Neetel Inside ニートノベル
表紙

秋の夜長の蜃気楼
二.

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 二.
 件の日からかれこれ四、五日経っただろうか。
 私と鞠乃は放課後、バイトもないこの時間を図書室で過ごしていた。
「sinとcosにはグラフがあるんだよ。音波グラフみたいな形してるんだけどぉ、グラフの始点に増減があるのは切片のせいで……」
「あー……うん」
 ここ数日、鞠乃には言い訳に使うようで悪いが、私一人勝手に精神的にボロボロだったため、出席はせどもついていけぬ授業にますます遅れをとってしまっていた。それを今こうして埋めてもらっているわけだが、
「……三角関数は全然分かんない」
「むっずかしーよねぇ。あたしもヤだもんこれ解くの」
 この様である。
 教科書に描かれている図解の曲線のようにゆるゆるな空気に、集中も何もあったものではない。その原因は鞠乃が持つ独自の柔らかな雰囲気もそうだが、それでもここまで進捗が悪いのは初めてだった。
 ――というのも、はっきり言ってしまえば私のやる気のなさが全てなのだが。
 自分から勉強を教えて欲しいと願い出たくせ大変失礼極まりないことに、最初から私の目的は授業の遅れを取り戻すことではない。鞠乃と二人で所定の時間まで暇を潰すところにある。
 そのついでに少しでもこの時間を有意義に使えれば、と鞠乃に頭を下げたのだが、これから自分のやることを思うととても勉強になんて身が入らなかった。
「……はぁ」
 とても気が重い。
 自分の下した決断と、それに基づくこれからの行動をシミュレートするたび、胃が軋むような気持ち悪さを感じる。
 できることならこのまま何事もないかのように帰ってしまいたい。今まで通りの生活に甘えてしまいたい。
 がしかし、その居心地のいい環境にずっと身を置いていては、じきに来るであろうその時の痛みは、きっと計り知れないものにまで膨れ上がる。
 今ならまだ、引き返せると。そして私も乗り越えられると、そう思ったのだ。
 鞠乃が自分の中の傷を克服しようとした。その勇気を私の身勝手で縛り付けてどうする。
 それに居心地のいい環境と言っても、ぬるま湯にずっと浸かっているのはイコール楽ということではない。それはここ最近身に染みるほど体験していた。
 退路も絶っている。あとは、言い出すのみ。
「やだぁ。溜息ばっかりつかないでよぉ。数学の一個や二個解けないぐらいでそこまでクヨクヨすることないって」
「……うん。ふふっ、そうね」
 こちらの気も知らずのんきな鞠乃の態度に、笑うしかなかった。
 本当に、学校の問題が解けないぐらいの悩みで、弱音を吐いてみたいものである。そんな平凡な悩みなら、きっと夜な夜なベッドで泣くということもせずに済むのだろう。
 私だって今日以降、そんなことをするつもりはない。そのための決心で、それだけの覚悟をしてきた。
 ――さて、
「そろそろ遅いね。帰ろうか」
「そだねー。勉強なんて寮でもできるしね」
 時計を見ると頃合だった。秋だというのに日は高く、未だ赤みも差してないが好都合である。
 ニコニコしながら勉強道具を片付ける鞠乃を見て思わず和んでしまう。しかし一時の安らぎも、瞬時に虚しさへと変化していった。
「忘れ物ない?」
「だいじょーぶ!」
 そんな感情をおくびにも出さず、悟られないようにと寧ろ笑顔さえ浮かべた。それぞれ自分のバッグを持って図書室をあとにする。
 時刻、午後四時四十七分のことである。

 自分たちの下駄箱のある北館へぐるりと回り込み、玄関で靴を履き替え校舎を出る。放課後なのに人がそこそこ多かった。
 玄関から正門までの道の上にポツポツと点在する生徒たちは、服装からして部活動が終わった人たちらしい。ジャージ姿のまま帰宅する人や、文系部と思しき女生徒の集いが一様に正門へ向かって歩いている。
 その中に、
「あれ? まさやんじゃない?」
「ん……? あー」
 背もほどほど、髪型も無難で全然目立たない男子筆頭の正也を、鞠乃は長年のよしみだけで見付け出した。
「そうかもしれないわね……って」
 既に彼の元へ走り出していた。私も慌てて追いかける。
「まっさやーん!」
「うおっとぃ!」
 腰の辺りに思い切り頭から飛び込む鞠乃。背中から突っ込まれては身構えることもできなかったのか、正也の身体はかなりの距離を前につんのめっていく。
「鞠乃ちゃんか……ビクったわ」
「まさやん! 試合どうだったのっ?」
「あー……試合な」
「鞠乃っ、ちょっと、早いからっ」
 元気な子供のように走る鞠乃にようやく追いつき、まず鞠乃をたしなめた自分に苦笑する。私は彼女の母親か何かだろうかと思わざるを得なかった。
「こんな時間に珍しいじゃない。部活どうしたの?」
「いやな、体育館使用権取られちゃってさ」
「うわ、大変ね」
 学校施設としてどうかと思われるのだが、立地が立地なため当高校には校庭というものがない。それで体育の授業と放課後の体育会系部の活動は基本的に全て体育館で行われている。
「いつもは別のところで練習してるんじゃなかったの?」
「そっちも借り忘れだと。それに借りんのもタダじゃねーし大変っぽい」
「なーるほっどねぇ」
 分かったのか分かってないのか、とりあえずの相槌にしか聞こえない納得の声を上げる鞠乃。
 駅に乗って少し行くと、公共施設になるがそれなりに広い運動場が存在し、運動部はそちらにいって活動することも少なくない。寧ろ私はそのイメージが強かった。
 が、他の部との折り合いが上手く行かず、加え不手際が重なれば、
「そんなこんなで今日はさっさと練習終わり」
「じゃ、じゃ! 一緒に帰れるの?」
「あぁ。これから帰るとこだったし。志弦らもか?」
「えぇ」
 体育館の使用時間が他の部と平等に分けられ、先に使い切ってしまえばこの様ということだ。
 以上、ここまで前もって正也から聞いた運動部事情。
 いつだかの昼休みに、いつなら一緒に帰れそうかと聞いてみたところ教えてくれた、当事者にだけ分かる面倒で複雑な話だった。
 ついでに、早めに練習が終わりそうな日付を具体的に言わせてみたら今日が挙がったのである。
 一番近い日にちがそこだったため即決だった。子細な部活終了時間を聞き出し、こちらの意図を話して帰りに付き合ってもらうことを予め頼み込んでいた。
 つまり、今日この時間に私たちと正也が会うのは最初から決まりきっていた。そのための時間潰しから、どうして部所属の正也がこんな早く帰宅なのかの説明までを含めワンセット、たった今偶然出会った風を装いつつ自然な形で下校を共にするため、正也には芝居を打ってもらった。
「三人で登校するのは最近あったけど、帰るときに一緒なのは久しぶりね」
「ほんとだねー。まさやんが部活なんてするから」
「オイ仕方ないだろそれは」
「ね、だからさ」
 ――そう。コレが私の決断だ。
「学校下にいって、少しぶらつかない? 遊んでいきましょ」
「お、いいじゃん行くわ」
「わー! 行きたい行きたい!」
 なんて白々しいやり取りだろう。何も知らないで屈託の無い笑顔を浮かべる鞠乃を、用意していたレール上に乗せる自分の行為に嫌気が差す。
 とはいえこうして、学校下散策が決定した。
 ここまでは全て、計画通りに進んでいる。
 さらなるこの先のことを思うと、既にもう胃に穴が開きそうだった。

     

