アンチェイン由江
変化
目を覚ました陽が居間に入ると、何故か普通に由江が朝食を取っていて
陽は面食らった。いつの間に帰って来たのだろうか? その上、由江の様子を窺っても
昨日とまるで変わらず、寝不足で眠そうな様子でも無いようなのである。
不審に思いながらも、陽は朝食を済ますと自室で制服に着替え
玄関前で由江を待つ事にした。梅雨明け前の七月初旬の朝の日差しは、薄雲に遮られて
それ程強くなく、玄関先で陽光に晒されている陽でも、あまり暑さは感じられない。
程なくして由江が玄関から出て来ると、陽は真剣な眼差しで由江に質問した。
「昨日はうまく行ったのか?」
「ん? ああ。多分、大丈夫だろう」
「多分かよ……」
由江の曖昧な発言に、陽は不安を覚える。それも当然であろう、うまく行っていなかったら
どんな目に遭わされるか分からないのだ。
「そんな心配しなくっても、いざとなったらお姉ちゃんが
一緒に謝って上げるから大丈夫♪」
明るく抑揚のある声にも関わらず、表情に大した変化の無いまま喋る由江。まるで
興味が無いのが丸分かりである。
(……こいつ)
やはりこんな奴を頼ったのは間違いだったと、陽は自分の愚かしさを悔やんだ。世の中には
そうそう都合の良い事など無く、結局は自分の力で問題を解決するしか無いのである。それを
直感的に理解した陽は、それ以上の会話をしようとせず、由江に背を向けると
一人でさっさと学校に向けてペダルを漕ぎ出すのであった。
昨日とは違い、今日の陽は登校中に何のトラブルも無く、無事に学校に着いたわけであるが
今日の場合はどうにも教室に入るのが気が重い。自分に対する誠の反応を知るのが
恐ろしいからである。どうにも踏ん切りがつかない陽は、しばらくの間、廊下の隅から
教室の様子を窺っていたが、ここで陽の身に思わぬ事態が起こった。
「あれ? こんなとこで何やってんだよ。早く教室入ろうぜ」
ふいに後ろから声が聞こえたと思ったら、肩を抱かれて教室に押し込まれる。
訳が分からない。そう思う事しかできない程に、陽は状況が掴めず困惑していた。なぜなら
後ろから声を掛けて来た上に、馴れ馴れしく肩を抱いてきた相手が
昨日、あれだけ怒っていた誠だったからだ。
「今日もいい天気で清々しいな! ガム食う?」
「あ、じゃあ貰うわ」
状況がまるで掴めないが何だかやたらと誠の機嫌が良い様なので、機嫌を損ねないように
とりあえず相手の好意に甘える事にして、陽はガムを受け取った。
「天気のせいなのか分かんねーけどさ、なんかすげー清々しくて
まるで別な人間にでもなった気分だよ!」
「はは、そうなんだ」
笑いながら必要以上の大声で話す誠。普段見たことも無いような
無邪気な笑顔が、陽には酷く不気味なものに見えた。
「……はぁ」
昼休みになり、いつもの旧校舎ではなく、立ち入り禁止になっている屋上の貯水タンク横で
黒い弁当の入った包みを広げた陽は、思わず溜息をつく。朝のやり取り以降、休み時間の度に
話し掛けてくる誠に対処するのが、陽の精神を著しく消耗させていたのだ。
なので、昼飯くらいは一人で落ち着いて食べたいと思った陽は、場所が誠にバレてしまって
いる旧校舎のトイレではなく、一般生徒立ち入り禁止の屋上で食べる事にしたのである。
誰も居ない屋上はとても静かで、頬を撫でる穏やかな風も心地よく、陽自身の心も
次第に穏やかになっていく。だが、それも束の間のことで、落ち着いた陽の頭には
自身を取り巻く理不尽な現実に対する憤りが湧いて来てしまった。
先日もそうであったが、自分の身に有り得ない出来事が立て続けに起こっているのに、何で
周りは当たり前のようにいつも通りの日常を送っているのだろうか?
普通はこんな有り得ない出来事が起こったら、周りもおかしいと声を上げ、問題を
周知させた上で是正されるべきなのだ。なのに何でみんな黙っている? おかしいだろ!
