俺の妹がこんなに正しいわけがない
第一話「困難」
――自宅のリビング。ソファーで三人ごろりと寝そべりながら、調理実習で焼いてくれたクッキーを食っていた。
「あの、あたしの方ですよね? あたしの方がおいしかったですよね? 高釈迦(こうしゃか)せんぱい」
赤木ゼナ(あかぎぜな)は下縁なしの眼鏡をくいっとあげて言う。
「何言ってんの? 違うっしょ。わたしの方が上手く出来てたし」
妹の野霧にジト目で睨まれる。
「あ、おな」
「「同じじゃない!」」
二人で声をハモらせて言った。
こいつら何なんだ。どうせどっち選んだって文句言うじゃねえか。
「うーん……」
委員長然としたゼナが強引に俺の腕を両腕を絡めてくる。必然的に肘のちょい上あたりに柔らかい場所が押し付けられることになり、
「お、おい」
俺が言う。するとゼナはイタズラが成功した時の子供の如く、眼鏡越しの瞳を輝かせてにんまりと得意げな顔をした。
「何ですか? あたしになんかついてますか?」
胸がついてんだよ(しかもでかい)。
俺は思わず目が行かないように心頭を滅却しようとしたのだが……。
これは失敗だった。
夏服の薄い布越しのふにゃっとした感触が鮮明になってしまう。汗ばんだ腕にさらさらとした服の感触がジャストフィット。真夏日ってやつに無限の可能性を感じたよ。思わず顔に出ていたらしく、
「……何ニヤついてんの? キモッ」
吐き捨てるように呟いて、そっぽを向いたのがもう一人。
現在物理的にも心理的にも微妙に距離を置いている俺の傲慢な妹、高釈迦野霧(こうしゃかのぎり)である。
俺に今くっついている、胸以外は優等生然としたゼナとはかなり違って、野霧はなんともチャラい感じだ。
ライトブラウンの髪、両耳にピアスといったものがよく似合う整った容姿で、クラスのヒエラルキーの高い方にいる。言うまでもなく俺は最下位に近いnerdだ。
……しっかし、相変わらず兄への敬意がなっちゃいないな、こいつ。
そもそも下級生の眼鏡をかけた委員長系美少女にちょっと豊かな胸をぐいぐいと押し付けられたくらいでニヤニヤなんてしないよな。みんなだってそうだろ?
「高釈迦せんぱいニヤついてますよ」
「お前が胸を押し付けるからだろうが! 揉むぞこの野郎!」
思わず条件反射で言ってしまう。
「うわあ。公然猥褻ですね! どうしましょう野霧ちゃん」
声を高くしてゼナが言う。なんで嬉しそうなのお前。変態なのか? まあいいけど。
野霧はこちらをちらりと横目にし眉をひそめて、
「……やっぱそうじゃん。エロ……! サイテー男」
と言い放つ。俺はしまったと思い、
「お、おお男なら誰だってそうだ! みんなだってそうだろ!?」
「誰に言っているんですか」
ゼナの問いかけも無視して開き直ることにした。誰だって下級生の眼鏡美少女に胸を押し付けられたらニヤついてしまう。
「……!」
野霧は近くの物体を投げつけようとするが、側にいるゼナを見て留まったらしい。
苛立ちをぶつけるように声を荒げて、
「……ゼナちーもさ、あんまくっつかない方が良いよ。……そいつ何するか分かんないし。エロゲ好きの変態だから」
妹がゼナに有り難い忠告をしてくれる。この野郎。
ゼナは指を唇の下に置いてちょっと考え込んだようにして、
「知ってます。んー、まああたしは別に気にしないですけどね」
「そうなのか」
野霧はゼナの反応に焦ったようにして、
「いや、気にしようよ! だっておかしいでしょ、ソイツまだ十八歳じゃないし、好きなメーカーがKeyじゃなくてわるきゅーれなんだよ!? 存在自体がソフ倫機構に抵触してるでしょ!?」
大きなお世話である。しかしまあ、よっぽどゼナのことが心配なんだろう。
ゼナはきょとんとした表情で、
「別にいいんじゃないですか?」
と言う。野霧は驚いて、
「え!?」
と返す。それを読んだようにゼナは眼鏡をきらーんとさせて、
「まず第一に、泣きゲーメーカーだってチャンピオンソフトとかの老舗エロゲメーカーがあるから成立したという面だって少なからずあるわけです。第二に……(以下略)……。つまりかつての葉鍵厨みたいに棲み分けちゃんと意識出来れば何も問題ないですよ」
「う、……でも、ほら、十八歳じゃないし……」
「野霧ちゃん。考えて見て下さい。中学生がちょっと調子に乗ってWarez落としてVIPPERにフルボッコされるような病んだ現代社会において、コソコソと中古ショップに行くんじゃなく堂々とポイントのためだけにアキバの淀にエロゲだけを買い付けに行くような人って素敵じゃないですか。pixivで深夜アニメのR-18探してる輩よりも遥かに真っ直ぐ不健康な輩……絶滅危惧種……特濃です!」
ゼナはふっと笑って、
「……それに、私は自分の目が一番確かですから。人に流されるのは好きじゃないんです」
「……。ありがと。でも、その目腐ってるかもしれないよ?」
「たとえ腐っていたとしても、好きを貫き通す方が大切ですから!」
胸を張って言うゼナを見て、野霧は顔を俯かせ、押し黙ってしまった。
「……」
「野霧? どうかしたのかお前」
「何でもない」
調子悪いわけではなさそうなんだけど。
*
――おっと、自己紹介を忘れたな。俺の名前は髙釈迦狂介(こうしゃかきょうすけ)という。趣味はエロゲと同人誌を読むことだ。勿論知り合いに勧められたり強制されたりしたからやってるわけじゃない。自分の手と足で調べたものだけを厳選している。インターネットもよく分からないしな。世間に惑わされず自分を貫き通すっていう姿勢が大切だって、俺は思ってるよ。みんなもそう思うよな。
これだけだと流石にあんまりかもしれない。もう少し紹介する。好きな同人サークルは『bolze.(ぼるぜ)』。最後のピリオドを忘れないようにな。『bolze』じゃなくて、『bolze.』だ。とらのあなで初めて見つけた時の衝撃は今でも忘れられないよ。
ちなみに好きなエロゲメーカーは『わるきゅーれ』。これはさっき言われたけど。
あとはどうでも良い情報だけど、背丈は175cm体重67kg。高校三年生で志望大学は千葉大。家族構成、両親と俺と妹の四人家族。父親は去年淫行容疑で捕まってたから暫くは実質三人家族だった。……やっぱ普段ウザく思ってても、一人家族が減ると寂しいもんだったよ。
そうそう、家族総出で迎えに行った時、親父のやつ、ガラにもなく泣いてたっけ。
どっちかっていうと泣きたいのはこっちだったけどな。
*
自室に戻った俺は思わずあくびをした。
さて、寝るか……。ベッドに入る。膨らんでいるのは恋と選挙とチョコレートという地雷ゲーの抱き枕である。こいつがないと夜良く眠れないんだ。
「ふう……」
しかし抱きつくと妙に暖かい。というかなんか人肌のようである。ふとごろんと横になって床を見ると、恋選の抱き枕は床に転がっていた。
………………。
俺はがばっと上半身を起こして上布団をひっぺがした。
「何やってるんだマミナ」
「こんばんはきょーちゃん。あの、久しぶりに布団を暖めておこうと思って……」
制服姿の駄村マミナ(だむらまみな)が布団の中にいた。
幼稚園からの幼馴染みの眼鏡娘。容姿は全体的に地味だがショートカットで眼鏡である。
マミナはずっと布団の中に篭もっていたのか汗だくの状態で、やっと開けてくれたーと言った表情である。
胸元がはだけてヤバいことになっている。
「そ、そうか……と、とりあえず眼鏡をかけろよ。一瞬誰だか分からなかったぜ。お前地味だからな」
「きょーちゃん何気に酷いよね」
そういいながら笑って乱れた制服のボタンを留めていく。
当然のごとく凝視してしまったわけだが。
「はあ、でもこういう風に二人きりでベッドに入るのって懐かしいよね……」
「イヤ、お前先週もやってきたらしいじゃねーか。野霧に見つかって追い出されてたらしいけど」
「あれ、知ってたんだ」
俺はぽりぽりと頭をかいて、
「で、何で? 豊臣秀吉の真似? 暖めておきましたって」
「何でって、もう。そういう事を聞くの? きょーちゃんの好きなゲームと同じだよー」 ん? 俺の好きなゲーム?
