Neetel Inside ニートノベル
表紙

敢えて二人を名付けるなら
――いつだって始まってた

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 非常識で型破り。彼女に対する第一印象だ。
「……どうしたの冬佳」
「いつも通り逃げ出してきたのよ。だからいつも通りお願い」
 そういう彼女の傍らには見たこともない、背丈の中程まである分厚いキャリーケースと、白黒のカラーリングが正逆になっているメイドがいた。しかもそちらに至ってはキャリーケースよりも大幅な骨組みが抱えられている。
「いつも通りって、いやその荷物」
「霧影、やっちゃって」
「はい」
「ちょっと。ちょっとぉ?!」
 人間関係において大抵アテにならないファーストインプレッションというものが、冬佳には変わらず通用した。
 白ブラウスに黒エプロンというでたらめな色使いのメイドは、そそくさと玄関口から私の横を通過して部屋の中へ入ってくる。
 その速度や、異様。どう見積もっても人一人で運ぶ大きさをしていない骨組みを身体という支点一つ、腕一本という力点一つで事も無げに持ち歩いていた。
 追いかけてリビングまで戻ると、それが何だったのか判然とする。
「えー……?」
 部屋の一角を占めている私のベッドが、見事にお姫様スタイルに。普段寝ころべば無機質な天井が見えるばかりのそれが、豪奢にレース地のカーテンをぶら下げる箱舟へと変貌を遂げていた。
 見るとベッドを多い囲むようにして取り付ける組み立て式の脚付き天蓋だ。天井から吊るすちゃっちいタイプのは何度か見たことがあるが、コレは今まで見たことがない。
「わぁ。凄い凄い何コレ。ドッキリ? サプライズ? 素敵なプレゼント大変痛みいるんだけどちょっとあたしが使うには似つかわしくな――」
「霧影ー、こっちも」
「まだ何かあんのかよ?!」
「キャリーケース重くて動かないのよ。おねがーい」
 自分で運べない荷物持ち込むなや。と内心で突っ込むのだが、自分の仕事が終わって一息付き、エプロンをパタパタとはたいていた霧影という女性は呼び声を聞くなり当然とばかりに玄関へ戻っていった。
「……」
 お陰で声も出ない。何だというのだ。

 ――

「……という訳なのよ」
 自分の身体より重いモノを持って運べないし、それを当然として霧影さんに任せる傲慢な冬佳でも譲らない仕事を担っている。紅茶淹れだ。
 入るなりユニットキッチンの端にあるコンロを使い、黒白メイドさんにティーカップ三つを用意させて揚々と人数分の紅茶を淹れる。カップまで自前なのは家にそんな気品高いモノは揃ってないためです。
 とにかく自分で淹れたがる冬佳が言うには、何でも作法なり極意なり色々あるらしい。何十何度のお湯でなければ香りが死ぬとかいって、過去一度以外他人の淹れた紅茶を冬佳が飲んだところを見たことがない。
 だから冬佳の大変貴重な労働シーンを見る度若干心が痛むのだ。あたしのお茶そんなまずかったのかなぁ。一度単位の違いとか香りとか分からんよ。お茶はお茶だ。
「へい。つまりは両親と喧嘩してあたしにお姫様ベッドをプレゼントですかい」
「まるで文脈繋がってないわね。何言ってるの」
「あんたの『逃げ出してきた』の一言を通例に当てはめて考えればそうなるんだよ! こっちの台詞だぞそれ返せよ!」
 ご丁寧にソーサーまでつけて逃避行中の優雅な一服。その雰囲気を壊すのは結局彼女本人の言動だった。
 逃げ出してきた。時折私の家に上がり込む理由はいつ何時でもその一つに絞られる。今回も例に漏れずそれだろう。その推理が間違っていたとは思わない。
「何を勘違いしているのか分からないけど、アレ、あげるつもりはないわよ。欲しいなら買ってあげてもいいけど」
「もらいたくないしいらないし勝手にあんなの取り付けられて正直あたしはご立腹だぞぅ!」
 気が気じゃなくて眠れやしない。あの布地なんだよ。不安だよ。
「アレないと寝れないのよ、私」
「寝るってあんた、寝……る?」
「泊まっていくわ」
「うっそぉ?!」
 逃げ込むと言ってもそれはいつもなら陽の目を見ぬ内に終結するほんの少しのやんちゃとアバンチュール。結局のところ家を空けるのが心配なのか他人のベッドが気に入らないのか、午前三時頃になって不意にここを飛び出して帰るのが常である。恐らく今件を見る限り理由の大半は後者だろうが。
