終着駅のラジオ
wonderful world
梅雨時に二日もまともな天気の日が続けば大したものだ。そうは分かっていても、やはり雨が降っているのを見ると気分が七ミリくらいは沈む。
右手に持った赤い傘は持っていることを忘れるくらい軽い。小学校の頃差していたものとは大違いだ。靴だって、軽くて防水性の高いものが増えてきている。しかし、春子にはそんな些細な時代の変化は特に意味を持たない。灰の空が延々と続く下に、ポツンと配置された岩礁のようなバス停。早く屋根の下に入りたいが、走るとバス停を囲む水溜まりの水がはねるので走れない。時の移ろいよりは突きつけられた現実の方が重要な案件だ。
ひとまず雨から身を守る手段を得て、春子はベンチに腰掛ける。今日はいつも一緒に登校する功二が日直に当たり、礼戸一丁目から乗車する知り合いが他にいないせいで一人きりだ。バスが来るまでの七分間、春子は昨晩のテレビドラマについての上級生の会話を横聞きして潰した。どの俳優がかっこいいとか、この役にあの女優を持ってくるのはおかしいとか、あんな展開になるとは思わなかったとか、中高生なら誰でもするような他愛のない話ばかりだが、そのドラマに興味が持てず、一度も見ていない春子にとって、同級生と話を合わせるのにはそこそこ有益な情報である。バスに乗った後もその会話は続く。
たまに、なぜそんなことをしなければいけないのか、と自問することはある。しかし、周囲が「普通」と考える女の子を演じることがクラス内の春子の役割であり、それを考慮しない行動は人前では許されないと言わんばかりの無言の圧力が存在する。また、その演技は自分の内面を繋ぎ止めてくれている部分もある。同級生や教師が「普通」だと思ってくれていれば春子も自分が「普通」で「まとも」な人間だと思い込むことが出来る。だから、どんなにうんざりしても、「普通」でいる努力はしないといけない。
夏服期間に長袖を着るのはおかしい。だから、手首の傷を隠したければブレスレットやリストバンドをする。手は隠せる限り隠す。
過ぎたことでいつまでも悩むのはダメ。だから、心の傷を隠したければ明るく振る舞う。笑顔は出来る限り自然に作る。
女子生徒の世界のしがらみとは無縁の、自分らしいと思える笑顔を見せられるのは、お互いの手の内をよく知っていて心を許せる圭一と功二と、逆に春子の抱えるものや世間を知らな過ぎる有のみ。
こうして私は、世渡りばっかり上手くなってくんだ。
そう毒づいてもなにも変わらないということ自体は受け止められるが、不安や変革意識を持つにはあまりにも印象が漠然とし過ぎていて自分の無力さを感じるだけだ。
外を歩く生徒達のなかに有の姿を見つけ、追いつき、追い抜く。向こうがこちらに気付く気配はない。
冷たい海流を泳ぐ魚のように憂鬱な塊となってバスは進む。春子は降りる準備を整えてブザーを鳴らす。
「先輩、おはようございまーす」
靴のつま先や濡れたアスファルトを見つめていた顔を上げ、振り向いた有の視界に春子が入る。
「あ、春子。おはよ」
「先輩、これ昨日忘れてましたよ」
春子が手渡す大きなビニール袋を受け取りながら有はバツの悪そうな顔をした。
「ありがと……。ごめんね、重かったでしょう」
「そんなことないですよー」
「ほんと?」
「はい」
ニッコリ笑う春子の顔を見て安心する。
「そう、よかった。なんだか、かっこ悪いね、私……」
目を細めた有の表情を見て、春子はキた、と思った。
普段有は大人っぽさや暗さ、近寄り難い雰囲気に包まれているが、時折隙を見せる。茶目っ気のある笑顔、照れた時の紅潮した頬。有の二面性を見ると、案外いつもの憂いを湛えた面は周囲のイメージによって形成されてしまっていると感じることがある。事実、有は孤独によって性格を変えられ、さらに孤独になるという悪循環に陥っていた時期もあったとほのめかした。心を許してくれれば、もっともっと素敵な面を見せてくれるはず。春子は期待した。
「新利さーん、おはよー」
背後から明るい声が聞こえる。少し駆け足になって追いついてきた声の主を、有は興味津々で見つめた。
「あ、インチョ」
「隣の人は誰? 友達?」
「うん。蟻村先輩っていうの」
リアクションに困りながらも有は会釈をした。
「先輩、この子がうちのクラス委員の円井さん」
「初めまして、円井珠希です。みんなにはインチョって呼ばれてます」
紹介された珠希は礼儀正しい風にお辞儀をした。
「先輩は写真部なんですか」
「ううん、帰宅部」
有の回答にうなずいて、珠希は言った。
「部活入った方が幸せですよー。友達だってたくさんできるし、楽しいし」
「しあ、わせ」
「インチョはやたらみんなの幸せを気にするんです」
春子が説明をすると、仕事だからね、と珠希が笑う。
「でもそうだね。蟻村先輩も写真部入りませんか」
両手の親指と人差し指で長方形を作って、春子はカメラのシャッターを押すような仕草をした。
「そうそう、新利さんもそう言ってくれてるんだし、入ったらきっといいことありますよ」
珠希が春子の意見に賛同する。
「でも、私、写真のことはさっぱり……」
「心配しなくても大丈夫。私が先輩に分かりやすく教えてあげます」
春子が威張るように胸を突き出す。全く威厳が無いのがおかしい。
「それに写真部は月一の定例会と、たまに講習がある以外は個人活動だから楽なんですよ」
