今でこそ鞠乃は、明るくて自由奔放で、少し子供らしさを残しつつも年齢相応の思いやりを持った可愛らしい子と見なせるが、以前の彼女を知る人の中でココまで人間らしくなると楽観できた者はいないだろう。
誰もが見放し匙を投げ、寄り添うどころか距離を取り、果てには拒絶する者までいた鞠乃を、他の子と比べ何ら遜色ないと言えるところまで導いてあげたのはこの私だ。
ただそれは表面上の取り繕いでしかない。普通に生きてきた子には味わう機会がさほどないであろう心の傷の度合いまで、同化させることはできなかった。
そう、結局私は彼女の傷を癒してはあげられない。その証拠に、未だ闇を異常なまでに恐れる鞠乃の姿がある。
だから私は、鞠乃にはその傷があるものだと、あって当然のものだとして、全てを引っ括めて鞠乃と言う人間なのだと捉えて接した。いや、そう接するしかなかった、だろうか。
それを踏まえて彼女を更正させた経緯を顧みると、私は鞠乃にとっての保護者に近い存在なのだと思う。忌まわしい記憶も受け入れて足並み揃えて一緒に歩んでいって、鞠乃という個人を認めてあげることで、彼女に昔に背負った影と向き合わせさせることには成功した。
だが結局、そこ止まりなのだ。医者でも何でもない私には、保護者になり得ても他の存在にはなり得ない。
だから私は決めたのだ。どう足掻いてもそこまでしか届かないのならば、そして鞠乃が望むのであれば、そうあろうと。
保護者は、何があっても我が子の味方でいなければならない。
大多数から除け者にされたり、医者からさえも見捨てられ、世界がどうひっくり返っても鞠乃が異常であると見なされる事実があっても、親だけは子供の傍にいてあげなければいけないと思う。
その信念に従い、鞠乃とずっと一緒に暮らしてきた。
そして彼女が、どれだけ心に深く酷い傷を持っていたとしても、皆と同じ人であるということに気付いた。
彼女だってれっきとした人なのだ。一人の人間なのだ。
それを見ようとも理解しようともせず、頭ごなしに拒絶して腫れ物扱いしてきた奴らを私は許さない。
厄介者や問題児としてしか見なさず、まるでモノか道具みたいにたらい回しにして自己保身しか考えなかった奴らを、絶対に許さない。
〆