Neetel Inside ニートノベル
表紙

絵本の中のガンファイター
01.荒野の親娘

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 雨が上がって、しばらく経って、サン・ライト・リヴァーの川面に一発の銃声が響き渡った。綿抜きのミットに拳を叩き込んだようなその音は、戦争が終わった今でもたまに聞こえてくることがある。
 それきり銃声はしなかった。相手は最初からいなかったのか、逃げたか、それとも死んだか。
 川岸に、馬に乗った二人組みがいる。雨で増水したサン・ライト・リヴァーを超えられずに立ち往生しているらしい。背の高い大柄の男は、灰色の髪を短く刈り上げたアウトロー風。もう一人は小柄、いや、少女だ。歳は十五、六。茶褐色の帽子から夕焼け雲のような金髪がこぼれている。どことなく顔には子供っぽい表情を浮かべているが、目元が少しきつかった。その目つきだけが、二人を血縁者だと思わせるたったひとつの特徴だった。親子なのかもしれない。
 撃ったのは、父親風の男だ。
 右手を無造作に伸ばしてリボルヴァを握っている。銃口からは硝煙と火薬の匂いが立ち昇っている。狙った先は、対岸にある一本の木だろう。緑色の葉が茂ったその木には、まるで飾りのように実がひとつだけ生っている。黄金のリンゴだ。
 父親が、拳銃の銃身を支えるように手袋で覆った手のひらに乗せた。リンゴのヘタを撃ち抜けなかったことが解せないらしい。少女が馬を二、三歩歩かせて、馬上から何か言ったようだ。少女のジト目と父親の顔が曇ったことからして、少女が何か生意気を言ったのかもしれない。父親がぼそぼそと髭に覆われた口元で何か呟き、少女がむっと唇を尖らせた。頬が桃色に染まっている。直情径行の気質があるらしい。
 少女は、被っていた帽子を目深に被った。何も見えない。そのまま、馬をぐるぐるとその場で三度旋回させ、軽くふらついたところで、腰のホルスターからリボルヴァを抜き取った。撃鉄を起こす。
 そのまま数秒経ち、父親がぼそっとまた何か言った。少女の右手がついっと動いた。銃口はリンゴの木に向いてこそいるが、リンゴからは逸れている。また父親が指示を飛ばして、少女の銃口が正しい照準へと向かっていく。
 ぴたり、と照準が合った。
 父親が髭を震わせるまでもなく、少女は引き金を引いていた。
 銃声。
 反動で浮き上がる銃身、空気が引き裂かれる音がして対岸のリンゴがぽんっと跳ねて、ぽとりと落ちた。
 少女がまだ熱している銃口で帽子のつばを押し上げて、「ふふん?」とでも言いたげな顔で父親を見る。父親は肩をすくめて、川上を見ていた。遊んでいるうちにかさが目減りしてきた。もう馬で川越えできるだろう。父親は指差しで二、三の指図を飛ばして、川の中に人馬を突っ込んだ。愛馬がぶるるっと水の中で身体を震わせたが、これは人間がプールにいきなり飛び込んだようなものだろう。
 ざばっざばっと少女と父親は川を渡っていく。そのそばの水面に反射した太陽が映り込んでいた。雨上がりの日差しが、濡れた身体をどんどん乾かしていく。
 ひづめが対岸の土を噛んだ。
 少女が撃たれたように飛び降りてリンゴの木に駆けていった。それほどまでに自分の手柄を最初に手に取りたいらしい。父親の口元にすっぱい笑みが浮かぶ。無理はない、馬鹿な子ほどかわいいという言葉もある。
 木に駆け寄った少女だったが、しかし、リンゴを拾おうとはしなかった。そのまま度忘れでもしたようにその場に突っ立っている。父親は眉をひそめて、馬から下りた。
 どうした、とでも言ったのだろう。少女が振り向いた。唇をすぼめている。あたしは悪くないもんという顔である。父親が少女を押しのけるようにして足元に転がっているリンゴを手に取った。ぐちゃり、と手袋に覆われていない指先に気持ちの悪い感触。
 少女の撃った弾丸は確かにリンゴを撃ち落していた。撃ち抜いて、落としていた。ひっくり返すと銃弾が出て行ったと思われる箇所が砕けていた。とても口を汚さずに食べることはできないだろう。
 父親がジト目で娘を見上げた。少女は口笛を吹いて誤魔化しているようだったが、父親の眼光による追及は収まる気配を見せない。頭をかいたりそっぽを向いたり逆に不機嫌になったりいじけてみたりしたがどれも好物を無残に爆裂させられた父の怒りを鎮められず、少女はもはや開き直って笑い出した。卑怯である。娘が笑っているのに頬がほころばない父親などいない。髭もじゃの顔がぴくぴくしたかと思うと、くつくつとやはり笑い出した。二人はそうやって雨上がりの木の下で笑い続けた。笑うために笑っているような有様だったが、そんなことはどうでもいいことだった。
 太陽のようにきらめく二人の笑顔を、本物が羨ましそうに照らしている。