「うちの写真部はレベルが高いから入ったら箔がつきますよ」
二人とも熱心に誘ってくる。考えてみると、確かに悪い話ではない。知り合いも増えるだろうし、写真が上手く撮れるようになったらきっと楽しいだろう。
春子や圭一や功二の顔を想像する。写真に収めれば彼らとの思い出が長く残せる。しかし、一方でカメラを使って人の姿を収めるという行為は、どこか傍観者的なスタンスとも取れる。レンズを向けて一瞬でも他者を冷静に見てしまう自分を自分自身がどう思うのかが気になる。
「少し、考えさせて」
右手に持った赤い傘は持っていることを忘れるくらい軽い。小学校の頃差していたものとは大違いだ。靴だって、軽くて防水性の高いものが増えてきている。しかし、春子にはそんな些細な時代の変化は特に意味を持たない。灰の空が延々と続く下に、ポツンと配置された岩礁のようなバス停。早く屋根の下に入りたいが、走るとバス停を囲む水溜まりの水がはねるので走れない。時の移ろいよりは突きつけられた現実の方が重要な案件だ。
ひとまず雨から身を守る手段を得て、春子はベンチに腰掛ける。今日はいつも一緒に登校する功二が日直に当たり、礼戸一丁目から乗車する知り合いが他にいないせいで一人きりだ。バスが来るまでの七分間、春子は昨晩のテレビドラマについての上級生の会話を横聞きして潰した。どの俳優がかっこいいとか、この役にあの女優を持ってくるのはおかしいとか、あんな展開になるとは思わなかったとか、中高生なら誰でもするような他愛のない話ばかりだが、そのドラマに興味が持てず、一度も見ていない春子にとって、同級生と話を合わせるのにはそこそこ有益な情報である。バスに乗った後もその会話は続く。
たまに、なぜそんなことをしなければいけないのか、と自問することはある。しかし、周囲が「普通」と考える女の子を演じることがクラス内の春子の役割であり、それを考慮しない行動は人前では許されないと言わんばかりの無言の圧力が存在する。また、その演技は自分の内面を繋ぎ止めてくれている部分もある。同級生や教師が「普通」だと思ってくれていれば春子も自分が「普通」で「まとも」な人間だと思い込むことが出来る。だから、どんなにうんざりしても、「普通」でいる努力はしないといけない。
夏服期間に長袖を着るのはおかしい。だから、手首の傷を隠したければブレスレットやリストバンドをする。手は隠せる限り隠す。
過ぎたことでいつまでも悩むのはダメ。だから、心の傷を隠したければ明るく振る舞う。笑顔は出来る限り自然に作る。
女子生徒の世界のしがらみとは無縁の、自分らしいと思える笑顔を見せられるのは、お互いの手の内をよく知っていて心を許せる圭一と功二と、逆に春子の抱えるものや世間を知らな過ぎる有のみ。
こうして私は、世渡りばっかり上手くなってくんだ。
そう毒づいてもなにも変わらないということ自体は受け止められるが、不安や変革意識を持つにはあまりにも印象が漠然とし過ぎていて自分の無力さを感じるだけだ。
外を歩く生徒達のなかに有の姿を見つけ、追いつき、追い抜く。向こうがこちらに気付く気配はない。
冷たい海流を泳ぐ魚のように憂鬱な塊となってバスは進む。春子は降りる準備を整えてブザーを鳴らす。
「先輩、おはようございまーす」
靴のつま先や濡れたアスファルトを見つめていた顔を上げ、振り向いた有の視界に春子が入る。
「あ、春子。おはよ」
「先輩、これ昨日忘れてましたよ」
春子が手渡す大きなビニール袋を受け取りながら有はバツの悪そうな顔をした。
「ありがと……。ごめんね、重かったでしょう」
「そんなことないですよー」
「ほんと?」
「はい」
ニッコリ笑う春子の顔を見て安心する。
「そう、よかった。なんだか、かっこ悪いね、私……」
目を細めた有の表情を見て、春子はキた、と思った。
普段有は大人っぽさや暗さ、近寄り難い雰囲気に包まれているが、時折隙を見せる。茶目っ気のある笑顔、照れた時の紅潮した頬。有の二面性を見ると、案外いつもの憂いを湛えた面は周囲のイメージによって形成されてしまっていると感じることがある。事実、有は孤独によって性格を変えられ、さらに孤独になるという悪循環に陥っていた時期もあったとほのめかした。心を許してくれれば、もっともっと素敵な面を見せてくれるはず。春子は期待した。
「新利さーん、おはよー」
背後から明るい声が聞こえる。少し駆け足になって追いついてきた声の主を、有は興味津々で見つめた。
「あ、インチョ」
「隣の人は誰? 友達?」
「うん。蟻村先輩っていうの」
リアクションに困りながらも有は会釈をした。
「先輩、この子がうちのクラス委員の円井さん」
「初めまして、円井珠希です。みんなにはインチョって呼ばれてます」
紹介された珠希は礼儀正しい風にお辞儀をした。
「先輩は写真部なんですか」
「ううん、帰宅部」
有の回答にうなずいて、珠希は言った。
「部活入った方が幸せですよー。友達だってたくさんできるし、楽しいし」
「しあ、わせ」
「インチョはやたらみんなの幸せを気にするんです」
春子が説明をすると、仕事だからね、と珠希が笑う。
「でもそうだね。蟻村先輩も写真部入りませんか」
両手の親指と人差し指で長方形を作って、春子はカメラのシャッターを押すような仕草をした。
