「心が欲しいのです」
「結末の話」
「もしこの世界で貴方が奇跡を起こし続けられたとして」
私が医師を目指すと決めた理由を一つ挙げるとすれば、それは祖父の死だろう。
齢六十だった祖父は、不治の病に侵されて命を落とした。抗うこともできずただ身体を蝕まれ、チューブに繋がれた姿は、今思い出しても凄惨だった。それは最早「治療」等ではなく、「実験」のようでとても痛々しくて直視することも辛く感じられた。
彼に巣食う病は一体どの薬が効くのか、ありとあらゆる症状をチェックしては投薬がなされ、チェックされ、何度も反吐に塗れた祖父の姿に遭遇した。
祖父が何をしたのだ! その身を弄くり回され、余命幾許も無い身体を次々と傷めつけてられて……。
私にはそれが人を救う為の術とは、とてもではないが思えなかった。
あれは、いつだったろうか。すっかり痩せこけた祖父の前で私はとうとう我慢し切れずに泣いてしまったことがあった。痛み、苦しみと戦い、たった数十秒の延命の為に残りの人生を捧げる。そんな不条理に見舞われた祖父の方が遥かに辛い筈なのに、弱音を吐いたのはまだ若く元気な私の方だった。
祖父は、涙を流す私の頭をそっと撫でてくれた。休日に外でキャッチボールをしてくれた腕も、誕生日になると必ず寿司をご馳走してくれて、隣でにかっと白い歯を見せて笑っていた顔もそこにはなく、骨に皮がへばり付いた皺だらけの枯木のような指先の力の弱さに、私は強く唇を噛み締めた。
「××は泣き虫だなあ」
シーツをひたひたに濡らしながら覆いかぶさる私に向け、祖父はそう告げた。声にももう覇気は無い。悪戯をした時本気で叱ってくれたあの声も、もう戻ってこないのだ。
「お前は、何に対して泣いているんだい?」
祖父に問いかけられた言葉に、私は顔を上げる。
祖父が可哀想で仕方がないと言おうとして、はっとして口を閉じた。
祖父は、出しかけた言葉を飲み込んだ私を見て、そっと頷く。
「奇跡なんてあり得ない。儂はそう思っていてなあ」
突然祖父が何を言い始めたのか全く分からなくて、私はぽかんとしていた。開いた窓から吹き込む風が、純白のカーテンをゆらりと翻し、時折木々の緑を、空の青を映していた。
祖父が逝ってから、私がその時の事を思い出そうとすると決まって純白の部屋と、青と緑だけの空間を思い出す。
きっとそれ以外にもっと多くの色が在ったはずなのに、あの時、奇跡を否定した祖父の姿を思い出そうとするとそうなってしまうのだ。
「突然死を迎えた男性や、病で亡くなる女性は不条理と言われ、病から立ち直った人間は奇跡とされて周囲に祝福される。でも、それは奇跡なのだろうか」
「どういうこと?」
「生命にはスタートとゴールがあって、その距離は決まっている。決まりきった距離の中で儂らは動き続けている。だからこそ、そのゴールは本来受け入れるべきもので、決して不幸なものでは無い筈だ」
「死が、不幸じゃないってこと?」
祖父は小さく頷いた。
「だから奇跡は無い。そんなものに頼って、儂が生き続けてきた自慢の世界を無念な気持ちにしたら、勿体無いじゃないか」
私が無言でいると、祖父は顔を綻ばせ、頭を再び撫でてくれた。
「これは儂の持論であって、他とは違うさ。お前がこれを引き継ぐ必要は決してない」
祖父は頬をポリポリと掻く。
「希望や奇跡の形は人それぞれだ。起きて欲しくないことも、起きて欲しいことも十人十色で、それは誰にも侵されてはならない。例え血を分けた家族であったとしても、それは同じだ。押し付けられた奇跡が本人の望まぬものであれば、それはすぐにでも不条理に姿を変えて、そいつの心を喰らい尽くすだろう」
穏やかな顔をして祖父はそう語ると、自身の胸に手を置いた。まるで祈るようなその仕草は、とても綺麗で完璧であるように見えた。
