天国まで3階級
第一部
たったったった……
女の子に追い掛け回してもらえるなんて、きっとそこは天国だと思っていたのだ。
違った。
夜道をこうして全速力でぶっ飛ばしている今、女の子に追い掛け回されるというのは、そう幸せなことじゃない。むしろ不幸だ。そう、本当に大切だったのは性別でも顔でもなく、相手とのシンパシー。教科書に書いておいて欲しかったぜ。
どうしてこんなことになっているのか、俺にもちょっとわからない。俺はいつものようにバイト帰り、深夜まで営業していてくれる立ち食いラーメン屋に寄ってチャーシューメンを喰って帰る途中だった。それ以外に何か変なことはしていない。
なのに、
「待ってください! 高木燐吾さん! 話し合えばわかります!」
俺は頭を屈めた。するとイオンの焦げるにおいと真っ青な電撃が俺の頭上を通過していった。話し合う気ゼロじゃねーか。悪いが俺にはアニメ声での説得なんか効かないんだ。
ここは一発、逃げ切らせてもらうぜ!
ぐんっと膝のバネを生かした姿勢からの猛ダッシュ。路地裏にたまりにたまったゴミつぶてを背後へぶちまけるのも忘れない。
「ぎゃあっ! なんかばっちいのが顔に、顔にーっ!」
「清水っ、清水ーっ! くそお、よくも清水を! 絶対に許さない!!」
絶対に許さないかあ。それもいいなあ。可愛い女の子にぶちのめされるのも悪くないか。
試しにちょっと歩調を緩めるフリをしてみたがやはり電撃が俺の周囲で火花を散らした。ネズミさんがびっくりして物陰に逃げていく。あぶねーあぶねー。やっぱぶち殺されるのはごめんだ。くっそお、俺はネズミと変わらねーのか? 殺されて当然なのか? 逃げ回ることしかできないなんて。せめて一矢を報いたい。
が、こんな俺に何ができるというのだろう。俺は背後を見た。自分を追っている連中を見た。
まず、浮いている。
そこが問題である。やつらは写真を撮ったら金になりそうな美少女どもだが、ひとり残らず浮いている。背中から生えている羽がはためくたびにホコリが宙に舞い上がる。きったねえなしかし。
服装は、布のようなものをつけているだけの軽装。ただし胸にはサラシを巻いている。サラシて。極道かよ。この調子だとあの腰布の下はフンドシなのかもしれない。先進的ってレベルじゃねーぞ。
連中の顔に見覚えなんて少しもない。というよりも俺の知り合いには白髪で金目の美少女なんていない。
その頃にはもう、さすがに俺もこれは特撮だとか、あの子たちの身体的特徴がコスプレだとか、そういうかえって非現実的な空想はやめにしていた。だってもう制服の肩がこげちゃってて、殺す気なんだなってわかるし、現実から目をそらしていたら本当に死んじゃう。
どうもガッツを見せる時が来たらしい。くっそお、もう少し大人になってからだと思ってたぜ。だがまあ、見せ場が来ちまったとあれば仕方もない。受けて立つしかねえだろう。
丁度よさそうなビルとビルに四方を囲まれた空白地帯を見つけた。相撲ぐらいなら取れそうなスペース。充分だ、狭い方があの羽も使いづらいだろう。
俺は身をひねって急ブレーキ、スニーカーの焦げるにおいと共に立ち止まった。むろん、羽つきどもはそんなこと打ち合わせていなかったので俺の脇をすごいスピードで通り過ぎていく。
つまりチャンスってやつ。
「しゅっ」
俺はカウンター気味に拳を振りぬき、羽つきの一人を殴り落とした。
「ふぎゃっ!!」
「村上っ!? 村上ーっ!!」
さっきから苗字うるせーな!! なんで白人ヅラして日本名なんだよ。やっぱコスプレなの?
俺は目を回している村上の胸倉を掴んで揺すったが起きそうにない。それにしてもかなりいいナックルが顔面に入ったはずなんだが……ちょっと女の子にやるにはひどすぎるパンチだったので傷が残っちゃったら責任を取って結婚しようと思っていたのに、手の甲で触れる村上のほっぺはぷにぷにほっぺのままである。
「やらけー」
ぷにぷに
このほっぺをいつでも触れるようにしてくれたら、この世から悲しいことなんてなくなるのに。
「高木燐吾! 貴様、それ以上の暴虐の限りを村上にしてみろ……私みずからが地獄に叩き落としてやる!!」
ロングヘアの羽つきがこめかみに青筋を立てて叫んできた。暴虐の限りか、これ? イケメンだったらご褒美って言うくせに。
俺は立ち上がってロングヘアを睨んだ。
「いきなり殺しにかかってきたのはそっちだろーが」
「それは貴様が話を聞かないからだ」
「態度がなってないからだ。まったく、おまえら幼稚園で何を学んできたんだ」
「学ぶことなどない、子供は元気に遊ぶのが仕事だ!!」
そういうことじゃねーよ。なんで「いいこと言った」みたいな顔してるんだこいつ。
「とにかく、どういうことなのか説明してくれないと俺は村上のおっぱいを揉む」
ざわっ、と羽つきどもの間に動揺が走った。こうして冷静に月明かりの下で数えてみると連中は村上を含んで六人しかいない。一対六は初めてじゃないが、とんでもびっくり人間相手はさすがにやったことがない。勝てるかな?
「貴様、村上のおっぱいに指一本でも触れてみろ。絶対に許さない」
「もう清水を撃墜した時に許されないってわかったから別にいいです」
「っ!? なぜ清水の名前を知っている!?」
「自分で言ってたよ」
「嘘だ!」
いや嘘じゃねーよ。俺のこと嫌いか? 人の好き嫌いよくない。
「蜂山さん、冷静に……」
羽つきの中のまともそうなセミロングがロングヘアに囁いた。蜂山さんっていうのか。うるさそーな名前だな。
蜂山さんは「わかっている!」と怒鳴り、両目を辛そうに揉んだ。
「とにかく話を聞いて欲しい、高木燐吾。我々に敵意はない」
「はい」
「はいじゃないが!」
ええー? どうしろってんだよ。もう手の打ちようがない。やっぱ胸を揉むしかないか。
「いや、高木くん。つい条件反射で怒鳴ってしまってすまない。だが、そのナメた面構えで私に『ハイ』などと言うのは今後一切やめてくれたまえ」
「は……おお」
「それでいい」
「で、だ……」と蜂山さんはヒールのついたサンダルのようなもので足踏みした。
「まず、落ち着いて欲しい。深呼吸してみろ」
俺は言われた通りにしてみた。すーはー。
「なんか元気になった気がする」
「そうだろう。その元気さを留めたまま聞いてくれ。君は……もう死んでいる」
へえー。
そうなんだ。
「その顔は信じていないな高木燐吾。おまえのようなひねくれ者はよく死ぬから私は知っているのだ。そのうちおまえは『じゃあ俺はなんでここにいる』とか『死んだ覚えなんてない』とか『生きていようが死んでいようが僕のやることには関係ない』とか言い出すのだ」
最後のは特別なやつだろ。そんなやついんの? こわいわ。
まあ、実際問題、信じてはいられない。だってこんな状況でそんなの信じちゃったら、ある日突然知らない人に「おまえはもう死んでいる」って言われたら信じなきゃいけないことになるし。俺の秘孔はまだ誰も突いたことのない人跡未踏の地だっていう自信はある。
「ま、信じられないっすね。だって俺、さっきまでバイトしてて、その帰りにラーメン屋の親父にも会ったしチャーシューメンだって喰ったし。死んだ覚えなんてないっすよ、やっぱ」
「そうだろうな……だが、っておい! 村上のサラシを解こうとするな!!」
ちっ、バレたか。そっちが長口舌しそうな時を見計らったのに。
「死んでるなら見せてくれたっていいじゃないですか。後生ですよ」
「難しい言葉を使うな」
難しい言葉って後生のことか?