「あれ、信長の野望でそんな行動取るやついたっけ?」
「あれ? 私だけやっぱりそういう扱いなの? エロゲーは?」
「Forestは面白かったな」
――ForestとはLiarSoftとという少し癖のあるエロゲを作るメーカーが作った作品のことだ。企画とシナリオライターを星空めてお先生が兼任している。原画に大石竜子先生を起用したのは流石というか、英断である。普通はしないと思う。
「いきなりそんなマニアックな事言われても分からないよ」
「あのなあ。分からないとかありえないだろ? アリスを原作として踏襲しつつ、しつつ……アリスを踏襲しているところが、とても不思議で、……国って感じの作品なんだよ」
「きょーちゃん。頭悪いのに難しいこと言おうとしなくていいよ? 本当は何も分かってないんだよね?」
「ああ、まあ……実はあまり分かっていないんだが。楽しめた」
「ふふ。補足しておくけどあれはプーさんも元にしてるんだよ。ちゃんと下地になった作品はチェックしておなきゃダメだよ?」
お前知ってるじゃねえか。
*
ドアがバタンと開く。
「……何でアンタがここにいんの?」
「野霧ちゃん……。あの、きょーちゃんの布団を暖めようと思って昼間に入ったの……」
人差し指を合わせながらマミナが理由を述べる。
「はぁ!? 鍵掛かってたでしょ!?」
「あの、お義母さんに合い鍵を貰いました。『一線越えて良いから!』って。きょーちゃんの部屋で待ってていいよって。でも私地味だから夜まですっかり忘れられちゃってたみたい」
「チッ。ってか何お義母さんとか言ってんの? 『義母』じゃなくて『母』でしょうが。口で言ったら同じだけど。早く出ていってよ」
「……出ていきません」
マミナはしっかりとした口調で言った。
*
「あの、あたしの方ですよね? あたしの方がおいしかったですよね? 高釈迦(こうしゃか)せんぱい」
赤木ゼナ(あかぎぜな)は下縁なしの眼鏡をくいっとあげて言う。
「何言ってんの? 違うっしょ。わたしの方が上手く出来てたし」
妹の野霧にジト目で睨まれる。
「あ、おな」
「「同じじゃない!」」
二人で声をハモらせて言った。
こいつら何なんだ。どうせどっち選んだって文句言うじゃねえか。
「うーん……」
委員長然としたゼナが強引に俺の腕を両腕を絡めてくる。必然的に肘のちょい上あたりに柔らかい場所が押し付けられることになり、
「お、おい」
俺が言う。するとゼナはイタズラが成功した時の子供の如く、眼鏡越しの瞳を輝かせてにんまりと得意げな顔をした。
「何ですか? あたしになんかついてますか?」
胸がついてんだよ(しかもでかい)。
俺は思わず目が行かないように心頭を滅却しようとしたのだが……。
これは失敗だった。
夏服の薄い布越しのふにゃっとした感触が鮮明になってしまう。汗ばんだ腕にさらさらとした服の感触がジャストフィット。真夏日ってやつに無限の可能性を感じたよ。思わず顔に出ていたらしく、
「……何ニヤついてんの? キモッ」
吐き捨てるように呟いて、そっぽを向いたのがもう一人。
現在物理的にも心理的にも微妙に距離を置いている俺の傲慢な妹、高釈迦野霧(こうしゃかのぎり)である。
俺に今くっついている、胸以外は優等生然としたゼナとはかなり違って、野霧はなんともチャラい感じだ。
ライトブラウンの髪、両耳にピアスといったものがよく似合う整った容姿で、クラスのヒエラルキーの高い方にいる。言うまでもなく俺は最下位に近いnerdだ。
……しっかし、相変わらず兄への敬意がなっちゃいないな、こいつ。
そもそも下級生の眼鏡をかけた委員長系美少女にちょっと豊かな胸をぐいぐいと押し付けられたくらいでニヤニヤなんてしないよな。みんなだってそうだろ?
