Neetel Inside 文芸新都
表紙

終着駅のラジオ
bluebeard

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 バス停からさらに初名坂を下り、平地に出るまでに十分。そこから海岸に出るのに五分、駅に着くまでにまた十分。親友と二人きりで初めて歩いた時にはその道は長く、険しく、迷子になる心配もあったのだろうが、毎日のように通い、心身ともに成長した今では疲れることはないし、道に迷う心配もない。そして何よりも、昔は駅に導いてもらう側だった自分が、今度は人を案内する立場になったのだ。他愛のない世間話をしながら、有はその変化に少し感動を覚えた。
「ちょっと、いいかな」
 圭一の要望で坂道の出口で立ち止まると、早くも海の気配がする。家々のわずかな隙間から、反射した光が顔を出す。幾度となく通った道であるにもかかわらず、いつも潮騒のざらついた声や、凛とした潮の香りが既に思考の奥底に届き、なにかを揺さぶっているような新鮮な印象を受ける。
「海って感じだなぁ」
 少し伸びをして、圭一がのんびりとした口調で言葉を吐く。
「そっか、圭一はあんまりこっちの方にはこないんだよね」
 春子がそう返した。心なしか、その口調には同情が込められているように思える。
 普段、圭一は初名坂とは反対方面に行くバスに乗って隣町の高校に通う。そのため、なかなか海に行く暇がないのだ。
「もったいない、ね」
 有は少し切なく囁いた。圭一が小さく首を縦に振るのが見えた。
「清水君、せっかく海辺の町に住んでるのに。神高なら、三階から海が見えるんだよ」
「ほんと」
 功二は同意して、足下の石を軽く蹴った。頭が空っぽになって停止したかのように、皆呆然として、少し太めの直線になるように狭く区切られた、青白い煌めきを見つめる。甘すぎず、ドライすぎず、ロードムービーのワンシーンと言っても通用するような、ゆったりとした時間が積もるように形作られていった。
 やがて、圭一が口を開いた。
「じゃ、そろそろ行こっか」
 それを合図に、一行は再び進み出した。少しずつ気温が上がり、暑い一日の予感を孕ませていた。


     

 電車に乗る必要がなく営業している駅には近付かなくても生活できるから、有にとって駅は初名浜の廃駅以外存在しないも同然だ。
 駅は浜辺に建っている。浜辺、と一口に言っても、夏になると大勢の人々が詰めかける整備された海水浴場から、荒涼として、ゴツゴツした岩肌から枯れ草が伸びて風に揺られる寂しい原風景まで色々だが、駅がある海岸は間違いなく後者の極北を行っている。
 栗江市は北に開いた小さな湾に面しており、西側に泉鮎浜という海水浴場や栗江市の中心街である舞部台があり、東側に初名浜がある。その近くに初名坂が位置していて、坂を登って西に三分も歩けば有の家があり、さらに七、八分で神村高校につく。
 元々は地方の鉄道会社の観光路線の一駅だったが、有が六歳の時に会社が倒産し、路線の一部をJRが引き継いだ。しかし、どういう訳か引き継がれなかった駅々も取り壊されずに残っていて、その閑散とした具合が町並みの時間軸にぶれを与える。初名浜の駅は特にそうだ。
 坂の出口で立ち止まったのを境に、スイッチが入ったかのように静かになってしまった。圭一が突然感傷的になったせいだ。功二は気まずく思った。
「なんかおっかないところだなぁ。こんなところに一人でいて、寂しくなかったの」
 狭い通りを抜けると、唐突に空間が広がる。海岸に沿った道路を歩きながら、功二が不自然に明るい声で有に問いかけると、有は風に吹かれる髪を耳の後ろに押さえながら黙想した。
 
