Neetel Inside 文芸新都
表紙

お題短篇企画
腐葉土/観点室

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 秋の間あれほど高くみえた空は、鈍色に広がる雲に圧されるように低くなっていた。それでも建造物の軒並み低いこのあたりは視界が広く、どんより湿った空もどうにか広く見えた。
 大学までの歩みを進めるものと言えばその開けた視界くらいで、あとは何もかもが脚を重くした。
 まず動きを止めたくなるのは身にまとわりつく寒さ。道路と畑の間に遮蔽物は一つとしてなく、両者を吹き抜ける寒風は、目を覚ますどころかそのまま永眠させてくれそうな冷たさだった。
 それから思考のまとまらないごちゃごちゃとした頭の中。眠たいだけの九十分の講義が始まるのは午前十時半、惰眠を貪るには少し早すぎるし、早起きすれば時間が余る。必然、家を出るときは中途半端な眠気を引きずったまま。それから昨夜から持ち越した二日酔いの頭痛。鈍く行進する足の動きに合わせて、脳みその中をステキなロックグラスでゴツゴツ叩かれているような気分になる。
 睡眠不足と二日酔いにタッグマッチを仕掛けられている脳が知覚してくれるのはそのくらいのもので、つまるところ四つかそこらの情報が今のところの『なにもかも』だ。
 下宿先のアパートから通学する私立大学まで徒歩十分。郊外の土地に建てられた無駄に広い敷地の大学では、教室まではさらに五分。たったそれだけの道のりを忌避し、あわやそのまま行き倒れるんじゃなかろうかと呆ける男が、どうにか大学なんぞに通う理由。その答えは「それなり」だ。
“それなりにやってれば良い。”
 最低限らしきラインさえ越えてしまえば大体適当でオッケー。全力だったり完璧だったり、そんなものは求められてない。出席は代返も黙認、課題は前日くらいに頭の良いヤツからコピーを貰って写すだけ、テストは持ち込み可能でカンニングなんぞする必要もない。それがこの大学の、いや、おそらくは結構な数のダイガクセイなる生き物の日常だ。
 愚直な努力は損をする。必要なのは潤沢なコミュニケーションと十分な情報、ある程度の信頼と最小限の努力。入学して最初の夏の期末試験を終える頃には八割以上の人間が気付いた簡単で愚かな現実は、腐っていても甘みは十分と、さながら果実のようだった。残りの一割はクソ真面目に勉強して集団から浮き、その残りは大学の人間関係の網に引っかからずに消えていく。
 自分自身は割と腐敗しているこの社会構造を気に入っていて、親のお金で好き勝手に遊べる青春らしきものを満喫していた。
 教室に行けばサークルのメンバーが居る。「よぉ」「はよ」「おはよ……」「んだよ、元気ねーなぁ」「わり。昨日飲んでた」「誰と」「お前の知らない女の子」「はぁーん?」そうやってちょっと刺々しい会話を楽しんでみたりする。
 いざとなったら代返もやってくれるし、課題や過去問の答えも流してくれる頼もしいサークルの友人A、B、C。今日も代返を頼もうかと思ったが、「それなり」から外れる気がしたからやめておいた。代返はしてくれるだろうが、後から昼食代くらいは要求される。笑って断れるがノリの悪いヤツだと心象を下げられかねない。自分の所属するイベントサークルはそういう人間が集まっている。高校時代には考えられなかったが、利害関係がそのまま友好関係になったりする集団で、基本的にどいつもこいつもゲスい。彼らは独善的に規範した「それなり」の外側が大嫌いだ。
 それでもヤツらとつるむのは存外に楽しかったりする。ノリなんてものが重視される社会では、誰もがメンバーを楽しませようと、そして自分らが楽しもうとやんちゃをする。混じってバカをやる分には中々面白い。
 なにせダイガクセイが遊べる施設がこの土地には殆どないのだ。寂れたボーリング場とゲームセンターが一軒ずつ、あとはコンビニが無駄に三つくらい大学周辺にあるくらいで、他には何もない。加えて県内の中心地までは電車で二十五分、さらに地下鉄で乗り換え五分ほど。電車料金は片道七百六十円。費用と時間をまっとうな天秤にかけたら、日々の遊び場所としてわざわざそこまで行こうとする輩はいなかった。そういうわけで、カラオケ店も満足にない大学周辺では、一緒にバカをやれる友人は時に彼らの価値以上に必要だった。
 講義が終わると彼らと一緒に代わり映えのしないメニューを掲げる生協で食事を取り、午後の講義をやり過ごす。午後四時過ぎ、気怠さがいつも以上に染みこんだ体で、サークル棟へと足を進めた。

 イベントサークル。主な活動は、飲み会、旅行、ゲーム大会、スポーツなどなどその他もろもろのレクリエーションの企画。要するに遊ぶことだけを目的にした集団で、田んぼや畑に囲まれた大学の中では結構な需要があった。適当な理由を付けては集団で飲みに行き、海に山に出かけ、スキースノボと雪山を駆け下りるキャンパスライフは如何にもダイガクセイじみている。そんなわけで、思いのほか歴史の古い我がサークルは、その存続年数と所属メンバー数に物を言わせ、大学側から公式のサークル部屋を譲り受けている。無論、イベントサークルが日常的に室内ですることなどほとんどないため、十二畳もの広さのサークル部屋は単なるたまり場と化していた。
