Neetel Inside 文芸新都
表紙

剣と槍。受け継ぐは大志
第十二章 獅子戦吼

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 シーザーの獅子軍が、予想以上の粘りを見せていた。いや、予想通りであったと言うべきなのかもしれない。
 最初の伏兵で、シーザーを討ち取れなかった。伏兵の場所、機などは完璧なはずだったが、討ち漏らしたのだ。どこかで、僕の指揮に逡巡が生じた。一方のシーザーには、それがなかった。というより、獅子軍全体に逡巡がなかったのだ。まるで本能に突き動かされるかのように、獅子軍は戦場を駆け回った。
 伏兵からの猛攻を凌ぎきった獅子軍は、国境沿いに軍を展開し、堅く守りに入った。僕もそれを崩す事ができず、ついにはクリスの援軍が到着してしまった。最初の伏兵でシーザーを討てていれば、こうはならなかっただろう。軍は生き物だ。そして、大将は軍の中枢である。いくら兵を討とうとも、大将を討たない限りは軍は生き続ける。逆に、大将を討てば、軍はいとも簡単に崩れたりもするのだ。
 シーザーの獅子軍と対峙して、いくつか分かった事があった。これは、学んだと言い換えても良い。
 まず、僕は戦が下手だ。レキサスの軍師でありながら、僕は現場の指揮には向いていない。それも、おそらくは絶望的に、だ。戦には、呼吸がある。呼吸があって、戦術や戦法がある。僕は、この呼吸を読む事ができない。戦術や戦法は、頭の中にいくらでも入っているが、それを実行するための呼吸が読めないのだ。だから、僕のやった事は全て機が外れていた。
 それに対してシーザーは、呼吸を読むのが抜群に優れている。戦術や戦法すらも超越し、野生の勘を剥き出しにして、戦を展開してくるのだ。この野生の勘というのは、とつてもなく厄介だった。何をしてくるか、見当もつかないのである。それで攻めあぐねた、というのも多分にあっただろう。
 現場の指揮は、もっときちんとした者に任せた方が良い。すなわち、ヤーマスやリブロフといった実戦に強い将軍である。いや、他の地方軍の将軍でも、僕よりマシな戦はやれるだろう。僕は現場ではなく、後方で将軍達に策を授けたり、戦略そのものを描いたりする方が得意だ、という気がする。
 とにかく、シーザーは粘りに粘った。そして、クリスが来た事によって、戦の趨勢は大きく変わろうとしている。
 シーザーを討ち漏らした時点で、僕はレキサスに伝令を送っていた。援軍の要請である。ただし、欲しいのは兵ではなく将だ。兵力そのものには、大した不安はない。伏兵の三千に砦の守備兵の二千、さらには一万の後詰めを加えて、合計で一万五千の兵が居るのだ。対するシーザーは四千程度であり、クリスの援軍も一万と、兵力差はほぼ同等である。
 あとは指揮官だった。アビスに出陣しているヤーマスとリブロフが戻ってくれば、メッサーナ軍を追い返す事は難しくない。いや、この二人が居れば、それ以上の戦果も出せる。だからこそ、僕も二人にこだわった。
 しかし、未だにレキサスから良い返事はなかった。アビス戦で、ヤーマスとリブロフは重要な役割を担っているらしく、エルマンが二人を帰したくないと言っているのだという。しかし、もうそんな悠長な事は言っていられない。クリスの援軍が到着したのだ。それに、アビス戦は本命ではない。メッサーナ軍の狙いは、あくまでミュルスだ。ただ、レキサスは何としても二人をそちらに送る、と言っている。今は、これを信じるしかない。
 そして、数日後、獅子軍とクリス軍はついに攻勢に転じてきた。激烈な攻めだった。特に獅子軍は、檻から放たれた獣の如く、戦場を暴れ回った。四千程度の兵力が、二倍、三倍に感じられるような攻め方で、単体で相手をした時よりもずっと強力だった。おそらく、他の軍と連携する事によって力を発揮する部類の軍なのだろう。特に歩兵との組み合わせが強い。
