後から思えば、別にホテルである必要性など全くなかったのだ。
カラオケでも漫画喫茶でも、最悪カプセルホテルみたいなものでも良かった。
埋め合わせだといって宿代を出すくらいの余裕もあったはずだ。
酔っていた……という言い訳が効くかどうかは微妙だが、とにかくあの時の俺は正常な考えの回る状態ではなかった。
『マイナス』を取り戻さなければという考えが自分の逃げ道を封じ、『おあいこ』であるという認識があの時と同じ『ホテルへ行く』という行動に正当性のようなものを与えていた。
アイツがどことなく上機嫌な様子を見ても、その意味も考えずにこれで機嫌が取れると――負け分を取り返せるとばかり考えていたのだ。
そんなに相手の顔色を伺って付き合うなら、他の人付き合いと何も変わらない。『ぶん殴れる』などと表現したほど割り切って付き合える関係とは、天と地ほど遠くなっていたことにも気付かずに。
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新宿でも一際人で溢れる靖国通りとはいえ、平日の深夜――電車も走らない時間帯となってはさすがに人通りも少ない。
さらに丸井を通り過ぎ、テアトル新宿辺りまでやってきてしまえば、どこへ行くのか知れたような連中ばかりが目に付くようになる。
要するに、ここから一、二本駅から離れる方向に道を入っていけば、『そういう』ホテルが溜まっているのだ。
普段では考えられないほどしんとした街の様子にあてられてか、俺たちは口数も少なく、つかず離れずの距離を保ちながら歩いていた。
それでも豊田は口元に薄い笑みを浮かべ、この選択に微塵の後悔もなく、この行動に何の緊張もないのが見て取れた。
逆に俺は、自分がかなり緊張しているのを自覚する。喋らないおかげで平静を装えてはいるが、数度会っただけの女とホテルに向かっている状況で、欠片も緊張しないほど俺は図太くない。
この間も同じことをしたじゃないかと言われそうだが、今回と前とでは状況が同じでも目的が全く違う。
『お前、こういうの全然気にならないの?』
そう聞きかけて、この間の会話を思い出した。
彼女は俺に言ったのだ。『木多さんって、メンタル強いんですね』と。
ふと思った。豊田は無遠慮で、頭が悪く、言葉遣いの酷さに無自覚なだけであって、図太いわけではないのかもしれない。
事実、彼女は酔った自分をホテルに連れ込んだ俺から逃げ出し、しかしそのまま俺を放置することなく詫びのメールをよこした。
それはどちらかと言えば、人からどう思われるかを気にする人間の行動だろう。
そんな人間が、常識で考えれば動揺するような行動を平然と行える理由には、二つしか思い当たらない。
すなわち、コイツも酔っていて動揺する感覚が失われている、という可能性。
だが、あれだけ飲んだ俺の酔いがほとんど冷めている以上、この可能性はほとんどないと言っていい。
……そうでなければ、コイツにとってこれは動揺するようなほどでもない――慣れた状況だったというだけの話だ。
あまり長く歩いていたくなかった俺は、そこそこキレイめなホテルを選んで、早々に豊田を促した。
幸いなことにと言うべきか、この辺りの小奇麗なホテルはどこも自動受付だ。部屋の内装写真がずらりと並んだパネルの中から、空室の中で一番安い部屋を選び部屋番号が書かれたボタンを押す。豊田は俺がそれをしている間、何も口を挟まなかった。
部屋は五階で、俺たちは狭いエレベーターに乗る。ボタンを押しかけた俺に向かって、ようやく豊田は口を開いた。
「よく来たりしてるんですか?」
「……どういう意味だ?」
「いや、そのまんまの意味ですけど。こういうホテルによく来たりしてるのかしら……っていうただの雑談ですけど」
唐突すぎて、本当に意味の分からない問いだった。
俺に『お前モテないからこんなトコめったに来たこと無いだろ』と遠回しにか言いたいのかと思ったが、顔色を見るとどうやらそういうことでもない。
からかうような調子でもなく、エレベーターの壁に寄りかかった豊田は、俺から若干視線を外している。