「そうそう、新利さんもそう言ってくれてるんだし、入ったらきっといいことありますよ」
珠希が春子の意見に賛同する。
「でも、私、写真のことはさっぱり……」
「心配しなくても大丈夫。私が先輩に分かりやすく教えてあげます」
春子が威張るように胸を突き出す。全く威厳が無いのがおかしい。
「それに写真部は月一の定例会と、たまに講習がある以外は個人活動だから楽なんですよ」
「うちの写真部はレベルが高いから入ったら箔がつきますよ」
二人とも熱心に誘ってくる。考えてみると、確かに悪い話ではない。知り合いも増えるだろうし、写真が上手く撮れるようになったらきっと楽しいだろう。
春子や圭一や功二の顔を想像する。写真に収めれば彼らとの思い出が長く残せる。しかし、一方でカメラを使って人の姿を収めるという行為は、どこか傍観者的なスタンスとも取れる。レンズを向けて一瞬でも他者を冷静に見てしまう自分を自分自身がどう思うのかが気になる。
「少し、考えさせて」
どうしてすぐに答えてあげられないんだろ。
頬杖をつきながら有は吐息を漏らす。窓際の席からは梅雨に輪郭をぼかされる外界がよく見える。裏山の緑が空の灰色と馴染んでいた。
朝のやりとりの自分が情けなかった。以前写真のモデルになって欲しいと言われたときといい、今回の写真部入部の話といい、ネガティブな考えに惑わされて頼み事をすぐに引き受けられずにいる。モデルなんて自分らしくもないし、私を撮ってもいいことはない。ずぶの素人がいきなり違う世界に飛び込むのは厳しい。そんなことばかり思って、自らの行動を縛り付けてしまう。
しかし、写真部入部が魅力的な話であることも確かだ。春子と親しくなれるだろうし、読書以外の趣味の幅も広がる。興味をそそるものやシャッターチャンスを探していれば感受性も鋭くなるだろう。全国レベルの部にいきなり入る度胸があればの話だが。
「蟻村、授業が退屈か? ボーッとしてんな」
ぼんやりと考え事をしていると、数学教師の糸井がたしなめてきた。
「あ、はい、すみません」
有が謝ると、糸井がフンと鼻を鳴らした。
「まぁいい。お前が安田とか三木とかだったら『次の問題解いてみろ』なんて言って晒しものにしてやったが、お前を当ててもつまらん」
クラスのあちこちから苦笑とも失笑ともとれる笑いが聞こえる。机に突っ伏していた安田が突然起き上がって髪を整え、隣の女子と手紙を交換していた三木も慌てて手紙を隠した。だが、その嘲りが彼らだけでなく、有にも向けられていることは明らかだった。
「お前が何考えてるかは分からんが、ただな、授業を聞かなくても大丈夫とか思ってると将来人付き合いで痛い目に会うからな。ちゃんと人の話は聞くように。じゃあ安田、(2)の答え」
この人には、そんな風に見えるんだ。
教師があからさまに不理解な態度を示してきた経験はそれほどなかったので、少しショックを受ける。急いで板書の遅れを取り戻すが、元々授業中に人と話したり寝たりといったことがないためか、遅れはわずか二行で済み、有はすぐに授業に追いついた。
「やだね、ああいうの」
「ほんと、何様のつもりなんだろ」
四時間目の現文を終えて昼休みに入る。机のフックから鞄を外し、弁当箱を取り出そうとした時に、その声が聞こえた。
女子同士の立ち話。二つ隣の席に座っている生徒を中心に四人が集まっている。
「前からそうかなって思ってたけど、やっぱりね。先生が言うくらいなんだから」
「授業聞かなくても点取れるなんて、不公平だよ。私達はちゃんと努力してるのに、あんなのがいつも上にいるんだよ」
「休み時間になるといつも本読んでるし。優等生ぶりやがって、って感じ。晴れてる日くらい外出ろよ」
私の、こと?
有は思わず背筋を張る。見たくも聞きたくもないが、気になってつい横目で見てしまう。
彼女達は笑っていた。楽しそうで、それでいて悪意に満ちた声で、有をけなす。
「でもさ、優等生ってやっぱり性格も態度も良くなきゃダメじゃない? あんなの優等生じゃないよ」
「仲良くないから性格知らないけど、優しくても真面目でも、あんな根暗丸出しは絶対やだな」
「ねー」
「大丈夫、付き合いを持ったところで、絶対ロクな奴じゃないって」
お弁当、どこで食べようかな。
有は強がってそう囁いてみた。しかし、誰に強がるのだろう、という疑問も浮かぶ。
高校に上がってからは基本的に無視されていて油断していたが、やはり不興を買うのは変わっていないと気付かされた。相変わらず自分は嫌われ、避けられ、叩かれる。その事実が有の胸に突き刺さり、ガラスのように割れていくつもの傷をつける。
「ねー、なに知らんぷりしてんの。あんたのことよ。なんか言ったらどう?」
敵意の漲った顔で指を指してきたのはクラス委員の渕谷部だった。
「ちょっ、凛ちゃんやり過ぎ」
「クラス委員としてどうなのよ、それ」
言葉とは裏腹に、彼女達が更なる展開を期待していることが伝わる。彼女達の見下すような目つきが有にひっつく。いつの間にかヤジ馬も数人現われていてガヤガヤと騒ぎ立てる。
「ご、ごめんなさい」
有はどうすればいいか分からず、頭を下げた。渕谷部は険しい顔を緩めない。
「へー、先生には『すみません』なのに、クラスメートには『ごめんなさい』なんだー。先生より私達の方が恐いのかなー。大人を舐めてるなんて、さすが蟻村さんだね」
