Neetel Inside 文芸新都
表紙

腐女子、往きる
第二幕「修羅の道」

見開き   最大化      

 筆を持ち、原稿に立ち向かう三世橋。
 その心を代弁するには、数多の言葉が必要となり、なおかつそれでも表現しきれるかは不明である。言葉という真円なる器に対して、今の三世橋の感情はあまりにも複雑怪奇になりすぎていた。
 まず混乱がある。
 円環を放り出され、謎の腐女子と出会い、そいつは有名漫画家の秘蔵っ子で、三世橋は夏に漫画家と戦う事になった。
 どうも三番目と四番目の読点に理解不能な何かが隠されているように三世橋には感じられたが、上手く説明する事が出来ない。とにかく今は結果だけが目の前に残され、文句を言ったり抵抗したりする機会が与えられていないのだ。
 その点に関しては、
(やれやれといった所だな……) 
 と肩を落としているのだが、一方で燃えるような熱情も覚えているのである。
 あの漫画家「里見四八」が、他ならぬ自分に注目しており、その上勝負まで挑んできている。敵として認識されている事それ自体に対する満足感。唐突に潤された承認欲求は三世橋にこれまでに無いやる気を起こさせた。圧倒的に実力で負ける誰かと、何かを競うという話になった時、「どうせ駄目だろう」と尻込みしてしまう者と「せめて一矢報いよう」と奮い立つ者がいるが、三世橋は後者だった。
 その影には、懺悔河という腐女子に対しての根本的な興味がある。
 懺悔河怪。飄々としていて、それでいて喧嘩っ早い所もあり、徹底した実力主義者で腕は確か。冷静なように見えてもその実煮えたぎる哲学を秘め、どこまでも謎めいているかと思えば、人間臭くもある。このように奇異な腐女子との出会いは紛れもなくこれが初めてであり、そしておそらくこれからも二度とは無いような事に思えた。見極めたい、と思わせる何かがあった。
 懺悔河と共に描く本は、どのようにして世界に受け入れられるのか。興味はそそられる。
 混乱の中の憂鬱。熱情の中の好奇。
 そして、これらの感情を更に大きな尺度で包み込んでいたのが、「描ける」というたったそれだけの事実だったのである。
 長く円環に籍を置いて、すっかり忘れていた感覚を三世橋は気づかぬ内に取り戻していた。
 描くのに場所も理由も縁故も必要ない。妄想を形とし、一瞬の輝きを現世に繋ぎ止める。
(今まで私は一体何を悩んでいたのだろうか……)
 こうなれば不思議で仕方なかった。
 男同士のまぐわいを想う事がこんなに素晴らしいという、たったそれだけの事に気づいた今の三世橋は、無敵だった。


 本来、腐女子同士で行われる戦いとは、萌語りにおける舌戦であるとか、関連商品、二次創作小物の自慢であるとか、そういった他愛も無い小競り合いであるのだが、里見が口にした「決戦」には当然それ以上の意味がある。
 こと漫画を描く腐女子にとっての決戦とはこれ即ち「真剣勝負」。同人誌の「頒布数」で競う勝ち負けのはっきりした戦いである。つまり、里見は三世橋、懺悔河の両名にこう挑んだのだ。
「三世橋とやら、我を退けたいと言うのならば頒布数で勝ってみろ」
 売れる物こそが本物であるとでも言いたげな、実に粗暴な理屈であったが、ある意味では正しく、これに異を唱えるのは真たる腐女子にとっての恥、つまり愚痴にしかならない危険がある。
 無論、何の関わりもない人物の発言であればそれは無視すれば済む話。あるいは単純に実力が上の者が諌めれば事は収まる。が、他でもない里見四八が、名指しで真っ向勝負を挑んできたのである。実力不足を公に認め、逃げる方がまだ賢いと誰もが思う所だろうが、三世橋にそれは出来なかった。
 相手は三世橋の好番(いわゆるカップリング)を知った上で、あえてその逆で勝負しようとしてきている。
 逃げられる訳がない。
 里見と別れた後、三世橋は懺悔河に仔細の説明を求めた。最初は懺悔河ものらりくらりとかわしていたが、いよいよ観念したと見え、里見の円環に拾われた経緯と、離反する事になった経緯の両方を語った。
 三世橋が眉間に寄せた皺を見れば一目瞭然で、例の正義感という奴が爆発した。同性愛は良い。しかし現実でそれを他人に強要するのは陵辱に他ならぬ。男同士ならまだしも許せるが、女同士でのそれは礼節を弁えた腐女子のする事ではない。と、たちまち憤怒。その様子を見、これは好機とばかりに詰め寄った懺悔河が、最終的に三世橋を落としたくどき文句はこうだった。
「こうなれば、おぬししか頼れる者がおらんのだ。組んでくれ」
 事情を知ってしまった後となっては、三世橋に拒否権はなかった。
 円環名は二人の名前を取り「怪光」と決まり、その日の内に青封筒による申し込みも済ませた。
 後は『夏』二日目の開催日である葉月の十六日に向け、ひたすらに原稿を描いていくのみ。死に場所は決まったのだ。