 徹底抗戦の構えで居たが、踏みとどまる事はできず、むしろ押し込まれる恰好になった。歩兵であるクリス軍が前衛に来て、獅子軍は後衛である。騎馬が前衛でないのは、歩兵と離れ過ぎない為だろう。攻撃時には、これがそっくりそのまま入れ替わってくる。
 数時間の撤退戦を繰り広げた後、何とか陣を敷き直した。しかし、踏みとどまった訳ではなく、メッサーナ軍が攻め疲れただけだった。それだけ、指揮官の力量に差があるのだ。だが、このまま逃げ続ける訳にも行かないだろう。やがて、守るべ砦に到達する。いや、それまでに軍の士気が落ちて、潰走にまで発展しかねない。
 この状態で巻き返すのは無理に等しかった。だから、せめて踏ん張る事だ。一度でも攻撃を跳ね返せば、戦の流れは大きく変わる。
 再び、メッサーナ軍が攻めかけてきた。
「ノエル軍師、ここは攻撃に転じるべきではありませんか。防戦一方では、敵を勢い付かせるだけです。特に獅子軍は」
 将校の一人が、そう進言してきた。兵の損耗を抑えるべきだ、と思ったが、正論だった。だが、指揮できる人間が居ない。
 僕が躊躇していると、伝令兵が駆けてきた。
「伝令です。後方から、ヤーマス将軍とリブロフ将軍が二千ずつの兵を率いてやって来ています。犠牲を最小限に抑えて、合流されよ、との事」
 この伝令を、待っていた。僕はまずそれを思った。
 二千ずつの兵、ということは、いくらかはアビスに置いてくるしかなかったのだろう。まだ、アビスでは戦が続けられているのかもしれない。だとすれば、メッサーナは撤退を選ばなかったのか。
 いや、選べなかったのだろう。両軍の力は拮抗しているはずなのだ。力が拮抗すれば、戦は長引く。それはすなわち、撤退の機も掴めなくなる。そして、陽動であったはずの戦は、本命の戦へと変貌を遂げたりもする。
 僕は馬上で再び指揮を執り始めた。相変わらずの劣勢であったが、隊伍を守りながら退いていく。何度か敵が雑な攻め方を見せた場面があったので、そこにはきちんと反撃も噛ませた。獅子軍がそういうのを嫌がる事は、この戦で学んでいる。
 そして、ヤーマスとリブロフの軍が後方に姿を見せた。同時に、メッサーナ軍の攻めも弱まる。間もなくして両軍は互いに向き合い、陣を敷いた。
「ヤーマス殿、リブロフ殿、御待ちしておりました」
「ノエル軍師は、戦が下手であったか」
 ヤーマスが歯を見せて笑う。アビスでの戦疲れは、感じさせない。ただ、身体の所々に包帯が巻かれていた。それはリブロフよりも、ずっと多い。
「不本意ですが、そのようです。どうも、頭で描くようにはいかない。現場には、現場の呼吸があるのですね」
「軍師からそのような御言葉が出るとはな。しかし、ご安心なされよ。ここからは、俺とリブロフにお任せを」
「そのつもりです」
「相手は獅子軍とクリス軍か。メッサーナ軍の中でも、最も古参の軍だな。組み合わせで見ても、相性は良さそうだが」
「リブロフ、不安なのか?」
「そうじゃない。スズメバチ隊に正面から何度もぶつかったお前に、ちょっとばかりの忠告だ」
「大きなお世話だ」
 ヤーマスとリブロフは、アビス原野でスズメバチ隊と何度もぶつかっている。その上で、生き残った。それが、僕には物凄く頼もしく思えた。
「ノエル軍師、俺達は現場の戦はできるが、大局的な戦はできん。分かっているだろうが、そこは頼む」
「えぇ、分かっています。この戦の肝要は、シーザーを討つ事。これを頭に刻み込んでください」
