しており、こうした教えることについて初芝はかなりの実績があった。
「う~ん、こういうときは図を描くのがいいわね。想像するだけでは分からない時は、惜しみなく紙を使ってこうやって図を描くの…」
「あー、何かこれ見たことある…」

最初の40分が過ぎ、休憩を取る。
トイレを済ませて次の授業に戻る。
「あーこれは、これを覚えてなかったら答えが想像できない問題だよね。ということは、この知識は絶対覚えておいてねってことなんだな~って感じてもらえると先生もうれしいな」
「へー…」

研修で得た様々なノウハウと、これまでに培った多くの知識や経験をフル回転させ、息子さんと共に懇切丁寧に様々な問題を解いていった。
そうしているうちに積み重なった疑問や問題は次々と解けていき、12時を迎える頃にはワークブックの山はきれいに片付いた。
「お見事です。今日の朝の勉強はお終い。前に小池先生が来た時から、順調に勉強が進んでいますね」
「あ…ありがとうございます」
ちなみに小池先生は、大きなメガネをかけて目のくりっとした可愛い女性で、慶応大学を卒業して農林水産省で4年間働いた後に、全国のラーメンを食べ歩く時間が欲しいという理由で退官してここへ来たといういろんな意味ですごい人である。その名前と目立つ風貌ゆえに、かつてはとてもいじめられていたらしいということで、この息子さんを随分励ましてくれたとのことである。


「お待たせいたしましたご主人様。昼食の準備ができました」
颯爽と山本さんが現れ、二人を昼食に呼ぶ。
山本さんは白いエプロンの裾をはためかせながら、にこにこ笑顔で二人を誘導する。
初芝はガヴァネスなのでメイドさんの証であるエプロンやカチューシャはしない。茶色の上下に白いリボンを締め、清楚な大人の女性の着こなしをする。
広いダイニングには、雇い主の母親、息子、そして初芝さんの三人が次々と席に着く。
「ご主人様。本日はハンバーグドミグラスソース、野菜とベーコンのコンソメスープ、野菜サラダ、そして二種類のブレッドでございます。デザートはご要望により準備しておりませんが、りんごとマスカットを真ん中の皿にご準備いたしますのでご自由にお召し上がりください」
メイドさんは飲食の接待が認められておらず、通常食事を共にせず別に食べるのだが、ガヴァネスについては最低限の昼食とアフタヌーンティーの接待については受けることが認められている。これは契約先の息子さんにテーブルマナーを教えたり、食事中の適切な指導を行う便宜を図るためのもので、これについては事前に契約をする。
今回のようにメイドさんが共に派遣されて昼食を作る場合は、同じ料理をガヴァネスに無料でサービスしており、裕福な家庭であればメイドとガヴァネスの両方を派遣してガヴァネスに昼食を振舞うのが一般的となっている。
息子さんとガヴァネスは隣り合って着席し、主人の接待を受けながら話をする。
「隆春様、前回指摘されたところがまだ直っておりませんよ。お箸の持ち方は、こうですよ」
「あ…ごめんなさい」
こういったお箸の持ち方、ナイフとフォークの使い方、料理の食べる順番など、丁寧な指導をするのもガヴァネスの仕事である。
ちなみに必ずお箸の持ち方をこんなに厳しく指導するわけではなく、この息子さんがいじめられた理由のひとつに箸の使い方が変だったこともあるので、特に厳しく指導して欲しいとオプション契約されていたのである。
「ありがとうございます。これでも息子も、随分箸の持ち方が上手になりました。これもおたくのガヴァネスのおかげです」
特に、以前この家に来た奈村さんは本当に厳しく、自分の休み時間返上でつきっきりで特訓したという伝説が残っている。

「いいのかな…本当にこんな豪勢な料理食べて…」
目の前に並べられたご馳走を前に、箸を進めつつも初芝は戸惑っていた。
傍では山本さんがせっせと給仕をしている。
見習いであるにも関わらず、山本さんより高い給与を貰って、それでいて昼食を振舞ってもらっているというのは申し訳ない気持ちがしたのだ。
食事の手が止まっている様子が見えたのだろうか。山本さんがそっと寄ってきた。
「貴方はガヴァネスなんだから契約に従いなさい。それがメイドの務めというものです」
グラスに水を注ぎながら、そっと山本さんは耳打ちした。
「あ…はい…」
初芝はそっと箸を置き、ナイフとフォークを持ってそっとハンバーグを切り始めた。

「ごちそうさまでした」
やがて、息子さんは出された料理をきれいに平らげ、静かにあいさつをした。
「お粗末さまでした」
静かに山本さんがお礼の言葉を述べる。
でも、笑顔は満足げだった。
「それでは、私は少し中座させていただきます…」
契約に従い、初芝は30分の休憩を取る。
「よし、行ってらっしゃい」
山本さんはご主人様に見えないように、そっと初芝の肩を叩いた。
初芝が出て行くと、山本さんは食器をきれいに引き上げ、後片付けを始めたのだった。