気づけば涙は止まり、哀しみに満たされていた身体が熱を帯び始めている。
「儂のような人間を出したくないと、お前は思っているのだろう。だが、それを奇跡や希望に移し替えてはいけないよ。願いや望み、奇跡に希望に……。そうやって誰もが抱く不明瞭な事象全てに責任を持てるようになりなさい。『これは自分が行った不条理だ』と一生抱き続け、相手の感情を真正面から受け止めなさい。自分の望んだ道に引きずり込んだ事を、一生その心に刻みつけなさい」
祖父はそれだけ言うと私の頭を撫で、それからうとうとと頭を揺らし始めると、少し眠くなったと言って身体を横にし、目を閉ざした。
次の日、祖父は息を引き取った。全てに満足し、思い残すことがないかのような笑みを浮かべていた。
とても、綺麗な最期だった。
祖父の言葉を全て鵜呑みにするつもりはない。回りくどく語られた、たどたどしい言葉の羅列は全て祖父のものであり、祖父の抱いてきた現実だ。私が抱くものではない。
ただ、一つの指針にしたいとは思った。
本来死にゆく命を繋ぎ止める半自然的な行為によってありとあらゆる人間を救いたい。自らの不条理によって、最高の迷惑をかけてやろう。
その夜、私は両親に自分の行先を告げた。
・
季節が幾つも過ぎ去って、私は学生服の集団に混じって掲示板を見上げていた。目指す先へと向かう為の一つの到達点。何が何でも欲しい合格の切符を、私はぐっと拳を握り締めて見つめていた。
合格者の番号の並ぶ自分の数字を見つけた時の喜びは、計り知れなかった。この道を進み続けることができる。それがただ嬉しくてたまらなかった。
「いたっ」
どさ、という音と共に女性の声がして、浮かれていた私は振り返った。
尻餅をついたままこちらをじっと見つめる女性の姿。些か浮かれすぎたかと私は慌てて咳払いを一つすると、彼女に手を差し伸べた。
掴まれた手は冷たく小さくて、少し力を込めるだけで壊れてしまいそうだった。
申し訳ない、と頭を下げてみたが、彼女は暫く空を見上げ指先を口に当て、それから首を振った。
「許さない」
ああ、面倒な女性と遭遇してしまったものだ。
どうにか彼女の機嫌が直らないものかと何度も頭を下げていると、腕組みをしたまま顔を顰めていた女性はやっと笑みを浮かべ、それから人差し指を一本、私の前で立てたのだった。
「コーヒー一本」
自販機でコーヒーを購入し、ベンチに座る女性に渡した後、私も隣に座った。
よく見るとそれなりの容姿をしている彼女を横目に見る。ノルディック柄の入った厚手の赤いニット帽から、雪みたいに白い顔が覗いていた。女性は暫くしてその視線に気づくと首をかしげ、舌を出すと悪戯に笑みを私に向けた。慌てて顔を逸らし、誤魔化すように缶コーヒーを口にする。苦味がじわりと広がって鼻から抜けていく。缶コーヒーってこんなに不味かったかな、勉強中は死ぬほど飲んでたのになあと首を傾げながら、しかし身体の奥から温まっていく感覚に心地良さを覚える。
「合格、おめでとうございます」
「え、ああ、ありがとうございます」
女性はそう言うと缶を傾けた。白い喉が小さく動いて、肌が朱にじわりと染まっていく。
「貴方は、どこの学部です?」
「ああ、私は――学部。貴方は……、いた掲示板からして医学部かしら?」
頷くと、やっぱりと彼女ははにかんだ。
「医学部、倍率すごかったそうですね」
「らしいですね。受験者数見てちょっと驚きました」
「でも、貴方は受かった。誰もが欲しがった権利を手にした」
「すごいですよね。合格者番号を見た時はもうびっくりして」
「奇跡だ、とか思いました?」
彼女の言葉で、祖父の顔が横切る。
私は手の中のまだ温もりの残る缶を弄びながら、首を振った。
「奇跡は、信じないことにしているんです」
「何故?」
