Neetel Inside ニートノベル
表紙

花咲く乙女の舞闘劇
暗闇から這い寄る《妹》

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「わーうーかりんちゃんまってまってー」「れんちゃんこっちきちゃダメー、あっちいってー」「やーだー」「やーだじゃないー。ほら、きちゃうきちゃうー」「うーうー」「あ、二手に分かれたよ、お姉ちゃん」「恋次のほうは瑞穂と海斗に任せた。果梨は私が追う」「オッケー」「分かったよ、萩姉……ってあぁ、瑞姉、そっち行った、そっち!」「ちょ、恋次、どこ走ってんの、待ちなさーい」「やーだー」「こら。逃げるな、果梨」「きゃーだー」


 ドデドデダダダ、ガシャンガチャン。
 ひっきりなしに響く子供の足音と、元気いっぱいの金切り声と、そこかしこの家具や壁にぶつかっている響き。さらにはそれに翻弄される少年少女の叫び――階下から届く騒がしさで目を覚ました紅葉は、枕元の携帯を寝ぼけ眼で覗き込んだ。

  AM 4:30

 世話焼き系の《幼なじみ》は朝早くから弁当を作ったり、寝坊がちな隣人を起こしに行ったりすることを日課としてこなせるようでなければならない。そのように里で訓練された紅葉には、もちろん早起きが得意だという自負はあったが、そんな彼女の自信を揺らがせるほどの現実が画面にはデジタル表示されている。
「えぇ~、こ、こんな時間に、この家の人たちは何やってるのさ……」
 しばらく待っても騒ぎが収まる気配はなく、紅葉は仕方なく身体を起こして一階へ降りた。
「ああ、紅葉。おはよう。遅かったじゃないか」
「あ、あ~、おはよ……う?」
 まぶたの重さに耐えかねてふらふらしている紅葉に、いち早く気づいた萩乃が声をかける。それに続いて妹弟らも大声で「おはようございます」と頭を下げた。全員がパジャマ姿のままだ。「お早う」なのに「遅かった」とはこれ如何に。もっと前からこの大騒ぎが始まっていたということか。
「はーちゃん、これは、何ごと?」
「鬼ごっこのような、隠れんぼのようなものだ。あと『はーちゃん』って言うな」
「なんでこんな朝っぱらから? っていうか、家ん中で?」
「それはこの子らの気持ち次第、だな」
 萩乃が指差したのは、瑞穂に羽交い絞めされながらもまだじたじた暴れている末の弟・恋次であった。
「昨日の夕方には既に遊び疲れておとなしかったが、果梨と恋次のテンションピークは夜明け前だ。家族の誰よりも早く目覚め、何が楽しいかは知らないが、やたらめったらと走りだす」
「はぁ……」
「しかもただうるさく動き回るだけならともかく、家の仕掛けをフルに使って隠れたり潜んだりもするからな。理解不能で神出鬼没。故に、ついた呼び名がエイリアン」
「なるほどエイリアン……で、仕掛けって何?」
「例えば、これだな」
 そう言って萩乃は屈み、廊下の端に指で触れた。ガタコンッと音がして、簡単に床板が取れる。
「この家にはこういった、抜け穴のような仕掛けがそこかしこに施されているんだ。ここからは裏庭の物置の後ろに繋がっている」
「マジで? なんでそんな、忍者屋敷みたいな感じになってるのさ」
「幼児期に無茶苦茶をする癖は、我が家のきょうだい共通らしい。瑞穂も海斗も小雪も何かにつけてぎゃあぎゃあ騒いでいた」
「お姉ちゃんもそうだって聞いてるけど?」
 瑞穂が横槍を入れると、萩乃は少しバツの悪そうな顔になる。
「ああ、うん。自分では憶えていないが私もな。そして兄さんも例外ではなくて、家の中での隠れ場所や逃げ道を増やすために、とても幼稚園児とは思えない発想と技術で改造を加えていったんだ」
 紅葉の開いた口が塞がらないでいると、萩乃は「そろそろかな」と言って動き出した。向かった先の風呂場では、椅子がピラミッド状に組み立てられており、天井の換気ダクトの入口金具がドライバーで外されていた。
「こんなことまでやってんの? 危ないじゃん!」
「危険を度外視しているからな。とは言ってもこの程度じゃ驚きはしないし、これでもまだ逃げ方が素直だから対処はしやすいよ。ほら」
 萩乃と紅葉が見上げた換気ダクトの中が、妙に慌ただしい。それから間もなく、小さめの声で「萩乃お姉ちゃん。そっち、大丈夫?」との確認がされてきた。萩乃が両手を広げてからゴーサインを出すと、ややあって果梨がダクトから、ぽてっとイモ虫のように落ちてくる。
「ようし、よくやった小雪。じゃあ紅葉、ちょっと果梨を頼む」
「え? あ、お?」
 それをキャッチしてからすぐ紅葉に預けると、続いて降りてくる細身の小学三年生をも抱き止めた。
 これにて朝の大捕物が一段終わったわけだが、一番気弱そうな小雪がとても大胆な策に平気で乗っているところを目の当たりにして紅葉は、この家の人間は只者じゃないのばっかりなんだなぁとしみじみ思った。

 果梨と恋次が散らかしたものを当人らに片付けさせ、それが終わってもまだ興奮は冷めないようなので、着替えた萩乃、海斗、小雪は近所の公園に二人を連れて行った。公園はもちろん、昨晩に紅葉が萩乃に秘密を打ち明けた場所である。瑞穂はそれを見送ると、二度寝をするべく部屋に戻った。これらが毎日の風景である。
 先にも言った通りに猪立山家の子供は早朝から過激に元気であるため、似たようなことは十年以上も前から続いている。だから萩乃が語ったところによると、彼女は物心ついたときから五時より遅く目を覚ましたことがないという。
 さて、一緒に外へ出かける機会に乗り遅れた紅葉は、ぽつねんと独り。あの状況でも肝が座っているのか、それとも諦めているのか、萩乃よりも年上の者は全く起きてこない。
「……ボクも寝直そ」
 あくびを一つしてから紅葉は階段を上って、借り物の布団に再び身を横たえた。
「鹿子木さん。ちょっといいですか?」
「な、なぁにかな」
 それからまたうとうとしかけたところに、同じく寝たままの姿勢で話しかけてきたのは瑞穂だった。まさかこの妹のほうから自分に接してくるとは思っていなかったので、紅葉の返事の声は少し上ずっていた。
「お姉ちゃんとは昨日会ったばかりって言ってましたけど、それ本当なんですか? 出会ったのは本当に偶然なんですか?」
「ん、もちろんマジだよ」
「何か変なこと企んでません?」
「ど、どうしてそう思うのさ」
 瑞穂の言葉は何故か、痛いところを一直線に突いてくる。
「え、もしかして何? ボクのこと疑ってる?」
「いえ、そういうわけじゃないんですけど……」
 相手の意図は分からねど、紅葉は自分の腹を探られないようにわざと逆ギレ気味の返しをしてみた。すると今度は瑞穂が口ごもった。
「でも、よくよく冷静に考えてみたらやっぱり、お姉ちゃんと仲良くなろうって人がいるなんて信じられないっていうか、不自然っていうか」
「なんで? 家族思いの良い子じゃない?」
 友達を家に連れてくるだけで不自然呼ばわりされるなんて、萩乃は普段どんな感じで生きているのだろう――新たな疑問のタネが紅葉の胸に植わる。
「まあ、そう思ってくれてるならいいんですけど……」
「うん?」
「いいえ、なんでもないです」
 しばしの間を置いてから、瑞穂は寝返りを打って紅葉に顔を向ける。応じて紅葉もそちらを仰ぐ形になった。そうしてそこで瑞穂が見せてきたのは、電話番号の写っている携帯の液晶画面だった。
「瑞穂ちゃん、これは?」
「この家の番号です。お姉ちゃん携帯持ってないから。連絡するときはこっちか、いなければツンデレ道場とかいうほうにかけてください」
「うん、分かった。でもいいの? ボクに連絡先なんか教えちゃって」
「…………いいんじゃないですか? 仕方ないですよ」
 許諾する瑞穂の返事はやや放り投げ気味で、しかも反応が遅かった。
 その理由を紅葉はこう推察する――間違いなく瑞穂は自分のことを不審がっていた。しかしその割に連絡手段を教えてくれてもいる。それはきっと友達の少ない姉を案じてのことであり、多少は怪しくても、姉の交友関係を維持できる可能性に賭けているのだろう。
「ありがと。ボクも萩乃とは友達でいたいと思ってるよ」
「そうですか」
 息を漏らした瑞穂の声と顔は、やわらかかった。
「つまりは、あれだね。瑞穂ちゃんもやっぱり家族思い、お姉さん思いなわけだね」
「は? 違いますよ。お姉ちゃんがコミュ障だなんて恥ずかしいから、ちゃんと改善してほしいってだけですよ。なに言ってんですか」
 瑞穂の態度が、急に険しい。
「なるほどぉ、これが本場の《ツンデレ》ってやつだね」
「……そういう言い方、二度としないでもらえます?」 
「え?」
 瑞穂の言い方は不機嫌を通り越して、敵意とも表し得るものを感じさせた。紅葉のにやにや顔が、思わず締まる。
「お姉ちゃんが馬鹿みたいにツンデレツンデレって言うものだから、こっちも迷惑してるんです……普通に友達としてお姉ちゃんに付き合ってくれるならいいんですけど、これ以上おかしなツンデレの道に引っ張り込むのだけは止めてくださいね」
「ご、ごめん。でもでも、大丈夫だよぉ。確かに萩乃と話したきっかけは《ツンデレ》のことだけど、正直言ってボクも、彼女を《ツンデレ》にはさせたくないんだから」
「本当に、お願いしますね」
 それだけ言って瑞穂は目を閉じた。
「ねぇ。瑞穂ちゃんは、ツンデレは嫌い?」
「嫌いです」
「《ツンデレ》になりたいって思わない?」
「思いません。意味が分かんないですし、面倒くさいですもん」
 《幼なじみ》同士で身を寄せ合う環境に生まれた紅葉にとって、自分の家の属性は当然に誇るべきものである。しかし超能力者としての《ツンデレ》について教えられず、しかも形式としてのツンデレブームも過ぎた今となっては、その血を引く者でさえ必ずしも理解者ではないのだと紅葉は思い知った。
 萩乃や瑞穂の祖母・千尋の遺志を尊重して《ツンデレ》は自然消滅させたいと考えていた紅葉だが、こうして自分の属性を毛嫌いする人間と初めて接してみると、なんだか腹の底が重く感じられるのだった。
 ふくざつ、の一言に尽きようか。