 サークルメンバーA、B、Cと部室に入ると、いつものように散乱したファッション雑誌と週間漫画が目に入った。それからジャラジャラと麻雀の牌をかき回す音、そいつらは入ってきた俺たちには目もくれず、ゲームに熱中している。長机で談笑していた女子数名とソファで携帯をイジっていた男が軽く挨拶した。
 他のメンバーは女子に向かって会話に混じり、俺はソファの男の隣りに座った。
「よう、早かったな」
「たまたま講義が早く終わったんだよ」
 携帯をポケットにしまいながら、男、十河暁也(そごう あきや)は人好きのする笑顔を浮かべた。
 長身で精悍な体つき、体のサイズにぴったりあった洒落た服装、品を損なうことなく赤茶色に脱色された髪に、やや細面で甘い顔立ち。十河暁也は、控えめに言っても格好良い。
 サークルで知り合って以来の付き合いだが、暁也との関係は他の男のサークルメンバーとはちょっとだけ違った。子供っぽい言葉で表すなら、この男だけは掛け値なしで友達と言える。大学に入学して一年半と少し、暁也は唯一の気のおけない存在と言えた。
「聡史、今日晩飯食ったあと暇?」
 んー、と俺は逡巡する。今日は木曜日。取り立てて用はない。
「多分」
「なんだよ多分って」
「俺の覚えてる範囲じゃ暇だよ」
「なるほどじゃあ暇だ。ウイイレやろうぜ」
 暁也は最近ハマっている対戦型のサッカーゲームをご所望のようだ。
「やだよ、お前弱いもん」
「そこはほら、手加減しろよ」
「前に手加減して拗ねたのは誰だっけな」
「アレはあからさまな手抜きだったもん」
「お前手加減と手抜きって……いや、まぁいいか。最近やってなかったし」
「よっし、じゃあ今日な! あと酒飲んでから試合開始な!」
 俺はビール一缶で酔う程度に酒に弱く、暁也はそこそこに強い。嬉々とする暁也の横で、俺は飲まされる酒について考えていた。酒の旨さはよくわからない。甘くて飲みやすいのだと良いのだけど。
 そんなことを考えていると、談笑していた男女がサークル部屋を出ていくところだった。そのグループから一人の女の子が外れてこちらにやってくる。
 暖かなそうな白のニット服に、ふわりとした橙色のスカート、ややむっちりとしたふくらはぎは黒のタイツで覆われている。その足元には可愛らしい茶色のブーツ。髪型は明るい茶色のボブで、丸顔には人懐っこそうな笑みを浮かべている。
 相馬美沙は同じくサークルで知り合った女の子の友達。いかにも人畜無害そうな雰囲気のせいかサークル内では広い交友関係を持っているようだ。
「あいつらどこ行くの?」
 暁也はあまり興味もなさそうに尋ねた。
「ボーリングだって」
 彼女は愛想良く答える。
「飽きないもんだな」
「最近はスコアを伸ばしに行ってるらしいよ」
「豪勢なこと」
 奨学金で大学に通い、バイトを掛け持ちする暁也は日々の無駄遣いが嫌いらしい。そのくせ旅行でぱっとお金を使うのは気にならないようだった。なんだか矛盾を感じないでもないが、人の基準に口出ししてろくなことはないから黙っていた。
「今日の晩御飯、お好み焼き屋さんだっけ?」
 さらりと相馬さんは話題を変える。
「そそ。久々にいいかなって。大学からちょっと歩いたところにお店があったろ?」
 と、答えてから、彼女とはその店に行ったことがないことを思い出した。
「んー……? 知らないかも」
 だろうね。
「でもなんで急にお好み焼き? 聡史って前に居酒屋で粉物あんまり好きじゃないって言ってなかったっけ?」
「言ったかそんなこと?」
「たしか」
「気のせいだろ」
 努めて平坦な声で言ったつもりだったが、となりで暁也が吹き出した。
「なんだよそれ。神奈が食べたいって言ったんだろー?」
 俺の恋人の名前を出し、にやにや笑いでこっちを見てくる暁也を無視する。
「あー、なるほど、そういうこと」
 しかし相馬さんも得心顔で頷いている。味方がいない上にこちらの思惑は看破されていては、素直に白状した方が良さそうだ。
「なんだよ、健気なもんだろ」
「いやいや、おアツイね」
 茶化してくる暁也は往々にして面倒なので放置することにしている。
「二人で行かなくて良かったの?」
「“みんなで”食べたいんだと。まぁ、お好み焼きだしな」
「なるほどねー」
 相馬さんは「良き哉、良き哉」と頷く。
「で、神奈は?」
「今日は五限まであるから、まだかかるな」
「あ、そうなんだ。じゃあしばらくは待ちだね」
 彼女はそう言って俺の隣に座った。四人がけのソファに座って、俺たちは所属する学科ごとの不満をぶちまけ始めた。三人とも違う学部で、どういう教師のどういう講義が如何にくそかという議論は思いのほか白熱した。BGMは麻雀牌のぶつかる音だけで、思ったよりも時間は早く流れた。

 午後六時を回る前、すっかり日が暮れた頃になって、バタンと勢い良く扉が開かれた。