「えっ、私、別にそんなつもりじゃ……」
「蟻村先ぱーい、一緒に食べませんかー?」
一同の視線がドアに集まる。春子と功二と珠希の三人が包みを手に提げて立っていた。あ、中川君だ、かっこいい、というミーハーな声が聞こえる。
「……トモダチが待ってるわよ、さっさと行ってあげたら?」
渕谷部がつっけんどんに言い放ちながら、手であっち行けというサインを出す。有は黙って立ち上がり、群れていた生徒達にきびすを返して静かにその場を去った。後ろで渕谷部が嘆く。あー、逃がしちゃった。
「やな雰囲気だったけど、なんかあったの?」
ブロッコリーをハムスターみたいに齧りながら功二が聞いた。しかめっ面をしているのはブロッコリーのせいだけではない。あれほど険悪な感情の飛び交う教室を見るのは初めてだったからだ。
「ううん、なんでもない。私は、大丈夫」
有はボソッと返事をして、作り笑いを浮かべる。
「先輩の幸せのためになにかできることはありませんか?」
珠希は本当に幸せにこだわるようだ。
「なんでも相談してよ、俺達も協力するから」
「一人に大勢で食いつくなんて。あんな卑怯な人達、気にしなくていいんですよ」
功二も春子も優しさの糸に自分達の分の長さを繋げる。その糸が切れることなく有に届くように、慎重に繋げる。母親の手編みのマフラーに近い温もりを持った糸。
「ありがと。でも、大丈夫だから」
固くなっていた有の顔がわずかにほぐれる。
「でも、あんな恐い渕谷部先輩、見たことないですよ。いつもニコニコしてて、お洒落なかっこしてて、すごく優しいのに。人の幸せを大事にするようにって私に言ったのも渕谷部先輩なんですよ」
珠希がいぶかし気に言いながら、手をあごに当てる。渕谷部の長所を全く知らない有は驚いた。
「いつもニコニコしてて、お洒落なかっこしてて、すごく優しい、人の幸せを大事にするようにって言った」人が、あんなことをするなんて。
先程の場面での渕谷部の顔は、そんなイメージと結びつかない。あんな暴言を吐いた口元が、清楚で可愛らしい少女的な笑みを作るのか。薄ら寒いものが背筋を走るのを、有は感知した。
食堂を見回す。大声で歓声をあげながらカードゲームに興じる男子の一群。音楽を聴きながら一人で黙々と食べる女子。ジャージ姿で菓子パンを勢いよく貪る自主トレーニング前のスポーツ少年。隅に置かれているピアノで「月光」の第一楽章を練習する少女と、耳を傾ける友達。同席の功二、春子、珠希。今ここにはいない圭一。
彼らには、彼女らには、今見せていない一面があるのだろうか。
窓に映る自分にまで感じた不安を麦茶で飲み下したつもりになって、有は笑顔を見せた。
壁やガラスを叩く雨音。
頬杖をつきながら有は吐息を漏らす。窓際の席からは梅雨に輪郭をぼかされる外界がよく見える。裏山の緑が空の灰色と馴染んでいた。
朝のやりとりの自分が情けなかった。以前写真のモデルになって欲しいと言われたときといい、今回の写真部入部の話といい、ネガティブな考えに惑わされて頼み事をすぐに引き受けられずにいる。モデルなんて自分らしくもないし、私を撮ってもいいことはない。ずぶの素人がいきなり違う世界に飛び込むのは厳しい。そんなことばかり思って、自らの行動を縛り付けてしまう。
しかし、写真部入部が魅力的な話であることも確かだ。春子と親しくなれるだろうし、読書以外の趣味の幅も広がる。興味をそそるものやシャッターチャンスを探していれば感受性も鋭くなるだろう。全国レベルの部にいきなり入る度胸があればの話だが。
「蟻村、授業が退屈か? ボーッとしてんな」
ぼんやりと考え事をしていると、数学教師の糸井がたしなめてきた。
「あ、はい、すみません」
有が謝ると、糸井がフンと鼻を鳴らした。
「まぁいい。お前が安田とか三木とかだったら『次の問題解いてみろ』なんて言って晒しものにしてやったが、お前を当ててもつまらん」
クラスのあちこちから苦笑とも失笑ともとれる笑いが聞こえる。机に突っ伏していた安田が突然起き上がって髪を整え、隣の女子と手紙を交換していた三木も慌てて手紙を隠した。だが、その嘲りが彼らだけでなく、有にも向けられていることは明らかだった。
「お前が何考えてるかは分からんが、ただな、授業を聞かなくても大丈夫とか思ってると将来人付き合いで痛い目に会うからな。ちゃんと人の話は聞くように。じゃあ安田、(2)の答え」
この人には、そんな風に見えるんだ。
教師があからさまに不理解な態度を示してきた経験はそれほどなかったので、少しショックを受ける。急いで板書の遅れを取り戻すが、元々授業中に人と話したり寝たりといったことがないためか、遅れはわずか二行で済み、有はすぐに授業に追いついた。
「やだね、ああいうの」
「ほんと、何様のつもりなんだろ」
四時間目の現文を終えて昼休みに入る。机のフックから鞄を外し、弁当箱を取り出そうとした時に、その声が聞こえた。
女子同士の立ち話。二つ隣の席に座っている生徒を中心に四人が集まっている。
「前からそうかなって思ってたけど、やっぱりね。先生が言うくらいなんだから」
「授業聞かなくても点取れるなんて、不公平だよ。私達はちゃんと努力してるのに、あんなのがいつも上にいるんだよ」
「休み時間になるといつも本読んでるし。優等生ぶりやがって、って感じ。晴れてる日くらい外出ろよ」
私の、こと?