「祖父に、奇跡なんて信じるな、そんな不明瞭なものに責任を押し付けるなって死ぬ直前に言われたんです。なんだかそれが忘れられなくて」
「面白いおじいさんだったんですね」
「しょっちゅう遊んでもらってましたよ。とても元気で……。まあ、突然不治の病になんてかかってさっと死んでいったんですけどね」
余計なことを言ってしまったと私が誤魔化すように笑みを作って隣に視線を向ける。
だが、横の彼女は同情でもなく、共感でもなく、ただまっすぐな目だけをこちらに向けていた。
なんだか、その目に応えたくなって、気づくと私は口を開いていた。
「誰も治せないでいる病を、全部治せる病にしたいと思ったんです」
「それは、おじいさんの?」
「多分……。死にゆく時間を遅らせることしかできない医療技術なんて情けない。俺がそれを変えてやろうって」
「良い目標ですね。もしそれが実現すれば、周囲は貴方をきっと奇跡の医者だって言うでしょうね」
そうでしょうね、と頷く。私自身が奇跡を信じなくとも、周囲はそう思わない。
「でも、その奇跡も続けば当たり前になる」
彼女の言葉を聞いて、僕は驚いたようにその顔を見つめた。
「貴方が、奇跡を奇跡でなくする医者になれることを祈ってますよ」
そう言うと、彼女は底抜けに明るい表情を見せて微笑んでくれた。
私は彼女を暫くじっと見つめ、小さな笑みを思わず零すと、そっと頷いた。
彼女はコーヒーを飲み干すと、そういえば、と呟いた。
「貴方の名前は?」
この大学に来て、初めての知り合いが彼女で良かったと、私は思った。一呼吸置いて、私は彼女に名乗った。
「僕の名前は――」
その言葉を聞いて、彼女はとても驚いた顔をして、それからもう一度笑った。
とても綺麗な、暖かい笑みだった。
・
彼女の手術は、恐ろしいほど早く決着がついた。
原因不明であるその病も、対処さえ分かってしまえば驚くほど簡単で、むしろ何故今まで気づかなかったのかと笑ってしまう程だ。
やるべき作業を終えた私は、時間は掛かるが暫くすれば意識を取り戻すだろうと告げた。
夫婦は互いに身を寄せ合って泣きじゃくっていた。二人の姿を見て、途端に心の奥底が冷えきっていくのを感じていた。片付けも早々に済ませ、用意された部屋に戻るとベッドに倒れこみ、そのまま目を閉じた。
大分精神の方を持っていかれた。両親と子、二人のエゴのどちらかを見捨てなければならない状況にどうやら私は随分と参っていたらしい。
私は寝返りを打つと瞼を開け天井をぼんやりと眺める。
私は、確かにこの場所で原因不明の病を「原因不明」でなくするためにやってきた。辿り着くまでその気持に嘘はなかったし、本当は彼女の話ですら聞き出さずに全てを終わらそうと思っていた。
だが、やってきた病室で見た姿に、私は酷く動揺したのだ。病人の手前なるべく感情を押し殺しつつ会話を続けたつもりだったが、果たしてどこまで勘付かれていただろうか。最も、彼女は既に騙されきっている存在。もしかしたら、何も気づかないでいてくれたかもしれない。
入学して間もなく姿を消してしまった理由が、まさかこうして分かるとは思わなかったのだ。何かあったとは思っていたが、この閉塞された村の最奥で、救済の幻覚におぼれているなんて、思いもしなかった。
それが原因なのだろう。私は、思わず彼女に自らを語って欲しいと頼んでしまった。あれから数十年もの月日が過ぎていることを、彼女は知らないようだった。
彼女の中の記憶も時間の経過に晒されて風化しつつあった。最も都合の良い出来事だけを明確に覚え、それ以外は忘れてしまっていた。私と出会った時の出来事も、覚えてはいなかった。
私の方は、彼女が消えさっても片時も忘れることは無かった。学業と仕事に追われながらも、いつか会えることを願っていた。いつか彼女の前で目標に手が届いたと言ってやろうと、そう思い続けて……。その為に今までやってきたのだ。自らの道を突き進むことで、きっと彼女に出会えると信じて。偶然や運ではなく、その道を掴むために、私は奇跡を奇跡でなくする医者を目指しつづけた。