「では皆さん、お世話になりました」
 それから紅葉は、にぎやかな朝食をごちそうになった後で、自分の本来の任務に戻るべく猪立山家を発つことにした。ちなみに萩乃の母親から手土産にと、柴漬けをタッパーごと手渡されていたりする。
「じゃあね、はーちゃん。ボクのほうで小野傘雨柳と《ツンデレ》の関係について何か分かったら連絡するよ。良い事でも、悪い事でもね」
 萩乃に付き添われ送られた駅前にて、紅葉は真面目な調子で彼女に伝えた。
「全部がお前の取り越し苦労ならいいんだけどな」
「ボクもそう願ってはいるよ」
「そうだ。あと、」
「『はーちゃん』って言うな、でしょ?」
「分かってるじゃないか」
 そう言う萩乃の表情には、幼い子供の言い訳を見咎める姉の雰囲気が漂っていた。
「分かっちゃいるんだけどねぇ。これが《幼なじみ》としてのプライドっていうか……ま、とりあえず、ボクはもう行くよ」
「ああ、紅葉。昨日はいきなり殴って悪かった。それと、私にお婆さんのことを話してくれてありがとう」
「いやいやこちらこそ。それじゃ、またね」
 互いに手を振り、別れた。


 極真ツンデレ道場を調べに行くため、紅葉はホームで電車を待つ。
「早く車の免許、欲しいなあ」
 ぼやきながら日陰に佇み、服をばたつかせて涼をとっていると、携帯が震えた。発信相手の名前は鈴木京介という何の変哲もないものだったが、その実は《幼なじみ》の里からの業務連絡を表している。
「はい、紅葉です。おつかれさまです。えっと、申し訳ありませんでした」
 雨柳よりも先に萩乃と遭遇してしまい、そのまま彼女の家に泊まったことは昨夜のうちにメール報告済みだ。恥も失態も覚悟して、『花札』を破られたことも、猪立山千尋の遺志を萩乃に明かしてしまったことも伝えてある。
「萩の花はまだ咲いてないみたいですね。雨は、はい、降るかどうか分からないです。これから道のほうに行って、空模様を見てこようかと……」
 盗み聞きされても意味を察知されないよう言葉を微妙にぼかしつつ、紅葉は状況を新たに報告した。
「……え? あ、はい。でも、それでいいんですか? ……はい、分かりました」
 そして上で与えられた指示に沿い、紅葉は通話を切って踵を返す。ちょうど電車がホームに入ってきたが、彼女はそれには乗らずに改札へ向かった。

   *

 突然の来訪者に驚かされた週末が過ぎて、月曜日。
「あ、あの、あの……」
 この日もいつも通りツンデレの稽古に励もうと、萩乃は放課後になるなりさっさと学校を出ようとした。
「あ、あのッ」
 自転車の錠を開け、かごに鞄を入れたところで萩乃の背に声が届く。か細くて、最初は不鮮明だったが、辛うじて耳に聞こえて振り向けば一人の女子生徒の姿があった。
 一目みての印象は、大きい。上背は170cmを超えているだろう。だがそのせっかくの体格の良さを、膝の折れた前屈み姿勢が卑屈っぽくさせている。うつむきがちで、顔も正面からはよく見えない。
「すみません、おねえさん」
「うん?」
 とっさに返事をしつつも、萩乃は違和感を覚える。着ている制服とスカーフの色からして、背高の彼女は萩乃の後輩、一年生だと思われる。だが同じ学校の先輩を呼びかけるときに「おねえさん」を使うだろうか。少なくとも一般的ではないだろう。
 すると突然、彼女は萩乃に抱きついてきた。
 ここで萩乃を戦慄させたのは、見知らぬ女生徒が急に抱きついてきたことそのものではない。問題は、抱きつかれたという事実。
 萩乃は用心していた。
 何の前触れもなく知らない人間が近付いてきたら、それは《ツンデレ》に害なす勢力の手先かもしれないから気をつけて――そのように紅葉から釘刺されていたことは、そのときは話半分で聞いていたとしても、実際現場での萩乃に注意を促すには足りていた。それだけでなく、その女生徒の右手をよく見れば、ギラリと光る包丁を逆手に構えているではないか。校舎裏の人目の少ない場所で、面識の無い者が刃物を携えて話しかけてくるというシチュエーションに、もちろん萩乃は迎撃態勢に入れるよう気持ちを切り替えたはずだ。さらに言えば萩乃は武道有段者なので、瞬発力には自信がある。そして彼女の体感的に、女生徒の動きは武道家のレベルから見れば決して速いものではなかった。
 それだのに、萩乃は回避することが出来なかった。油断していたとか、反応が間に合わなかったとか、そういう感覚ではない。相手の動作と危険性を把握してなお、その抱擁を避けることがまるで許されないかのように、身動きがとれなかったのだ。
「お願いです」
 女生徒は左腕を回してぎゅっと、覆いかぶさる形で萩乃を抱き締める。
「ッ死んでください」
 そして小さいながらも切羽詰まった荒声が、萩乃の耳元で発せられた。首筋には冷やりと刃の感触。
 女生徒の右腕に力がこもり、鮮血が散った。
「ぅぐ、あ!」
 絶体絶命の状況。ここで本来ならば首を掻かれて致命傷になるところを、どうにか免れたのには二つの要因があった。
 一つは萩乃自身の度胸。この土壇場において必死の抵抗を見せ、体格差を覆し、拘束から逃れんとした。そうして転がり倒れた萩乃の右肩には、深々と包丁が突き刺さっている。
 もう一つは颯爽と現れた横からの助け。すなわち紅葉の登場である。どこからともなく飛び出してきた彼女は、全速の体当たりで女生徒を弾いたのだ。
「はーちゃん、大丈夫!?」
「も、紅葉! なんでここに? それに……その格好?」
 紅葉は萩乃や女生徒と同じ制服に身を包み、三年生を示す色のスカーフを結んでいた。
「説明は後! 早く逃げるよ!」
「あ、ああ……」
 困惑している萩乃の左手をとって引き上げ、駐輪場の柱に頭を打って呻いている女生徒を捨て置いて、紅葉は駆け出す。
「昨日の今日で仕掛けてくるなんて早すぎる!」
「紅葉。あいつは一体、何者なんだ? どうして私を……?」
 どこへ行くとも決めず、とにかくこの場から離れるべく走った。それをしながら考えた――あの女生徒が萩乃に難なく抱きついたのは、何らかの『花札』を発動させた可能性が高い。そしていきなり殺しにかかる大胆さと、隠匿性を度外視して得物に包丁を選んだセンスあるいはこだわり――これらの情報をまとめて、一つの答えに至る。
 実態を細かくは知らないが、紅葉は里にいたときから噂として聞いていた。節度あるべき『花札』を窃盗や恐喝、果ては暗殺のためにも用い、裏社会で広く活動する一派があると。

「多分だけどあの子は……特級警戒対象《闇妹》!」
 

     


   *

 フランスの宮殿を彷彿とさせる装飾が壁や窓枠に施された体育館には、四十人超の、十代半ばの少女が集められている。皆が同じ体操着に身を包んだ彼女らは二人ひと組で、背中合わせに座り、緊張した面持ちになっていた。
「大好きなお兄ちゃんに後ろから抱きつく練習――始めぇっ!」
 壇上に立つ厳つい男が合図を出すと、少女らは一斉に飛び跳ねて振り向いた。それから腰を低く保ち、いわゆるレスリングスタイルで、互いの背を奪い合う。そんな激しい組み合いをしているにも関わらず、先ほどとはうって変わって、誰もがお面のような作り笑いを顔に貼り付けていた。
 その内の一人、蝶名崎牡丹(ちょうなさき ぼたん)だけはずっと唇を固くしめて、勝負に臨む真摯さを保っていた。全国平均よりも小柄な者が集まっている中で、牡丹の身体はひと際目立って大きい。彼女は持ち前の体格と腕力を活かし、上から相手を容易く組み伏せている。『花札』を使わずとも、同年代の同性に体術で遅れをとることはない。このことは牡丹にとって密かな誇りでもあった。
「……おいテメェ! 真面目にやる気あんのかコラァ!」
 しかし巡回する教員は、牡丹に目をつけるや大声で怒鳴った。そして彼女を蹴りつけた。脇腹を思いきり突かれた牡丹は倒れ、硬い床に頭を打ち、えずく。
「なんで蹴られたか、分かるか?」
「……」
「こないだも注意したよな? 何度言えば分かるんだ?」
「……」
 牡丹は苦しそうに喘ぐばかりで、まともに答えることが出来ない。
「お前には、笑顔が足りねえ」
「……はい」
「使える《妹》の基本はハグだ。ハグに必要なのは何よりも笑顔だ。一見すると爽やかで、でも一度見たら忘れられないねばっこさで、ときには言いようのない哀しみも隠し味に添えて『俺が、私が、この子を守ってあげなきゃいけないんだ』と相手に錯覚させるような、媚びついた笑顔だ。そうやって相手の警戒心を無力化するんだよ。一瞬でも自分のことを愛おしいと思わせられたら、その隙にハグを極めろ。あとはどうにでもなる。だからたとえゲロびたしのリングの上だろうが、爆音と硝煙にまみれた荒地だろうが、そこで《妹》として“抱きつく”ためには、笑え」
 かく言う教員は感情を窺わせない、冷ややかな、まるで彼女を人間扱いなどしていない目で見下ろしている。
「分かったか?」
「はい。分かりました、先生」
 胃液混じりの唾を呑みこんで、牡丹は頷いた。だが直後、教員による二度目の蹴りが容赦なく彼女の頬を突いた。
「『先生』じゃねえだろ」
「ご、ごめん、なさい。『お兄ちゃん』」
 切れた唇で牡丹は、震えながら謝った。男性教員のことは必ず「お兄ちゃん」と、そう呼ぶことがここの鉄則なのだ。
「牡丹、お前、ちょっと本家の血を引いてるからって、超能力を使えばハグなんか簡単に出来るからって、調子に乗ってんじゃあないだろうな?」
 すると教員は腰を屈め、牡丹の前髪をつかみ上げた。
「いいか。今のテメェの超能力なんざ、少しの技術で代わりになっちまう程度のものなんだ。分家や遠縁の奴らだって、じきに能力に目覚めるだろうよ。そんな中で、仏頂面で、スピードやパワーだけに頼ってしかやる気がねえなら、さっさと出て行け。ここはレスリング教室じゃねえんだからよ」
 そうなのだ。仮に格闘選手として見るなら恵まれた身体とセンスを具えていても、それは決して《妹》に求められるものとは限らない。
「ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい……」
 牡丹は身を縮め、うわごとのように謝罪の言葉をつぶやく。それを見て教員は、もう自分の声が届いていないことに気付き、舌打ちをしてから手を放した。
「おいテメェら! こんな落ちこぼれになりたくなかったら、しっかり妹らしく、笑え」
 それから辺りの少女らを一喝し、止まっていた練習を再開させた。静寂は再び、型で作られた微笑みを伴って、激しい抱きつき合いの音へと変わる。
 牡丹は痛みをおして起き上がり、ひきつる頬を指で持ち上げると、またその練習に加わろうとした。しかしそこで教員から塾長室への出頭命令を言い渡され、牡丹は緊張と不安を浮かべながらも体育館を後にした。