「いいか高木、ふざけていられるのも今の内なんだからな。おまえが死んだ原因は、ずばりそのさっき食べたとかいうチャーシューメンだ」
この女なんてやつだ。脱サラした親父が立てた屋台のメンに文句つける気かよ。人間じゃねえ。
「おまえとあのラーメン屋の親父は遺伝的に敵性関係にあるのだ。あの親父が触れたものをおまえが口にすると、おまえの遺伝子は拒絶反応を起こし……息絶える」
どんな運命のイタズラだよ。
「俺、あそこのラーメンもう百回は食ってるんだけど」
「いつもは平気だったのだろう。だが、今日だけは違っていたのだ……」
「何が」
「今日は、カウンターに置くときに、親父の指がどんぶりの中に入っていたのだ……」
「……。え? それでその親父の遺伝物質が俺の中に入ったって? ……馬鹿か! 他の食材だって触ってるだろ、肉とか」
「特定のラーメンの汁に混ざると発揮される物質なのだ」
もう話にならねえ。なんだそりゃ。仮にそれが事実だとしたらどこへ怒りをぶつけていいのやら。いや、もう、腹立つ気も起こらんわ実際。
蜂山さんはびしっと俺を指差した。
「そういうわけで、貴様は死んだ。そして貴様はそのことに気づいていないのだ」
「へぇー。ありがちっすね」
「うるさい。今、証拠を見せてやる。畑中!」
畑中と呼ばれた羽つきがよいしょよいしょと暗がりの中から何か重たそうなものを引きずってきた。それが月灯りの中にさらけ出される。
南高の藍色をしたブレザーに、おととい理容室『少林寺』で散髪したばかりの短めの髪。
俺だった。
「……」
「ふっふっふ、恐怖で声も出ないらしいな」
蜂山さんが腕組みをして得意げに踏ん反り返った。
「死んだ時、貴様の魂は肉体を脱ぎ捨て、それに気づかずそのまま歩き続けていたのだ。敬虔な神の信徒にはよくあることなのだが、おまえのような子供には珍しい現象だ。神に感謝するがいい」
神様ねえ。べつに神様がうちのローン全部払ってくれるわけじゃないしなあ。
「じゃあ、蜂山さんとかは死んじゃった人間の魂だかなんだかをお空へ連れて行ってくれる天使サマってわけ」
「無論、そうだ」
「天使って名前の最後になんとかエルってつくって御子柴が言ってたんだけど」
「御子柴って誰だ」
俺のダチっす。
「貴様らがどんな天界を予想しているのかは知らないが、神というのは言葉の数だけいるのだ。我々の神はこの国の言語を司っているし、この国の言語を話す人間のみを救済する。我々はその娘であり臣下だ」
「つまり天使っすか」
「まあ、そうだ」
「ふーん」
俺は拳をぷらぷらさせた。村上を掴みあげて、畑中にぶん投げた。
「ぎゃうっ!」
そんなつもりなかったのに畑中は村上を受け止めそこねて背後に後頭部を激突、気絶した。
「貴様ァッ!! まだ神に逆らうか!」
「いまのは俺のせいじゃねーよっ! 肉食え肉。たんぱく質にガッツが足りないよ」
「問答無用!」
「あっ」
残った四人が羽をはためかせて、俺に飛びかかってきた。お決まりのあの掌から放ってくる電撃も健在だ。
横っ飛びにかわしながら叫ぶ。
「救ってくれるって言ったのに! 嘘つき! パチモン商法!」
「黙れ! 貴様のような穀潰しは『階段』へ連れて行く前に丸焦げにして矯正してやる」
丸焦げか……いや、それより『階段』って? 一瞬気になった。じかに天国へ連れて行ってくれるんじゃないのかなあ。しかしそれどころじゃない、電撃が俺の周囲を横殴りの雨みたいに飛び交っている。仕方ねー。俺はポケットの中に手を突っ込んだ。ジャンプとか買う時のための小銭がじゃらついてくる。
俺はそれを天高く放り投げた。
じゃりぃぃぃ…………ん
ばヂッ
電撃の束が、講義をサボることを決意した大学生みたいに進路を変えて宙の硬貨へと吸い寄せられ、無駄にその火花を散らした。呆然としている天使に俺は左足一歩で距離をぶち殺す。
「はっ」
気づいた時にはもう遅い。俺は右拳を腰に引き寄せて、そのまま相手の顎めがけて打ち上げた。ショベルフック気味の右ストレート。人間相手には使いたくないが、天使なら死にはするまい。
羽つき一人をKOし、そのまま回転、背後に迫っていたもう一人に頭突きを喰らわせた。
「きゃうっ?」
星でも見ているのだろう、目をぱちぱちさせて天使は地面に転がった。これで残るは二人。だがちょっと左後方から迫っている一人の攻撃がかわせそうにない。
やりたかないが、仕方がねえか。覚悟を決める。
俺はそのまま地面に手を伸ばした。そしてお目当てのものを掴み取ると、それを盾にした。
ばヂッ!!
さっきよりも嫌な音がして、俺の持っているものが焦げた。
「き、貴様……」蜂山さんがわなわなと唇を震わせている。
「自分の死体を盾に……」
どしゃあっ……
俺は元・俺を捨てた。
「こうしないとやられてたからなあ」
「頭がどうかしているぞ……元々は自分の肉体だろうが?」
「今は違うよ」
俺は特別なことを言ったつもりはないのだが、蜂山さんともう一人は見るからにひるんだ。お? これはいい傾向だ。俺は昔から喧嘩っ早いところがあったのだが、むしろ喋っている時の方が相手が萎縮しちゃうことが多かった。そんな変なこと言ってないと思うんだけど。
「貴様……さては人間に化けた悪魔だな? 白状しろ!」
「いきなり無垢な魂を丸焦げにしようとする天使に言われたくない」
本当の天使はおっぱいを揉ませることを躊躇ったりしないって彼女持ちの西岡が言ってた。
蜂山さんは俺を合唱コンクールに精を出さない男子に向けられる女子の目で見た。
「貴様を階段へ連れて行くのはやめだ……ここでカタをつけてやる!!」
「いいねー熱血な感じで。俺も拳が疼いてきちゃった」
俺たちは拳を構えて睨み合った。さあて、右でいこうか左でいこうか……
そんな時、中空から声が降ってきた。
「駄目ですよー、蜂山さん、人間をいじめたりしちゃあ」
「っ……恋塚さん!」
恋塚さん?
俺は頭上を見上げた。あれが恋塚さんとやらだろう。長くて白い髪をサイドテールに結った、やはり金色の目をした少女が飛んでいた。
「高木さんは悪魔なんかじゃないですよぅ。ちゃんと名簿に載ってますから」
「し、しかし……」
蜂山さんを無視して、恋塚さんは俺の方を見た。
「ごめんなさい。天使って一途でいけずなんです」
「つまんないから許してあげない」
上手いこと言ったみたいな顔が気に喰わん。なめてんの?
恋塚さんはショックを受けたようでおろおろしている。
「そんな……私のジョークが通用しない? やはり悪魔……」
結局そこかよ! おまえら悪魔って言いたいだけだろ。もういいよ悪魔で。
俺は呆れ果ててもう嫌になった。帰ろうと思って背中を向ける。
「どこへいくんです?」
「帰る」
「帰っても無駄ですよー。家族の誰も高木さんのことは見えませんから」
「そん時は霊障が起こるまでアダルトビデオを大音量で流す」
「ガッツありすぎですよ……」
まあな。
恋塚さんはため息をついた。
「大丈夫ですよ、私が来たからには何もかもが安全安心確実なのです。私はちゃんとあなたをエスコートし、導き、励まし、あなたを立派に天国の士にして差し上げます。私はガイドなんです。そう、つまりガイドがいるということは、天国ってやっぱりいいところ――逝ってみたいと思いませんか?」
俺は足を止めた。
「逝ってやってもいい」
俺の言い草に蜂山さんがいきり立った。
「貴様、恋塚さんに向かってなんて口の利き方を」
「いんですいんですいーんですよ蜂山さん。彼は死んだばかりで気が立ってるんです。私たちがしっかりしないと」
恋塚さんはふぁさりと羽をはためかせて、地上に舞い降りた。抜け毛が散らばる。
「高木さん、私たちの非礼にあなたが怒っているのはわかりますし、当然だと思います。ですから……」
恋塚さんは俺の手を取った。
「お詫びをさせてくれませんか。それで何もかもチャラ、あなたは私たちを許し、天国へ向かうことを誓う……それでどうでしょう」
「お詫びの内容によるな」
俺の冷たいセリフに、恋塚さんは必殺の笑顔を作って、言った。
「おっぱいをさわらせてあげます」
「っ!!!」
「っ!!!」