有は思わず背筋を張る。見たくも聞きたくもないが、気になってつい横目で見てしまう。
彼女達は笑っていた。楽しそうで、それでいて悪意に満ちた声で、有をけなす。
「でもさ、優等生ってやっぱり性格も態度も良くなきゃダメじゃない? あんなの優等生じゃないよ」
「仲良くないから性格知らないけど、優しくても真面目でも、あんな根暗丸出しは絶対やだな」
「ねー」
「大丈夫、付き合いを持ったところで、絶対ロクな奴じゃないって」
お弁当、どこで食べようかな。
有は強がってそう囁いてみた。しかし、誰に強がるのだろう、という疑問も浮かぶ。
高校に上がってからは基本的に無視されていて油断していたが、やはり不興を買うのは変わっていないと気付かされた。相変わらず自分は嫌われ、避けられ、叩かれる。その事実が有の胸に突き刺さり、ガラスのように割れていくつもの傷をつける。
「ねー、なに知らんぷりしてんの。あんたのことよ。なんか言ったらどう?」
敵意の漲った顔で指を指してきたのはクラス委員の渕谷部だった。
「ちょっ、凛ちゃんやり過ぎ」
「クラス委員としてどうなのよ、それ」
言葉とは裏腹に、彼女達が更なる展開を期待していることが伝わる。彼女達の見下すような目つきが有にひっつく。いつの間にかヤジ馬も数人現われていてガヤガヤと騒ぎ立てる。
「ご、ごめんなさい」
有はどうすればいいか分からず、頭を下げた。渕谷部は険しい顔を緩めない。
「へー、先生には『すみません』なのに、クラスメートには『ごめんなさい』なんだー。先生より私達の方が恐いのかなー。大人を舐めてるなんて、さすが蟻村さんだね」
「えっ、私、別にそんなつもりじゃ……」
「蟻村先ぱーい、一緒に食べませんかー?」
一同の視線がドアに集まる。春子と功二と珠希の三人が包みを手に提げて立っていた。あ、中川君だ、かっこいい、というミーハーな声が聞こえる。
「……トモダチが待ってるわよ、さっさと行ってあげたら?」
渕谷部がつっけんどんに言い放ちながら、手であっち行けというサインを出す。有は黙って立ち上がり、群れていた生徒達にきびすを返して静かにその場を去った。後ろで渕谷部が嘆く。あー、逃がしちゃった。
「やな雰囲気だったけど、なんかあったの?」
ブロッコリーをハムスターみたいに齧りながら功二が聞いた。しかめっ面をしているのはブロッコリーのせいだけではない。あれほど険悪な感情の飛び交う教室を見るのは初めてだったからだ。
「ううん、なんでもない。私は、大丈夫」
有はボソッと返事をして、作り笑いを浮かべる。
「先輩の幸せのためになにかできることはありませんか?」
珠希は本当に幸せにこだわるようだ。
「なんでも相談してよ、俺達も協力するから」
「一人に大勢で食いつくなんて。あんな卑怯な人達、気にしなくていいんですよ」
功二も春子も優しさの糸に自分達の分の長さを繋げる。その糸が切れることなく有に届くように、慎重に繋げる。母親の手編みのマフラーに近い温もりを持った糸。
「ありがと。でも、大丈夫だから」
固くなっていた有の顔がわずかにほぐれる。
「でも、あんな恐い渕谷部先輩、見たことないですよ。いつもニコニコしてて、お洒落なかっこしてて、すごく優しいのに。人の幸せを大事にするようにって私に言ったのも渕谷部先輩なんですよ」
珠希がいぶかし気に言いながら、手をあごに当てる。渕谷部の長所を全く知らない有は驚いた。
「いつもニコニコしてて、お洒落なかっこしてて、すごく優しい、人の幸せを大事にするようにって言った」人が、あんなことをするなんて。
先程の場面での渕谷部の顔は、そんなイメージと結びつかない。あんな暴言を吐いた口元が、清楚で可愛らしい少女的な笑みを作るのか。薄ら寒いものが背筋を走るのを、有は感知した。
食堂を見回す。大声で歓声をあげながらカードゲームに興じる男子の一群。音楽を聴きながら一人で黙々と食べる女子。ジャージ姿で菓子パンを勢いよく貪る自主トレーニング前のスポーツ少年。隅に置かれているピアノで「月光」の第一楽章を練習する少女と、耳を傾ける友達。同席の功二、春子、珠希。今ここにはいない圭一。
彼らには、彼女らには、今見せていない一面があるのだろうか。
窓に映る自分にまで感じた不安を麦茶で飲み下したつもりになって、有は笑顔を見せた。
壁やガラスを叩く雨音。
ドアをそっと開け、音を立てないよう忍び足で踏み入ってみたが、特に何かが起きそうな様子もなかったので、有は力を抜いてごく普通に歩き、席に着いて机にノートと教科書を置き、その上に強張っていた上半身を伏せた。顔が窓の方に向くように首をひねると、鈍色の天が視野の端から中心へと滑る。
有のクラスに物理を教えている中島は遅刻の常習犯だから、いつも休み時間が終わってから教師が壇上に立つまでに五分ばかりの空き時間ができる。他の生徒と違って会話の相手がいない有には、その五分は文字通りの空白だ。頭の中を空っぽにして、何も考えずに窓の外や周囲の様子を漫然と見るのである。
不思議な音が教科書で塞がった右耳から伝わる。水中にいるときの、ゴゴゴゴと低い音を出して水が動く音。その通奏低音と空の灰色は相性がよく、有の中に黒みがかった憂鬱の固まりができては沈んでゆく。時流の一秒一秒がスローモーションになるかのようなアンニュイさが有は好きだった。
「ヒマそうね、蟻村さん」
渕谷部の声に有は素早く身を起こした。張りつめたものを背骨に沿って感じる。
「そんなに警戒することないでしょう。さっきは虫の居所が悪かっただけだし、蟻村さんとは一回、話してみたいって思ってたんだ」
先程とは打って変わって、渕谷部はにこやかで、話し方も平静だった。珠希が話していた普段の渕谷部はこうなのだろう。しかし、昼休みのいざこざのせいで、有にはそんな渕谷部がむしろ不気味に思えた。
「受験勉強してる?」
「あ、はい、少しは」
受験という当たり障りのない話題を振られて、有はそう答えた。
「そっかー。いいなー、私は毎日家にいる間ずっとやってるけど、いい加減飽きてくるんだよね。帰宅部だし、結構頑張ってるつもりなのに学年一位とか全然取れないし。所詮二位三位レベルなんだよねー、蟻村さんと違って」