 体育館に負けず劣らず、校舎もまた絢爛豪華。だがそんな浮世離れした雰囲気においても、牡丹が廊下を進みながら横目で覗いた教室内では、なされている授業内容がひどく生々しい。例えば「民法:合法的にターゲットの妹になるには」「拘束術:血の繋がった兄と既成事実を作るために/初心者向けの縄選び」「家庭科:気づかれずに毒を盛る料理」

 私立妹塾――《妹》の属性を世に広めるべく設立された全寮制教育機関。本来ならば特別な家系にのみ扱える『花札』を技術体系化し、一般人にも伝えようとする試みは、かの極真ツンデレ道場とも通じるところである。しかもその歴史はずっとずっと古い。
 もちろん一般人が習得できる技能など、本物の超能力には及ぶべくもない。だが例えば、相手の好みを熟知した上で軽やかに料理を作る技術。あるいは、相手を敬い、その自尊心を高めるための適度な「甘え」の技術。もしくは、掃除中に兄の部屋でエロ本を発見しておきながらも素知らぬ振りを通し、それでいてしっかり性的な研究対策を練るための技術……等々は、かつて「黙って男の三歩後ろを歩く」ことが女の美徳とされていた時代と社会において、大変に有用なものと称えられていた。
 故に、妹修業に勤しんだ女には良縁が引く手に数多。上流階級がこぞって娘を入塾させようとしたものである。
 しかし由緒あるその妹塾は、あるトップの交代を機に拠点が人知れぬところへ移され、しかも塾生に教える内容も大きく変わった。上に挙げたような、犯罪を助ける知識ばかりになってしまっているのだ。ここで育った《妹》を、古式ゆかしい正統派と区別して《闇妹》と外部の人間ならば呼ぶだろう。

 そしてここまで闇組織化している妹塾の現塾長こそ、今から牡丹が会うべき人物であった。
「一号生、蝶名崎牡丹です」
「入りなさい」
 牡丹がドアノッカーで扉を三回叩き、自らの到着を告げると、中から老練な趣の声がする。
「失礼します」
 促されて、恐るおそる牡丹は足を踏み入れた。思えばここに入るのは初めてだった。
 塾長室には、校舎や体育館に輪をかけて豪奢な、しかも絵画や彫像など明らかに業務と無関係なものがそこかしこに置かれている。そんな目眩がするほど金のかかった空間で、牡丹の目に留まったのは、奥に下がっている真っ赤なカーテンだ。それだけが何故か、しわだらけで、妙に古めかしい。
「なにをボーッとしているのです?」
 話しかけられて、牡丹は我に返った。
 気づけば赤いカーテンの手前には、スーツを着た中年女性が大きな政務机にちんまりと座っていた。彼女は乙女として花の盛りを過ぎるとも、今なお凛としてしかも可憐。三十年以上の長きにわたって《妹》の最上位に君臨し続けている、妹塾塾長である。
「あ、はい。すみません」
「あら、その怪我?」
 険しい雰囲気の塾長は牡丹の顔を見据え、さらに表情を固くした。
「牡丹……あなた、また粗相をしたのですね。まったく不甲斐ない」
「は、はい」
「花咲く能力、今生の切り札――それに目覚めておきながら、この体たらくですか。あなたは一体ここに、何を学びに来ているのです?」
 対して牡丹は、塾長の一言ごとに萎縮し下を向く。
「図体だけが大きくて、かわいらしさも、愛嬌も、まるで足りない。《妹》としてのあなたはとんだ欠陥品です」
「ごめ、ごめんなさい……」
「やはり一時の気の迷いで、あの男の血を蝶名崎の家に入れるべきではなかったですね。ねえ、牡丹?」
「え、あ……」
 塾長の言う「あの男」が牡丹の父親を指しているのだと察し、彼女は思わず顔を上げた。しかし鋭い眼差しに射抜かれては、どんな文句も反論も喉元で止まってしまう。
「だけど安心なさい。今日あなたを呼んだのは、そんな落第者にチャンスを与えるためでもあります」
 話しながら塾長は、手ぶりで牡丹を近寄らせた。
「牡丹。これがあなたのターゲットです」
 机の上に開かれた書類には、ある人物の身体的特徴から家族構成、住所、通っている高校などの個人情報が細かに記されていた。学生証に貼るような真正面からの顔写真も添えられていて、そこにはおさげ髪に凛々しい面立ちが映えている。
「ターゲッ、ト?」
 書類を手にして、牡丹はきょとんとした。
 するとその隙へ刺し込むように、塾長が言い放つ。
「その娘を殺してきなさい」
「…………えっ?」
 一瞬、牡丹の思考が止まった。
「聞こえませんでしたか? 牡丹。あなたの手で、この娘・猪立山萩乃を殺すのですよ」
「ころ、す、って……そんな、この人が何をしたん、ですか?」
「理由はあなたが知る必要の無いことです。ただ強いて言うならば、この娘が我々にとって脅威になり得るから、ですね」
「それで、どうして、わたしが?」
「《妹》として異端であるあなたが貢献できるのは、こういった荒事でしかないでしょう。ならば覚悟を決めて、役立たずの汚名を返上してみせなさい。仮にも蝶名崎の姓を名乗るのでしたらね」
「さ、それでわたしに、人殺しになれって、言うんですか?」
「そうです」
 どこまでも塾長の態度は揺るがない。
「で、でもそんな、嫌――」
「牡丹」
 かぶりを振る牡丹の言葉を遮って、塾長は一層厳かに言いつける。
「この私が、あなたに、『やれ』と命じているのですよ」
 否も応も無いのだ。
 少しややこしい言い方になるが、他人に「甘える」ことが《妹》にとって大事な能力であり技術でもあるのだが、しかして《妹》の業界において「甘え」は決して許されない。
「……はい」
 悟った牡丹は唇を噛み、涙を堪えて、頭を下げた。
「ああ、そうです。牡丹?」
 そして退室しようとする牡丹を、塾長は思い出したように呼び止めた。
「私の意にそぐわない結果を出したときにはどうなるか、分かっていますね?」
 妹塾で落ちこぼれた者の行く末は、それはもう凄惨を極めるものだと聞いている。だから牡丹はドアノブにかけた手の震えを、もう片方の手で無理にでも抑え、やがて小さく頷いたのだった。

 初めて負う殺人任務は突然の話であるため、ろくに心の準備をする時間も無かった。塾長室の外で待機していた三号生に付き添われ、最低限の情報と装備だけを渡された牡丹には、寮の自室に戻る暇さえ与えられない。
「このまま夜行で、現場には明朝着よ。途中でトイレに行きたくなったら私に言って」
 四方が森に囲まれた妹塾の、運動場の真ん中で、三号生の先輩は牡丹に目隠しと手錠を施した。
「あの……」
「でも、あなたからのあらゆる質問に、私は答える権利を持たないわ。悪く思わないでね」
「…………はい」
 手を引かれながらも不安を分かち合うことが叶わず、牡丹はバスに乗せられた。

  *

 頭がズキズキする。
 目がチカチカする。
 肩がヒリヒリする。

 わずかに飛んでいた意識が戻ってくるなり、牡丹は腰に力を入れて立ち上がった。そして思い返した。
 ターゲットの抵抗は予想以上に強かったけれど、それだけだったら問題なかった。猪立山萩乃が空手の有段者だということは事前情報として知っていたから。打撃の間合いでは相手に有利でも、強制的に組み技の間合いに持ち込める『花札』――“フリーズ・ハグ・ミー”を駆使すれば、刃を急所に突き刺すことなど容易いはずだった。
 だけど、あれは誰? 偶然じゃない。猪立山萩乃を影から見守っているとかじゃなければ、あんなに早く躊躇いなく助けに来るなんて有り得ない。そんな仲間がいるなんて聞いてない。
 牡丹の側も一人ではないが、この件については必ずしも仲間ではなかった。彼女を現場に送り出した三号生の先輩は、何があっても手助けしないと言い置いていたのだ。だから牡丹は、監視されていることを自覚している。
 もし任務に失敗すれば、すぐさま塾長に報告されるだろう。そうすればどんなに逃げても、言い繕っても、追及は免れない。
 考えるだけで恐怖が身体を蝕み、背と腕に震えが走る。
 でも、だからこそ、やらなきゃいけない。
「ッは、早く、追い、かけなきゃ……ッ」
 牡丹は背中の制服の下に手を回し、ベルトで固定してある鞘と柄に触れ、予備の包丁がいつでも取り出せる状態にあることを確認した。
「すぅー、はぁー」
 続いて深呼吸。
「あと、足りないのは――」
 それから両手の人差し指で、頬をグイーッと持ち上げた。
「笑顔ッ!」

 胃が、グラグラする。

     


   *

「や、《闇妹》って、なんだ!?」
 自転車置き場から校庭へと、突然に現れた紅葉に手を引かれつつ、萩乃は彼女の背に問いかける。
「《妹》の属性の過激派のことだよ。それより今は、逃げることに集中っ!」
 もちろんそれだけ答えられても、萩乃には詳しいことなど全く伝わらない。だが突然に殺されそうになったことは確かであり、しかもそこへ紅葉が助けに駆けつけてくれたのも事実なのだから、えらい勢いで自分を引っ張る彼女に今のところは従うことにした。
「はーちゃん。とにかくこっから離れて病院、病院に行こう」
「私の怪我なんかどうでもいい。それより、行くなら警察じゃないのか?」
「どうでもよくない!」
 己の身を軽んじるかのような萩乃の発言に、紅葉は走りながら首だけ回して一喝。
「それにね、超能力者を相手に警察がどんだけ役立つか分かんないし、とにかくまず、ちゃんとしたところで治療を受けなきゃ、ヤバいよ多分、その傷」
 萩乃の左手を掴む紅葉の右手が、ぎゅっと強く握られた。相変わらず萩乃の右肩には包丁が刺さったままであり、満足に腕を上げることも出来ず、それどころか一歩ごとに走る振動でズキズキ痛むのだが、つないだ温もりはいくらかそれを和らげてくれる。
「ああ、分かった。ここはお前に任せ――」

 “逃れ得ぬ試練の時”