「三世橋。一週間が経ったが、原稿の調子はどうだ? 漫画台本(いわゆるネーム。コマ割りや台詞が書かれる)くらいは出来上がったか?」
「いや、まだ全くの白紙だ」
「何だと? この間のおぬしは描きたくて描きたくて仕方なさそうに見えたが……」
「……」
「ねた切れという奴か?」
「いや、むしろその逆だ。描きたい物が多すぎて、一体どこからどう描き出していいものやらまるで分からんのだ」
 次の週の日曜日。再び集まった三世橋と懺悔河は喫茶「風来堂」にて打ち合わせをしていた。会議のみならば空電話で十分だったが、やはり会って直接話がしたいというのと、懺悔河が仕上げてきた漫画台本を見せたいという理由があり、秋葉原での時給労働を早めに切り上げた懺悔河が池袋くんだりまでわざわざ出てきたのである。
「それは困ったな。おおよその頁数だけでもはっきりしないと、印刷費も計算出来ん」
 言われてから、はっと気づく三世橋。
 今までは、決められた頁を仕上げて明坂に提出すれば、三世橋の仕事はそこで終わりで、印刷費や同人誌の搬入にかかる支出、値段の設定と売り上げ分配などの面倒な手続きは全て任せきりにしていた。たった二人でやるという事はつまり、その作業も二人で分担しなければならない訳である。
「……懺悔河、すまん。私には本を作るのだという自覚が足りておらんようだ」
 謝罪を受け、懺悔河は三世橋の仏頂面をまじまじと見つめ、「ふふ」と笑みを零す。
「何、気にするな。『描きたい物が多すぎて』結構な話ではないか。その目の隈、たかだか一日の徹夜で出来た訳でもなさそうだ」
 懺悔河が指摘した通り、三世橋はこの一週間、ろくに寝ていない。学校から帰るとすぐ机にかじりつき、真っ白な原稿に向かって筆を取るのだが、初めの一歩が踏み出せぬまま夜になり、諦めて寝床につくと妄想が膨らみ出し、いてもたってもいられなくなって起き上がり、再び机に向かうも振り出しに戻るのみで、結局明け方近くになりそのまま机に突っ伏すという毎日が続いている。「私は流れで描く事になった口だから、おぬしほどこのじゃんるに対する愛着が無い。そのせいか、すぐに描く事が出来たのだろう」
 そう言って懺悔河が取り出した漫画台本は十六頁。渡された三世橋はじっくりと一枚一枚に目を通し、すっかり紅茶が冷めた後、感想を言った。
「くやしいが、おぬしは天才だ」
 これ以上に無い褒め言葉であった。
「ありがとう」
 照れ隠しに自分の鼻筋を摘み、眉を上げる懺悔河。
「おや、これはこれは。今回の功労者様じゃないか」
 突然のその声に三世橋が振り向くと、そこに立っていたのは三世橋の元上司、岸辺だった。
「となると、隣に座っているのが懺悔河か。なるほど綺麗な顔をしておる」
 やけに上機嫌で、普段よりも卑下た軽口を叩く岸辺を、三世橋が睨む。
「功労者、とはどういう意味だ?」
「そのままの意味さ。里見先生に『きらあす』を描かせるきっかけを作ってくれた功労者様だ」
 三世橋、懺悔河の両名と別れた後、里見は自身の電子帳面にすぐ様、次の「夏」はがんだも種子の『きらあす』で行くという旨の文書を発表した。無論、懺悔河に関するいざこざまでは記していないが、近しい者は察していたし、岸辺にもその話は伝わっていた。
 そして里見が『きらあす』で参戦するとなれば、当然里見に顔を売りたい者はそれに合わせた物を描く。図らずも、三世橋は明坂の円環を助けた訳である。
「感謝しておるぞ三世橋。ま、せいぜい頑張ってくれ」
 高笑いをする岸辺を睨みつつ、一気に紅茶を飲み干し、席を立つ三世橋。そして何かを言ってやろうとしたその瞬間、隣の懺悔河が呟いた。
「店を変えようか三世橋。腐女子の腐ったのを見ているとせっかくの紅茶がまずくなる」
「なっ、貴様……!」
「おっと、何か気に障る事を言ったかな?」
 こめかみに血管を浮かべた岸辺であったが、思い出したように口角を吊り上げ、たちまちそれを口に出す。
「ふん、里見先生に勝てるとでも思っているのか? せいぜい派手に負けて、布団の中でかわいがってもらえるといい」
「勝つさ」
「何?」
「勝つと言っている。おぬしごときに心配してもらわんでも、策はある」
 一瞬の間を置いて、堰を切ったような大爆笑を起こす岸辺。
「はっはっは! そいつはいい。楽しみが一つ増えた」
 紅茶を少し残し、代金を支払い、店を出た二人。
「策がある、とは本当か?」
 三世橋の質問に、懺悔河は答える。
「無論だ。これからその話をしよう」

     

「この子が友達を家に連れてくるなんて何年ぶりかしら。ザンゲガワさんでしたっけ? 珍しい苗字ね。どう書くの? あ、それよりまずお茶を持ってくるわね。好きなだけくつろいでいって良いから。なんならご夕飯も一緒にどうかしら? 今日は鰯の梅煮にしようかと思ってるんだけど、魚お嫌いなら店屋物でも……」
 永遠に続くかに見えた母の言葉を、その娘が狼狽えつつも遮った。
「は、母上、今から大事な話があるので、そろそろ」
 じっとりと額に汗を浮かべた三世橋の隣で懺悔河も言う。
「ええ、お気遣いは無用です。少し話をしたら帰りますゆえ」
「あら、そう。じゃあ気が変わったらいつでも言ってね」
「心得ました」
 風来堂の帰り、会議は三世橋の自宅で行われる事となった。別の喫茶店に移ってもまた邪魔が入らないとも限らないし、また、三世橋の財布の中身にも不安があったので、定期券で行けて落ち着いて話が出来る場所となると三世橋の自宅の他に無かったのだ。
「良い母上じゃないか」
 懺悔河の言葉に複雑な表情を浮かべる三世橋。
「私は憂鬱だよ。おぬしが帰った後、おぬしとの関係性をあれやこれやと聞かれるだろうからな。何か嘘を考えておかなければならん」
「正直にそのまま言えばよかろう」
「そうもいかんのだ」
 苦虫を噛み潰したような顔をする三世橋。懺悔河は部屋を見回し、気づく。
「おぬし、自分が腐女子である事を親に黙っておるのか?」
 三世橋が無言で頷くのを見て、懺悔河は思わず頬を緩める。
 三世橋の部屋には、掛け軸(この場合はアニメポスター)はおろか、その手の本がずらりと並んだ十八禁専用本棚すらない。おそらくは洋服箪笥の中にでも詰め込まれており、必要な時だけ取り出されているのだろう。知らずに部屋を訪れた人間は、三世橋を腐女子とは思うまい。良く整理されていた。
「動画活劇の類を見ている事はばれているのでな、御宅という事はおそらく知られているだろうが、腐女子であるとまでは思っておらんだろう」
「ふむ……まあ、両親にばれている私は、きちんと結婚出来るのだろうかと母には心配されておるからな。隠せるのなら隠し通した方が良いかもしれぬ」
 一口に腐女子といえど、その種類は千差万別である。蛇の道は蛇、であるがその毒の種類まではお互いに分からないのだ。


「して、策とやらを話してもらおうか」
 気を取り直した三世橋が落ち着いた口調で尋ねた。
「いいだろう。今の所、私が用意している策は三つ。さて、どれから話そうか・・・・・・」
 三つも用意していたのか、と驚く三世橋であったが、それくらいなくてはあの里見に頒布数で勝てる訳がないとも同時に思った。
「ではまず一つ目。『にちゃんねる』を使う。」
「何だと?」
 にちゃんねる。悪名高い電子匿名掲示板で、今更言うまでもなく屑の巣窟である。
 怪訝な顔をする三世橋を諭すように懺悔河は言う。
「そう嫌な顔をするな。にちゃんねるも捨てた物ではないぞ。巨大な物を相手にする時は特に、な」
 にちゃんねるは弱者の声のたまり場でもある。懺悔河はそれをよく知っていた。
「里見四八ほどの人物ともなれば、必然的に攘夷派(いわゆるアンチ)が少なからず存在する。腐女子板、漫画板、電子綱観察板を訪れる全ての人間から里見憎しの声を集めれば、相当な数になる」
「それは分かるが、その攘夷派とやらに、どうやって我々の同人誌を買ってもらうのだ?」
「さあ、そこが情報戦の肝だ」
 懺悔河が不敵に笑う。
「まずは里見のがんだも種子参戦へ疑念の目を向けさせる。里見は毎期一番旬の動画活劇に飛びつく同人ごろだからな。旬を遙かに過ぎて別編まで始まっている作品の二次創作を描くのはいかにも不自然」
「ふむ……」
「そして十分に疑いが向けられた所で、電子日記(いわゆるブログ)を立ち上げ、そこに先週の日曜日の日付の記事を作り、肉入り大判焼き王での里見目撃情報記事を作る。多くは書かないが、他の腐女子と揉めていた。次の『夏』にとある円環と頒布数勝負をするらしい。という事だけな」
「そのような面倒な事をせずとも、にちゃんねるに直接書き込めば良いのではないか?」
「名無しの書き込みでは信頼に足る情報源とは認識されないのだよ。外部だからこそ意味がある。もちろん、専門の人間に詳しく調べられれば記事作成時間の改竄は露見するだろうが、そうなる前に元記事を削除するし、腐女子界隈にそういった人間は少ないからな。まあ問題ないだろう」
 懺悔河の慣れた口調に、「普段からそのような事をしておるのか?」と三世橋は尋ねたくなったが、話の腰を折りそうなのでやめておいた。
「そして里見が負けた時の事をあれこれと憶測で書き込み、ゆっくりと盛り上げていく。漫画家を引退するだとか、同人を描くのをやめるだとか、あくまで噂の範囲で、攘夷派が喜びそうな内容の書き込みを繰り返す。そして、然るべき時に我々の円環の名前を出すという訳だ」
 普段、にちゃんねるをあまり利用しない三世橋にとってはそんなにうまく行くだろうか、という不安と、そんな世界があったのか、という驚きが打ち消しあい、質問も文句もない。
「重要なのは里見の知名度を逆に生かすという事さ。光が強ければ強いほど影は濃くなる。敵の敵は味方という訳だ」


