天国まで3階級
第二部
階段の途中でまるで作り手が飽きたようにエレベーターがあったので、俺たちはそれに乗った。なんだかものすごい高さを登っていったような気がする。十万キロくらい。
ドアが開くと同じような広間に出た。ちょっとさっきよりも明るくなっている気がする。雨の音ももうしない。
俺とお団子ちゃん、モヒカン(←クズ)とホスト風はお互いに顔を見合わせた。
「誰もいないな」
「日曜なのかもしれない」
「わかんねーぞ、定休日を一般社会とズラしておくのが自営業のやり方だからな」
「おまえなんの話してんの?」
俺にもわからん。
ぺちゃくちゃ喋っているうちに、あっけなく、天から羽つきどもが降りてきた。――って、ちょっと待て、あの顔は知ってるぞ。
「蜂山さん!」
あやうく俺を丸こげにしかけた白髪ロングストレートの天使サマが、車に轢かれた小動物を見るような目でこっちを見下ろしてきた。
「また会ったな、高木くん」
「ひょっとして蜂山さんが俺の新しいパートナーなの?」
「残念ながらそういうことになる」
残念だって。ひどいこと言うよね。冗談はもっと気を遣って言ってほしいな。
「いやーでもよかったよ。全然知らない人だったらストレスで貧血起こしてたかもしれない」
「それはよかったな。だが喜ばしいこととも限らんぞ。私はスパルタで有名なんだ」
「ははは、美少女からの折檻のひとつやふたつ、大したことないッス」
蜂山さんは青い顔をして口元をおさえた。
「やめてくれ。引きそうだ」
その発言が出てくる時点ですでにドン引きじゃねーか。
「ふざけている時間はない。みんな、聞いてくれ! これから第二層の……おい! 聞け! いまは綿菓子とリンゴ飴の食べ比べをしている場合じゃない! というかどこから持ってきたんだそれ? 話を聞け!」
お団子ちゃんとホスト風は渋々口から木の棒をはみ出させながら話に集中することにしたようだ。ほんとにどこから持ってきたんだよそれ。そのへん掘ると出てくるの?
こほん、と蜂山さんが咳払い。
「第二戦の種目と対戦相手をこれからくじを引いて決める。準備はいいか? 質問は?」
「はい」とお団子ちゃん。
「なんだい? なんでも聞いてくれ」
「くじを引く時にどんな準備がいるんですかー。どんな質問ができるっていうんですかー。バナナはオヤツに入るかどうか聞いたら怒らないで答えてくれるんですかー?」
「…………」
怒髪天を突いた蜂山さんはぽかぽかお団子ちゃんを殴打せしめ始めた。お団子ちゃんはきゃーきゃー言いながら逃げ回っている。平和だなあ。
蜂山さんに実はパンチ力がさほどないことが実証された後、彼女は息を整えて、俺たちを睨んだ。
「地獄へ落ちろ」
天使がそういうこと言っちゃ駄目だろ。つか俺らも巻き添え? 大人しく見てたのに。
「いいから、ほら、とっととくじを引きに来い」
蜂山さんはどこから取り出したのか、手に持ったおみくじをガラガラ振った。
「今回はダブルスレッジハンマーはしないんですか?」
「あの人は馬鹿なんだ」
そうなんだ。そうだと思ってたよ。
俺たちの中で、とりあえず代表として俺がくじを引いた。それを広げて読み上げる。キンチョーするなあ。第二戦の種目は……
「三輪車レース!!」
ぼかっ
俺はわけもなくみんなに殴られた。ひどいよ! なんで!
「やめてくれ! 暴力はよくない!」
「三輪車とかなめてんのかオラ」
「人をおちょくるのもいい加減にしろよ」
「読み上げる時のにやにやがすごく気持ち悪かった」
くそっ、こいつら神様をいじめるにはちょっと距離が遠すぎるから手頃な俺を代わりにしてやがる。なんてことだ、お団子ちゃんまで辛らつなセリフを吐いてきて。ただ単に鬱憤がたまっているというよりは俺そのものにストレスがたまってる風だったけど気にしないでおこう。きっと気のせいだ。
俺は蜂山さんにボコボコ空間から引っ張り出されて事なきを得た。本当に恐ろしいのは人間なんだな。業の深き生き物よ。
「おまえたち、私が守護する魂をいじめるのは私を通してからにしてくれ」
「ごめんね蜂山さん」
「蜂山さんが言うなら仕方ねーな」
「今度からは気をつけてボコボコにするよ」
気をつけてもボコボコにしちゃ駄目だよ。
「残念だがおまえたちが三輪車でレースをするのは決定事項だ。では、対戦カードの方を掲示しよう」
蜂山さんがすっと頭上に指を掲げた。すると何もない空間にやはりまた火の文字がぽぽぽぽぽと浮かび上がってきた。
高木燐吾――山口岳之進
西表猫子――池無矢麻斗
俺もあんまり人のこと言えないけどひっでー名前ばっかりだな。特にひどいのはもちろんアレだ。
俺は顔を真っ赤にして俯くお団子ちゃんを覗き込んだ。
「イリオモテヤマネコって飼っちゃいけないんだよ」
「わかってるよそんなこと!!」
相当名前のことで生前トラウマがあったらしい。お団子ちゃんは女の子みたいに顔を覆ってしまった。超かわいい。結婚したい。
「俺と結婚すれば少しはまともな名前になるよ。高木猫子。いい名前じゃん! 結婚しよう!」
「高い木に登った猫っていうなんか名前に物語ができちゃうじゃん!!」
気にしすぎだよ……。誰もお団子ちゃんが名乗った時に「上手いこと言ったね」みたいな顔しないから安心しなって。
俺はそっとお団子ちゃんの肩を抱こうとしたらその手をバシンと何者かに叩き落とされた。
なにしやが、
「もー! わたしの守護する魂に手を出さないでください!」
「…………」
「大丈夫ですか西表山猫さん」
「猫子です」
「すいません猫子さん、この男は荒くれ者でして、ええ死んだ後すぐはおまえは孫悟空かと言いたくなるような暴れっぷりでわたしの部下をギッタンギッタンにしてしまったのです。ひどいですよね、クズですよね。猫子さんはそんな人に負けて地獄へ落ちちゃ駄目ですよ?」
「何やってんの恋塚さん」
俺の冷たい声にびくり、とその天使は羽を震わせた。
「……アラ! そのお顔は高木さんじゃありませんか。お久しぶりです」
「何がお久しぶりだ。ネタはあがってんだよ。てめー、俺からお団子ちゃんに乗り換えたな?」
恋塚さんはゴキブリを見つけたように床の一点を見つめて冷や汗をだらだら流した。
「ままままマサカ。そんなこと天使がするわけないでしょう。いやだなあ、わたしは、あの、姉です姉。お姉ちゃん。ね? そういうことにしておきましょう」