 しかし萩乃が手を握り返した直後に、二人の逃走劇は阻まれた。
 校庭を横目に過ぎて、まさに正門を超えんとした矢先のこと。耳に聞き慣れた男の声が届いたかと思うと間もなく、萩乃の身体は前へと進まなくなったのだ。彼女はズルリと膝から崩れ落ち、先行していた紅葉もつられてガクンと引き止められ、勢い余ってその場に尻もちをついた。
「ちょ、ちょ、はーちゃん、どったの!?」
「いや紅葉、私にも分からないんだが……?」
 正門のレールを挟んで顔を見合う二人。互いに疑問符を口に出す。
 腰を上げた紅葉が改めて萩乃を引くが、どうにも突っかかって、思うようにいかない。
「ふんっ!」
「ぐぅっ!」
 萩乃としてもなんとか外へ出ようと試みるのだが、望んだ通りにならない。ちょうど学校敷地と公道との境目に、まるで弾力性の強い透明な膜が張られているような感覚だった。いくら押しても跳ね返される。何がしかの超自然的な力が働いているのは間違いないだろう。
「あ、ちょ、ダメだこれ。無理しちゃヤバいよ、っと」
 興奮して踏ん張ったせいか、萩乃の右腕をしたたり落ちる血が勢いを増していた。それを見た紅葉は目を見開き、慌てて彼女の腰に手をまわして、身体を横から支える態勢に移った。
「すまない……紅葉、お前は、学校から出たり入ったり、可能なんだな?」
「はーちゃんは、出来ない?」
「ああ、目には見えないが、ぐにゃぐにゃしたものがあって、この通りだ」
 そう言いながら手を突き出してみせる萩乃だが、傍から見る紅葉にしてみれば、何も無い空間でパントマイムでもやっているかのようだった。
「ところで紅葉。さっき、声を聞いたか?」
「声?」
「そう。男の人の声で、逃げられないとか、なんとか言っていたんだが」
「ううん。ボクにはそんなの聞こえなかったよ」
 首を横に振る紅葉だが、そこに相手を疑う気持ちは決して無かった。
 萩乃だけを校内に留めようとする謎の力。彼女だけに聞こえたという謎の声。そして、彼女の命を狙う明らかな刺客の存在――それらを安易に無関係だと決めつけてしまうほど、鹿子木紅葉は楽天家ではない。
「これは多分だけど、はーちゃんを対象にして大掛かりな『花札』が使われてるんだと思う」
「何らかの超能力。おそらく……そうなんだろうな」
 萩乃は頷く。ここまでは同意見だが、彼女は既にもうひとつ先の事実に考えを巡らせてもいた。
 気がかりなのは、まだ紅葉に打ち明けていない情報。先ほど自分だけに届いた声が、紅葉が疑いの目を向けている件の人物・小野傘雨柳のものにそっくりだったということだ。
 尊敬する先輩の音吐を聞き間違えたとは思い難い。
 だがしかし、あれを雨柳先輩だと認めることは即ち、彼が《闇妹》とやらと結託して自分を亡き者にせんと暗躍していることを意味する。もっとはっきり言えば、敵方の人間であると。
「なあ、紅葉……」
「ん、なぁに? 『はーちゃん』って言うなって?」
「それもそうだが、いや」
 萩乃が言い淀みながら細い横目で紅葉を窺うと、彼女はくりっとした瞳を向けてきた。それは心底から萩乃の身を案じているように思えて、いっそ全幅の信頼を置いてしまいたい気にもなったが、それでもやはり先輩を天秤にかけるとなれば即決とはいかなかった。
 自分を学校に閉じ込める『花札』の使い手に心当たりがあることを、紅葉に報せるべきか否か、萩乃は揺れる。
「っ! 来たよ、はーちゃん」
 とはいえ、悠長に迷っている暇が与えられた状況でもない。
 萩乃を襲ったあの女生徒が、そらぞらしいニコニコ顔と共に歩み寄ってきていた。

   *

 学校正門の手前で寄り添い立つ二人の姿を認め、牡丹はまず駆け足を緩めた。ターゲット・猪立山萩乃が逃げようとしないのは好都合であったが、その隣に彼女の味方をする人物がいる以上は、迂闊に踏み込むことは得策ではないだろうと感じた。
 そこで牡丹はじりじりと進み、二人の様子を窺う。慎重になっているのは先ほどの奇襲失敗で、自分の『花札』の弱点に気づかされたからだった。
 そも、彼女の“フリーズ・ハグ・ミー”はあくまで、相手に確実に抱きつくだけの能力である。それ以上でもそれ以下でもない。これでは武器を構えたまま突進するなどの直接攻撃が出来ず、また抱きついた時点で相手の硬直は解けてしまう。つまり肉迫してから攻撃に移るまでには必ずタイムラグが生じ、その僅かな間は超能力と無関係、自力での勝負となるわけだ。
 さらに言えばこの『花札』は、一対一での組み合いには非常に強いものの、横からの介入にはほぼ無力だ。多対一では期待したほど役に立たない。
 その意味でも、ターゲットと一緒にいる仲間が邪魔で仕方がなかった。
「……あなた、誰?」
 牡丹の片手がゆるりと持ち上がり、丸顔の女を指差す。

   *

(この子……《闇妹》のくせに随分と素人っぽいなぁ)
 問いかけられて紅葉が思ったところはこうだ。
(ひょっとして、まだ殺しとかそういうのに慣れてない?)
 正味な話をすると、手負いの萩乃とそれを支える紅葉とでは、迎撃力に乏しいのが現状。逃走するのも困難。そのため今この場で何をされたら一番困るかと言えば、予備の武器か何かを抜き出して、なりふり構わず一直線に萩乃へ突撃してくることだ。
(もしボクがそういう立場なら、質問とかしてる間に、ちょっと強引にでもやっちゃうけどなぁ。どうせ後始末は裏方の仕事だろうし、人目を気にしてチャンスを失うよりかはそっちのほうが確実だと思うんだけど、だからといって撤退する様子も無いし……)
 ときに、超能力なんかに頼らず普通のやり方で攻められたほうが厄介な場合もある。それなのに強行手段に出てこないというのは、深い思惑があってのことか、それとも、経験不足による浅はかさか。
 後者であってほしいとは思いつつ、前者の恐れも捨てきれない。こんな状況で相手に背を向けることは甚だ危険であろう。
 それ故に自ずと始まった睨み合いである。
「ねえ、聞いてます? あなた、誰なんですか?」
「ボクの友達を殺そうとしてる相手に、バカ正直に答えるわけないじゃん」
「お友達、ですか」
「近寄んな、それ以上っ!」
 女生徒の一歩を、紅葉は叫び声で制した。
 グラウンドで部活動をしている生徒や、これから帰ろうと校舎から出てきた生徒のうちの何人かが、紅葉の怒声に気づいたようだ。それを察してか、牡丹は踏みとどまり、チラチラと視線だけで辺りを窺っている。
(おい紅葉。お前は私を、友達だと思っているのか?)
 そうした均衡の中で萩乃が、ひそひそと隣に訊ねた。
(話を合わせて、そういうことにしといてよ)
「分かった。ならばなおさら――」
 言いながら萩乃は、ぐいっと紅葉を押しのけた。
「友達、を巻き込むわけにはいかないな。大方、狙われているのは私一人なんだろう? だから紅葉は逃げるんだ」
「元々、ボクがきみを巻き込んだようなものなんだから、それは聞けないよ。それにはーちゃん、その怪我じゃ」
「いや、このくらい、大丈夫だ」
 そして萩乃は自分の首後ろから右肩に手を伸ばし、苦悶しつつも包丁を引き抜いた。開いた傷口から余計に血が溢れ、身体がよたりと一度だけ傾いた。
「ほら、これで、少しは右手も、動くように、なった」
「んなこと言ってたら、出血多量でぶっ倒れちゃう」
「大丈夫だから。痛いのには慣れている」
「いくら空手やってるからってねぇ」
 紅葉は目線で女生徒を牽制したまま、呆れと心配の混じった文句をこぼす。
「ところで、それよりも、これをどうしたものかな」
 一方で萩乃は、まったく緊張感があるのか無いのか、抜いた包丁の後始末に困っていた。
「捨てちゃえばいいじゃん」
「それは出来ない」
「なんで?」
「皆が活きいきと育まれるべき神聖な学舎で、血まみれの包丁が無造作に放置されていたら迷惑だろう」
「持って歩かれるほうが迷惑だと思うんだけど!? っていうか、そこまで考えるんだったら抜く前に気付こうよ」
「すまない」
「でもさ。これで武器が確保できたと考えれば、まるきり被害だけってわけでもないかもね」
 紅葉の提案を聞いて、萩乃は声音を強くした。
「刃物を武器に使うなんて、紅葉、恐ろしいことを言うんじゃない! 間違って相手を殺してしまったらどうする」
「だけどはーちゃん。向こうから襲ってきたんだし、まだ続けてくるっていうんなら、そのときは正当防衛だよ。お巡りさんも許してくれるって」
「警察は関係無い。私が嫌なんだ。だいたい、何かあっても殺さなきゃいけないほどの悪人ってわけではないだろう」
 あいつは、と続けて萩乃は女生徒を見据える。
「何を根拠に?」
「だって紅葉、お前が一昨日、言ったじゃないか。本当の悪人なら私の家族を狙ってくるだろうって」
「まぁ、近いニュアンスのことは言ったけど」
「しかし私を直接狙ってきた。つまり、あいつは少なくとも最悪の奴じゃないということだ」
「きみのさ、変な方向へのポジティブ過ぎる感じはどこ起源なの!?」
「さっきから何を、ごちゃごちゃ言っているんです?」
 このやり取りの間、女生徒も待ちほうけていたわけではなかったようだ。急に動いて紅葉を刺激することはせず、しかし決して襲撃を諦めようともせず。いつしか女生徒と二人の距離は、およそ三歩もあれば密着できるほどにまで詰まっていた。
 紅葉が注意していたはずなのにこの結果だ。女生徒は曲がりなりにも殺人任務を負った人間だからして、体術には心得があるのだろう。もっとも、肝心の萩乃が逃げるよりも迎え撃つ気持ちに傾いている現状では、紅葉の頑張りなど無関係なのかもしれないが。
 いずれにせよ10m以上は離れていたちょっと前ならともかく、今この間合いで急襲されては対処が難しい。
「ねぇ訊きたいんだけど、なんできみは、はーちゃんを殺そうとするわけ?」
 故にこそ、紅葉が動く。一歩だけ前へ。
「そんなの、バカ正直に答えるわけないじゃないですか」
「恨みを持ってるって感じじゃなさそうだけど」
「答える義務はありません」
「そうだよね。じゃあさ、この子の名前、知ってる?」
 後ろに控えている萩乃を手振りで示す。
「もちろんですよ。猪立山萩乃、でしょ?」
「うぅん、違うよ。それボクの名前」
 紅葉がきっぱり言い切ると、女生徒の笑顔が一瞬歪み、萩乃の口元は引きつった。
(ちょっと紅葉――)
(いいから、ボクに任せて)
(どうするつもりだ?)
(ターゲットを分散させるんだよ)
 萩乃の耳打ちに、紅葉は顔を動かさずに答える。
「……嘘を吐かないでください」
「ほんとほんと」
「わたし、写真を見ましたよ」
「写真が間違ってたんじゃない? もしかして、きみが殺したがってるのって、ボクのことじゃないのかなぁ?」
「そんなはずは…………ではあなた、猪立山家の家族構成と名前、ぜんぶ言えます?」
「当ったり前じゃん」
 紅葉は小さな胸を張った。
「お父さんが悟郎。お母さんが、かおり。お兄ちゃんが健吾で、そのお嫁さんが、留華さん。妹が三人いて、上から瑞穂、小雪、果梨。弟は二人で、上から海斗、恋次。これで全部の、ボクも入れて十人家族だよ」
 淀むことなく諳(そら)んじてみせた紅葉の堂々たる調子に、女生徒の疑いの目が揺らいだ。
「じゃあ――」
 女生徒は言葉を区切り、一息吸って、新たに問い詰める。
「生徒手帳、見せてください」
「はぁ!? なんでさ」
「この学校の。出来ますよね?」
「無理に決まってるじゃん。個人情報のってるし」
「だったらわたし、あなたの『お友達』を間違えて殺してしまうかもしれませんよ」
 眉間にしわを寄せる紅葉。笑みに余裕を取り戻した女生徒。
「……もぅ、しょうがないなぁ」
 悔しそうに、実に渋々とやらされている体裁で、紅葉はスカートのポケットから手帳を取り出し開いて見せる。
「…………嘘……」
「だぁから、本当だってば」
 女生徒が用心深くそれを掠め取った後、信じられないと呟くのも無理はない。何せその生徒手帳に貼られている写真と記載事項は間違いなく、丸顔の先輩女子生徒こそが「猪立山萩乃」であると証明しているのだから。
「そっちの『お友達』は、どうなんですか! 持ってないんですか、手帳!」
 動揺を隠せない様子の女生徒は、今度は萩乃を煽った。
「いやしかし……」
「はーちゃん。出して見せて」
 良いのかなと思いつつ萩乃は、包丁を持ったままの左手で、人差し指と中指だけを使ってポケットの中身をつまみ上げる。そしておもむろに右手も動かし、それを紅葉に預ける前に自分でも内容を確認してみれば、そこには彼女の写真に「鈴木花子」の名前が添えられていて、見たことも聞いたこともない住所が書かれているではないか。
 さすれば、紅葉を介して手帳を受け取った女生徒が愕然としたのは言うまでもない。
「ってなわけで、分かったでしょ?」
 女生徒の震える手の中にある二つの生徒手帳を、紅葉は素早くひったくり返した。
「きみに何の目的があってそうするのか知らないけど、まだ『猪立山萩乃』を殺そうっていうつもりなら、ボクが受けて立つよ。でも、全然関係の無い友達が怪我したんだ。手当の時間くらいは貰ってもいいよね?」
 萩乃を庇いつつ、距離を保ちながら、紅葉は女生徒の横を過ぎて昇降口に向かう。
「ま、待ってくださ」
「あのさぁ……」
 呼び止められて紅葉は、辛うじて相手の耳に届く程度の溜め息を吐いた。
「きみ、誰かに頼まれて殺しに来てるんでしょ? ボクも詳しいことは知らないけどさ、そういう仕事って、あれ、『ミスは許されない』んじゃないのかなぁ? 違う?」
 揺さぶりをかけられて、ついに女生徒は完全に笑顔を失った。
「ちが、でも、でも、でもその、でも……」
 そして壊れかけのおもちゃのようにぶつぶつ呟きながら立ち尽くす彼女を尻目に、紅葉と萩乃は急いでその場を離脱する。


