Neetel Inside 文芸新都
表紙

僕と神無月さんの事情
一日目

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 教室に入るとクラスメイト達の喧騒が耳に飛び込んできた。テスト直前なのだ、当然ながら緊張感も漂う。
 名簿順に並んだ席に座ると、僕の丁度横に神無月さんが居る形になる。
 席に座って英語のノートに目を通していると、神無月さんが声を掛けてきた。
「瀬戸さん、勝負しませんこと?」
「勝負?」
「テストの合計点が高いほうが、相手の言う事を何でも一つ聞きますの」
「それだと僕が負けることは確実じゃないか」
「あら、勝負は最後までやってみないとわかりませんわよ?」神無月さんは悪戯っぽく微笑む。
「仕方ない、分かったよ。じゃあ勝負だ」
 勝てる見込みがまるでないのは分かりきっていたけども、別に何か嫌な事をされるわけじゃないのも分かっていた。
 彼女がこう言う提案をしてくる時は、たいてい遠まわしな遊びの誘いだったりする事が多い。でも、僕だって何もせずに負けるわけじゃない。受けたからには最大限負けないよう努力はする。神無月さんがわざわざ勝負と言う形を持ちかけてくるのも僕のこういった性分を理解しているからだろう。いくら神無月さんとは言え高校のテストで百点満点を取るのは難しい。僕にだって勝機はあるのだ。
「あれ? 瀬戸君どうして英語の勉強なんてしてるの?」
 ノートを眺めているとクラスメイトの葛本さんが話しかけてきた。
「どうしてって、一時間目は英語じゃないの?」
「いや、一時間目は国語よ? ほら、黒板にもそう書かれてるし」
 確かに、黒板に書かれたテストの時間割には『国語』と書かれていた。
「あれ? おかしいな……」
 僕は鞄から一枚のプリントを取り出す。それはテスト週間に入る前、担任が僕らに配ってくれたテスト日程表だった。そこには『英語』と確かに書かれている。
「プリントには確かに英語って書かれてるよ」
「うそぉ。じゃああれって書き間違い? 私、しっかり国語の勉強しちゃったよ」
「麻子、どうしたの?」
 葛本さんの騒ぎ声を聞いて彼女と仲のよい宮下さんがやってきた。
「宮下ぁ、聞いてよ。今日の一時間目英語だったんだよぉ。あの黒板に書かれた時間割、書き間違いだって」
「えっ? マジで?」宮下さんは目をパチクリさせる。彼女の手には国語の教科書が握られていた。彼女も英語はノーマークだったのだ。
 そのときチャイムが鳴った。全員が席に座り、宮下さんと葛本さんもギャーギャー言いながら席に戻る。そのせいで今日の一時間目は英語のテストかもしれないと言う噂が流れ、クラスに不穏な空気が漂っていた。
 クラスの人間の大半が国語の教科書を持っている。明らかにおかしな光景だった。僕らのクラスは無精者が多い。だから事前にプリントが配られているにも関わらずこうして黒板の表記をあてにする。
 結局教員が持ってきたテストはやはり英語で、僕のクラスからは大きな悲鳴の渦が上がった。
 二時間目の生物でも、数学と勘違いして勉強している人が多く、数名が頭から煙を出し、しまいには爆発して保健室へと運ばれた。一夜漬けをした後の体力ではテスト科目を間違えたと言う絶望を耐えることは出来なかったのだ。