「高釈迦せんぱいニヤついてますよ」
「お前が胸を押し付けるからだろうが! 揉むぞこの野郎!」
思わず条件反射で言ってしまう。
「うわあ。公然猥褻ですね! どうしましょう野霧ちゃん」
声を高くしてゼナが言う。なんで嬉しそうなのお前。変態なのか? まあいいけど。
野霧はこちらをちらりと横目にし眉をひそめて、
「……やっぱそうじゃん。エロ……! サイテー男」
と言い放つ。俺はしまったと思い、
「お、おお男なら誰だってそうだ! みんなだってそうだろ!?」
「誰に言っているんですか」
ゼナの問いかけも無視して開き直ることにした。誰だって下級生の眼鏡美少女に胸を押し付けられたらニヤついてしまう。
「……!」
野霧は近くの物体を投げつけようとするが、側にいるゼナを見て留まったらしい。
苛立ちをぶつけるように声を荒げて、
「……ゼナちーもさ、あんまくっつかない方が良いよ。……そいつ何するか分かんないし。エロゲ好きの変態だから」
妹がゼナに有り難い忠告をしてくれる。この野郎。
ゼナは指を唇の下に置いてちょっと考え込んだようにして、
「知ってます。んー、まああたしは別に気にしないですけどね」
「そうなのか」
野霧はゼナの反応に焦ったようにして、
「いや、気にしようよ! だっておかしいでしょ、ソイツまだ十八歳じゃないし、好きなメーカーがKeyじゃなくてわるきゅーれなんだよ!? 存在自体がソフ倫機構に抵触してるでしょ!?」
大きなお世話である。しかしまあ、よっぽどゼナのことが心配なんだろう。
ゼナはきょとんとした表情で、
「別にいいんじゃないですか?」
と言う。野霧は驚いて、
「え!?」
と返す。それを読んだようにゼナは眼鏡をきらーんとさせて、
「まず第一に、泣きゲーメーカーだってチャンピオンソフトとかの老舗エロゲメーカーがあるから成立したという面だって少なからずあるわけです。第二に……(以下略)……。つまりかつての葉鍵厨みたいに棲み分けちゃんと意識出来れば何も問題ないですよ」
「う、……でも、ほら、十八歳じゃないし……」
「野霧ちゃん。考えて見て下さい。中学生がちょっと調子に乗ってWarez落としてVIPPERにフルボッコされるような病んだ現代社会において、コソコソと中古ショップに行くんじゃなく堂々とポイントのためだけにアキバの淀にエロゲだけを買い付けに行くような人って素敵じゃないですか。pixivで深夜アニメのR-18探してる輩よりも遥かに真っ直ぐ不健康な輩……絶滅危惧種……特濃です!」
ゼナはふっと笑って、
「……それに、私は自分の目が一番確かですから。人に流されるのは好きじゃないんです」
「……。ありがと。でも、その目腐ってるかもしれないよ?」
「たとえ腐っていたとしても、好きを貫き通す方が大切ですから!」
胸を張って言うゼナを見て、野霧は顔を俯かせ、押し黙ってしまった。
「……」
「野霧? どうかしたのかお前」
「何でもない」
調子悪いわけではなさそうなんだけど。
*
――おっと、自己紹介を忘れたな。俺の名前は髙釈迦狂介(こうしゃかきょうすけ)という。趣味はエロゲと同人誌を読むことだ。勿論知り合いに勧められたり強制されたりしたからやってるわけじゃない。自分の手と足で調べたものだけを厳選している。インターネットもよく分からないしな。世間に惑わされず自分を貫き通すっていう姿勢が大切だって、俺は思ってるよ。みんなもそう思うよな。
これだけだと流石にあんまりかもしれない。もう少し紹介する。好きな同人サークルは『bolze.(ぼるぜ)』。最後のピリオドを忘れないようにな。『bolze』じゃなくて、『bolze.』だ。とらのあなで初めて見つけた時の衝撃は今でも忘れられないよ。
ちなみに好きなエロゲメーカーは『わるきゅーれ』。これはさっき言われたけど。
あとはどうでも良い情報だけど、背丈は175cm体重67kg。高校三年生で志望大学は千葉大。家族構成、両親と俺と妹の四人家族。父親は去年淫行容疑で捕まってたから暫くは実質三人家族だった。……やっぱ普段ウザく思ってても、一人家族が減ると寂しいもんだったよ。
そうそう、家族総出で迎えに行った時、親父のやつ、ガラにもなく泣いてたっけ。
どっちかっていうと泣きたいのはこっちだったけどな。
*
自室に戻った俺は思わずあくびをした。
さて、寝るか……。ベッドに入る。膨らんでいるのは恋と選挙とチョコレートという地雷ゲーの抱き枕である。こいつがないと夜良く眠れないんだ。
「ふう……」
しかし抱きつくと妙に暖かい。というかなんか人肌のようである。ふとごろんと横になって床を見ると、恋選の抱き枕は床に転がっていた。
………………。
俺はがばっと上半身を起こして上布団をひっぺがした。
「何やってるんだマミナ」
「こんばんはきょーちゃん。あの、久しぶりに布団を暖めておこうと思って……」
制服姿の駄村マミナ(だむらまみな)が布団の中にいた。
幼稚園からの幼馴染みの眼鏡娘。容姿は全体的に地味だがショートカットで眼鏡である。
マミナはずっと布団の中に篭もっていたのか汗だくの状態で、やっと開けてくれたーと言った表情である。
胸元がはだけてヤバいことになっている。
「そ、そうか……と、とりあえず眼鏡をかけろよ。一瞬誰だか分からなかったぜ。お前地味だからな」
「きょーちゃん何気に酷いよね」
そういいながら笑って乱れた制服のボタンを留めていく。
当然のごとく凝視してしまったわけだが。
「はあ、でもこういう風に二人きりでベッドに入るのって懐かしいよね……」
「イヤ、お前先週もやってきたらしいじゃねーか。野霧に見つかって追い出されてたらしいけど」
「あれ、知ってたんだ」
俺はぽりぽりと頭をかいて、
「で、何で? 豊臣秀吉の真似? 暖めておきましたって」
「何でって、もう。そういう事を聞くの? きょーちゃんの好きなゲームと同じだよー」 ん? 俺の好きなゲーム?