 保健室への道順を指示する傍ら、萩乃はどうしても気になるところを訊ねてみた。
「紅葉。お前、さっき何をしたんだ? その制服といい、生徒手帳といい、ひょっとして、本当にうちの生徒なのか?」
「まっさかー。制服のほうは、こんなこともあろうかと事前に準備しといたってだけだよ。一応これ、店でも買えるしね」
「では、生徒手帳は?」
「ボクはプロの《幼なじみ》だよ。ほら、よくラブコメ漫画とかであるじゃん。“時期はずれの転校生は、なんと昔のあの子!!”って感じの展開がさ」
「すぐにはピンと来ないんだが」
「あるんだよ。で、ボクはそういう状況を作り出す『花札』も使えるの」
 すなわち、公文書や身分証の類を偽造する能力である。
「だからまぁ、この『花札』が効いているうちは、この学校の生徒だっていうのも間違いじゃあないかもね」
「つくづく、底の知れない奴だな」
 萩乃はそう言って超能力者としての紅葉の恐ろしさを再認識しつつも、同時に頼もしさを感じていた。
「あ、紅葉。そこを右に曲がって、突き当たったところだ」
「オッケー」

 紅葉は萩乃を引っ張り、勢いよく保健室の戸を開けた。
「先生、怪我人です! 友達が刺されて、診てくださいッ!」
 そして開口一番、養護教諭に強く訴える。
「え、刺されたって、どうしたの!? どこを刺されたの!?」
 その切迫した雰囲気に、女性の養護教諭も椅子を倒さんばかりの勢いで立ち上がり、すぐさま駆け寄ってきた。
「えっと、パッと見たところ何も無いみたいだけど、どうしたの? 蜂にでも刺された?」
 ところが彼女は、血だらけの萩乃には目もくれず、紅葉をばかり診ようとするのだ。
「せ、先生、何を言っているんですか。冗談じゃないんですよ」
「そうです。見れば分かるでしょ!? 怪我してるのは、ボクじゃなくって、こっち」
 さらには萩乃からの声もまるで聞こえない素振りで、紅葉に視線を誘導されてようやく萩乃と目を合わせる始末。
「……こっちの子が、蜂に刺されたの?」
 それでもなお、事の重大さを理解できないようだった。
 萩乃と紅葉。二人の背に、ゾッと悪寒が走る。
 もしこれが、萩乃を学校から逃がさない『花札』と関連した事象であるならば、これほど暗殺に適した能力も無いだろう。
 逃げられない。気付かれない。怪我をしても認識されない。
 最悪の話をすると、ここで殺されれば、一般生徒が居残り勉強したり部活動に汗を流したりしているそのすぐ隣で堂々と、誰にも知られず闇に葬られる恐れさえあるからだ。

(ひょっとしてこれ、思ってた以上に、マジでヤバい状況なんじゃないのかなぁ)

     


 しかし胸にざわつきを覚えた紅葉があらためて隣を窺えば、萩乃は片目をつむり、歯の隙間から息を漏らして、ますます辛そうな表情になっている。いくら萩乃が気丈な人間だとしても、襲い来る痛みと出血と混乱とで、この短時間における心身の消耗は激しいはずだ。
 だったら自分がまごついている暇はない、と紅葉が奮い立つのは必定。何故ならば、こうした別の属性の能力者の魔手から萩乃を保護することが、目下のところ彼女が《幼なじみ》の里から仰せつかっている任務だからである。
 未だにきょとんとしている養護教諭をキッと見据え、紅葉は食い下がった。
「だーかーらっ! 友達が、包丁で刺されて、血がいっぱい出てるんです!」
 最初は萩乃がいることにさえ気付かれてない様子だったのだが、とりあえずでも今は、最低限の認知はされている。全くの手詰まりというわけではなさそうだ。
「……血?」
「これでやられたんですよ。こ、れ、でっ!」
 そこで、もうひと押し。紅葉は萩乃の手から血塗れの包丁を掴み取り、目の前へと突きつけた。養護教諭が驚きと恐怖に目を丸くしている隙に、紅葉は萩乃の存在を強調して立ち位置を替えてみせる。
「あ、あなた、そんな物、どこから出してきたの!? いえ、それより、その血は、一体……」
 だが養護教諭の紅葉を見る目は、まるで通り魔か何かに怯えるようだ。間に立つ萩乃のことなどまるで無視している。
 これでもダメかと紅葉は歯がゆく感じたが、まだ諦めはしない。悲鳴を上げられる前に次の手段に移るべく、萩乃に耳打ちした。
(ねぇ、はーちゃん。この保健の先生って、名前は何ていうの?)
(確か、橋本先生、だな)
(下の名前は?)
(なんだったかな……)
 萩乃の記憶は当てにはならず、ちょっと無理やりだと自覚しながら紅葉は養護教諭に問い詰める。
「ボクは鹿子木紅葉っていうんですけど、先生の名前は?」
「なんで、あなたに、そんなこと?」
「いいから」
「橋本、美代子」
 刃物の切先を一瞥して、養護教諭は正直に答えた。
「分かった。じゃあ、みぃ姉。ボクの友達が刺されたんだ。お願い。手当てして」
 その瞬間を待っていた。紅葉は橋本教諭の肩に手を置いて“離れてもずっと友達”を発動させる。しかし相手は教師としてはまだ若いとはいえ、年の離れた大人だ。今の紅葉の実力では必ず成功するという保証は無い。
「……あら、紅葉ちゃん! しばらく見ないうちに大きくなったわねえ。そう、もう高校生なんだっけ……って、あら、どうしたの、この子! ひどい怪我、血だらけじゃないの!?」
「さっきからそう言ってたじゃんか」
 すると橋本教諭は、ぼんやり数瞬の間をおいてから、やがて大事なことを思い出したように動き始めた。そして萩乃を椅子に腰かけさせ、速やかに服を脱がせて、ガーゼと包帯で止血を行うと、そのまま患部を押さえ続けるよう指示した。
 その様子を眺めて小さな胸をなでおろしつつ、紅葉は里の上司に『猪立山萩乃が《闇妹》と思しき人物から襲撃を受けた。現在は彼女を保護しながら交戦中』との旨をすばやく暗号混じりのメールで報告した。それから、次に備えて思考を巡らす。