豊田の意図が全く掴めないまま、しかし平静を装うなら受け答えをするしかない。
「生憎だが、最近は無縁なもんだよ。そもそも、こういうトコって実家暮らしとかでやりづらい人間が使うものじゃないのか?」
「そんなことないんじゃないですか? 言うじゃないですか、『アミューズメント』ホテルって。場所が違えば気分も違いますし、最近は色々面白い部屋とかあるんですよ?」
「たとえば?」
「そうですねー……純和風の部屋とか、全面鏡張りのミラーハウスみたいなやつとか、あと露天風呂が付いてるのなんかもありましたね」
「へー……お前は随分とお詳しそうだけど、やっぱりよく来られるんですか?」
その言葉が嫌味として排出されたことを、口にしてから自覚した。恥ずかしさで顔がかあっと熱くなる。
ここで俺が不愉快そうな形を見せれば、それは俺が豊田に嫉妬しているみたいじゃないか。
嫉妬は良くない。自分にとって良くない感情だというのももちろんあるが、なにより他人にそんな感情を持っていると思われるのが恥ずかしかった。
なぜなら、嫉妬とは『下』の人間が『上』の人間に対してするものだからだ。自分が劣っている、負けている、それが悔しい、そういったマイナスが生み出す感情なのだ。
俺が今取るべきだった態度は、取るに足りないことを聞いたかのようにさらっと流してしまうことだったのに。
「いやいや、私だって来るの久しぶり……でもないですけど、こないだ木多さんと来ましたけど、それはまぁ別として久しぶりですよ」
俺の考えを察するはずもなく、俺の嫌味を気にした様子もなく、豊田は薄い笑みを浮かべている。
「最近はよくテレビでやってるんですよ、そういうの」
「ふうん」
エレベーターから降りながら、興味なさげに答えた。
豊田は俺が思っているよりももっと、ふしだらな女なのかもしれないと感じながら。
残念ながら俺たちが入ったこのホテルは、アミューズメントという言葉とは程遠いようだった。
申し訳程度に設置された膝丈テーブルと二人掛けのソファ、片隅にある三十インチほどの液晶テレビ、そして部屋の三分の一程を埋めるダブルサイズのベッド。都内のどこにでもあるような、特筆すべきところのないラブホテルだ。
豊田はベッドに、俺は少し迷ってソファに腰を下ろす。そこで不意に、喉が渇いていたことを思い出した。コンビニにでも寄ってくれば良かったと今さら思っても後の祭りだ。
ここでケチってもしょうがないと、俺はテレビの脇にあった小型の冷蔵庫を開けた。それぞれのポケットに入っているピンク色のアイテムを見ないようにしてお茶を取り出す。
唐突に、衣擦れの音が後ろから聞こえた。
「木多さんって、する前にシャワー浴びる人ですか?」
「……は?」
振り返ると、豊田はベッドに深く腰掛けてカーディガンをベッドのサイドデスクに丸めて置いたところだった。
反射的に「何の前だ」と聞きそうになって、自分がいかにアホなことを聞こうとしているかを自覚する。
そんなことは決まっている。セックスだ。
そうだ、セックスだ。ずっとその単語を考えることさえ避けていた。そのためにここに入ったくせに、そのためにこの場にいるくせに、ギリギリまで現実から逃げていたかったのだ。
「私はどっちでもいいんですけど、酔ってるのにシャワー浴びると眠くなっちゃいそうだし」
「……そうだな」
ネクタイをしているときの癖で、シャツの首もとに指を突っ込んで左右に動かす。息苦しさでどうにかなりそうだった。
それはまるで、童貞のような緊張だ。
ごまかすようにお茶を口に含み、飲み下す。立ち上がりベッドに近付くと豊田はやはり笑みを浮かべている。自分と比べてその顔はあまりに余裕たっぷりに見えた。一瞬だけ彼女が年上ではないかと錯覚するほど。
安っぽいマットレスのスプリングが、ぎしりと音を立てる。顔が今までに無いくらい近付くと、化粧で縁取りされた大きな目が俺を見据えていた。顎の左側にある小さなほくろに初めて気付く。