「まあ、にちゃんねるでの工作については私に全て任せてくれていい。だが、第二の策についてはおぬしにも協力してもらうぞ」
「おぬしのように頭を使う事は不得手なのだが……」
 躊躇う三世橋に、懺悔河はあっさりと告げる。
「案ずるな。おぬしにやってもらいたいのは連絡だけだ」
「連絡?」
「白石とかいう腐女子、おぬしの友人なのだろう? あやつ本人は大したことないが、あやつの交友関係はやけに広いようだからな。誰か大物の腐女子と伝(つて)をつけてもらうえないかと頼んでみてくれ」
 懺悔河ほどの腐女子になれば、少し話をしただけで相手の本質が分かると言って差し支えない。白石は自らで何かを描くよりも、他人との繋がりを求め、同好の士との語らいを重視する気質の腐女子であり、懺悔河はそれをすぐ様見抜いていた。
「我々と里見が二対一で真っ向から戦えば、我々の側にに勝算は無いと言っていいだろう。まず知名度に差がありすぎるからな。しかし里見は今回、同人誌に客賓(いわゆるゲスト。1ページだけ絵を描いてもらったり、同人誌をその人のサークルスペースに置いてもらったりする)を呼ぶ事はない。それ故、こちらが大物を呼べれば、戦力の差は埋まっていくという理屈だ」
「里見が客賓を呼ばないという根拠は?」
 懺悔河は自嘲も込めて言う。
「里見は私に対して己の実力をしらしめてやろうとしている訳だ。完膚無きまでに叩きのめせば、私が従うと思っている。客賓は呼ばんさ。必ず単独でくる」
 懺悔河の川に水の流れるような理論運びを見ていると、三世橋も、あるいは、という気持ちが芽生えてきた。無名の腐女子が専業の漫画家に勝つ事など、逆立ちしてもあり得ないという事は分かっていても、である。
「それにひょっとすると、第一の策の甲斐もあって、打倒里見の旗を掲げてくれる大物が釣れるかもしれん。まあ、こればかりは神頼み、いや、白石頼みだがな」
 白石の交友関係の限界は三世橋にとっても謎である。懺悔河の言葉に軽い返事は出来なかったが、期待外れという事もないだろうと踏んでいる。
 匿名掲示板を利用し、里見攘夷派を焚き付ける陽動作戦。人脈を使い戦力の一時的増強を図る客賓作戦。いずれも三世橋だけでは思いもしなかった奇策である。
「しかし忘れるなよ三世橋。最も重要なのは、我々の作品の善し悪しなのだぞ」
 戒めるような口調の懺悔河に、三世橋ははっきりと答える。
「言われるまでもない」
「ふむ。ならば第三の策も話そう」
 そう言って、再び部屋を見回す懺悔河。部屋にあって然るべき物が無い事に気づく。
「おぬし、電子計算機(いわゆるパソコン)は? 空電話の時に使っていたであろう」
「ああ、私の持っているは折り畳み式計算機でな。しかも家族共用なのだ。普段は私の部屋に置いてあるが、今はおそらく母上が使っているのだろう。……必要なのか?」
「ふむ。第三の策は言葉で説明するよりも実際にやって見せた方が早いと思ってな」
「そうか。なら借りてこよう」
 退室し、暫くして電子計算機を抱えて戻ってきた三世橋は、慣れた手つきで電子網への接続機器を設定し、電源を入れる。
「おぬし、『絵描き同盟』なるものを知っているか?」
「知らんな。なんだそれは?」
「正確には社会性電子連絡網とも言うが、最近台頭してきた新手の事業でな、絵描きのみで作られた美空市ぃ(いわゆるmixi。代表的なソーシャルネットワーキングサービス)とでも言えば分かりやすいだろうか」
 と、説明されてもいまいちぴんと来ない三世橋。懺悔河は画面を自らに向けて鍵盤を叩く。
「『ぴくし部』という。今現在、最も大きな絵描き同盟だ」
 画面に映っていたのは、爽やかな水色を基調としたほのぼのとした頁であったが、そこは紛れもなく絵描き達の集う戦場であった。


 この世界において、絵を描いているのは何も腐女子だけという訳ではない。というよりむしろ、全体の数で言えば腐女子の方が少数派。大概は一山いくらの萌え絵師か、美大で挫折を味わった芸術家崩れか、変態性癖の双葉浪人が一般的である。
 新着に並んだ画像を見て、不安げに三世橋が漏らす。
「見た所、我々のような腐女子の居て良い所ではないように思えるが・・・・・・」
「今はまだ、な」
 この時、ぴくし部は創設からわずか半年。知名度は日増しに上がっており、住民もそれに比例していたが、未だ絵師にとっては個人運営による頁が主流の時代である。
「予言しておこう。これからはここが腐女子達の主戦場になる。いずれは番付表(毎日発表されるランキング)を名だたる腐女子が乗っ取り、いずれは男子達と戦争になるだろう」
 三世橋は首を捻る。懺悔河に見えている物が、あまりにも深い霧の中にある為だ。
「まあ見てみろ。既に火種はくすぶっている」
 懺悔河が検索箱にとある作品名を打ち込むと、出るわ出るわ男子同士のそれである。えぐい物は無いものの、見ようによっては春画にもとれる物も中にはある。
「……宝の山だな」
 三世橋の余りにも率直な感想に、懺悔河は思わず吹き出す。
「ここに我々は円環として登録し、『夏』まで絵を投下していく。宣伝しつつ、な」
 これまでも個人で運営している電子帳面での宣伝は一般的であったが、こういった「共有」頁での宣伝は一部が行っているのみで、円環の頒布数はそれまでの地道な活動の積み重ねが全てであった。「ぴくし部」がこれから辿る隆盛の道は、同時に多数の人気円環を生む。
「肝心なのは更新速度だ。無論、私も描くが、おぬしにも協力してもらうぞ」
「承知した」
 三世橋の目はこれまでにないやる気に満ちていた。
「もう少し、見てもいいか?」
「いいだろう」
 わざわざ三世橋が指定せずとも、次に懺悔河は検索箱に「がんだも種子」の名前を入れて検索し、画面を三世橋の方に向けた。玉石混交ではあるが、数は豊富にある。降り注ぐ豊穣の雨に感嘆する三世橋であったが、その隣で懺悔河は目を見開き何かに驚愕していた。
「さ、三世橋。おぬし、ぴくし部の存在は今日初めて知ったと言ったよな?」
「ん? そうだが?」
「この電子計算機は、家族で共有しているとも言っていたな」
「うむ。とはいえ父上はほとんど使ってないがな。それがどうした?」
「おぬし、兄弟姉妹はいるか?」
「おらん。……一体何だと言うのだ? 言いたい事があるならはっきり言え」
 懺悔側は唾を飲み込み、深呼吸した後、三世橋に告げる。
「この電子計算機で、この絵を見た形跡がある」
 懺悔河が指差した絵についた題名。
 字の色が薄くなっており、その絵は紛れもなく腐女子向けの絵である。
 字の色の変化はつまり、「既読」を意味する。
「この事が意味する事は一つしかない……」
 今度は三世橋も唾を飲み込む。
 二人は顔を見合わせ、お互いの瞳に映った恐怖の色を確かめる。
「母上が……腐女子だと……?」
 やがて三世橋の口から零れ落ちた言葉は、長い沈黙の波紋を呼んだ。