 長身の女の子が入口に立っていた。気の強そうな大きな瞳とセミロングのストレートの黒髪に目を引かれる。ベージュのトレンチコートは彼女の細いシルエットをなぞり、タイトなジーンズがすらりとした脚を強調する。
「ごめん、お待たせ」
 彼女、柊神奈(ひいらぎ かんな)は短く謝罪すると、申し訳なさそうに両手を顔の前で合わせた。
「講義だったんだろ? じゃあ謝ることじゃない」
 暁也のフォローに「うん、ありがと」と彼女は片目を開けてちょっと微笑んで見せる。可愛らしい仕草だと思った。それがチクリと胸を刺す。
「じゃ、行くか」
 のそっとソファから立ち上がると、
「案内よろしくね」
 神奈が無邪気な笑顔を向けてきた。「あいよ」と短く応じ、サークル部屋の出口へと向かった。

 お好み焼き屋での賑やかな食事を終え、女の子二人を下宿の近くまで送った。暁也と部屋に着くなり酒を煽り、ゲームの対戦を始め、零時を回ったあたりで終いにした。二人とも明日も講義がある。
 試合に熱中しすぎて暁也は酒を飲みすぎたようだ。「ふらふらするー」と気持ち良さげにつぶやいている。意思疎通が図れないことを確認して、仕方なくシャワーに向かった。アルコールに生まれた時から全面降伏している人間にとって、酔って気持ちの良さそうな人間は理解しがたい。戻ってくるまでに会話が成立するような状態になっていれば良いのだが。
 俺はといえば、暁也の五分の一ほども飲んでいないのに微かな頭痛がする有様だった。ちょっと熱めのシャワーを頭から被り、胡乱な意識を覚醒させる。風呂から上がって洗面台で歯を磨く。じゃかじゃかいう音が妙に脳みそに響いて鬱陶しい。口をすすいで部屋に戻ると、床に置かれた丸テーブルの上で暁也が突っ伏していた。帰り支度も済ませていない。
「暁也起きろ」
「いやだ」
 嫌だとは何事だ。丸テーブルに君臨する酔人を見下ろし、思わず溜息が漏れた。
「泊めてくらはい」
「お断りします」
「なんでやぁ!」
「お前を寝かせる布団もベッドもないからです」
「いい。じゃあ、俺はぁ、ここで、寝る」
 ごろんと床に寝っ転がる暁也。
「おい、お前同じ轍を二度踏むなよ。前に同じ状態になって、なんで止めてくれなかったって文句言ってきたのはお前だろ?」
「……うー?」
「暁也さーん? あんまりとぼけたことばっかり言ってると蹴っ飛ばして外に放り出すぞ」
「……待った、大事な、ことをぉ、思い出した。戸棚。入口の。開けてみて」
「あ?」
 言われるまま玄関に備え付けられた収納の戸を開けた。普段は季節外れの衣類などが入れてあるのだが、そこに見慣れない物体が鎮座していた。
「……寝袋……」
 家主の了解のないまま忍び込んでいたそれを引っ掴み、部屋に戻るなり暁也に投げつけた。
「お前のか?」
 詰問にふるふる、と暁也は首を横に振る。
「みんなの」
 俺は頭を抱えた。俺の下宿は比較的学校から近く、ゲーム設備が充実していてたまり場になりやすい場所だが、この家には寝泊りできるものがない。今回のように来客の(わがままな)事情で家に帰りたくない時にはしばしば不満が漏れた。その解決策ということなのだろう。しかしいつのまに持ち込まれたのか。
 暁也は緩慢な動作で寝袋を展開すると、ミノムシよろしくするりと中に潜り込んだ。
「ぬくい」
 その一声があまりに幸福そうな顔から放たれたので、そのまま踏みつぶしてやろうかと思ったが、辛うじて残っていた理性で踏みとどまった。
 遣る瀬無い感情をリビングに置き去りに、投げやりな気分でベッドに潜ることにした。布団を被って電気を消して寝る体勢に入るも、しばらく寝付けない。他人がいるといつもこうだ。
「聡史さー」
 暗闇の暁也の声は酔った調子よりもいくらか醒めていた。
「ん?」
「今日、神奈は楽しそうだったじゃん。でもまだうまくいってねーの?」
「……ま、そうだわな」
「そうなのか」
 暁也はそれだけ呟くと考え込むように黙り込んだ。
 柊神奈と付き合い始めてから一年と少し過ぎた。去年の夏の初めまで神奈は十河暁也に惹かれていた。その恋が終わったのは、神奈が暁也に想いを告げた時だ。暁也と神奈とはサークルに入った直後からよくつるんでいたため、俺はその経緯をほとんど把握していた。予(かね)てから彼女に好意を寄せていた俺は、その三ヶ月後に告白して彼女と恋人になった。付き合って欲しいと言った瞬間、彼女は一瞬だけ呆然となって、それから憐れむように小さく笑ったように見えた。
 初めは上手くいっていたと思う。中心地までわざわざ出かけてカラオケに行ったり、映画に行ったり、洒落たカフェでくつろいでみたり。ありふれた楽しさを享受していた。始めてズレを感じたのはそんな「恋人らしさ」に慣れた頃だ。
 郊外の大学、遊べる施設も乏しい場所で、ダイガクセイの男女がやることなんてそんなに多くない。春休みに入って、サークルの大きなイベントも消化し、長すぎる休暇を持て余していた時だった。借りてきた映画を見終わり、インスタントの珈琲を片手に感想をいくつか零した後、帰ろうとする彼女の手を引き止めた。ベッドの上で彼女を下にして腰を振っていると、なんだかひどく場違いなことをしている気分になった。想像の中では心身を満たすはずだった行為は、酷く生々しくて生暖かい感触だけを残した。彼女の喘ぐ声を遠くに聞きながら、何がおかしいのかと藻掻いている内に行為は終わった。その得体の知れない虚しさから目を背けるようにキスと抱擁で彼女の温度を確かめた。親愛らしきものが感じられない虚ろな瞳で、彼女は俺の背中に手を回した。