「だ、そうだ、蜂山さん。そこんとこどう思います」
「クズだな」
蜂山さんは上司をゴミでも見るように見下ろしている。
「恋塚さん、あなたがこのような非道に出るとは思っていませんでした」
「いやいやいやべつにこれはそんな」
「通常は最初についた魂とは三戦目まで一緒にいくはずなのに、急な招聘でおかしいなとは思ったんです。このこと父はご存知なのですか」
恋塚さんは舌をぺろりと出してあらぬ方向を見上げた。
「えへへ、恋美わかんなーい! 欲しいものはなんでもパパが買ってくれるのぉ。ぎゃふっ!」
さっきとは比べ物にならない威力の回し蹴りが恋塚さんを床に叩きつけた。くるりと羽を見せて蜂山さんは気炎を吐き捨てる。
「あなたにはがっかりです。いこう高木くん。馬鹿が移る」
「そうだね蜂山さん。それじゃあ決勝で会おう、お団子ちゃん、恋塚さん。はっはっは、そばを歩く時は気をつけてくれたまえ、馬鹿が移るからな、馬鹿が」
俺は高笑いして蜂山さんの背中を追った。いつも自分が言われていた罵倒を人に言えるのってすげー気持ちいいな。
部屋を出て行きざまに、ぽつりと蜂山さんが呟いた。
「だが、馬鹿が移った方がよかったのかもな」
「なんで」
蜂山さんは不思議そうに俺を見上げてきた。
「その歳で三輪車に乗るなど、馬鹿でなければできまい」
忘れてた。
『天国まで……22,4000アンゲロス』
俺と蜂山さんはそろってホールを出た。そのまま何も考えずについていく。この背中の羽むしったらどんな声出すのかな。
「なにか悪寒がするんだが」
「天使も風邪とか引くの?」
「そういう問題じゃないんだが」
どういう問題なんだろう。なんだか俺を見る目が冷たいが。
蜂山さんはハァ、とため息をつき、
「もういい。それより我々がどこへ向かっているのか聞かないのか?」
「言いたければどうぞ」
軽い冗談のつもりだったんだが壁際まで追い込まれてメンチを切られた。ごめんなさい。
「あの、えっと、どこへ行くんでしょう?」
「三輪車用のサーキットだ」
もっと他に作るものなかったのかよリンボ。
「ずいぶんなんともまあむなしいものですね」
「元々は、幼くして召されてきた魂を慰めるための場所だ」
「へー。でも今日びのガキが三輪車サーキットぐらいでなびきますかね?」
「ニンテンドー3DSを持ってこないと死ぬと騒いだ五歳児ならいた」
すげーガッツあるなそいつ。将来は大物になるはずだったんだろう。世は無情。
「天使もゲームとかすんの?」
「たまにな」
するんだ。
「でも電池の消耗が激しいからちょっとしかできないんだ。充電してもすぐ切れるし」
「ひょっとしておまえそれアレか? ケースに電池詰めてコンセント差すっていう……」
「そうそう。君も持っているのかい?」
十年ぐらい前に持ってたよ。恋塚さんはVITAのこと知ってたし、たぶんこの子がちょっとみんなにハブられてるんだろうなあ。口調カタいし。
「元気出しなよ蜂山さん」
「なんで励まされた? 理由が判然としないとすごくムカつくぞ」
ぽんぽんと肩を叩いては蜂山さんに振り払われるという喜劇を繰り返しているうちに大きな扉にまた出くわした。表札には『リンボサーキットその7』とある。7つもあるのか。
俺と蜂山さんは部屋の中に入った。例によって、体育館ひとつ分くらいのスペースがある。誰もいない。生意気にも敷かれたアスファルトと、捨てられたように倒れた三輪車を俺はしげしげと眺めた。
「サーキット自体は本格的ッスね」
「ああ。天使お手製だからな。がんばってコンクリートを流して冷やして固めたんだ」
作り方が体育会系すぎるよ。
「コースはオーソドックスな左回り。ヘアピンやアップダウン、スプーンカーブなんかもあるし、一通りのカーブは練習できるだろう。残り二十四時間で、君にはこのサーキットを完全にマスターしてもらう」
なんだかすげーかっこいいこと言ってるけど乗るのは三輪車なんだよな。ちくしょう、F1なんてワガママ言わないけど、せめてF3のマシンとか乗りたかったのに。ぶぅーんってやりたかった。ぶぅーんって。
俺はよっこいしょと倒れていたマシン(←三輪車)を起こした。改めて思う。
小さい。
幼児がうしろに転ばないようにカーゴ状にパイプを組み重ねた黄色のフレームはぎりぎりで洋式便器サイズ、タイヤはつるつるに擦り切れているし、ハンドルを握ったら肘が大幅に体からはみ出してしまう。ぶっちゃけた話、このフレームに収まるのは俺のボディの中でケツだけだ。
俺は蜂山さんを見つめた。
「どうしてもやらなきゃ駄目ですか?」
「地獄へ行きたくなければな」
女の子の前で三歳児用の三輪車に乗らなきゃいけないことがすでに地獄だと思いませんか。男子のプライドをなんだと思ってるんだ。
「ええい、何をビビっている。地獄は我々天使にも見通せぬ闇の世界……そこで永遠に泣き叫びたくなければ乗れ! でなければ落ちろ」
「そんなコミュニケーション障害を患ったどっかの親父みたいなこと言わないでよ。そういや最近あいつヒゲ剃ったらしいぜ」
「なんの話をしている? いいから乗りたまえ」
俺は蜂山さんに羽交い絞めにされてケツを三輪車のフレームにぶち込まれた。
……。
…………。
………………。
「うっ……ひぐっ……うぇ……」
「泣くな!」
泣くわ。なんだコレ。ケツがフレームに噛まれてもう自分じゃ脱出できないんだけど。ペダルに両足を乗っけると溢れた上半身とあいまってハーレーダビッドソンに乗ってるような感じになる。ちょうどハンドルも似たような形状してるし。あれ? 三輪車ってハーレーだったんだっけ? なんかそんな気がしてきた。
「ぶぅーん。ぶぶぶぶぅーん」
「しっかりしろ。この三輪車にエンジンは搭載されてない」
「そうだろうな。搭載されているのは俺のケツだけだからな」
「やたらとケツを推してくるな。ケツが好きなのか?」
「少なくともこのマシンに搭載されてるケツは好きではねーよ。頼むなんとかしてくれ。恥ずかしさで死にそうだ」
「大丈夫だ、もう死んでいる」
「その返しはもういいよ! 飽きました! あーきーまーしーたー!!」
「いいから漕いでみろ、笑ったりしないから」
まじめに眺められればこの心の傷が癒えるわけでもねーよ?