 今の攻撃の要は、獅子軍だ。そして、獅子軍は大将が居る事によって、実力を出している。だから、シーザーを討てば、それは獅子軍を全滅させた事と同義になり得る。さらには、シーザーは討ちやすい将軍である。守りに対しての意識が希薄で、特に計略の類となれば、無防備だと言っても良い。この辺りに、付け込む隙がある。
 欲を言えばクリスも討ちたいが、これは無理だろう。クリスの戦は丁寧で、隙がない。それでいて、要所では目立ってくる。だから、的はシーザーだけに絞る。
「ヤーマス殿、リブロフ殿、策を授けます。あとは、指揮を」
 僕がそう言うと、二人は黙って頷いた。

     

 今回から、何故か俺も軍議に参加させられた。親父に出るように言われたのだ。兵卒の俺が出ても良いのか、と問うと、親父は良いから出ろ、とだけ言った。
 軍議には、親父やクリス、各軍の隊長達が参加していて、総勢で二十名程度といった所である。
「敵の援軍についての情報が不足しています。手の者が、敵陣から戻れていません」
 クリスが言った。親父はすぐにでも攻めるべきだ、と主張したが、クリスは援軍を警戒していて、まずは様子見をするべきだ、と主張していた。
「援軍を率いてきたのは、ヤーマスとリブロフだ。二人とも、まだ三十になったばかりの若僧だぞ」
「その考えは危険だと思います、シーザー将軍。そして何より、率いてきた兵力が少なすぎる。これは、敵は兵力ではなく、将を欲していた、と考えるべきですよ」
「当たり前だろう。クリス、お前も戦をやって分かっただろうが、あの敵は戦が下手すぎる。だから、戦ができる将軍を欲したんだろうが」
「それならば、他の地方将軍でも良かったはず。つまり、ヤーマスとリブロフを待つ必要はなかったはずなんです。それなのに、二人を待った。待ちながら、ここまで退いた。何か深い意味があるのでは」
「考え過ぎだ。他の地方将軍じゃ、俺達の相手ができなかった。ただ、それだけの事じゃねぇのか」
「いや、二人は官軍の武術師範だった。戦の指揮については、まだ未知数ですが、武術に関してはかなりの腕前のはず。二人を待った理由を考えれば、この辺りがクサい」
「そこまで分かっていて、敵の援軍の情報が不足してるってか? 用心深すぎるぞ」
「援軍の目的がはっきりとしません。単なる迎撃なら、他の地方将軍でも良い。いや、砦まで一気に退いて、ミュルスからの大軍を待っても良い。それなのに、少数兵力でヤーマスとリブロフが出てきた。必ず、何らかの目的があるはずです」
「良いか、クリス。本来なら、すでに敵の砦を奪ってる。俺達は遅れてるんだ。遅れてるせいで、バロンやレン、アクトらは疲弊していく。だから、一刻も早く敵砦を奪取しなくちゃならねぇ」
「分かっていますが、動くには情報が不足しているんです。手の者が戻って来ないのも、気になる。もしかしたら、すでに始末されているかもしれない。そうだとするなら、何らかの策があると踏むべきです」
「俺達の士気は、逆襲からの連戦連勝で今や最高潮だ。戦には機がある。そして、その機は今だ。これを逃す訳にはいかねぇ」
「敵の援軍が来た事によって、機に微妙な変化があった、とは考えられませんか。ルイス軍師なら、ここで迂闊には動かない」
「ルイスの野郎は関係ねぇだろ。とにかく、俺は攻めるぞ。ヤーマスやリブロフといった若造なんぞ、俺が蹴散らしてやる」
「シーザー将軍」
 クリスが咎めるような口調で言った。しかし、親父は腕を組んで横を向いたままである。
 これ以上、話は発展しなかった。親父は獅子軍単体でも攻める意向を強く示し、クリスも渋々それに従う形となった。
 親父は明らかに焦っていた。敵の砦を落とせなかったばかりか、同胞も多く失ったのだ。まともに戦う事もできず、伏兵という卑怯な戦法で多くの同胞が死んだ。