「あれ、信長の野望でそんな行動取るやついたっけ?」
「あれ? 私だけやっぱりそういう扱いなの? エロゲーは?」
「Forestは面白かったな」
――ForestとはLiarSoftとという少し癖のあるエロゲを作るメーカーが作った作品のことだ。企画とシナリオライターを星空めてお先生が兼任している。原画に大石竜子先生を起用したのは流石というか、英断である。普通はしないと思う。
「いきなりそんなマニアックな事言われても分からないよ」
「あのなあ。分からないとかありえないだろ? アリスを原作として踏襲しつつ、しつつ……アリスを踏襲しているところが、とても不思議で、……国って感じの作品なんだよ」
「きょーちゃん。頭悪いのに難しいこと言おうとしなくていいよ? 本当は何も分かってないんだよね?」
「ああ、まあ……実はあまり分かっていないんだが。楽しめた」
「ふふ。補足しておくけどあれはプーさんも元にしてるんだよ。ちゃんと下地になった作品はチェックしておなきゃダメだよ?」
お前知ってるじゃねえか。
*
ドアがバタンと開く。
「……何でアンタがここにいんの?」
「野霧ちゃん……。あの、きょーちゃんの布団を暖めようと思って昼間に入ったの……」
人差し指を合わせながらマミナが理由を述べる。
「はぁ!? 鍵掛かってたでしょ!?」
「あの、お義母さんに合い鍵を貰いました。『一線越えて良いから!』って。きょーちゃんの部屋で待ってていいよって。でも私地味だから夜まですっかり忘れられちゃってたみたい」
「チッ。ってか何お義母さんとか言ってんの? 『義母』じゃなくて『母』でしょうが。口で言ったら同じだけど。早く出ていってよ」
「……出ていきません」
マミナはしっかりとした口調で言った。
*
「あ? ……なんつった今」
野霧がチンピラ宜しく声を荒げる。
その声量を抑えた怒声に対しても、マミナは態度を変えることもなく、目を閉じてすうっと深呼吸して流れるように言う。
「野霧ちゃん。今までだったら黙ってたよ。でも状況が変わったから。野霧ちゃんのお義父さんはもうクビになったんだよね? パートに入っているお義母さんの給料だとせいぜい毎月の家のローン返済と食費だけで精一杯じゃない? わたしの家にムコ入りすればきょーちゃんは全く問題なく幸せに生きていけるんだよ? お義母さんだってそれを望んでいるからこそ、私のことをごり押ししているんじゃないかな? 野霧ちゃんはお義母さんの真意が分からないほど冷たい子じゃないよね?」
言い切った後、可愛らしく小首を傾げるマミナ。今までにない反撃に、野霧は唖然としていた。その後ぶるぶると震えて顔を真っ赤にして言い返す。
「ア、……アンタは働いてないでしょうが! 狂介はアタシが養うッつーの。今だって読モの金の一部はお母さん経由でコイツのためのエロゲに使ってるんだから! んな高くて役に立たないモン見たくもないのに!」
「え? お袋の小遣いってお前経由だったの?」
「狂介は黙ってて!」
黙ることにする。マミナは野霧の喧嘩腰の言い方に対しても優しい微笑みを崩さない。
「野霧ちゃん、きょーちゃんのためにゲームにあんまりお金使わない方が良いよ? そういうのを【貢いでる】って言うんだよ。稼げるのなんて今だけだから貯金しておいたら? ずっとモデルなんか出来る訳ないって自分でも分かってるでしょ? 現実を見ようよ。それに比べてうちなんかは自営業だけど地域の学校に十年来の繋がりがあるから年間売上高もすごく安定してる。家だって菓子屋だけど貸家じゃないよ。まあ、口で言っても同じだけどね」
「……そ、それなんかアンタの努力とかじゃないじゃん! 家がたまたまそうだったってだけでしょ! 何調子に乗ってんの!? ばっかじゃないの!?」
言ってやったというように野霧は顎を上げてベッドの上のマミナを見下す。マミナはその批判の網をするりと抜けるように、
「そうだよ。たまたま恵まれていた。だから調子に乗るんだよ。それがどうかしたの?」「だ、だから……そういうのってズルいでしょ! 不公平じゃん!」
胸の前で両手を握りしめて言う野霧に対して、マミナはきょとんとする。
「ズルい? 何言ってるの? 世の中が不公平なのは当たり前じゃない。お金と親がそこにあるんだから活用するのは当然でしょ? 容姿や運動神経と同じように、与えられた環境だって実力のうちだよ。私は私の努力をしてる。野霧ちゃんには分からないかもしれないけどね。一体その何が悪いの?」
「……うるっさい!」
これ以上聞きたくないと言ったように首を振る野霧をさして気にするふうでもなく、いつもと同じように柔和な微笑みをたたえたマミナが続ける。
「野霧ちゃんだって最初からもっとお金のない家に生まれたらお洒落なんて出来なかったんじゃない? お金がなかったらその自尊心だってなかったかもしれないね。猫背で暗ーい感じで歩いてたら読モでデビューなんて出来なかったんじゃないかな? 陸上部のスパイクは最初に誰が買ったの? 何かを出来るということは恵まれていたこそ出来ることだよ。自分の恵まれた環境や才能を棚に上げて他人を頭ごなしに批判するのは良くないよ」
マミナの言い方は、子供に諭すようだった。野霧は歯ぎしりしながら顔を落とす。その表情は伺えない。
「……アタシより頑張ってないくせに。何もしてないくせに偉そうに……!」
「私は最低だと思われても別に構わないよ。……でも、きょーちゃんには幸せになって欲しいから。それは本当だよ」
「はっ。アンタは『自分のため』に言ってるだけでしょ!」
「私ときょーちゃん、お互い幸せになれれば一番だよね。野霧ちゃんはこれからどうするのかな? 芸能人でも目指すの? 努力で出来ることと出来ないこと、多少世間を知っている野霧ちゃんだったら『今の自分の立場』でどれだけそれが難しいことくらい分かるよね?」
野霧は歯ぎしりをしながら、
「……くっ! 家なんか別にどうでもいいし! アパート借りて狂介と二人で暮らすから!」
アパートを借りて俺と何で暮らすんだ? 俺は思ったが、マミナは人差し指を下唇に当てて考え込むようにした。
「ふうん。野霧ちゃんがどうでも良くても家族は大丈夫なのかなあ? 今頼られてるんじゃないの? これからもお義父さんの再就職先はまず見つからないと思うよ? 調べちゃえばすぐに分かっちゃうしね。ローンが残った家はどうするの? 組んだローンは固定、それとも変動なのかな? 土地ごと競売にでもかける? 忘れているのかも知れないけど、ここは千葉市だよ。世間的に地盤沈下が不安がられている現在じゃ地価の下落も激しいから、大方売り払っても借金しか残らないんじゃないかなあ……? 優しい野霧ちゃんは借金で一家離散してもいいのかなあ?」
「……」
「まあ、きょーちゃんのことは私に任せておいて、ね? そもそも半年間のきょーちゃんの受験勉強のための費用だけでも考えたら馬鹿にならないよ? その点、私がやってあげれば全部解決だから」
「べ、勉強くらい一人でやれば良いでしょ! アタシが見張ってるから!」
「ダメだよ。野霧ちゃん、きょーちゃんと二人きりでいたら何するか分からないじゃない」
笑って言うマミナに、野霧は瞬間赤面し、眉を吊り上げて怒声で返す。
「ア、アンタに言われたくない!」
「まあそうかもしれないけど。どっちにしたってきょーちゃんに一人で勉強するほどの自制心なんてあるわけないじゃない。八月の公開駿台模試だって、きょーちゃんの第一志望の千葉大、普通にE判定で偏差値30だったよ。英語なんか名前書き忘れてたし。まあ書いたところで普通に0点だったけどね」
……ん? 俺、もしかして馬鹿にされていないか? マミナが淡々と続けるのを聞いていたが、多分酷く言われている気がする。E判定という単語が出てきたので分かった。流石にちょっと気になったので、マミナに確認する。
「お、おい……マミナ、お前一緒に志望校頑張ろうって言ってたじゃないか?」
「うん。私は余裕のA判定だからね。これから半年間、一日中手取り足取り教えてあげるよ。きょーちゃんは浪人前提だけどね」
「え!? 浪人前提だったの俺!? だってあと三十点くらいだろ!? 確か!」
苦笑するマミナ。
「三十足りないのは得点じゃなくて五教科全部の偏差値だよ? ……っていうかね、別に勉強なんて出来なくていいんだよ? おいしい和菓子が作る方が遥かに難しいし、大変なんだから。あ、そうだ。来週からうちで職人の修行する? そしたら私も受験やめて一緒にいられるし」
俺の両手をぎゅっと握り締めてくる。
「そ、そうか。勉強好きじゃないしな……。そういうのも悪くないかもな」
ベッドの横で、「そうだよ」と言ってマミナがてへへと笑うのをみて、不覚にもなかなか可愛いなこやつと俺は思ってしまった。それを見たのか野霧は、
「でれでれしてんじゃないっ! アンタ、馬鹿にされてんのよッ……! うちが馬鹿にされてんの! 何で怒らないの!? 怒れっつーの!」
「す、すまん。話題が難しくてついていけなくて……」
「高校生でしょッ! ニュースくらい見ろッ! 馬鹿ッ!」
野霧の飛んでくる怒号に俺はとりあえず謝ることにした。あんなつまらないもの誰が見るかと思ったが、またグダグダ言われるに違いない。三十六計黙るに如かずだ。確か。
「いい加減ベッドから出ろ! 一緒にいるんじゃないッ!」
「お、おい。うわっ!」
野霧に腕を思い切り引っ張っられてベッドから引きずり下ろされる。
それを止めもしないでにこにこして汗だくのマミナが続ける。この角度からだとマミナのパンツが見えそうなのだ。マミナがこっちを見て、
「……もう。きょーちゃんはえっちだね」
マミナが顔を赤らめる。気づかれてる……だと?
