翌日、俺は会社を休んだ。
色々と疲れていたのか豊田に起こされた時にはもう八時を回っていて、着替えもせずに遅刻で出社する気にはどうしてもなれなかったのだ。
そう、今回豊田はちゃんと隣にいた。俺が目が覚めると一糸まとわぬ姿のままで、寝ている俺の頭を撫でていた。年上としてどうとか普段の俺なら思ってしまうところだが、その時は何故かひどくほっとした。
やり返そうと彼女の髪に手を伸ばすと、バリバリとしていて指通りがものすごく悪い。そういえばシャワーも浴びずに寝てしまったことを思い出して、職場に体調不良で休む旨を伝えてからチェックアウトを遅らせて交代で風呂に浸かった。
「木多さんも一緒に入る?」
懲りもせずそんなことを言ってきた豊田には、とりあえずデコピンをしておいた。
昨夜の言葉について、豊田は俺と別れるまで何も言ってこなかった。
あの言葉を信じた訳じゃない。むしろ逆だ。そういう最中の言葉なんて、言質としては最低だ。信じる方がどうかしている。
だから不快だった。それがその場限りのものだと分かったから。
自分に対しての言い訳だったのか、そういう時にそういう事を言う癖のある女だったのか、俺には分からない。だがアレは確実に、真剣な気持ちから絞り出されたものではなかっただろう。
雰囲気に乗せられて、もしくは自分を正当化したくて、『好き』なんて言葉を口に出したことがショックだったのだ。豊田のことを誠実な奴だなんて、欠片も思っていなかったくせに。
それは失望だ。それが意味するところを俺はあの時に初めて自覚した。
俺は、豊田に知らず知らず期待していたのだ。その期待を、自覚した瞬間に裏切られた。
カッコ悪いことを言ってしまおう。俺はあの時、傷ついたのだ。
休み明けの昼休み、そうなるだろうと覚悟はしていたが早速俺は明石さんに捕まった。俺の病欠なんて彼女にとっては嘘に決まっているのだから、まぁ当然のことだろう。
「なにがあったの?」
定食屋でサバ味噌定食を頼むと、何かあったことを前提に明石さんは切り出した。俺は豚カツ定食を頼みながら思考を巡らせる。
「なにがって、明石さんが期待してるようなことは何もありませんでしたよ?」
苦笑いを浮かべながらまずはそう答えた。
実際、里山の不倫に関してはほとんど進展はなかったわけで、あながち嘘というわけでもない。
明石さんはあからさまに訝しげな顔をした後、はっと何かに気付いた仕草をして哀れむような目で俺を見た。
「あのね、木多君。友達を庇いたいのも分かるけど、健人君と会いに行った翌日に休んだりしたんだから、何もないで通るわけがないでしょう」
コロコロ変わる表情と子供に噛み含めるようなその言い方が面白くて、思わず頬が緩んでしまう。それを見て、明石さんはさらに不機嫌そうな顔をした。俺は慌てて頭を振った。
「いや、ホントですって! 正直言うと休んだのは二日酔いのせいですけど……本当にそれだけです」
「それは、何も聞けなかったって事?」
「そうですね」
さくっと小気味よく返したところで店員が盆を持って現れた。すかさず白米で自分の口を塞ぐ。
昼休みは短い。空腹で午後の業務と対面したくなければ時間を無駄にするべきではない。それが分かっているから、明石さんも渋々といった様子で俺に倣った。
「そんな風にあからさまに隠したって、健人君の疑いが深まるだけふぉ!」
「ご飯粒飛ばさないでください」
悔しそうな顔で机に落ちたご飯粒を拾う明石さんを見ていると、心が洗われるような気分になる。色々なことで毛羽立っていた心が癒されていくようだ。
「隠してるんじゃないんです。俺だって気になったから里山と話したわけですし、その上で嘘なんか吐きませんよ。そんなことするくらいなら、最初から明石さんを突っぱねて一人で調べます」
本当は、里山に対してより明石さんに思うところがあってこの話に乗ったのだが、今はそうではないし、彼女がそれを知る由もない。
「……探りを入れたときの様子とか、おかしな事はなかったの?」
「探りを入れたっていうか……聞いてみたんですけどね、不倫してるのかって」