 それらは結局、行為が初めてのことだからと受け止めることになった。他にそれらしい理由を思いつくこともなく、また真剣に考えようとすれば抗いがたい無気力に襲われた。
 それからもしばらく俺は懲りずに神奈を抱いた。彼女のカラダは同年代の他の女子に比べて十分すぎるほど魅力的だったし、初めの一回のズレを行為を重ねる内に修正できるような気がした、できるだろうと思いたかった。何回かは“何事もなく”終えることができたし、何回かはやはり虚しさを募らせるだけだった。次第に彼女を抱くのが怖くなった。今は四ヶ月近く彼女と肌を重ねていない。たまに神奈を家に泊めても、ベッドの上では何もしなかった。彼女はそのことについて何も言わなかったし、当然のように受け入れているように見えた。
 別れを切り出すほどの決定打もなかった。例えば今日のように仲の良い四人で遊ぶ分には楽しかったし、レンタルビデオショップで借りてくる映画も二人で見る分には面白かった。どうにか事態が好転するかもしれないという淡い想いも消せずにいた。ただ、別れを切り出せないだけの今の状況が、恋愛と呼べるものかは自分でも良くわからない。ろくに恋人を幸せにできない自分が、ひどい欠陥品に思え、息苦しさを感じるようなことが続いた。
 二ヶ月ほど前に耐え切れなくなって暁也に事情を話してから、奴は唯一の、けれど頼もしい相談役になった。特に何も意見を言うことはなく、ただ黙ってこちらの話を聞いてくれるのが、どれほど有難いことか思い知った。
 ベッドの上からリビングに転がった暁也の気配を探る。まだ寝息は立てていない。
「神奈はまだ暁也のこと好きだと思う?」
 口に出すのは初めてだったが、それは度々脳裏をよぎった疑問だ。
「まさか」
 暁也は一言で切って捨てる。にべもない返事に少したじろいだ。
「そう言い切れるもん?」
「気持ちの整理もできてないのにどうしてお前と付き合うんだよ? 失礼だろ、そんなこと」
「……そうだな」
 暁也の正論に口を閉ざす。もしかしたら神奈はそうは考えなかったかもしれない、と心に真っ先に浮かんだ反論は、口に出すにはあまりに無意味なものに思えた。
 ただ彼女が自分を拒む理由が聞いてみたかった。
「結局わからんことは本人に聞いてみるしかない、か」
「ああ、そうすることにしたんだ?」
「明日ちょうど会う約束してるから。今日みたいに一応神奈を楽しませようとはしてきたけど、どうもそういうので解決することでもないみたいだし。いやそれはもうずっと分かってはいたんだけど。……どちらにせよ悩むのにも疲れた」
「……そうか。なんにせよ納得する形で決着が付けば良いな」
 そいつは絶望的だろう、と言いかけて口を噤む。
「間違いない」
 誰に言うでもなく短く呟いて、そのまま寝ることに決めた。案の定、意識が途切れるまではかなり時間がかかった。明日も気だるい朝になると思うと、また少し寝るのが億劫になった。



 金曜の講義は午後二時半で終了になる。講義で出された簡単な課題を終わらせ、下宿に戻って夕飯の買い出しに向かった。原付で近くの大型量販店まで十五分、生クリームとたまねぎ、トマト、レタスを買って帰る。小さな冷蔵にそれらをしまって部屋を掃除していると、ふと不思議な感覚が過ぎった。彼女を迎えるための準備をしている自分は、なんだかまだやり直せそうな気がするのだ。整然と綺麗になった部屋をそんな感慨に耽ってぼんやり眺めていると、不意に呼び鈴が鳴った。
 扉を開けると予想通り神奈がいた。暖かそうな赤いニットと暗灰色のスカート、それからお気に入りだと言っていたロングブーツ。化粧もばっちり決まっていて、綺麗な形の瞳に自然と目がいった。可愛いと格好良いの間を印象させる雰囲気はいかにも彼女らしい。ただ今日は少し疲れたような顔をしていた。
「いらっしゃい」
「お邪魔するね」
 微かな笑みを浮かべ、彼女はするりと中に入り込んだ。
「外寒かった? なんか飲む?」
「あ、じゃあ珈琲」
「了解」
 彼女が玄関でブーツを脱いでいる間に、一人で部屋に戻ってお湯を沸かす。ドリッパーにフィルターを押さえつけたところで彼女がこそりと部屋に入ってきた。
「カバン、そこに置いて」
「あ、うん。……にしても聡史の部屋はいつ来ても綺麗ね」
 ちなみに彼女の部屋はいつ行ってもやや雑然としていた。それでも人が来ない時はもっとひどい有様で、いつもはある程度片付けているのだとか。
「一応毎回掃除してますから」
「部屋にものが少ないのが良いのかしらね……」
 何やら立ったまま真剣に考え込んでいる。何か反省することでもあったのだろうか。
「とりあえず座ったら?」
「うん。……そういえば結構久しぶりだね、この家に来るのも」
「一ヶ月と少しくらい空いたから」