             絵本の中のガンファイター






 人を殺す時はいつも酔っていた。
 それもお決まりだった。アラン・ターナーはいつも同じ銘柄のウィスキーしか飲まなかった。ほかの酒は一切飲まない。ありがちな銘柄だったからよかったものの、ごく稀に土着のどぶろくしか出さないような酒場に入った日には血煙が舞ったものだ。
 ウィスキーのボトルの首ねっこを左手で引っつかみ、右腰のホルスターに収まったリボルヴァの銃把に軽く手を添えて、何か秘密を握った性悪のような薄気味の悪い笑顔を振りまきながら歩いた。女子供は息さえ止めて彼を見たし、農夫だろうと床屋だろうと神に仕える神父だろうともアランが視界に入り込んでいる時は身体から力が抜けなかったという。
 アランは賞金稼ぎだった。戦争帰りの兵隊に働くクチなどそうあるわけもなかったし、雑貨屋の親父に顎で使われることはアランの誇りと右腕が許さなかった。剣によって生きるものは剣によって立つ。銃もまたしかり。だから、軍服をバラバラに分解して生地ひとつ無駄にせず売り払って作った金で45口径の弾丸を揃え、明日のトイレットペーパーすら用意せずに荒野に出た。賞金稼ぎとはよく言ったものだ。まるで自分は正義の代行者であるかのような顔をして、荒野に野良犬が一匹舞い戻っただけだ。アランが守った法律はたったひとつだけだ。それ以外は銃を持って黙らせた。
 その法律は憲法によって守られている。
 自己防衛の権利。
 自分のことを自分で守っていい、という言われるまでもない法律。しかし、それこそが男臭い決闘の場では何よりも優先される。
 先に銃を抜いたやつは、正当防衛の権利に基づき、殺されたって文句は言えない。
 アランはそれを守った。守り続けた。どれほど挑発されようともアランは相手より先に抜かなかった。それどころか相手の最も気にしている、触れられたくない欠点や秘密を針先で突くように刺激して相手に銃を抜かせるくらいだった。アランは腕と口が立った。その巧みな誘導話法が、さらにアランの周囲におぞましい畏怖を撒き散らすことになった。
 酒瓶を進軍ラッパのように掲げて琥珀色の液体を飲み、アランは言うのだ。
 おれを殺したいならそうすればいい。おれは決して、先に抜かない。なぜおれが抜く必要がある? きみたちは善良な市民であり、そしてもちろんおれだってそうさ。だからおれが銃を抜く羽目になるとしたら、それはきみたちが善良さという覆いをかぶった獣の本性を表したときだけだ。そしておれは、悪魔のように速いのさ。
 弁の立つ男であった。
 誰も笑っていないのに大声で哄笑し、酔った拍子によく物を壊した。アランが触れると皿もランプも思い出したように落ちるのだ。人も物も秩序も平和も、アランの足音を聞くだけでこの世に嫌気が差すらしかった。
 法の代行者に殺されなかったのは、ひとえにアランを超える悪党が戦争終結直後の荒野には軒下のゴミ虫ほどもいたし、それにアランは素行はどうあれ賞金稼ぎ、しかも凄腕で週にひとつは悪党の死体を木箱に詰めて墓穴送りにしていたから、執行官としては悪戯に殺してしまうよりも利用するだけ利用して使い潰してしまおうとでも考えていたのだろう。所詮、賞金稼ぎなど一年どころかせいぜい三ヶ月続けばいい方の働き口とも言えないやくざ稼業でしかなかった。その当時、最高の執行官のひとりと言われたエミリオ・マグナルスのたったひとつの誤算は、賞金稼ぎアラン・ターナーがとうとう最後まで死ななかったことだけだ。
 アランは生き延びた。
 弾丸の嵐というには連射性能の高い銃器はまだ開発されていなかったが、それでも六発限定のクイック・ドローを五、六人も相手にすれば普通は蜂の巣になる。だが、アランは一発も頭部や腹部に被弾しなかった。腕や足に残った弾丸はナイフでえぐって松明で焼いた。悪質な菌類に感染することなく、アランはしぶとく荒野を這いずり回った。
 何人殺したかは覚えていない。罪悪感なんて少しもない。
 少なくとも、相手の指先は引き金にかかっていた。いつもだ。それだけは間違いない。だから、こっちも抜かなければ生きていかれなかった。誰かがアランを助けてくれたというのか。もしそうだったのなら遠慮も熟慮もうっちゃってまっすぐにアランの下へと駆け寄ってくれればよかったのだ。もっとも、若く血気にまみれたアランが救われるまでに浪費されたであろう金とねぐらと女の数は、それこそ悪魔的であったろうから、結局は誰の上にも平和なんて訪れはしなかっただろうが。
 青年アラン・ターナーの荒野を往く放浪は、ある時、突然終わりを告げた。
 ひとりの賞金首を捕まえたのだ。
 賞金首の名前はアンドリュー・ミラー。その名前はよく覚えている。けちな悪党だった。賞金詐欺と銀行強盗の見張りを何度か繰り返した小悪党で、保安官事務所へ引っ立てたところで牢番をしなければならなくなる助手が嫌そうな顔をするだけだろう。だが、その時のアランには金がなかった。いつもなかったと言えばそうなのだが、その時は特になかった。珍しく博打でスッたのだ。
 いつもはオリていたはずのスリーカードに全財産を突っ込んだことに、その時のアランは自分でも不思議なほどに動揺していた。ふわふわした気分だった。夢の中にいるような心地。悪くなかった。
 アンドリューは目抜き通りのど真ん中で小娘を人質に取っていた。金髪の十五、六の少女だ。美しかったが怯えた小鳥のようなゆるい目元が卑屈にも取れた。
「く、来るなアラン! この女の命がどうなってもいいのか、え?」
 よかった。
 いつもなら、アンドリューが瞬きする前にアランの銃弾が少女ごと心臓を撃ち抜いているところだ。45口径の弾丸でも人間ひとりの身体を貫通してその背後のターゲットをしとめるのは難しい。が、アランは天賦のセンスで人体というものを感覚で理解している節があった。少女の肌を見てその肉の柔らかさを想像し、そして骨がなく触れ合う内臓のちょうど境目を射抜く射線を鷹のような眼光で見定めた。
 殺せる。
 だが、右手がその時ばかりはなぜか、誰かに上から押さえつけられたかのように動かなかった。