気づけば私の中で祖父よりも私の成功を望んでくれた「たった一度だけ会話した女性」の方が、大きなものとなっていた。
突然の邂逅に動揺を覚えながら、しかし彼女の身の上話を聞き続けている内に、不思議と心の方は解けていった。多分、漸くその時がやってきたのだと、私は喜んでいたのだろう。
口だけを動かし、他はまるで眠り姫のようにベッドに横たわる彼女の姿を眺めながら、不思議と、自身が満たされていくのを感じた。
骨と皮だけの痩せ細った身体、落ち窪んだ目元、唯一手入れされ、均一な長さに切りそろえられた髪。変わり果てた姿ではあるが、身体は健康そのものだった。彼女の身の上話を聞きながら検査を行ったから確かな結果だ。
意識と言葉の中に生きる彼女は、自らの奇跡を喜んでいた。身体の全てを明け渡すことで自分は人を救っている。自分の存在意義を見いだせた事を酷く喜んでいた。
だから、彼女の話を聞いている内に私は、果たして彼女を治すべきなのだろうか、と疑問を覚え始めてしまった。
彼女はこのままで居たほうが、幸せなのではないか。偽りとはいえ、彼女は救われている。それを破壊する必要が、果たしてあるのだろうか。
そんな思いが生んだ一言だった。
――貴方の心を頂きたい。
感情が欠落していれば、彼女は絶望することもない。無茶苦茶な依頼をぶつけることで、私は彼女に拒絶してもらおうと、そう思ったのだ。意識の戻った彼女の抱く感情を見たくなくて……。それが、祖父が最も嫌っていた「責任逃れ」であることは理解していた。
けれども、こうして幸福であることを告げられてしまうと、どうしても苦しくて堪らなくなった。
・
膨大な量の仕事に追われながら過ごしているうちに、二週間が経過していた。
昼は講義で目一杯を頭に詰め込み、夜はアルバイトに依って身体と精神をそぎ落としていた過酷な学生時代に比べたら幾分かは楽になったものだが、そんなのは微々たるもので、破裂寸前のスケジュールと睨めっこしながら、その日その日の仕事をひたすらに消化する毎日。
夫妻からの連絡に気づくのが遅れたのも、過労寸前のハード・ワークに身を投じ続けていた。そうしていないとなんだか落ち着かなくて、考える時間を手にしたら気がどうにかなってしまいそうで、とても怖かったのだ。
隈の濃くなった目と肉を直接そぎ落としたような窶れ疲れきった顔を洗面所の鏡越しに見つめ、顔を洗うとリビングに戻りソファに身を投げた。数日ぶりの我が家は、心地が良かった。瞼の重さに耐えながら身を起こすと、目の前のガラス・テーブルに目をやる。
テーブルの中央に置かれた携帯電話に、私の待ちわびた連絡が入っている。
私は暫く携帯を見つめ、それから手に取ると、一件の留守番録音に指をやった。
プツリと音がして、やがて夫人の声がした。もう随分昔のように聴こえるその声に、私は懐かしささえ覚えた。
ひどく疲れきったその声から伝えられた言葉を飲み込み、そして大方予想通りにことが進んだという事実に深い息を吐いた。流石の夫妻も、こればかりは耐え切れなかったらしい。当たり前だ。一体彼女がどれほどの年月、その『まやかし』を信じてきたと思っているのだ。
一頻り彼女の報告が終わると、絶望しきった声で私に助けを求め、その言葉を最後に録音は切れてしまった。ああ、そうなのだ。彼女は私に奇跡を求めていたのだ。こんな結末を求めていたつもりではないのだ。
身も心も疲弊しきっていると、感情が純粋に出てくるようだ。腹の奥底から湧き出る笑いに私は身を任せ、力のままに録音が途切れ黙り込んだ携帯を握り、壁に叩き付けるとソファに寝転がってゲラゲラ笑い狂う。