「そんなに空いたっけ?」
 彼女は椅子とセットになっている四角いテーブルに座ると、巣の様子でも観察するみたいにキョロキョロと部屋を見回した。
「あんまり変わってないね」
 キッチンの前でお湯が沸くのを待ちながら、「そりゃあね」と微かに苦笑した。それから中の水が沸騰してやかんが音を立てるまで会話が途切れた。
 ドリッパーに挽いた豆を入れ、少しの間蒸らす。
「あ、インスタントで良かったのに」
「いや、俺も飲みたかったから」
 ドリッパーにお湯を注ぎ、褐色の水位が下がったらまたお湯を注ぐ。手間を考えればインスタントの珈琲の方がずっと優れた飲み物だと思うのだが、こうやって珈琲を淹れたがることを鑑みるに、どうやら自分はその手間を好んでいるらしかった。
 二つのカップに珈琲を注いでテーブルの上に置いて、彼女の対面の椅子に腰を下ろした。
「ありがとうございます」
 丁寧な言葉とほころんだ顔、わずかな量を啜って「美味しい」と零す。その姿にはやはり可愛げがあるように思う。
「今日はなんか疲れてるように見えたけど、忙しかった?」
「あはは……そう見えちゃったか。実は午後の講義がプログラミングだったんだけどさ、これが結構重くてね。午後ずっとそれ弄ってたから」
「電子情報系はやっぱ大変そうだ。プログラミングってあの英語で命令をいっぱい書くやつだろ?」
「う? うーん……うん」
「違った?」
「間違ってはないかな」
 苦笑いして曖昧に肯定する神奈はカップに手を伸ばす。ちびちびと舐めるように珈琲に口をつけ、視線は黒褐色の水面に。どうやら俺のあやふやな理解を補完するつもりはなさそうだ。
「せっかく淹れたのに飲まないの?」
「猫舌だから」
「あ、そうだったね」
 彼女はなぜか少し気まずそうに、それを誤魔化すようにまた一口珈琲を口に含む。
 そこでふと思いついたように彼女は疑問を口にした。
「今日、晩御飯どうするの?」
「ああ、パスタで良かったら作る」
「……君ってやっぱり女子力高いよね」
「生活力の間違いでしょ」
「そうなんだけどさ。……そうなんだけどさ!」
「とりあえず食べるってことで良い?」
「う……はい。なんか手伝えること……ないからテレビでも見て大人しくしてるわ……」
 下宿の狭い台所に二人も人がいては却って効率が悪い。
「そんな落ち込まなくても」
「自分の生活力のなさに打ちひしがれたいの」
 どうやら普段コンビニの弁当や外食で済ませていることをここに来て後悔し出したらしい。彼女は料理が苦手なのだ。一度だけ手料理を食べたことはあるが、味にメリハリがなく作った品がどれも同じような味になってしまっていた。本人はこちらが思っているよりも気にしているらしい。
 適度に冷めてきた珈琲を飲みながら(まだ熱かった!)、俯き加減の神奈を眺める。落ち込むというより不貞腐れたような表情は、彼女には悪いけれど内心ちょっと可笑しかった。他にいくらでも長所はあるのに。
「そういえば今日会う約束した時さ、いつもメールで連絡くれるのに、電話だったじゃん。なんかあったの?」
「いや、別にそういうわけでもない。ちょっと話したいことがあっただけ」
 カップの中の熱い珈琲を持て余しながらゆっくり応答する。彼女は微かに表情を固くしたように見えた。

 レタスを小さめに手でちぎってボウルに放り込む。別の小さなお皿でお酢、めんつゆ、ゴマ油にチューブのわさびを少し、それらをスプーンで混ぜ合わせて簡単なわさびドレッシングを作った。スプーンを舐めて味見、ピリッとした風味と適度な酸味を確かめる。レタスを大皿にもってのりをちぎってふりかけ、その上からドレッシングをかけて再度まぜまぜ。器によそって仕上げに鰹節を一掴みすればサラダの出来上がり。
「おお……! サラダまで」
 ひょいとキッチンを覗き込んだ神奈は嬉しそうな声をあげた。
「野菜は大事」
「そうね」
 ふっと真剣になる彼女の眼差し。食生活けっこう適当そうだもんな。
「運んじゃって大丈夫?」
「お願い」
 なんだかんだ言って手伝えることは手伝おうとしてくれるのが素直に嬉しかったりする。結局テレビなんかほとんど見ていなかったりして。
 鍋に水を入れて塩を入れ火にかける。にんにくと玉ねぎを粗くみじん切りに、トマトはざく切り、薄っぺらなベーコンはフォークの先二つで刺さるくらいの幅に切る。冷たいフライパンにオリーブオイルとにんにくを。弱火でじりじり、良い匂いがしてきたらベーコンを、少ししてトマトと玉ねぎを流し込み中火に。隣りでぐつぐつ言い出した鍋の中にパスタを投げ入れてフライパンの面倒に戻る。玉ねぎの色が透き通るまで炒めつつトマトを潰し、塩コショウを軽く振る。
「聡史さー」
 ひょこりと顔を出した彼女はどうやら退屈を持て余しているらしい。そういえばこの時間の番組に面白いものはない。
「なんかホント手馴れてきたよね」
「某オリーブオイルのイケメンキッチンに憧れて」
「あ、あれの影響なんだ」
「実は割と本気でその影響ある。最近は夕食かなりの頻度で自炊だし」
「僕と契約して主夫になってよ」
「魅力的な提案過ぎて言葉が出ないな」