蜂山さんまでびっくりしていた。またも蜂山さんと恋塚さんの間で「駄目です駄目です絶対駄目」と「いんですいんですいーんです」が応酬された。
恋塚さんの金色の目が俺を見据えてくる。
「どうです? 許してもらえる自信はあるんですが」
天下無敵のDカップは言うこともでかいや。
俺は恋塚さん(の胸)を睨みながら言った。
「いいのか。二言はないぞ」
「もちろん」
「あとで泣いたり喚いたりしたら俺も泣いたり喚いたりする。ものすごい醜態をさらす。十七歳にもなって地面にひっくり返って大暴れする。触らせてくれなくてもそうする。なにかペテンにかけられてもそうする。それでもいいのか」
「いいですとも」
「よし、じゃあ、それでお願いします。お金とかもってないけど大丈夫ですか」
「無償の奉仕こそ天使の天命ですから」
すばらしき心構えだ。まさに平和の化身。すげえや。
俺は生唾を飲み込み、腹を決めた。恋塚さんの胸元へ手を伸ばす……
後になって考えてみても、すばらしいクイックターンだったと思えてならない。
恋塚さんはその場で回転、斜め背後で控えていた蜂山さんの手首を取り膝裏を蹴りこみバランスを崩させた。
ふにょり
超至近距離で俺と蜂山さんの目が合った。手にはこの世のものとは思えぬほど柔らかい例のブツの感触。
「…………」
「…………」
「……ふぇ」
俺は手を放した。が、間に合わなかった。
「ふわあああああああ」
蜂山さんはもう何もかもが嫌になってしまってその場にへたり込んだ。さっきまでのクールビューティの仮面は恋塚さんの卑劣な罠により粉々に砕け散り、サラシに巻かれた胸を両手で押さえて大声で泣いている。
恋塚さんがしゃがみこんでその肩をさすっている。
「いいですか蜂山さんこれも仕事のひとつなんです。逆に考えましょう。こんなことでしか喜びを感じられないオトコのみじめさ、いやしさ、くだらなさを今後のバネにしちゃいましょう。いいですか、私は嘘をつきました、でもそれは決して自分のためでなく、あなたが今後の業務をちゃんとまっとうできるように、私がいなくなって大丈夫なようにするためだったのです。悲しいですか? 辛いですか? それもこれもあのオトコを天国まで送り届けて初めて癒されるのです。いい仕事というのは辛いことがあった方が後々まで覚えていられるし、かえって為せるものなのです。さあ、あの下劣で下等なオトコへの呪詛はそのFカップの中にだけ仕舞って置いて、いまは立ち上がろうじゃありませんか」
よくもまあペラペラと喋られるものである。俺は恋塚さんのかけ布を掴んで持ち上げた。恋塚さんはヒモをねじられた体操着みたいに回転しながら笑顔を振りまいた。
「ご理解いただけましたか? 天界きっての名品のよさが」
「あんたの心の汚さはよくわかった」
「汚い? 何を馬鹿な! それもこれもあなたのため、みんなのため、世のため人のためなんですよ? 感謝して欲しいくらいです。だいたい触ったのはあなたです」
ぐっ。確かに。
俺は恋塚さんを手放した。恋塚さんはスタッと着地して、体操選手のように手を広げた。
「さ、これで私たちのことは許してもらえましたね? それではご案内して差し上げましょう、天国への階段に」
「さっきから気になってたんだが、その階段っていうのはなんなんだ」
「あら、お聞きでない?」
恋塚さんは絶対に最初から何もかも知っていたはずである。目を見ればわかる。
「天国に行ける人間は限られているんですよ。あなたはこれから天国と地獄の境界――リンボで試練を受けるのです」
びしっと夜空に光る満月を指差して、
「天国へいたる道程は遠い……そう、あの月ほどまでに。天使距離にて三十八万アンゲロス。あなたはこれからそれをゼロにすることを目指して飛ぶのです……ひたすらに!」
「ノリノリなところ悪いんだけど、騙されないぜ。その試練とかいうのにしくじったらどうするんだ?」
「その時は潔く散るまでです」
「なんだと?」
恋塚さんは野原に咲く花を見つけた時のような笑顔で、
「高木さん、地獄というものは、誰だって落ちたくありません……でもだからこそ、天国にいられることの喜びが感ぜられる。そう思いませんか」
「つまり、ヘマ打てば地獄行きってわけか」
「そうとも言います」
「お断りだ!」
俺は脱兎のごとく逃げ出そうとした。むんずっと首根っこをつかまれる。
「駄目駄目駄目なのです。もうそういうのはいけません」
「なんて天使だ。腐ってやがる」
「もう、なんてひどいことばかり。私たちは天国への切符を配っているだけですよ? それもロハで! いつまでもこの世で自縛霊やっててもなんの生産性もないでしょう。ね、夢だけ見ましょう。そうしましょう」
これじゃどっちが天使か悪魔かわかりゃしない。まあ、悪魔も元々は天使だっていうし、じゃあそもそも天使が悪魔っていう可能性だってなきにしもあらずか。
「くそっ」
手を放された俺は、制服の襟を正した。
「あんたたちを殴り抜けて逃げてもいいんだがな」
「できますかね?」
恋塚さんは小首を傾げて見せた。
「私、強いですよ?」
ぞぞっと俺の背筋に寒気が走った。薄く開かれた目の光だけでわかる。どうやら本当に、俺の右のナックルじゃこの羽つきを黙らせることはできないようだ。
「ひとつ聞かせてくれ。その試練ってのは、相手は誰なんだ?」
「あなたと同じ最近死んだ死人たちですよー。だいじょーぶ、悪魔が紛れ込まないように最新鋭の注意と努力を費やしていますから」
「ふーん。ま、天使相手じゃなければ条件は一緒ってことか」
「そう! そうです高木さん、その調子です」
何がだ。調子がいいのはそっちだぜ。
しかしまあ、腹をくくるしかあるまい。足元で転がっているまっくろくろすけの中に戻されてもかえって困るし、逝く以外に俺に道なんて最初からないんだ。
「じゃ、連れて行ってくれ。その階段とかなんとかいうとこに」
「合点承知の介ですよ」
こいつひょっとしてババァか。
俺の疑いを知ってか知らずか、恋塚さんは俺の首根っこを掴んでそのまま羽で飛んだ。蜂山さんたちに手を振って、一気に夜空へ舞い上がる。
「よく見ておいた方がいいですよ」
恋塚さんが言った。
「自分が暮らして死んだ町を見られるのは、天国へいこうが地獄へいこうが、この時だけですから……」
「いや、飛行場が近いから飛行機に乗ればわりと簡単に見られるよ」
「落とされたいんですか?」
なんでだ。俺なんか悪いこと言った?
「まったくもう、あなたみたいな死人は初めてです。……めんどくさっ」
恋塚さんはぷんすかしていた。最後に本音が漏れてる。ひでえ。
俺は性悪な天使に引っ張られながら舞い上がっていった。さっきからちょっと上着が脱げそうでびびっている。
「あのさ、聞きたいんだけど」
「なんです?」
「天国へいけるのって限られてるって言ってただろ? それって具体的に何人なんだ?」
恋塚さんはきょとんとしてから、何を馬鹿なことを、とでも言いたげに笑った。
「決まってるじゃないですか」
黄金色の満月を見上げて、言った。
「ひとりだけですよ」
『天国まで……残り三十七万八千アンゲロス』
恋塚さんと俺はそのまま舞い上がっていって、スズメの巣のような形をした雲にぼふんっと突っ込んだ。途端に、ゴキジェットスプレーを誤ってお袋に顔面噴射された時みたいになった。お天気お姉さんが言っていた、雲は水と氷で出来ている。加えて風が吹き荒れていて目も開けていられない。
恋塚さんに文句を言おうと思ったが、鼻歌を歌っていて聞いちゃいない。わざとかもしれない。ひでえ天使だ。世も末だよ。
ぼこっ
何かを貫くような感触がして、すぐに風が止んだ。
目を開けると、なにやらモコモコした洞穴のようなところに俺と恋塚さんはいた。小雨が降っているが、俺はとっくのとうにビショビショなので気にならない。
恋塚さんはどこから取り出したのかピンクの水玉模様をあしらった傘を開いてくるくる回した。
「とーちゃーくー。ここが天国への階段、その最初の一段でございます。うふふ、高木氏、ご気分は?」
俺は恋塚さんのほっぺにアイアンクローをかました。
「もがっ! ……かぁーっ、ぺっぺっぺっ!」
汚っ! この羽つき女、唾吐いてきやがった! しかもなんか黄色い。タンか? タンなのか?