「事件ですわ、これは」
 テスト初日が終わり、帰りのホームルームが始まる前に神無月さんが言った。
「事件って?」
「誰かが意図的に黒板の時間割を書き換え、皆に間違った科目のテスト勉強をさせたのですわ」
「クラスの平均点を下げて、自分の成績を上げようとしたってこと?」
「そうですわ」
「間違いない! 陰謀だよこれは! 悪魔の所業だよ!」
 神無月さんの席の真後ろで葛本さんがわめく。
「麻子も私もそうだけど、クラスの大半が被害にあっているよ。みんな、基本的にテストは前日に完徹でやるから。時間割も前日に確認するのが基本なのよね。時間割書いたプリントとかもらっても、すぐになくなっちゃうし」宮下さんは葛本さんをなだめながら、悲しげに発した。
「決まりですわ」
 神無月さんは立ち上がると教卓に立った。クラス全員が彼女に視線を寄せる。
「残酷で非情な事件だと思いますわ」
 静寂が、彼女の言葉を引き立たせた。
「この犯人を許してはいけない。そう思いませんこと? 皆さん」
 そうだ、許してはいけない、いいぞ! 神無月さん、僕はこのせいで赤点を取る羽目になったんであって別に勉強してないわけじゃないんだ! 本当なんだ! この事件のせいで悪い点数を取ってしまった、悪いのは犯人だ! 犯人を殺せ! ついでにこんな難しいテストを出した教師も殺してしまえ!
 殺せ、殺せと不穏な合唱が上がる中、彼女は手で皆を律する。
「憎き犯人、私と瀬戸さんが捕まえてみせますわ」
「神無月さんが動くの? それなら安心だわ!」
 葛本さんの叫びを機にクラスがわっと盛り上がる。僕は極自然に自分の名前が入れられていたことに衝撃を隠せなかった。
「私も何を隠そう、瀬戸さんが前日に明日のテストは生物と英語だと教えてくれていたから被害者にならずに済んだんですもの……。だから人事じゃありませんのよ」
 そうか、瀬戸と友達だったら助かったのか。瀬戸は意外としっかりしているからな。でも神無月さんと一緒に居るとかすむよね。うん、かすむ。霧みたい。意外と顔可愛いよね。うん、可愛い、ショタみたい。俺一度瀬戸と身体を重ねてみたいんだよ。クラス中からいっせいに僕に対する評価が挙がって思わず耳を塞いだ。誰か一人耐え難い事を言っていた気がしたが聞いていないことにした。
「私と瀬戸さん、二人いれば犯人をきっと捕まえる事が出来ますわ」
 神無月さんは無垢な笑みを僕に向ける。まるで天使のように、彼女の笑顔は光に満ちている。こうなった彼女は誰にも止められないのだ。
「うん、そうだね。やろう」
 僕が頷くと神無月さんは嬉しそうに、本当に嬉しそうに子供みたいな笑みを浮かべるのだ。

     