一年と数ヶ月ぶりに触れる女の唇。そっと指でなでた後、自分のそれと合わせる。
一度触れ合ってしまえば、そこから先は早い。きっかけを得て納得した精神は今までの葛藤や緊張をたやすく
置いてけぼりにしてしまう。
夏の薄着はそれを加速させることに一役買っていた。引ったくるようにTシャツを脱がすその間すら、惜しむように唇を合わせ続けた。
ロマンティックな理由など無い。ただ、そうしてしまわなければ正気に戻ってしまいそうだっただけの話。
俺がビールをかけた日とは違う、豊田が着ていたのは粗末なグレーの下着だった。片手でそれを鷲掴みながら、もう片方の手を背中に回す。ホックを一息に外すと、豊田が口を離して「へへっ」と笑った。
「……なんだよ?」
「え? いやー、ちょっと……」
言いよどむ豊田を無視して、下着の中身を目の前に晒す。出てきたそれは、想像以上にきれいだった。形は整った円錐型で、ギリギリいやらしく感じる程度に豊満。それほど豊富というわけでもない俺の経験の中では、見たことがないレベルの逸品だ。
無意識に喉が鳴る。つかんでいた下着を適当に放ると、豊田に目配せで確認を取り今度はそちらに口を寄せていった。
「……んっ」
鼻に抜けるような声がもっと聞きたくて、やや乱暴に舌を中央の突起に押しつける。
客観的に見れば、今の俺はとてつもなくみっともないに違いない。さっきまで勝敗がどうだとか思案していた男が、今では乳児のように乳にしゃぶりついているのだ。
空いた手でもう片方を揉む。何かにこの柔らかさをたとえようと思ってもうまくたとえきれない。
全く、男ってのはバカな生き物だ。結局のところ、どう見栄を張ったところでこの双丘には逆らえないのだ。女性のすべらかな肌に触れているだけで、大体のことはどうでもよくなってしまうのだから。
豊田の手が背中に回る。こちらの舌の動きに合わせて、シャツを握る手に力が入るのがわかった。
「木多さん」
見上げると、泣きそうな顔をした豊田がいた。
初めて見る豊田のそんな顔に、自分の熱が上がっていくのを感じる。
もっと近くで顔が見たい。そう思い身体の上を唇でなぞり上までやってくると、今度は豊田が俺の胸に顔を寄せる
てしまう。背中に回された手に痛む程締め付けられる。豊田の表情はもう見えなかった。
「木多さん……」
「なんだ?」
答えながら俺は、口を言葉を吐き出すことに使うのすらもったいないと感じていた。
もっと唇で肌に触れていたい。色々な部分を舐め回してやりたい。豊田にも同じことをしてほしい。さっきまでの躊躇が嘘のように、俺は豊田の身体に惹かれていた。
「すき……」
目を見開く。
その言葉が正しく脳に届くまでに、もう一度同じ言葉が繰り返される。
「好き」
背中に冷水をぶっかけられたような気分だった。
酔いも、性欲も、彼女に対して感じた感情も。一瞬であらゆるものが冷めていく。
台無し、そう、台無しだ。
その言葉だけで、一気にいろんなものが台無しになってしまったように感じた。
呆然としている顔を見られなくてよかった。呆けていた頭を無理矢理現実に引き戻しても、感情はまるで付いてこない。それでも、俺はこの場を繋げなくてはならなかった。
豊田は回答を求めている。ここで何も言わないのは絶対に変だ。
そう思い必死に頭を巡らせて、出てきた言葉は何の面白味もない、「ああ」という喉を鳴らしただけの言葉だった。
気持ちが冷めても色々なものが収まる訳ではない、身体はもう止まらない。だが心は、起き抜けに洗顔した後のようにさっぱりとしてしまっていた。いくら戻りたいと願っても、あのまどろみには戻れない。
顎に手をかけ顔を上げさせる。潤んだ瞳から逃げるように目を閉じて唇を吸った。何も口にさせないように、何も口にしなくていいように。
背中に回っていた手がいつのまにか俺のベルトを緩めているのに気付きながら、すでに俺は自慰の後のような空しさを感じているのだ。
今夜はきっと忘れられない夜になる。シャツのボタンを外しながら俺はそう確信した。
思い出す度に、吐き気を催すほど。