「ごめん、私働いてる男の人が好きなの」
「知ってる」
 ひどい茶番だ。料理の邪魔になるからと、しっしっと手で追い払うと、彼女はすごすごテレビの方へと戻っていった。
 フライパンの中身の水分が飛んで煮詰まってきたところで生クリームと牛乳、バターを投入。トマトクリームソースの良い匂いに満悦しつつ、七分茹でのパスタを菜箸で一本とって茹で具合を確認。わずかに残った芯の感触を確かめ、麺をフライパンに移し、ゆで汁を一掬い。フライパンの中でソースと和え、平皿に盛り付けて出来上がり。
 テーブルに持っていくとサラダと一緒にスプーンとフォーク、それにお茶が用意されていた。パスタを置くのと、神奈がテレビを消して椅子に腰を下ろしたのがほとんど同じくらい。
「粗食ですが」
「とんでもない。いただきます!」
「はい、いただきます」
 手をあわせてみたりする。彼女は上機嫌で、器用にパスタをフォークに巻きつけていた。無駄のない動作でそれを口へと運ぶ。彼女の綺麗で丁寧なものの食べ方が好きだった。
「美味しい。さすがにサークル料理長」
「待て、そんな話は知らない」
「聡史のご飯食べた子はみんな言ってるよ」
「……そういや料理楽しくなってきてから結構な人に食わせたんだ」
「わさびドレッシングのサラダも美味しい……!」
「ああ、それね。ちょっとしたお気に入り」
 食事中は和やかな時間が続いた。料理と会話を楽しんでいる間はすぐに時間が過ぎる。「ごちそうさまです」と皿を空けた神奈は満足気だった。
 彼女が食器を洗っている間に、食後の珈琲を淹れにかかった。どちらも珈琲党なのだ。
 普段ならこれから映画でも見るか、あるいはだらだら他愛もない話を続けるかだ。いつもそんな風だから言い出せなかった。なんとなく感じていた寂寥感も、こうしている分には全く感じなかったし、プラトニックなんて言葉も頭の片隅にあった。
 それでもこれから先、同じ悩みを抱えて行くのは気がひいた。結局どこかで決着をつけなければいけないのだろうという予感もあった。
 食器を洗い終わってテーブルで待つ神奈の前に珈琲の入ったカップを二つ並べる。まだ熱いので俺は手をつけられない。
「ありがと。うん、やっぱり美味しいね」
 よくもあんな熱いものをすぐに口に入れてやけどしないものだと思う。実際には淹れている間にかなり温度が下がっているので、それほど熱くはないはずということは知識では知っている。けれど子供の頃のトラウマなのか、どうも飲める気がしないのだった。
「それでさ、話があるって言っただろ?」
「ああ、うん……。そうだったね」
 改まった言葉に彼女はすっと姿勢を正した。自然、表情も固くなる。あるいは、俺の表情の方がずっと固かったかもしれない。
「実はずっと前から気になってたことなんだけど。神奈って俺のこと本当に好きなの?」
 言葉にしてみると随分と間抜けで子供っぽい質問だと思った。その時、自分がどんな言葉を待っていたのか、よくわからない。やはり肯定して欲しかった気もする。
「……なんでそんなこと聞くの?」
 彼女は感情のない顔でそう聞き返した。まずは質問に答えて欲しいんだけど、というのは剣呑すぎるか。
「普段はそうでもないけど、恋人としての行為を本当は嫌がってるように感じるから。恋人としてのってのは変な言い回しか。キスしたり抱いたりしてもその行為自体は受け入れてくれるけど、でも感情的に拒んでる。そういう気がしたから」
 それまで幾度も悩んでいたことは、一度話し始めると決壊するように流れ出た。まるで予め用意していたセリフみたいだと、頭の中の冷静な部分が嗤った。
 神奈は俺を見つめながら、酷く冷静でいるように思えた。
「そう」
 それだけか? 思いのほかあっさりとした対応にどう対処すべきか分からなくて沈黙が続く。
「わかったなら、さっきの質問に答えてくれ」
「……そこまでわかってるなら言うまでもないと思うけど。それともやっぱり口に出さないと踏ん切りがつかないのかな」
 一度言葉を区切る。幾ばくかの間は一体誰のためかは分からない。
「そうだね、私は確かに君のことは好きじゃない。少なくとも男としては好きじゃない。最初からずっと」
 それは思ったよりも衝撃だった。きっとどこかでは分かっていたはずのことだ。しかしやはり言葉にされた現実感は違うらしい。どうやら頭を巡っていた思考が一瞬全部消し飛ぶくらいには破壊力があった。
 黙り込む俺が彼女にどう映っているかは定かではない。けれど何も言わずに様子見することにしたらしい。しばらくしてようやく言われたことを飲み込むと、聞きたいことなんていくらでも出てきた。
「じゃあなんで付き合おうと思ったんだ?」
「好きになるかもしれないと思って」
 しれっと、そして淀みなく彼女は答える。思わず返す言葉に詰まった。
「断るには惜しいじゃない。聡史はけっこう細かなことも気が付くし、顔だって悪くないし、一緒にいても負担がない。だから、別に最初はどうでも良いかなって思ったの。おかしい?」
「……おかしいかどうか知らないけど。不誠実じゃないか?」