 そんな冬佳が泊まると言った。初めてのことだ。それならこの馬鹿でかいキャリーケースも納得、はしないが、
「中身、気になる? 学校の制服と休日用の私服」
 きゃー。コレ本気だわ。
「い、一体何があったのよ? また部屋にゴキブリでも出た? 両親が買ってきた茶葉が不服? 立食会出席でも強いられたの?」
「……」
「な、何とか言いなよ……」
 いつだって微妙な理由で勝手に上がり込んで来る癖、それを恥ずかしげもなく白状する冬佳が、凛とした表情で明かさない。意気込みからしても相当キてるのが丸分かりな上この態度では流石に不安にもなる。あたしヤバいの介抱してませんかね。こいつココに置いといて大丈夫ですかね。
 何と言って追い出そうか真相を吐かせようか逡巡していると、
「……今回の件は、冬佳様にとって大変甚大な問題でありました」
 ずっと目を閉じてティーカップを口に運んでいた霧影さんが、静かに言葉を発し始めた。
「結果がどちらに転ぼうと、冬佳様の人生、将来を大きく左右する議題であったことは、傍から聞いていたわたくしの耳でも明白でございました」
「だ、だからそれが何だって聞いてるんですよ」
「冬佳様の意思を尊重する立場上、わたくしの口から申し上げるのは憚られます」
 二人して頑固だよな相変わらず。もう少しだね、部屋を間借りされるあたしの気持ちを汲み取ってくれてもだね。
「そのような選択を火急に迫られた冬佳様も、また結論を急いだご主人様も冷静さに欠けていたようにわたくしには見受けられました。その上、冬佳様には平常通り聡明なご判断を下していただくことが最善かと思い、今回こちらにお邪魔させていただきました」
 説明に正しく、五条院 冬佳――ごじょういん とうかは見ての通りお嬢様だ。
 地区の公共施設よりも大きいお屋敷を有して、隣にはこんなに凄いメイドが仕える。紅茶への拘りは随一だし、取り付け型の天蓋を、一介の友人でしかないあたしに欲しいなら買ってあげるとさえ言ってのける財力を持っている。
 そんなテンプレート的ご令嬢である冬佳は、金持ち一家のご息女特有の苦悩も同時に抱えていらっしゃるそうで。大抵あたしからしたら下らないモノだったりするけれど。
「冬佳様が歩様の下宿先に滞在する、というご意向は、現時点では極めて賢明な判断だとわたくしも同意させられました。冬佳様が持つ数少ない気の置けないご友人である歩様の下であれば、ご主人様もわたくしも、何より冬佳様ご本人も安心でございます」
 そんな、ただの一般人でしかないあたくし西果 歩――さいはて あゆみが、普通だったらお目にかかることもましてお声を掛けていただくのも珍しい冬佳にこうやって頼られるのは悪い気はしないのだけれど。
「誠に勝手ながら、どうかご協力願えれば、と思います」
「丸め込まれてるよなぁ……」
 話が話なのでいいように利用されているというか、騙されている感がぷんぷんする。自分から。
「それと申し上げ遅れました」
「うん? あいや、はい?」
 何故か霧影さんを前にすると畏まってしまう。背丈も年齢もさほど差はないと思うのだけれど、そんな身構えさせるような雰囲気が彼女にはある。
「冬佳様の気が静まるまでにどれほどの期間を要するか、今のところ冬佳様自身にも判然といたしません。そこで」
 ティーセットを取り出したのと同じ場所、エプロン下へ手を入れて何やら紙切れと電卓を引っ張り出す。マジであのエプロンの裏どうなってるんだろう。手突っ込みたい。
「ひとまず冬佳様が一月お邪魔する上での高熱費、食費を当方で賄いたく思い、コレほど」
「うえぇ……」
 顔がひきつる。私一人だったら向こう三ヶ月はまず安泰するような額だった。つーか一月ってマジか。
 絶対、絶対……。
「丸め込まれてるよなぁ……」
「その先も引き続き一間をお借りするということになりましたら、その都度歩様にご深慮いただくため、わたくしどもも尽力致します」
 人一人しばらくは飼えるような額提示しておきながら眉も目つきも歪めない霧影さんに気圧されて、
「いいい、いいですいいです! こんなに使う立派な食事ご提供できません! のみます! のみますからその心臓に悪い電卓と小切手しまって下さい!」
「毎度毎度、ご迷惑をお掛け致します」