「とりあえず瀬戸君! 明日のテストは何の科目なのか教えて頂戴!」
 葛本さんに言われて僕は黒板に正しい時間割を書きなおした。すると驚いたことに、黒板に書かれている時間割は全て異なっている事が判明した。
「前半のテストは後半へ、後半のテストは前半に移されているな……」
「何故でしょうか」
「多分これが最も嫌がらせとして効果を出せるからだよ。例えば国語だけど、本来なら最終日の二時間目のはずなのに黒板に書かれた時間割では初日の一時間目に来ている。テスト一日目って気合入るから勉強するはずなんだけど、それが科目を間違えたってなったら一気にモチベーションも下がるよね。せっかく覚えた知識もテスト最終日には薄れちゃうし、なまじ初日にしっかり勉強したって意識が本人にはあるから最終日にまたわざわざ国語を勉強する可能性は低い。逆に一番最後だと思って油断していた科目が初っ端に来たら勉強しているわけもないのでズタボロになる。と、まぁこんな感じで対照的な時間割を作ると大きく混乱を招けるんじゃないかな」
 おぉ、とクラスから低い歓声が上がった。神無月さんも「なるほど」と感心する。
「つまり犯人にとって想定外だったのは瀬戸さんが居たことですのね」
「どうして?」
「だって瀬戸さん以外誰も正確なテストの時間割を把握していませんもの」
「ははは、そんな馬鹿な。ねぇ?」
 僕は壇上からクラスの皆に視線を向けた。サッと、逃れるように全員が目を逸らせる。もう嫌だこんなクラス。
 そこで僕はある一つの考えが浮かんだ。
「そうだ、それじゃあ逆に正確なテストの時間割を把握しているのは犯人と僕だけなんだから、朝来た時に英語を勉強していた人が容疑者としてのぼるはずだよ。僕と神無月さんは除外するとして、誰か英語を勉強している人を見かけてない?」
「どうして神無月さんと瀬戸君は除外されるのよ! 瀬戸君が犯人って可能性も否定できないわ」葛本さんが叫んだ。
「なにぃ! 瀬戸、お前が犯人だったのか!」
 どうしてそんな事をしたんだ、酷いよ瀬戸君、お前を食べてしまいたいよ瀬戸、今すぐ俺の胸元に飛び込んで来い瀬戸、クラスから意味不明な罵詈雑言が上がる。もう嫌だ。
「僕が犯人だったらここで正確な時間割をみんなに教えるわけがないじゃないか。大体、正しい時間割なんて先生に聞いたら一発で分かるはずだし」
「あ、そっか。ごめん瀬戸君、私勘違いしてた。てっきり遠まわしな自首だと」
 葛本さんはテヘヘと頭をかく。いいからお前は黙っててくれ。僕は気を取り直すと再び皆に尋ねた。
「それで、僕と神無月さん以外で他に英語を勉強していた人は? 目撃談でもいいんだけど」
 しかし誰からも手はあがらなかった。
「みんなテストで必死だったから他の人が何を勉強しているかなんて見てなかったと思うよ」
 宮下さんがポツリと言う。なるほど。
「瀬戸さん、そもそもクラスの中に犯人は居ないかもしれませんわ。他クラスの人が私たちのクラス平均を下げようとしているのかもしれませんし」
「それだったら被害にあったのが僕らのクラスだけって言うのはおかしいよ」
 まぁそもそも黒板の時間割を書き変えられただけでここまで大騒ぎするのはうちのクラスだけだと思うが。でも神無月さんの言う事はあながち間違いではない。
 つまり見方を変えれば容疑者など無尽蔵に出現すると言うわけなのだ。
「あっ」
「どうしたの? 宮下さん」
「いや、何となくだけど、私らが誰も正しい時間割を知らないって仮定したら、容疑者が絞れたのよ」
「誰?」
 クラスがざわめく。宮下さんは指を一本上げた。
「先生よ。担任の吉崎先生」
 どうして彼女が指を上げたのかは分からなかった。

 容疑者として担任の名前が挙がったことで事件は急展開を迎えた。
「宮下さん! あんまりですわ! 吉崎先生は本当に生徒想いの、優しい先生ですのに。ねぇ瀬戸さん?」彼女は同意を求めて僕の顔を覗き込む。
 しかし僕は返事を返さなかった。
 いや、返せなかった。
「瀬戸さん?」
「一つ可能性を考えてたんだ」
「可能性?」
「仮に、もし仮に、だよ? 吉崎先生が犯人だとしたら、色々な事に筋が通ってしまうんだ」
「どういう事ですの?」
「黒板の時間割を書き変えただけでここまでテスト結果に影響が出るなんてうちのクラスぐらいだよ。そう言ったクラスの性質を吉崎先生ならよく把握している。それに、教師だから生徒が居なくなった頃合いを見計らって悠々時間割を書き変えることも出来るしね」
「そんな……」泣きそうな神無月さんに「もちろん」と僕は付け加える。
「これはあくまで推測でしかない。まだ犯人が先生とも決まったわけじゃないし、とりあえず直接先生に問いただしたほうがよさそうだ」
 その時教室のドアが開いて吉崎先生が姿を現した。遅すぎる登場に、教室の空気が張りつめる。
「いやぁ、遅れてスマンな。下痢が止まらなくてずっと個室で篭城していたんだよ」
 先生は僕たちの様子にも気付かず呑気に歩いてくると、教卓に立つ僕と神無月さんをみて「どうしたんだ二人とも」と首を傾げた。
「あ、ひょっとして先生が遅れたからホームルームをしてくれていたのか? 悪いなぁ、気を遣わせて。ほら、すぐ終わらせるから二人とも席についてくれ」
 僕と神無月さんは困惑して互いの顔を見合う。この人が本当に犯人なのだろうか? いや、考えられない。
「宮下さん、本当にこの様子を見てもまだ先生が犯人だと思いまして?」
 神無月さんが尋ねると宮下さんはうつむいて静かに首を振った。
 分かっていた。先生が犯人じゃないって事くらい。でも疑心暗鬼になっていたんだ。僕も、一瞬でも先生を疑った自分を恥じた。
「おいおい、どうしたんだ? 何だか辛気臭い雰囲気だなぁ。先生のクラスなんだから楽しくやろうじゃないか」
 話が分からない先生は不思議そうに、それでも僕らを安心させる優しい笑みを浮かべる。なんだ、やっぱり僕らの先生だよ。僕と神無月さんは静かに笑むと席に座った。先生もその様子を見て満足げに頷く。
「よし、じゃあホームルームを始めよう。みんな今日のテストはどうだった? 朝来て黒板の時間割に混乱した奴もいたんじゃないか? ま、先生のちょっとした悪戯だ」
 はっはっはと先生は肩を揺らした。
 その後クラス投票で先生を血祭りに上げる事が決定した。