そういった考えに到ると、陽は周りの人間がいつも通りの日常を消化している事が、無性に
腹立たしくなった。あの女もおかしいが、周りの人間もおかしい! もしかすると、周りは
みんな既にあの女に洗脳されているのではないか? そう考えると、周りの人間は
もう誰も信用できない。そういった結論が、陽の頭の中で導き出される。
傍から見れば極端な発想に感じる陽の思考だが、人が平穏な日常を得体の知れない
ものによって訳の分からない状態に変化をさせられた場合、冷静な判断ができるであろうか?
少なくとも陽にはできなかったのである。
だが、例え冷静な判断ができていたとしても、常識の範疇を外れたものに対して行う思考が
他人から見て冷静に見える筈も無いのだが……。
「何か午後の授業出る気しねーなぁ」
周りへの不満と不信感から、陽はすっかりやる気が無くなっていた。午後の授業に出ず
このまま帰ろうかと思ったが、元々そういうつもりは無かったので教室に荷物が
置いたままになっている事に気付き、どうしようかとしばらく思案する。
だが、教室に戻ると誠に会うのはまず間違いないのでやはり荷物は置いて
そのまま帰る事を陽は選択した。
(あ、でもこのまま帰るのはまずいな)
このまま帰ると帰宅が早過ぎて家に居る母親に怪しまれそうなのである。なので陽は
何処かで時間を潰そうと思い、とりあえず駅前へと向かった。
駅前のツタヤに立ち寄って漫画を立ち読みしていると、ふと陽の頭に疑問が浮かぶ。なぜ
少年誌の人気作品はテンプレ的な話の作りの物が多いのだろう? という疑問である。
バトル物の漫画だと大抵、主人公はごく普通の一般人で、そのごく普通の一般人である
主人公を特殊な環境に置かれている少女が巻き込んでしまい、その所為でなし崩し的に
少女と協力関係を築かなければならなくなり、しかも酔狂なことにその特殊な女に主人公が
惚れ込んでしまい、血生臭い戦いの世界に身を置く羽目になる。というのが主なパターンだ。
正直言って、このパターンの漫画がバトル物の漫画には多過ぎて、陽はいささか
食傷気味なのである。大体にして、知り合ったばかりの女を目当てに命懸けの戦いを
する時点で主人公の頭はまともではないし、ヒロイン役の少女もなぜか黒髪で地味な感じの
容姿ばかりだし、主人公は女目当てに命懸けの戦いを始めるようなキチガイの癖に、話の
途中で積極的にアプローチしてくる他の女には目もくれず、黒髪の地味な女一筋なのである。
こういう主人公が、陽にはどうも時流に外れたキャラに見えてしまう。最近は男も
草食系男子とか言われるように、恋愛にそれほど積極的な人は減ってきているようだし
ヒロインも今時黒髪では華が無いだろう。そして、陽がどうにも腑に落ちないのは
ほぼ100%この主人公とヒロインの恋愛が中途半端に終わる所である。
話の途中で白々しい恋愛要素をはさむ癖に、結局最後は友達以上恋人未満みたいな
うやむやな感じで終わるのである。爽やかといえば聞こえはいいが、中学生じゃ
ないんだからある程度の進展した結末を見せるべきだと思うのだ。
だが、そういうテンプレ的な漫画でもバトルシーンや全体的な話自体の質がまとも
だったりして100点中60~70点の出来はあるから、ただただ惰性で読み続けるのだが、結局
最後はやっぱり中途半端な感じで終わるのである。
立ち読みで適度に時間を潰した帰り道にも、陽はそんな答えが出ても意味の無い事を
延々と考え続けていたが、しばらくすると飽きて考えるのを止めた。
そんなくだらない事を考えつつ、緩慢な足取りで家に帰った陽は、玄関で靴を脱ぐと
急いで階段を駆け上がり二階の自室に向かう。手ぶらで帰った所を母親に見られたら
何を言われるか分からないからである。
だが、自室に入るとそこには何故か仕事着のままの由江がおり、部屋に一つしかない
椅子に足を組んで座っていた。
(お約束は飽きたけど、こういうサプライズな展開もいらねーよ……)
突然の由江の登場に、驚きながらも内心そう思う陽。そんな陽に構わず由江は
無駄に偉そうないつもの口調で陽に向かって話し掛けた。
「戸惑ってるようだな。まぁ、それも無理ないか」