とはいえ、乗らなきゃ始まらないのも事実。俺はみょうちくりんな爪先立ちのようなポージングでペダルを漕いでみた。
ぎこ……ぎこ……
三輪車がゆっくりとサーキットの中へと入っていく。どっちが正しいコースなのかわからなかったので適当にノーズが向いていた方向へ漕いでみる。ぎこぎこ。
最初のスプーンカーブをゆっくりと左へ回っていく。
「高木くん、コーナーはアウト・イン・アウトが原則だ。わかるな? イン・アウト・インだと吹っ飛ぶ」
「レーシングマシンだったらな」
「やれやれ……君はまだ三輪車の恐ろしさを知らんようだ」
なんだと? あのアマ絶対このマシンから降りたら頭からこれに乗せてやる。くそが!
俺は悲しさとやるせなさと計り知れない空しさを覚えながらサーキットを回っていった。一周、二周、三周、七周、十二周……
あれ?
おかしい。なんだかさっきからやたらとコースを回る速度が速まっている。俺がぼーっとしているのか?
いや違う……マシンが速くなっている!!
ふと気づくと目の前にヘアピンカーブが迫っていた。
「うおっ!!」
俺はあわてて漕ぎに漕いでいたペダルから足を離して、靴の踵をサーキットにこすり付けて大ブレーキ、一度もバスケで使ったことがないバッシュから白煙を上げながら、なんとかヘアピンを攻略してマシンを立て直した。なんだこりゃ?
流線型になった景色の中で、蜂山さんが手をメガホンにして何か叫んでいるのが見えた。
「わかったか!? リンボでは時間間隔が速くなるのだ。三周も同じコースを走っていれば時間間隔はほとんど破壊され、君はものすごい速度を体験していることになるだろう!」
その割には蜂山さんの声は普通に聞こえたが、天使補正か何かだろう。
「おおよそそれがマックスピードのはずだ!! そのスピードを殺さないようにカーブを攻めろ、忘れるな、アウト・イン・アウト、大きく滑らかに走れ!!」
俺は指を二本立ててキュピーンし、言われたとおりにカーブを攻めた。心なしかハンドルが重い。鉛を何キロもぶら下げたようなハンドルを振り回して、しかも足はペダルを回し続けなければならない。額から流れる汗がすげーしょっぱい。
だが、なんだか調子はいいようだった。ひとつカーブを回るたびにマシンと一体化していくような気がした。そうか……これが俺の運命の愛機だったのか。ふっ、便器とか言って悪かったな。こりゃあちゃんとした名前をつけてやらないと罰が当たるぜ、俺の新しい相棒によ!
ますます速度を増していった俺と愛機の前に、また例のヘアピンが待っていた。蜂山さんの言うとおりにアウト・イン・アウトを守って――
どがっ
失敗した。俺のマシンは縁石に乗り上げて吹っ飛んだ。その衝撃で俺のケツは強制射出、雲の壁にぶち込まれてすげー恥ずかしい格好のまま生き埋めになった。俺は暗いところから叫んだ。
「助けてください!」
「わ、わかった。ちょっとマテ」
あまりのことに引いている蜂山さんに引っ張りだしてもらうとすぐに俺は倒れたマシンに駆け寄った。
「ああ、俺のイエローデビル号!」
「名前をつけたのか……」
「くそっ、俺たちのコンビネーションはマジでクールだった。それをあのファッキンカーブめ、ママンにエロ本でも見つけられてぶるって縮んだんじゃねえか?」
「無理して変な冗談やらなくていいぞ」
なんでそういうこと言うの? 俺はものすごく落ち込んでその場に伸びた。
「大人はわかってくれない」
「残念ながら私は天使だ」
「ふぁっく」
「それよりもコースアウトの原因だ」
蜂山さんはしゃがむと俺のマシンのタイヤを撫でた。
「見ろ。すでに最初からつるつるだったのがますますひどくなっているし、もうほとんど擦り切れていてこのまま使っていたらホイールがやられていたな。かえってコースアウトして止まってよかったかもしれん」
「ピットインのサインは出てなかったぜ」
「ふむ、もう少し持つと思ったんだが。まあいい、新しいタイヤに交換してやろう。幸い、ここには他の三輪車がいくつもあるからな。換えにはこと欠かん」
「そりゃあよかった、すぐに交換してやってくれ」
「……」
「なにやってるんだ? さ、早く。俺のイエローデビルはまだまだ速くなれるマシンだぜ」
「いや……換えてやることは換えてやるが……」
蜂山さんはあまり知らない親戚のおじさんを見るような顔をした。
「三輪車ごときに本気になって、君は本当に気持ち悪い男だな」
ここまでやってそれかよ。
『怒った高木が蜂山さんをイエローデビルに頭から突っ込ませるまで……残り七秒』
蜂山さんをイエローデビルに叩きつけたところまたもやマジ泣きされてしまったので、俺は顔面に二、三のパンチを受けるという契約の下に許してもらった。おかげでこっちの顔面は蜂に突かれたようになっている。誰が左のスマッシュからのチョッピングライトしていいっつったよ。せいぜい右ストレートまでだろ。いってえ……あいつにゃん子ちゃんのときは手加減してやがったな。
わが顔面の代わりにマシンの調子は快調だ。だが、モヒカン野郎の調子と腕前が分からない以上は手を抜くわけにはいかねー。あのサンドイッチハゲには玖流井さんを地獄へ突き落とされた因縁があるからな。野郎、おかげで俺の視界に入る女子枠は人間味を無くしたやつらばっかりになったぞ。
「高木くん、集中したまえ! そのタイヤもそろそろ限界だぞ!」
俺はチラリ腕時計を見た。ユニクロのレジそばに飾ってある千円のやつだ。次のヘアピンを上手く回ればベストタイムを出せそうだな……よし。
俺はハンドルを握りなおした。漕ぎ足の回転も悪くない。上から見ればアルファベットのLの字をボコボコにしていじけさせたような形のヘアピンが迫ってくる……自分で言っててどうなんだこのたとえは? まあいいや。
俺はカーブにノーズをブレーキなしに突っ込ませた。
ヘアピンはどうしてもスピードの落ちるカーブだ。今まではほとんど停止気味になるほどの重ブレーキングをかけていたが、それだともしモヒカンが俺以上のコーナリングを発揮した場合にものすげー勢いで負けちゃうことが確定してしまう。
ので。
俺は奥の手を出してみた。
フルペダリングのままカーブに突っ込み、そしてハンドルを思い切り切る。
「うおおおおおおおおおお!!!!!」
顔面が吹っ飛びそうなGが襲い掛かってくる。タイヤは両足を前輪に蹴り込んで無理やり止める。焦げ臭いにおいがして、視界が歪み、そして――
ふわっ、とタイヤが二つ浮いた。だめだこりゃ。緊急回避!