「何しやがる」
「それはこっちのセリフです! いきなりいたいけな天使を毒牙に遭わせるなんて……このロクデナシッ!」
「なにがロクデナシだ。ひどいのはあんただぞ」
恋塚さんは「何言ってるんだろうこの人」みたいな顔をしている。
「私ですか?」
「ああ。俺はあんたから、天国へいけるのがひとりだけなんて聞いてないもん」
「男の子が済んだことをとやかく言うもんじゃないですよ」
「済んでねーし! あのな、俺たちゃ小学校の頃からみんなでお手手つないで一等賞、仲間はずれはいけません、みんなよくてみんないい、そーゆーゆとり教育を受けて育ったんだ。そういう子供を捕まえてだな、いきなりハードな条件をぶつけてくるのは卑怯だぞ」
「えー。それじゃあなんですか、天界も地上の世相に合わせて変化していけと? なんてめんどくさいことを言うんです、罰が当たりますよ」
あんたがな。
「なー。ものは相談なんだけど」
俺は恋塚さんの傘の中にもぐりこんだ。「ぎゃーっ! 相合傘はやめてーっ! 勘違いされる勘違いされるマジキモイマジキモイ」と喚いてきたが構わず柄を掴んで顔を寄せる。
「ズルとかないの?」
ズル? と恋塚さんは首を傾げる。
「そう。俺がさあ、あんたの天使のお仕事手伝ったりとかさあ、天使に生まれ変わったりとかさあ、そういうので一足跳びにイージーモードで天国いけたりしない? お互いにWIN-WINの関係を築いていけると思うんだけど」
「ないない。そんな癒着の始まりみたいな企業用語を使っても駄目です。ズルとかなめてんですか? いいですか、高木さん」
恋塚さんは俺から奪い返した傘をくるくる回しながら、指をひょいひょい振った。
「べつにパパだって意地悪したくてやってるわけじゃないんですよ。ただ、真の信仰を持つものが誰なのか、天国の狭き門を潜り抜けるべきなのは誰なのか、ちょっとした面接代わりにお互いコミュニケートを取ってもらおう、そういう趣旨なんですよ」
「えー。めんどくせーなー。俺やっぱ地上でのんびり自縛霊やりたい」
「これだからゆとりは。いいから来るのです」
恋塚さんに連れられて、俺はわずかに傾斜した雨雲の道を進んでいった。
「どうでもいいけど傘とかレインコート用意しとくべきじゃね? 気遣いが足りねーよ」
「そんなものに頼っていては神威を帯びることは叶わないのです」
「そういうヘリクツはバイト始めると通用しないんだぜ。知ってた?」
「やめてください。落ち込む子だっているんですよ」
わかってて言ってるんだけどね。
雨雲の道には時折、木で出来た扉があって表札には「谷口」とか「小久保」とか書かれている。こんな梅雨ゾーンに部屋があるなんて堕天使一歩手前の天使が棲んでいるに違いないと俺は勝手に思った。
間が持たなくなって始めたしりとりが山の手線ゲームに変わった頃、俺たちの前に大きな木の観音扉が現れた。見上げると学校の教室みたいに札が下がっている。
『控え室』
俺はごくっと生唾を飲み込んだ。
「ここまで長い道のりだったな、小久保。始めた時は嫌でしかなかった部活だけどよ……今になってやっててよかったって思うよ」
「そうだね、高木くん。僕もレギュラーからは落ちてしまったけれど、後悔はしてない、客席からみんなで応援しているから。夜なべして一生懸命作った部活旗、ちゃんと見ててよね!」
「……えへへ」
「……にひひ」
即興のくだらない小芝居もほどほどに、俺と恋塚さんは足で木扉を蹴り開けた。
途端、中の光がぶわっと俺の目を刺した。雪がふんだんに積もったスキー場が明るいアレだ。中は雨が降っていなかった。
「はいはいはい、雨入っちゃうんで進んで進んで」
恋塚さんに背中を押されながら、俺は控え室に入った。
中は体育館ほどの大きさだろうか。壁こそ綿菓子のような雲だが、やろうと思えば二面でバスケができそうだ。だが、どうも中にいる連中はバスケなんてやる元気はなさそうだった。
俺と同じくらいの男子女子が、『控え室』には七人いた。全員に一匹ずつ羽つきがふわふわと背後を過保護な母親のようにくっついている。俺は腕を組んで、全員を見渡した。そして声を張り上げて言った。
「オッス! オラ高木」
滑ることはわかっていた。
繰り返す。
滑ることはわかっていたのだ。大切なのは、ウケることではない、スベった時に俺を見る連中の目。それが大事だ。俺は観察した。
何も無かったように目をそらすやつ。ゴミでも見るようにこっちを見てくるやつ。完全に自分の世界に没頭して人の話を聞いてないやつ。予想外にもウケてるやつ。あからさまに気分を害して顔をゆがませているやつ。泣いてるやつ。
それで七人だった。
これで各人の性格はだいたいわかった。どんな試練とやらで競り合うのか知らないが、ウケてたお団子頭の女の子だけは手心を加えてやろう。泣いてるメガネっ子も許す。だがそれ以外のチョッキを着たじじむさいやつだの、世紀末なモヒカンだの、おかっぱ頭の草食系男子とかは許さない。
スベった時こそ助け合うべき時だろ! ひどいよ!
「高木さん、涙を拭いてください」
「おお、ありがとう恋塚さん」
俺は恋塚さんから羽の刺繍が施されたシルクのハンカチをもらって顔をごしごしこすった。すげー黒い汚れがついちゃってそ知らぬ顔をしてポケットに突っ込んだ。洗う機会があれば洗って返そう。
「あの、ハンカチ……」
「そんなことより!」
俺は恋塚さんのセリフを遮り、ズビシッととりあえずじじむさいチョッキ野郎を指差した。
「あんたらもこの羽つきどもに死んじゃったからたったひとりになるまでバトってくださいなどとワケわからんこと言われてホイホイ来ちゃった口か」
「年上を指差すな!」
びしっ
痛い! 俺の左手をチョッキがステッキで殴ってきた。どんな素材使ってんだよ、絶対金かかってるなアレ……あ、なんか手ぇ腫れてきた。泣きそう。
「年上って俺と同い年ぐらいじゃん君……」
ふん、とチョッキを着た、十六、七くらいの女の子みたいな顔をした少年は鼻を鳴らして、
「わしはこう見えて八十七だ。……享年、とつけるべきかな」
「寝ぼけてるんじゃないよ。犯すぞ」
「やってみろ!!」
「ごめん」
やべえ、こいつガッツある。どうしよう。怯んじゃった。
恋塚さんがヒールで俺のくるぶしをガスガス蹴ってくる。
「高木さん、ここで気圧されてちゃ駄目ですよ。喧嘩と博打は早く張れ、です」
「張られたんだけど。なあ、氷持ってね? マジで手が痛い」
「どんだけ重傷ですか! こういう顔合わせの時はもう少しトラブル少なめでお願いしますよー、話進まないじゃないですか」
天使も大変なんだなあ。
恋塚さんが何か呪文のようなものを囁いて、空中に氷の結晶を作ってくれた。それを手の甲に乗せながら俺は口をすぼませてチョッキくんを睨んだ。
「なんだよアンタ、この羽つきどもの言うことが正しけりゃ俺たちは同じ頃に死んじゃった死人同士なんだぜ? もう少し仲良くしようや」
ハッ、とモヒカンが会話に混ざるタイミングを狙っていたとしか思えない箇所で口を挟んできた。
「そんでもってこいつらの言うことが正しければ――天国逝きの片道切符を賭けて争う敵同士ってわけだ?」
「おまえすげーな。そのセリフ俺なら絶対噛んでた」
「えへへ」
モヒカンは顔を赤くしてハゲてる部分を撫でた。チョッキが叫ぶ。
「照れてる場合か! まったく、これだからいまどきの若い者は……」
「ねえねえ恋塚さん、あのチョッキ坊やって本当におじいちゃんなの?」
俺が小声で尋ねると恋塚さんは重々しく頷いた。
「はい、よくぞ聞いてくれました。天国では肉体は関係ありません。よって、生前生きていた中でもっとも生命力が強かった時代の姿が取り戻せるのです。高木さんやモヒカンさんは亡くなられた時そのままですから、人生絶頂期で死んじゃったってことです」
「だ、そうだ。モヒカン」
「山口だ」
「そうか、悪かったなヤマカン。……それで? 恋塚さん、俺たちはどうすればいいんだ。いまこの場で殴り合ってナンバー1を決めるってのか」
「俺はそれでもいいぜ!」とヤマカン。
「そ、そんな野蛮なっ!」と泣き虫。
「ふっふっふ」
恋塚さんは尻をくねらせながらみんなの前に出た。そういう歩き方やりたいなら練習しといた方がいいよ。
「この場でナックル・ロワイアル、それも悪くはないですが残念ながらそうはうちのパパが許しません」
いつの間にか俺の隣にいたお団子頭が囁いてきた。
「パパって、なに?」
「神様のことらしい」
「へえー」
よくよく見るとこのお団子、超かわいい。髪型はガキっぽいけど目つきがやけに鋭い。いいなー、踏み潰されたい。
「みなさんには、これからトーナメント形式で争ってもらいます」
「トーナメントだって?」と草食系。
「種目はなんなんだよ」とホスト風。