 有は、人がいないことを孤独として受け取ったことがなかった。
 小学校の三年生あたりから、陰ででずっとけなされていた。頭がいい、私達とは違う、変、恐い、静かすぎる、近付きたくない。運動会の全員参加のリレーで全力で走っても手を抜いているように見えるらしく、最下位になった時、運動バカの男子生徒に目の前でこうそしられたこともあった。
 こいつに何言ってもしょうがねぇよ。こいつは俺達と違って、頭いいんだぜ。手ぇ抜いて走っても関係ねぇんだ。いいよなぁ、楽で。
 悔しさのあまり泣き出すと、彼はチェッ、と小さく、しかしはっきりと舌打ちをしてその場を離れた。
 中学に上がればみんな変わる。担任や親にそう言い聞かせられていたが、中学校に上がっても、皆オブラートに包んだ言い方を学んだだけで中身は変わらなかった。それでも親は、高校に上がれば変わる、と繰り返していた。
 高校に上がった結果は言うまでもない。親もついに、有を励まし切れなくなって、何も問題がないかのように振る舞い、「普通の家庭」を演出した。
 一つの学年に百何十もの人間がいて、その中の四十人には毎日同じクラスで接する。それなのに、理解を示し、親身になってくれる者は滅多にいなかった。

「寂しく、なかった」
 首を横に向け、波を眺める有はほんの少し口の端を上げて、力のない笑顔をしていた。瞳に映っているものが確認できない。訊かない方が良かったかな、と功二に自身を責めさせるには充分だった。
「寂しい、って思うには物差しが必要でしょう。学校にはあんなに人がいるのに、私の側には、誰もいない。それが物差しになるから、人がいる学校は、人がいなくて、物差しもない駅より、ずっと寂しかった。不思議だよね」
「そう」
 功二にはその一音節以外に答えようがなかった。
「うん」
 生返事をする有から目を離し、圭一と春子を見る。二人とも苦虫を噛み潰したような顔をしている。
「ねぇ」
 三人とも、突然陽気な声を発した有に向き直る。
「駅まで、競走しよ」
 不器用に取り繕ったハイテンションが見え透いていたが、有も人付き合いに慣れていないなりにその場の軌道修正を試みているのもよく伝わった。
「よし、俺がスタートの声出すよ」
「そしたらお前が有利じゃねぇか」
 功二の発言に圭一が突っ込む、お決まりのやりとりが展開される。その時点で、春子の参加が義務づけられたのだ。
「よーい、どん」
「あ、不意打ちか」
「ずりーぞ、このぉ」
 勝手に走り出した春子を三人が全力で追いかける。少し先で、木造の駅舎が彼らを観察するように静止している。


     