「おい、別に見ようとしている訳じゃ」
「な、何? 何かしたのアンタ……?」
困惑した表情で尻餅をついた俺を野霧が見る。
「いや。別に何も」
「……。まあ、あとで聞き出すからいいわ……。とにかく、狂介は和菓子職人になんてならないから! 大学に行くの。変な道に誘わないで!」
「変な道かどうか決めるのはきょーちゃんだよ。……話を続けるよ? で、警察官って言えば、普通の職業よりも犯罪者に対してずっと厳しいよね? 身内から出ちゃったんだもんね。体裁から考えて、お義父さんみたいな叩き上げに退職金なんか出たのかな? 話題が話題だけあって、相当ニュースにもなってたし。ちょっと厳しいかったんじゃないかな? 元々野霧ちゃんも散々ビッチだって2ちゃんで叩かれてたから、そういう情報がどれだけ実生活に影響が出るかは分かるよね?」
「! ……あんなの、有名税だから! 気にしてないし!」
「さて。野霧ちゃんが気にしなくても世間はどうなんだろう? セブンティーンもコンビニで一応チェックしてるんだけど、あれから数ヶ月は読モとして全く掲載されていなかったよね。それって野霧ちゃんじゃなくて事務所が自重してたんじゃないかな? ほとぼりが冷めたのか、……それとも誰かが手を回したのか、今ではちらほら見るようにはなったけど。まあ、そういう訳で現在家庭の大黒柱であるところの野霧ちゃんの収入源は生活費に充てた方が良いんじゃないかな? 私からはそんなところかなー」
マミナ先生のクソ長い講義が一通り終わったらしい。こんなに喋るところなんて初めて見た。
野霧は顔を青くして瞳に涙を溜めて。必死で何かをこらえているようだった。
俺は一気呵成に喋る二人を見て思ったよ。
――難しくて訳分かんないって。
*
野霧がチンピラ宜しく声を荒げる。
その声量を抑えた怒声に対しても、マミナは態度を変えることもなく、目を閉じてすうっと深呼吸して流れるように言う。
「野霧ちゃん。今までだったら黙ってたよ。でも状況が変わったから。野霧ちゃんのお義父さんはもうクビになったんだよね? パートに入っているお義母さんの給料だとせいぜい毎月の家のローン返済と食費だけで精一杯じゃない? わたしの家にムコ入りすればきょーちゃんは全く問題なく幸せに生きていけるんだよ? お義母さんだってそれを望んでいるからこそ、私のことをごり押ししているんじゃないかな? 野霧ちゃんはお義母さんの真意が分からないほど冷たい子じゃないよね?」
言い切った後、可愛らしく小首を傾げるマミナ。今までにない反撃に、野霧は唖然としていた。その後ぶるぶると震えて顔を真っ赤にして言い返す。
「ア、……アンタは働いてないでしょうが! 狂介はアタシが養うッつーの。今だって読モの金の一部はお母さん経由でコイツのためのエロゲに使ってるんだから! んな高くて役に立たないモン見たくもないのに!」
「え? お袋の小遣いってお前経由だったの?」
「狂介は黙ってて!」
黙ることにする。マミナは野霧の喧嘩腰の言い方に対しても優しい微笑みを崩さない。
「野霧ちゃん、きょーちゃんのためにゲームにあんまりお金使わない方が良いよ? そういうのを【貢いでる】って言うんだよ。稼げるのなんて今だけだから貯金しておいたら? ずっとモデルなんか出来る訳ないって自分でも分かってるでしょ? 現実を見ようよ。それに比べてうちなんかは自営業だけど地域の学校に十年来の繋がりがあるから年間売上高もすごく安定してる。家だって菓子屋だけど貸家じゃないよ。まあ、口で言っても同じだけどね」
「……そ、それなんかアンタの努力とかじゃないじゃん! 家がたまたまそうだったってだけでしょ! 何調子に乗ってんの!? ばっかじゃないの!?」
言ってやったというように野霧は顎を上げてベッドの上のマミナを見下す。マミナはその批判の網をするりと抜けるように、
「そうだよ。たまたま恵まれていた。だから調子に乗るんだよ。それがどうかしたの?」「だ、だから……そういうのってズルいでしょ! 不公平じゃん!」
胸の前で両手を握りしめて言う野霧に対して、マミナはきょとんとする。
「ズルい? 何言ってるの? 世の中が不公平なのは当たり前じゃない。お金と親がそこにあるんだから活用するのは当然でしょ? 容姿や運動神経と同じように、与えられた環境だって実力のうちだよ。私は私の努力をしてる。野霧ちゃんには分からないかもしれないけどね。一体その何が悪いの?」
「……うるっさい!」
これ以上聞きたくないと言ったように首を振る野霧をさして気にするふうでもなく、いつもと同じように柔和な微笑みをたたえたマミナが続ける。