恋塚さんはパチンと指を鳴らした。するとお団子とモヒカンと泣き虫の背後にいた天使たちが飛び上がって、どこから持ち出してきたのか三人で巨大なおみくじの筒を抱えた。
「種目はいまからこのおみくじを引いて決めます。……この場にいるのは八人。ですからトーナメントですと二つ山に分けて三回戦、最初からベスト8の勝負になります。やりましたね!」
誰も何も言わない。
「……。種目は三回戦、すべてに渡って変更されます。だから今ここで最初のくじが引かれて、まかり間違って『麻雀』とか出てきちゃってもぬか喜びはしないよーに。でわっ!」
質疑応答はなしだった。恋塚さんはダンッと飛び上がり、筒を抱えた三天使よりも高いところで、両手を組んで、それを
「ずおりゃあああああああ!!!」
振り下ろした。
どっがぁ、と太鼓にトラックが突っ込んだような音がして、筒から一本のくじが槍のように吹っ飛び、床の雲間にブッ刺さった。
ずぅぅぅぅん…………
た、
「体育会系すぎるだろ……」
「誰だよ天使にダブルスレッジハンマーなんて教えたの」
「あれって実はプロレス技らしいよ」
「へえーそうなんだ。べジータがよくやるってことしか知らなかったよ」
着々と親睦を深めつつある俺たちに息を切らせた恋塚さんが怒鳴った。
「おぉぉぉぉぉい!? 無視か、くじの内容はガン無視か!? おまえらどんだけ状況変化に無関心!? もっと熱くなれよぉ!! こっちは仕事でやってんだぞ!!!」
本音だだ漏れすぎるだろ。俺は隣のお団子に聞こえるようにため息を吐いた。
「頭おかしいだろ? あれ俺を連れてきた天使なんだぜ」
「うわあ……どんまい」
その言葉だけで救われるよお団子ちゃん。
恋塚さんは修羅の形相を作っていたが、ごしごしと両手で顔をこすると、元のぶりぶりフェイスに戻った。
「さあて、第一回戦の種目は? ……これです!」
くじを引っこ抜き、自分の背丈よりも何倍もあるそれを頭上でぶん回し、再び雲にブッ刺した。
そこに書いてあったのは……
「第一回戦の種目は……『ゴルフバトル』です!!」
ご、
「ゴルフバトル……だと……」と俺。
「くっ、やったことがないぜ……」とモヒカン。
「無理ですよぉ……私帰りたいですぅ……」と泣き虫。
各地で巻き起こる阿鼻叫喚。この人口過密の東京でゴルフに親しんでいる若者なんて石川遼とえなりかずきしかいねーだろ。
だが、俺たちの中でひとりだけ動じていないやつがいた。そいつは「ふっふっふ」と悪党の親玉もしくは七分前の天使こと恋塚某のような含み笑いを漏らしていた。
チョッキ野郎である。
「ゴルフか、ふむ、どうやら神も誰を天界へ招くべきかご承知らしい」
「なんだって!?」とホスト風。
「汚いぞジジイ! 神にワイロでも使ったか!」とモヒカン。
「どうせセレブなんだろう!? 金のにおいがぷんぷんするぜ!!」と俺。
「インチキインチキ!」と草食系。
「黙れっ!!」
昭和生まれの一喝で俺たち平成生まれ(他のやつらは知らんけど)はしゅんとおとなしくなってしまった。こえー。
チョッキくんはコツコツとステッキで自分の掌を叩きながら、
「まったくこれだから最近の若者は……ワイロなんぞ使えるわけがなかろう。私はただ、生前、ゴルフを嗜んでいたというだけだ」
「どれぐらいの頻度でだ!?」
チョッキはぐっとVサインを突き出して見せた。
「週2だ」
「なん……だって……」
「俺のバイトのシフトと同じじゃねえか……!」
「ベテランであることは疑いようが無いな……」
恐れおののく俺たちを見て愉悦の境地に至ったのか、チョッキが胸をそらした。
「ま、せいぜい貴様らは私と初戦で当たらないことを祈るんだな……」
「それではみなさん気合も入ったようなので、組み合わせを発表します!」
「俺たちでくじ引いたりしないの?」
「だってぇ、あの高さからダブルスレッジハンマーできないでしょ?」
恋塚さんの嘲りを含んだ目に俺のプライドがチクリと痛んだ。できるよ。できるもん。台とかあったらできる。ほんとだもん。
得意満面の恋塚さんが上空に指を向けた。その指が動くたびに、虚空をキャンパスに炎の字が浮かび上がる。知らない名前が次々と浮かび上がったので、俺の目は自然と自分の名前に吸い寄せられた。隣には横線が一本引かれている。その先にあるのが対戦相手の氏名だろう。
お願いっ! もうバイト先でトイレ掃除サボったりしないから、チョッキくんだけはやめて! あの草食系がいいな。へちょそう。あとお団子ちゃんもできれば自分の手で地獄逝きにはしたくないなあ。
俺は目を閉じ、両手を組んで作ったダブルスレッジハンマーに神への祈りをぶちこめた。頼むぜ……
あと一枚でフルハウスが完成する時のカードチェンジのような気持ちで、そっと目を開ける。
高木燐吾――石飯清美(いしいい きよみ)
俺はほっと胸をなでおろした。
「よかった、女子か」
お団子か泣き虫か、どっちかはわからないが、仕方ない、これもさだめだ。
俺が甘く苦い感慨に耽っていると、ポン、と誰かが肩を叩いてきた。
チョッキだった。
上を指差しながら、
「あれ、わし」
その笑顔は、とっても素敵な微笑みで。
そう、それは、獲物を見つけた蛇のような穏やかさ。
俺はその場にひざまずき、雲の波間を拳でぶん殴って慟哭した。
清くも美しくもねーよ、こいつぅ!!!!
『天国まで……三十七万二千アンゲロス』
ひとまずそこで解散になった。試合はすぐに始まるわけではないらしい。はっきりとは言われなかったが、公正を期すためとかなんとか、一応はゴルフを勉強する時間でも与えてくれるということなのかもしれない。
試合まであと二十四時間。
控え室に留まるやつらもいたが、俺はふらっと外へ出た。対戦相手の石飯もいなかったし、お団子ちゃんも気がついたらいなかった。泣き虫さんに隣でしくしくされるのも悪くはないが、俺の胃までしくしくしかねない。
外は相変わらずの雨。俺は恋塚さんの傘に割り込みながら聞いてみた。
「どっかで雨宿りしよーぜ。メシとか喰えるとこないの?」
「ありますよー。リンボなめたらいけません。二十四時間、準天使たちがモリモリと肉とピクルスをパンで挟んでいるんですから」
つまりハンバーガーか。
「なあ、さっきから聞きたかったんだけど、リンボってなに?」
「リンボ、つまり煉獄ですね。天国と地獄の間にある、魂の試験の場のようなものです」
恋塚さんは俺のことをじっと見つめてきた。俺のこと好きなのかな。
「ごめん、俺タンを吐き掛けてくる女は無理なんだ。すまない」
「かーっ、ぺっぺ」
「ダメ押ししてきたかー。おいどうしてくれるんだよ。俺の一張羅から生臭いにおいがするんだけど?」
「雨で流せばいいんじゃないかと恋塚さんは思ってみます」
雨で洗濯したら生乾きのにおいが発生しちゃうだろ。
「ま、このままウロウロしててもラチが開きません。対策を考えるためにも落ち着ける場所へ移動することには賛成です。いきましょう」
俺は恋塚さんについていった。
「それにしても高木さん、ずいぶん落ち着いてますね」
「そうかあ?」
「はい。相手がよりにもよって、あのゴルフ経験者だったんですよ? 最悪にツイてないじゃないですか。もっとこう、泣き叫んでもいいんですよ? 私の胸でよければいつでも貸しますから」
そう言う恋塚さんの左手には携帯電話がもう握られている。この野郎、またいたいけな部下を俺の毒牙にかけさせるつもりだな。
「いらねーよ。羽つきにそんな世話までしてもらいたくねー」
「あらら、ご立派なことで」
ふん、と俺は鼻を鳴らした。
「ツイてねーとか、ツイてるとか、そーゆーのは死んだ後に考えるって決めてんだ」
「死んでますけど」
うるせーなー。なんかどっかで聞いたようなツッコミでいつもの二倍腹が立った。幽白だっけかな。
「あんた、ずいぶん熱心にこっちの心配してくれてるけど……なんで?」
尋ねてみると恋塚さんはふくよかな胸をポンと叩いた。
「なにを不安がっているのです、私は天使、迷える子羊が無事に天へと召されることを願うは我が使命……」
「ボーナスで何買うの?」
「VITA。……あっ!!」
恋塚さんは俺のくるぶしをガスガス蹴った。同じところを何度も蹴るのはやめてほしい。後遺症を残すつもりだろうこれ。
「卑劣なっ! 天使をだますなんて!」
「だますもなにもあんたの態度見てりゃ手持ちの死人をエスコートしたら何かご褒美があるんだろうなって普通は気づく。ていうかこんなん仕事だって自分でさっき白状してたじゃん」
「そんなのこの愛されボディとモテカワウイングで今までずっとキャンセルしてきたのに……私の笑顔が通じないなんて、さてはあなたノンケではありませんね」
なんてこと言いやがる。どこにどんな阿部さんがいるかわからねーのに……!