 こうなることまで読んでやってるくせに。恭しく礼を一つ、頭を下げる霧影さんが恨めしく見える。
「こんな額受け取れません! ですから冬佳!」
「何?」
「あんたのポケットでいい、そのカールした髪型に使うアイロン代は、あんたから徴収するからね!」
 当たり前だ。いくら家族ぐるみの、冬佳の人生が左右される問題で揉めようと、それでココに厄介になるのは冬佳本人だ。彼女の無礼は彼女の手付けで購わせる。
「くすっ。えぇいいわ。その程度でいいなら」
 こっちもこっちで余裕しゃくしゃく。こいつもこうなること分かっててやらせてやがったな。
「それではわたくしは失礼させていただきます。冬佳様、頃合いになったらお迎えに参りますので」
「お願いね」
 返答が届いたときには、もう色も恭しさもでたらめなメイドは、本当に小切手も電卓も残さず消えていた。
 まぁよかろう。ポケットといえど冬佳のそれは底が深い。
「さて。私は寝るわ」
「お、おぉう? いつも遅くまで起きてるのに何で今日は」
「結局その日の内に帰るつもりだったからよ。今回は泊まると心に決めてるから、明日に備えて」
 霧影さんに天蓋を持ってこさせた甲斐はあったわけだ。が。
「ねぇ、あたし来客用の布団なんて置いてな――」
「私は来客じゃないわ。一時の居候よ」
「定義の話をしてるんじゃないの! どうすんのよ!」
「別にこのベッドに二人眠れないわけじゃないわ。床でごろ寝は無理だけど、シングルに二人でなら私も寝れるから」
「え」
 いやそんな及第点見つけたような、こちらも折れてあげますよみたいなふうを装われましても。
「ええぇぇぇ……?」
 向こうが透けて見える薄いレースに囲まれて、高校二年生女子二人が一つ天蓋の下で夜を共にするのだった。
 あの。さり気なく背中に手回すのやめてもらえませんかね。絶滅したと思ってたネグリジェあなた似合うんですよ。そして薄いんですよ。

     

「で、だね冬佳さん」
「何かしら」
「何であたしの家に向かう道をあたしと共に歩いているのだね」
「世話になるわ」
「一体いつまでだよぉ!」
 放課後の校門前に、今日か今日かと霧影さんの駆る横長カーがお迎えに来てくれないかと待ちはじめて五日経った頃だ。
「あんた、本当に一ヶ月家にいる気じゃないでしょーね」
「不都合あるかしら」
「何もかも」
 光熱費は出してあげるんだし、みたいな口振りで言われましても。あたしの眠れない日々はいつまで続く。あとその髪型作るアイロンで毎朝ブレーカー落ちないか不安なのだよ。
「いい加減飽きないモンかねぇ」
「飽きるって、ペットの愛想がつまらなくなった主人じゃあるまいし」
「あのさ。今の状況で言うと飼い主あたしだからな? 勘違いしないでよ?」
 冬佳にはあたしが何に見えるんだ。
「あたしんとこに来たって面白いこともなかろうに。ゲームとか戦績覚えてる? 格ゲーのダイヤ8:2はついてたからね」
「パズルゲームでは負けた記憶が出てこないわね」
「……ご、ご飯だってそんな美味しくないだろうし。ご実家の方が豪華な食事出てくるんじゃないの?」
「あら、満足してるわよ? 朝早く起きてわざわざエッグフィリング作ってくれるんだから感動モノだわ」
「誰のせいだと思ってるんだよ……!」
 狭くて薄くて眠れないからなんですよ。とは言うに言えなかった。
「……誰のせいなの?」
「うぐっ……」
 こうして、返答を期待するかのような嫌みったらしい笑顔を向けられたらなおさらだ。
「元手が違うからね。家のご飯の方が食材は高級なのは認める」
「おーおー。言ってくださいますこと」
「だけれど環境が劣悪なの。どうして折角の料理を好きでもない親と顔を突き合わせて食べなくてはならないのよ」
 台無しも台無しだわ、とつぶやくように締めくくった彼女の表情は、もうその時には薄い笑みは消えて反面憎らしげだった。
 話を重ねる度に思う。今回は、よほどだ。
 塀と塀で挟まれ、車も通らないような裏の下校道も、冬佳のモデルみたいな長さの足に付き合ってそそくさと歩いていると、あっと言う間に家である。我が物顔で先頭を切り、当然のように鍵を開けて上がり込む彼女の姿も様になったモノだった。
「そもそもだ。親御さん心配しないの?」
 重いブレザーをハンガーに掛けて聞いてみる。根が深いと分かっている問題を掘り返すのは、あまりよくないとは思うのだが。