     

 梅雨も終わり、文月(七月)に入り、来る夏休みの予感に学生達も浮き足立ってきた頃、「夏」の目録(いわゆるコミケカタログ。参加サークルのカットと場所が書かれている分厚い本)が発売され、朝一番の学び舎にて白石からそれを見せられた三世橋は「またこんな物を持ってきて……」と注意するのも忘れ、ただただ言葉を失っていた。
「三世橋よ。事情を知っている俺から見れば、こいつは実に面白おかしくて誰彼構わず言いふらしてやりたい気分なんだが、どう思う?」
 白石のふざけた皮肉にも耳を貸さず、三世橋は目録を凝視していた。
「異例中の異例だぜ。新規の円環が壁際(人気円環の位置)を取るなんてな」
 しかも、場所は円環「ロンドン日和」の真反対、つまり当日訪れた腐女子達は、三世橋懺悔河の二人組がいる方向か、里見のいる方向のどちらかへと、入ってすぐに分かれる形となる。当然、他の円環配置にもよるが、勝負の流れは人の流れとして明らかになる。
 目を閉じ、深呼吸する三世橋に、珍しく気を遣うように白石が言う。
「ま、おぬしたちも頑張っているようだしな」
 にちゃんねるの件は秘密裏に行われていたが、ぴくし部での活動については白石も協力者の一人として承知していた。
 自宅での会議の後、三世橋と懺悔河は別々のあかうんとを取り、絵の投稿を始めた。三世橋はもっぱらがんだも種子の「あすきら」を。懺悔河は原著(いわゆるオリジナル作品。二次創作より人気はないが、質の高い物は評価される)を主体に、時々「習作」という名目であすきらの絵を。初めて一週間ほどは閲覧数も評価数もいまいち伸びない二人であったが、いよいよ懺悔河が十八禁絵を投下し、出来の良さもあって感想がいくつか付き、初めて番付表に名前を乗せた。その後、「円環の繋がりで」という名目で懺悔河が三世橋の権利認証(いわゆるアカウント)を紹介すると、やはり地力があったと見え、三世橋の「あすきら絵」も本番付に下の方ではあるが乗ったのである。いみじくもその日は三世橋の誕生日であった。
「快進劇、と呼ぶにふさわしい」
 と、懺悔河も珍しく手放しで三世橋を褒めたが、当の本人は暗い顔であった。
 何故か。
 肝心の原稿が少しも進まないのである。
 決戦の日、「夏」の本番は盆、つまり葉月(八月)の十七日(女子向けは開催日三日の中の二日目)であるが、当然同人誌の印刷は印刷所に委託しなければならない為、出来ればその一ヶ月前、最悪の場合でも二週間前には完成品が出来上がっていなければならない。即ち、最終締め切りはあと三週間も無いという瀬戸際にきてもなお、三世橋の原稿は白紙のままなのである。
 日に日に重さを増し肩へとのしかかる重圧は、三世橋を押しつぶし、更に身動きを取れなくさせた。


「三世橋、聞いておるか?」
「……ん、ああ……」
 深夜、空電話にて懺悔河との打ち合わせが行われていた。里見は自身の電子日記で次の「きらあす」本は千部だけ刷る事と、十六頁で値段を二千円に設定する事を発表した。無論、これは腐女子向け同人誌の中でもかなりの割高であるが、専業漫画家の里見にとっては、そこまで好きでもない作品の同人誌を描くのであればそれなりの旨みが無ければやっていられない仕事であり、また、完全に三世橋と懺悔河の事を下に見ている価格設定でもあった。
「……原稿の方、やはりまだ進まぬか?」
 懺悔河は気を遣いつつ尋ねたが、返ってきたのはため息と、その後の沈黙のみで、戦況の悪さは明らかだった。
 描きたい物が多すぎて、試しに題目(ネーム)を仕上げてみても、いまいち納得のいく出来にはならず、それを捨ててまた数日間を苦悶して過ごし、追いつめられてまた描いた題目も、これまた不愉快な出来になるという、悪循環のまっただ中に三世橋は佇んでいた。こうなれば生き地獄である。
「懺悔河よ。私はもう駄目かもしれん」
 ぽつりとこぼしたその言葉には、他人の励ましではどうにもならない創作者ゆえの苦悩が滲み出ていた。それが分かっていたからこそ、懺悔河は何も言えなかったのである。
「おぬしには本当に申し訳ないと思うが……この話、無かった事に……」
 言いかけた所を、懺悔河が遮った。
「明日の日曜日、一緒に時給労働をしないか?」
 それは口にした本人である懺悔河からしても実に奇妙な、荒唐無稽な提案であった。
「……何?」
 と聞き返す三世橋に、懺悔河はその場で思いついた言葉をとりあえず繋げていく。
「里見は千部刷るというのだから、こちらもそれと同じ数を刷らなければ勝負にならん。千部の印刷代といえば、場所にもよるが十五万円はくだらんぞ。折半したとして七万五千円ずつ。小遣いでは負担しきれる額ではない」
 それに対し三世橋は気まずそうに「いや……私は」と答えたが、二の句を待たずに懺悔河は畳みかける。
「気分転換も必要だぞ三世橋。家政婦喫茶の仕事はちょうど良いと思わんか? 時給も良いし、見た所、おぬしの器量も悪くはない。それに他の円環の同人誌も買いたいだろう? 戦費を捻出するにはうってつけだ」
「懺悔河、すまないが私は……」
「三世橋!!!」
 唐突に、懺悔河の喝が飛び、三世橋は思わず背筋をぴんと張った。
「一緒に戦ってくれると言ったではないか。……おぬしも、私を裏切るのか?」
 仮面を脱ぎ捨て、ありのままを吐露した懺悔河の言葉は深く深く三世橋の心を揺すった。
 裏切りの記憶が煙のように舞い上がる。
(それでも腐士ですか……か)
 あの日、かつての盟友に向けて放った言葉が、今、巡り巡って三世橋の元へと返ってきた。
「懺悔河、すまん。私が間違っていた」
 次の瞬間にはもう、三世橋の言葉からは迷いが消え失せていた。
「私は描くよ。例えどんな大敗を喫そうとも、腐女子として生き、腐女子として死のう」
 それから、三世橋は電子計算機の電源を切り、朝まで格闘の末、題目を十六頁完成させた。