 何かあったら呼んでくれ。
 正也がいつも私に、もう口癖になってしまったのではないかと思うぐらい言ってくれる、ありがたい言葉だ。
 私と鞠乃が二人暮らしを始めてからずっと生活を案じてくれている正也が、困ったときには助けてやるという意味合いで掛けてくれる台詞なのだが、その好意に頼ったことは今までで一度もなかった。
 そして今回、こういう形で正也を頼るのは彼の優しさに甘えるような気がして罪悪感が募るのだが。
 他に……今すぐ取り掛かれて効果的な方法を思いつかなかった。
「話があるんだけど、昼休みにでもちょっと聞いてくれないかしら」
 そんなメールの文面で正也を呼び出すことで、私はようやく鞠乃に対して踏ん切りをつけるための第一段階に入り込むことができた。
「……どうした?」
 私がメールを送るなんて滅多にしないので、正也も真剣な面持ちで問いかけてきた。
「ちょっと、鞠乃のことでね」
「鞠乃ちゃん? 喧嘩でもしたのか」
「違う違う」
 女同士、陰湿な喧嘩はするものだ、とでもいう認識が一般的に通っているんだろうか。散咲さんも似たようなことを言っていたが私と鞠乃に限ってそれはまずない。
「……鞠乃がさ、この前、夜中に真っ暗な道を一人で帰ろうとしてたんだよ」
「……」
 幼馴染だから故、事情を知っているので、それが何を意味するか正也も分かっているはずだ。真剣だった眼差しが更に険しく顰められる。
「だけどどうしても足が動かなくて、私が電話して迎えに行ってあげて、結局いつも通り一緒に帰ることになってその時は終わったんだけど」
「あぁ」
 端的に結果だけを述べる私に、返された返事は相槌一つ。丸く収まったのなら何ら問題はない、とでも言うように単調なモノだったが、尤も顛末を聞いただけではこの一件に私が抱く危機感を感じ取ってはもらえないだろう。
「その時、私凄い後悔したのよ」
「な、何でだよ」
「帰った後の夜、鞠乃がね。いい加減自力で夜道ぐらい歩けるようにならなくちゃいけないのに、また私に甘えちゃったって、弱々しい声で打ち明けてくれたの」
「……んん」
 事情を理解したように唸る正也。
「鞠乃はそんなふうに努力してるのに、私がそれを潰しちゃったんだって」
「んなこと言ったって、心配なものは心配だし仕方ないんじゃ」
「その言い分も、いつまで通用させられるのかな」
「……いつまで、か。そうか」
 まだ高校生とは言え、一応私たちはこれから自分がどう身を振っていくのかを考えるべき年齢である。大学に進学するにしろ、就職するにしろ、その希望をどう現実にするか。
 自分のことはまだいいが、懸念すべきは鞠乃であった。夜道が駄目という大きな障害は、彼女自身も独立の決心を鈍らせ、私としても見放しにするのは忍びない。というよりできそうにない。
 今はまだ鞠乃の傍にいてあげられるため解決を先延ばしにできているが、そのうち直面しなければならないときはやってくる。その時、誰もが不自由せず縛られない方法を思いつくだろうか。
「いずれは、鞠乃だって一人で生活できるようにはならなくちゃいけない」
「そりゃそうだろうさ。だけど……」
「そして現に、鞠乃はそのために頑張ってる。いつかは克服しなきゃって、いつまでも甘えてられないって言いながらだよ」
 怖くて怖くて仕方ない夜の闇に、懸命に歩み進もうとするのに、どれほどの勇気がいっただろう。
 ベッドの中で涙目になりながら滔々と語る鞠乃の、悲痛なまでの訴えは今でも耳に残っている。ものすごい可哀想で、だけれども無責任に助けてあげることもできなくて、あの声を思い出す度、もどかしさと無力感がないまぜになった複雑な痛みが襲ってくる。
「凄い辛そうで……見てられなくてさ……」
 守ってあげるのに。守ってあげたいのに。迂闊に手を出せないことが悔やまれる。
「かといって、いきなり志弦が助けるのをやめて野放しなんて、そんなことできないだろ?」
「もちろんそんなこと絶対しない。だから、正也を呼んだんだよ」
「……俺?」
 そう、正也を呼び出した本題はここにある。
 私の苦悩の核も、きっとここにある。
「あれでも鞠乃、あまり友人いなくてさ。頼れる人がそんな多くなくて」
「あ、あぁ」
「正也とは長い付き合いでしょ? 鞠乃があそこまで慕っているのは私か正也ぐらいしかいないのよ」
「で、その俺は何をすれば」
 言いたくない。けれど言わなければならない。
「これから少し……面倒見てあげる、というか付き合ってあげてほしい」
「……」
 友人の野暮用に付き合ってやる、のようなニュアンスなのか、恋人のように傍で付きっきりになる、のニュアンスなのか。私の台詞を正也はどちらで捉えたのかは分からない。
 だけれども私は飽くまで後者のつもりで話している。というより、話さなければいけない。これは鞠乃自身の問題だが、同時に鞠乃に対する私の問題でもある。
「今までずっと、鞠乃には私が付いてあげてたんだけど、これからきっと鞠乃はそれを嫌がる。だから……」
「んー……俺が付いたって、同じなんじゃないか? 結局仲の良い人間が傍にいるんだったら――」
「それについては、色々あるんだけどね」
 確かに、鞠乃を独り立ちさせるためのリハビリをやるのであれば、私や正也みたいな親友を除いた、知人とかそれなりには話せる友人などの起用が望ましいだろう。
 しかしそれには懸念一つ。
「いきなりハードル高くしても、乗り越えられなきゃ意味ないじゃない。段階を踏んでゆっくり進めていくつもり」
 加え、正也でも大丈夫な裏付け一つ。
「長い間鞠乃と一緒に過ごしてきた私と正也でも、違うところが一個だけある」
「……何だそれ。男か女か、とか?」
「性別は関係ないよ。まぁ、そんな大したことじゃないんだけどね」
 今となっては本当に些細なことだ。鞠乃の記憶に残っているかさえ定かでない、とてもあやふやなモノ。ただそれは私にとっては、心の底に根を張ったように強く存在するモノ。
「ずーっと昔。本当に昔。ただ一つ曖昧な約束をしたってだけなんだけど」
「だから、何なんだよそれ」
「……何てこともないよ」
 少なくとも私は、軽い気持ちでこのことを他人に話したくはなかった。
 何もかもを伏せる私に、正也の表情が猜疑心で険しくなっている。怪しまれすぎたことにようやく気づき慌てて、
「と、とにかく。失礼なこと言うみたいだけど私と正也でも結構差はあるのよ。だから第一段階として、正也にお願いできれば……って」
「と言われたって……付き合うって具体的に何すりゃ」
 依頼の開始一発目、口にするのが心苦しい返しが飛んできた。
 何と言おうか頭の中だけで逡巡し、実際には数刻と掛からない内に返答する。
「基本的に多くは求めないけれど、とにかく自然と、鞠乃に付き添ってもらいたいかな」
「自然とってなぁ。いつも通りってことか?」
「うん。寧ろ正也がこれは特訓だ、みたいに意気込んで傍に付いちゃうと、きっと鞠乃嫌がるから」
 私の常変わらない好意にさえ、甘えちゃ駄目だと抵抗するほどの固い決意だったのだ。恐らく自分一人で立ち向かわねばとでも思っているに違いない。そんなところに協力してあげるよと言わんばかりに近づいたって彼女なら突っぱねてしまうだろう。
「あぁ、そんぐらいなら」
「……でも」
 この先まで言おうか言うまいか迷って、後に自分が苦しむことが分かりきっているくせ、喋り始めてしまった。
「あまりにいつも通りだと、素っ気ない……とかじゃないけど白々しいでしょう。今回の目的は鞠乃を独り立ちさせるというより、その前段階として私の傍から離れさせるっていうところがあるから、なんていうかな……」
 言い続けることに本能的拒否が起きている。それが発言に如実に現れていた。
「私から鞠乃を引き離す勢いで、自分の方へ引き付けるというか。できるだけ二人で時間を過ごして欲しいの。その……特別な意味含めてさ」
 言った。言い切った。
 言い切って、自分のことでもないのに顔から火が出そうだった。
 何が特別な意味含めて、だ。私から鞠乃を引き離して、だなんてどの口が言うのだろうか。
 その実は自分の異常性癖の手前、これ以上鞠乃の近くにいると暴走しそうだから奪い取ってほしいという、至極自分勝手な願いだったはずではないか。
 それをよくここまで他人行儀に、しかも鞠乃思いみたいに恩着せがましく言えたものである。
 その罪悪感で、人前で堂々と嘘を言った後ろめたさで頬が真っ赤に染め上がってるのが分かる。
 私は恥ずべき人間だ。顔が熱い理由もそれだけだ。
 ――目頭がカーっとなって、視界が揺らめいて、目から何かが落ちそうだなんてことは一切ない。こんな私に、恋人を思って涙を流す権利なんてない。
 ただ私は卑しい人間で、哀れまれるなんておこがましくて、きっとこうなるのがお似合いなのだ。
「……何つーか、いいのかなこんなことして」
「裏でこそこそやるのは鞠乃にも悪いとは思う。思うけど、こうでもしないと鞠乃が……」
「心配しないで、って言うんだろ。だけれどもそれじゃいつまでも夜が怖いまんまでーって堂々巡りになるのは分かんだけどさ」
「良心を殺せとは言わないけど、鞠乃のためを思っていつも通り接するだけ、って考えたらどう?」
 臆面もなくこんなことまで言い放つ自分が、ある意味恐ろしい。
「まぁ……鞠乃ちゃんのためなら協力はしたいけど」
「別に何か特別なことをいきなりやれって言うんじゃないのよ。時々一緒に登校してくれてたのを、少し回数増やしてもらったり、帰りの時間が合いそうなら付き合ってほしいなって」
 それに、
「もちろん最初から二人で放り出すわけじゃない。初めの内は私も含め三人で回って、その間に段々と正也が……その、そっちの流れに、ね?」
「……言われるとものっ凄い恥ずかしいモンだなこれ」
「でも鞠乃が、彼女だ……って言うの、嫌な気はしないでしょ?」
 当然だ。
 あんなに楽しそうに登校するのだから。あんなに楽しそうに喋りながら並んで歩くのだから。
「あ、あぁでもプレッシャーかけるつもりじゃなくてね? ゆくゆくはってだけだからそんな気負わず何も力まないでやってくれればそれでいいし、それに……」
 有無を言わさぬよう捲くし立てる秘境で強引なやり口に、自嘲するしかない。
 さらに勢い余っていった言葉には、
「私も、協力するから」
 今まで生きてきた中で一番、最高にむなしくなった瞬間だった。
 何が悲しくて、自分が好きな女の子を誰か他の男にあてがうような真似をしなくちゃいけないのだろう。
 その理由は既に自分の中で出切っているし、そのことに納得もしたつもりだった。だからこうして正也を呼び出して話していた。
 なのに、その上でもなお感じるこの被虐感は、自分の中で処分するには手に余り過ぎるものだった。
 正也の方はというと、何と返したらいいものか分からないといった様子で口を半開きのままである。きっと様々な思いが駆け巡っているに違いない。その“様々”までは推量が至らないが、数多浮かんでくる感情に複雑な心境であることは何となく予想がついた。
 それらの心情を限定的に取捨して出した結論を、私は待つつもりはない。
 全てコレは、私の一存で確定した決定事項だ。
「……それじゃ、お願いね」
「えっ、あ、あぁ」
 答えは聞いていないと言わんばかりに正也の前から逃げるようにしてその場を離れ、私は一人トイレの個室で、本当に吐き出すのではというぐらいに嗚咽を漏らした。