 俺も目の前で、同胞が死んでいくのを見ていた。槍で串刺しにされた、あの嫌な音は、今でも耳に残っている。それを思い出すと、拳は熾りのように震えた。助けてやれなかった。自分の身を守るので、精一杯だった。
 前の隊長も、敵の弓矢で落馬した。その後の事など、考えたくもない。敵味方の騎馬が居た事を考えれば、踏み潰されてしまったのだろう。その隊長の部下の一人が、今の隊長である。
 とにかく、獅子軍は敵の伏兵で完膚なきまでに叩き潰された。無念に死んでいった同胞の為にも、復讐は果たさなければならない。
 その日の正午過ぎに、俺達は出陣した。獅子軍四千、クリス軍一万である。クリス軍を中央に配し、獅子軍は両翼に分かれていた。
 開戦の鉦が鳴った。敵軍のほとんどは歩兵で、ヤーマスやリブロフの旗も、歩兵部隊の中にある。
 敵軍は真っ直ぐにクリス軍にぶつかっていった。クリスは様子見のつもりなのか、堅陣のままである。一方の敵軍は、ヤーマスとリブロフの旗を中心に、グイグイと前進していく。じわりと、クリス軍は後退させられていた。
 遠目で見るとよく分かるが、敵は前進と踏ん張りを上手く使い分けている。つまり、呼吸である。クリス軍が息を吐く時、すなわち力が抜ける時にグイグイと押し込み、吸いこんで力が入る時には、踏ん張りに切り替え、クリスの反撃に抗する。
 クリスは堅陣から、陣形を変えなかった。攻める気がないのか。だとしたら、腑抜けだ。俺がそう思った時には、親父の旗が振られていた。突撃の合図である。
「仇を討つぞ。俺達、獅子軍は仲間の死を絶対に忘れねぇ」
 呟くように、俺は言った。直後、馬で駆け出す。偃月刀を天に掲げ、吼えた。周囲の兵達も吼えている。
 しかし、その瞬間、敵の二軍はクリス軍から離れ、すぐさま退き始めた。それも、急速である。辛うじて、隊伍は守られているものの、ほぼ退却と言って良い程の速さだ。
 その姿を見て、俺は無性に腹が立った。味方の兵が、逃げるのか、と罵声を浴びせている。俺も大声で、勝負しろ、と叫んだ。
 親父が追撃の合図を出した。二手に分かれていた獅子軍は一つにまとまり、逃げる敵軍を追う。相手は歩兵だ。すぐに、その背中に追い付いた。
「逃げる敵は騎馬の恰好の的だ。今こそ、同胞の仇を討つぞっ」
 隊長の声。敵の最後尾。すぐ目の前に敵の背がある。
 次の瞬間、横から圧力が掛かった。敵の騎馬隊である。二千程だが、臆せずに突っ込んできた。舌打ちと同時に、迎撃する。しかし、敵の目的は撹乱だったのか、二度目の突撃はない。その間に、敵歩兵は後退している。
 尚も追った。敵歩兵は、所々で反撃の構えを見せるが、まともにぶつかろうとすると逃げる。そして、その時には敵の騎馬が必ず撹乱を仕掛けてくる。これが、かなり鬱陶しい。
 とにかく追い回した。相手は歩兵だから、すぐに追い付ける。問題は撹乱で出てくる、敵の騎馬隊だ。
 親父の旗。獅子軍が二手に分かれた。二千ずつ。一方は、追撃。一方は、騎馬隊の迎撃である。俺の隊は、追撃だった。
 迎撃隊が、敵の騎馬隊に向かっていく。辛うじて付いてきていたクリス軍の二千も、それに合わさった。残りの八千は追撃隊に付いてくるつもりらしい。だが、騎馬に歩兵が追い付けるのか。
 敵の歩兵は、算を乱しつつあった。獅子軍に抗しきれないと判断して、次々に退却しているのだ。ただし、ヤーマスとリブロフが最後尾に出てきている。殿(しんがり)のつもりなのだろう。兵力は、二千ずつといった所か。
 偃月刀を構えた。もう、敵の騎馬隊が邪魔をしてくる事はない。駆ける。敵の背中。
「蹴散らしてやらぁっ」
 先頭だった。それが何故か、心を躍らせた。俺が獅子軍の先頭に居るのだ。