 翌日、寝ぼけ眼を引きずって、三世橋は秋葉原までやってきた。「帰って原稿を仕上げたいのだが……」と懇願する三世橋であったが、
「心配をかけた罰だ。それと金の件もあるしな。親に泣きついて金を借りるというのであれば、考えてやらんでもないが」
 と突き放す懺悔河を、三世橋は苦々しく睨みながら、化粧を施されていく。
 日曜日の昼下がり、家政婦喫茶の控え室。腐女子が二人、向かい合って座っている。
「まあ、このくらいの目の隈ならおしろいで誤魔化せなくもないだろう。それにしても肌がつやつやしている。若いとは得だな」
「な、何を言うか。歳は同じではないか」
 照れる三世橋に構わず、懺悔河は手際よく作業を進める。
「印刷代だけとは言わず、いっそのことここでしばらく働いたらどうだ?」
「……戯言を」
「さ、出来たぞ。笑ってみろ」
「おぬしは接客中笑ってないではないか」
「私はそういう個性(キャラ)だから良いのだ。しかしおぬしは新人。客商売の基本は笑顔だぞ」
 いまいち納得のいかない理屈ではあったが、この場所においては懺悔河の方が遙かに先輩である。
 三世橋は口の端をぐぐぐと引き延ばし、目を細めてひきつった笑顔を作る。
 それが実に不自然な表情である事は三世橋にも十分理解出来ていたが、懺悔河の反応は違った。
「慣れてない様が意外と受けるかもしれんな」
「う、受けるなどと申すな」
 家政婦喫茶で働くという事はつまり、家政婦の格好で人前に出て、客に奉仕するという事である。時給労働自体が初めての経験である三世橋にとって、これは非常に難易度の高い仕事であると言えた。
「さ、いくぞ三世橋」
「ま、待て。まだ心の準備が……」
「そんな物は後からどうとでもなる」
 強引に手を取り、店内へと引っ張る懺悔河。それに仕方なくついていく三世橋。二人の関係性はつまりこの形に帰結する。
 その後、三時間の勤務を終えた三世橋は、帰宅してすぐに原稿に取りかかった。後日、懺悔河によれば、初な所が大変に好評だったらしく、店長も「あの子、また呼んでくれないか」と言っていたらしい。三世橋は慌ててそれを拒否したが、たかだか一日の勤務では七万五千円の印刷代には到底及ぶものではなかった。


「あの、母上、相談が……」
 と、切り出した三世橋は正座して、神妙な面持ちで額の脂汗を布で拭っている。
「改まって、何かしら?」
「それがその、少しばかり入り用で……」
「お金? いくら欲しいの?」
「八、いや、七……」
 三世橋母が瞳孔を開く。
 母が腐女子ではないか、という疑いを持ったあの日から、三世橋はその確認を取っていない。自分が腐女子であるという事も告白してはいないし、母からも何も言われないので表面上の関係は以前と何ら変わりない。
 理由としては、いくら確たる証拠が電子計算機の中に残っていようとも、あの母上がまさか腐女子である訳がないという十年来培ってきた信頼関係が大きい。何かの間違いであって欲しいという祈りに近い物もある。母が何らかの漫画や動画活劇に熱を入れた事もないし、そんな話になった事もない。当然、父からもそのような話は聞かない。少なくとも三世橋の中では、至って一般的な母親なのである。
「そんな大金どうするの?」
 いよいよ恐れていた質問が来てしまった。懺悔河からは、「何、自分専用の新しい電子計算機が欲しいとでも言えばいい。お金は家政婦喫茶で働いて返すと約束してな。同人誌が全て捌ければその日に返せるし、その時は電子計算機を買うにはやはり時期が悪いとでも何とでも言えるだろう」という助言をもらっていたが、その一呼吸前にはこうも言われていた。「正直に言ってみたらどうだ? やはりおぬしの母上は腐女子であると、私は思うがな」
 いざ対面してもなお、三世橋の心は揺れ動いていた。
 そして結局導き出された答えはこれだった。
「母上、何も言わずに貸してください!!!」
 居たたまれない間の後、三世橋母は「ぷっ」と吹き出し、それから何かが決壊したように大きな声で笑いだした。
 唖然とする三世橋。
 ひとしきり笑った後、三世橋母はこう告げた。
「真面目で嘘をつけない。その癖に恥ずかしがり屋で見栄っ張り。そういう所、お父さんにそっくり」
 今度は「ふふふ」と思い出し笑いをした後、続ける。
「同人誌の印刷代でしょう?」
 突如、背後の暗闇から真剣が飛び出して、背中を袈裟斬りにされた三世橋は、息を止めて素早く数回瞬きをする。
「わ、私が腐女子ある事を知っておられたのですか!?」
「当たり前じゃない。あなたは私の娘。血は争えないものね」
「という事はやはり……」
「懺悔河ちゃん、だっけ? あの子、とても頭が良いわね」
 完璧に隠していたはずの秘密は、いつの間にか当然のように知られていた。
「七万円。貸してあげる。その代わり、一頁くらい私に書かせなさい」
 狼狽しつつも、そこは腐女子同士、この時ばかりは親子ではない。仲間である。
「母上、出来れば私の原稿も手伝って欲しいのですが……」

     

 その日、三世橋は束の間の眠りの中で、悪夢を見た。
 真っ白い、毛の一本も生えていない滑らかな身体をした怪物が、不自然に長い四本の足をせわしなく動かし、張り付いたように気味の悪い笑顔で三世橋の事を追いかける。「鎮まりたまえ!」と三世橋は叫ぶも、怪物はまるで意に介さず、何かを求めるように、「ほもぉ……」と奇妙な鳴き声を繰り返しながら三世橋を追い詰め、やがて、絶叫と共に目が覚める。
 夢はまさしく、三世橋の窮地を表現していた。締め切りまではあと二日。原稿の出来具合は、贔屓目に見ても約五割。連日睡眠時間三時間以下の日々が続いていたが、しばらく太陽は眺めていない。今が夏休みなのは唯一の救いではあったが、それにしたって時間が無いにも程があった。
 懺悔河、及び白石経由で呼んだ客賓はとっくに脱稿していたが、三世橋を手伝う余裕はなかった。限界まで円環の宣伝をする為である。
 こと電子網上における活動において、懺悔河は比類なき活躍を見せていた。元々の速筆、奉仕精神はここぞとばかりに発揮され、未だ無名の新円環、「怪光」に寄せられる腐女子界隈の期待は日に日に高まりを見せ、いずれ業火へとなるであろう燻りをじりじりと起こしていた。
『首尾は上々。この分ならまず千部は捌けると私は見るが、後は里見との速度勝負になるだろう。同じ数だけ捌けたら、早い方が勝ちだからな。白石に売り子の依頼はもう済ませたか?』
 懺悔河からの電子矢文に、『済ませた』の四文字だけで三世橋が返信すると、しばらくの時間を置いて、『急かしてもどうにもならんという事は分かっているのだが、これを聞かないと不安で眠れんのだ。……原稿は進んでいるか?』という追伸がきた。
 『明日には』と、三世橋は素早く打ち込み、ひたすら無言で再び炎の中へと身を投じた。
 筆を持ち、机の上の紙をくるくると回しながら、三世橋は懸命に戦っていた。作業は本筆描きで止まり、別室では背景と模様担当の母が次の原稿を待っている。三世橋の形相は鬼と化し、貧乏揺すりを繰り返しながら一本一本、魂を削りながら線を加えていく。
 過去、明坂の円環に所属していた頃も締め切りに追われた事は幾度かあったが、ここまで切羽詰まった状況はもちろん初めてであり、その上、並々ならぬ重圧は三世橋に手抜きの三文字を許さなかった。
 懺悔河の身の上もある。自分を裏切って逆に走ったかつての盟友を見返してやりたいという気持ちもある。だがそれ以上に、「自分の納得のいく作品を描きたい」という信念が、三世橋をここまで追いつめ、腐女子としての生き方を磨いた。
 もう二度とは来ない夏、三世橋は誰よりも熱く燃えていた。