     

 夕暮れ、血まみれになった教室を後に、僕らは家路につく。
「瀬戸さん、今日は巻き込んでしまって申し訳ありません」
 血まみれの鉄バットを引きずってうな垂れる神無月さんに僕は「何言ってるの」と声を掛けた。
「もうそんなの、いまさら気にする間柄でもないじゃない。それに、面白かったよ」
 本当に彼女といると退屈しない。僕の言葉に神無月さんは嬉しそうに微笑んだ。
「私もですわ。でもこれで、また一つ、瀬戸さんに借りが出来てしまいました。早く返さないと」
「ははは。ちなみにいま何個目?」
「二千五十七個ですわ」返せるのかそれは。
 まだテスト初日が終わったばかりで、だけど近づく夏の気配と、広がる夏季休暇の期待に胸は躍る。風はすっかり湿り気をなくし、新しい季節を僕らに予感させた。
 しばらく歩くと目の前に見覚えのある男性が立っていた。全身スーツで決めており、二十代にも見えれば三十代にも見える年齢不詳の男性。あれこそ神無月さんの専属執事、三枝さんだ。
「三枝!」
 神無月さんは声をあげると鉄バットを捨てて彼の元にかけて行った。僕も後を追う。
「三枝! もう体調はよろしくて?」
「お嬢様、ご心配おかけしましたな」
 三枝さんは肩で笑うとこちらに一礼する。
「瀬戸様、本日はご迷惑おかけしました。わたくしがいないことで色々と不便もあったでしょう」
「いや、まるでなかったですけど。二日酔いはもう良いんですか?」
「瀬戸様、ご冗談が過ぎますぞ。社会人であるわたくしが二日酔いで仕事を休むなどと。風邪をひいたのですよ。二日酔いなど、ははは、こやつめ、ふははは」
 三枝さんは全身から汗を噴き出しながら頬をプルプルと震わせた。狼狽しすぎだ。
「そういえば三枝、どうしてここに?」
 そこで三枝さんも目的を思い出したのか「あぁ、そうでした」と表情をただした。
「奥様が心配されていたのでお迎えに上がったのですよ。何せ明日もテストなのに随分と帰りが遅いですからな」
 神無月さんはそこで右手内側にはめている腕時計をみる。
「あら本当。もう六時ですのね」
「そんなに時間経ってたんだ」
 色々ごたついていたのでまったく感覚がなかった。
「そういうわけです。そうとなればお嬢様、帰りましょう。車を用意しております」
 三枝さんが指を鳴らすと曲がり角の先から長いリムジンが姿を現し、長すぎて曲がりきれず斜めに停車した。
「いつも悪いわね」
 三枝さんがドアを開け、神無月さんは車に乗り込む。
「いえ、それもこれも金……いえ、お嬢様の為ですので」本音と建前が見え隠れしているぞと突っ込むのをどうにか堪えた。
「瀬戸さんも乗っていきませんこと?」
「いいよ、僕は。もう家も近いし」
「そう、それは残念ですわね……」
「大丈夫だよ。明日も会えるんだから。それより、試験頑張ろう」
「ええ。それでは瀬戸さん、ごきげんよう」
「うん、また明日」
 三枝さんがドアを閉めると彼女の姿は見えなくなった。そして三枝さんも助手席のドアを開く。運転手は別にいるらしい。
「それでは瀬戸様、お元気で」
「ええ」
 三枝さんが車に乗り込むと、車は再び動き出した。しかし長すぎる車体はこの狭苦しい曲がり角を曲がるのに苦戦し、約五分間格闘した挙句ようやく去っていった。
 車を見送ってから僕も歩く。夕日が道を照らし、僕の影を長くした。どこからか煮物の匂いが漂い妙な懐かしさを覚える。
 やがて神無月家の敷地が目に入ってきた。目に入ったとは言え、見えるのは塀ばかりで入り口はまだまだ先にある。本当にどでかい家だ。こんな家が、我が家のお隣さんなんて十年以上経ったいまでも信じられない。神無月家の裏手には山もあり、そこも敷地の一部だと言う。神無月家と我が家を比べてはいけない。
 塀に沿って歩き続けると、ようやく神無月家の入り口と、隣にある僕の家が見えてきた。
 僕は屋敷に入ろうと門のところで苦戦しているリムジンを横切って帰宅した。