俺はケツの力を全力で抜いて肉をたるんたるんにし、コックピットから脱出した。マシンはそのままコースアウト、雲の壁にぶつかって爆発炎上した。
「だいじょうぶか?」
蜂山さんが駆け寄ってくる。俺は額の汗を拭いながら言った。
「なんで燃えるものが何もないのに爆発するの? 気合?」
「気合……かな?」
かな? じゃねーよ。やめてほんと。もう少し物理法則を大事にしようよ。
「そんなことより、いまのスピンはどうしたんだ。おまえのコーナリングはこんなもんじゃないはずだ」
ちっ、ウキウキする褒め方しやがる。
「べつにミスったわけじゃないよ。ただ、普通にブレーキかけただけじゃ、どれほど上手くやっても停止寸前までスピードが落ちちまう。べつの失速方法を考えたまでよ」
「ほほう……なるほど。確かにそれはいいアイデアかもしれない」
「せやろ?」
「せやな」
おう……それの返しのパターンは知らない。
蜂山さんが燃え盛るマシンを見やった。
「とにかく、イエローデビル2号はもう帰ってこない。3号を見繕わなくてはな」
「ああ。いまとなっては名前をつけたことが悔やまれるよ。まさかこんなに爆発しやすい素材でできているとはな」
「ふふっ、凄いだろ」
こいつ煽ってんのかな。
そこらに転がっている三輪車を俺は足でひっくり返したり蹴ったりして、よさそうなフレームを探した。そうして真っ赤なマシンを選んで、比較的新しいタイヤをはめた。
「レースをやってみてよくわかった。タイヤってやつの貴重さがな」
「そうだろう。単純な話、タイヤがないと走れないからな。しかも消耗品ときている」
「そういやさ、こないだの話に出てきた五歳児ってどうなったの? このレースやったの?」
「ああ、やったよ。三輪車とボディがベストマッチするのは彼だけだったから、ぶっちぎりで優勝したよ。あれがダウンフォースか、って思った」
空気抵抗が少ないこととダウンフォースは結構違うって死んだじいちゃんが言ってた気がするけどなあ。十年くらい前に。
「そりゃあよかった、じゃあ天国逝ったんだな」
「無事に」
「ああ、うん、いいねそういうの。やっぱ天国ってのはどうせ逝くならガキがいいや。地獄なんかほかのやつらで充分だ」
言いながら、俺はマシンのタイヤを蹴った。よし、うまくはまった。
メットをかぶって、蜂山さんに親指を立ててみせ、俺は三輪車に乗り込んだ。
キュピーンしてペダルを漕ぎ出そうとすると、
「ちょっと待ったあ!!」
蝶番がぶっ飛びそうな勢いで扉が開いたので俺はその場にひっくり返った。
「何者だ!」
「ふふふふ」
恋塚さんと西表にゃん子ちゃんは腕を組んで仁王立ち、姉妹みたいな笑みを浮かべた。
「練習は順調にいって……いないようですね?」
「高木くんさ、なにか辛いことでもあったの?」
心配されたよ。あんたたちが蹴破る勢いで扉開けたりするから俺はおまる装着のままひっくり返った幼児みたいになってるわけなんだが。
「蜂山さん、ちょっとジタバタしてみたが立ち上がれない。手を貸してくれ」
「……」
「蜂山さん?」
白髪ストレートの天使は俺から目をそらして遠い目をしている。あ、こいつ他人のフリする気だ。マジかよ……
「あ、ながれぼし。うふふ、たかぎ、ながれぼしだぁいすき」
「たっ、高木さんの精神があまりの羞恥に崩壊を……! 蜂山さん! あなたって天使は!」
「これも試練です」
「そんなこと言ってるのパパが聞いたら殺されますよ……あっ、蜂山さんはパパのお気に入りでしたね? うふふ、めろんぱん、こいづかめろんぱんだぁいすき」
「恋ちゃん落ち着いて! それは使い古しのタイヤだよ! あーっ、もーっ!」
どかっ
にゃん子ちゃんが恋塚さんの持っていた古タイヤを蹴っ飛ばし、即席のベイブレードと化したタイヤはひっくり返った俺のマシンを吹っ飛ばした。おかげで三回転こそしたもののマシンがサーキットを噛むことに成功した。ついでに俺も正気に戻った。
「ありがとう、西表にゃん子ちゃん」
「猫子だよ!」
「にゃん子の方がかわいいよ?」
にゃん子ちゃんは名前の話題の時にしか見えないげっそりした恐ろしい顔を見せた。
「くそうぜえ……死んだらいいのに……」
あれ? おかしいな。こんなの俺の知ってる女の子の反応じゃない。あれー? あ、わかったこのゲーム不良品なんだ。うふふ、たかぎクソゲーだぁい……やめた。蜂山さんがもうこっちを見てくれない以上、発狂しても誰も止めてくれないもん。仕事しろよ蜂山!
