函館港より降り立った下之介と
今ごろ京では水仙の花が咲き、匂い起つ
振り返って険しく荒々しい駒ヶ岳を見ると、よくぞここまで来たもんだと感傷がこみ上げてきた。
向き直ると目の前に漁村が見えてきた。今晩泊まる予定の鷲ノ木村だ。どんな寒村かと思ったが、小藩の漁村と思えないほど栄えていた。噴火湾の暗い沖合に
松前藩は北海道の南端にあるため、三百諸藩の中で唯一米が取れない藩である。日本の主産物であり、貨幣の代わりとしても流通していた米。その米が取れない松前藩が裕福だった理由の一つは、北海道アイヌとの交易を独占的に認められていたからである。しかしアイヌから見れば交易のレートは不平等であり、実質的には松前藩の植民地だった。この点は薩摩藩と琉球王国の関係と似ている。
もう一つは地引網漁法の発達によってイワシが大量に取れたためである。食料を賄って余りあるイワシは
下之介は未開の地だと思っていた場所に人が住んでいることに驚いた。150戸程の家々が立ち並び、人口は800人ぐらいだろうか。農村では見られない
今日はあの寺に泊まろうということになり、下之介は交渉しに鷲ノ木寺と立て札に書かれた本堂へ入ろうとする。すると本堂の奥から阿弥陀如来が右に傾き、左に傾き、大きく歩いてくる。下之介は大層驚いて入口から飛びのいた。
やがて独裁者の銅像のごとく、仏像は引き倒された。
「なんてことを。」
元仏教者として下之介は黙っていられなかった。
村人たちも本意ではないのか口をくぐもらせる。
「仕方なかろう。」
「天朝様(天皇陛下)の世になったから。」
「わしら言われるままやっとるだけで……。」
下之介は村人たちに詰め寄る。
「誰じゃ、そんなことを言ったのは。」
村人たちは指こそ差さないが、視線の先が示していた。
下之介は烏帽子を被り神主の格好をした男に近づいた。神主はなぜか顔をそむける。年は下之介と変わらず三十路に見えるのに、襟足がつるりとしてまるで毛がない。もしやと思い、顔を覗き込む。見知った顔だ。
「ご同輩、いつ宗旨替えしたんじゃ。拙僧を憶えておいでか。ともに比叡山で修業した。」
「知らん、お前なぞ知らん。」
そう言って神主はあきらめ悪く顔を隠した。
下之介が神主の烏帽子をはしっこく奪い取ると、坊主頭があらわになる。
「どこかで見た顔だと思ったら、やはりな。拙僧も苦労しましたよ。なかなか伸びないもので。」
エセ神主は顔を隠していた手で、今度は頭を隠した。
村人たちがエセ神主に
「あっ、こいつ、鷲ノ木寺の住職じゃねえか。」
「本当だ。」
「なんで神主の格好してるんだ。」
「危うくだまされるとこだった。」
エセ神主は観念したのか、開き直ったのか、正直に話す。
「御一新で世の中がひっくり返ったんだ。仏教は外国から来た邪教とみなされる。」
これは、エセ神主だけが異常なのではない。まったくの妄信というわけでもなく、根拠があった。
そもそも尊王攘夷をスローガンに始まった討幕運動は、いつの間にか海外と貿易して国を興すべしという思想にすり替わっていった。インテリ思想家たちは輸入した武器のおかげで幕府軍に勝てたことで外国の力を認め始めていたが、下っ端の運動家たちはついていけず不満だけが残った。
このガス抜きのためにインドから来た宗教である仏教がやり玉にあげられた。まだ神仏分離令は出されていなかったが、空気を読んで過剰に反応する村もあったそうだ。政府の顔色をうかがう日和見主義は今に始まったことではない。
「お上を
エセ神主は自分に言い聞かせるように、「私は悪くない」と言い続ける。
「お前も京にいたなら攘夷志士どもの凶暴さは知っておるだろう。逆らえば何をされることか。寺なんぞやっていたら、こちらがホトケになっちまう。」
「だったら拙僧がこの寺の住職になる。」
「いいのかい、あんた。侍になりたいんじゃなかったのか。」
「侍はもう、うんざりじゃ。拙僧は坊主に戻る。」
そう言うと下之介は脇差で
エセ神主はよほど新政府ににらまれたくないのか、あっさりと寺の沽券(権利書)と住職の地位を下之介に譲り渡す。下之介は口先三寸で家と仕事を手に入れた。