「そうかな? 友達としては割と長くやってきたし、それ以上を知るには付き合ってみないとわからないと思った。それで付き合ってみるのが不誠実?」
「違うの?」
 神奈は「さぁ」と首を振った。「そこまで行くと価値観の問題じゃない?」
 冷めた態度に言語化できない焦燥が加速する。言いたいことはあったが、この話はここで終わらせないとこじれるだけだろう。それよりも聞きたいことがまだあった。
「何がダメだったの?」
「君の?」
「そう」
「そうね、色々あるけど……。例えば聡史の信条は“それなり”だっけ? 確かに君はそれで大学では上手くやってると思うよ。レポートをほとんど見せてもらってテストは過去問だけ解いて単位も困ってない。余った時間はサークルとバイトで活用してる。でもさ、何しに高いお金だしてもらって勉強してるか考えたことある? もう二十歳って立派な大人だよね。本来すべき努力を放棄してるんじゃないの。もしかしてなんでもそれなりで上手くやれてるのが格好良いとでも思ってない? がむしゃらに努力できることがある人の方が全然格好良いよ。そういうところを履き違えてそうなところが嫌いだった」
 淡々と語られる言葉は刃物みたいに鋭い。反論なんか許さない、そんな剣幕は全くないのに、何かを言い返そうとは思えなかった。
「あとさ、すぐに浮気するどころかあまつさえ『そういうお友達』を持ちたがるサークルの男の子と比べると、たしかに君はいくらか誠実だったけど、それでも他の女の子と二人で黙って飲みにいったりするのはどうなの? 別にそれを止めるつもりはないけど、一言言わずにそういうことすると、私が知った時にどんな気持ちになるか考えたことはある? 一昨日だってそうだよね? もしかして知らないとでも思った? こんな遊び場のない辺鄙な場所の大学だと、そういう話題はけっこうすぐに耳に入っちゃうんだけど。……今ぱっと思いつくのはそれくらいかな。他にもいくつかあったけど、いちいち言うほどのことでもないし。それに今言ったことだって、別にそれぞれがそんなに大きな理由になったわけじゃない。強いて言うなら何となく、本当に何となく合わなかったってだけのことだと思う。君が良いとか悪いとかの問題じゃなくてね」
「じゃあなんで別れなかったんだよ?」
 いい加減聞いているのが苦しくなって、俯いたまま喘ぐように疑問をぶつける。
「別れて欲しかったの?」
「そんなことを思って付き合うぐらいなら、その方がマシだろ」
「別に君はそんなこと気がつかなかったじゃない。それに別れてサークルの人間関係が変にごたごたするのも嫌だったから」
「神奈が俺のことを好いてないことぐらいは分かった」
「そうね、それは意外だったな。もっと男は馬鹿なんだと思ってた。抱かせておけばそんなこと気にも留めないかと思ってたもの」
 さすがにその言い草は頭にきた。けれど神奈の顔を見た瞬間、その熱が急に冷めていくのを感じた。彼女は酷薄な冷笑をしているのだろう、そう思って目をあげると、実際にはつまらない講義の話でもするみたいに平然としたままだった。その大きな瞳はいくらか冷めたように見えたが、感情のゆらぎなど全くみえない。さきほどまでの言葉の何もかもが感情に任せて言われたことでないという事実と、こんな話でもほとんど気持ちを動かさない姿に、何かを言おうとする気力が根こそぎ奪われた。
「……分かった。いや、まだ分からないこともあるし、整理できていないこともあるけど。とりあえず俺がすべきことは分かった」
 神奈は何も言わずにこちらを見ていた。
「別れよう」
「ええ」
 一言、あまりにもあっさりしていた。頭のどっかで今までの一年はなんだったのかと問う声が聞こえたが、今はとてもじゃないがそんなものを考える気にはならなかった。
「……ひとまず今日は帰ってくれ」
「ひとまず、ね。帰るけれど多分もう来ないよ」
「だろうね」
 彼女はその返事を聞いたかどうかも分からない。しばらく沈黙が続いたと思ったら、彼女は席を立ってカバンを肩にかけていた。
「じゃあ」
 そこでやめておけば良いのに、咄嗟に思いついたことを聞いてしまった。
「神奈は俺と付き合ってなんか良いことあったのか?」
 我ながらなんてバカなことを聞いたんだと思う。未練がましいと思ったのに、いつのまにか口に出ていた。
「なんでそんなこと聞くかな」
 言葉にわりに彼女どこか楽しそうに続けた。
「そうね。例えばセックスが終わった後、ちょっと冷たくするとすぐに傷ついた顔をするでしょう。そうやって傷ついた顔を見るとね、ああ多分この人は私のことが好きなんだろうなって思えた。そうそう、ちょうど今みたいな顔。そういう時はいくらか気分が良くなったよ」
 そう言って、彼女は哀れむように笑んでみせた。嗜虐的な声音の言葉は意味を持たないまま頭を抜け、その音だけが耳に残響した。
「じゃあね」
 こちらの返事を待たずに出て行く柊神奈を黙って見送る。
 机の上の珈琲は冷えすぎて飲むべき時を佚してしまっていた。
 幾度咀嚼しても受け止められない彼女の放った言葉、それを反芻しているうちに、いつのまにか日付が変わっていた。