     

 そんなことがあったのが数日前の昼休み。
 私が鞠乃から離れるのではなく、鞠乃に離れていってもらおうというこの考えは、そのまた数日前の散咲さんの助言を元に練られた発想である。
 散咲さんが私に、男が駄目じゃないなら彼氏でも作ってまともになれと提案したのを逆手にとった形となる。鞠乃が正常な恋愛をして、彼氏と二人幸せな学校生活を送られたら、流石の私も諦めがつくと思う。それをきっかけに私も、別の女の子じゃなく新たに男の子を好きになることができれば根本的問題の解決にも繋がる。誰一人苦しむことのない完璧な作戦だ。
 それに、正也への依頼目的の説明はそれほど的外れではない。正直に言ってしまえば、これは私が鞠乃を間接的に自分から遠ざけるための手段だったが、それは前提の話である。あの夜、暗い道を一人で歩こうとした鞠乃の覚悟を応援したいから、という理由付けを行えば、この擬似デートにも正当性が生まれる。
 つまりこれは私の身勝手なおためごかしとは違う。自分が愛する人を一番に考えた末の結論だった。
 私は好きな人が最も幸せになるよう努めたいと思う。好きな人の笑顔が見られれば、好きな人の喜ぶ姿が見られれば私も幸せである。
 だからこれは、愛ゆえの結果だ。私の鞠乃に対する、愛の証明だ。

 馬鹿馬鹿しい。悲恋にもなれない笑い話だ。
 こんなもの、どうすれば成就し得る。

 暗い感情が渦巻いて、喉が詰まるような圧迫感を感じながら、先を行く二人を少し後ろから眺めている。鞠乃が身振り手振りを交えて話し、それを正也が聞くという構図。見慣れた光景だ。
 その見慣れたはずの二人に、どこか頭の端で不快感を覚えてしまうことも、この頃の常。
「まさやんのクラスでも数学の小テストやったー?」
「あぁ……ひでぇモンだった」
「あたしも志弦ちゃんもでさー」
 会話には、入れず。
 学校を出ると、大きい道路が目の前を横切っている。それを渡り、前方に続く坂を下れば学校下はすぐそこにある。私達が普段利用する駅を中心に繁栄した、駅近と呼ぶ方が正確であろう場所。
 だが、学生からすれば主語が学校になってしまうのは仕方ない。学校から見ればここは坂を下ったところにある賑やかな街に違いなく、だからこそ学校下と呼ばれている。
「お前らとの帰宅もそーだけど、ここに来るの久々なんだよ」
「あたしもだよぉ。最近買い出しは寮のスーパーでやってたからなぁ」
「どちらかと言うと遊びに来る場所だからね。ここ最近ずっと余裕なかったし」
 この三人で学校下に来ることは過去何度かあったのだが、正也は部活、私はバイト、残る鞠乃は家事と、街中で一人は嫌という理由で頻繁に通っているわけではない。
 つまりまぁ、不慣れなのだ。
「来たはいいけどどうする」
 と、私を見る正也。その台詞は、どこか用事があっていきたい場所はあるかという質問なのか、具体的にどう鞠乃をエスコートすればいいのかという質問なのか分かりかねるが、後者の可能性を否定し切れない以上、
「どうするって、私にばかり一任されても。正也こそ何か用事はないの?」
 と、私たち二人の意図をひけらかさぬよう釘をさすついで、自然に軌道修正する。
「誘われたから来たけど全っ然やることないんだわ」
「んーほら、久々に来たんだったら回りたいところとか」
「そもそもあんま来ないからどこに何があるかさえ」
 修正したらしたで今度は別の問題が出てきた。この様子だと恐らく私と鞠乃二人より正也はここに通い慣れてない。私達と違い、平日はおろか休日含めほとんどを練習に費やす部活所属の人間は、学校下など駅までの途中にある騒がしい場所、程度の認識でしかないのだろう。
 となると、自動的に主導権はこちらが行使せざるを得なくなる。
「それなら、とりあえずいつものとこで腰落ち着けようか」
「そうしよそうしよー。あたしも同じこと考えてた」
「決まりね」
 やたー、と言いながらぴょっこり跳ねて喜ぶ鞠乃。
「頭使ったしお昼ご飯少なかったしでお腹すいてたんだよぉ」
 頭を使ったのは恐らく私に勉強を教えてくれたときのことだろう。内心で謝る。
「お、飯食いに行くのか? 俺も小腹空いてた」
「飯、ってほどじゃないけど。正也が気に入るかはちょっと微妙かも」
「そっかなー? 最近男の子の客もいっぱい見るよ」
 行き先について会話しつつ、目的地へ足を進める。近くにあるのでそう時間は掛からないだろう。
 駅から学校までは街を貫くようにして一本道が通っていて、私たちが目指す店はその大通り上、駅寄りのところにある。
 程なくして二階建ての建物、フランチャイズ店のカフェに着いた。通りに面している側がガラス張りで店内を一望できる。鞠乃の言うとおり男性客もちらほら見られた。
「何かと思えば喫茶店か」
「正也は甘いもの大丈夫だったっけ?」
「まぁ、全然問題ねーけど」
「なーんだ。まさやんの分あたしが食べてやろうかと思ったのに」
 そう軽口を叩きながら、鞠乃は正也の手を引き店の中へ入っていく。その後ろをついていきながら二人の頭越しに店内を見渡したが、なかなか混んでそうだった。個人経営のカフェへ行くほど金銭的余裕がない学生にとっては格好の憩いの場だから仕方ないのだが、私たちの趣旨が趣旨なので少々残念ではある。
 そんな事を考えつつ、ふと視界の焦点が店内客から、お洒落なドアに写った自分の顔にシフトした。
 いつぞやの登校時とは打って変わって見られた自分の微笑に、心が複雑な弧を描いた。