「野霧ちゃんだって最初からもっとお金のない家に生まれたらお洒落なんて出来なかったんじゃない? お金がなかったらその自尊心だってなかったかもしれないね。猫背で暗ーい感じで歩いてたら読モでデビューなんて出来なかったんじゃないかな? 陸上部のスパイクは最初に誰が買ったの? 何かを出来るということは恵まれていたこそ出来ることだよ。自分の恵まれた環境や才能を棚に上げて他人を頭ごなしに批判するのは良くないよ」
マミナの言い方は、子供に諭すようだった。野霧は歯ぎしりしながら顔を落とす。その表情は伺えない。
「……アタシより頑張ってないくせに。何もしてないくせに偉そうに……!」
「私は最低だと思われても別に構わないよ。……でも、きょーちゃんには幸せになって欲しいから。それは本当だよ」
「はっ。アンタは『自分のため』に言ってるだけでしょ!」
「私ときょーちゃん、お互い幸せになれれば一番だよね。野霧ちゃんはこれからどうするのかな? 芸能人でも目指すの? 努力で出来ることと出来ないこと、多少世間を知っている野霧ちゃんだったら『今の自分の立場』でどれだけそれが難しいことくらい分かるよね?」
野霧は歯ぎしりをしながら、
「……くっ! 家なんか別にどうでもいいし! アパート借りて狂介と二人で暮らすから!」
アパートを借りて俺と何で暮らすんだ? 俺は思ったが、マミナは人差し指を下唇に当てて考え込むようにした。
「ふうん。野霧ちゃんがどうでも良くても家族は大丈夫なのかなあ? 今頼られてるんじゃないの? これからもお義父さんの再就職先はまず見つからないと思うよ? 調べちゃえばすぐに分かっちゃうしね。ローンが残った家はどうするの? 組んだローンは固定、それとも変動なのかな? 土地ごと競売にでもかける? 忘れているのかも知れないけど、ここは千葉市だよ。世間的に地盤沈下が不安がられている現在じゃ地価の下落も激しいから、大方売り払っても借金しか残らないんじゃないかなあ……? 優しい野霧ちゃんは借金で一家離散してもいいのかなあ?」
「……」
「まあ、きょーちゃんのことは私に任せておいて、ね? そもそも半年間のきょーちゃんの受験勉強のための費用だけでも考えたら馬鹿にならないよ? その点、私がやってあげれば全部解決だから」
「べ、勉強くらい一人でやれば良いでしょ! アタシが見張ってるから!」
「ダメだよ。野霧ちゃん、きょーちゃんと二人きりでいたら何するか分からないじゃない」
笑って言うマミナに、野霧は瞬間赤面し、眉を吊り上げて怒声で返す。
「ア、アンタに言われたくない!」
「まあそうかもしれないけど。どっちにしたってきょーちゃんに一人で勉強するほどの自制心なんてあるわけないじゃない。八月の公開駿台模試だって、きょーちゃんの第一志望の千葉大、普通にE判定で偏差値30だったよ。英語なんか名前書き忘れてたし。まあ書いたところで普通に0点だったけどね」
……ん? 俺、もしかして馬鹿にされていないか? マミナが淡々と続けるのを聞いていたが、多分酷く言われている気がする。E判定という単語が出てきたので分かった。流石にちょっと気になったので、マミナに確認する。
「お、おい……マミナ、お前一緒に志望校頑張ろうって言ってたじゃないか?」
「うん。私は余裕のA判定だからね。これから半年間、一日中手取り足取り教えてあげるよ。きょーちゃんは浪人前提だけどね」
「え!? 浪人前提だったの俺!? だってあと三十点くらいだろ!? 確か!」
苦笑するマミナ。
「三十足りないのは得点じゃなくて五教科全部の偏差値だよ? ……っていうかね、別に勉強なんて出来なくていいんだよ? おいしい和菓子が作る方が遥かに難しいし、大変なんだから。あ、そうだ。来週からうちで職人の修行する? そしたら私も受験やめて一緒にいられるし」
俺の両手をぎゅっと握り締めてくる。
「そ、そうか。勉強好きじゃないしな……。そういうのも悪くないかもな」
ベッドの横で、「そうだよ」と言ってマミナがてへへと笑うのをみて、不覚にもなかなか可愛いなこやつと俺は思ってしまった。それを見たのか野霧は、
「でれでれしてんじゃないっ! アンタ、馬鹿にされてんのよッ……! うちが馬鹿にされてんの! 何で怒らないの!? 怒れっつーの!」
「す、すまん。話題が難しくてついていけなくて……」
「高校生でしょッ! ニュースくらい見ろッ! 馬鹿ッ!」
野霧の飛んでくる怒号に俺はとりあえず謝ることにした。あんなつまらないもの誰が見るかと思ったが、またグダグダ言われるに違いない。三十六計黙るに如かずだ。確か。
「いい加減ベッドから出ろ! 一緒にいるんじゃないッ!」
「お、おい。うわっ!」
野霧に腕を思い切り引っ張っられてベッドから引きずり下ろされる。
それを止めもしないでにこにこして汗だくのマミナが続ける。この角度からだとマミナのパンツが見えそうなのだ。マミナがこっちを見て、
「……もう。きょーちゃんはえっちだね」
マミナが顔を赤らめる。気づかれてる……だと?