 アンドリューの汚い腕にかき抱かれた小娘と目が合った。珍しくもない青い瞳だ。夏色の抜けるような青。そんなものに情をほだされるようなアランではない。美しさなどというものから最も遠いところにいる男なのだ。だが、その時だけは、どうしても右腕が上がらなかった。小娘ごと殺すにしても、アンドリューだけ撃ち抜こうとしても、だ。
 そのうちに照り付けてくる激しい日差しとそれを跳ね返して大地から立ち昇る熱気にくらくらしてきた。一種のトランス状態にまで陥りかけたのは後から思えば思うほど間抜けだったとしか言えない。いくら相手が三下だろうと銃を握った相手を前にしてぼうっとしていたのだ。殺されなかったのが不条理にさえ思える。が、その時のアランはもちろんそんなことを考えている余裕はなかった。
 スリーカードのことをまだ考えていた。
 オリてもよかったのだ。たかが7のスリーカード。キングやエースならいざ知らず、その程度の手はまた長くカードをめくっていれば放っておいたってめぐってくるのだ。だが、あの晩だけはどうしてもオリたくなかった。おかげでこんなところで小物相手に決闘騒ぎだ。
 ――ええい。
 アランは腹をくくった。どうやら自分はおかしい。何が自分をおかしくしたのか、それはわからない。ひょっとしたらすべてはくだらない勘違いかもしれないが、そう思ったところで右腕が上がるわけでもなし、それならこの奇妙な場に乗っかってやろうじゃないか。そうともそう考えればすべてのつじつまが合うじゃないか。あのスリーカードをオリなかったのは、俺の熱血などでなく、何らかの力が働いたのだ。その力が俺を無一文にさせ、この場に立たせ、そして今また、右腕を凍てつかせているのだ。
 いいとも。
 神だか魔だか知らないが、お望みとあらばその通りにしてやろう。俺はパンを上手にこねる才能は賜らなかったが、上手に銃の狙いをつける才には恵まれた。このぐらいのハンデやリスクは綿埃ほどにも感じはしないのだ。つまり誰も殺さなければいいんだろ?
 頬を伝って汗が足元に滴る。どこの乞食が盗んで喰ったか、空っぽになった缶詰が転がっていた。
 アランはそれを蹴り上げた。ゴングのようないい音が鳴って缶が舞い上がった。
 右腕が骨身を置き去りにしかねない速度で銃を抜いた。撃鉄は起こしてある。吸い寄せられるように指がトリガーを引き絞った。
 銃声。
 缶が宙でもう一段階高いレベルに弾き飛ばされた。狙った通りだった。45口径は缶を貫通して、銃を握ったアンドリューの右肩から血飛沫を巻き上げた。悲鳴と共に倒れるアンドリューから小娘が逃げ出す。アランはそれを目端で確かめながら二、三歩でアンドリューとの距離をかき消した。アランは東部の孤児あがりである。
 いい感じに腰の入った左のアッパーが、アンドリューの顎を打ち上げた。アンドリューの小太りの身体は馬用の水桶の中に突っ込んで、動かなくなった。
「ふう」
「やったな」
 いつの間に隣に立っていたのか、その宿場町の保安官だったマイケル・ダグラスがアランと肩を並べてしたり顔をしていた。アランは呆れたようにため息をついて、
「けっ。保安官が聞いて呆れるぜ」
「おまえがやられたら、おれの出番だと思っていたのさ」
「俺は負けんぜ。てめえが給料分仕事すんのァ、当分先だな」
「らしいな」くっくとマイケルは笑って、
「それにしても珍しいな。おまえが獲物を殺さないとはね。あの缶を蹴り上げたのは弾丸の勢いを殺すためだろう」
「臨時の注文だったのさ」
「二十四時間営業とは恐れ入るね」
「ほざけ。それより報酬だが――」
 アランは、マイケルが払いかけた紙幣を手のひらで押さえつけた。黒い瞳同士がかちっと空中でぶつかった。
「なんのつもりだ」
「あれが欲しい」
 アランは顎を振って、呆然と突っ立っている人質だった少女を見やった。マイケルが顔をしかめる。
「あの子には、フィアンセがいる」
「だから?」
「……。この悪党め。貴様、もう二度とこの町に来れなくなるぞ」
「困るのはあんただな。優秀な助手を失って」
「おまえなんぞ――」といいかけて、マイケルはふっと笑った。
「いいだろう。連れて行け。どうせ私の娘でもない」
「話が分かるね」
「ただし、一発私にいいのをくれていけ。なんの抵抗もせずにみすみす明け渡したのでは私の評判が落ちる」
 返事は拳だった。擦るようなフックがマイケルの顎を撃ち、どうっと保安官は地面に倒れこんだ。どこかの家屋から子供のキャッという叫び声がしたが、すぐに聞こえなくなった。親が口を手で封じたのだろう。無理もない。この町には悪党が一人、まだ残っているのだから。
 アランは疾風のように少女に駆け寄るとその腰を抱き上げた。
「えっ……あ、あの、なにを……」
「戦利品さ」
「戦利品……というと、銃とか馬とかではないのですか。わたしは馬ではありません」
「ああ、馬よりもいいな。綺麗な女の子だ」
「綺麗……」
 少女はぽっと頬を染めた。この期に及んで状況がわかっていないらしい。アランは呆れたが、すぐにおかしくなった。まったくあの夜以来、調子が狂うことばかりだ。
 まさかこれからこそ自分の人生が狂っていくのだとは露知らず、アラン・ターナーは巻き込むように愛馬パラベラムの鞍に乗った。少女はまだ抱きかかえたままだ。
「あの、わたし、この町を出るわけには……」
「フィアンセがいるからか? あんたのピンチに顔も見せなかったフィアンセが?」
 少女は黙った。その瞳から、すうっと光が失せて、かえってアランが面食らった。どうやら望んだ婚約ではなかったらしい。くつくつとした笑いがまたアランの腹筋を震わせた。たまには無一文も悪くない。
「ヤァッ!!」
 掛け声ひとつでパラベラムが堰をぶち破った濁流のように駆け出した。きゃっと少女が叫んでアランの腰にしがみつく。アランはむくむくと沸き起こってくる原因不明の歓喜が雄叫びに変わらないように苦心しながら、町の門を潜り抜けて一顧だにせず荒野へと駆け戻っていった。
「おまえ、名前は?」
 アランが聞くと、少女は生まれて初めて浴びるのだろう疾走する荒野の風に負けない声で叫んだ。
「シャロン――シャロン・マカーティ」