 鞠乃に、自分はいつものやつでお願い。先に席取っておくと言い残して、早々に二人から離れて席を探した。丁度よく一階、ガラス張りの席から立ち去った一団を見つけたのでそこに着席する。備え付けの台拭きでテーブルに残ったコップ痕を拭き取ってから、さっきドアに見た自分の顔を思い出した。
 ――笑ってた。
 それはいい傾向のはずだった。少なくとも、正也と鞠乃が仲よさ気に会話をして不機嫌な表情をするよりは断然マシだ。
 なのだが、その笑顔は私が鞠乃と正也の仲が進展することを素直に喜んでいる、という証拠とも捉えられないだろうか。
 本心から言えばそんなことは毛頭ない。ただ、二人が親密になることを飽くまで、想定した路線上に上手く乗ってくれているという意味で喜ばしいだけであって、私個人の心情を言えば不快極まりなかった。
 本当は鞠乃に、私以外に寄り添える存在ができることを祝福してやらなければいけない――本心から喜んでやらなければいけないはずなのだが、それがどうしてもできない。そんな現実を今突き付けられたのだ。
 嬉しいけど嬉しくない、という相反する感情が同時に生まれることが、これほどまでに精神的に堪えることを今になって味わってしまう。
 とても、とても苦しいモノだった。
「……何なのかな」
 誰に宛てるでもなく呟かれる独り言に、返答してくれるものはない。
 当の鞠乃と正也は、商品を受け取って戻ってくるのにどれぐらいだろうかとカウンター前の列に目を向けてみる。
 四~五組ぐらい並んでいる列のちょうど真ん中にいる二人を見るところ、まだ掛かりそうなのだが、順番待ちの最中という苛立つ時間でも、仲よさそうに話している二人の姿を見て、悔しいことに思わず頬が綻んだ。
 何というか、微笑ましかったのだ。クラスメイトや友人が異性といい感じになっているのを冷やかすようなそれとは違い、我が子が新しくお友達を作れた時のようなモノに似ている。
 遠くからなら、もう少し見ていたいなと、そう思った。
 あんなに会話に夢中になれるのなら、列待ちなど本人たちにとってはあっという間なのだろう。
 鞠乃がカウンター越しに注文をし始められるまでの間、じっくり、と形容するのが正しいぐらい彼女らを観察していたが、当人らにはさして長く感じたりはしないのだろうなと、そんな事さえ思う。
 私の元から離れたところにいる鞠乃を、私とは違う時間を生きる鞠乃を、遠くからだったなら、微笑ましく眺めていられる。そんな事に気づいて、少しだけ自分に安心した。
 そう、遠くからだったなら、だ。

     

「おっまたせー」
「席取りしてもらって悪いな」
 鞠乃と正也がそれぞれ手にトレイを持ってこちらにやってくる。ドリンクのカップを三つ載せているのは鞠乃。ケーキやら何やら食べ物担当は正也だ。
「志弦ちゃんはキャラメルラテであってるよね?」
「えぇ、そのつもりで頼んでたよ」
「食いモンの方はどれが誰のだ?」
「あたしがショートケーキ、志弦ちゃんはティラミスだよー」
 ドリンク一つプラスケーキ一つ、セットで五百円。飲み物だけ頼むにも味気ないし、ケーキだけというのも口が飽きてしまうため、ここに来たときは二点セットで多少リーズナブルな値段になっているコレを頼む。キャラメルラテとティラミスは私がよく注文する組み合わせだった。
 対する鞠乃もショートケーキにストロベリーミルクといつものパターン。いちご好きで甘党な鞠乃がこの店に初めて来た時、名前だけで即決したペアである。
「わー、いつもと同じやつ頼んだのにすごい久しぶりに食べる気がするー」
「確かにお馴染みのやつだけど、実際ここずっと来てなかったから本当に久々なんじゃない?」
 下手したらかれこれ一ヶ月振りぐらいになるかもしれない。
「前は結構通ってたのか?」
「うん。志弦ちゃんがバイト休みの日とか、学校帰りに必ず寄ってたりしたよねぇ」
「どうりですらすら注文できるわけだ……」
 そうこぼす正也は喫茶店に不慣れだったのだろう。カウンターに立ったところからやけに手間取っていたのをこの席からずっと観察していた。隣で鞠乃に諭されたのか、同じくお得なセットにしたようで、彼の席にはシュークリームと小さなマグカップが置かれている。
「……エスプレッソなんて飲むのね、正也」
「え、何かまずいのか、コレ?」
「飲めば分かると思う」
 催促して口に運ばせてみる。何も知らないでエスプレッソなんて飲んだらまぁ、
「うおっ……すっげぇ苦い……」
 予測できる結果だった。
「わぉ、まさやんエスプレッソ飲んだことなかったんだ」
「知ってたなら事前に教えてくれよ……」
「やー、飲み物の方はすらすら注文するもんだからてっきり。へへ」
 一度、名前の字面だけを見て興味を惹かれてしまった鞠乃が、どんなものか店員に聞きもせず注文したことが一度だけあり、甘党の彼女が一舐めでギブアップしたという経歴がある。
 可哀想だったのでその時は私が自分の飲み物と交換してあげたが、アレは私も少々苦手だ。苦いだけならともかく酸味などコーヒーの味全要素が濃いため、一口毎に舌が萎縮し難儀させられた。
 あの記憶があるので、鞠乃の時と同じように代わってあげようという気は全く起きなかった。
「だいじょーぅぶ! いくら苦くたって甘いもの食べれば平気平気! さ、ここのシュークリーム美味しいから食べてみてって」
「あ、おぅ」
 そう言って、素手でつかみシュークリームを口元に運ぶ正也。
「……お、美味い」
「でしょでしょー? まさやんのおやつ盗むの我慢してあげるから頑張れ!」
「デザートと合わせるとエスプレッソも悪くねー気はするなぁ……でもコレ取り上げられたら飲みきれねーや」
 甘いモノは正義思考で正也に無理強いする鞠乃。因みにケーキをもってしてもエスプレッソを攻略できなかった教祖がそこにいたりする。
「……ねーまさやん、やっぱり一口だけ」
「いや、少しでも減ったらバランスが崩れちまう……勘弁してくれ」
「うぇーまさやんのいじわるー」
 和気藹々とした二人のやりとりを間近で見て、喫茶店本来かくあるべきゆったりとした雰囲気が場に満ちているのだが、反面私の心はざわついている。
 さっきまで遠くからにこやかに眺めていられた彼女らなのに、目の前で見せつけられるようにやられただけでこうも気の触れようが変わるだなんて自分でも驚きだ。
 そのまま和やかな雰囲気でトントン拍子にと望む気持ち。あまり鞠乃と親しくしないでほしいと未だでしゃばる本心。二人だけで進められる会話に感じる入りづらさと孤独。前からそうなのだが、この二人が仲よさげに話していると私が割って入る隙間がほとんどないように思えて仕方ない。
 色んな気持ちがぐるぐると巡り巡って、それをなるべく意識の外に追いやろうと他のことに集中して、いつの間にか正也はおろか甘党鞠乃をさえも凌ぐスピードで、ティラミスとキャラメルラテを空のコップと皿に変えてしまっていた。
「た、食べるの早いんだな」
「そ、そうかしら」
 正也が若干引いている。無理もない。自分でも引くぐらいの速度だった。味とかまるで感じなかったし、食事というよりは作業に近い。
「ぶー。女の子にそんな台詞タブーでしょーまさやん」
「あぁいや別にそんなつもりは、すまん」
「志弦ちゃんはですねー。放課後あたしと一緒に図書室でお勉強してたんですよー。頭使うとお腹空いちゃうでしょー?」
「おー熱心なんだな。でもそうだったならカフェじゃなく、もうちょっと量食べられる店にいけばよかったのに。言ってもらえればついていくし」
「そーいう問題じゃなーい」
「つっ!」
 正也の額に、鞠乃のチョップが入った。
「ふっ」
 思わず笑い出しそうになって必死で堪える。よもや、鞠乃にこんなフォローを入れられる日が来てしまうなんて。
「別にお腹空いてたわけじゃないよ。考え事してただけ」
「ほんとにー? あたしはすっごいお腹空いちゃってたけど」
「私のせいで鞠乃も一緒に勉強する羽目になっちゃったものね。御免ね」
「やーんそういう意味じゃなくって」
 鞠乃を懸想するあまり、学業にも支障が出てしまっているのは事実だ。それで同時、鞠乃に迷惑をかけている。
 そういう意味からしても、私は鞠乃から離れるべきなのだ。
「でも志弦ちゃん、最近様子が変なこと多いよね」
「えっ?」
「この前も珍しく授業サボったりなんかしちゃってさー」
「何だそれ?」
「あーいや……」
 無意識の早食いからとんでもない会話の発展をさせられた。
「ねーねー、もしかして最近何かあったりしたのぉ?」
「いや、何もないけど……それにあのサボりは何でもないってこの前説明したじゃない」
「志弦がサボり? そんなことするんだな」
「でしょー変でしょー?! ホラ、まさやんだっておかしいって言ってるもん」
 鞠乃の言いがかりみたいな語気の強い台詞に、私は機械的に、
「だから心配しすぎよ。何でもなかったって」
 と返すことしかできない。
「じゃあ、何であの日サボったりしたのぉ?」
「あー……」
「あたしにも、答えられないこと?」
「そういう事じゃなくて」
「さっきケーキ食べる時も考え事してたって言ってたよね。何か……心配事がある、とか?」
「いやそんな……」
 何気ない一言が失言になるとは。こちらから言わせれば、鞠乃が珍しく洞察力を働かせていると驚く場面である。
「悩みがあるなら聞くよ? 今ならまさやんもいるし、話しちゃったほうが」
 怖いのは、おちょくりでもからかいでもなく、心の底から心配してるんだよ、といった視線でこちらを見上げてくる鞠乃特有の純粋さである。そんな目で見られたら、本当に何もなくても言葉に詰まってしまう。
 そんな私の様子を見て彼女はますます眉尻を下げ、こちらに身を乗りあげてくる。
 その狭い肩を、手でなだめてやる。
「大丈夫。平気よ」
「……本当に?」
「えぇ。つらくなんてないもの」
 悩みは、ないわけではない。
 けれどそれは絶対に、鞠乃にだけは言えない私の秘密である。
「ごめんね正也、変な感じにしちゃって」
「え? いや、本当に大丈夫なら言うことはねーけどさ」
 正也も居心地が悪かったろう。私はずっと内心でヒヤヒヤしていたが。
 鞠乃の方は、まだこちらを心配そうな顔を浮かべてじっと見ていた。とことん心配性な鞠乃に笑ってしまう。この子を安心させるために表情そのままで、
「急いで食べ過ぎたかもしれない。ちょっと私、席離れるわね」
「あ、うん。分かったー」
 鞠乃にはトイレに行ってくると伝わるよう言い残して、そそくさとその場から立ち去った。
 実際に腹痛がするわけではないが、あの目で見続けられているのは精神的に堪える。少し間を置いて戻れば一段落はつけられるだろう。
 まぁ、席を離れたかった一番の理由は、誰よりも私が落ち着かずじっとしていられないからなのだが。