 修羅場。
 締め切りの迫った追い込みの事をこう呼ぶ。誰が呼び出したかまでは定かではないが、言い得て妙。実に上手く表現した言葉であると言える。
 あえて無粋な言い方をすれば、もっと余裕を持って作業を始めるだとか、きちんと無理のない計画を立ててその通りに実行していくだとか方法はあるのだろうが、実際にそのような事が出来る人間は限られている。
 締め切りまでの余裕は油断を生み、油断は怠惰を生む。日々に消化されていく瑣末事に気をとられながらも、腐女子達は妄想で徐々に胸を膨らませる。作品にかける愛情を原稿の上に作品として転換させるその過程。折に触れて見せる「私は一体何を……」という後悔に良く似た、しかし違うと信じたい葛藤も物ともせずに、漫画描きは荒野を行く。
『俺、お前とは友達のままで居たいんだ。だけど……』
『はっきり言えよ。俺の事が好きなんだろ?』
『好きだ! もう嘘はつけねえ!』
『恋人って、なんだか照れくさいね』
『お前を傷つける奴は、全員俺が殺してやるよ』
『ねえ、見えてる? 分かる? これが僕だよ』
『来いよ。どこまでもクレバーに抱きしめてやる』
 誘い受けをへたれ攻めで交わし、健気受けを誘われ攻めで斬り倒す。振り向きざまに襲い受けを俺様受けで打ち消したかと思いきや姫受けに鬼畜攻めをぶつけて衝撃を軽減し、のんけ受けで敵の油断を呼び枯れ攻めからの小悪魔受けで止めを刺し、尽くし攻めにて返り血を振り払う。
 腐女子には腐女子の矜持がある。
 例え悪夢に魘されようとも、進まなければならない時がある。
 今がその時。
 三世橋 光。
 腐女子として生き、腐女子として死ぬ。
 その言葉に偽りはない。
 腐女子、往きる。
 修羅場を越えた先にこそ、文字通り薔薇色の未来がある。



 三日後、三世橋は久しぶりに喫茶風来堂を訪れていた。待ち合わせした訳ではないが、この日、その人物がここに来る事は経験上分かっていた。
「明坂殿、お久しぶりです」
 深々と頭を下げた三世橋。
「相席、よろしいか?」
 明坂は無言で頷き、三世橋は向かい合って着席する。
「少し見ぬ内に、凛々しくなったのう……」
 そう言って目を細める明坂の表情は至って柔らかく、そこに確執めいたものは見あたらない。対照的に、修羅場をくぐり抜けたばかりの三世橋の全身からは、霊気のような物が湯気となって立ち上っている。
「仔細は岸辺から聞いておる。懺悔河、とか言ったか、良い友が出来たようじゃな」
 三世橋は無言のままに明坂を見つめる。しかしその様は、明坂の表情を伺うでもなく、改めて「逆」の件について非難するでもなく、ただただ頭の中にある疑問を、いかなる間合いにてぶつけるかについて考えているのみで、無論、それに気づかない明坂ではない。
「何か、聞きたい事があるんじゃろ?」
 三世橋は少し間を置き、半ば諦めたようにその質問をぶつける。
「明坂殿は何故あの日私に青封筒をお渡しになったのですか?」
 言うまでもなく、「夏」はありとあらゆる円環が参加する一大祭りであり、一般応募の中には落選という憂き目にあう円環も少なくはない。その中で、確実に参加を許される青封筒はやはり特別な意味合いを持ち、それだけに貴重な物である。
「理由、と言われてもな……」
 煮えきらない様子の明坂。苛立ちを隠さず、三世橋は一直線に尋ねる。
「私が懺悔河と知り合い、里見が『逆』に加勢するのを、明坂様は予言なされていたのですか?」
「予言?」
 聞き返すと同時、大きな声をあげて笑いだした明坂。真面目な顔でそれを見つめる三世橋は、黙って答えを待つ。
「そんな事、わしに出来るはずがないじゃろう」
「では、何故私に青封筒を?」
 再びの質問に、明坂は答える。
「そうじゃな……強いて言えば、『期待』じゃよ」
「期待?」
「おぬしの眼は他のどの腐女子よりもまっすぐで澄んでいる。……なんというか、腐っておらんのじゃ」
 その言い回しに三世橋は狂気を感じたが、嘘や御為ごかしが混じっていない事も同時に察した。
「わしら腐女子は、同じ池にずっと住む事が出来ん。一つのじゃんるはやがて衰退し、いつかは干からびる。これはこの世界の理じゃ。その時腐女子が取れる行動は、他の池に移り住むか、あるいは腐女子自体をやめて陸にあがるしかない」
 明坂の言っている事は、納得のいく話ではなかったが、紛れもない事実でもあった。三世橋に反論出来るだけの物はない。
 明坂は三世橋の眼をじっと見つめ、その奥にある何かに語りかけるように続ける。
「……三世橋、おぬしならば『その先』に行けるとわしは信じておる。『夏』の本番、楽しみにしておるぞ」
 明坂の背中を見送る三世橋。
 数ヶ月前と同じ状況ではあったが、その心にはあの日とはまるで違う、爽やかな夏の風が吹いていた。


 有明。この日ばかりは御宅の聖地は秋葉原ではなくここという事になる。
 正式名称「東京国際展示場」は、その名に恥じる事のない、国際的にも有名な催し物会場である。二十四町にも及ぶ敷地面積を誇り、一日で十万人以上を動員できる巨大な会場を、あろう事か三日間も丸々抑え、各々描いた物を持ち寄り、自由に市を開く。
 世界、いや宇宙最大の同人誌即売会。
 それが『コミック・マーケット』である。
「いよいよこの日が来たな」
 懺悔河、三世橋の両名は始発の臨海線に揺られ、会場へと向かっていた。ぎりぎり仕上げた原稿は既に業者によって会場に運び込まれている。白石と、白石の誘った友人は少し遅れて来る手筈になっているので、設営は円環の主催二人で行う事となった。
 目に付きやすいようにと懺悔河が描いた円環名入りの掛け軸をかけ、値段は四百円とかろうじて印刷代が賄える設定。同人誌は全て出さず、まずは少数を机の上に並べ、懺悔河が写生帳を受け入れる空間も確保する。
 三十分ほどで準備は完了し、二人は席についた。
「なぁ、三世橋」
 と、懺悔河。「何だ?」と答える三世橋にも緊張はあったが、懺悔河のはそれ以上だった。
「今更、こんな事を言うのは正直照れくさいのだが……」
 前置きをして、言い渋り、結局黙り込む。
 そのままゆっくりと時間は流れ、しばらくして三世橋の方がため息混じりに語り出す。
「まったく、迷惑な話だ。何をどこでどう描こうと自由であるはずなのに、おぬしが巻き込むからこんな事になってしまった」
 懺悔河には言い返す言葉もない。
「誰かとの勝負など、腐女子の本懐ではない。妄想の中の男子の営みを愛で、そこにある絆を感じる事こそが、腐女子である事の誇りなのだ」
 これだけ完成された腐女子哲学には、頷いて同意する事さえ懺悔河には憚られた。
 確かに、三世橋を無理矢理巻き込んだのは懺悔河の罪であり、その重みは他の誰より懺悔河自身が感じている。
「でも、な」
 三世橋が差し出した右手に、まだ意味はない。
「ありがとう。私は救われた」
 ほんの少し躊躇した後、懺悔河が三世橋の右手を握り返す。三世橋の体温に答えるように強く、今そこにある友情を確かめるように、強く。
「そろそろ開幕だ。準備はいいか、懺悔河」
「応!」