ざまあみろと叫び、壁の傍で逆方向に曲がった携帯電話を指差し、それからまた狂ったように笑う。
――狂笑。
――狂笑。
――狂笑。
――狂笑。
――静寂。
そして、涙が溢れ出た。肺が締め付けられたように苦しくて、微かに口から漏れ出る声が呻き声になる。どうやら全身に湧いていた灼熱の感情が、冷えて凝り固まって、喉元に詰まってしまったようだ。
私だって同じだ。
私も、私の都合で全てを動かした。
彼女の幸福よりも、私自身の幸福を選んだに過ぎない。その点ではあの夫妻と何ら変わりのないエゴイストだ。
漸く解けてきた胸の苦しみにほっと一息ついて、目元にこびりつく涙を拭って、ソファに身を寄せたまま固く目を瞑る。
背負うのだと、自分に言い聞かせる。例え恨まれようと、呪われようと、殺されようと、私はこの選択を背負うのだ。
何十回、何百回と、私はその言葉を自らに刻み込む。
胸の奥に留まり続ける逃避という言葉を決して選ぶことがないように。最後まで見届ける為に。
その為に私はあの夫妻に連絡を願ったのだから……。
・
再び夫妻の姿を目にした時、すっかり顔色の変わってしまった二人を見て大体を把握することができた。
化粧気がなく傷んで乱れきった髪の中から覗く夫人の眼孔に光はなく、再び訪れた私を招き入れつつも、先日のような柔和な笑みも言葉も出てはこなかった。ただ来訪者を導くだけの標識。それ以上も、以下でもない。
リビングは既に荒れ果てて、西洋に被れた壁紙には処々に浅黒い染みと乱暴に切り裂かれた跡が残っている。テーブルの上に等間隔に置かれていた燭台も今では見る影もなく、折れた蝋燭と共に床に横たわり口を閉ざしていた。
奥の椅子ががたりと揺れて、私は初めてそこに主人が座っていた事に気が付いた。朱色に塗れた顔に半開きの瞼。手には私の好みではなかった安い味のするワインボトルが握られていて、彼はこちらを一瞥した後、握っていたボトルを勢い良く煽った。
「お久しぶりです。約束通り連絡が頂けて好かった」
出来る限り冷たく、落ち着いた口調でだらしなく酒を飲み続ける男に挨拶をする。彼は何も言わず、机に頬杖をつき、ボトルの底を乱暴にテーブルに叩きつけた。夫人が肩を上げて驚くが、私は目を離さず、そこにじっと立ち続ける。
「先に言っておきますが、私は元に戻すつもりはありません。何より治療した患者を再び悪化させるなんて許諾できませんよ」
「……こうなることが、分かっていたのか」
男は、呻くような声で言った。私は肩を竦めて呆れた風を装い、嘆息すると手前の椅子に腰掛けた。
「貴方達も分かっていると思っていました。何もかもを失えることこそが幸福であった彼女からそれを取り上げた結果、恐ろしいほどの時が経っていることを知った時、彼女が何を思うか……。例えば彼女が治療を求めているのならまだ貴方達の理想通りの展開もありえたでしょうが、彼女は既にあの時点で救われていたんですよ」
「でも、だって……」
俯き、両拳を握り締めながら口を開く彼女の姿を横目に、私は続ける。
「貴方達は貴方達のしたいようにした。それこそが自らの救いだと思い、また幸福な家庭に戻れると思っていたのでしょう? だからこそこうなる可能性を知っていながらも私に頼み込んだ。そうすれば何もかもが元に戻ると思ったのでしょう?」
私は、一呼吸入れた後、力強く言った。
「その為に貴方は、彼女を騙し続けていたんだ」
崩れ落ちた夫人を見て、夫は立ち上がると、覚束無い足取りで彼女の下へと向かい、そっと背中に手をやった。私の一言で酔いも覚めてしまったのか、朱色に染まっていた顔がさあっと青くなっていく。
すっかり小さくなった彼の姿を憐れみとともに見つめる。
「娘さんに会わせて頂きます」
肩を落とし這い蹲る男の横を抜け、毅然とした態度のまま私はリビングを後にした。