     

「何で私が浮き足立ってるのよ……」
 トイレについて開口一番。一人で不安になって一人で慌てて、鞠乃に心を乱されて馬鹿馬鹿しいにも程がある。正也には普段通り冷静に、とお願いしている身がこの様では立場もない。
 ここから先は二人の進展如何が重要視されるべきであって、私の私情は介入していい場面ではない。鞠乃と正也を見守ることに従事し、私はそれを落ち着いて見ていればいい。それだけだ。
 とにもかくにも私が冷静になるのが先決。それさえできればどうにでもなる。こうして彼らのところから一旦引いて、二人きりにするのも目的上好都合だろう。
 後ろ手で個室のドアを閉め、鍵をかけて絶対開かなくなったそれに背中からもたれかかる。場所が場所なので遠慮したいところだが、数回深呼吸を繰り返して気が立つのを抑えた。心音を、いつも鞠乃に聞かせている一定の拍に戻してから、頭を働かせる。
 先程確認したが、店内には私達と同じ学校の制服を着た男女ペアの客、所謂カップルというのが何組といた。
 それらと家の鞠乃と正也を見比べても、代わり映えがしなかったのが少しだけ、悔しい。兄弟かと思えるほどの身長差があれど、二人が寄り添っているところは他のカップルたちと何ら遜色ない。
 まだそんな関係でないことは当事者含め私が一番分かっているのだが、重要なのは、周りからそれっぽく見えるという点。もっと言えば、不自然に感じず見ることができるという点である。
 アレがもし正也の代わりに私がいて、異常にべたついたりしていれば奇異の目が飛んでくることだろう。正也と鞠乃がべたべたしてたとは言わないが、とりあえず私といるよりは正也が隣にいてくれる方がよほど健全だ。その事実を自戒として認識すると同時、これからの計画を練る上での指標とする。
「さて」
 思うのだが、どうにも男子一人に対し女子二人、という割合は奇妙じゃないだろうか。個人的にこの偏りは歪に感じる。男女一人をカップルと見立てたとき、残った女子はどう見られるのだろうか。
 どれにせよその一人、つまり私は余りで邪魔にしか映らない。男女二人ずつなら均整が取れるものの、鞠乃はおろか私には正也以外の男友人がいないため、その穴を埋めることは不可能。そも、いたとしても私達三人の間に割り込めるかは甚だ疑問。
 したがって消去法の末、このアンバランスな輪を正す手段は邪魔者である私が身を引く以外にない。
 考えるだけなら、とても簡単な方法だった。
「とはいえ……」
 それをどう実行するかが問題だ。
 恐らく私が輪から外れるのは造作もないことだろう。「二人で遊びに行ってきたら」とでも提案すればそれで済む。
 だが切り出すにもタイミングがある。正也には、段階を踏んでゆっくりと、と急がなくてもいいような体で説得した手前、あまり急かしたくはないのだが、私としては一刻も早く鞠乃を連れ出してほしいという気持ちが今になって現れ出てしまった。
 当の鞠乃も、いきなり正也と二人きりで遊びになんて言われたらどう反応するだろうか。気の知れた相手なら奔放な彼女のことだから何の抵抗もなくすんなり受け入れそうでもあるが、私抜きで、と条件が加わるとなると分からない。じっくり時間をかけて正也と過ごす日を増やしていけばこんな懸念も生まれないのだが、果たしてどれぐらい掛かるだろう。
 結局、しばらくは私が耐えながら付いてあげたほうがよさそうだ、という結論しか導き出せなくてもどかしい気分になる。恋は焦ってはいけない、などという古臭い言葉があるが、まさか他人事でコレを実感することになるとは。
 そう思って、鞠乃のことを他人事で片付けている自分に気が付いた。
 本当は何よりも自分のことなのに、鞠乃と正也二人だけの話だと割りきって、ここまで思考を巡らせていた自分にはたと気付かされて、
「……何、やってんのかな」
 虚しくて悲しくて、しょうがなくなる。
 そろそろ戻ろう。一人になっても一緒にいても心的環境が変わらないのならどこにいたって駄目なのだろう。それに、あまり長く席を離れているとまた鞠乃に心配を掛けさせてしまう。
 必要はないのに律儀に手を洗い、出口に差し掛かる。心なしか店内客が減ったように見える。私もそろそろ別に用事がある店に行きたいなと思いながら、自分たちが陣取った席を見やった。
 こちらからだと鞠乃が背中からしか見えないのだが、正也と話すときにやる大げさなジェスチャーが健在なところを見ると、会話が盛り上がっていることが伺えた。対面に座る正也もずっと笑顔だ。
「……あぁ」
 アレほど順調そうな二人を見て、何で蚊帳の外にいる私が一人で勝手に思い悩んでいるのかなと思う。あの様子なら別に、私の尽力など不要ではないか。
 杞憂だったんだな、と思うことで何となく胸がすっと軽くなった。
「あ、おかえりー。だいじょぶそ?」
「うん。恥ずかしい話だけど、苦しいだけだから」
「昔から少食だよなー志弦。ケーキ一つでそんななるか?」
「女の子はそんなに食べないのー。まさやんデリカシーないんだからぁ」
「……」
 会話の役割分担が完璧なこの構造に、一種の居心地のよさを感じる。ごく自然に往来する無遠慮と突っ込みの応酬が馴染んでいた。
「ねぇ鞠乃。どこか遊びにいきたいところとかない?」
「えぅっ? 次行くとこかぁ。全然考えてなかったや」
「あぁ違う。今日ここ学校下じゃなくて。水族館とか映画館とか、そういうところ」
「うーん?」
 息ぴったりな二人を見ていたら、何も詰まることなくそんな言葉が出てきた。さっきまで一人で沈んだように考え込んでいたことが嘘みたいだった。
「どしたの? 急に」
「夏休み、私がバイトでなかなか遊びに行けなかったじゃない。たまの休みも家でぐったりしてたり、鞠乃も家事で手空かなかったり。だからちょっと遅いけれど、土日辺りに、って思って」
 バイト先は飲食店なのだが、夏の行楽シーズンになると外食しにくる家族やカップルが増加し、夏休みで浮かれた学生も客層に入り込んだりしてほぼ毎日駆り出されていたため、遊びにいくことは愚か家で休まることもほとんどできなかった。
「ね。学校始まっちゃったけど、勉強の息抜きもしたいでしょ?」
「あたしは別に大丈夫だけど……」
「そんな事言わないで、行ってきたらいいじゃない」
「あ、あのぉ」
 言い出しづらいことでもあるのか、語尾を弱めて口を淀ませる。何を懸念しているのだろう。
「アレ、えっとさぁ、お金、とか」
「あぁ」
 そんな事まるで心配する必要はない。
「高校生でも、働けばそれなりに稼げるものなのよ」
「そ、それでも」
「気にすることじゃないよ。元々仕送りで生活費はまかなえるし、その上で不自由ないようにってことでバイトしてたんだから」
 不自由ないようにというのは生活に支障をきたさぬよう、ではなく遊びたいときに節制などの気兼ねなく思い通りにお金が使えるよう、という意味である。
 つまり抑制によるストレスをためず精神的に余裕を持ちたいがため稼いでいたようなもので、ここで遠慮されたら何のためにバイトをやっていたか分からない。
 加え、夏休み中寝るかバイトするかという状態にあった私が、分担して行うべき家事をおろそかにした面もあり、その穴埋めが全部鞠乃に回ってしまっていた事実もある。
「その謝罪も含めて、ね」
 基本的には奔放で楽しいことが大好きな鞠乃ではあるが、利己的なところがなく、空気を読むというか自分の立場を弁えるというか、見た目によらず年齢相応に大人らしい思考ができる子である。本人は学校下が好きなのに、家事の優先や、私の体調を慮って外遊を控えたりなど、周囲をよく見て自己を抑え行動するところがあった。
 それを踏まえると、働いてお金を得るのは私なのでそのお金を使うのに躊躇いを感じるのだろう。私には鞠乃と共に暮らす上で個人の財布という発想は持っていないのだが、そう言っても鞠乃は理解をしてくれない。