由江の発言に、陽はまるで全てを見透かされているような気分になる。思えばこの感覚は
初めて会った時からのもので、陽にとって常識では計れない存在である由江の
余裕に満ち溢れた態度に、どうしても引け目を感じてしまうのである。
「……どういう事か説明しろよ」
由江への苦手意識からか、命令口調とは裏腹に陽の言葉には力がない。その言葉に対して
由江はやれやれといった仕草と表情で陽に応える。
「質問すれば答えが返ってくると思う辺り、ガキだな」
「もう訳わかんねーんだよ! 何なんだよお前!」
由江の言葉に対し、強い言葉で返す陽。精神的な余裕の差が両者の態度に表れている。
そんな中、由江は陽の強い言葉に対して僅かに眉をしかめつつ、言葉を紡ぐ。
「簡単に言えば印象交換のようなものだ。お前に対する印象と
他のものとの印象をすり替えた。それだけの事だ」
「何それどういう事? つか、何でそんな事ができんのお前」
陽の質問攻めにうんざりした顔をする由江。さも面倒臭そうに、肩まで伸びた髪を
指に絡めながら、陽の質問に答える。
「……他のものに対する好感度と、お前に対する好感度をすり替えた。そう言えば
分かり易いか? まぁ、これでも分からないならどうしようもないな」
「好感度をすり替えるって……何でそんな事ができんの?」
「答える必要性を感じない質問だな。そのくらい自分で考えろ」
髪を絡めた指に視線を送りながら、そっけなく対応する由江。だが、それを無視して
陽は食い下がる。
「何だよそれ。別に教えてくれてもいいだろ」
「しつこい奴だな。マジックのタネを教えるマジシャンがいると思うか?」
「明らかにマジックではねーだろ」
「まぁ、それはともかくとして私は学校に戻るから、話はこれで終わりだ」
陽のツッコミを無視して一方的に会話を切り上げた由江は、組んだ足を解くと
椅子から立ち上がり、部屋の入り口にいる陽に向かってつかつかと歩み寄った。
「結局、何しに来たんだよお前」
「混乱してるだろうから簡単に現状の説明をしてやろうと
帰って来てやったのに、随分な言い草だな」
そう言うと由江は、手のひらを上に向け肩をすくめる。外人がよくやる仕草であるが
陽からすると馬鹿にされているようにしか見えない。だが、そんな態度に苛立ちつつも
陽はツッコミ以外で初めてまともに由江に言い返した。
「なんか偉そうに言ってるけど、そもそも事前に説明してくれてれば
混乱せずに済んだんだけど?」
「…………」
「…………」
「……いちいちうるさい奴だな。それが不出来な弟の為に
わざわざ鞄を持ってきてやった姉に対する態度か?」
両者に流れるわずかな沈黙の後、怒ったような口調で部屋の隅にある鞄を指差す由江。
それは確かに、学校に置いてきたはずの陽の鞄であった。
「お、わざわざ持ってきてくれたのか」
「そうだ。偉大なる姉に泣きながら感謝しろよ」
「はいはい。ありがとうございます」
「……はいは一回でいい」
陽の態度に不満そうな顔になる由江だったが、いちいち相手をしていると長くなりそうだと
思ったのか、すれ違いざまに陽に対して一言だけ不満を漏らし、部屋から出て行った。
と思われたが、由江は廊下の途中で何かを思い出したかのようにハッとして振り返り、陽に
とっては聞きたくもない要求を平然として突きつけるのであった。
「言い忘れていたが、今日は私の目的に協力して貰うから夜は予定を空けておけよ」
「目的に協力?」
「昨日話した事をもう忘れたのか? 随分と都合の良い頭だな」
「…………」
(そういえばそんな事を言ってたような気がする)
「まぁいい、とにかく夜は空けておけ。居なかったらどうなるか分からんぞ」
「何だよそれ、怖えぇな」
怖じ気づく陽。一方の由江は、今度こそ言いたい事を言い終わったのか、さっさと
階段を下りていってしまった。
(……どうせろくでもない事なんだろうなー)
由江がいなくなって静かになった部屋のベットに大の字になり、天井を見つめながら
由江の言った「目的への協力」について考えをめぐらせる陽。
だが、やがて陽は考えても無駄な事に気付き、思考を放棄するのであった。