野上さんは毎日のようにキッチンの前に立ち、自分しか食べる人のいない料理を丹念に作る、とてもマメな女性です。
野上さんは毎日のようにキッチンの前に立っているせいか、今ではレストランを始められるくらいに料理が上手になっていました。けれども、そうした現実的なことを考えるには少し疲れすぎている野上さんは、具材を切っている時によく現実逃避をしていたのでした。それでも指は切りません。
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ここはキッチン谷です。キッチン谷は花咲きほこり、鳥はさえずり、夜には星がきれいに光って見える、まさに理想の場所でした。
ノガミさんはキッチン谷の底の底のさらに底に住みついている流浪の民でした。ノガミさんはまるでヤドカリのように住み家を変えてきましたが、この家にはもう何年も続けて住んでいます。
ノガミさんがおいしい料理を作っていると、どこからともなくツバメたちがやってきて口々に言いました。ノガミさん! きょうはなにを作っているの? ツバメたちは谷底から漂ってきたおいしそうな匂いにつられて飛んできたのでした。
「きょうはねぇ、ビーフストロガノフを作ったのよ」
うわァ! おいしそう! おいしそう! ツバメたちはおなかが空いて仕方がなかったのです。それを見たノガミさんは、こんなときのために用意していたたくさんの器にビーフストロガノフをすこしずつ盛って、一羽一羽に食べさせました。おいしい! おいしい! ツバメたちはみな鳴いて喜びました。
おなかいっぱいになったツバメたちは、お礼をしようと、バラバラに飛びたってワラを探しにいきました。みんなであつめたワラがノガミさんの家の屋根に編み込まれ、さらにじょうぶないい屋根になりました。
ノガミさんはこうして、みんなに分けへだてなく料理をふるまっているのです。そして料理を食べたみんなからのお礼で、家はどんどん住みやすくなっていったのでした。ノガミさんはずっとここにいてもいいと思っています。みんなに喜ばれることで自分もしあわせになれる、それで満足しているのでした。
きょうもまた、キッチン谷の底の底さらに底では、みんなのよろこぶ声がひびいています。
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野上さんの現実逃避はいつも、具材を切り終えたときに終わります。続きを思い浮かべることはあまりありません。その時の思いつきで、野上さんはなんとなく自分の気持の良くなる話を創作します。
野上さんは毎日のようにキッチンの前に立ち、自分しか食べる人のいない料理を丹念に作る、とてもマメな女性です。
誰か特定の人と幸せになる、そんな現実逃避が、野上さんにはまったく思いつかないのでした。