「歩のところであれば大丈夫って霧影が説明したでしょう」
 その無根拠な全幅の信頼はどこから湧いてくるのか。確かに問いただされてマズいことはやってないつもりだけれども。
「たった一人の娘を、心配しない親なんていないよ」
 老婆心というか、お節介だろうけれど、こんな冬佳を見ているとこちらまで不安になってくる。だから何か打開になるような道を模索してみるのだが、
「友人の家に泊まっているのが明白な娘の何を心配するのよ」
 本人がこの様子ではなぁ。
「……いつも一日経たずして帰ってたのに、何日も家空けてたら変に思われない?」
「そういう意思表示が伝わる相手ならいいんだけれど、私が家にいても父の顔をずっと見かけない日なんてザラだったから。今更この年になって数日間目に触れなかったところで何とも思わないでしょうね」
 会議会食会合、三会って言ってね、と嘲笑して付け加える冬佳。お嬢様とは言え、いやお嬢様だからか、人並みかそれ以上に家族との軋轢はあったのだろう。お金があるかないかの差だけであって、一様に一般的な家庭だったんだな、と思う。
「だから、ふらりと帰ってきては自分の所有物を思い通りに扱うように、娘に自分の考えを押し付けられるんだわ。愛着とか思い入れがないから、私を自分と同じ人間と知らないから」
 その親にしてこの子あり、だなんて口が裂けても言えなかった。あなたどの面引っさげて私の家使ってるよ。
 部屋に一つしかないソファを早々に冬佳に占拠されたので、未だ豪奢なままのベッドにうつぶせに伏せる。寝心地にこだわる彼女があたしの布団を気に入らなかったのか、二日目にわざわざ霧影さんに取りに行かせた一級品。凄く柔らかい。
「そんな自分勝手な人と同じ空間にいたくないの。いたくない場所から出ていって、別の場所に居を構えることのどこがいけないかしら? 私にだって意思はある。その意思に従う自我もある。それを、分からせてやりたい」
 ……はて。これはこれは。
 話の流れから怒りが舞い戻ってきたのか、語調が少々強くなってくる。そのせいか言葉遣いから若干のボロも見受けられた。
 一つ。何となく今回の騒動の発端がほのめかされている。恐らく何かしらの決め付けをまた強いられた。具体的に何がどうかは分からないが、お嬢様特有の悩みにぴったりで一般人の私には到底想像も付きそうにない案件が考えられる点、予想としてはいい線行っているのではないか。
「心配してくれるものなら心配させてやりたいわね。それで少し、気が変わってくれたら私もやりやすいかも」
 二つ。この通り毎度のことながら冬佳は本気じゃない。
 何も本当に家から逃げ出そうとしているわけではないのだ。ただ少し間を開けて、冷静になって、聡明な判断を下せるようになるまであたしの家に滞在しているだけ。初め、霧影さんからそう言われていたではないか。
 もし気を違えて本気で家に戻らないぐらいの勢いで逃げ出すとなったら、足がつくあたしの家なんてまず利用しない。国の端っこだって、或いは国の枠を超えてどっかへ行ってしまう。それぐらいやってのける行動力と、実現可能にするバックヤードが冬佳にはある。
 どこにでもある親子の喧嘩をちょっと大仰に、本格的にやってるだけだ。
 その場として利用されているだけのあたしにどうにか出来るモノではないし、そも口を出すべきモノですらない。いやまぁ、被害者面して出ていけと言うのは簡単だしそれぐらいはしてもいいんだろうけれど、冬佳がそれで出ていくタマじゃないのを知っている。
 何より、どんな口実であれ転がり込まれる先として頼られているのも、コレはコレで心地がいいのだ。それにポケット付きだもの。
 その生活がいつまで続くかは分からないが、時期が来れば冬佳は帰る。もう後何日かの不眠を繰り返せば終息する事態にあたしが気を遣う必要は全くない。
 だから、自分のことについて考えよう。
「そんな言葉、あたしも一度ぐらい言ってみたいもんだよ。親を心配させたいだなんて」
 ベッド脇にぞんざいに投げ捨てていたバッグから一枚の紙切れを取り出す。ファイルに綴じていなかったせいでくしゃくしゃだった。
「進路希望調査書……?」
「そ。なんて書いたもんかなー」