 シャロンは、それから二年後、流行り病で消えるようにあっさりと死んだ。アランは、自分で建てた小屋の中で泣き叫ぶ愛娘の声を背にしながら、庭にシャロンを埋めた。それから今まで、アラン・ターナーは一人の人間も殺していない。
 十四年が経った。
 荒野のど真ん中に建てられたターナー家の前に、一人の男が立っていた。中をうかがうように身をよじるその男の右腕は、付け根から先がすっぱりと無くなっていた。

     




 リオ・フリージア・ターナーの友達は豚だけである。食事の時にパイのクズを背中に流し込んでくる馬鹿野郎しかいないということではなく、正真正銘、家畜の豚しかリオには友達と呼べるものはいない。家の周囲は一面の牧草地で、最寄の水場からさらに同じ距離だけ飛ばしてようやく人家の灯が見えるという有様だ。大陸の西部中の西部、辺境の荒野。リオの生まれ育ったこの場所では、家族以外の人間と友達になるというのはとても贅沢なことだった。
 雲ひとつない青空の下、家畜用の柵に腰かけて、リオはぶらぶらと足を揺らしていた。揺れる靴のつま先が何に見えているのか、数匹の子豚がすんすん鼻を鳴らして右往左往している。いずれベーコンにされるとも知らずのん気に動き回っている豚たちを見ているとリオはブルーになる。十五歳の空の下、何が悲しくて豚のストレス発散に付き合ってやらなくてはいけないのか。風のうわさに聞く町の女の子たちは、少なくともここよりは人気のある場所で、少なくとも豚ではない男の子たちと楽しくおしゃべりしたり買い物を楽しんだりしているに違いないのだ。字だってきちんと読めるだろうから、たまには両親と新聞に載ってる恐ろしい事件や腹のよじれる珍事を食卓の上で語り合ったりするのだろう。この西部でのパパとの暮らしが嫌なわけではないけれど、だからといってパパと結婚できるわけでもない。
 十五歳になるまで、しゃべったことのある男の人は父親とたまにやってくる行商人だけ。行商人は乗っている馬が苦悶の表情を浮かべかねないほどの巨漢で、見事に禿げ上がった頭のしわが化け物みたいにたるんでいて、ちょっとだけ豚の皮膚に似ている。まさか彼と結婚なんてしたいとは思わないし、いくら愛しているとはいえパパがそんなことを言い出したらリオはアランの寝込みを襲ってターナー家の長になる覚悟はできている。
 リオは深々とため息をついた。
 なんて寂しい青春だろう。行商人や旅人、通り過ぎていく新しい開拓者たちから聞かせられた世界や人生は、何よりアランから聞かされてきた過去は、リオの胸の中で語った当人たちが予想だにしない成長を見せていた。それはひとつの願望であり、信仰に近かった。
 外の世界。
 リオ・ターナーにはこの紺碧の空がそっくりそのまま天蓋にはめ込まれた檻に見える。
 旅に出てみたい、と父親に打ち明けたことがないわけではない。だが、その時のアランは火を噴いたように怒り、日課となっているおやすみの絵本も読んでくれず、納屋の中にリオを閉じ込めて外から鍵をかけてしまった。真っ暗になった納屋の中で、隙間から漏れてくる月明かりにすがってごめんなさいもう言わないからと何度も何度も繰り返し叫んだリオをアランは太陽が昇るまで決して許さなかった。確かそれは七歳くらいのことだったはずだが、いくらなんでもやりすぎだとリオは思う。それで諦められるようないい子じゃないのだ、あたしは。パパはなんにもわかってない。
 それにアランにも落ち度はあるのだ。普段、アランは過去のことは口にしない。黙々と西部の男として食用の野菜を育て家畜に餌をやり暖炉にくべる薪を飽きもせずに割りまくっているが、時々ぽつり、と昔の自分について喋ることがある。それは母との出会いや、彼女が口を酸っぱくして繰り返した小言のおまけのようなものだったが、リオの脳の中に蓄えられた細かな情報群は今ではすっかりひとつの事実を形成している。
 アラン・ヴィルヘルム・ターナーは元賞金稼ぎ(バウンティ・ハンター)である。母との荒っぽい出会いはいくら細部をごまかしても彼がガンマンだったことを、そして母のやけに生命にばかりこだわった小言の記憶は、生死を問わず無法者のクビを狙う賞金稼ぎのにおいを証明している。
 ガンマン。
 特注のベルトにリボルヴァと弾丸を詰め込んで、ポンチョをかぶり馬に乗り、荒野を往く男の中の男。弱きを助け強きをくじく正義の代行者。
 考えているだけで右手がありもしない拳銃を求めてうずうずしてくる。リオはそのうずきを寝る前に父親が読んでくれる絵本――『はぐれ者のキッド』――でしか鎮めることができない。リオが十歳を超えるとアランは絵本は卒業しなさいと馬鹿げたことをぬかしはじめたが、彼女が自分のベッドの上に正座して自分の気性と絵本によるガス抜きをやめれば自分がどんな革命を起こす危険性があるかということを滔々と語ると素直になって『キッド』を読んでくれた。あたしのパパはすっごく優しいのだ、とリオは思う。ちょっとわからずやだけど。
 そんなリオだったが、彼女は父親を悲しませてまで、つまり家出をしてまで外へいこうとは思っていなかった。それは正しくないことだった。絵本の中のガンファイターは、正しくないことは決してしないのだ。決して。
 そうしていつもと同じように、物思いに区切りをつけて、あっという間に過ぎていく一日(こんなんじゃあっという間におばあちゃんになっちゃう気がする!)へとリオが戻ろうとした時だった。
 丘の上にある、二人の粗末な木の家の前に見知らぬ男が立っているのをリオは見た。
 この世界には腕のない人間がいることを、リオは初めて知った。


