アンチェイン由江
条件
「学校行きたくねーな」
陽は由江の姿を確認もせず、誰に言うわけでもなくぼそっと呟いたのだが
由江はその声を聞き逃さなかった。
「何だ。嫌な事でもあったのか?」
「あったけどお前には関係ねーよ。つか、話しかけんな」
陽の言葉を聞いた由江はにやりと笑うと、陽に対して思わせぶりな提案をする。
「私が何とかしてやろうか?」
「…………」
魅力的な提案であった。まるで信用はできないが、この女がただ者では
無い事は、出会ってまもない陽でも分かっていたからだ。なので、冷静に考えれば
安易に乗るべきではない提案に、精神が衰弱していた陽は乗ってしまったのだ。
「……マジで何とかできるのか?」
「何とかしてやる。その代わり条件があるがな」
藁にもすがる思いで尋ねる陽に、由江は条件を提示する。
「私がお前の姉でないとばれないように手を尽くす事、私の素性を詮索しない事
私の目的に協力する事、この3つを遵守するなら手を貸してやる」
3つのうち1つだけ気になる物があったが、それ以外はそれ程
大変な物には思えなかったので、日米安保条約並みの不平等さを想定していた陽は安堵した。
「他2つはまだしも、お前の目的に協力するってどういう事?」
唯一の懸念事項について質問する陽。すると由江は、顎に手を当てて
少しの間考えるような素振りを見せた後、ようやく口を開いた。
「実は私は記憶喪失でな」
「ハァ?」
「それでお前には、記憶を取り戻す手助けをして貰いたい」
「いや、そもそも記憶喪失とか嘘だろ?」
記憶喪失というのは明らかに嘘だろう。そう思った陽は
由江に対して不信感を感じて表情が曇る。
「何を根拠に言っている。お前に私の事が分かるのか?」
陽の不信感を露にした態度にも怯まず、由江は堂々とした態度で陽に対して反論する。
「それで本当に記憶喪失ならアクティブ過ぎだろ!」
「ふふん、これでも今日はまだ大人しい方なんだが?」
「得意気に言う事じゃねーから!」
「で? お前の嫌な事って何だ?」
由江は陽の突っ込みを気に留めず、話題逸らしとも取れる様な
強引な話題の切り替えを行うが、陽の方も今は由江の記憶に対して
しつこく言及する程の精神的余裕が無かったので、取り敢えず陽は
由江の記憶の件は不問として、素直に今日あった出来事を由江に話すことにした。
「ほう、理事長の息子か」
由江は感心したように声を上げると、口元を歪ませて笑った。
(……何かろくでもないこと考えてそうだな)
陽は由江の邪悪な笑みに不安を感じたが、状況を打開できるすべが由江に頼る以外には
思い付かなかったので、あまり深く考えない事にした。
「で、その理事長の息子の住所は?」
「……何で住所なんて聞くんだよ?」
「馬鹿か? 直接会わないで問題が解決できるんなら方法を言ってみろ」
なるほど、確かにそうだ。てっきり陽は暴力的な手段や非常識な方法での
解決を想像していたのだが、一応はクラスの担任であり実姉? である由江が
間に入って仲裁するのが平和的であり常道であろう。
期せずして由江から聞かされたまともな意見に、陽は不覚にも納得してしまう。
自分が考えていたよりも、この女はまともなのかも知れない。そう思った陽は、由江の
認識を少し改めたが、その所為で当初の警戒感が和らいでしまったのか、何の
疑問も無く誠の住所を由江に教えるのだった。
「じゃあ、行って来る。母親には帰りが遅くなると言っておいてくれ」
「分かった」
私服ではなく朝に見掛けたのと同じ、至極まともな服装で颯爽と
家を後にする由江に、陽はクラスの担任としての由江の責任感を
感じて、その後姿を頼もしく思うのだった。
だが、そんな陽の想いとは裏腹に、当の由江は夜9時を過ぎても家には帰らなかった。
日付を跨ぎ、深夜2時を回るくらいまでは陽も頑張って起きて由江を待って
いたのだが、とうとう陽が起きている間に由江が帰って来ることはなかったのである。