「俺を勝ちあがらせたいんだったらせいぜい頑張るんだな」
「何を馬鹿な。頑張るのはあなたです」
「まだわかっていないよーだな。俺はゆとりだ。ゆとりは自分で何かを行動したりしない」
「っ!」
俺の目にマジを見て取ったのだろう。恋塚さんは口惜しそうに顔をゆがめた。
「くっ……仕方ありません、私も最大限お手伝いしましょう。ボーナスと見合うだけの努力をもって」
「ありがとう。VITA買ったら貸して。あの重力でふわふわするやつやりたい」
「天国上がったらVITAくらいくれますよ」
マジかよ!
○
雲の壁にオークの看板が下がっている。えりぃのお店。店主の名前は襟上というらしい。うまいこと考えたと思ったんだろうなあ。
俺たちはえりぃのお店の扉を開けて中に入った。店内はちょっとした酒場のようになっている。木で出来た丸テーブルに椅子、カウンター、天井から下がったランタン。なんかちょっとわくわくしてきた。
「なあ、早くなんか喰おうぜ。天使って普段どんな食いもん食ってるの?」
傘の水気をしぱしぱやって吹き飛ばしていた恋塚さんはきっと俺を睨んだ。
「何を馬鹿なことを言っているんです? ご飯を食べて一服、そんなことができる身分とお思いですかこの甲斐性なしの穀潰し」
その剣幕に俺はあっけに取られてしまった。
「おまえこそ自分のこと甲斐性なしだと知らなかったのかい……?」
「ちょっ、痛い痛い胸倉を掴まないで。なんで逆ギレ? 空気を読みましょう今は私のターンです」
「なあんだ。それを早く言えよ」
「これ以上早いタイミングで伝えるには打ち合わせが必要です」
確かに。
恋塚さんは乱れた襟元を直して、こほんと咳払いをした。
「とにかく、時間がありませんし死人は霞でも食ってりゃいいんですから早回しで修行に入りますよ。えりぃ、こないだ買ったあたしのゴルフクラブ出して!」
むくり、とカウンター向こうで寝ていた店主が顔を出した。二十代後半くらいのすらっとした美人である。目元に泣きぼくろがある。
「あんたがあの痛恨の出費を思い出すなんて今度という今度はマジなのね」
「うるさい。京都で木刀買うのと同じ気持ちだったの。いいから出して」
はいはい、と襟上さんはカウンター下からゴルフバッグを取り出してこっちへ放り投げてきた。俺はわかっていたけど何もせず、恋塚さんはバッグを受け止めそこねてその場にひっくり返った。
「神よ……なぜ私にこんな辱めを……!」
「いや自分のせいじゃん今の。パパのせいよくない」
「くっ、生意気な」
恋塚さんは立ち上がって、ゴルフクラブを引っこ抜いた。俺にもよくわからないが、たぶんドライバーってやつだと思う。いろいろ種類があるって大昔にジャンプで読んだ。
「いいですか、私もゴルフはわかりませんが、とりあえずぶっ飛ばせばいいんです」
「そんなメチャクチャな。もっとこう、細かいルールとかあるんだろ? 入れたり出したり」
「ボールをカップインさせたりとかですか? そうかもしれませんが、どうでしょう」
「いやどうでしょうって。なんでそんな素朴な顔してんの。聞きたいのは俺なんだけど」
「いえ、本当に私にもわからないんです。ほら、これ」
恋塚さんがどこからともなく『指令書』と書かれたA4のプリントを差し出してきた。そこには、動く文字で開催時刻までのタイムカウント(残り22:48:23、22、21……)と、ただ素っ気無く、『ゴルフバトル ルール:ぶっ飛ばせばいい』と書いてある。
「さっき天から配布されたのです」
「おいおい、せめてぶっ飛ばすだけならドラコンって書けよなあ」
「ドラコンってなんです? ドラコンクエスト?」
「みんな言うよねそれ」
「私は初めてです」
俺はつぶらな瞳をした恋塚さんが哀れになった。友達いないんだなあ。
「確か、えーと、ドライバーズコンテスト? カップインさせないで思い切りぶっ飛ばせばいいってやつ」
「ああ!」
恋塚さん、パン、と手を打ち、
「なるほど。それでドラコン。へえ、なるほど、いやあ、すごいなあ」
しきりに感心している恋塚さんに付き合っていたら雨が止む。俺は勝手に恋塚さんのドライバーを持ち出して、素振りしてみた。思い切り木の机を吹っ飛ばした。襟上さんに何度も頭を下げて元に戻させていただいた。すげー怖い目してた。あれは飲食店を回せる女の目だわ。
「高木さん、そんなこともあろうかとこんなものがご用意しております」
メチャクチャな敬語で恋塚さんが言い、俺の足元にグリーンのシートを敷いた。よく会社の社長とかがドラマでやってるあれだ。でも景気悪いからああいうシーンも最近は見ないよね。
「ほい、この釘みたいのの上にボールを置きましたよ」
「なんかすげーゴルフを冒涜してる気がする」
「そんなことありませんよ。私たちはまじめにやってるんですから、たかが小道具の名称ぐらいどーでもいいのです。大切なのは中身。ほら、打っていいですよ」
「でも壁が」
俺が言うと恋塚さんはけらけら笑った。
「壁?」
顔を上げて、まじまじと俺が壁と呼んでいたものを見た。
雲だった。
なるほどね。
俺はテレビで見たフォームをなんとなく頭に描きながら、ドライバーを構えて、振った。
どかっ
いい音がして、ゴルフボールが雲に穴を開けた。すかさず恋塚さんが手を突っ込んでボールを回収してくる。
「いい調子ですよ。肘のところまで埋まってました。この調子で私じゃ取れないくらいに埋めましょう」
「任せとけ。目指せ300ヤード」
「やあど? なんでもいいですが、とにかく頑張ってください! フレーフレーた・か・ぎ、ほらえりぃも、フレーフレーた・か・ぎ!」
襟上さんはガン無視してテレビを見ている。いまどき白黒かよ。
「フレーフレーた・か・ぎ、フレーフレー……ううっ……ぐすっ……」
「無理すんなよ」
応援されて泣かれるって俺はどうしたらいいんだよ。居た堪れないよ。
俺の名前の代わりに「金ヅル」を採用したクソ羽つきの声援を背にしながら、俺は打ちに打った。いやあ、死ぬってのも悪くない。汗はかいたが全然疲れが来ないのだ。こりゃあ便利さにかけちゃ生きてる時より上だな。
「その代わり、筋肉とかはもう増えないですけどねー。まあ、天国ではマッチョにできることなんて胸の筋肉ピクピクさせる芸するくらいしかないですけど。あとはすげー体位とか」
「すげー体位ってどんなん?」
「なんかね、こう……」
腰の引けたバレエダンサーみたいにくねくねやりだした恋塚さんを見ているとストレスがたまりそうだったので、俺は練習に精を出した。ゴルフかあ、ドライバーでぶっ飛ばすだけならおとなしい野球みたいなもんだな。
そうしてえりぃのお店の壁面を弾痕で埋め尽くした頃には、もう残り三時間になっていた。嘘だろ? 俺、練習以外でやったことと言えば恋塚さんと石飯の悪口言ったり、最近のゲハ抗争について語り合ったり、すげー体位について詳しく聞いたりしただけだぞ? 嘘じゃん。こんなの嘘じゃん。
「死ぬと時間の流れも早くなるのか」
「まあ、そうでもないと永遠の天国で発狂しちゃいますよ」
「それはそうかもしれないけど、なんだかなあ」
「文句言ってないで、ほらほら手を動かす。天国へ逝きたいんでしょう?」
恋塚さんがパタパタ手を振ってくる。彼女ヅラしやがって。
何千回目だったろう、ドライバーを振り上げた。その時だ。えりぃのお店の扉が吹っ飛んでどうっと女の子が倒れこんできたのは。俺はびっくりしてそのまま振り返りつつドライバーを振ってしまった。
「ぎゃっふぁ!!」
何かをゴルフクラブでぶっ飛ばしてしまったような気がするが今はそれどころではない。俺は倒れこんできた女性を助け起こした。メガネをかけた、ショートヘアの女の子。泣き虫さんだった。確か名前は、玖流井奈央子。
「大丈夫ですか?」
「ええ……きゃっ」
ガン、と玖流井さんの顔に小さなものがぶつかった。知恵の輪だ。玖流井さんの額からつっと血が流れ出した。
俺は怒りに駆られて振り返った。
なかば予想はしていた。そこで顔中をしわにして激怒していたのは、石飯清美だった。