「何の用だ、女子ども!」
すっくと正気を取り戻した恋塚さんが立ち上がった。
「何の用もパンの用もありません、高木さん、ここのタイヤはすべて私たちがもらっていきます」
「なんだとっ!」
レースにおいてタイヤは生命線、奪われるわけにはいかない。俺はにゃん子ちゃんをきっと睨んだ。
「にゃん子ちゃん、どういうことだこれはっ!」
「実は……」
にゃん子ちゃんはぽりぽりとお団子頭をかいた。
「あたしたちが占拠したサーキットのタイヤがさっき尽きちゃって。ほかのサーキットはもう他の連中にタイヤだけかっさらわれたあとでさ。で、あたしは対戦相手と接触しちゃいけないことになってるし、あのモヒカンはあたしより速いし……そこで君の出番になったわけ」
ずびしっと指をさされる。俺はにゃん子ちゃんの指紋を見つめながらごくりと生唾を飲み込んだ。
「モヒカンがにゃん子ちゃんより速い……?」
「うん。ちょっと見ただけだけど、あれと当たらなくってよかったー。高木くん、ご愁傷さま」
なんてこった、いやなニュースに面倒な女子が二人もついてきたってわけか。
「なんか失礼なこと考えてない?」
「え、そんなことないよ?」
嘘つきは大人の始まり。
「それならいいけど……とにかく! あたしと恋ちゃんの戦略的討論の結果、君をボコボコにしてタイヤを奪うことにしたのだ」
のだ、じゃねーよ。人の道に外れてるからちょっとやそっとの可愛さじゃ許さないよ? 高木負けない。
「黙ってやられるかよ。俺だってかつては南小のハリケーンと呼ばれた男だぜ?」
「あたしは西小のアイシクルに手傷を負わせた東小のジョーカーだけれど」
俺はその場に膝を付いた。
「負けた」
「こらこら高木くん」
蜂山さんが俺のケツを蹴った。いてえ。
「何を諦めているんだ。会話だけで降参とは男の名が廃るぞ」
「蜂山さんは知らねーんだよ。俺らの地域じゃ小学校時代をどう過ごしたかで格付けが決まるんだ。あいつがF3ドライバーだとしたら俺は暴走族のトップみたいなもんだ」
「そうなのか? 変わった土地だな……」
「くっ、でも確かに負けるとわかっててもやらなきゃいけねー時もあるか。いいぜにゃん子ちゃん、俺の右を見せてやる」
「うーん、それもいいけど」
にゃん子ちゃんが唇に指を当てて、なにか含みのある笑顔を見せた。
「ただ殴りあうってのも面白くないよねー……そだ、どうせマシンはたくさんあるんだし、レースで決めるってのはどう?」
「レースで?」
「そう。10周走って、速かった方の勝ち。あたしが勝てばタイヤはもらってく」
「俺が勝ったら?」
にゃん子ちゃんはぽっと目元を赤らめて顔をそむけた。
「ちゅ、ちゅーしてあげる……よ?」
ふっ、と蜂山さんが鼻で笑った。
「馬鹿な、話にならない。そんなやり取りが通用するか。なあ高……ああ……通用してるねこれは」
はい。
俺はすっとんとろんになっていた。ちゅーだって。やばいね。
「やばいのはおまえの頭だ高木! いいか、タイヤがなければ練習が出来ないといったろう! 馬鹿か? 負けたらそこで終わりだぞ!」
「男ってのは馬鹿な生き物なんですよ、蜂山さん」
俺はペダルを漕いでサーキットに入り、くいっと顎をしゃくった。にゃん子ちゃんは嬉しそうにそのへんのマシンからタイヤを奪い自分の紫色のマシンにはめるとサーキットに入ってきた。
「すごいM字開脚だね。マゾなの?」
「あはは、高木くんおもしろーい。でも、女の子にそんなえっちなこと言っちゃだめなんだぞ?」
ぐしゃっ
にゃん子ちゃんの後輪が俺の膝の横を思い切りこすった。いってえ。人間のやることじゃない。
「ふざけてないでちゃんと並べ。仕方がないからジャッジしてやる」
「がんばってね猫子ちゃーん! そんな男はコースアウトでノックアウト、ですよ!」
俺とにゃん子ちゃんはそれぞれのギャラリーにキュピーンして前を向いた。蜂山さんがフラッグを振って、俺たちは同時にペダルを踏み込んだ。
こんなところ親とかに見られたら死ぬなあ。
10周目、俺はもう汗だくになっていた。
うん、なんか、にゃん子ちゃんメチャメチャ速いわこれ。
ストレートでいくら突き放してもカーブで追いつかれてしまう。なんとか俺がフロントに出てこそいるが、にゃん子ちゃんの余裕そうな顔からして「そろそろ本気、出してもいい?」とかミサワみたいなこと言い出しかねないので俺は冷や汗どろっどろである。天国まで3階級じゃないのかよ。これも事実上、立派な天国逝きを賭けた勝負になってしまっている。
「はあっ……はあっ……」
時速300キロ近い体感でヘアピンが迫ってくる。ここだ。いつもここでスピードが落ちてしまうから、いまもかなり後方にいるにゃん子ちゃんとの距離を保てないのだ。くっそお。
俺はさっきからブルッていた。例のスピンしながらの失速を試す勇気が湧いてこないのである。もしコースアウトしたらと思うとなよなよした消極策に出るしかない。「ひょっとしたらにゃん子ちゃんもこれが限界で大したことないんじゃね?」とか、「俺って実は歴史の闇に消えていった戦闘民族の末裔なんじゃね?」とか、いろいろ考えた。でもたぶん違う、死んだじいちゃんただの酒屋だったし、俺より卓球弱かったし。
ヘアピンが迫る。
仕方ない、やるしかなかろう。このままグダグダしていても仕方ない、仮ににゃん子ちゃんに勝ててもモヒカンとの勝負も残っているのだ。それで負けたら意味がない。
俺は深呼吸して、ばっと後ろを振り返った。にゃん子ちゃんがメットの奥で「?」みたいな顔になっている。そのちょっと開いた唇を1,2秒間焼き付けた。
充電完了。
俺は知らないおっさんの車のナンバープレートにチャリンコぶつけた時のごとく全速力でペダルを踏み込み、ヘアピンカーブに突っ込んでいった。
いつもより深く入り、ハンドルを切る。急スピン。俺は独楽のようになってコースアウトぎりぎりをかすっていった。
いまだ!
うおおおおおおおおランデヴ――――――!!!!!!