 冬佳が天蓋のカーテンを抜けて覗き込んでくる。彼女が興味を示したその紙面には志望する進路を書く欄が三つ。折れ目のせいで正確な四角形をしていない。
「こんなもの渡されてた?」
「え。たった今日ついさっきの帰りに」
「へぇ……私からすれば悩む由もないわね」
「優等生様は言うことが違います」
 興味がなくなったのか、彼女は元いたソファを素通りしてキッチンへ向かう。また紅茶でも淹れてくれるのだろう。
 素振りを見て、嫌みな奴だなと思う。そしてそれが事実なのが一層憎たらしい。
 重ねて言うが冬佳はお嬢様。しかもその上優等生でもある。才色兼備のお手本のような彼女ほどになると、進路での迷いも大変贅沢なモノになる。
 曰く、実家の家業を継ぐか、大学に進学するか。
 資産家である両親の家業、つまるところ起業した会社の役職に就いてゆくゆくは会社のトップに、というルートを辿るか。或いは溢れんばかりの学力にモノを言わせて思うところの大学に入るか。前者の道は雲の上の話なのでよく分からないが、次元は違えど進路という同じモノを考える立場としては、冬佳の進学に対する余裕は羨ましいことこの上なかった。
 大してあたしはというと。
「国公立は全E判定。私立なら……ってところじゃねぇ」
 前回の模擬試験が示してくれたこの結果は、進学校の体を成している当校では落ちこぼれに値する。
「E判定ってどれぐらい危険なの?」
「会社が倒産するぐらいかなー」
「やだ、大変なのね」
 真に受けんなよ。E判定がどれほどヤバイかあんたにはわからないだろうけどさ。
「無謀とは言わないけれど国公立志望は少々夢見がち。と言うことで現実的な選択肢は私立ということになるんだけど、親のことを考えるとねぇ」
 受験費用もさることながら、年間通しての学費もバカにならない。
 今でさえ進学校という位置に属するあたしだが、元々勉強は嫌い、と言うよりはよく分からないモノだったりする。こんなモノを覚えて将来何になるのかのビジョンが見えない、という至極一般的な言い訳めいた理由が主なのだが、学歴が就職に影響するとか、経理事務に応用は利くとか、そういった啓発、諭しは理解できる。ただ実際机に向かって人の話を聞いて手元を言われた通りに動かすその一連の動作に、字面そのままの利益を実感できないのがつらい。結果、何のためにやってるのか分からなくなるのだ。
 ゲームみたいに、勉強そのものに面白味でも感じられれば少しは違ったのだろうが、生憎数字上の好成績好順位、公式の飲み込みにはあたしの興味が働かなかったらしく、小学校から続いた惰性も十年少しで限界を迎えていた。
「家計、逼迫しているの?」
 戻ってきて再びソファへ腰掛けた冬佳の手にはカップがご丁寧にあたしの分まで二つ。背格好も相まってティータイムがお似合いの冬佳を見ても、淹れてくれた紅茶に手を出そうとは思えなかった。
「ぶっちゃけ家の事情あたしよく知らない。ただまぁ、高校生ごときにマンションの一室をプレゼントするぐらいだから寧ろ若干裕福だとは思うんだ。だけど」
 あたしに対してはかなりの放任気味だった両親だが、進学というイベントはそんな二人が珍しく口を出してきた珍しい話題だった。
 迷惑さえかけなければどんなふうに生きてもらって構わないと言ってのけた彼らも、あたしの将来を憂慮する心が少し程はあったのだろう。中卒という額面は世間体が悪いということを懇々と説かれ、当時から勉学に対する虚無感を抱いていたあたしが進学を決意するきっかけとなった。
 ただ今と違うのは、継続していた惰性とそれによりつられて引き上がっていた学力。今思えば中学までの勉強なんて簡単なもので、意欲や目的を持たずしてもやってさえいればそれなりにはこなせる。その恩恵を余すことなく享受して、あたしは今の学校の席を得ている。
 そこまではよかった。
 問題は入学してからである。
「勉強、わっかんないんだ」
 学習するレベルも上がり、惰性では対応し切れなくなっていた。
 難しいことを学んでも、それが将来役に立つという実感は相変わらず得られなかった。寧ろ、難解になったためかより一層現実味を感じられなくなってさえいた。
「先生の言うことも、言われたことが何になるのかも、何かになったとして、その後それがあたしをどうしてくれるのかも」
 小中学生まではそれが分からないままでも怠惰にやることはできた。簡単だからというのも一つあるが、何よりもそれが義務だったから。