口ぶりと違って、言葉選びがいやみたらしかった。渕谷部はそのまま続けた。
「あなた、勉強で苦労したことないでしょう。いつも一位取れてるし、模試の成績もいいみたいだし。私と何が違うんだろうね」
「取りたくて、取ってる訳じゃ……」
思わず口走ると、舌を鳴らして渕谷部は有を睨んだ。
「『取りたくて取ってる訳じゃ』じゃないわよ。そういう態度ってすごくムカつく。あなたがどう思ってるかじゃなくて、結果が問題なの。努力しないでどうしてそんな成績がとれるかが問題なの。『少しは』って何よ。一位取れるのが当たり前だからって調子に乗ってたりする訳?」
昼休みの静かな剣幕に戻ってゆくのが分かった。渕谷部は相当有を嫌っているらしかった。
「そんなに、私が嫌いなんですか」
目にかかる鬱陶しい前髪を除けようともせず、有は揺らいだ声で問いかけた。渕谷部の答えは率直だった。
「嫌い。初めてのテストからずっと目障りだった。同じクラスになった時は舌打ちした。自己紹介でシドロモドロになってるのとか、もう大爆笑。あ、もちろん心の中でよ、私あなたと違って普通だから空気くらい読むよ」
自己紹介に言及された途端、痛いところを突かれた感覚に襲われる。抑えていた涙がゆっくりと目から溢れ出、喉の震えが酷くなった。それでも抗おうとしている自分に、有は情けなさを覚えた。
「勉強だけじゃなくてね、その幸薄そうな感じがもうダメ。作ってるのかなんなのか知らないけどさ]
「……もう、放っておいて下さい」
有は聞こえないくらい小さく言った。強く出ないから舐められるのかな、と思ったことはこれまで何度もあったが、それでも調子が弱々しくなってしまう。
「そろそろ先生来るから終わりにするけどさ。新利とナカコーと仲良くしてるってことは清水君とも知り合いだろうし、さっき珠希もいたから言わせてもらうけど」
そう言いながら渕谷部は机に手をついて立ち上がった。有は見上げる気も起きず、気がつかないかのように机を見ながら啜り上げた。渕谷部は冷徹に言って、自分の席に戻った。
「あなたの周りに集まってる子達、みんな不幸なろくでなしばっかりだよ。見るのも嫌なくらい」
あなたの周りに集まってる子達、みんな不幸なろくでなしばっかりだよ。見るのも嫌なくらい。
その台詞を反芻していると、授業の身の入らなさは二限目の数学の比ではなかった。
確かに春子はリストカットをして写真に撮った疑いがあったから裏があっても不思議ではないが、圭一も功二も至って真っ当な少年に思えるし、彼らの笑顔には曇りも翳りもない。珠希もごく普通の少女で人当たりもよい。春子も含めて、「不幸なろくでなし」に思える人間はいない。にも関わらず、渕谷部はああ言った。
呼吸する時の肩の上下が心地悪くて、有は周囲の注意を引きつけない程度に深い溜め息をつき、三秒息を止めた。そして、窓の外に目を向けた。
雨で曖昧に流れた裏山の木々が見える。その薄暗い絵画に有はなぜだか安心した。
例えみんなが不幸でも、世界はこんなに綺麗だよ。
有のクラスに物理を教えている中島は遅刻の常習犯だから、いつも休み時間が終わってから教師が壇上に立つまでに五分ばかりの空き時間ができる。他の生徒と違って会話の相手がいない有には、その五分は文字通りの空白だ。頭の中を空っぽにして、何も考えずに窓の外や周囲の様子を漫然と見るのである。
不思議な音が教科書で塞がった右耳から伝わる。水中にいるときの、ゴゴゴゴと低い音を出して水が動く音。その通奏低音と空の灰色は相性がよく、有の中に黒みがかった憂鬱の固まりができては沈んでゆく。時流の一秒一秒がスローモーションになるかのようなアンニュイさが有は好きだった。
「ヒマそうね、蟻村さん」
渕谷部の声に有は素早く身を起こした。張りつめたものを背骨に沿って感じる。
「そんなに警戒することないでしょう。さっきは虫の居所が悪かっただけだし、蟻村さんとは一回、話してみたいって思ってたんだ」
先程とは打って変わって、渕谷部はにこやかで、話し方も平静だった。珠希が話していた普段の渕谷部はこうなのだろう。しかし、昼休みのいざこざのせいで、有にはそんな渕谷部がむしろ不気味に思えた。
「受験勉強してる?」
「あ、はい、少しは」
受験という当たり障りのない話題を振られて、有はそう答えた。
「そっかー。いいなー、私は毎日家にいる間ずっとやってるけど、いい加減飽きてくるんだよね。帰宅部だし、結構頑張ってるつもりなのに学年一位とか全然取れないし。所詮二位三位レベルなんだよねー、蟻村さんと違って」
口ぶりと違って、言葉選びがいやみたらしかった。渕谷部はそのまま続けた。
「あなた、勉強で苦労したことないでしょう。いつも一位取れてるし、模試の成績もいいみたいだし。私と何が違うんだろうね」
「取りたくて、取ってる訳じゃ……」
思わず口走ると、舌を鳴らして渕谷部は有を睨んだ。
「『取りたくて取ってる訳じゃ』じゃないわよ。そういう態度ってすごくムカつく。あなたがどう思ってるかじゃなくて、結果が問題なの。努力しないでどうしてそんな成績がとれるかが問題なの。『少しは』って何よ。一位取れるのが当たり前だからって調子に乗ってたりする訳?」
昼休みの静かな剣幕に戻ってゆくのが分かった。渕谷部は相当有を嫌っているらしかった。
「そんなに、私が嫌いなんですか」
目にかかる鬱陶しい前髪を除けようともせず、有は揺らいだ声で問いかけた。渕谷部の答えは率直だった。
「嫌い。初めてのテストからずっと目障りだった。同じクラスになった時は舌打ちした。自己紹介でシドロモドロになってるのとか、もう大爆笑。あ、もちろん心の中でよ、私あなたと違って普通だから空気くらい読むよ」
自己紹介に言及された途端、痛いところを突かれた感覚に襲われる。抑えていた涙がゆっくりと目から溢れ出、喉の震えが酷くなった。それでも抗おうとしている自分に、有は情けなさを覚えた。
「勉強だけじゃなくてね、その幸薄そうな感じがもうダメ。作ってるのかなんなのか知らないけどさ]