 部屋で着替えてリビングに下りると、父がソファーに座って頭を抱えていた。向かい側では、妹の沙紀が物凄い形相で仁王立ちしている。一体何事だ。
「た、ただいま」僕が言うと父は弱々しく顔を上げて「ああ、お帰り……」と力なく微笑んだ。
「どうしたのさ。喧嘩でもしたの?」異様なリビングの雰囲気が肌に刺さってくる。
「聞いてよお兄ちゃん。この人、私の裸見たんだよ」
「裸を? どうして?」
「誤解だよ。お父さんはたまたまトイレに行こうと思っただけなんだ。そこで丁度沙紀がお風呂から出てきて……」
「トイレ行くならトイレに行くって一言断ってよ!」
「沙紀なら音で気付くと思ったんだよ。愁からも何か言ってやってくれないか」
「お兄ちゃんどう思う? 最低だよね、この人」
 我が家の風呂とトイレは洗面所を挟んで隣り合っている。なので誰かがお風呂に入っているときは、トイレに行く際一言断るのが礼儀だ。でも父さんの言い分もわからないではない。いくらシャワーを浴びていても普通誰かがトイレに入れば物音で気付く。
「まぁ、父さんが悪いとは思うけど、沙紀も不注意だったんだから許してあげれば?」
「えぇ? お兄ちゃんもこの人の味方なの?」沙紀は顔をしかめる。
「別にそう言う訳じゃないけど過ぎた事を怒っても仕方ないだろ? 父さんには二度と同じ事をしないよう約束してもらえばいいじゃない」
「愁、悪いけど父さんそれは約束できないな」
 人が話を丸く収めようとしているのに何を言うのだ。
「父さん、娘の裸体を見れるのは親だけの特権だと思ってる」とんでもない事を言い出した。
「変なこと言わないでよ」自分の声が震えるのを感じた。しかし父は表情一つ変えない。
「愁、これはちっとも変なことじゃないんだよ。父さんは小さい頃から沙紀の裸を見てきた。それこそ赤ん坊からなんだ。それはちっとも変なことじゃないんだよ」
 沙紀は何も言わない。彼女の顔を見て、僕は人間がこれほどまでに顔面で人を拒絶出来る生き物だと初めて知った。とりあえずこのままだと家庭崩壊は目前である。どうにかしなければ。
「父さん、沙紀は赤ん坊じゃないよ。思春期で、年頃の女の子なんだ」
「そんな意見は却下だ」
 父は拒絶するように首をふる。何だお前は。
「娘の恥らう姿を見たっていいだろう? 父さん、仕事で疲れてるんだ……」
 疲れすぎだ。
「止めて、父さん。世間がその言葉を耳にする前に」
「いいや、もう誰も父さんを止められない」
 そのときリビングの入り口からバキバキと骨が鳴るのが聞こえた。何事かと視線をやる。
 母が立っていた。
「母さん……」いつからいたのと尋ねる前に、彼女は手で僕を黙らせ、頭をポンポンと撫でてきた。
「愁、よく頑張ったわね」
 彼女は気味悪いくらいすがすがしい笑顔で僕に微笑みかける。
「あとはお母さんに任せて、沙紀を部屋に連れて行ってあげて?」
「わ、分かった」
 僕は呆けている沙紀の手を引くとリビングを出た。背後からりんごの潰れるような音が聞こえた気がしたが、幻聴と言うことにしておく。