 萩乃が他人から正しく知覚されなくなるというこの現象は、紅葉を介することで緩和・解消されるらしい。これが萩乃を対象にした『花札』に固有の弱点なのか、それとも紅葉が特別だから可能なのか、そもそもどうして紅葉が萩乃と普通に接することが出来るのか。いろいろと分からない部分はあるが、とりあえず事態は少し好転した。
 さて、問題はこれが誰の仕業か。
 逃走を阻まれた際に、男の声が聞こえたという萩乃の証言。
 紅葉に一喝されたときの、人目を気にするような女生徒の態度。
 以上からして、萩乃を孤立状態で――今は紅葉のおかげでいくらか解決しているが、そうでなければ打つ手は無かっただろう――学校内に閉じ込めているのは、あの背の高い《闇妹》ではないと思われる。
 導かれたのは、好悪どちらともとれる未来予想だ。
 悪い方向で考えれば、敵が二人以上いるということ。そうだとすれば、生きて萩乃を脱出させるにはあの女生徒だけでなく、未だに姿の見えない二人目以降を倒さなければならない。具体的には、意識が無くなるほど痛めつけるか、戦意喪失させて能力解除を迫るか。
 好い方向で考えれば、女生徒と正体不明の人物との間では連携がとれているとは限らないということ。もし女生徒が萩乃を囲む状況を把握しているのであれば、もっと強引に攻めてきて然るべきだったからだ。交渉次第では、二人目以降とは穏便に済むかもしれない。

 傷が深いから必ず、後で病院に連れて行ってあげなさい。
 橋本教諭にそう言い含められ、紅葉は目先の難題に意識を戻す。
「はーちゃん。ちょっと訊きたいんだけど、大丈夫?」
「ああ、どうした?」
 差し当たり、どの道、刺客として送り込まれた女生徒は撃退する必要がある。そこで紅葉は橋本教諭に断ってから萩乃をベッドへ連れて行き、カーテンを閉め、小声でいくつか確認をした――引き出すべき内容は、女生徒が萩乃に襲いかかってきたときの状況説明と、萩乃自身の所感だ。特に超能力の対象になった萩乃がどう感じたか、というのは重要である。

 ひと通りの情報を得て、紅葉は「分かった」と言って腰を上げた。
「どうする気だ?」
「決まってるでしょ。あの《闇妹》をとっちめるんだよ。まさか今さら『お前を巻き込むわけにはいかない』なんてつれないこと言わないよね?」
「ああ。もうそれは言わない」
 萩乃はベッドの端に座ったまま、まっすぐ見上げて発問する。
「だが勝つ算段はあるのか? 相手は間違いなく、格闘戦に長けた体作りをしているぞ。でもお前はそうじゃないだろう?」
 彼女が心配している通り、紅葉は格闘技経験者ではない。せいぜい、ちょっと平均よりは運動が得意な程度だ。まともな喧嘩をしてはまず負けるだろう。
 いやそもそも、対象との距離を計ってうまく保つことが《幼なじみ》の真価であるからして、殴り合い・取っ組み合いをせざるを得なくなった時点で、超能力者としては既に負けているという見方もある。
 加えて女生徒の名前を知らず、またこちらが偽名を使っていたこともあり、ここでは“離れてもずっと友達”も通用しない。
「勝算? 余るほどあるよぅ」
 それでも紅葉は、親指をグッと突き立てて余裕を示してみせた。
「それにね。ボクはたしかに強くはないけど、まるきり弱いってわけでもないんだから」
「待て、紅葉」
 カーテンを開けた彼女を、萩乃が再び呼び止める。
「ん。まだ何かある?」
「ありがとう」
 そして背を伸ばし、深々と頭を下げた。
「そんな、かしこまらなくてもいいって。きみを守るのがボクの仕事なんだからさ」
「いや、私のことじゃない」
「うん?」
 紅葉は首を傾げた。
「私の家族の名前をぜんぶ憶えてくれた。そのことが、堪らなく嬉しいんだ」
 萩乃は顔を上げ、改めて紅葉を見つめる。
 その力強くもやわらかい眼差しは、相手を対等と認めて頼りにする武人の如き実直さをよく表していた。
「まぁ、努力はしたからねぇ」
 対して紅葉は、敢えて軽めに微笑んで、進んで保健室の戸を開ける。
 残された萩乃は、ここはもうちょっとツンデレ四十八手を応用して気の利いた言い回しが出来たんじゃないかと、内心で少しだけ反省した。

   *

 牡丹は背に凶器を隠し、保健室を探して校舎内を歩き回った。怪しまれないようにあまりキョロキョロとはせず、出来るだけ目の動きのみで辺りを窺うよう努める。
 しかし気が付くと表情が固くなっているので、その都度、思い出して立ち止まり、両手で自分の頬を上げていた。それをする毎に、昨日の妹塾で蹴られた片側がズキリと痛んだ。
 そうして探した結果、ついに見つけた。それも丁度、丸顔の女がそこから出てくるタイミングでだ。向こうも牡丹を感知したようで、互いの視線がぶつかり火花を散らす。
「すっかり惑わされましたよ」
 丸顔の女と、おさげ髪の女。いずれがターゲット・猪立山萩乃であるかは未だに分かっていない。
「よーく考えたら、どっちが本物か分からなければ、どっちも殺しちゃえばいいんじゃないですか」
 喉の震えを抑えて、牡丹は歩を進めた。
 本当は、本当の本当は、どちらも殺したくないというのが牡丹の本音である。人殺しになんかなりたくない。でも命令されたのだから、やるしかないのだ。
「なんだ。今頃そんなこと気付いたの? やっぱりきみ、素人だねぇ」
 丸顔の女は、挑発的に口元を緩めてみせた。
 彼女は両手を後ろに回した姿勢で佇んでおり、その不自然さを感じ取った牡丹は、相手が武器を隠し持っているのだと予想する。カウンターでも狙っているのだろうか、と。
 だがこれはかえって好都合かもしれない。上から強く抱きしめてしまえば、その両腕ごと封じて反撃も防げるからだ。
「おさげの人は、その中にいるんでしょう? とりあえず、あなたを殺してから、そっちに行かせてもらいますね」
 牡丹は丸顔の女の後方、保健室の戸を指差した。
「やれるもんならやってみたら? もちろんボクは退かないし、むざむざ殺されたりなんかしないけどね」
「随分と威勢がいいんですね」
 こうして喋りながらも、着実に、牡丹は自分の『花札』が有効な間合いに入った。
「ごちゃごちゃ言ってないで、来なよ」
 丁字に交わった廊下の先や物陰などに、誰か仲間が隠れている雰囲気はない。仮にいたとしても、やられる前にやればいいだけの話だ。あらかじめ気を配っていれば、先ほどのような不意打ちが来ても充分に避けることは可能だ。
 大丈夫。やれる。私なら、出来る――牡丹はそう自分に言い聞かせ、予備の包丁に手をかけて、笑った。
「……後悔しても遅いですよ。お、ね、え、さ、んッ!」
 いよいよ“フリーズ・ハグ・ミー”を発動させる。
 丸顔の女は動かない。動けない。微動だに出来ない。

 牡丹の長身がギュッと相手を捉え、抵抗を許さずに、首を掻き切る。

 そうして終わるはずだった。
 だがどうしたことか。何が起こったのか。
 牡丹の腕の中に、女はいない。
 いや確かに、一度は、牡丹は丸顔の女を捕まえた。
 異常があったのはその直後――女が脱力し、するりと拘束から逃れて足元に屈むまでの間、牡丹は逃さないよう腕に力を込めることも、女を追って手を伸ばすことも叶わなかった。動けなかった。微動だに出来なかったのだ。
 もしかして、と牡丹は直感する。
 もしかして、全く正反対の能力なのか。
 牡丹の“フリーズ・ハグ・ミー”が相手の動きを止めて抱きつく、つまり「近づく」ための超能力だとすれば、丸顔の女が使ったのはひょっとして相手の動きを止めて「離れる」ことに徹したものなのではないか。
 彼女たちが操る『花札』とは「切り札」である。札遊びと同じく、相反する性質のものが同じ手番で重なり合ったとき、多くの場合では後出しした側が有利に働くものだ。
「でも、そんなのが使えるなんて……聞いてないっ」
「だって、言ってないもん」
 牡丹の困惑をよそに、女はすっかり自由を取り戻していた。
 それから牡丹が戸惑っている隙に、血濡れの包丁を構え、
「忘れ物、返すよッ!!」
 力いっぱい、太ももに突き刺す。
「あ、が、ああぁァあッッ!!!」
 突然の激痛に耐えかね、牡丹はとっさに距離をとろうとし、無様に壁とぶつかった。奥歯をぐっと噛みしめ、涙をぼろぼろと流し、唸り声を漏らした。肩で荒く息をした。
 妹塾で落ちこぼれ扱いされてきた蝶名崎牡丹は、殴られたり蹴られたりするのには慣れているつもりだったが、さすがに刃物で刺されたのは初めてだった。そして、この痛みは自分が今まで強いられてきたものとは決定的に違うと感じた。
「ああぁあぅ、痛い、いたい、いたいよ。やだ。やだもう。助けて、たすけて、お母さまぁ」
「うっさいなぁ! 人を殺しに来てる人間が、反撃くらったくらいで泣き過ぎなんだよ」
 皮ふと肉とを貫き裂く痛みには、一片の慈悲も入る余地が無い。
 冷たい刃による刺し傷には、一切の情けも加わることがない。
 誰でも簡単に人を殺し得る凶器で刺されたという事実は、ただひたすらに「お前なんか死んでしまえばいい」と無言で責めてくる。「この世から消えてしまえ」と、人格と人生をはっきり否定してくるのだ。
 他人から認められない日々を過ごしてきた彼女の心は、ここに至って、たった一撃でも完全に折れた。
「どうして、どうして、わたしが、こんな目に、あわなきゃ、いけないの……?」
 顔をくしゃくしゃにして牡丹は、己の運命を呪う。
 元より強制された、進んではやりたくなかった暗殺任務だ。戦意喪失してはまともにターゲットと対峙することさえままならず、太ももの怪我を紛らわすようにか、言葉の区切りごとにガンガンと自分の頭を壁に打ちつけ始めた。うわ言のように何かを呟いて、何度も、何度も、何度もだ。
「ちょっときみ。やる気が無いなら、こっちはいろいろ訊きたいことがあるんだけど――」
「ひぃッ!!」
 もはや牡丹にとって丸顔の女は「殺しの標的」ではなく「自分に酷いことをする誰か」になっていた。そんな相手に予期せず声かけられたものだから、彼女はひどく錯乱し、片足がうまく動かせなくなっていることも忘れて逃げ去ろうとして、転げた。
「いや、いや、お母さま、いや、やだ、やだ、やだぁ」
 まるで庇護を求める幼い子供のように牡丹は泣きじゃくって喚き、恥もプライドも捨てて、片足をかばいながらも立ち上がると、壁伝いにズルズルと歩き出す。

“逃れ得ぬ試練の時”

 ところが階段の踊り場へ差しかかったとき、牡丹の耳に、おさげ髪とも丸顔とも異なる女の声が届いた。
 そして見えない膜が、彼女の敵前逃亡を許さない。

     