 偃月刀の一振り。敵を斬り倒す。そのまま、武器を振り回しながら敵陣を突っ切った。味方の兵も後から付いてくる。
 その時、ヤーマスとリブロフの旗が動いた。二つの旗本。こちらに向かって移動してくる。
 何でも来い。そういう気分になっていた。俺は獅子軍のシーザーの息子だ。どんな敵であろうと、ぶっ潰してやる。
「下がれ、ニールっ」
 親父の声だった。振り返ると、前衛の立ち位置に親父は居た。
「息子のてめぇが張り切ると、親である俺も張り切りたくなるだろうが」
「俺は同胞の仇を討つ。親父はもう歳だ。下がってろよ」
「クソ生意気な。良いか、ニール。今は最高の機だ。機ってのは、肌で感じなくちゃならねぇ。そして、獅子軍の機は、今だ」
 親父が一度だけ、吼えた。
「てめぇら、付いてこいっ。若き日のシーザー、ここに蘇るっ」
 言って、親父は馬の手綱を目一杯に引いた。同時に駆け出す。その姿を見た兵達が、一斉に喊声をあげた。地を轟かせる程の、大喊声である。シビれていた。俺は、親父にシビれているのを自覚していた。
 兵達の勢いが増した。駆けた。いや、飛んでいた。そう錯覚してしまう程の、勢いだった。ヤーマスの旗。見えた。
 貫く。敵も身構えていたが、問題にならなかった。貫き、吹き飛ばした。続いて、リブロフ。
「手負いでも、獅子は獅子だっ」
 親父の叫び声。親父は先頭に居る。
 再び、貫く。それで、敵は潰走に陥った。ヤーマスもリブロフも、旗を降ろした。逃げようとしているのだ。二千の獅子軍が、四千の歩兵を飲み込んだ。
「このまま一気に、砦を攻め落とす、いけぇっ」
 大喊声。逃げる敵兵を蹴散らしながら、竜巻の如く突き進む。

     

 全身の震えが止まらなかった。恐怖。目の前で繰り広げられている光景に、僕はただ恐怖していた。
 最初は策が見破られたのかと思った。ヤーマス、リブロフの二将軍に獅子軍を誘引させ、落石の罠で殲滅する。そういう策である。援軍でやってきたクリスが策を看破する可能性はあったが、嵌める自信はあった。シーザーが焦り、短期決戦を臨んでくるだろうという事は、容易に想像できたからだ。しかも、クリスの制止も聞かずに、攻め込んでくる。メッサーナは、クリスの援軍を得てからは、連戦連勝である。つまり、勢いを得ているのだ。
 だが、その勢いが段違いだった。ヤーマス、リブロフは一瞬で粉砕され、全てを巻き込む竜巻の如く、獅子軍は攻め上がって来ている。そして、いま僕が居る落石地点のすぐ背後は、砦である。その砦には、二千の守兵しか居ない。それ以外は、全て前線に回しているのだ。
 味方の軍は、ただ蹴散らされるだけで、大潰走の様相を呈していた。かろうじて、ヤーマスとリブロフの旗本だけが、隊伍を守りながら退いているが、迎撃の余裕は全く無いだろう。旗を降ろして、退却に専念しているのだ。
 今、攻めている獅子軍の兵力は、二千のはずだ。僅か二千の騎馬隊が、四千の歩兵をゴミのように薙いだ。それも、率いているのは凡将ではなく、ヤーマスとリブロフという信頼の置ける武将だ。それを、ゴミのように。
「二倍の兵力なんだぞ。ちょっとぐらい、ちょっとぐらい抵抗できるだろう」
 そう呟いて、平常心を保とうとした。いや、自分を納得させようとした。だが、違う。おそらくだが、違うのだ。これが、現場の戦であり、真の戦なのだ。つまり、単純に獅子軍が強い。シーザーを先頭に据えた獅子軍は、それ程に強い。
 震えが止まらなかった。もう残り数十秒で、獅子軍は落石地点に到達するだろう。だが、その落石で倒せるのか。いや、本当に落石が成功するのか。落石すら、粉砕してしまうのではないのか。
「ノエル軍師」
 傍に居た兵が、声をかけてきた。僕の落石の合図を待っている。
「分かっている。しかし、まだだ。まだ、引き付ける」