俺は右の後輪をあげた。
「なっ、なにィ!」
恋塚さんが太い声を出し、蜂山さんがぐっと拳を握った。
「そうか、後輪をあげることによってスピンを細かくしたのか。移動半径が小さくなり、これならコースアウトしない!」
俺のマシンはくるくると回転しながら、ヘアピンを超えてストレートに乗った。俺は上げていた後輪をおろしてハンドルを逆に切り体勢を整えた。
あとは漕ぐだけだ。
「うおおおおおおおおお!!!」
ぎこぎこぎこぎこぎこ
「そ、そんな……このあたしが……あ、あのヘアピンを走り抜けるなんて……!!」
驚愕するにゃん子ちゃんの声を置き去りにし、俺はチェッカーフラッグを振ってもらった。
「よっしゃああああああ!!! 俺はやれば出来る子だった、俺はやれば出来る子だった!!」
「よくやったな高木くん、褒めてやる」
俺から遅れること三秒、にゃん子ちゃんがゴールし、ぷはっとメットを脱いだ。
「驚いたなあ。どうせ最後にスピンに挑んでコースアウトするだろうからって思って余裕しゃくしゃくしてたのに」
「はっはっは、これぞ実力」
謙遜? なにそれ。おいしいの。
俺はにゃん子ちゃんのマシンに近づいた。
「約束は守ってもらおう」
「仕方ないなあ」
にゃん子ちゃんはケツをダルくさせるやり方でずぼっとフレームから身体を引っこ抜いた。意外と安産型なんですね。
「んー」
にゃん子ちゃんはスーパーで野菜買うときみたいな顔になって俺のツラを検分した。なに? べつに遺伝子組み換えとかしてないよ。
「右と左どっちがいい?」
「パンチのこと?」
左が飛んできて俺はモロに倒された。
「ふざけたこと言ってるとぶっ飛ばすよ」
ぶっ飛ばしたよ。
「ちゅーだよちゅー。あたしも初めてなんだから気を遣ってよね」
「嘘だ! 俺は信じないぞ」
「いやいやなんでだし……べつに信じていいよ……」
女の子のそーゆーのは信じるなって指原に教えてもらったんだ。
「中古でもいいや。右にすげえのぶちかましてください」
「わかった。わかったけど目をつぶって」
「いやです」
「つぶれよ! 気まずいじゃん!」
ちっ、仕方ねえな。恋塚流最低術でまた蜂山さんが身代わりにされたりしたら今度こそくるぶしを蹴り壊されるので心配だったが、ここはにゃん子ちゃんのことを信じてみよう。俺は目をつぶった。
意外とあっけなかった。
目を開けてみるとさすがににゃん子ちゃんの顔が赤かった。っべー。
「わ、忘れないでよね。あたしのファーストキス……」
「え、なんて? ごめんちょっと待ってスマホの録音機能がまだ慣れてなくて……」
べきっ
手刀が俺のスマホを真っ二つにした。
「ああっ! ふざけんなよ、まだあと一年使わないと駄目だったんだぞ!」
「ガラケーでいいんだよこの世は」
身もふたもないこと言うなよ。
「はあ。ま、いいや。じゃ、またね高木くん。いこう恋ちゃん」
「このロクデナシ! いたいけな乙女を傷物にして……あなたなんてまんがタイムきららの世界観では生きていけないんですからね! 男など不要の長物なのです!」
わけわからん捨てゼリフを吐いて恋塚さんとにゃん子ちゃんが出て行った。あいつら次負けるんだろうなー。あのホスト頭よさそうだったし。
「やれやれ、とんだことで時間食っちゃったな。蜂山さん、あと残り時間は?」
「五分だ」
なんだ、じゃあ全然練習できないな。もう会場へいかないといけない時間だ。
「じゃ、いこうか蜂山さん。……蜂山さん?」
蜂山さんは便秘五日目みたいな顔をしている。
「なあ、いま気づいたんだが」
「なに」
「あいつらにタイヤ貸して走らせたら、タイヤあげたのと変わらなくないか?」
……。
…………。
………………。
あっ。
俺はぶるぶると震えて、その驚くべき事実におののき、そして涙目で蜂山さんを睨んだ。
「先に言えよ!」
「いま気づいたって言ったろうが!」
『試合開始まで……あと281秒』
サーキットを出てしばらく歩いた頃、いきなり蜂山さんがその場にへなへなと崩れ落ちた。おいおい大丈夫かよ。
「へいへい大丈夫かよ」
「う……む……」
蜂山さんは青い顔をしている。これはふざけていると怒られる感じだ。
「なんだかもうすぐ本番だと思うと緊張してな……」
「べつに蜂山さんが走るわけじゃないじゃん」
「いやそれはそうだが……なんだその目? 心から不思議そうだな?」
うん。だって俺ゆとりだし……
「まあとにかく立ち上がろうぜ。通路でいきなりしゃがまれてると俺が泣かしたみたいじゃん」
「おまえごときに泣かされてたまるか! 待ってろ、いま立ち上がる」
が、蜂山さんの足はててっと滑った。
「くっ……」
「がんばれ蜂山さん、なんのためにここまで頑張ってきたんだ」
「うおおおお……!」
それにしても人の心配して生まれたての小鹿みたいになる人も珍しいな。
「はあっ……はあっ……」
「やったね蜂山さん、これで会場にいけるよ」
「うむ……」
「まだ顔が青いな。手ぇ貸そうか?」
「いつも思うんだが、手を貸されてもそんなにラクじゃなくないか」
ええー……いまそれ言う? 差し出された俺の手の価値は?
蜂山さんはそっちこそ不思議そうなツラで俺の手をスルーした後、よろよろしながら歩き始めた。
「くっ……この私が人間の心配ごときで……」
おーい、博愛主義ー。どこいったー? 出番だぞー!
「蜂山さんこの仕事まだ慣れてないの?」
「ああ、三ヶ月目だ」
ド新人じゃん。
「もし私の担当した魂が天国へ逝けなかったらと思うと、メシがマズいんだ」
「それ相当心配してくれてるね。ありがとうございます」
「ふっ……でもべつに私が君に代わってやれるわけじゃない。しても無駄な心配ならしない方がマシか……現に、いま、この有様だしな」
「気にすることないって」
「そうかな」
「少なくともカネ目当ての恋塚さんに背中任せるよりはいくらかマシだ」
あいつに関しては裏切りさえしたからな。
「君は強いな……」
蜂山さんは眩しいものでも見るように俺を見た。
「私には無理だ」
俺は結局、蜂山さんに肩を貸して、会場の入り口まで歩いていった。それにしても天使の肩貸すのって羽がすげー邪魔だわ。これ取り外しできないのかな。肩を羽に貸してるって感じ。
「よし、じゃあ、いってくる」
「がんばれよ」
「おお……あっ」
そこですんなり扉に入っていけたらよかったのだが、
「…………」
「…………」
入り口のところで山口くんと遭遇してしまった。お互いにどっちから道を譲らないと入っていけないポジションだ。
気まずい。
お互いに困ってることがありありと分かる。にらみ合ったまま一言も口が利けない。もし同時に喋りだしでもしたら俺たちはもう何もかもが嫌になると思う。
「…………」
「…………」
「いつまでやってんだ!」
げしっと山口くんが天使に背中を蹴っ飛ばされて会場の中へ吹っ飛んでいった。山口くんを蹴飛ばした天使は俺をきっと睨む。
「蜂山んとこのボンクラだな」
返す言葉もない。
「いいか、見てろ、天国へ逝くのはうちの山口だからな」
赤毛の天使はどうも手持ちの山口くんか、もしくはボーナスにぞっこんなようである。
「悪いな関谷、勝つのはうちの高木だ」
蜂山さんがすっかり体調を取り戻してずずいっと俺の前に立ちふさがった。チビの天使(関谷さんというらしい)を見下ろす形になるそのさまは完全に悪ガキである。
「蜂山……! おまえんところの悪徳チームには負けないってあたしは親父と約束したんだ」
「悪徳って……もう我々は恋塚さんとの縁を切らせてもらった。あの馬鹿は縁もゆかりもない糞野郎だ」
「そんなこと言うおまえも十分糞野郎だ!」
正論である。それにしても糞だ糞だとうるせーやつらだ。
「おまえらのせいでうちら天使は実はやなやつなんじゃないかって下界の霊能者が騒ぎだしてるぞ。そのへんはどう思っているんだ」
「霊感の強いおばあちゃんを電撃で丸焦げにしたことに関しては私は休暇中だったので知らん」
そんなことしてたのかよ。
「高木とかいうボンクラ」
「はい」
「おまえも人の心があるのならこの勝負は辞退するんだな。うんって言わないとビーム撃っちゃう」
ビームは勘弁である。
俺は関谷さんの犬コロみたいに綺麗な目をじーっと見つめた。
「バンド?」
「ふぇ?」
関谷さんはアイスを取られた子供のような顔をした。
「どうせあのモヒカンに泣き落としでも喰らったんだろう。自分には夢があってぇ、仲間とバンド組んでぇ、超楽しくってぇ、忘れられない思い出を来世で生かすために天国へ逝きたい、とこんなところだろう」
「おまえ見てたな!」
どうやら的中したらしい。本当か嘘か知らないがあることないこと吹聴して守護天使に対戦相手を丸焦げにさせてしまおうとは、あのモヒカンはふてぇモヒカンである。
「だめだよ関谷さん。俺はこれから正々堂々闘いに赴くところなんだから」
「そんなことは知らん」
おまえ天使だよね?