「おい、別に見ようとしている訳じゃ」
「な、何? 何かしたのアンタ……?」
困惑した表情で尻餅をついた俺を野霧が見る。
「いや。別に何も」
「……。まあ、あとで聞き出すからいいわ……。とにかく、狂介は和菓子職人になんてならないから! 大学に行くの。変な道に誘わないで!」
「変な道かどうか決めるのはきょーちゃんだよ。……話を続けるよ? で、警察官って言えば、普通の職業よりも犯罪者に対してずっと厳しいよね? 身内から出ちゃったんだもんね。体裁から考えて、お義父さんみたいな叩き上げに退職金なんか出たのかな? 話題が話題だけあって、相当ニュースにもなってたし。ちょっと厳しいかったんじゃないかな? 元々野霧ちゃんも散々ビッチだって2ちゃんで叩かれてたから、そういう情報がどれだけ実生活に影響が出るかは分かるよね?」
「! ……あんなの、有名税だから! 気にしてないし!」
「さて。野霧ちゃんが気にしなくても世間はどうなんだろう? セブンティーンもコンビニで一応チェックしてるんだけど、あれから数ヶ月は読モとして全く掲載されていなかったよね。それって野霧ちゃんじゃなくて事務所が自重してたんじゃないかな? ほとぼりが冷めたのか、……それとも誰かが手を回したのか、今ではちらほら見るようにはなったけど。まあ、そういう訳で現在家庭の大黒柱であるところの野霧ちゃんの収入源は生活費に充てた方が良いんじゃないかな? 私からはそんなところかなー」
マミナ先生のクソ長い講義が一通り終わったらしい。こんなに喋るところなんて初めて見た。
野霧は顔を青くして瞳に涙を溜めて。必死で何かをこらえているようだった。
俺は一気呵成に喋る二人を見て思ったよ。
――難しくて訳分かんないって。
*
「なあ野霧、泣くことないだろ? よく分かんなかったけど、俺の受験と同じで、頑張れば何とかなるって。それよりLiarSoftの新作ゲームが出てるらしいぜ? アキバに偵察に行こう」
「う……うっさいクズ! バカ! アンタさえいなければ……!」
「あ? なんだよ。俺何もしてねーだろ!」
「そうだよ。きょーちゃんは何もしてない。なにも考えていない甲斐性なしの浮気性なディープな一介の高校生に過ぎないもん」
「な、何か凄い言われようだな。マミナ、カイショーナシってなんだ?」
マミナは笑って、
「ふふ、きょーちゃんらしいってことだよ」
と言った。俺らしいって事か。確かにな。自分らしさって大切だよな。
野霧は青ざめた顔で、マミナの方を殺せるんじゃないかって言うくらいの鋭い眼光で睨み付けた。
「……アンタの言いたいことは分かった。でもアタシはイヤ。帰って」
「仕方ないなあ。分かったよ、野霧ちゃん。でも忘れないでね、きょーちゃんがうちにオムコさんに来るのが一番幸せなんだよ。お互いの家族で、野霧ちゃん以外は誰も反対してない。私はいつでもいいんだけど、きょーちゃんの誕生日がまだ来てないからね」
「……帰れ! 二度と来んな!」
「うん。じゃあまた明日」
「……!」
瞬間、マミナに飛びかかろうとする野霧を押さえる。
「お、おい! やめろ!」
「離せ! クソ馬鹿、アンタ言われてること全然分かってないくせに! 邪魔すんな!」
野霧が暴れる。腕を思い切り引っ掛かれたり本気の腹パンされたりしたのでかなり痛い。
「お、おいやめろって! 確かによく分かってねーけど、暴力は良くねーだろ!」
野霧を落ち着かせるのに暫くかかった。
*
帰り際。
「……送ってくぜ」
「うん!」
こういう時のマミナは本当に普通の奴なんだが。野霧とはとにかく相性が悪いようだ。歩きながら聞く。
「なあマミナ、お前野霧にあんまり酷いこと言うなよ。俺のこと馬鹿にするのはいいんだけどさ……」
「きょーちゃんのこと馬鹿になんてしてないよ? 野霧ちゃんと普通にお話ししてただけだよ? そしたら野霧ちゃんが突然怒ったんだよ。私怖かったあ」
「まあ、俺もびっくりしたけどさ。でも、飛びかかってくるくらいって事はさ、やっぱ野霧、相当怒ってたと思うんだよ。ほら、俺も居心地悪いしさ。ちょっと気を遣ってくれよ」
「ふふ、だって私ずっとあの子のこと、嫌いだったんだもん。何年間もずーーーーーっと、きょーちゃんにも辛く当たってばっかりだし」
「うーん。そうなのか? 最近はそうでもないと思うが。たまに素直なような……」
「……だからね、きょーちゃん。だから尚更なんだよ。何もかも、遅いよね。他の子ならまだしも、野霧ちゃんなんて許せる訳ないじゃない」
「なあ、……よく分からないんだが。野霧の何が許せないんだ? お前に何か酷いことしたか?」
「うーん」
マミナは考え込んで、
「強いて言えば『全部』かな。存在が許せないの」
そう言ってにこりと微笑んだ。今までと変わらない、優しい微笑みだったよ。俺にはそうとしか思えなかったんだ。
「どうやったら許せるんだ?」
「……きょーちゃん。私だってなんでも答えられる訳じゃないんだよ」
これ以上マミナも喋る気がないのか、無言のまま二人で歩いた。マミナの家の前に着く。
「じゃあね、送ってくれてありがとう。きょーちゃん」
*
――自宅まで戻ってくると、俺はリビングのソファーに座っている野霧に尋ねた。
「なあ、何でお前マミナのこと嫌いなの? マミナが何言ったのかは分からねーけど、やっぱりああいう態度は良くねーよ。俺からもちょっと言っといたからさ……」
「うっさい! 早く寝ろ! アンタは……アンタは何であんな女と知り合いなの……? 殺したい……」
殺気走った目でテレビの方を見ながら、それでいて片手で握ったテレビのリモコンをめきめきと音を立てて握りつぶそうとしている。
相変わらず可愛くねー……というレベルを超えている。正直ちょっと怖い。
「……お、おい。物騒なこといってんじゃねえよ。それからプラスチック割れたら手、怪我するぞ。モデルなんだから、もうちょっと大事にしろよ」
「……じゃあ取ってよ」
はあ? 何言ってんだコイツは。
「お前が離せばいいだけだろ?」
「取ってっつってんの!」
「へいへい」
俺は無言で引き離そうとする。野霧の握り締めた手を傷つけないように両手で押さえて、一本一本引きはがそうとする。
「あひゃっ! どこ触ってんの!?」
「ああ!? お前が離せッつったんだろ!?」
野霧は赤らめた顔で俺の方を見て、
「……バーカ」
一言言って去っていった。
*
――夕食時。
親父もお袋も二人してあまり喋らなくなってしまったので、俺と野霧ばかり沢山喋るようになっていた。
この辺は半年くらいで前とずいぶん変わった気がするな。
「今日のご飯はパンの耳か」
「……うん。ただで貰えるから。明日は贅沢してうどんにするよ」
座っている野霧が返事をする。
「なんだ、飲み物も用意してないのか。しょうがねえな」
俺は水道水を四人分汲んで並べた。
「ほら」
「……ありがと」
「ほら、みんな、食事の挨拶しようぜ」
「うん。頂きまーす」
「頂きます。あれだな、ついにうちも三ヶ月連続で同じメニュー達成だな! このレパートリーのなさ! まあ好きだからいいけど。うちのご飯はいつも美味いな。パンだけどな」
「……この時ばかりはアンタが馬鹿で良かったと思うわ」