「……もう、放っておいて下さい」
有は聞こえないくらい小さく言った。強く出ないから舐められるのかな、と思ったことはこれまで何度もあったが、それでも調子が弱々しくなってしまう。
「そろそろ先生来るから終わりにするけどさ。新利とナカコーと仲良くしてるってことは清水君とも知り合いだろうし、さっき珠希もいたから言わせてもらうけど」
そう言いながら渕谷部は机に手をついて立ち上がった。有は見上げる気も起きず、気がつかないかのように机を見ながら啜り上げた。渕谷部は冷徹に言って、自分の席に戻った。
「あなたの周りに集まってる子達、みんな不幸なろくでなしばっかりだよ。見るのも嫌なくらい」
あなたの周りに集まってる子達、みんな不幸なろくでなしばっかりだよ。見るのも嫌なくらい。
その台詞を反芻していると、授業の身の入らなさは二限目の数学の比ではなかった。
確かに春子はリストカットをして写真に撮った疑いがあったから裏があっても不思議ではないが、圭一も功二も至って真っ当な少年に思えるし、彼らの笑顔には曇りも翳りもない。珠希もごく普通の少女で人当たりもよい。春子も含めて、「不幸なろくでなし」に思える人間はいない。にも関わらず、渕谷部はああ言った。
呼吸する時の肩の上下が心地悪くて、有は周囲の注意を引きつけない程度に深い溜め息をつき、三秒息を止めた。そして、窓の外に目を向けた。
雨で曖昧に流れた裏山の木々が見える。その薄暗い絵画に有はなぜだか安心した。
例えみんなが不幸でも、世界はこんなに綺麗だよ。
「先輩、お暇でしたらデートしませんか」
ホームルームの終わりが告げられた後、机を下げて鞄を右手に取り、教室を出た有に、春子は元気よく話しかけた。
「デ、ート?」
「はい、デート。ラジカセを買いに行くんです。ナカコーは日直の仕事があるから遅れるし、圭一は面倒くさがり屋だから雨の日は多分遊びません。だから二人だけで行きませんか?」
春子はにこやかだったが、その裏にどこか気を使っている部分が感じ取れた。昼休みの騒動の影響だろうか、それとも考え過ぎだろうか。なにはともあれ、笑顔の春子の申し出は断りようがないし、事実有は暇だったので二つ返事で誘いを受けた。
「よーし、じゃあ行きましょうか」
そう言うと、春子は有の手を掴んで引っ張りながら歩いた。
神村高校前からバスに乗って、有の家とは反対の方面に向かって五つ目のバス停で二人は降りた。「章家商店街前」という名前が示す通り、すぐ近くの十字路がアーケードになっていて商店が建ち並ぶ。その中を歩きながら、春子は有に尋ねた。
「そう言えば先輩、朝歩いてましたよね。バス乗らないんですか」
「うん。ずっと歩いて通学してるけど」
春子の質問に有はそう答えた。春子は少し考えて、こう続けた。
「やっぱり、四季の移ろいを楽しむとか、そういう感じなんですか」
「別に、そんな高尚なこと考えてないよ。ただ、その……。なんていうかな、他の人が話してるのとか、聞こえにくいでしょう。そこが安心」
小柄な春子が、女子としては長身の部類に入る有を見上げる。その真っ直ぐすぎる目に一瞬自分の視線が合ってしまい、有は慌てて目を逸らす。少し頬が赤くなる。
「先輩もそう思うんですか。私も人の話が聞こえていやだなって思うことがあるんですけど、歩くのが面倒くさくて」
少し間を置いて、春子は目を細めた。
「でも、先輩と一緒なら、歩いてもいいな」
少し甘えた懐っこい調子で春子は言った。媚びや計算のない、ナチュラルな子供っぽさがそこにあって、有はドキッとさせられた。
「明日から、朝先輩の家に迎えに行っていいですか」
「えっと、私はいいけど……。春子、大変じゃない?」
春子はかぶりを振った。
「ぜーんぜん平気ですよ。むしろ、歩かない方が写真部として微妙かも」
二人は「安江無線」という電器屋の前で立ち止まった。ショーウィンドウにはいかにも高級そうなスピーカーが居座って、商店街の庶民的な安っぽさには不似合いな威風を見せていた。
「ほんとはこういうのも欲しいけど、今はいらない」
そう呟いて春子が店に入り、有もその後について行った。
「安江無線」には電子レンジやミシン、アイロン等の家電製品風のものはあまりなかった。ビデオテープやCD、MD、蛍光灯や電球、そしてAV器具がメインのようだ。名前のわりには、無線機も置いていないようだった。
春子がラジカセを見比べている間、有は所狭しと並べられた商品をあてもなく眺めた。やがてカウンターに目が行ったが、カウンターに座っている店主らしき老人は客に構う素振りも見せずに新聞を広げていて、特に興味深いものではない。独り言を言いながら真剣にラジカセを選ぶ春子を見やるのとほぼ同時に、春子は全体的に青系の寒色を使った箱を手に取って、カウンターに持っていった。
「これ下さい」
「一万二千円」
老人は新聞から顔を上げずに、「宣告した」と形容出来る風に無愛想に返事した。ゆったりした動きで春子は代金を財布から取り出し、品物を受け取って二人は外に出た。
「これで終わりじゃないんですよ」
春子は再び有の手を取って、二軒隣のラーメン屋の前に立ち、ガタガタと音を立てて鈍く開く自動ドアの間を抜けた。
「いらっしゃーい、って春ちゃんじゃないか」
厨房に立っている頑固そうな男性がそう発するや否や、食欲をそそる匂いと湯気、古くて調子外れのラジオの割れた音声が有の五感を刺激する。客はいなかった。
「おじさん久しぶりー」
春子が男性に手を振る。察するに、春子はちょっとした常連客であるらしかった。
「その子は誰だい? えらいべっぴんさんだねぇ」
「友達です」
「は、初めまして」
気後れを感じながら有は会釈をした。男性は豪快に笑った。
「で、なんの用だい? まさか立ち話をするためだけに来た訳じゃねぇだろ」
「ラジオを下さい。これ、代わりと言ってはなんですが」
そう言って、春子はさっき買ったラジカセの入ったビニール袋を差し出す。男性はそれを受け取り、箱を取り出して説明書きを三度読み返した。時々、ほう、と頷いていた。