   *

 現代では交流が果てて久しいが、昔は《幼なじみ》と《妹》の両属性は対立することが多く、よく小競り合いを起こしていたという。あくまでお爺さんのお爺さんのお爺さんが生きていた頃の話として聞いただけなので具体的なことは知れないけれど、真逆の性能をもつ『花札』がそれぞれの家に伝承されていることはその象徴なのかもしれない。
 甘えた感じで近づき寄り添い続けることが《妹》の真骨頂であるならば、節度をもって付かず離れず絶妙な間合いを維持することが《幼なじみ》の天分であろう。
 紅葉が使った“そんなつもりじゃないの”はまさにそれを体現した能力だ。
 こうして互いを対象に『花札』を使いあった今、紅葉は女生徒との間に何か因縁めいたものを感じていた。血がざわめく。
(でもちょっと脅しのつもりでやったのに、意外と深く刺さっちゃった。やっぱり刃物って、ヤバいんだなぁ……)
 相手の《闇妹》が使ってくる『花札』への対処法がひとつ判明したからには、機動力を削ぐことさえ出来れば以降の対処は簡単。どうせ相手は素人だから――そう考えて紅葉は女生徒の太ももに攻撃をしたのだが、これが予想以上に効果てき面だったらしい。
 悲鳴を上げた女生徒の怯えようは並々ならず、紅葉に尻を向けたまま、ほうほうのていで逃げていく。
(深追いは……しないほうがいいかなぁ。はーちゃんを残して離れるわけにもいかないし)
 捕まえて情報を吐かせることが出来れば結構な収穫になるだろう。だが任務の本懐を思い出せば、選択肢には悩むべくもない。一応の撃退は出来たのだから、今のところは上々だ。
「おい、いったい何が、どうなったんだ?」
 様子見に保健室へ戻ろうと決めた紅葉だが、彼女が手を触れる前にその戸が開いた。
「はーちゃん? ダメだよ座ってなきゃ」
「大丈夫だ。血は止まりつつある」
「止まりきってないんじゃん」
「まあ、そんなことよりも……」
 室内から顔を覗かせた萩乃は、首を振って廊下の左右をうかがった。
「すごく大きな、泣き声みたいなものが聞こえてきたが、平気なのか?」
「うん。ボクは大丈夫だよ」
「いや、お前じゃなくて、相手のほうだ」
「はーちゃんったら優しすぎるよ。ってか、ボクの心配はしてくんないの?」
 自分の身よりも敵方を案じる萩乃に、紅葉がちょっぴり頬をふくらませる。
「だって、お前は勝つと言っていたし、事実、そうしたじゃないか。私の信じた通りにしてくれた。さすが紅葉だ。歴戦の《幼なじみ》は伊達じゃないな」
「……まぁ、プロだからねっ! へへん」
 しかし一転、信頼を示す言葉を受け取るや、けろっと上機嫌の色を見せた。
「で、だ。刃物を持ち合った者同士で戦い、そして勝敗を決したのであれば、どうしたって結果が気にはなる」
「そこはまぁ、大したことはなってないよ。ちゃんと急所は外したから」
 痛みと恐怖で顔が歪む程度を指して「大したことない」と紅葉は言った。
「だといいんだが……やはり胸騒ぎがする。探しに行こう。どっちへ逃げた?」
「行くの?」
「相手の《闇妹》とやらが、やけになって無関係の人を襲わないとも限らんだろう」
 意見のすり合わせをする間もなく、萩乃は動きだす。あまり乗り気ではないが、紅葉はそれに従うことにした。

 ところが、すんなりとはいかない。追いかけた先で女生徒の後ろ姿が見えたかと思えば、正門のときと同じく見えない膜が萩乃の行く手を遮るからだ。
「またこれか……紅葉、お前ならこれを無視して行けるだろう?」
「行けるけど、行かないよ」
「何故だ!?」
 どれだけ宙を押しても進めないことに加えて、紅葉の返答は残念なものである。萩乃の声には自然と苛立ちが滲み出ていた。
「じゃあ言うけどね。一昨日とは事情が変わったの。ボクは小野傘雨柳の調査から外れて、きみの保護をするのが最優先なんだよ」
「だからどうした」
「あの《闇妹》を捨て石にして、ボクたちを分散させるのが敵の狙いかもしれないじゃん」
「そこまで想定するのか?」
「このくらい考えるのは初歩の初歩だよ」
 紅葉は紅葉で、己の立場を自覚して譲らない。
「そんでもって、はーちゃん。『ここは私一人でも大丈夫だから』なんて言わせないからね。だって『花札』に目覚めてもないのに、独りっきりになんてさせらんない」
「――わ、かった。私は私に出来ることをする。お前も、お前のすべきことに専念してくれ」
 そして猪立山家の長女でありながら未だに超能力の一つも使えないという事実は、萩乃の反論を封じるのに充分な圧力をもっていた。
 とはいえ紅葉にしてみれば、こうして二人一緒に動くようになったことさえ、何度も不可視の膜に邪魔されている現状では、なんだか敵の思惑に踊らされているような気持ち悪さを感じないではない。

 それから超能力で誘導されるように、二人は校舎と体育館との連絡通路から外へ出た。すると上方から、ガシャガシャンと小さな音が届いた。すかさずそちらへ走ってみれば、女生徒が屋上のフェンスを乗り越えて、宙に身を投げ出そうとしている。
 女生徒が手を離し、両足が支えを失った瞬間――鹿子木紅葉は思わず怯み、立ち止まった。
 しかし、猪立山萩乃は、むしろ一層の力を込めて駆け出した――

   *

 ここから間に合うのか。
 間に合ったとして、どうするのか。
 受け止めるのはまず無理だろう。重たいものが高所から落下するときのエネルギーは恐ろしいのだ。萩乃が小学六年生のとき、小学一年生の弟が歯止めの利かないヒーローごっこに我を忘れて自宅の二階屋根から飛び降りた際には、キャッチした衝撃に耐え切れずに体勢を崩し、弟を下に落としてしまったことがある。その日は両腕が痺れて、ろくに茶碗も持てなかったほどだ。当時に比べれば彼女も成長しているが、それでも三階建て校舎の屋上から、自分よりも身体の大きな女を、右肩が万全ではない状態で受けるのは不可能だ。
 ではどうするか。
 この身ひとつで出来る方法が、あるにはある。
 しかしそれは、萩乃が一度も稽古で成功したことのない技だった。
 雨柳先輩の言葉によれば、相手や物に対して深い愛情が無ければ打てないものだという。
 では、自分を殺しに来た人間を愛しているなどと言えるのか。
 普通はあり得ない。萩乃としても、じっくり問い詰められたら自信が無い。
 だが、愛とまではっきりとした表現ではなくとも、やはり助けたいとは思う。
 仮に萩乃の父が彼女と同じ状況に置かれたとき、自ら命を断とうとしている若い女の子がいれば、深く考えることなく手を伸ばして止めるだろう。「なにも死ぬことはない」と感じるだろう。母も、今は亡き祖母もきっと同じことをするだろうし、兄だってそうだ。兄の見初めた女性ならば、留華ねえさんもそうするはず。もちろん妹や弟にだって、いざとなれば弱った誰かを救うために迷わず尽力する人間に育ってほしいと思っている。
 だから、彼女もそうする。
 躊躇わず、そうする。
 現に、こうして上に挙げた諸々の回顧や推測や判断は、すべて事後に思い返したときのまとめであって、いま地面を蹴っているこの寸秒、萩乃の頭は空っぽに程近い。
 萩乃は女生徒が落ちてくる真下に着くと同時に、腰を下げて溜めを作った。わずかな間にも、両脚は根を張るように地を踏みしめた。そして、すぐさま顔を上げた。
「らぁぁあああッ!!」
 それから彼女は気合と共に発声し、左拳を、頭から落ちてくる女生徒の肩口狙いで突き上げる。



“柔拳突き”



 萩乃の腕が伸びるのに合わせて突如、彼女の足元から一本の細木が生え出でた。明らかに尋常ではないタイミングで出現したそれは、南西からの陽光を浴びて半透明にきらめき、萩乃の身体を透過しながら驚くべき速さで枝葉を広げて、たちまち彼女を背を追い越してゆく。
 拳が女生徒に触れる直前には、枝葉の隙間々々がほんのり紫に色づいて、インパクトの瞬間で一気に花開く。
 ここで通常ならば、凄まじい衝撃が萩乃と女生徒の双方の肩を壊して然るべきだ。落ちてくる人間を下から打ったところで、どちらもが大怪我するのが常であろう。
 だがそんな当たり前の破壊現象は問答無用で打ち消され、女生徒の身体は何一つ損なうことなく殴り止められる。
 やがて半透明の細木は、拳の上で一瞬だけ宙に浮いた女生徒をやさしく包み、たおやかにしな垂れて彼女を地面に置いてから、ゆっくりと霧散していった。