「……最初っから好きじゃないなら初めにそう言いやがれ……バーカ」
 深く座りこんだ椅子にもたれ、天井を仰ぐ。零れ出た罵倒が幾分か気分を軽くした。



 柊と別れてから三週間ほどが過ぎた。変わったことと言えばサークルに彼女が姿を見せなくなったことと、俺の下宿先がたまり場として大いに活用されることになったくらいのものだった。フラれた聡史君を励ます会と称してサークルと学部の友人が訪れ、時にろくに片付けもせずに退却するので俺の部屋はかなり雑然とした状態が続いた。
 そんな週末、我がモノ顔で部屋に侵入してきた暁也を捕まえ、部屋の掃除を命令すると奴はしぶしぶ従った。さすがに最近入り浸っていた罪悪感が働いたらしい。一時間ほどで片付けを終えると、拭いたばかりの床の丸テーブルに突っ伏していた。
「お疲れさん」
 暖かい緑茶と茶請けの柿の種を出してやると、暁也は遠慮する素振りも見せずぼりぼりやり始めた。
「お前は人使いが荒いと思うの」
「たまり場を提供している対価だ」
「ぐぬ……」
 一言で切り捨てると反論もせずに顔をしかめた。寝袋を手にして以来、この部屋をほとんど第二の住処にしている暁也に言い返す余地はなかったようだ。
 しばしピーナッツばかりを貪って茶を啜っていた暁也は、ふと思い出したように口を開いた。
「そういえばお前らって結局何が原因で別れたの?」
「初めから好きじゃなかったらしいよ」
 暁也は束の間、きょとんとした表情を浮かべた。
「……どういうことそれ?」
「そのままの意味」
 柊に言われた言葉はあれから何度も思い出した。その一部をかみ砕いて暁也に教える。
「はー……そんなことある」
「実際言われたからあるんだろう。俺はあいつが何を考えてたかよく分からないし、ずっと分かりそうにない」
「うーん、まぁ、そうか……」
「それでさ、この前相馬さんとヤッたんだよ」
「は?」
「向こうが誘ってきたから」
「いやどういうこと?」
「なんか話聞いてくれるっていうから、洗いざらい話して……そしたら可哀想だから慰めてあげるー、とかそんな感じ」
「え? え? そんな人だっけ? ていうかあの人彼氏いなかった?」
「さぁ? 彼氏はいない、とは言われたけど」
「え、えええぇ……ていうか聡史もそれでヤッちゃうのかよ……」
「好きでもない人としてみたかったんだ」
 暁也はその一言を聞いて、「好きでもない人と、ねぇ……」と噛みしめるよう繰り返した。
「やっぱりそういうのっておかしいんじゃねぇの?」
「なにが?」
「だからさ、恋愛ってそんなもん? 俺が男子校出身だからか夢見がちなのかもしれないけどさ、そういうのってもっと真摯なもんじゃねぇの? 誰かと手を繋いだりセックスしたりって、服を試着するみたいにぱぱっとするものじゃないだろ。サークルの連中もたまに好きでもない女の子とヤッたって言うけどさ、それって多分すげー気持ち悪いことじゃねぇ?」
「ああ、うん。なかなか最低の気分になったよ。自己憐憫とかじゃなくて。おまけに言えば女性不信になりそうだ」
「なんだそれ」
「そのままの意味だって。分かったことは二つだ。好かれてない人と寝るのは虚しいし、ましてや好きでもない女を抱くと嫌気が差す」
 暁也は何を言うべきか図りかねているのか、複雑な顔で俺を見た。
 俺はそれ以上この青臭くて馬鹿馬鹿しい話題を続けるのが嫌になって、話を変えることにした。幸い夕食の時間は近い。
「以上、おしまい。メシ食いに行こうぜ。久々に掃除したら腹が減った。どっか行きたいところある?」
「焼肉」
「重い、遠い」
「蕎麦」
「それだな」
 のろのろと支度をして家を出る。
 大学近くの蕎麦屋まで行く道すがら、一組のカップルとすれ違った。男は少し冷めた表情の女の子に楽しそうに話しかけていた。彼も彼女を楽しませようと必死なのかもしれない。
 思えば高校生の頃までは恋人関係というものに随分夢を持っていたように思う。誰かと付き合うのはそれは楽しいことだと疑わなかったし、それを確かめるのは当時の自分には相応にハードルが高かった。それがダイガクセイになって、大学の閉ざされた社会で暇つぶしのように行われる恋やらを眼前に、その安売り投売り状態をどうして違和感もなく受け入れたのか。
「暁也って今彼女何人いるの?」
「そりゃ一人だろ」
「一緒にいて安らぐ?」
「うむ」
「お前は異次元の生き物だな」
「そんなこと言うなよ」
 思いの外寂しそうに言う。それが妙に可笑しかった。
 とぼとぼ歩いていると蕎麦屋の鈍い灯りが見えてきた。手に馴染み始めた冷たさをどうにかしたくて、自然に足が速くなる。
「ここの天ぷら蕎麦がめっちゃ旨いんだよ」
 顔をほくほくさせながら暁也は零す。
「暁也、お前それ前も言ってた」
「そうだっけ?」
 今日も異次元生物とメシを食う。いつか似たような生きモノに擬態できるだろうかと考えて、多分ムリだと悟った。
 天ぷら蕎麦はやはり旨かった。

       

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Neetsha