 しかしコレが歳を重ねて高校大学ともなると話は別。それまでほぼ無償で受けられていたものが一転、任意で行う将来の自分への投資という出費になる。
「だから、そんな勉強に高い金出してもらうのもちょっとなーって」
 当然額が額なので自力でなんて到底無理だ。そこで取り沙汰されるのが親。高校の学費はおろか下宿代に生活費まで置いて行ってくれる我が両親である。
 親の言いつけ通り、迷惑をかけず自由に暮らしてきたつもりだが、お陰で誰に何とも咎められることがなかった故、勉学へのやる気が消え失せてしまった今、学業に関してコレ以上厄介になることは避けたい。
「進学する気、ないの?」
「そうだね」
 正直、私立だろうが国公立だろうが大学に行きたいとねだれば応援してくれそうな気もする。両親の言う迷惑、というのは金銭面や日常生活の些事についてではない。犯罪とか、法に引っかかってその尻拭いをさせられることを指すのだろう。進路についてのあたしの意向は何であれ尊重される。
 ただ、だからといってこの先また四年間も堕落した生活を、大学生という大義名分で送りたいがためだけに親のすねをかじるのは実の娘ながら流石に気が引ける。そこまでお願いするほど家の貯蓄を我が物顔で使わんとする図太い神経は持ち合わせていなかった。
「何で勉強してるのか。当事者の自分で分かってないのにお金だけ出してもらおうなんて思えないんだ」
 とは言え大学生活、憧れではあるんだけどね、と最後に一言付け加えて。いやだってさ、噂に高い大学生ですよ。何をするも自由って今話題の。
「……じゃあ、仕事探すのよね」
「そうなるねぇ」
 そっちの未来図も全く見透かせないけどさ。大学進学を辞退してまで就きたい仕事があるわけでもなし。
 ココまで喋っておきながら、悩むにしたってどの選択肢も具体的なビジョン持ってないんだなということに気付いて、悩むに悩めずただぼんやりしているだけなことを思い知らされた。冬佳と違い何だか安っぽい。
「あなたはあなたで大変なのね」
「何だよその悩みなさそうだよなお前、みたいな」
「私も……少しは考えるべきなのかもしれない」
 冬佳にはこの様にあたしの嫌味なんて全く聞こえてないぐらい、考えこむ事案があるのだろうから。
 あたしだってあんたにその台詞言ってやりたいわよ。確かこの調査書もらった瞬間捨てたよね冬佳。別にどんな進路取ろうが彼女には全てを可能にする力があるし、教師側もそれを把握しているので提出せずともよかろうが。
 そんな態度が許されるこの紙切れに少しばかりの憂いを感じたあたしは何なんだ。寧ろコレで悩む理由がないあんたは一体どんな問題で頭を抱えているんだ。詮索しようとすればするほど、自分が馬鹿らしく思えてきた。

     

「ねぇ、だったら」
「うん?」
 くしゃくしゃの紙をペリペリと伸ばして、三つもある空欄をどう埋めたものかなと考えていると、冬佳が神妙な面持ちで切り出してきた。
「あなた、家に来る気はない?」
「……うん?」
 口から出たのは突飛な提案。思わず上体を起こしてしまった。
 何故だろう。結構真面目な表情と口ぶりなのに、不思議とまともな思惑が見て取れない。絶対いつもの碌でもない妄言だ。
「この度も部屋に泊めていただきありがとうございますお礼に次節は当屋敷へご招待致しますのでどうぞご遠慮なさらずに、ってことで?」
「えぇ。向こう数年、数十年面倒見てあげる」
 大正解。マジで何を言い出すんだろうこのぶっ飛びお嬢様。
「家の雑用をやってもらいたいのよ。人手が足りなくてね」
「あー……」
 このご時世に結構非現実的なこと言ってると思うんだけど、それを彼女だから、と納得させる冬佳の生育環境はやはり凄い。
 確かにあのお屋敷もぞもぞ大きいからなぁ。
「部屋は空いてる場所使っていいし、こんなアパート引き払って転がり込んできなさいな。歓迎するわよ」
「うわーもうそれだけで好条件だー。いーなー本当にお世話になりたーい」
 平坦な抑揚のない声でそう応える。何コレ。冬佳なりの心遣い? 下らないことで悩んでんじゃないわようふふ、という意図の上流階級冗談?
「……いえ、馬鹿にしてるんじゃなくて。本気で乗ってくれるなら、私も本気で考えるわ」
「……」
 マジで言ってるんです?