     

(何度経験しても、この迫力には圧倒される……)
 開始と同時、押し寄せてきた人の波を遠目に確認して、三世橋は思わず武者震いをした。
 二日目は女子が主な層だから、一日目や三日目よりまだましであろう。と高を括って参加する新米腐女子は、自らの士道不覚悟を後悔する羽目になる。同人誌を求める気持ちは、男だろうが女だろうが何日目だろうが同様であり、藩士(この場合はコミケスタッフ)の注意に一切耳を傾けず、ひたすら自分の身体を前へ前へと押し込める欲深き者達の姿は、最早関が原の風物詩である。そしてその中に、三世橋の友人の姿もあった。
「助太刀いたす!」
 先頭を切って怒濤の勢いで現れた白石は、開始前に手下の腐女子に本日手に入れなければならない同人誌の目録を託していた。直前まで会場巡回の打ち合わせに余念が無かったが、とはいえ三世橋と懺悔河に味方する忠義もまた真実だったので、こうしていの一番に参上仕ったのである。
「良い出来の掛け軸ではないか。これなら十分に目立つだろう」
 と、まずは懺悔河の絵を評した後、
「懺悔河、おぬしが里見に食われてしまうのを俺は正直見てみたくもあるんだがな、今日ばかりはおぬし達を手伝ってやろう。何、無名の同人描きが、どこまで本物の漫画家に肉薄するのかを見届けたいだけさ」
 白石のいつもの軽口を、懺悔河は無視する。空電話での一件以来、口をきいていない白石と懺悔河ではあったが、三世橋を通じて同人誌に協力してもらった事もあり、その仲は悪化はしていないが改善もしていない。空気を察し、三世橋が言う。
「白石、無駄口は後だ。こっちに来てくれ。どれだけ素早く捌けるかが勝負なのだ」
「おうよ。……と、言いたい所だが」
 にやけながら、白石は机の上に載った新刊を片っ端から手に持った紙袋に詰めていく。
「な、何をする白石」
 三世橋の制止も気にせず、白石は手を止める事なく早口で説明する。
「知り合いの円環に三冊ずつ配ってくる。島には番をしなければならないが暇な輩が腐るほどいるからな。読む時間はいくらでもあるだろう」
「それは押しつけになるのではないか?」
「何、この出来なら喜んで金を払うさ。三冊ずつ配るのは、その円環に来た別の腐女子にも買ってもらう為だ。四百円だったな? 金はまとめて後でもらえばいい。俺が責任を持って回収する」
 腐女子の横の繋がりは鋼鉄よりも硬く、強い。
 紙袋二つ分の兵糧をあっという間に作り上げた頃、白石の知り合い二人が息を切らして追いついた。
「し、白石殿、早すぎるでござる」
「俺の代わりの手伝いはこの二人がする。では、急ぐんでな!」
 最低限の説明を済ませ、白石が動き出した時、懺悔河がその背中に声をかけた。
「……感謝している」
「……お、おう」
 交わした言葉はそれだけだったが、ここにもまた新たな友情が生まれていた。


 それから一息つく暇もなく、円環「怪光」には列が出来上がっていた。わざわざ壁際まで用意されていたのだから、列の一つや二つ出来ないではまるで話にならないというのも確かだが、しかしその規模の大きさは三世橋の経験上初めての事だった。
 やはり懺悔河の睨んだ通り、ぴくし部での活動は確実に功を奏しているようである。二人の絵を見て惚れ込み、他の人気円環には目もくれず一番にやってきてくれた腐女子は両手に収まらない。初参加らしくたどたどしいやりとりも何度かあったが、白石が連れてきた助っ人二人はそこそこの手練なようで、四人はそれぞれ、同人誌を渡す係、金を受け取り釣を渡す係、同人誌を補充する係、列を整理する係と役割を分担して素早く捌いていった。四百円という価格設定なので、あらかじめ百円玉を大量に用意しておいたのは正解で、ここでも白石の忠告は役に立った形になる。
 一見、順調な滑り出しであり、この分ならあるいは……と三世橋もにわかに巻き上がる希望に胸を膨らませていたが、懺悔河だけは冷静だった。
(この勢いでは、里見には勝てん……)
 懺悔河は元々、里見の円環「倫敦日和」所属であり、その勢いの凄まじさも十分に承知している。価格設定での有利や、例のにちゃんねるでの印象操作があれども、やはりそこは人気漫画家。たかだか千部など、午前中のみで余裕で捌ききってしまう。
(対抗出来るとしたら、大前提はこちらも列に人を絶やさない事だな……)
 待ち人がいなくなった時点で、怪光の負けは確定する。懺悔河にはその現実が見えていた。
(考えても仕方が無い……やる事は全てやったのだ。負ける時はいさぎよく負けよう)
 と、覚悟を決め、あとはただただ自らで作った同人誌の出来を信じ、猛然と作業に没頭する。
 一時間はまさしく瞬く間に過ぎ去っていった。白石が持っていった同人誌を全て配り終え、帰ってきてそのまま倫敦日和に偵察にいったくらいで、円環「怪光」はその初陣を多忙で満たし、また、その話題は電波を介して会場へと伝わっていった。「何やら新進気鋭の円環が、凄まじい勢いで……」「何でもにちゃんで噂になっている里見先生お気に入りの……」「もしや、さっき行った円環で主催の人が読んでいたあれの事か……」
 積み重ねてきた戦略の一つ一つが、時間の経過と共に終結していく。
 戦の場は常に一定ではなく、刻一刻と変化していく。人の流れを読むことは難しく、それ故に藩士には並々ならぬ能力が要求される。
 そんな混沌の中で実を結ぶのは、その円環がそれまで何をしてきたか、ただそれだけである。
 頭脳を懺悔河とするならば、三世橋は魂。
 光が進むべき道を照らし、怪が奇跡を起こす。
 それが円環「怪光」である。