 ○


 牧草に埋もれるようにして、ひとつの墓があった。行商人に頼んで石屋から取り寄せた墓石だ。そこにはこう刻まれている。
 シャロン・アイリス・ターナー 1852~1870
 その下に、
 ――夢を見る人、ここに眠る
「…………」
 アランは墓石の前に立って、目を瞑っている。
 歳を取った。といってもまだ三十半ばなのだが、荒野へ根を張って暮らす地道な生活が、彼から若々しさと血の気の多さを奪っていた。髪は灰色に近い白髪で染まり、肌は水気を失ってかさかさになっている。口髭を生やし、額がちょっと後退した。
 もう、腰にガンベルトは巻かれていない。それは小屋の中、普段使わない特殊な農具などと一緒に壁のフックから吊るされているだけになった。銃そのものは自衛のために手放すことこそ出来なかったが、亡き妻に誓って、もう十年は触れていない。
 後悔はしていない。銃を捨てたことも、自由を失ったことも。それよりも最も大切なものをシャロン・ターナーは与えてくれた。頭でっかちな倫理観でものを言うのは今でも嫌いなアランだったが、それを抜きにしても、自分は幸福で正しい道を歩んできたと胸を張って言うことができる。あのままシャロンに出会わず荒野を駆け回っていたら、遠からず死んでいたか、刑務所にぶち込まれて臭い飯を十数年もモグモグ食う羽目になっていただろう。とても娘を持つことなどできなかったはずだ。
 だいぶ前から神と霊に祈ることを覚えた。
 それでよかったのだと思う。
「パパぁー」
 リオの声だ。アランは瞑目をやめ、振り返った。かつてこの男のことを知っている人間が見たら、とてもそれがアランだとはわからなかったろう。娘のために柔和な笑顔を見せているその男の顔は、どこにでもいる、ただのひとりの父親の顔だった。
 だが、その笑顔が初めて凍った。
 目が、愛娘の隣にいる顔に釘づけになる。
「パパ! あのね、この人――」
 リオの声をしゃがれ声が遮った。
「久しぶりだな」
 右腕のない男が、左腕でかぶっていた帽子を軽く浮かせる。
「アランくん?」
 今の今まで忘れていた男だった。
 名を、アンドリュー・ハーネス・ミラーという。