「つーかさ、パンの耳って言っても種類があるんだよな。この店は砂糖が結構多めだ。口に入れた時の香ばしさが他の店より多いし、噛んでると甘みが増す感じだよな!」
「……うん。おいしいよね」
「そうだ。今度ザリガニ取りにいってくるか」
「アメリカザリガニ? ふーん。アレ、食べられるの?」
「身は少ないけどな。食えないこともないぞ。最近はあんまり見ないけどな」
「へー」
「あとはそうだな、明日はノビルでも取ってくるか」
「何それ」
「草だ」
ノビルとは引っこ抜いた根っこがそのまま食べられる草である。田んぼの脇の土手辺りに良く生えている。
*
深夜である。俺は気分よく眠っていた訳だ。
「ぐ、むむ……」
喉元が何やら苦しい。
「野霧……?」
野霧がうつぶせになった俺の上に馬乗りになっている。
――それは何ともシュールな構図と言えるかもしれない。
それでも野霧の瞳は真剣そのもので、ふざけることを許さない。
「……人生相談が、あるの」
「ああ!?」
そう。野霧はいつだって、抗うことを許さない。
「う……うっさいクズ! バカ! アンタさえいなければ……!」
「あ? なんだよ。俺何もしてねーだろ!」
「そうだよ。きょーちゃんは何もしてない。なにも考えていない甲斐性なしの浮気性なディープな一介の高校生に過ぎないもん」
「な、何か凄い言われようだな。マミナ、カイショーナシってなんだ?」
マミナは笑って、
「ふふ、きょーちゃんらしいってことだよ」
と言った。俺らしいって事か。確かにな。自分らしさって大切だよな。
野霧は青ざめた顔で、マミナの方を殺せるんじゃないかって言うくらいの鋭い眼光で睨み付けた。
「……アンタの言いたいことは分かった。でもアタシはイヤ。帰って」
「仕方ないなあ。分かったよ、野霧ちゃん。でも忘れないでね、きょーちゃんがうちにオムコさんに来るのが一番幸せなんだよ。お互いの家族で、野霧ちゃん以外は誰も反対してない。私はいつでもいいんだけど、きょーちゃんの誕生日がまだ来てないからね」
「……帰れ! 二度と来んな!」
「うん。じゃあまた明日」
「……!」
瞬間、マミナに飛びかかろうとする野霧を押さえる。
「お、おい! やめろ!」
「離せ! クソ馬鹿、アンタ言われてること全然分かってないくせに! 邪魔すんな!」
野霧が暴れる。腕を思い切り引っ掛かれたり本気の腹パンされたりしたのでかなり痛い。
「お、おいやめろって! 確かによく分かってねーけど、暴力は良くねーだろ!」
野霧を落ち着かせるのに暫くかかった。
*
帰り際。
「……送ってくぜ」
「うん!」
こういう時のマミナは本当に普通の奴なんだが。野霧とはとにかく相性が悪いようだ。歩きながら聞く。
「なあマミナ、お前野霧にあんまり酷いこと言うなよ。俺のこと馬鹿にするのはいいんだけどさ……」
「きょーちゃんのこと馬鹿になんてしてないよ? 野霧ちゃんと普通にお話ししてただけだよ? そしたら野霧ちゃんが突然怒ったんだよ。私怖かったあ」
「まあ、俺もびっくりしたけどさ。でも、飛びかかってくるくらいって事はさ、やっぱ野霧、相当怒ってたと思うんだよ。ほら、俺も居心地悪いしさ。ちょっと気を遣ってくれよ」
「ふふ、だって私ずっとあの子のこと、嫌いだったんだもん。何年間もずーーーーーっと、きょーちゃんにも辛く当たってばっかりだし」
「うーん。そうなのか? 最近はそうでもないと思うが。たまに素直なような……」
「……だからね、きょーちゃん。だから尚更なんだよ。何もかも、遅いよね。他の子ならまだしも、野霧ちゃんなんて許せる訳ないじゃない」
「なあ、……よく分からないんだが。野霧の何が許せないんだ? お前に何か酷いことしたか?」
「うーん」
マミナは考え込んで、
「強いて言えば『全部』かな。存在が許せないの」
そう言ってにこりと微笑んだ。今までと変わらない、優しい微笑みだったよ。俺にはそうとしか思えなかったんだ。
「どうやったら許せるんだ?」
「……きょーちゃん。私だってなんでも答えられる訳じゃないんだよ」
これ以上マミナも喋る気がないのか、無言のまま二人で歩いた。マミナの家の前に着く。
「じゃあね、送ってくれてありがとう。きょーちゃん」
*
――自宅まで戻ってくると、俺はリビングのソファーに座っている野霧に尋ねた。
「なあ、何でお前マミナのこと嫌いなの? マミナが何言ったのかは分からねーけど、やっぱりああいう態度は良くねーよ。俺からもちょっと言っといたからさ……」
「うっさい! 早く寝ろ! アンタは……アンタは何であんな女と知り合いなの……? 殺したい……」
殺気走った目でテレビの方を見ながら、それでいて片手で握ったテレビのリモコンをめきめきと音を立てて握りつぶそうとしている。
相変わらず可愛くねー……というレベルを超えている。正直ちょっと怖い。
「……お、おい。物騒なこといってんじゃねえよ。それからプラスチック割れたら手、怪我するぞ。モデルなんだから、もうちょっと大事にしろよ」
「……じゃあ取ってよ」
はあ? 何言ってんだコイツは。
「お前が離せばいいだけだろ?」
「取ってっつってんの!」
「へいへい」
俺は無言で引き離そうとする。野霧の握り締めた手を傷つけないように両手で押さえて、一本一本引きはがそうとする。
「あひゃっ! どこ触ってんの!?」
「ああ!? お前が離せッつったんだろ!?」
野霧は赤らめた顔で俺の方を見て、
「……バーカ」
一言言って去っていった。
*
――夕食時。
親父もお袋も二人してあまり喋らなくなってしまったので、俺と野霧ばかり沢山喋るようになっていた。
この辺は半年くらいで前とずいぶん変わった気がするな。
「今日のご飯はパンの耳か」
「……うん。ただで貰えるから。明日は贅沢してうどんにするよ」
座っている野霧が返事をする。
「なんだ、飲み物も用意してないのか。しょうがねえな」
俺は水道水を四人分汲んで並べた。
「ほら」
「……ありがと」
「ほら、みんな、食事の挨拶しようぜ」
「うん。頂きまーす」
「頂きます。あれだな、ついにうちも三ヶ月連続で同じメニュー達成だな! このレパートリーのなさ! まあ好きだからいいけど。うちのご飯はいつも美味いな。パンだけどな」
「……この時ばかりはアンタが馬鹿で良かったと思うわ」
「つーかさ、パンの耳って言っても種類があるんだよな。この店は砂糖が結構多めだ。口に入れた時の香ばしさが他の店より多いし、噛んでると甘みが増す感じだよな!」
「……うん。おいしいよね」
「そうだ。今度ザリガニ取りにいってくるか」
「アメリカザリガニ? ふーん。アレ、食べられるの?」
「身は少ないけどな。食えないこともないぞ。最近はあんまり見ないけどな」
「へー」
「あとはそうだな、明日はノビルでも取ってくるか」
「何それ」
「草だ」
ノビルとは引っこ抜いた根っこがそのまま食べられる草である。田んぼの脇の土手辺りに良く生えている。
*
深夜である。俺は気分よく眠っていた訳だ。
「ぐ、むむ……」
喉元が何やら苦しい。
「野霧……?」
野霧がうつぶせになった俺の上に馬乗りになっている。
――それは何ともシュールな構図と言えるかもしれない。
それでも野霧の瞳は真剣そのもので、ふざけることを許さない。
「……人生相談が、あるの」
「ああ!?」
そう。野霧はいつだって、抗うことを許さない。