「ぶほォ!」
目の前で凄い音がした。
その爆発の瞬間、明石さんの顔はあまりにも女性的ではなかったとだけ認識しておくことにして、とりあえず俺は水のコップを彼女に差し出した。
「どうぞ」
「……ありがと」
明石さんの俺を見る目に段々と込められていく敵意を感じつつ、取り繕うように大げさに肩をすくめた。
「そんなに驚かないでくださいよ」
「驚くに決まってるでしょう! 聞くにしたって、もうちょっとやり方ってものがあるんじゃない?」
「いや、もちろんそこまで直球では聞いてないですよ、流石に。要約ですよ要約」
「……なんだ、びっくりした。確かにいきなりそんなこと聞かれたら、素で返しちゃうような気もするけど。ないわよね、そりゃあ」
明石さんの名前をいきなり里山に伝えてしまったことは伏せておくことに今決めた。絶対に酷く怒られる気がする。
「でも、遠回しにでもそういうことを聞かれて何もボロを出さなかったワケよね? だったらやっぱり和沙の勘違いなのかなぁ」
そう言って吐いた明石さんのため息は、後輩の心配が解消されてほっとした、というものとは多少色の違うものに思えた。
言ってみれば、少しがっかりしたような嘆息。
意外ではあったが、納得できないわけではない。誰だって会社と家との往復で似たような毎日を繰り返している中、ドラマのようなシナリオを身近に見つけてしまったら多少は期待してしまう。このくらいの野次馬根性を責めることなんて、誰にもできないだろう。
この一件は本人たちに任せ、俺と明石さんは手を引くべき。それが今の今までの俺の考えだった。だが今の反応を見て、打算的な自分がほんの少しだけ鎌首を上げる。
明石さんは思いの外乗り気のご様子だ。このまま言いくるめて終わらせてしまうより、里山の様子を正直に伝えてこの合同捜査を長く続けていた方が親密になれるかもしれない。
親密になってどうなるとかは問題ではなかった。そこは重要ではない。問題は、今繋げられそうなものを繋ごうとしないこと。それは『損』な選択だぞと、打算的な自分が叫んでいた。
「もう一度、和沙から話を聞いてみる」
結局話は結論の出ないままで、明石さんからそう聞いたところで俺は昼休みを終える。
自分の机に戻ると、隣の席の同僚がニヤついた半笑いで話しかけてきた。三十代半ばのこの同僚も、俺と同じで仕事のあまりない状況に腐り始めている一人だ。その証拠に、昼休み終了を告げる放送に全く耳を貸さずこうして他人に構っている。
「なあ、木多ってもしかして、営業の明石さんと付き合ってるのか?」
「え……いや、違いますけど。なんでです?」
「なんでって、お前……。最近喫煙所でいつも二人でいるだろうが。タバコ吸ってる奴なら誰でも気付いてる。どっちかと顔見知りな奴は大体疑ってると思うぜ?」
今日だって呼びに来てまで飯一緒に食いに行ってたしな、という同僚の言葉を聞いて、妙な感慨に襲われた。
正直、いつかはそう見られるだろうと思っていた。休憩中の喫煙所は部署を問わず人で溢れているし、確かに俺たちは二人で話していることが多い。しかし、そんな視線には今の今まで全く気が付かなかった。そんなに注目されていたとは……。
ふと気になって、俺はパソコンをスリープから回復させるのをさておき、同僚の方に向き直った。
「明石さんって、そんな注目されるほど人気あるんですか?」
「あ? いや、人気っていうんじゃねぇよ。顔だけで言ったら普通だろ、彼女」
俺が彼氏でないと知って気が緩んだのか、そんな失礼なことをのたまう同僚に心の中で肩をすくめる。交際していなかったとしても、俺と彼女に親交があることは変わらないのだが。
「えーっと、明石さんていくつだっけ」
「詳しくは知らないですけど、俺より二つ三つ上じゃないですかね?」
「そしたらもういい歳だ。結婚適齢期の女が職場で男とよく二人でいるってなれば、そりゃあ下世話な噂も湧くってもんだろ。……木多、お前職場結婚とか抵抗ない方か?」
無精ひげの顎を歪ませて下卑た表情を作る同僚の言いたいことをとっさに理解する。