「そこをどけ、小僧。わしはその女と話がある」
「突き飛ばして知恵の輪ぶつけるのがあんたの話し方か」
「生意気なことを言うな」
こんな時に生意気を言わずにどうする。俺は立ち上がって拳を握った。
「失せろ。ぶっ殺されたくなけりゃあな」
でないと俺の右が火を噴くぜ。
「ふん、できもしないことを」
「いったい何があったってんだ。あんた、まさかこの期に及んで血迷ったのか? 嘘だろ、八十七まで生きてまだ性欲ひとつてめえの意志で制御できねえのか。死んで当然だな、このクズが」
「馬鹿を言え。性欲? そんなものではないわ、そう、我々の関係はもっと高度なもの……その女は」
石飯は口を覆って泣き伏せている玖流井さんを指差した。
「生前、私の妻だった女だ」
俺は深々と頷いた。
「そういう気がするだけだろ。俺にもよくある」
「違う。馬鹿か。その女はまぎれもなく私の妻だ……元だがな。苗字が違うのは三年前に離婚したからだ」
「離婚したならあんたとは他人で知恵の輪ぶつけられるいわれはないぜ」
「ふん。知恵の輪ぐらいがなんだ。その女は私の金を黙って使い込んだのだ」
俺は玖流井さんを見た。何も言わない。事実なのだろう。
「だから縁を切った。だが、わしはそいつを見捨てはしなかった。生活費を与え、小さな家を買ってやった。そいつの不義で縁こそ切ったがわしは義理を通し続けたのだ。だからわしは、その女に、二回戦へ必ず勝ちあがれと命じたのだ」
一瞬、何言ってるんだこいつと思った。が、すぐに理屈が頭の中を走った。
「二回戦か、もしくは三回戦まで上がって、自分とぶつかった時は負けろ……そう言ったわけだな」
「ああ、それがその女にできるわしへのたったひとつの償いなのだ」
「ふうん」
「どけ、小僧。言ってわからぬなら身体へ叩き込んでやる」
「どかない」
「くだらない英雄ごっこはやめにしろ。正しいのはわしだ」
「確かに、俺には玖流井さんをかばう義理も、玖流井さんがやったことを正当化する頭もねえ。だが、ここをどかず、あんたを追っ払うことに理屈なんかいらないんだ」
「どうして」
「あんたは俺に、負けるから」
俺と石飯は額をつき合わせてにらみ合った。いわゆるガンのくれあいだ。
石飯がカンチョーを喰らったような切羽詰ったツラで俺を睨み上げた。
「後悔するんだな、地獄へ落ちていく高みの中で」
「言葉が難しくてわかんにゃい。もっとストレートに言ってよおじいちゃん」
「死ね」
「てめえがな」
ばっ、と石飯はわずかばかりのチョッキのすそを翻して大股に去っていった。俺は息をついた。やっぱ疲れるぜ、こういうの。
俺は玖流井さんに手を貸して立たせてあげた。
「ありがとう……ございます」
「いんですいんです。それよりも気にしない方がいっすよ。もうお互い死んでるんだから義理もクソもないっすよ。宵越しの借りどころか黄泉越しの借りっすからね、踏み倒したって罰ァ当たりません」
俺の言い方がおかしかったのか、玖流井さんはくすくす笑った。うーん、どう見ても十八歳、でも精神年齢は八十以上か。うーん。すげえ。
「玖流井さん、あの、つかぬことを聞きますが」
「はい?」
「ゴルフはたしなんでおられました?」
玖流井さんはぶんぶん首を振った。
「そうですか。じゃ、ちょうどいいや、ここにゴルフの練習セットがあるんでね、あと時間はちょっとですけど、よかったらやってってください」
「いいんですか? 高木さんがやっていらしたんじゃ……」
「や、俺はもう充分。疲れちゃったんで、どうせやらないし、どうぞどうぞ」
俺がしきりに薦めると、玖流井さんは「じゃあ……」と腰をあげて、おずおずとドライバーを握った。何度も俺の方を振り返って、「構えはこれでいいんでしょうか」と聞きたげに目を潤ませてくる。やべー。っべーわマジべーこれっべーわべーべーべーだわー。
頭すっとろとんになりながら、俺はにやにやして玖流井さんの練習を見守った。
三十分後、目を覚ました恋塚天使によって俺はギッタンギッタンのズッタズタにされることになるのだが、今はまだ、しあわせの途中。
『試合まで……残り2時間27分51秒』
俺は狙いを澄ませて、ドライバーを振った。
しゅばっ
ぼこり、とボールが雲の壁にぶち込まれる。すかさず恋塚さんが駆け寄って腕を突っ込んだ。
「んー」
じたばたと足をばたつかせても、届いた様子はない。恋塚さんは腕を引っこ抜いてピースサインをしてみせた。
「ばっちりです。きっと300ヤードだってぶち抜けます」
「そうかな」
俺はすっかりその気になった。ゴルフの才能あるのかもしれない。
恋塚さんは腕時計をちらり見た。
「そろそろ時間ですね、いきましょう高木さん」
「ああ。じゃ、いってきます玖流井さん」
「はい、複雑ですけど、その……頑張ってください」
玖流井さんは甘酸っぱい笑顔を見せて俺を激励してくれた。いい人や。この人こそ天使。恋なんとかさんなんていらなかったんや。
「そっちこそ、負けないでくださいね。じゃ、お互い頑張りましょう」
俺は親指を立ててみせて、襟上さんとこを後にした。
「いい人や。恋塚さんも見習わなきゃいけませんな」
「何を馬鹿な。敵にあんまり隙を見せない方がいいですよ」
「何が敵だよ。これだから戦闘民族は」
「だって天国に逝くにはいずれ彼女とも戦うかもしれないんですよ? わたしたちの宿命は最初からこうなるさだめだったのねですよ?」
「そうかもしれないけど、そういうことゴチャゴチャ考えてると人生楽しくないよ」
「そうですかねえ……」
べつにさほど考えて喋ったことじゃないのに、恋塚さんは深々と考え込んでしまっていた。まあ俺は策略だの策謀だの、勝たなきゃ駄目なんだなんていう暑苦しかったり悲壮感漂ったりしているのは、もともと嫌いなのだ。ボーナスを喰うための商材としては俺は不適格だったのかもしれない。
「高木さん、モチベ低いみたいですね。どうしたらもっと天国に恋焦がれてくれます? VITAじゃ駄目ですか?」
「駄目じゃないけど、ものすごく後味悪い思いしてまでソニーの犬になるつもりもないな」
「えー……困りますよぅ。私のボーナスが」
「まあ、大丈夫だって」
俺は大きな樫の扉の前で立ち止まった。
「べつに地獄逝きになりたいわけでもないし。だって地獄にゲームとかあんの?」
「たぶん……ピンボールぐらいならあるんじゃないですかね」
ゆとりにはピンボールはゲームじゃねーよ。スポーツだよあれは。
恋塚さんはついてこられないと言うので、俺は一人で扉を開けて中に入った。
中では守護天使もなしに石飯のジジイがむっつり無粋なツラをさらしていた。いつ見ても手の甲で撫でたくなるショタ顔である。
「ついに雌雄を決する時が来たな」
「ふん、わしが勝つに決まっておる」
おとなげないなあ。もうちょっと年上の余裕ってやつを見せてくれてもいんじゃね?
「小僧、ゴルフをなめるなよ。一朝一夕で習得できるものではないのだ。若い頃からたまの休日を取引先に潰されながら覚える、それがゴルフなんだ」
「誰よりもゴルフをディスったよね今。おじいちゃんほんとはゴルフ嫌いだよね」
「そんなことはない。若いのを付き合わせるよう立場になったらむしろ好きになった」
なんてやつだ。このジジイのせいで何人の企業戦士の休日と、そして運動会をパパが見に来てくれると信じていた幼女たちが犠牲になったのか。うむ、許せん。月に代わってこの俺が天誅を下してやるぜ。
俺たちはお互いに「やっつけてやる」的なガンを飛ばしつつそわそわしながら何かを待った。すると突然、
ぽろっ
宙から二本のゴルフクラブが落ちてきた。俺はなんとなくオチを見越し、スウェーバックしてクラブを避けた。あぶねー。
俺たちはそれぞれ一本ずつ手に取り合った。握りを手に取ると、なんだかいつもと違う。
軽い。
石飯が授業中にジャンプ読んでるやつを見つけたようなツラをした。
「おまえそれパターじゃないか」
パターなの。
いやパターなのじゃねえよ。え? ドラコンじゃないのこの勝負。ていうかボールは?