 ○




 男と男の話をする、と言ってアランはリオを追い出した。ぶうっ、と膨れるぐらいなら可愛いものだったが、来客とその土産話に飢えている愛娘はなんと実の父親に向かってガンを飛ばしてきた。なかなか見事なメンチの切り方に、さすがのアランもちょっとひるんだ。いったい誰に似たのかと思う。が、昔なじみの助平親父ならともかく、アンドリュー・ミラー相手の話をリオの耳に入れさせるわけにはいかない。
 特に、アンドリューの右腕がないことを目にしてしまった今では。
「――座ってくれ」
「くれ(プリーズ)? プリーズ、おまえがプリーズなんて言うようになったとはな。フリーズ(動くな)なら何度か聞いたことがあるが」
 アランは苦笑いしかできなかった。まるで人見知りになったような気分がする。だが実際に、アランはアンドリューを前にして萎縮していた。意識しなくても、右腕の付け根に神経が傾いた。
 アンドリューはテーブルクロスの敷かれた食卓の手前側に腰かけ、アランはその対面に座った。アンドリューが左手一本で帽子を脱いで、それを帽子かけにフリスビーよろしく投げてかけた。
「会いたかったぞ、アラン。どうして手紙のひとつもくれなかったんだ?」
 アンドリューがにやにや笑う。
「おまえが生きているとは、初耳だった」
「ほう? ではあの時、殺したつもりだったというわけだ?」
 ぽん、とアンドリューが右肩の付け根を叩いた。まるで自慢でもするかのようなしぐさだ。その小さな虫のような目が、アランの良心が痛むのを楽しんでぎらぎらと輝いていた。
「お察しの通り、あの時、受けた傷が元でな。膿んでしまったんだ。切るしかないと言われて泣いてやめてくれと請うたが、ブランデーを何杯も飲まされて」
 左手の手刀が卓をトンと叩いた。
「チョキン、さ。戦争中に負傷した時でさえ切らなかった俺の腕があっけなくボウルに入れられて、どっかへ捨てられてしまったよ。肥料にでもされたのかな。アラン、おまえが撃った弾丸だよ」
「知っている」
「何か言うことはないのか?」
 アランはぐっと言葉に詰まった。まだかすかに身体の奥で燃えているちっぽけなプライドが、この小男に屈服することを許さなかった。だが、アンドリューがちらちらと窓の外を見やっていることに気づいて、アランは敵の意図を悟った。そうだ。自分には選択権などない。たったひとりの愛娘に、自分とこの男の右腕の関係を知られるわけにはいかない。
 窓の外には、リオの姿はない。アランに見られないように隠れているのかもしれないし、最初からそこにはおらずアンドリューはただ娘の存在を示唆するためだけに窓を見たのかもしれなかった。
 アランは頭を下げた。
「すまなかった。愚かしくも俺は、取り返しのつかないことをきみにしてしまった。許してくれ」
 アンドリューはアランの頭を実に愉快そうに見下ろした。
「腕を撃てば、怪我で済むと思ったか。怪我? そうともこれは怪我さ。死じゃない。だからといって、何が変わるというのだ。右腕を失ってから十六年間、この俺がどんなところでどんな思いをしながら生きてきたかおまえにわかるか。自分の世話だってこの腕じゃロクに出来やしない。商売女からも同情の目で見られ、どこへいっても勤め口なんてありはしない。もっとも、戦争で負傷したのだと言えば少しはマシだったがね。実際、似たようなものだ。あの頃のおまえは、まさに戦争が産み落とした悪魔そのものだったからな」
 おまえもそうだったろうが、という言葉をアランは必死の思いで噛み殺した。
 アンドリューは続ける。
「一日だっておまえのことを忘れたことはない。復讐してやろうと何度も考えた。なけなしの金を集めて、ガンマンを雇おうと思ったこともあったよ。ま、どうせ金を持ち逃げされるだけだろうから実際にそうしたりはしなかったがね。そうして頭が冷えたのがよかったのかな、だんだん俺にはわかってきたのさ」
 アンドリューは黙った。話の催促を待っているのだ、とアランは気づいた。
「……それで? なにがわかったんだ?」
「わざわざ俺が復讐するまでもないってことがさ」
「どういうことだ」
「アラン。おまえを発狂しそうなほど恨んでいる人間は、とても多いのだよ」
「わかっている。……だが、俺の敵はもう、大半がこの世にいないか、刑務所の中だ」
「それさ」
 アンドリューは指を一本立てた。
「刑務所にいるのさ」
「まさか、おまえが脱獄を手伝って……?」
「脱獄? おまえまだ俺が不具だってわかってないみたいだな。俺に何ができるんだ? ぜひ教えてくれよ、知りたいものだ」
「すまなかった。だが、俺にはおまえが何を言いたいのかが本当にわからないんだ、アンドリュー」
「馬鹿な男だ、アラン。おまえは救いがたいよ。俺の腕を撃って得意満面にあの町を出て行った時も、そして今も。刑務所? おまえ、刑務所が何をする場所かわかっているのか」
「犯罪を犯した人間が、罪を悔い、償うところだ」
「じゃあ、償ったらどうなる?」
「それは――」
 アランは気づいた。
「出所……」
「そうだよ。喜べ、アラン・ターナー! 今年はおまえが捕まえてきた悪党どもが一斉に釈放される悪夢の復活祭(ブラック・イースター)の年なのだ――もっとも縛り首にされなかった幸運なやつらだけだがな。だからこそ、手ごわいかもな?」
「連中が、ここに来るのか」
「ああ」
「なぜだ。俺は行商人にだって本当の名を明かしていない。この場所がわかるわけがない」
「俺が調べたのさ」
 アンドリューは笑った。
「俺が調べて、俺が流した。まもなくここは戦場になるんだ、アランくん。懐かしいなあ? 空に響き渡るライフルの音、興奮した馬のひづめ、兵士の怒号、倒れていく人間の肉が震える音……思い出すだろ?」
「貴様……!」
 掴みかかったアランの手を、アンドリューは払わなかった。物分りの悪い息子を見る父親のような顔で、言う。
「俺を殺すか? 殺したければそうするがいい。何も変わらない。何も得られないだろう、この哀れなかたわの男をひとり殺したぐらいでは。しかも貴様、人殺しをした食卓でこれから毎日娘とランチを食べるのか? その野蛮さがあればそのうち娘をランチにしてしまうだろうな」
「…………っ!!」
「いいか、勘違いしているようだが俺はおまえの敵じゃない。むしろ味方さ」
「何……? どういうことだ?」
「おまえの腕は知っている。ひょっとすると勝ち切るかもしれない。バラけた散弾のように襲ってくる追手を殺し切って哀れな俺をも殺しに戻ってくるかもしれない。買いかぶり? いいや違うね、俺はおまえを知っている。おまえのことだけ考えてこの十五年生きてきたんだ。おまえは、勝ちかねない」
 アランはアンドリューのシャツから手を離した。
「だったら、どうだというんだ」
「アラン。連中は釈放されたとはいえ悪党だ。職もない。すぐに強盗、窃盗、詐欺、強姦、放火、殺人。なんでもやってすぐに手配され、また賞金がかけられるだろう。貴様はそれを狩るのだ。やられる前にこちらから出向いていって狩り殺すのだ。そうすれば、貴様が全盛期に稼いだ金の何分の一かが再び貴様の懐に戻ってくる。それを俺によこせ」
「…………」
「嫌そうだな? だがいいか、この腕を駄目にしたのは貴様なんだぞ。俺は一生、このままなんだぞ。それなのにおまえはくだらない侘びひとつで何もかも無かったことにするつもりか。そうはさせるか。俺はもらうぞ。追手に負けて貴様のバラバラになった死体の写真か、あるいはこの俺のみじめな一生を購うだけの大金だ。それ以外で、貴様と俺の関係に決着などは一切ついたりしないのだ」
「…………」
 いつの間に握っていたのか、アンドリューは一丁の拳銃を握っていた。その銃身を持って、グリップを握手でも求めるようにアランの前に突き出した。
「さァ、選ぶがいい。この銃を持って再び荒野の狼に成り下がるか、それとも俺を殺して目も耳も塞ぎ、おそるべき速さでやってくる例の時間を待つか。俺はどっちでもいいんだ――本当に」
 アランは、差し出されたグリップを殺しかねない目でにらんでいた。
「おまえは、どうするつもりだ。俺が狩りに出向いている間」
「この家を守る」
「守る?」
「ああ。追手がおまえとすれ違いでやってきたら、俺がおまえの向かった方向を伝えて追い返す。まさか俺が住まいにしているのに牧師憎けりゃ本まで憎いで焼き払ったりしないだろう。おまえが帰ってくることがあれば、そうだな、賞金と引き換えにこの家を返してやろう」
「取引というわけか」
「そう思いたければな」
「…………」
 アランは迷った。
「……娘はどうなる?」
「さあ。俺のお嫁さんかな」
「ふざけるなよ」
「冗談だ。誰があんなガキに入れ込むものか。ふん、どうなるもこうなるも連れて行くしかあるまい。おまえの娘なら素質は充分だろう。もう銃の使い方は教えてあるのか?」
「俺がいる限り、リオに銃は触れさせない。そんな必要はない」
「それよ」
 アンドリューは賞金首を見つけたような顔をして、指をアランの顔に突きつけた。
「そんなことをこの期に及んで考えていられるのが貴様の罪深き幸福というやつだ。この国で銃の使い方を知らずに生きていけるやつなんているものか。結果的に使わずに一生を終えるやつはいるだろうが、ええ、思い出してみろ。悪党どもによる銀行強盗、人さらい、決闘復讐血みどろの青春の数々を。こんな辺鄙な場所に暮らしていればいつの間にかこの世から悪がなくなるとでも思ったか。愛する娘を思うなら、武器を持たせるべきだ」
「おまえに説教されるとはな」
「信じてもいいぜ、今だけは親切心で言ってやっている。それにあの子を仮にこのまま育てていってどうするつもりだ? こんな誰もいない土地でおまえが死んだ後に誰を愛して生きる? ずっとおまえら二人の墓守りをあの子にさせるつもりか」
「そんなつもりは……」
「おまえがやっているのはそういうことだ。いくら言葉を重ねても、いくら逃げ口上を探そうともだ。覚悟を決めろ、アラン・ターナー。そうそう簡単に平和が手に入るとでも思ったか?」
 沈黙が降りた。
 だが、言葉を交わす必要などないのだ。
 答えは、最初から決まっていたのだから。