 そのため、鞠乃を説得するにはそれなりの因果を伴う理屈が必要なのだ。どこにも連れていけず申し訳なかったこと、それだけでなく家事の負担を一方的に増やしてしまったこと、これら二点の恩返しとして受け取って欲しいという旨を伝えれば、
「……う、うん」
 とても利口だった。
 あとはその隣で自分も関係あることに何一つ気付く様子なくエスプレッソと格闘している正也を巻き込むだけである。
「正也もどう?」
「え、あ、俺?」
「えぇ。きっと部活の練習とかで休みなんてなかったでしょ」
「言われればそうだな」
 そうでなくとも一緒に行ってもらわなければ困ることを多分この男は全く理解していない。どうして私がこの話を持ちかけたのかいい加減把握しそうなものなのだが、こうも鈍いと素直に頷いてくれなそうで些か面倒を感じる。
「ホラ、この先も少し練習できない日が続くのよね? だったら折角の機会だし、息抜きで時間を潰すのも悪くないんじゃないかしら」
「おぉ、まさやんも誘うの?」
「そう。一緒に登下校はしたことあるけど、一緒に遊ぶってことあまりなかったじゃない」
「そだねー。小学校以来かもぉ」
「たまにはこういうのもいいんじゃない? ね、正也」
「あ、あぁ。そうだな」
 やっと飲み込んだようだ。よくもまぁここまで朗々とこじつけができたものだと自分で感心してしまう。
「ねぇね、志弦ちゃんはどこ行きたいっ?」
 楽しいことが実行されるとなると、遠慮がちだった態度から一変してそのことばかり考える鞠乃の切り替えの早さに、
「んー……そう、ね」
 私はまだそこまで思考がついていってなかった。
 一緒に行くべきか行かざるべきか。未だに決めかねていた。
「私の要望はどうでもいいから、二人で決めなよ」
 答えることもできずとりあえずの先送り。
「俺はぶっちゃけ学校下でもいーんだがー……」
「あたし! あたし遊園地行きたい!」
「あら。ふふ、そう言うと思った」
 学校下で遊覧欲求が満たされる正也はこの際無視するとして、ファンシー趣味全開な鞠乃お気に入りの遊園地は、息抜きと称して遊びに出かけるこの計画には適合している。高校に入ってから縁遠くなった遊園地が近辺に一つあるのだが、昔から鞠乃はあの場所が好きだった。
「遊園地ってあそこか? 海沿いにある」
「そこそこ。正也行ったことない?」
「あるにはあるけど……ずっと昔の話だぞ」
「あたしも中学校卒業してから行ってない気がするー! 話してたら急に行きたくなっちゃったや」
「おあつらえ向きね。久々にああいう場所で遊ぶのも面白そう」
 コレで行き先はほぼ確定しただろう。同時に私の身の振り方もだ。
「土日ってことはつまりつまり、一日中遊べるかもってことだよね?! 遊園地以外にも他にどっかいけるんじゃないかな!」
「あら、まだ行きたいところがあるの?」
「違うよぉ、志弦ちゃんが行きたいところ本当にないのかなって思ったのっ」
「あぁ、えっとね鞠乃……私は行けないと思うな」
「え……」
 正確には行かない、という表現なのだろうけれど。
「ど、どーしてぇ……?」
「土日祝日はバイト先が混むのよ。夏休みが終わったとは言え、休日が忙しいのに変わりはないから」
 最もらしい理屈を言い並べて納得させようと試みる。実際のところ土日が混むのは本当だが、店も鬼ではない。稼ぎどきと言えど希望を出せば休ませてくれる。
 博物館や美術館などと下手に背伸びされた場所に行くと決まったら、いくらこの仲良し二人組でも会話に困る可能性があるだろうから、その時は休んででもついていこうとは思っていたが、遊園地ならただでさえ楽しい場所だし鞠乃お気に入りとあって一人でも楽しめるぐらいだから、ハイテンションな鞠乃が正也を巻き込んでひたすら遊び尽くす姿を想像できた。そこに私の助力は必要ないだろう。
「だから多分休めないと思うわ。ついていけないのは残念だけど、二人で楽しんできなさいな」
「ヤだっ!」
「うぉっ!」
 私の不参加表明を聞いた瞬間、鞠乃が急に甲高く拒否の声を上げた。驚いた正也がシュークリームのカスタードをこぼしてる。
 そして私も、ここまで強く声を張られたことにビックリしていた。
「べ、別に私のことは考えなくてもいいのよ? 気兼ねしないで、遊んでおいでよ」
「嫌だって言ってるのっ! 何で、何で志弦ちゃんだけお留守番なのさ!」
「お留守番って言うか、まぁその、仕事だし」
「じゃああたしも行かない!」
 ぐ、と言葉に詰まった。そう言われてしまっては無理矢理押し通しても望む結果にならない。
 また理詰めで説得しようかと考えたとき、
「志弦ちゃんだって夏休み全然遊べなかったの同じでしょ? バイトバイトでずっと忙しくて、家でもぐったりして寝ても疲れ取れてなさそうだったし、あたしなんかよりずっとずっと余裕なかったじゃん!」
「そ、それで家事手伝えなかったのは謝るわ。だから」
「そうじゃないってっ!」
 大きくかぶりを振って私の言葉を否定する鞠乃。その仕草一つ一つが子供っぽいのに、
「元気がない志弦ちゃん見て、大変そうだなって思うことしかできなくて、励ましたりマッサージして楽にさせてあげることぐらいしかできなくてずっと申し訳なく思ってたんだからっ! 志弦ちゃんの苦労考えたら、あたし一人で家事全部やることなんて屁でもなかったよ! お礼したり謝らなくちゃいけないの本当はあたしの方なのに、志弦ちゃんが働いているときに遊んでなんて絶対いられないもん!」
 言うことはやはり相応に考えてくれていたようだった。
「……参ったわね」
 説得しようとしていた側が、説得されてしまうとは。
 私を置いて二人だけ、という組み合わせで遊びにいくことに憚りを感じるところまでは予測できたが、まさかココまで嫌がられるとは思わなかった。遠慮してくるようだったら口車に乗せて勧めてあげるだけで済んだところ、逆に説き伏せられてしまっては返す言葉が出てこない。
 自分では苦とも何とも感じていなかったのだが、夏休み中の私は鞠乃からはとても辛そうに映ったのだろう。流石にこちらが遠慮しすぎたかと、話の運び下手を実感する。
「息抜きが一番必要なのは志弦ちゃんの方だよ! その志弦ちゃんが行かないって言うならあたしも絶対行かない!」
「分かった。分かったわ鞠乃」
「まさやんが一緒でも、志弦ちゃん置いてなんて絶対ヤだっ!」
「分かったからちょっと、落ち着いて鞠乃、ね」
「……んぅ」
 あまり店の中で大声を出されるのも困りものである。
 ココまで言われてしまっては私が引くわけには行かない。ここで引いて話そのものがなかったことに、なんて結果に終わらせるわけにはいかなかった。
「……ありがとね。店長に休みもらえないかどうか、掛けあってみるから」
「ホント?」
「本当よ。事情話せば少しの同情くらいしてもらえると思う」
「やっぱり休み取れなくて駄目でした、二人でだけでも行ってきなさい、とかナシだよ?」
「しないしない」
 心配性というか、疑り深いというか。こういうところで鞠乃は確証を求める。
 その心配を煽らないよう、もしかしたら本当に休みが取れない可能性があることは伏せておく。まぁ恐らく、長期休暇中一度も休日希望を申し出なかったことを考慮してもらえば、温情措置は下してくれるだろう。この件にはそれほど恐れることはない。
「楽しみね、遊園地」
「うん! ひっさしぶりだよねー。何か新しいアトラクション増えてないかな」
「あー俺もちょっとそれ気になるわ。周りの人間がさ、色々新しくなったって言ってくるもんだから」
「ホントっ?! あーでも、昔のやつも残っててほしいなぁ。懐かしさに浸るのも大事だよねっ」
 すっかり童心に返った鞠乃を見て、コレはコレでいいか、と思う私がいた。正也にフォローを約束した手前もあるし、少なくとも悪い結果ではない。
 ただ、遊園地でも鞠乃と正也の仲睦まじげな光景を眺める羽目になることを思うと、先の事とは言え気が重くなるのもまた一つの事実であって。
 とりあえず目下の悩みの種は、バイト先の店長にどんな理由をつけて休みを希望するか、であった。