「抵抗ありますし、そんなことにはなりませんよ」
「ならいいけどな、気が付いたら銜え込まれてた、なんて事の無いようにしろよ」
そう言って同僚は低く笑いながら自分の机に向き直る。思わずパーテーション越しにため息を吐いた。
冗談じゃあない。
俺の日常の中で、明石さんはどちらかと言えば癒しのポジションに置かれていた。年上なのにちょっとからかいがいがあって、真面目で――頭のいい人なのだろう――仕事についての話しをしていても楽しい。
そういう……恋愛とか性的な内容とは一番遠い女性の知り合いだと勝手に俺は位置づけていた。
だが確かに、適齢期と言われればその通りだ。むしろあと数年もすると行き遅れなんて呼ばれてしまう年齢。俺には見せていなくとも、結婚について全く考えていないことは無いのだろう。
自分がその候補に挙がっていると自惚れたりは流石にしない。だが、人事だとしたって結婚とは重い言葉だ。
自問してみる。自分が明石さんからそういった対象として見られていたとしたらどうだろうか。
……今のところは、本気でそういう気はないと出た。
彼女とはあくまで職場での付き合いとして、仲良くやっていきたいと思っている。いくら考え直しても、今はそれが本心だ。
そもそも、俺は結婚したいとそれほど思っていないらしい。
樫谷のように『しない』と言い切ったりはしないが、『まだいいのではないか』という無根拠な発想が自分の中にあった。明石さんとは一つ二つしか違わないのだから、逆に言えば俺も十分結婚適齢期なのだが。
彼女は欲しいと思う。一緒に楽しく遊んで、セックスをして、適度にケンカをしたりする。日常に起伏を付けてくれる存在としてそれはとても魅力的だ。
だが、結婚となれば話は違う。法的な契約を挟み、特別な理由がなければ一生を共にする存在。一生を共にしてもいいと思える存在。
そんな人がいつか現れるのだろうか。いや、そもそも、自分に人をそこまで想える日が来るのだろうか。
この間樫谷に言われたとおりだ。俺には自主的に、こういう人と結婚したいという希望がまるで無い。
目標がないまま走っていても、そりゃあゴールできた時の実感なんて湧くわけがない。
「木多、ちょっといいか」
突然モニター越しにかけられた声に、慌てて流し見ていたインターネットのウインドゥをメールソフトの後に隠す。
「はい、なんでしょう」
努めてゆっくり顔を上げると、誕生日席に座った課長とメガネ越しに目が合った。
課長は立ち上がり俺の机までやってくる。恰幅がよく背も高い課長に隣に立たれるとかなり威圧感があり、思わず唾を飲み込んでしまう。
目配せでフロアの外へと促される途中、軽く席を振り返ると隣の席の同僚があの半笑いで俺を見送っていた。
休憩室の前の自販機でコーヒーを手渡された俺は、お礼を口にしながら内心戦々恐々だった。最近の俺は仕事が手に付かず、元々仕事そのものがない部署の空気も手伝って完全に給料泥棒だったからだ。
仕事中にネットは見る、外に出かける用事があれば寄り道、まず間違いなく直帰。言われたことをやれもしないほど落ちぶれてはいないつもりだったが、逆に言えば言われたことしかやらないくらい腐っていたのだ。
どんな説教がくるのかとびくついていた俺に、しかし課長はどこかそわそわした調子でなかなか話を切り出そうとしない。
墓穴を掘るのが怖くて黙っているのも限界で、俺はおずおずと口を開く。
「あの……どうかしましたか?」
ざっくりとした俺の問いに、それでもきっかけにはなったのか上司が俺の目を見る。
「あのな、木多。お前……婚活とか興味あるか?」
「……」
瞬間、俺がいかにとんちんかんな勘違いをしていたかに気付いた。
いやぁ、こりゃあまたタイムリーな話題で。どちらかと言えば悪い意味でだが。一昨日までの俺だったなら、多少話しに乗っかって上司の機嫌を取る方を優先しただろう。
黙っている俺が考えあぐねていると判断したのだろう。
「実はな、お前と歳が近いいい見合い相手の話が――」
勝手に話を進めようとする課長に、かなり食い気味に俺は笑顔で言った。
「全くもって興味無いです」