 僕が編み出した策じゃないか。その僕がうろたえてどうするのだ。確かに味方は潰走して、獅子軍に蹴散らされた。だが、結果的には獅子軍を誘引できている。だから、落石で、仕留められる。
「仕留められるはずだ」
 獅子軍が、谷間に入ってくる。シーザー。先頭に居る。先頭に。瞬間、目が合った。言いようのない恐怖が全身を走る。その恐怖が、僕に逡巡を与えた。
「や、やれぇっ」
 叫んだ。逡巡の最中(さなか)だった。直後、岩が崖下へと雪崩れ込んでいく。

 地が揺れた。轟音で、耳が裂けそうになった。背後で何かが起きたのだ。しかし、それでも馬は止まらない。何かに憑かれたように、馬は駆け続けた。
 俺も、振り返らなかった。いや、振り返る事が出来なかったのだ。親父が、獅子が、一心不乱に駆けている。だから、俺も前を見続けていないと、置いていかれる。周囲の兵達も、必死に親父の背を追いかけていた。
 その親父が、不意に振り返った。眼。親父の眼が、燃えていた。どうしようもない程に、燃えていた。その次の瞬間、親父は天に向けて吼えた。
「いけぇぇぇっ」
 親父が偃月刀を天に掲げる。それに呼応し、俺も吼えた。周囲の兵達も吼えた。背後で何かが起きた。しかし、それを意に介している暇はない。いや、そんな事など、どうでも良いのだ。今の獅子軍は、無敵だ。天下無敵だ。そうだろう、親父。地が揺れようとも、轟音が鳴り響こうとも、俺達は突き進んでる。だから、今の獅子軍は天下無敵だ。
 砦。見えた。門が開いている。あれが、獅子軍の目指すべき場所。そう認識した瞬間、敵兵が一斉に出てきた。最後の悪あがきか。無駄な事をしやがって。しかし、同時に悪寒が全身を走る。
 敵兵。全員が、弓矢を構えている。そして、悪寒は何か別のモノに変わった。敵の狙い。親父。まさか。
「親父、駄目だっ」「放てぇっ」
 どこかで聞いた声。それが、俺の声にかぶさった。
 風切り音。何故か、鮮明に聞こえた。耳を貫き、脳に直接、それは伝わった。
 無数の矢は、一直線に的へと吸い込まれていく。的。
「親父ぃっ」
 身体が、親父の身体が、仰け反っている。何かに導かれたかのように、敵の矢は全て親父の身体に吸い込まれた。無数の矢が、親父の全身に突き立っている。しかし、それでも、親父は手綱を握り締めて、馬上で踏ん張っていた。
「獅子軍は、き、騎馬隊だ。落ちてたまるかよ。矢ぐれぇで、落ちて、落ちてたまるか」
 さらに矢。その内の数本が、親父の身体を貫通する。
 だが、親父は口元で笑っていた。それが、とてつもなく雄々しく見えた。誇り高き獅子。
「そんな、親父」
「てめぇら、俺に構うんじゃねぇっ。目の前の敵をぶっ潰せぇっ」
 咆哮。獅子軍が、駆ける。だが、親父は動かない。抜き去る。同時に矢の乱舞。しかし、それらは全て背後の親父に向けて放たれていた。敵。眼前だった。
 俺は腹の底から声を出した。真っ二つに敵をぶった斬り、砦へと駆け抜ける。
 敵が背を見せた。逃げる。その瞬間、俺は振り返った。何かに、呼ばれたような気がしたのだ。
「親父ぃ、勝ったぜ。なぁ」
 声が、震えていた。次いで、涙が溢れ出てくる。
 親父は、馬上で首だけを前に倒し、静止していた。全身に矢が突き立ちながらも、偃月刀と手綱だけは、尚もしっかりと握り締められている。ただ、もう親父は動かない。声を発する事もない。
 風が吹く。その風は、獅子の最期を告げる風だった。
 涙を拭って、俺は一度だけ天に向かって雄叫びを上げた。だが、涙は、止まらなかった。だから、俺は吼え続けた。

       

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Neetsha