     

 つい先程まで夕暮れが眩しかったぐらいなのに、この季節は陽が沈むのが早い。
 喫茶店を出てからも学校下を散策し、帰ろうという話になったのは空が薄暗くなった頃だったが、家の前の駅で電車を降りるとすっかり真っ暗になっていた。
 都心の夜景が郊外の殺風景に切り替わるのを窓から眺めて、鞠乃の心情はどう変化していっただろう。夜を異常に恐れる彼女にとっては街の光でも救世主になり得るが、少し離れた住宅地には相変わらず心許ない街灯しかない。駅のホームはまだ室内灯で明るいが、そこから見上げる空はどこまでも黒かった。
 秋から冬は億劫な季節、とは鞠乃の弁。あまり遅くまで遊んでいるとあっという間に夜になるため、急いで帰らなくちゃいけないこの期間が嫌だと言っていた。
 鞠乃がそう公言したのをしっかり覚えていた上で、なお私は今の今まで学校下で粘っていた。心の隅で申し訳ないと思う気持ちはあるのだが、そうまでして鞠乃をこの夜空の下に晒し出す理由があった。
 喫茶店ではさんざ不安定だった私だが、計画の根本目的を忘れるまでには腑抜けていない。私の個人的理由はさておき、正也と行動を共にさせているのには、鞠乃が将来的にこの夜闇を克服するためのリハビリ第一段階、という意味も込めているのだ。
 本人も克服の意志を見せている今件に関しては、時期尚早なんて言葉は当てはまらない。取り掛かれることは今の内から何でもやるべきだ。
「鞠乃」
「ん、なぁに?」
 電車を降りて改札を抜け、出口に立つまでずっと私の右手を力強く握り締めていた鞠乃。口の調子は変わらずとろけるほど柔らかかったが、右手を伝って感じる彼女の震えと、全然笑っていない目元から察していっぱいいっぱいなのがよく分かる。
 子供のモノと大差ない、鞠乃の小さな手のどこからこんな握力が沸くのかと驚嘆してしまう。右手は既に痺れ、握り返すこともままならなかった。
「……いえ、すっかり遅くなっちゃったね、って」
「そだね」
 単調な台詞を間髪入れず、機械的に捌く。よほど余裕がないのだろう。
 隣に私と正也がいてもこんなに怖がっている。表面上取り繕っている点まだマシと言えなくもないが、心の底から怯えているのが文字通り痛いほど理解できた。
「まさやんはさ、家の方向違うんだっけか」
「そうだな」
「そっかぁ」
 鞠乃が何に落胆し、何を期待しているのかが手に取るように分かる。正也が私の頼みを忘れたはずはないと思いたいが、万一彼がそのまま自宅に直接帰るようであればそれを引き止めるのも私の仕事だ。
「ただまぁ、何だ、志弦」
「ん、何?」
「二人とは言え女子だけじゃ危ないだろ。志弦たちの家なら近いし、送ってくよ」
 流石に大丈夫だった。杞憂に終わった。
「え、ホント?」
「あぁ」
「やったーまさやーん!」
「うぉっと」
「きゃっ」
 空いた右手と身体全体で、正也の左腕にしがみつくように飛びついた鞠乃。その勢いを受け止めきれず、正也の方が多少よろけてしまっている。無理もない。鞠乃一人ぐらいなら両足が付いていれば受け止められるだろうが、そこに私が加わったのだから。
 正也が家まで来てくれると聞いて安心したのだろう。少しばかり声音も明るくなっていたが、それでもまだ、左手では私の右手を、力を弱めることなくむしろ更に強く握ったままだった。その手に引っ張られ私共々正也にタックル状態である。
 女子同士とは言え体格差はそれなりにある私たちのはずだが、それをもろともせず鞠乃は左手だけで私を身体ごと持っていった。怪力ともつかぬその力に驚きを通り越して呆然としてしまった。
「まさやんも手握ってー」
「お、あぁ」
「じゃー行くよー!」
「ちょ、ちょっと鞠乃……」
 この展開は願ったり叶ったり、なのだが。
 流石に私の方の手が限界である。血が止まっているのではと錯覚するぐらい痺れて感覚が弱まっていた。
 自ら外へ歩き出すそれは、恐怖を誤魔化すための勇み足なのか。半ば引っ張られるようにして私も正也もその後ろを付いていく。
 強がり以外の何者でもない大仰な手振りに陽気な鼻歌。それらを見て聞いて思うことは一つ。
 私は、この小さな掌を放すことができるのだろうか。
 心配性に関しては、私は人の事を言えないらしい。
「ま、鞠乃ちゃん手痛いって」
「えっ、あっごめん」
 喫茶店でも発揮された、思ったことをズケズケ言う無神経さは今も健在だった。手を握る力が強いだなんて普通女子に言うだろうか。
 もっとも、それで助かった人間がここに一人いるため文句は言えない。
「ついね、力んじゃって」
「はは、大丈夫だって。そんな掴んでなくてもどこにも行かないから」
「……え」
 ぼんやりとアスファルトを照らす駅の明かりが段々弱まってきた頃、正也の台詞に呆けた反応をする鞠乃。
「しっかりと家までは送るから、そんな心配しなくていいって」
「そ、そう?」
「そう? って何だよ。送ってくって言った以上、その責任あるからな」
「……そう」
「あぁ」
 きょとんとした表情でじっと正也の顔に見入ってる鞠乃は、そのまま頭の向きを変えない。
 彼女が発した最後の「そう」に、鞠乃がいくばくかの安堵感を得たのと、その証拠に少々のため息が混じっていたことを、私は見逃さなかった。
 手を握られる力が弱まった時、というより正也が手が痛いと申し出た時だが、少し焦ったのだ。鞠乃が不安を押し込めるように、無理矢理にでも恐怖を振り払うように、そして少しでも安心しようとして縋ったのが私の手だったことが今までの経験上分かっていたので、その頼みの綱を引き離すような彼の台詞が鞠乃の動揺を誘うことも同時に理解していた。
 だから一時、右手に感じる束縛から解放されて余裕が生まれた時、今度はこっちから握り返してあげようかと逡巡した。心を鬼にして、正也に便乗して少し離れようか、または少なくとも私の方からだけでもにじり寄ってあげようか。
 そしてどうしようか迷っているうちに、そんな私の苦悩が杞憂に終わった。どんどんと、徐々に私の手を握る力がさらに小さくなっていく。
「まっさやん」
「何さ」
「明日も一緒に帰れるの?」
「一応練習があるっちゃあるけど、今日と同じですぐ終わるから、その後だったら」
 そして私は、悟られぬよう静かにそっと、鞠乃が正也との会話に夢中になっているその隙に、すっと自分の手を引いた。
「そっかーよしよし。明日も一緒だね!」
「あぁ。よろしくな」
「あはー。今更何をよろしくなのさー」
「それもそうか」
 気付く様子は一向にない。
 そのまま私は手と同時、身体も後ろに退く。ゆっくりと距離を取って、ごく自然に二人だけの空間を作り出した。何を喋っているのか、単語一つ一つの詳細を聞き取れないぐらい十分に離れてから、
「どこにも行かないから、か」
 先程の正也の台詞を口に出して反芻する。
「……言ってくれるじゃない」
 この分だと、私のポジションが正也に取って代わる将来はそう遠くないのかもしれない。
 そんな予感を、私はどんな表情で思い浮かべているのだろうか。
 確かめる方法も、またその顔を見る人間も今この場にいないことが唯一の救いだった。