 一拍置いて大きく息を吐くと共にひざまづいた萩乃は、よたりながらも、ぐったり横たわる女生徒の隣に寄った。
「おい、大丈夫か!」
 女生徒の顔をじっくり見られる距離になって初めて、萩乃は彼女の顔の片側がいたく腫れていることに気づいた。そして、まだきれいなほうの頬をぺちぺちと叩き、声かけて意識を呼び戻す。
「う……ん……」
 すると程なく目を覚ました女生徒は、何度かぱちくり瞬きをした。そして自分の顔を覗き込んでいる萩乃と、その肩ごしに立っている紅葉を確認するや、見るみるうちに蒼白になった。小刻みに首を横に振るっていて、手や肩の震えもひどい。
「あ……や、いや……やだ…………」
「落ち着け。私は何もしない。少なくとも、怖がっている人間に追い討ちをかけるような真似はしない」
「ぁ……ぁ……」
 萩乃がなだめようとしても、彼女の心には届かないようだ。どうしたものかと萩乃が唇を噛むと間もなく、女生徒は跳ねるように萩乃の腕から逃れ、離れ、校舎の外壁に肩をもたれさせた。
 それから背の包丁を抜き出し、その刃を自分の喉元にあてがう。
「バカッ!!」
 怒鳴って瞬発。萩乃は己の疲労も無視して飛びかかり、女生徒の手首を掴んで止めた。
「しな、死なせてぇッ!」
「何をそんな、死に急ぐことがあるんだ! 自分で自分の命を捨ててどうする!」
「だったらあなたが、代わりに死んでよォ」
「それこそ馬鹿な話だ。どちらかが死ななければいけないなんて道理があるか」
 ギリギリと、二人の腕の引き合いが拮抗している。
「ヤバいことやってる組織だからね。多分、他人に尻尾を掴まれないように、ミスした下っ端は始末しちゃうに限るんじゃないの?」
 そこに紅葉の手が加わって、ついに女生徒から凶器を完全に取り上げた。
「ぁ……」
「でもマジでやるんなら、監視役か何かが直接手を下すほうが確実なんだよね。なのにわざわざ『自殺』を促すのは、よっぽど上の人間は自分の手を汚したくないのか。それか――」
 包丁を取り戻そうと手を伸ばし、前のめりになって倒れそうになる女生徒。それを下から支えつつも、また暴れださないように動きを封じる萩乃。その横で凶器を後ろ手に隠しつつ推論を展開し続ける紅葉。
「ミスした下っ端は連れ戻されて、死ぬより酷い目にあわされるか」
 そこまで紅葉が言うと、女生徒の身体がびくんと跳ね、今度は抵力を止めてうな垂れた。
「逃げたくっても、で、でき、出来なかったんです」
 しばし押し黙ってから、やがて女生徒は諦めたようにぽつりと口を開く。
「信じられないかも、しれないけれど……見えない、壁みたいなのがあって、下に、降りられなくなってて……」
 萩乃と紅葉は互いの顔を見合ってから、また女生徒の言葉に耳を傾けた。
「とにかく、怖くって、行けるとこまで行こうと、したら、いつの間にか、屋上に……」
 女生徒の肩が再び震えだす。
「それで……あぁ、わたしは身体が大きいから、かわいくないから、生かされる価値も無いんだ、もうここで死んじゃうしかないんだなぁって思えてきて……それで…………」
「んん? デカいとか可愛くないとか、なんでそれが生き死にの話になるの?」
 紅葉が当然に湧いた疑問をぶつけてみれば、女生徒は俯いたまま、絞り出すように語った。
「妹塾の落ちこぼれは、うら、売られる、んです」
「売られる?」
 ここで萩乃が反応した。
「妹系っていう女の子が、その、男の人を相手に、体で、エッチなこと、したり、されたり――そういうお店で、無理やり、働かされ……そこでも嫌がってダメな場合は、変なクスリを打たれるって、噂もあります」
 再び女生徒は口を閉ざす。
 殺人、売春、さらには麻薬取引さえ示唆する告白の後で、今度の沈黙はあまりにも重く、そして辛い。薬物投与までされて性的業務を強いられるということの生々しさとおぞましさを、聞いて、想像して、平静を保てる乙女は多くはいるまい。
「……あ、いや、でも、あれだよ。うん。中にはさ、背の高めな女の子がタイプだって人もいるだろうし、それに、妹系が好きな男も、そんなに酷い人ばっかりじゃないだろうし――」
「そういうすっとぼけたことを聞きたいんじゃないんだよ!!」
 紅葉は緊迫感に耐え切れず、うっかりフォローになっていないフォローを口走った。
 それを遮って萩乃は、爆発するように一声吠えた。同時に黒々としたやりきれない感情が彼女の腕を動かし、校舎の外壁を殴りつけた。鈍い音がして、皮の破れた左拳から血が滲む。
「名前は?」
 萩乃は両手を女生徒の肩に置き、相手の目を見て問う。
「私は猪立山萩乃。先ほどは混乱させてしまったかもしれないが、私が本物の猪立山萩乃だ。こっちは――」
 萩乃は紅葉を見上げ、紅葉は渋い顔をしながらも小さく首肯する。
「こっちは鹿子木紅葉だ。それで、お前の名前は?」
「ぼ、ぼたん……わたしは、蝶名崎、牡丹、です」
 大きく固唾を呑んでから、女生徒は答えた。
「そうか。では牡丹。お前のその、妹塾というのはどこにある?」
「はーちゃん? ちょっと、いきなり場所なんか訊いてどうするのさ」
 敵方組織の目的とか構成とか、今この場に仲間はいるのかとか、優先して訊くべきことは他にもあるでしょと思いつつ、紅葉は嫌な予感がしていた。
「決まっているだろう。その妹塾とやらのお偉方に、拳骨をお見舞いしてくるんだよ」
 そして萩乃の台詞と決意は、まさに紅葉の不安を的中させたものである。
「だからちょと待ってってば。相手はさ、きみを殺そうとしてる連中だよ? きみがそこに飛び込んでいってどうするのさ。飛んで火に入る夏の虫ってよく言うじゃん」
「虎穴に入らずんば虎児を得ず、とよく言うじゃないか」
「そこに、虎児は、いないッ!」
 やられる前にやる。攻撃は最大の防御――そういった戦術の有効性はもちろん紅葉も重々承知しているが、今この場で萩乃を止めておかないと、彼女はたった独りでも敵の本拠地に乗り込んでいってしまいそうなのだ。
「それはさておき、教えてくれ。牡丹」
「む、無理です。だって、わたしも、どこにあるのか知らない……」
「何故だ」
「入るときも、出るときも、目隠しされてて」
「徹底してるねぇ」
「それに、いいんです。だって、わたしが役立たずなのは、本当ですから。昔っから不器用で、覚えが悪くて、期待に応えられなくて……今日だって、せっかくくれたチャンスなのに、うまく出来なくって……もう、わたしには、明日も無い……」
 あはは、と牡丹の頬がひくついた。
「ほんと、ダメなんです。あは、わたし、ダメな子だから、生きる資格なんてない、落ちこぼれ、なんです。代わりは他にも、いるし、わたしがいなくっても、あ、あははは」
「笑うな」
 そんな牡丹を、萩乃はギュッと強く、強く抱きしめる。
「――今は、泣け」
 おずおずと、牡丹は萩乃の背に両手を回す。
「……ぅ……ぁあ……」
 そうして嗚咽を漏らし、次第に声を大きくして、ついには空を震わすほどに喚き叫んだ。

 牡丹が落ち着きを取り戻す頃には、もうすっかり日は沈んでいた。あれだけ大声を出していたにも関わらず、誰も近寄ってこなかったのは、これまた彼女を対象にした、逃がさない能力の『花札』が原因だったのだろう。
 そして紅葉が警戒していた「二人目以降の敵」が何を考えていたのかは知れないが、今はそれも解除されいるらしく、三人揃って無事に正門を通ることが出来た。
「ご迷惑おかけしました。わたしは、もう大丈夫ですから」
 萩乃と紅葉にペコリと頭を下げてから、牡丹はひるがえって去ろうとした。
「待て、どこへ行くんだ?」
「どこへでも、です。わたしが失敗したことは知られているでしょうから、もうすぐ妹塾からの迎えが来ると思います」
「だがそうすれば――」
「ですね。でも、これ以上の迷惑はかけられませんから。わたしは、わたしの運命を受け入れます」
「運命って何だ? 食い物にされるのが運命か? 代わりは他にもいるからと一方的に告げられ、切り捨てられ、消費されて終わるのが《妹》の運命なのか!?」
「…………」
 無言で牡丹は、眉根を下げて、あらためて小さくお辞儀をした。
 先ほどまでの萩乃であれば怒りに駆られたまま、例えば「その迎えとやらを捕まえて妹塾に案内させる」なんてことを言い出すところだが、ここまでの間に紅葉から、大組織を相手に単身突撃することの無謀さをこんこんと説かれていたので、
「だったら、私の家に来ればいい。周りに人がいれば向こうも簡単には手を出してこないだろうし、そもそもお前の人生を狂わせる奴らに全てを任せる必要なんてない」
 代わりにこんなことを言ってのけた。
「え、でもそんな……」
「大丈夫だ。うちはきょうだいが多いから、一人増えたところでどうってことないぞ」
 もちろんここでぎょっとしたのは紅葉で、彼女は萩乃の袖を引っ張り小声を寄せた。
(ちょ、ちょ、ちょ、はーちゃん。それマジで言ってんの?)
(真面目も真面目だが?)
(ヤバいよこれ。同情を誘ってきみの家に潜り込む作戦で、家族を人質にしてくるかもしれないじゃんかぁ)
(む、その恐れもあるか……)
「そんな、そこまでわたしのことを心配してくれるなんて……」
 慎重になりかけた萩乃が振り返れば、そこでは牡丹の目が仔犬のように潤んでいた。
「う、なんか嫌な予感がするなぁ」
「あなたこそ理想の姉。わたしたち《妹》が求めて止まない存在」
 タッと牡丹は萩乃に駆け寄り、その両手を握る。
「お願いです。萩乃さん――どうか、お姉さまと呼ばせてくださいッ!」
「はーちゃん。ほらヤバいって! これ絶対、馴れなれしく近づいて寝首を掻きに来るパターンのやつだって!」
「ああ、構わないぞ」
「構わないの!?」
 即断即答。萩乃はたった一言で、牡丹と紅葉の両方に返事した。
「どんな目的があろうと、過去に何があろうと、私を姉と呼ぶ女がいるならば、そいつはもれなく妹だ。妹はいくらいたって良い。違うか?」
「言っとくけど、はーちゃん。きみが思ってるほど世間は『家族』とか『きょうだい』って単語だけじゃ納得しないからね?」
「あぁ、嬉しいです。萩乃お姉さまッ!」
 紅葉の危惧するところをよそに、牡丹は萩乃にガッシと抱きつき、萩乃もそれに応じる。
「えぇ~。ボクなんかこっそり友達になろうとして腹パンされたのに、何この差? なんかズルくない?」
「そこは紅葉。お前、その『こっそり』が問題だったんじゃないか」
「そうなんだけどさぁ、そうなんだけどねぇ」
「そんなにむくれるなよ」
 萩乃は牡丹をいったん離して、今度は口を尖らせている紅葉に目を向けた。
「今さらこっそりしなくても、もう私たちは友達だろう?」
 放り投げたのは、直球の言葉だ。
「……はーちゃんってば、やっぱりズルい」
「何故だ!? 違うのか? あのときのあれは、その場しのぎの演技だったのか?」
「いやだから、その、違わ、う、あ、もういいよ。この話は終わり。いいね?」
 ぷいっと顔をそむける紅葉。小首を傾げる萩乃。それを見て、また嬉しそうな牡丹。
「あ、そうだ。牡丹って言ったよね?」
 とっとと話題を変えるべく、紅葉は違う相手に声かけた。
「この流れだと、きみ、はーちゃんの家に泊まることになるんだよね? 少なくとも今日のところはさ」
「お姉さまが認めてくださるなら、そうですね」
「あ~、だったら気をつけなよぉ」
「な、何にですか」
 牡丹が不安げに訊き返すと、にたり、とイタズラっぽい笑みが紅葉の丸顔に浮かぶ。
「あの家にはエイリアンが出るからね」
「エイリアン!? そ、れってどういうことですか?」
 紅葉と萩乃はちらっと目線を合わせ、タイミングも合わせて頷いた。

「「明日になれば分かる」」

       

表紙

橘圭郎 先生に励ましのお便りを送ろう!!

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Neetsha