「そうだな、じゃあ勝手に持ってけドロボー」
「やったー」
春子は小さくガッツポーズを作り、カウンターのピンク電話に背を向けていたえらく旧式なラジカセのプラグを引っこ抜いた。唐突に放送が途切れる。コードを巻き終わると春子はそれをビニール袋にしまった。
「失礼しましたー」
「あーい」
男性に挨拶をしながら二人は店を後にした。店内の熱気が体から抜けて少し涼しい。
「前からこれが欲しかったんですよ、これ。音が悪いし、古くさいし、なんか懐かしい。あの駅の隅っこに置いたらいい感じですよ、きっと」
不思議なことを言う子だな。
そう思って有が顔を向けると、春子は満面の笑みを浮かべていた。
バス停までの短い距離を歩く間、真っ赤な傘の似合う少女を、有は気付かれないように観察した。
ホームルームの終わりが告げられた後、机を下げて鞄を右手に取り、教室を出た有に、春子は元気よく話しかけた。
「デ、ート?」
「はい、デート。ラジカセを買いに行くんです。ナカコーは日直の仕事があるから遅れるし、圭一は面倒くさがり屋だから雨の日は多分遊びません。だから二人だけで行きませんか?」
春子はにこやかだったが、その裏にどこか気を使っている部分が感じ取れた。昼休みの騒動の影響だろうか、それとも考え過ぎだろうか。なにはともあれ、笑顔の春子の申し出は断りようがないし、事実有は暇だったので二つ返事で誘いを受けた。
「よーし、じゃあ行きましょうか」
そう言うと、春子は有の手を掴んで引っ張りながら歩いた。
神村高校前からバスに乗って、有の家とは反対の方面に向かって五つ目のバス停で二人は降りた。「章家商店街前」という名前が示す通り、すぐ近くの十字路がアーケードになっていて商店が建ち並ぶ。その中を歩きながら、春子は有に尋ねた。
「そう言えば先輩、朝歩いてましたよね。バス乗らないんですか」
「うん。ずっと歩いて通学してるけど」
春子の質問に有はそう答えた。春子は少し考えて、こう続けた。
「やっぱり、四季の移ろいを楽しむとか、そういう感じなんですか」
「別に、そんな高尚なこと考えてないよ。ただ、その……。なんていうかな、他の人が話してるのとか、聞こえにくいでしょう。そこが安心」
小柄な春子が、女子としては長身の部類に入る有を見上げる。その真っ直ぐすぎる目に一瞬自分の視線が合ってしまい、有は慌てて目を逸らす。少し頬が赤くなる。
「先輩もそう思うんですか。私も人の話が聞こえていやだなって思うことがあるんですけど、歩くのが面倒くさくて」
少し間を置いて、春子は目を細めた。
「でも、先輩と一緒なら、歩いてもいいな」
少し甘えた懐っこい調子で春子は言った。媚びや計算のない、ナチュラルな子供っぽさがそこにあって、有はドキッとさせられた。
「明日から、朝先輩の家に迎えに行っていいですか」
「えっと、私はいいけど……。春子、大変じゃない?」
春子はかぶりを振った。
「ぜーんぜん平気ですよ。むしろ、歩かない方が写真部として微妙かも」
二人は「安江無線」という電器屋の前で立ち止まった。ショーウィンドウにはいかにも高級そうなスピーカーが居座って、商店街の庶民的な安っぽさには不似合いな威風を見せていた。
「ほんとはこういうのも欲しいけど、今はいらない」
そう呟いて春子が店に入り、有もその後について行った。
「安江無線」には電子レンジやミシン、アイロン等の家電製品風のものはあまりなかった。ビデオテープやCD、MD、蛍光灯や電球、そしてAV器具がメインのようだ。名前のわりには、無線機も置いていないようだった。
春子がラジカセを見比べている間、有は所狭しと並べられた商品をあてもなく眺めた。やがてカウンターに目が行ったが、カウンターに座っている店主らしき老人は客に構う素振りも見せずに新聞を広げていて、特に興味深いものではない。独り言を言いながら真剣にラジカセを選ぶ春子を見やるのとほぼ同時に、春子は全体的に青系の寒色を使った箱を手に取って、カウンターに持っていった。
「これ下さい」
「一万二千円」
老人は新聞から顔を上げずに、「宣告した」と形容出来る風に無愛想に返事した。ゆったりした動きで春子は代金を財布から取り出し、品物を受け取って二人は外に出た。
「これで終わりじゃないんですよ」
春子は再び有の手を取って、二軒隣のラーメン屋の前に立ち、ガタガタと音を立てて鈍く開く自動ドアの間を抜けた。
「いらっしゃーい、って春ちゃんじゃないか」
厨房に立っている頑固そうな男性がそう発するや否や、食欲をそそる匂いと湯気、古くて調子外れのラジオの割れた音声が有の五感を刺激する。客はいなかった。
「おじさん久しぶりー」
春子が男性に手を振る。察するに、春子はちょっとした常連客であるらしかった。
「その子は誰だい? えらいべっぴんさんだねぇ」
「友達です」
「は、初めまして」
気後れを感じながら有は会釈をした。男性は豪快に笑った。
「で、なんの用だい? まさか立ち話をするためだけに来た訳じゃねぇだろ」
「ラジオを下さい。これ、代わりと言ってはなんですが」
そう言って、春子はさっき買ったラジカセの入ったビニール袋を差し出す。男性はそれを受け取り、箱を取り出して説明書きを三度読み返した。時々、ほう、と頷いていた。
「そうだな、じゃあ勝手に持ってけドロボー」
「やったー」
春子は小さくガッツポーズを作り、カウンターのピンク電話に背を向けていたえらく旧式なラジカセのプラグを引っこ抜いた。唐突に放送が途切れる。コードを巻き終わると春子はそれをビニール袋にしまった。
「失礼しましたー」
「あーい」
男性に挨拶をしながら二人は店を後にした。店内の熱気が体から抜けて少し涼しい。
「前からこれが欲しかったんですよ、これ。音が悪いし、古くさいし、なんか懐かしい。あの駅の隅っこに置いたらいい感じですよ、きっと」
不思議なことを言う子だな。
そう思って有が顔を向けると、春子は満面の笑みを浮かべていた。
バス停までの短い距離を歩く間、真っ赤な傘の似合う少女を、有は気付かれないように観察した。