 徒歩で十分と言っても、会話する人間が誰もいないと結構長く感じるものである。
 ローファーの底でじっくり踏み締めるように歩を進めていって、前列の二人が我が寮の前辺りに差し掛かった時の感想は、ようやく、といった感じだった。
「じゃ、ここまでだな」
「うん! ありが、と……ね?」
 夢から醒めて、自分がどんな状況に置かれているか理解する段である。
「志弦ちゃんっ?!」
「志弦? そういや置いてきちまったな。ホラ、あんな後ろにいる」
 結構距離をとったからか、ここからいつものペースで歩いても鞠乃の元へたどり着くには十数秒程かかる。
 普段ならすぐさま鞠乃の元へ駆け付けてあげなければ、と思うのだろうが、
「学校下とか登校時も、いつの間にか距離空いちゃってたよな。歩くの遅いのか?」
「嘘、え、やだ」
「おーい! ここまででいいよなー?」
 必要以上に大声でこちらに問いかける。
 えぇ、もう大丈夫ですとも。あなたの功績はご立派でしたご苦労様です。とでも感謝の意を伝えればいいだろうか。それも大声で。
「えぇ! ありがとねー!」
 声を張り上げる時というのは思いの外大きく力を使う。両手を口に添えて、踵を上げて背伸びをするようにしてより遠くへ届くように、と思慮すれば。
 足が止まるのは当然だった。
「よし。じゃあまた明日な。朝は迎えに行けないけど帰りは一緒に帰るんだろ?」
「や、ちょっと待って、やぁ……っ!」
「じゃな!」
 私の右手に見せたように強く強く引き止めはしなかったのだろうか。それとも隣に私がいないのがあまりにも不意すぎて頭が回らなかったのか。正也が自分の家への帰路に足を向け、鞠乃から離れていくのをその場で確認する。
 理性的な自分が、早く行ってやれ、としきりに催促するのだが、今日たった今の私の心境は少々常識的ではないらしい。
 嗜虐心、とでも言うのだろうか。好きな子には素直になれずいじめてしまうような幼児性が滲み出て、さっきまでと全く同じ緩慢とした足取りになってしまっていた。
「……――!」
 息を飲んだのがはっきりと分かるような、全身を惜しみなく使ったジェスチャーを前方に視認する。肩をすくめて、胸の前で手指を組んで、膝が半分折れ曲がって笑っている。意図してか無意識か、内股になっていた。
 そわり、ぞわりと、変な痺れが。恐ろしいまでの力で掴まれたときのようなそれとは違う、電流みたいなモノが肩甲骨の上から首筋に向けてひゅっと奔る。
 ふと急に、鞠乃が腕を上げて両耳を塞いだ。さらに膝は曲がり、元々小さい身体がますます矮小に見えてしまう。何が聞こえているのだろうか。私には何も聞こえない。耳鳴りがするのだろうか。
「鞠乃」
 呼びかけに対する返事はない。ゆっくり、ゆっくりと近づいていって、街灯のない真っ暗闇に慣れた目が、やっと彼女の表情がどんなモノか見えるぐらいに詰めてきた。
 とても……とても、酷い顔をしていた。
 目はコレでもかと言わんばかりに見開かれて、その巨大な双眸からは止めどなく泉のように涙が流れ、頬から顎にかけてまで濡れそぼっている。涙だけのせいじゃないかもしれない。耳に添えられている、と言うよりは押し付けている手は今にも自分の頭を潰してしまいそうなぐらい圧迫しているし、指はこめかみ辺りを鋭く抉っていた。
 カタカタカタカタ、と断続的に鳴る軽い音は咬合がまるで合わないことを如実に表し、口元からはそれ以外の音声は何一つ出てこない。私の腰の位置まで下がった頭は、向きだけが上を見上げていて私の顔をじっと凝視している。瞳はどこまでも真っ黒で真っ暗で、夜闇に染まりきっているのが瞭然。もしかしたら私の顔なんて見えていない可能性もある。
 では彼女は何を見ているのだろう。
 まるで、誰かに裏切られたような、この世に一人しかいないような、誰かの死を目前にしたような、そんな表情で、彼女は何を見据えているのだろう。
「……鞠乃」
 すぐ隣まで来て、再度呼びかけたが相変わらず反応がない。目線の高さを彼女に合わせ、腕を背中に回してやる。そうしてやっと、鞠乃からも抱き返しの応答が来た。
 駅前で見せたのとは段違いの、もう何があっても放さないといったレベルの力に、触れかけていた私の気が理性的に引き戻される。抱擁というよりは締め付けに近かった。
「御免ね、鞠乃」
「ひぅっ、ひぐっ……」
 そして私は、そんなつもりなど全くなかったくせ白々しくもこんな台詞を吐いたものだった。
「頑張ったね」
「ぅぅ……ぅぅぅうううっ」
「一人で、ほんの少しだけど一人で、いられたね」
「ううううぅぁぁああああぁぁぁぁっ!」
 無防備な耳元にそう囁きかけている後ろで、良心が私の正気を攻め立てる。
 心の中ではこんな想定、全然してなかったくせに。
 嫉妬のあまりいじけて、振り向いてもらおうとか、気を回してもらおうとか、利己的な欲望にまみれてたくせに。
 本来の目的なんてすっかり忘れて、鞠乃の夜の克服なんてどうでもよかったとか考えていたくせに。
 よくもこんな言葉を言えるものだな、と。
「偉いね、頑張ったね……鞠乃」
「あああああぁぁぁぁぁああぁぁあああぁっ!」
 断末魔とも慟哭ともつかない悲鳴がどれぐらい続いただろう。鞠乃の顔を胸に寄せて声が枯れるまでそうやっていて、いつの間にか気絶したように身体中の力が抜け、全体重をこちらに預けてきたのを確認してから、
 自分が先程まで抱いていたどす黒い感情を。鞠乃の事をよく知っておきながら働かせてしまった無思慮極まる愚行を。死ぬ程後悔した。
 いやきっと、今日のことは死んでもまだ悔やみきれないだろう。

       

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