 階下から父の断末魔が聞こえる中、沙紀を僕の部屋まで連れてきた。一人にするのは不安だったし、かといって妹の部屋に入ると怒るから仕方なくだ。
「いいか、沙紀。さっきのは気にしちゃ駄目だから。父さん疲れてるんだよ。仕事のノルマを課せられすぎてきっと一時的に頭おかしくなってるんだ。ほら、前も食事中に『上司がヤクザみたいで死にたい』って口にしてただろう?」今思えばとんでもない発言をしている。
 沙紀は泣きそうな顔で、それでもぶっきらぼうに「うん」と呟いた。
「何かゲームでもする?」
「いい。マンガ読む」
 沙紀は本棚から漫画を数冊取り出すと、僕のベッドで横になり足をぶらつかせる。いつもと変わらぬその様子に何だかホッとした。決して彼女の内心は平気ではないだろうが、こうして平気なフリが出来る分まだ心に余裕が出来たのだろう。
「じゃあ僕は勉強しとくから」
「ん」
 僕は教科書を鞄から取り出す。
「お兄ちゃん」
「何」
「高校って楽しい?」
「まぁ、楽しいよ。色々あるし」担任が生徒に血祭りに上げられたりする。「沙紀はどう?」
「まぁ、楽しくやってる。最近新しく転校生が来たし。ほら、この前家に連れてきたでしょ?」
「ああ、あの子か」何となく覚えがある。
「天草って子で、みんなから天ちゃんって呼ばれてる。私と同じで高校生のお兄ちゃんがいるんだって」
「ふぅん」
 適当にあいづちを打つと少し間が空いた。
「そういえば、神無月さんとは今も一緒のクラスなの?」
「うん。毎日一緒に学校行ってる」
 すると後ろから沙紀が溜息を吐くのが聞こえた。
「神無月さんってほんと、お兄ちゃんのこと好きだよねぇ。ぞっこんだよ」ぞっこんとはまた表現が古い。
「気のせいだよ。十年以上も一緒にいるんだ。仲が良いだけさ」
「そうかな」
「そうだよ」
「じゃあそう言うことにしておいてあげる。でも、まぁお兄ちゃんも高校生なんだしそろそろ彼女くらい作らなきゃね」
「余計なお世話」
「私がなってあげようか? お兄ちゃんの彼女。むしろならせてくださいよ。頼みますから」
「余計なお世話」
「ちぇっ、ケチ」
 沙紀はそう言うと再び黙って漫画を読み出した。僕は静かに設問を解いていく。
 妹の発言に「うん?」となったのはそれから一時間後のことだ。

       

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Neetsha