 センチメンタルな気分を吹っ切るために駅には長居せず、バスに乗って舞部台に移動して手当り次第に商店を回った。そのかいがあって、春子と有は海岸でのやりとりを忘れて楽しんでいたようだったが、功二の脳裏には有の声がこびりついていた。
 人がいる学校は、人がいなくて、物差しもない駅より、ずっと寂しかった。不思議だよね。
 少し掠れた声音でそう笑う有は、触れたら脆く崩れそうだった。その様子が功二の記憶と繋がる。
「なぁ、香川って、憶えてる? 中一の時一緒だった」
 窓枠に頬杖をついて外を眺める圭一に尋ねる。圭一は動かずにそのまま答えた。
「香川? あー、そんな奴いたな」
 圭一はかつて同じクラスにいた香川貴輝に対してその程度の認識しか持っていないようだった。もっとも、香川は地味な生徒だったので、常に男子生徒の社交の中心にいた圭一が存在を知らなくてもやむを得ない部分もあるのだが。
「圭一は中二は違うクラスだったけど、俺はまた香川と一緒だったんだ。あいつさ、中二でハブられてた」
「マジ? なんかしたのか」
 圭一は興味なし、といった風で抑揚をつけずに言った。
「いや、別に。ただなんとなくみんなにシカトされてた」
「ふーん」
 バスがゆっくり速度を落として停車する。海岸通を走っているので、当然どこまで行っても海が見える。圭一は、久しぶりの遠出の愉悦に浸って、ひたすら汀の輝きを見つめていた。
「で、担任に相談してるのを聞いたことがあってさ。あいつ、シカトされるくらいならいじめてもらえた方がよっぽど楽だ、って言ってた」
「そか」
 沈黙が舞い降り、エンジン音と揺れが長めの隙間を埋める。
「なー」
 圭一が独り言のようにも聞こえる、ハッキリしない声で功二を呼ぶ。
「なに」
「そいつってさ、今神高にいんの?」
「うんや。大検の勉強してる。確か、東大目指してるっつってたけど」
「そか」
 圭一は伸びをして、また頬杖をついた。少し間を置いて、また話し始めた。
「よかったな。あんまり身の回りに不幸な奴がいっぱいいると、辛いからな」
 そう言う圭一の声は、さっきまでと比べて、わずかに温もりがこもった気がした。功二は息を吐きながら返答した。
「あぁ、そうだな」
 圭一は振り返って、功二の隣で寝ている二人の少女を見やる。二人とも資金力はあるらしく、春子が両腕で抱えている買い物袋は有名ブランドの夏服ですっかり膨らんでしまい、有が足下に置いた本屋の紙袋は持ち上げたら本の重みで裂けそうだ。圭一は言葉を続けた。
「不幸な人間って、自分を憐れむだけの嫌な奴と、他人を不幸にしないように努めるいい奴がいるけど、こいつらは間違いなく、いい奴らだよな」
「あぁ」
 功二の返事を聞きながら、圭一はまた伸びをした。
「俺達はどうなんだろ」
 そう呟きながら組んだ手をほどいて、圭一は功二に眠そうに言う。
「じゃ、俺家で宿題やんなきゃいけねぇし、まだだいぶバス長いし、寝るわ。今日はありがと。すげぇ楽しかったぜ」
 そう言って、圭一が窓にもたれかかる。これで、起きているのは功二だけだ。
 栗江市は東北地方の都市としては大きい方だが、所詮は地方都市、とコンプレックスを抱く若者が多く、ほとんどが東京近辺への移住を目標に上げる。なるほど、確かに流行、行き交う人々のファッションの洒脱具合、娯楽の選択肢は東京と比べるべくもないし、曇りの日の、中途半端な都市にありがちな閉塞感や寂寞感は絶望的ですらあり、まだ雨が降ってくれた方がまし、などと言われている。功二は東京理科大志望を公言していたし、一つ上の兄にしても、香川にしても、今まで知り合った同世代の人間のほとんどが東北には留まらないと、自分達の置かれた環境を鼻で笑っていたなかで、圭一は功二に打ち明けたことがあった。
 俺は、東京に行くつもりはない。
 なんで。少し驚いて理由を探ると、圭一はこう答えた。
 みんな栗江をバカにしてるけどさー、そのうち帰ってくると思うんだよな。その時、みんなが安心してここに戻れるように、俺が準備をしておくんだ。
 皆が帰ってくると思う根拠は一切挙げなかった。準備の内容も具体的には話さなかった。しかし、それでも、なぜか納得してしまう。
 圭一は、優しいんだよな。功二は思った。
 不幸な人間って、自分を憐れむだけの嫌な奴と、他人を不幸にしないように努めるいい奴がいるけど、こいつらは間違いなく、いい奴らだよな。俺達はどうなんだろ。
 俺はどうか知らないけど、お前もいい奴だよ、圭一。
 腕時計のアラームをセットして、功二もまぶたを閉じる。弱冷房の車内に乗り合わせた乗客達の喋る声が、少しずつ遠ざかる。


     