「はっはっは」
石飯がぶんぶんドライバーを振り回して素振りしている。
「神はやはりわしを選んでいるのだ。だからえこひいきしてくれたのだな」
してくれたのだな、じゃねえ。えー。マジかよシャレになんない。正々堂々とやって負けたら笑って落ちようと思ってたけどパターって。もうほんとやだ。責任者どこ? 上?
俺はがっくり肩を落としてもうパターも持ち上げられない有様だった。
「そう気を落とすな。お詫びに300ヤード越えを見せてやろう」
うるせーよさっきから300ヤード300ヤードってよお、ライジングインパクト読んでたのはわかってんだよ。いま思うとあれもアーサー王モチーフの話だよね。
ノリノリでドライバーを大車輪する大人気ない精神年齢八十七のクソショタの背中を恨みがましげに眺めているうちにふと俺は思った。300ヤード?
この部屋はそんなに広くない。
俺は立ち上がった。パターをぎゅっと握り締める。
これでも若い頃はどこどこカップのなんとか杯でとか言っている石飯の頭に、俺は思い切りパタークラブを打ちつけた。
声もなくバタリ、石飯が倒れる。
「な……ぜ……」
といいながら頭から流れ出てきた血(死んでも血って流れるんだなあ、と俺は感慨深く思った)で「犯人はたかぎ」とかなんとか書いている石飯を、俺はパターに顎を乗せて見下ろした。
「ひらめき・きらめき・もものき!」
末期の場でふざけられた石飯の気持ちは推して知るべしだが、玖流井さんのおでこの傷の仕返しにはちょうどよかったろう。
「いやーここで高木クンのセンス爆発ですよ。これぞ才気煥発ってやつ」
「なに……?」
「だからさ」
説明する言葉に迷って俺は意味も無く指を回した。
「これはゴルフじゃなかったってこと。くじには『ゴルフバトル』って書いてあったじゃん? 覚えてない?」
「…………アリか…………そんなの…………」
アリなんです。
俺はどっかと石飯がいた場所に腰を下ろして、恋塚さんが部屋の中に入ってくるのを眺めた。いい気分である。
「やりましたね、高木さん!」
「ろんもち」
恋塚さんは俺の握ったパターと、その先についた血を見て訳知り顔で頷いた。
「なるほど……ゴルフではなくゴルフクラブで戦うバトルだったのですね。ナットク」
ナットクじゃねえよ。やっておいてなんだけどすげーモヤモヤ残ったぞ。
「あんたほんとに知らなかったの?」
「当たり前です! 知ってたら嘘と洒落と笑顔を教えてましたよ」
あえて聞き返さなかったけど、それって人をうしろから殴り倒す時の極意なの? こわい。
「石飯のやつ、殴ったら消えちゃったんだけど、どこいったんだ? やっぱ地獄ってやつ?」
「ええ。でも高木さんが気にすることじゃないですよ。だってもう二人とも死んでるんですもん。アフターゲームがあっただけ幸運だったと思ってくれないと」
死後の世界とか愛の奇跡を礼賛してるエロゲー業界人に言ったら最終選考で落とされそうなセリフだなあ。
「さ、いきましょう」と恋塚さんは言った。
「もうすでに2試合終わってます。最後の面子が決まったら、リンボ第二層へ進みましょう」
『昇天の間』とかいうところに俺たちがいくと、お団子ちゃんとホスト風の男が立っていた。ホスト風は俺のことが嫌いみたいで忌々しそうに見てくる。なんか悪いことした? 俺。
「やっほー、テンパくん」お団子ちゃんは今日も元気である。
「あんたいまひどいこと言った。いいか、あんたいまひどいこと言った」
「あはは、ソーリー」
残念じゃねえよ。なんだ? ダメ押しか? 俺の髪型が残念ってか? このやろう!
「でも、あんたが無事でよかったよ」
「あら、お世辞がうまい」
「そんなことないって。考えてもみろ。この空間にあのチャラ男と草食系おかっぱ三人きりで閉じ込められてみろ。俺は自分から地獄へ落ちる」
「ああ……確かに」
「だろ」
気まずくって想像するだけでもおなかが痛くなるってもんだ。
俺は背後を振り返った。
「まだ来てないのは?」
「玖流井さんとモヒカン」とお団子ちゃん。
「やっぱあの二人か……玖流井さんが勝つよな」
「あのモヒカン頭悪そうだったしね。カップ焼きそばとかそのまま食べてそう」
さりげにひどい。
「そういやさ、いまさらなんだけど」
と俺が言うとお団子ちゃんは「ん?」と小首を傾げて見せた。ボブヘアの毛先が白い首筋をかるくかいている。
「俺、あんたの名前まだ知らない。組み合わせ発表ん時は石飯のことで頭いっぱいだったし」
「あらら」
「だからさ、教えてくんない? あんたの名前」
ちょっとぎこちない感じだったが、すんなり教えてくれると思っていた。が、お団子ちゃんは「むふふー」とイタズラでも思いついたような顔になり、
「やだ」
と言った。ひでえ。
「ひでえな」
「だってタダで教えちゃったら面白くないし。ねえ、賭けしない?」
「賭け?」
俺はちょっと不安になった。この子もあれか、オッズの意味もわからずに賭けとか言い出しちゃう子か。おじさんそんな子はガシャポンでもやってればいいと思うよ。
「いやいや、そんな大したもんじゃなく。あの扉から」
お団子ちゃんは俺たちが入ってきた樫の扉を指差して、
「次に入ってくるのは玖流井さんかモヒカンかって話」
「なるほど。じゃあ俺は玖流井さん」
「あたしはモヒカンね。玖流井さんが入ってきたらあたしの名前を教えてあげよう」
「モヒカンが入ってきたら?」
お団子ちゃんは俺の目を面白そうに覗き込んできた。
「その時は……」
「その時は?」
「あんたの名前を教えて?」
「……。高木です」
「ああっ! 先に言っちゃったら意味ないじゃーん!!」
うるせえなっ! 悲しかったんだよ! おまえも俺の名前よく見てなかったな!!
ていうかわりと注目のカードだったじゃん俺対石飯……どんだけ興味ないんだよ……これが平成という時代なのか。もっと他人に興味を持ちましょう。
俺がお団子ちゃんとガアガア言っているうちに樫の扉がずずっ……と開いた。
そこから出てきたのは、
「待たせたな……真打の登場だぜ!」
モヒカンだった。
玖流井さん……
「元気出してください」
他の守護天使と世間話に言っていた恋塚さんが戻ってきた。
「天国へ逝けば代わりなんていくらでもいますから」
「代わりね……」
俺は冷めた目で、喜びをエアギターで表現するモヒカンを眺めた。くそっ、腹立つ。なんだそのやる気のないレフトハンド奏法。馬鹿じゃないの。お団子ちゃんの本名は知り損なうし玖流井さんはひょっとしたら地獄で元旦那にまたイビられてるかもしれないし、それもこれも全部あのモヒカンのせいだ。根こそぎ剃ってやりたい。
「さてさて、それではみなさん」
パン、と恋塚さんが手を打った。
「面子も揃ったようなので、そろそろ次へ進みましょう。んーっ」
恋塚さんがエネルギー弾を撃つ時の構えを見せた。そしてずずずっ……とやはり重々しい音を立てて、雲の階段が競りあがってきた。先は見えない。よわい光で満ちている。
「この先がリンボ第二層。みなさんが準決勝を争う場です。でわでわ、頑張ってください」
「え?」
俺は急に心もとなくなった。
「恋塚さんは一緒にいかないの?」
「はい」と白髪でサイドテールで金目で組織の犬な美少女は答えた。
「残念ながら、私の仕事はここまでです。第二層では私のチームのメンバーが、高木さんのサポートをしてくれますから、ご安心ください」
「でもさ……」
「寂しいんですか?」
は、はあ? べつにそんなことねーし。馬鹿じゃん?
「うふふー。このツンデレっ!」
わき腹を恋塚さんが小突いてくる。「やめろよう」とかイチャつきたい気持ちはあったがこいつのエルボーマジで固ぇ。
「やめて。ほんとにやめて」
「照れちゃってえ」
気づけ、この俺のこの冷めた目に!
とまあ、そんな具合にして各自が守護天使に別れを告げ、階段の最初の段に一歩、足を乗せた。俺は顔を上げて光の中を透かして見ようとした。
天国まではまだだいぶありそうだ……
しみじみとした思いに浸っていた俺の視界に、モヒカンの後ろ姿さえ映っていなければ、写真に残したいくらいいい光景だったのだが。おまえほんと空気読めよ。なんだその極彩色の頭。馬鹿じゃないの?
「がんばってくださいねー! 私のボーナスのためにー!」
背後からぶつかってくる無遠慮な声援。ったく、どいつもこいつも。
俺はゆらっと片手を挙げて、銭の守り手に応えてやった。
『天国まで3階級』 第一部完