     



 アンドリューには出て行ってもらった。
 食卓に腰かけながら、アランは組んだ拳を睨みつけている。
 とんとん、ノックがしてがちゃりと扉が開き、リオが顔を見せた。
「パパ?」
「こっちへおいで、リオ」
 リオはつつつ、と進み出た。スカートの前で手をもじもじさせて、
「どうしたの? パパ、なんだか怖い顔してる」
「うん――ちょっと話があるんだ」
「話?」
「実は、さっき来たアンドリューさんにパパは――借金があってね」
「借金――」
「ああ、で、だ。私たち二人が暮らしていく上で、ここでの生活は貧しくこそあれ生きていけないほどではないが、もちろん、借金を返済していけなくもある」
 我ながら、言い訳がましい口調だなとアランは思う。
「パパはアンドリューさんに借金があって、それを返さなくちゃならない」
「いくら?」
 リオはいつもと変わらない表情だったが、だからこそ何を考えているのか父親にも計りかねた。その戸惑いが一瞬、アランの知性を鈍らせた。
「十万ドル」
 あっ、と思ったが遅かった。
 リオは黙り込んだ。
「十万ドル……」
「いや、違うんだ、そう絶望しなくていいんだ。ちょっと返したりしたから実際にはええといくらだったかな――」
 聞いちゃいなかった。
「ギャンブル?」
「えっ」
 ずずい、とリオは父親の髭面に顔を寄せて、
「ギャンブルで負けて借金作ったんでしょ。――ドッジシティではタフな男は借金のやりくりだけで生きてるってスミスさんが言ってた」
 スミスとは、ここを訪れる行商人のことである。
「あ、あいつの話は話半分に……」
「そうよね、パパの若い頃だもんね、それぐらいのことはあったはずだわ」
「……リオ?」
 リオは両手を組んで夢を見ているか、さもなくばテンプルに右フックを喰らったに違いなかった。その場でくるくる回りながら、
「絶対に負けられない勝負だったのね? そう、その町に巣食う賞金首と名誉を賭けた大勝負。レイズにレイズを重ねて緑のラシャには千ドルチップが山になって積みあがり、二人のアウトローがその山越しに睨み合う。ひとりは保安官を殺して成り代わったジェシーなんとか。もうひとりはもちろん若かった頃のパパで、椅子のうしろで心配そうに見ているのは若かった頃のママとアンドリューおじさん。パパの手はよかったんだけど、どうしてもお金が足りなかった。そこでママが言ったの『私を担保にして、アラン!』でもそれを遮るアンドリューさん『やめてくれよシャル、おまえにそんなことさせるわけにはいかない、代わりに犠牲になるのは俺の全財産で充分だ』ああもうやばいそこでねパパは瞳に涙を浮かべながら『アンドリュー、この借りは千倍にして返すぜ』そうしてパパは手札を開けたのパパの手はストレートフラッシュでも相手のなんとかはフッと笑って卓にカードをぶちまける! ――ロイヤルストレートフラッシュ」
 アランは唖然としている。
「そうして負けてしまったパパはその後いろいろあって銃撃戦になってママを連れて馬に飛び乗って逃げ出した。あ、大丈夫、その後ちょっと二、三の敵をやっつけてる間にまたジェシーとは出会う機会があってその時にパパはちゃんとやつをやっつけて豚箱行きにしたから。でもアンドリューさんへの借金だけは残ってしまったのね? そうなのね?」
「リオ……?」
「みなまで言わないで!」
 ずびしっとリオは手のひらを突き出した。
「パパの気持ちはわかるわ……借りたお金の清算はたとえ時効でもきっちり済まさないと気が済まないのね、わかる、わかるわ」
「……あのなリオ、そういうんじゃなくてちょっとまじめな話が」
「賞金稼ぎに戻るんでしょ?」
 アランは黙った。そして、石像のような顔を縦に振った。
「そうだ……」
「旅に出るの?」
「旅じゃない、借金返済のために、少しだけ働くだけだ」
「西部中を駆け巡って?」
「必要ならな」
「悪党を懲らしめて?」
「賞金がかかってるからな」
「困ってる人の役に立てる?」
「結果的にはそうなるかもしれないな」
 アランはちらっと娘の顔を見やった。
 リオは、すうっと息を吸って。
「いきたい」