「蟻村さん、蟻村さん」
 功二に肩をポンポンと叩かれて、有は呻きながら目をこすった。
「次、初名坂だよ」
「あ…… 寝ちゃってた、ごめん」
「いや、謝るようなことしてないよね」
 少し縮こまって視線をそらす有に、功二が穏やかな笑顔を向けている。
「えと、ナカコー、君?」
「うん」
 そらした目をそう遅くない速度で、しかし慎重に功二に戻す。昔から相手の目を見て話すように言われて育ったが、未だに慣れないものがある。ましてや相手は今日知り合ったばかり、その割にかなり親密になったとはいえ、ギクシャクした動きを見せまいとする意識が逆に所作にぎこちなさを与えた。
「今日は、その…… すごく、楽しかった。ありがとう」
「いや、こっちこそ、色々と楽しかったし、お礼を言うのはこっちだよ」
「そうそう。先輩、ナカコーの面倒を見てくれてありがとうございました」
 突然発せられた声に驚いて振り返ると、春子が目を覚ましていた。
「にしても、ちょっといい感じでしたね、ナカコーと先輩」
 春子がからかうようにコメントをする。
「そう思うなら、寝てろよ。ねぇ、蟻村さん」
「あ、私はそんな」
 満更でも無い様子の功二に有は困惑しながら言う。
 運転手がバス停の名前を連呼し、それと同期するようにバスが減速する。ブザーは既に押してもらっていたらしい。
「じゃあ、私はこれで。みんな、ありがとう。清水君にも、よろしく、ね」
「あぁ、じゃあね」
「お疲れさまでしたー」
 手を振りながら下車をする。他に降りる客がいないらしく、有が降りてすぐにドアが閉まった。車内と違って、少し生暖かく湿った風が吹いていて、別れの憂鬱さを増幅する。しかし、また会えることへの期待を含んでいるという点で、その憂鬱さは今まで味わってきたそれとは異なり、決して不快ではなかった。
 夕焼けを少し過ぎた辺りの、青みがかった空を見上げると、鳥が四羽飛んでいて、その姿が自分達と重なって見えた。緩やかな坂道は、新鮮な印象を与えた。あれだけの量の買い物をしたというのに、身体が不思議な程軽やかに動く。
「あー、バスに荷物忘れたー」

「あー、先輩荷物忘れてるー」
 足下を見た春子が有の忘れ物に気付いた時、バスは既に発車してしまっていた。
「あれまぁ。お前、蟻村さんの家知ってる?」
 功二の質問に、春子は首を横に振った。
「ううん、知らない」
「そっかー、俺明日日直だから早く出ないといけないし、お前学校に届けてきなよ」
「うん」
 春子はうなづきながら自分の荷物を有の荷物の隣に置いた。袋がガサガサと乾いた音を立てる。
「素敵な人でしょ、先輩」
 もの静かで、それでいて熱っぽい口調で春子は功二に意見を求めた。
「あぁ、そうだな」
「正直、ナカコー惚れちゃったでしょ」
「え、いや、そんなことはな、ない。いや、ほんとないから」
 功二が顔をタコのように赤くして慌てる。さっきまで有とクールな雰囲気で会話をしていた男にしては、分かりやす過ぎる動揺の仕方だった。春子は思わず吹き出した。
「フフフ、ナカコーって純なんだねぇ」
「うるせぇよ……」
「応援はするから、頑張ってね」
「そんなんじゃねぇって」
 次は、礼戸一丁目、礼戸一丁目、という機械的なアナウンスが入った。冷房の心地よい冷風と相まって、それは人工的な香りを漂わせる。だからなのか、一日で「カッコつけの叩かれ役」から「恋する純情少年」に変貌した功二が引き立つ。
「圭一には、内緒にした方がいい?」
 ブザーを押して、春子は訊く。功二の右隣では、まだ圭一が寝息を立てている。
「頼むから内緒にしてくれ」
 もう弁明する気力がないのか、両手を会わせて拝みながら功二は懇願した。
「はーい。でももったいないなー、圭一、決定的瞬間を逃しちゃった」
 例によって春子は笑う。明るくてよく笑う人間でありながら、一方ではその笑いにいちいち含羞や悪戯っぽさが感じ取れ、しかもそれが計算されていない自然なものだから恐れ入る。
「見られたら、俺死んでやる」
 再びバスが停車した。春子と功二が一緒に降りるので、圭一は終点の国東団地までの道のりを一人で過ごすことになる。
「声かけなくていいのかな。起きたら独りぼっちだよ」
「あぁ、ほっとこうぜ。こいつそう言うの結構好きだから」
 硬貨を機械に落とす音より小さな声でのやりとりに共犯意識を感じながら、二人は一段ずつ段差を降りていった。


       

表紙

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