短い休憩が終るとこの後は英会話のマンツーマンレッスン。
英語に堪能な初芝にとっても、英会話はスクールで教わるほうが主体だっただけに、逆に先生としてレッスンをすることは予想以上に難しいものだった。
「まぁまぁ、こうして実際に英語で話すときは、授業のようなそんな堅苦しい文法は使ってないし、そんなきれいな発音もしてないわ。あまり気にしなくて大丈夫だから」
「前のメガネの先生もそう言ってた…」
「よろしい。じゃあもう一度行きましょうか。Please tell me when…」


1時間ものマンツーマンレッスンが終ると、しばし息子さんが休憩に。おやつができるまでは自由時間となる。
無論この間、ガヴァネスは息子さんの遊びに付き合ってあげるのも仕事である。
息子さんはテレビゲームを持ってきて、レースゲームの対戦をねだった。
完全に引きこもってしまって友達のいない彼にとって、この僅か1時間にもならない時間だけが、他の人とゲームをプレイできるチャンスなのだ。
息子さんはよほどやりこんでいるのだろう。とにかく上手い。
どんなシケインもヘアピンカーブも、全く平地を行くかのように滑るように車を走らせている。
「うわぁ…」
さすがの初芝もレースゲームは不慣れだった。ガンガンコースアウトしてみるみる差が開いていく。
「厳しぃわねこのゲーム…うーん!」
「あははは、また僕の勝ちー!」
「あーあもう一度よっ!」


「ご主人様、おやつの準備が出来ましたよ」
三時も中ほどになると、山本さんが颯爽とあらわれ、二人をアフタヌーンティーに招いた。
「さぁ、今日はここまでです。おやつにしましょうね」
初芝はコントローラーを置き、静かに話しかけた。
「えーもっと遊んで欲しいよー」
息子さんはとても不満げだった。
「じゃあおやつ抜きでいいのかな~?」
「それはだめー!」
「よろしい、それではゲームはお終い。おやつを食べに行きましょうね」
初芝はそっと息子さんの頭を撫でて、すっと立ち上がった。


「ご主人様。本日はお求めの通りセイロンの代表的な紅茶、ディンプラティーをお入れしました。まろやかで程々の苦味があり、大変優しい香りのお茶ですのでお召し上がりください。隆春様にはホットココアとドーナツをご用意しておりますのでお召し上がりください」
「わーい!」
早速に息子さんが手を伸ばそうとするところ、初芝さんがその手をそっと掴んだ。
「そんなにがっつかれてはなりません。まずはおやつを用意してくださった方に感謝の気持ちを示し、ちゃんと手を拭いて…そしてお召し上がりください」
「あ…はい、分かりました…」
息子さんが申し訳なさそうに答えると、初芝さんは微笑んだ。
「よろしい。料理は黙って出てくるものではなく、作ってくださる方が居られるからこそ出てくるのですから…」
この間までの彼女なら、こんなことを言えばそれこそ鳥肌が立っただろう。
だが今はどうだ。せっせと料理を作り、ご主人様のために一生懸命食事をする山本さんの姿を見ると、自然に感謝の気持ちが湧いてきた。
そして、そういう感謝の心を捧げることがこれほど重要なことであるかと痛感させられた。
人の振り見て我が振り直せ、とはよく言ったものだが、まさに他人に物を教えるということは、すなわち自分が何を知っていて、何を知らないのかということを改めて考えさせられる最高のきっかけとなるのだということを、初芝は今、身を持って感じていた。


「それでは最後になりますが、私の特別講義を始めましょう。今日は、お金の話をしましょう…」
「お金?」
「うん。隆春様は、お金って何だと思いますか?」
「そんなの簡単だよ。何か物を買うときに渡すものだよね」
「ええ。じゃあそのお金って、どうやって手に入れてるか分かる?」
「お母さんが、おこずかいとしてくれるんだよ」
「じゃあ…そのお母さんは、どうやってお金を手に入れているんだろうね…」
「え…それは…働いて手に入れている…」
「うん。それは私も同じ。私もこうやって、隆春様のお母さんにお願いされて、隆春様に勉強を教えることで、そのかわりにお金を貰って生活しているの。隆春様に勉強を教え、そして遊んであげること。それが私の仕事よ」
「…」
このあと、物々交換の歴史に始まり貨幣の登場、銀行が生まれた理由、相互保険の歴史、利子・利息の話などをしていった。
その大半は、初芝が銀行に就職した時の研修で受けたときに教わったことだった。
「難しい話ばかりでごめんなさいね。でも、お金によって物を交換するということは…それは、人々がお互いにお金を信用して、お金によって助け合っているということなのよ」
「へぇ…」
「人間が働いてお金を手に入れるのは、人間が生きていくために必要な仕事を分担しましたという証明であるの。そして、お金を手に入れてそのお金で物を手に入れることで、人間は生活しているのよ…」
「う~ん…」
「だから、隆春様は将来、みんなが生活するうえで必要な仕事のなかで、何をすることでみんなの役に立ってお金を稼ぐのか、それは考えないといけないのよ…」
「何をすることで…」
お金。それは中学生には恐らく手に余るテーマだっただろう。
今お金の本質のすべてが分かるとはとても思えない
でも、初芝は話しておきたかった。
人間が自分の力で生きていくためには、必ず他の人と助け合い、支えあっていかないといけないことを。
今は人との関わりを、人の中で生きていくことを恐れていても、きっと将来は、みんなと交わりあえる日が来て欲しい。
初芝は思いを込めて、講義をした。