俺は午後から降り出した雨にどうすることもできない間抜けのような顔をして蜂山さんを見やった。蜂山さんは心底嫌そうである。
「マジでか」
「頼みます」
「仕方ない……今度からは自分でやるんだぞ」
はーい。俺はダッシュで扉を潜った。もう時間ねーんだよ。
「あ、こら待て、あたしのビームが火を噴っ……ぎゃあああああ!!!」
俺は振り返らなかった。いったい蜂山さんが何をしでかせばあんな悲鳴が関谷さんの口から吐き出されるのか少しも知りたくなかったから。最後にチラリ見えた限りではマジックハンドのようなものを持っていたが、いったい何を抜いたんだろう。
扉が閉まった。俺はバッシュブレーキで急停止した。
「さあ、やろうぜ山口くん! 俺とおまえの未来を賭けた勝負をな! ……山口くん?」
山口くんはしゃがみこんでいる。体育座りではなく、膝立ちで、自分の腹から血が出ていることを理解できない刑事の死に様みたいな感じだ。どしたん?
俺は山口くんに近寄ってその肩をぽんぽんと叩いた。
「……高木……」
「どうした。何があった」
「これ……」
山口くんは手に持っていたものを俺に見せてきた。模型かと思ったが違った。サイズはハードカバーの本を二冊重ねたぐらい、フレームは赤、前輪がひとつに後輪がふたつ。シートが膨らんでいるのはバッテリーとモーターを詰めてあるからだろう。
どこからどう見ても三輪車のラジコンである。
俺と山口くんは見詰め合った。
「…………」
「…………」
ええー…………。
「ラジコンじゃんこれ……」
「そう……だね……」
山口くんに当たっても仕方が無い。べつに彼が神様というわけでもなし。俺と同じ被害者だ。
「何もかも無駄じゃん……」
「だね……」
俺たちは途方にくれた。しかし、サーキットはご丁寧にも用意されているし、たぶん勝敗をつけないことにはここから出てはいけないだろう。
「じゃ、とりあえずやる?」
「あ、うん」
俺たちは開始線にそれぞれのマシンを置いてスタートさせた。
しゃああああああああ……
「…………」
「…………」
体育座りでアンテナ伸ばしたコントローラ片手に、俺と山口くんは肩を寄せ合ってわびしさに耐えた。なんだろうこの気持ちは。いまなら解脱できそうな気がする。
「俺さ」
6周目で山口くんが口を開いた。
「モヒカンじゃん」
そうだねとしか言えない。
「実はさ、俺、剃っててわからないと思うけどデコ広いんだ」
「そう……なんだ。どれくらい?」
「冷えピタ貼って指三本分あまる」
「指三本……!」
笑い事ではない。十七の身空でデコッパゲにでもなったら頭をモヒカンにして誤魔化すかファイナルフラッシュで地球を吹っ飛ばすかどちらかしかないのだ。彼はより平和的な選択をした、それだけのことだ。
「大変だったな……」
「ああ。おかげでやりたくもないバンド組まされてさ。俺、アンプのコンセントに足を引っ掛ける才能があるんだ」
「それは逆説的にバンドを組む才能がないね」
「だろ?」
山口くんはさわやかに笑った。
「今度生まれてくる時は、もっとふさふさした頭になりたいなあ」
「や、山口くんっ……!」
もう限界だ。俺の涙腺はぶっ壊れた。あとからあとから涙が出てきて止まらない。山口くんの切なさと強さを併せ持った笑顔が胸を締め付けてくる。これは鏡を見るだけで自分がなんらかの物語の主人公にはなれないのだということを毎日悟り続けた人間にしかわからない哀愁だ。
「高木、天国にいってもさ、俺のこと覚えてて――く――れ――」
どかっ
小気味いい音を立てて、山口くんのマシンがコースアウトした。綺麗に捻りをくわえながら飛ぶ車体が地面に激突した時にはもう、山口くんの姿はどこにもなかった。俺はその場に両手をついて泣きに泣いた。
「山口くんっ……! 山口くーんっ……!!!」
どかっどかっと地面を殴り続けていると、開いた扉から蜂山さんと関谷さんが入ってきた。
「ぎゃーっ! うちの山口負けてるーっ!」
「高木くん! よくやったな、君の勝ちだ! うわっ」
俺はぶんぶん両手を振って蜂山さんに突っ張りバリケードをこしらえた。
「来るなっ! あんたらふさふさに俺や山口くんの気持ちがわかるかっ!」
「どうしたんだ高木くん! なぜさっきから前髪をなでつけている!」
「やめろお、放せ、放せよお」
「おもしろそうだからあたしも参加しよう」
飛び入りで余計なことをしてきた関谷さんのスライディングが俺の足元を払い、蜂山さんがマウントを取って俺の体を押さえつけた。
「やめろお、やめろお」
「落ち着け! 落ち着くんだ……そう、なにもしないか――ら!」
ばっ
蜂山さんが俺の前髪をかき上げた。きっと興味本位だったのだろう。遊び半分だったのだろう。
蜂山さんは両手で口元を覆い、顔をそむけた。
「こ、荒野……」
「人のデコを見てそういう単語を呟くのはやめろっ!」
俺は腰をばっこんばっこん暴れさせて蜂山さんを吹っ飛ばした。そのまま亀の姿勢になって頭を抱えた。
「うううううう」
「高木くん……」
「何も言うな。何も言うなよお。俺と山口が何をしたっていうんだよお。ひっぐ。ひっぐ」
関谷さんの呆れたような声が俺の脳天に降り注ぐ。
「人間って大変だなあ」
おめーが言うな! このリア充!」
例によって、登頂ホールへと集まる俺たち。遅れてやってきた猫子ちゃんの顔色があまりよくなかったが、こっちは涙と鼻水でべちょべちょだったので多分俺の勝ちだろう。なんの勝負かはわからないが。
俺は制服の袖でゴシゴシ顔を拭って、猫子ちゃんと向き合った。
「とうとう俺とあんただけになったな」
「……そうだね」
猫子ちゃんは神妙な顔をしている。そんな顔したって仕方ないだろーに。辛気臭くしてれば状況がよくなるならみんな布団の中から出てきたりしないよ。
「元気出してこーぜ! 猫子ちゃん。らぶあんどぴーす。あれ?」
一瞬の早業だった。俺の指は猫子ちゃんによって第五関節まで発達してしまっていた。なんだこれ、新種の生物みたい。
「見て見て蜂山さん。寄生獣みたい」
「ギャーッ!!」
蜂山さんは梅図かずおの描いた絵みたいになって俺の手をぶっ叩いた。
「なんてことするんだ! 俺が泣いたら責任取れんのか!」
「その言い訳は殿方としてどうなんでしょう」と恋塚さん。おめーは大人しく猫子ちゃんの機嫌を直してあげててください。
「蜂山さん、落ち着いてよ。とりあえず手ぇ直してくれないとソバもすすれねーよ」
「う、うう……」
蜂山さんには俺の手がゴキブリの死体にでも見えているらしい。片目をつぶっておそるおそるといった感じで手をかざし、ぽうっと白い光を放った。たぶん回復魔法ってやつだ。そんな便利なことできたの?