「家から払える額は他のメイドと区別できないけれど、あなたであれば個人的に私が思慮もできるし、仕事さえこなしてくれれば屋敷の中は好きに使ってくれて構わない」
 多分冬佳邸付きのメイドさんって高卒平均月収平気で飛び越えるぞ。それに本人の加色ありだなんてそれだけで待遇が良すぎる。
「基本的に休日らしい休日はあげられないかも知れないけれど、逆を言えば勤務日らしい勤務日もないはず。業務内容は屋敷内の清掃と、社品の整理格納。広いから毎日全ヶ所やれなんて無理言わないし、モノの持ち運びなんてあなただったら平気でしょう?」
「モノと量によるけど、まぁ」
「あとは簡単な調理補助もお願いするときがあるかもね。毎朝の食事、美味しかったわ」
「あ、あぁ……どうも……」
 聞けば聞くほど断る理由がない職場だ。
「悪い話じゃないはずよ。どう?」
 と、うすーく笑って畳みかけるように尋ねる冬佳。多少圧倒されてる。ヤバい。
「……す、ストーップストップストップ! 待って! 即決させんの?! 待ってよできないよ!」
「まだ足りないかしら。そうねぇ、あと私から提示できるのは……」
「そーじゃなくって! 考える時間がほしいって言うの! やだよ? あたしこんだけ好待遇で囲われてノータイムで冬佳嬢のペットみたいで一生を過ごすの決断させられて後々後悔するの!」
「私は人を何だと思うような人間だと思われてるのかしらね……別に首輪つけてずっとつないでおく訳じゃなし」
「回りくどい台詞で茶化すなよぉ!」
「英語のthat節例文でありそうよね。どうなるのかしら、How do you think me that……」
「あたしが分からない話題に転換してはぐらかすのもだめー!」
 あー、疲れる。
 一呼吸置いて冷静になるもつかの間、冬佳は未だ退こうとしない。
「まぁさっきも言った通り、仕事が終われば後は解放してあげる。街へ行くなり実家へ帰るなり好きにすればいい。まだ不満がある?」
「他に選択肢がほしいって言いたいの! 何で端から人の家に寄生する話が始まるんだよ! それに不満だったら!」
「何かしら」
「冬佳んとこのメイド服! 霧影さんしか見たことないしお屋敷に今どれぐらいのメイドがいるのか知らないけど、アレ全員着てるんでしょ? あたしも着るんでしょ?!」
 想像してみる。白いブラウスに白スカート、その上からアクセントでもつけるかのようなセンスがどうかしてるぶっかぶぁっさの黒エプロン。アレをあたしが着るのだ。メイド服ってだけでもきっと似合わなかろうにその色使いではなおさら。さぞかし芸人か何かだ。
「無理!」
「あぁ。アレね。霧影が好き好んで勝手に着てるだけだから」
「……へ?」
 アレを? 霧影さんが? 自ら進んで?
「妙に似合ってるからそのままにしてあるだけ。何だかメイド長って感じしない? 他の皆は普通のメイド服にしてるからだろうけど」
「あ、やっぱ全員メイドなんだ」
「そこは譲れないの」
 マジでー? 服装自由! 事実上のアットホームな職場です! みたいな宣伝文句付けてるもんかと思ったのに。
「……まぁ、どうしても嫌というなら、考えないこともないけれど」
 うわぁすっげぇツンとしてる。何だよ。何でそんなにメイド服がいいんだよ。私服だと仕事に気が入らなそうではあるけどさ。
「あぁそれとね。決断早めに迫ってるのは正直今すぐにでも仕事してもらいたいからで」
「え。あたし学校」
「あなたは放課後でいいわよ。でもここで請けてくれないとなると外部に求人出すしかないわ。後々、ってなって泣きつかれても服が余ってるかどうか」
 働くとしたら着ること前提になってるし。まぁそれはいいとして。
 口振りが、結構本気である。冗談が楽しくなってきて空想の話を続けたくなったとか、反応が面白くてもっとからかってやろうと思ったとか、そんな暇つぶし思考で出る口調でも表情でもない。
 マジで勧誘してんのかコレ。
 だとしたら何で。どうしてそこまでしてあたしを。
「ねー冬佳、あたしたち友達だよね」
「え? ……えぇ」
「友人が一転雇い主様になっちゃうのはちょっと嫌かなぁ」
「職場恋愛は昔からあった普通の慣習よ。職場友人関係もありじゃないかしら。確かにちょっと体裁維持に、勤務中は指図して嫌らしい主人になることもあるかもしれないけれど、労働が終わればこうして普通に接するもの」
「そ、そっかぁ」
 何で一瞬友人かの確認で引っかかったんですかね。
「それにね」
 最後にこれが一番の決め手、と言わんばかりに勿体ぶって付け加える。
「あなたが家に来てくれれば、私がこうやってここまで出向くこともなくなるのよ。お互いに不都合ないいい話と思えない?」
 ――あー……。
 ここに来て自分の都合出しちゃいますか。冬佳、それは分かりやすすぎるよ。
「ねぇ冬佳」
「何?」