「はい、今日はこれでお終いです。隆春様、本当にお疲れ様でした」
テキストを畳み、部屋をきれいに片付ける。
派遣されたメイドは屋敷のほぼ全てをきれいに掃除するが、ガヴァネスが派遣されている場合は、その講義に使った部屋だけはガヴァネスが掃除する。
これも派遣元の子弟への教育の一環で、ガヴァネスは自ら実演をしながら子供達に掃除を教えるのである。
丁寧に掃除を終え、そして荷物をまとめた。
「お疲れ様でした、ご主人様」
山本さんがやってきて、二人を最初に挨拶をした応接室へと連れて行った。

「これで、本日の業務を終了します。特に問題のある箇所はございませんでしたし、今回は風呂釜も清掃を行いました。ガヴァネスの業務も全て滞りなく終了したとのことで、早速お代ですが…税込56,700円となります」
「ありがとうございました…本当にいつもいつも助かります」
母親はペコペコと頭をさげた。
「それでは支払方法ですが…今回もコンビニ決裁ということでよろしいでしょうか?」
「結構です。そのようになさってくださいませ」
「それでは…こちらの振込用紙で代金を10日以内に振り込んでください」
そう言うと山本さんは振込用紙を取り出し、お客さんに手渡した
「あとは…本日のガヴァネスは見習い中のものでしたが、いかがでしたでしょうか?何かご不満の点、至らぬ点などございましたらご遠慮なくおっしゃってください」
山本さんはお客さんにそう尋ねた。
緊張感が初芝に走る。
「どうだった…隆春?」
「うん、不満なことは全然なかった。教え方とても上手かったし…いい先生だった」
息子さんの答えを聞いて、母親もうなづいた。
「私もそう思いました。とても初めての方とは思えませんでした。やはりおたくのガヴァネスは優秀な方ばかりだということがよく分かりました。もしよろしければ、またお願いいたします」
母親は笑顔でそう答えた
「ありがとうございます」
「ありがとうございます!」
山本さんと初芝は、深々とお辞儀をした。



ブロロロロ…
「どうだったかな初芝さん、ガヴァネスデビュー。ご感想は?」
山本さんはニカニカ笑いながらハンドルを切り、事務所への道を急ぐ
「ええ…とても緊張しました。家庭教師なら何度も経験はあったんですが、ああやって一日付きっ切りで子供さんのお世話をするのは初めてでしたし…」
「まぁそりゃあよく分かるわ。私なんか家を掃除して洗濯してご飯作ってって普通の主婦の仕事してりゃいいだけだけど、ガヴァネスは実質個人教師だもんね…先生の仕事を子供とマンツーマンでするのは大変だと思うよ。私、あんたみたいな英会話ペラペラとは到底行かないもんね…あ~あ、私だってガヴァネスやりたいけど、初めてのあんたであれだけの仕事されちゃあ、私には無理だなぁ~って思うわよ」
うらやましそうにため息をはく山本さん。
「いや…私はそんな大したことはしてないですよ」
顔を赤らめ、首を横に振る。
「まぁ、そりゃ仕方ない。難しい仕事だし、最初から上手にできれば世話ないわ。小池さんみたいに今になっても全然あか抜けない人もいるし、猪俣さんみたいに最初っからなんか手馴れた人もいるからね…でも私だったら、あの猪俣さんの営業トークばった話よりは、小池さんのはわわわトークのほうが好感が持てるわ。あれでよく農水のキャリア官僚してたと思うわよ」
自分で言っておいてクスクス笑っている。
とにかく山本さんは面白い人だった。
「私は…どうでしたでしょうか?」
初芝は、恐る恐る聞いてみた。
「初芝さん…う~ん…」
車のハンドルを軽快に回しながら、ちょっと考えてみる。
「結構いけてるんじゃない?なんつーのか、見た目には清楚でいかにもガヴァネスって感じがするわね。でも人間くさいっていうのか、ついついべらんめぇな地が出ちゃうとこが面白いかも。ある意味いいガヴァネスになりそうだと思うわよ」
ニヤリと笑みを浮かべながら、答えた。
「えー…そんなに地が出てましたか?」
「うん、適当に出てたね。小池さんとか奈村さんとかみたいに露骨じゃないけど、なかなかいい感じにね。あんたやっぱりガヴァネスの素質あるわ」
山本さんはキシシシと笑いながら、そう答えた。
「そうですか…」
初芝は恥ずかしそうにモジモジと指をあわせた。


選ばれた淑女だけができる誇り高き仕事、ガヴァネス。
そのデビューを、初芝は無事に終えたのだった。

       

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