 開始から一時間半が経過した頃、怪光に珍客が訪れた。鳥打ち帽を深く被り、防塵面と黒眼鏡(いわゆるマスクとサングラス)で顔を隠した、いかにもな不審人物である。
「……これを一冊」
 声色まで不自然に変えている。
 目の前で見た三世橋は気づかなかったが、離れていた懺悔河は即座に察し、笑いを堪えるのに必死だった。
 と、ちょうどそこに里見の円環「倫敦日和」の偵察に行っていた白石が、鬼の首でも取ったかのような勢いで飛び込んできた。
「良い知らせだ! 倫敦日和の前にある島の円環が混雑を起こして列が混ざって大混乱になっているぞ!」
 三世橋はまず白石を落ち着かせ、接客を懺悔河に任せて話を聞いてみる。するとどうやら、たまたま倫敦日和の目の前に配置された円環に、二十年以上前、跳躍系同人誌の始祖、「星闘士聖矢」が全盛期だった頃の関ヶ原で猛威を振るった伝説の腐人(ぶじん)が、客賓として参加しらしい。事前情報は全くなく、宣伝もしていなかったにも関わらず、その噂は「怪光」の噂に負けるとも劣らず拡散し、元々列を作れない島円環はあっという間に飽和し、倫敦日和の列と混ざってしまった。急いで藩士が駆けつけた頃には手遅れで、現場は既に大荒れの状況となっていた。
 横耳で聞きながら、懺悔河は不謹慎と思いつつも「ついている」と思った。敵の不利は味方の有利。特に速度勝負ともなれば、この差は大きい。
「心配だな……」
 と言う三世橋に、「おぬしはどこまでお人好しなのだ」と呆れつつも白石。
 三世橋は尋ねる。
「それにしても、その伝説の腐女子とやらは一体何者なんだ?」
「これは俺も噂でしか聞いた事は無いんだがな、何でも一日で一万部を頒布しただとか、そもそも『星闘士聖矢』の流行を作り上げた人物だとか、まさしく『伝説』的な事を数多く成し遂げた挙げ句、ある日突然この世界から足を洗ったらしい。噂によれば、結婚しただとか子供が産まれただとか……詳しい事は分からんが」
「ふむ……ちなみに、筆名は?」
「確か、もの凄く普通の名前で……『鈴木倫子』……だったか」
 その名前を聞いた瞬間、三世橋は目を見開き、卒倒しそうになった。かろうじて今が戦の最中である事を思い出し、体勢を持ち直すも、目眩は消えない。
「ど、どうした三世橋」
 心配する白石。
「……本名だ」
「本名? 何がだ?」
「その名前。『普通』と言ったが、本名なのだ。『普通』なのは当たり前だ」
「話が見えんぞ。『鈴木倫子』は、一体誰の本名なんだ?」
「……私の母だ」


「ははははは!!!」
 隣で懺悔河が腹を抱えて笑い出し、白石もそれに乗ずるように大声で笑い始めた。三世橋は一人、ただ消え入るように小さく縮こまりながら、二人を睨んでいた。
「ぷ、ふふ、あははは。そういえばそうだったな」
 懺悔河が手元の一冊を開き、奥付にある特別感謝に載せた「助太刀一覧」を開いて確認する。三世橋の項には確かに、「鈴木倫子」その名前が刻まれている。
「背景など手伝ってもらったから、筆名を載せたいので適当につけてくれと言ったら、『本名でいい』と言われたのだ。その時怪しむべきであった……」
 三世橋の後悔を余所に、白石はまだまだ笑う。どうにか気を持ち直した懺悔河は、元気づけるつもりもあってか、
「せっかく母上が作ってくれた機会だ。生かさぬ手はないぞ」
 と言い、作業を進める。
 そして例の珍客、防塵面と黒眼鏡の女子が去るのを確認した後、三世橋にだけ聞こえるように言った。
「腐女子は時に見栄を張ってみたり、時に自らの身をじゃんるに捧げる英雄気分に浸ったり、何かの作者を滅茶苦茶に批判したりするが、結局の所、妄想には逆らえぬ物だな」
「……どういう意味だ?」
「今の女、風来堂で会った『岸辺』とかいう腐女子だ。顔を隠していたが、雰囲気で分かった。大方、我々の同人誌の噂を聞いていてもたってもいられなくなったのだろうよ」
 遠ざかっていく後姿を見ながら、三世橋は得も言われぬ気持ちになっていた。
 袂を分かち、踵を返せど、道は同じ。
 いつかまた、同じ誌を描く日が来るかもしれぬ。
「この世に、生まれながらの敵などおらんのかもしれんな」
 そっと呟いた三世橋の言葉は、懺悔河に確かに届いていた。
「まあ、な……」
 返事をしつつ、脳裏に浮かんだ里見の顔を懺悔河は振り払う。
(……しかしこの勝負、負ける訳にはいかんのだ)
 二人の思いが通じてか、客足は減る事なく、残りの部数は百部を切った。大手円環と呼ぶに相応しい速度である。
 この日、関ヶ原を訪れた腐女子達は、帰宅した後、それぞれ自らの電子日記に、報告をあげた。その中で、「怪光」の名をあげる者は少なくなかったという。


「懺悔河、急げ!」
 最後の一部を頒布し、三世橋は懺悔河の背中を押した。残る三世橋は手に入れる事が出来なかった腐女子の為に、写生帳の受け入れを担当する。
 倫敦日和の場所に懺悔河が辿り着くと、そこは既にもぬけの空だった。『頒布終了』の立て看板を机の上に載せて、既に撤収は完了している。懺悔河がここまでやってくるのに使った時間を差し引いたとしても、完売はこちらの方が早かった事になる。
 敗北。
 やはり、いくら何でも専業漫画家に、たかだか高校生の同人描きが勝てる訳はなかった。
(流石だな……里見……先生は)
 落胆しつつも、懺悔河の心情はやけに晴れやかである。
 全てを賭けて挑んだ腐女子には、くやしさはあれど後悔はない。
(それにしても、肝心の勝者はどこへ行ったのだ。すれ違いになったか?)
 そう思い、里見の姿を群集の中に探している懺悔河の肩に、ぽんと手が置かれた。観念して振り向くと、そこにあったのは里見の姿ではなく、友人の母の姿だった。
「懺悔河ちゃん。お疲れ様」
「お、お疲れ様でござりまする」
 狼狽しつつ奇妙な返事をする懺悔河に構わず、三世橋母はにこにこと続ける。
「里見ちゃんならもう帰ったわよ」
 その言葉に、懺悔河は更にうろたえる。
「帰った……? いや、それよりも『里見ちゃん』とは一体どういう……」
「後輩なのよ。同じ円環のね」
「な、なんと、そうでしたか……」
「あの子も昔は好きなじゃんるがあってね、それ一筋だったのだけれど、いつからか自分の人気ばかりをを重視するようになって……だから今日邪魔したのは、そのお返しのつもり。親馬鹿とは思わないわよね?」
 満面の笑顔の裏にある鬼を見て、懺悔河は額からは汗を噴出しながらこくこくと頷く。
「はい、これ」
 三世橋母が取り出した一冊の同人誌には、円環「倫敦日和」の名前が刻まれている。
「最後の一冊。お金は私が立てかえておいたわ。二千円ある?」
「……は、はぁ」
 何の抵抗もなく財布を取り出し、そこから野口を二枚取り出す。
「じゃ、これで最後の一冊が売れて、あなた達の勝ち。良かったわね」
 呆気なく言い放たれた言葉がうまく飲み込めず、懺悔河が咳き込む。
「今度またうちに遊びに来てね。私、料理にはちょっと自信があるから」
「は、はい」
「その時は『友達のお母さん』としてあなたを迎えるわ」
 意味が分からず、懺悔河が小首を傾げていると、三世橋母は悪戯っぽく笑い、
「若いって良いわね。また、描きたくなっちゃった。今度『冬』に会う時は親子対決に、な、る、か、も」
(……)
 腐女子に休みは無い。
 冬はもう、すぐそこにある。


 終

       

表紙

和田 駄々 先生に励ましのお便りを送ろう!!

〒みんなの感想を読む

Tweet

Neetsha