「あたしも、旅に出たい」





 アンドリューは正しい、とアランは思う。
 いつだって自分を守るのは、自分だ。ほかにない。その力を与えずに子供を育てたところで、自分がいなくなった後、子供に待っているのは嘘のような現実ばかりだ。慣らしていく必要がある。生きていけるようにしてやる必要がある。
 そのために、大陸中を駆けずり回るのはこれ以上はないリオにとっての教材になるだろう。自分がいなくなっても生きていける強さと悲しさを与えられるだろう。
 だが、それでも、アランはリオにそんなものを身に着けて欲しくなかった。天使を地べたに引きずりおろして何になるのか。
 こんなに可憐な女の子にだ、ズボンを穿かせ帽子を被せ、くびれた腰にガンベルトを巻かせて鍬を捨てさせ冷たい拳銃を握らせる。それのいったいどこに正しさがあるのか。詭弁を弄しているのはアンドリューの方ではないのか。そう思う。
 そう思いたい。
「……すぐに旅支度をしなさい。無駄なものは一切、持ってはいけないよ」
 けれども結局口から出てきたのは、本心とは真逆のセリフ。
 ただ、ひとつだけ救いがあるとするなら。
「パパ」
「うん?」
「大好きっ!」
 ぎゅっと首根っこにしがみつかれた。アランはぽんぽんとリオの頭を叩いてやりながら、思う。
 この子は外の世界を見たがっている。
 そしてその夢はまもなく叶う。
 救いがあるなら、それだけだ。


 ○



「おじさーん! いってきまーす! 留守番よろしくねー!」
 旅荷物を鞍に満載した馬に乗って、リオが我が家を振り返った。隻腕のアンドリューは左手を振って、何か言ったようだが、もうここまでは聞こえない。
「わくわくするなあ! パパが昔、走った西部をあたしもいくんだ!」
「あまりはしゃぐな、初日から疲れてしまうぞ」
「わかってないなーパパは。あたしはもう子供じゃありません」
「法律的にも十五は子供だ」
「もー、そんなこといってると結婚するよ?」
 その一発でアランの心臓が危うく炸裂しかけた。馬を走らせながら、鬼の形相で振り返る。リオはへらへら笑っている。
「大丈夫、大丈夫。まだリオはパパのリオだよ?」
 大丈夫とは思えない。アランはひっそりと誓った。旅の途中でリオにまとわりつく悪い虫はどいつもこいつも獲物と同じ扱いをしてやる。
「最初はどこにいくの?」
 アランの愛馬『デザートイーグル』の鼻先に、リオが自分の愛馬『ベレッタ』を寄せて尋ねた。
「最初はニュー・イン」
「ニュー・イン? 確か大きな町だよね、鉄道も通ってるとかいう……あ、わかった。そこで情報を集めるんでしょ?」
「アタリだ」アランは苦笑いした。愛娘の察しはなかなか悪くない。
「各方面の大都市と交通が繋がっている。クチというやつだな」
「クチ?」
「情報や物流の集まる拠点のことだ。もっとも――」
 そこでアランは口を噤んだ。思わず、『こちらも狙われる危険が高くなるから注意せねばならんが』と言いかけたのだ。まだリオには、こちらが賞金首たちにとってのターゲットであるとは教えていない。いずれ言う、だが今はいい。
 追求されるかな、とアランは思ったが、リオは黙っていた。が、やがて、
「あっ!」
「どうした?」
 リオは泣きそうな顔になっている。
「キッド……」
「キッド?」
「キッドを置いてきちゃった……」
 しゅん、と馬の上で小さくなる。キッドとは『はぐれ者のキッド』のことだろう。アランが夜寝る前に必ずリオに読んでやる絵本だ。本当に毎日読まされるので、もう内容は覚えてしまっている。
 アランはふっと笑った。
「安心しなさい。そんなこともあろうかと、パパが昨夜のうちにもう荷物の中に入れておいた」
「ぱ……パパ……」
「なんだい」
「やっぱり大好きだよぉ――――っ!!」
 馬の上から上半身だけで抱きついてきた娘に、アランは悲鳴をあげた。
「やめなさい、落ちたらどうする気だ、こら、あっ」
 その顔は、どうしようもなく緩んでいる。娘に抱きつかれて喜ばない父親などいない。けれどもその目の端でアランはしっかりと空を見ていた。雲が流れている。細くたなびくその白い雲の動きが、なぜだかアランの鼓動を不気味に惑わせた。
 雨が降るのかもしれない。



       

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Neetsha