 視界が落ち着かないベッドから抜けだして、マットレスの上に直に座る。ちょうど、冬佳を見上げるような視線になった。若干冷めてきた紅茶を舐めて一息。
 友人かどうかで引っかかり、職場恋愛なんて今の事例に沿うようでその実突飛な例えを出したり、あたしに家に住み込みできてほしいと言ってるようなお誘い。
「どうしてあたしのこと、そんな好きなの?」
 分からない方がおかしい。
 実家と揉めてひねくれて何泊もする場所をあたしのとこに決めたり、即決を迫るような言動をすれば、流石のあたしだって。
「……」
 冬佳は答えず、さして眉も一つ動かさず。
 しかし平然と見えるその振る舞いが、冬佳の不動心情防衛ラインの決壊を示すものだとあたしは知っている。必死で情動を表に出さないよう押し殺している証だ。
 バレていないつもりでもいたのか。そんなにあたし馬鹿で鈍感に見えますかね。或いは全く見当違いで何を言っているんだこの女は、みたいな呆れなのか。それありそうで嫌だわ。
 まぁ、はっきりさせれば分かる。話を請けるも請けないもその後だ。
「そんな話してくれるのは嬉しい。ただ何というか、文字通り身に余る思いなんだよ。しっかりとした仕事と給与に部屋一つまで貰えるなんてありがたすぎる。ねぇ」
 今度はこちらが畳み掛けるように。冬佳は黙って口を挟もうとしなかった。
「冬佳にとって、あたしはそこまでできる存在なの? あたしそんな、凄いかな」
 自意識過剰にも捉えかねない台詞の数々。コレで読み違いだったら本当に笑いものだ。痛くていたたまれない。
「あたしなんて冬佳と比べたら、家柄だって人当たりだって良くない。体力はあたしのがあるかもしれないけど、勉強は天と地じゃん。そんなあたしが冬佳にそこまで好かれるのは、ちょっと……」
 理解がいかないし申し訳ない、と言おうとして。
 少し、語調が強くなりすぎたことにようやく気がついた。どうして人に核心的な質問を試みると、その気がないのに言及というか、詰問調になってしまうのだろう。
 あたしが発しなかった言葉尻を何と想像したのか。当の冬佳は相変わらず表情を崩さず答えずだ。あたしも自分の言葉を繋げられないで、部屋にしんとした、張り詰めた空気が漂う。
 やりすぎた、と思った頃にはもう遅い。発した言葉は引き戻せはしない。
「……歩」
「はっ、はいっ!」
 ようやく開いた口調は大変重いものだった。思わず若干ビビリ気味。
 だが、次に聞いた言葉はいよいよあたしの心にガツンと来た。
「私、帰るわね」
「はいっ……」
 帰る、と言った。
「……は?」
 この数日間頑として動きそうもなかった冬佳が、自ら。
「霧影」
「こちらに」
「えっ?!」
 冬佳がいるはずのない名前を呼ぶと、あたしの斜め後ろに正座して澄ましている霧影さんがいた。
「諸々の準備をお願い。キャリーケースの方も」
「既に済ませてあります」
「えええぇぇぇぇ?!」
 あたしが寝っ転がっているついさっきまでベッドについていた脚付き屋根とサラサラのカーテンは、本当に霧影さんの言う通りただの骨組みになっていて、キャリーケースの方も開け広げのごっちゃなままだったやつが、きちんと衣類が収納され今では物々しく佇んでいた。
「行くわよ」
「畏まりました」
「ちょ、えっ、ちょっと」
 悠然と何事もなかったかのように玄関へ行く冬佳と、キャリーケースに天蓋両方を抱えて平然とそれを追いかける霧影さんに呆然としてしまう。
 我に返って、慌てて玄関まであたしも出ていくと、今か今かと校門で放課後毎待ち望んでいた横長の黒い車がばっちり停まっていた。何でこのタイミングなんだよと悪態をつきたくなる。
「冬佳っ、ごめんちょっと待ってっ」
 お泊りセットとは到底呼べないほど大きかった荷物ももうしまったようで、残すは彼女ら二人のみだった。ドアを開いて屈み込もうとした冬佳には、声が届いてないらしい。
「……冬佳様、よろしいのですか」
「えぇ。行っちゃって」
「お帰りになりましたら――」
「……えぇ。聞くわ。その縁談」
 冬佳と付き合っていると毎度毎度馴染みのない単語を聞かされる。そしてその都度、あぁ冬佳だったら、と納得させられるのだが。
「縁、談……?」
 そんなもの、この現代にまだ実在するのか。彼女が抱えていた予想以上の問題に、呼び止める声も追いかける足も戦いて止まってしまう。
「世話になったわね、歩」
 車内に腰を下ろして悠々と構え、こちらに向けた最後の顔は。
 ほんの少しだけ、笑っていた。
「冬佳ッ!」
 バタン、とドアが閉まる音であたしの声もかき消されてしまう。
 妙にうるさいエンジン音と白味が濃い排気ガスが消え去った後、街灯も乏しい暗い路地には、呆然と道の向こうを眺めるあたし以外には残っていなかった。

       

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Neetsha