俺は元通りになった右をニギニギして猫子ちゃんに向き直った。
「ひどいじゃねーか猫子ちゃん。俺がショックのあまり痛みを感じていなかったからいいものの」
「やめて! 話しかけないで」
おまえ絶対お父さんにも同じこと言ってるだろ。傷つくんだからなそういうの。
「あたしたちはもう敵同士……次に会ったら百年目なんだよ」
「まだ数日の出会いだよ」
「くっ……細かいことを気にするんだね、そうやってあたしの精神を壊そうとしてるんだ……」
いったいあのホスト風の男と何があったらそんな人間不信に陥るんだ。
「とにかく!」
ずびしっと猫子ちゃんは俺の額に指を突き立てた。近いよ。
「あたしは絶対に天国に逝くんだ。天国に逝って、ものすごくハッピーに暮らすの」
「具体的には?」
「縁側で日向ぼっこしたり、シャボン玉吹いたり、取り替える障子をバキバキにぶっ壊したりするの」
バブル崩壊直後の日本みたいな幸せだな。懐かしい。
「そのためには、高木くん、あたしは君を倒さなければならない……」
「そうなの……」
「そうなのじゃないぞ高木くん」と蜂山さんがエルボーを入れてきた。
「君だって、彼女をさえ倒せれば、晴れて天国逝きなのだから」
「天国……」
「誰だって天国へ逝きたくて、地獄なんてまっぴらごめんのはずだ。君だってそうだろう?」
そうかなあ。まあ、そうかもしれない。
そうだよな。だって天国だもん。戻ってくるかわからない年金なんて払わなくていいんだもんな。
俺はむふーと鼻息をついた。
「よーし、じゃあ、がんばろっかな。猫子ちゃんには悪いが、真剣勝負の恨みっ子なしだぜ!」
「やだ」
もう会話が折れたよ。どうすればいいの。
「絶対に恨む」
「トラッシュトークとか卑怯じゃね?」
「うるさいの。いい? あたしに勝ったりしたら末代まで祟るし、家の窓にハチミツを塗りたくって蜂の巣ができやすい環境にしてやる」
超迷惑なんですけど。
「ええー……どうしよう蜂山さん。家の周りを蜂だらけにされたら天国に逝っても蜂殺しスプレーのストックを常備していなければ生死に関わるよ。毎日がウォーゲームだよ。どうしようガッツが足りない」
「ガッツはボールから補給しろ」おまえキャプ翼知ってるのかよ。
蜂山さんは自信満々、ずびしっと猫子ちゃんに指を向けた。こいつも額に突き刺すほど近距離でそういうことするもんだから俺たち三人の位置関係がまた一段と混沌とした。
「バカだな、西表くん。君は重要なことを忘れている。
「……重要なこと?」
ちらっと蜂山さんが俺の顔を見てくる。あ、これはあれだな。高木くんは実はやるときはやる男なんだとか、何が正しいのかを見る目が彼にはあるんだとか、そういう良いことを言うタイミングだな。俺は頭の中の録音録画機能をフル稼働させて蜂山さんのセリフを待った。
蜂山さんは言った。
「天国に蜂はいない!!」
「はい」
なんとなくわかってた。高木ね、人生がそうそう上手くいかないんだってこと知ってるんだ。
「というわけで貴様がどんな嫌がらせをしようとも無駄だ。というか高木くんが勝ったらおまえは地獄のなんだかわからんところでなんだかわからん目に遭うのだ」
「くっ……そんないい加減なところには絶対に落ちない! 高木くん、おとといきやがれ!」
言い残して、ずんずんと猫子ちゃんはいつの間にか現れていた昇降階段を昇っていってしまった。その後ろを羽をぶおんぶおんさせて恋塚さんがくっついていく。
「はい、じゃあお二人とも、てっぺんでお会いしましょう! あ、来なくてもいいですよ?」
「うるせービッチ」俺はぺっとツバを吐いた。
「なっ……こんな可憐な天使を捕まえて何を! あなたにはこのサイドテールが見えないんですか!?」
サイドテールにはなんらかの免罪符的な効力はねーよ。少なくとも俺はぷらんぷらんした髪型はハサミでちょっきんこしたくなる性分だからデレデレしねーぞ。おとといきやがれ。
「なんて冷たい目……やはり高木さんは悪魔に違いない……待って猫子さん、野蛮人におそわれるーっ!」
ぴゅーっと飛び去っていく恋塚さん。おみくじをダブルスレッジハンマーするやつに野蛮とか言われたくねーよ。
「なんだか調子狂うなあ。俺たちってほんとーに死後の運命を賭けて争ってるのかね」
「それを言いたいのは私なんだが……」
「なんていうか、もっとそっち側でムード的なものを大切にして欲しかったですね」
「そんな駄目だしされたのは父に作られてから初めてだよ」
俺と蜂山さんはよいしょよいしょと階段を昇り始めた。蜂山さんは羽つきだけど、自分だけラクするのはなんか違うというので一緒に歩いてくれた。こういうことだと思うんだよね、思いやりって。
顔を上げると、リング状のプリズムの向こうに、甕からあふれ出した水のような真っ白な光が、俺たちを待っていた……
第二部 完
『天国まで……あと95,700アンゲロス』