廊下に出て二人の顔が見えなくなった途端、胃がぐるんとひっくり返った。私は口に反射的に口に手をやり、部屋の隅に急いで身体を屈めた。
蛙の潰れたみたいな呻き声を上げながら、私は抑えきれない感情を床に吐き散らし、そして溢れ出る涙を流した。ありとあらゆるものが咳を切ったように外へと出て行く。
目元が熱い。
喉が灼ける。
呼吸が上手く出来ず、肺が酸素を求めてのたうち回っている。
あの夫妻がこうなったのも、私が外れかけの、しかしどうにか動き続けていた歯車を嵌め直した結果だ。私という存在がいなければ、彼らは今ある幸福と虚実に身を浸し続けていた筈だ。
ひとしき吐き終えた後、私は口元を拭って、熱い息を吐き出して呼吸を整える。
懺悔の為に来たのではない。
ここで折れてはいけない。
・
洗面所で顔を荒い、口を濯いでから私は彼女の部屋の前に立つと、扉をゆっくりと開いていく。
目の前のノブを回すたったそれだけの行為なのに、私にはとても辛く感じた。あの頃から随分と歳を積み重ね、幾つもの重圧が掛かって、押しつぶされそうになりながら、それでも立ち続けることができたのは、此の先にいる彼女のお陰なのだから。
深呼吸を二度。
それが私の覚悟の合図だ。
ノブを握り締める右手に力を込めると、右足と共に力強く部屋に踏み込んだ。
部屋の中央にぽつんと置かれたベッドに女性が一人、上体を起こして窓に視線を向けている。その眼差しは、全てが暗闇に包まれていた頃の彼女からはとても想像し得ない程弱々しいものになっていた。
暫く呆然としていると、女性はこちらをちらりと横目に見て、それから小さくお辞儀をする。その一挙一動を見る度に、私は酷く感動し、そして同時に絶望を感じた。
嗚呼、私は彼女を本当に治療してしまったのだ、と……。
「失礼します」
「どうぞ」
不躾な態度のまま彼女は返事を口にした。その言葉に締め付けられるような感覚を覚えながら、しかし私は彼女のベッドまで歩み寄ると、傍に折畳み式の椅子が在ることを確認し、それを組み立て傍に置いて座った。
「窓の外には、何が見えますか?」
もう、確認する必要のない事だが、私は敢えて彼女にそう問いかけた。
「森が見えます。昔は無かった木が沢山……。前はここから村が見渡せて、畑を耕すご近所さんとか、おばさん達の世間話している姿とかが見えました。でも、全部見えなくなってしまっている。なんだか私だけが、取り残されてしまったみたい」
窓に視線を投げかけたまま、彼女はただ淡々と言葉を吐いていく。
「目が覚めた時、初めに見たのは天井でした。壁紙が貼り替えられていて、小さい頃に使っていた勉強机も、箪笥も、雑誌も本も無くなって、ベッドだけがここにありました。身体中が痺れていて、息を吸って吐くだけで電気が全身に走ったみたいにとても痛かった。光がすごく眩しくて、それまではっきりと出せていた筈の声も出にくくてしゃべるのも辛かったです」
「そのどれもが、君がちゃんとこちらに戻ってこれた証拠だ」
「でも、私には必要のないものだった。私はあのままで良かった」
私の言葉を遮るように彼女の言葉が鋭角に滑り込む。私は口を閉ざし、目の前の彼女をじっと見つめる。
「貴方はきっとあの時の私のお話を聞いて、いやその前の時点で知っていたのでしょう? 私の語る物語が全てでっち上げられたものであり、幻想に過ぎなかったということを。知った上で、私にあの歯も浮くような笑える悲劇を語らせたのでしょう?」
刃を剥き出しにする言葉とは裏腹に、彼女はとても穏やかに見えた。極めて冷徹な視線をこちらに投げかけている。だが、彼女も私も理解している。自分はもう破裂寸前だと、限界だと嘆いている彼女の裏の顔が、はっきりと私には見えた。
「……私は、君が何を救いにしてきたのかを知りたかった。だから、君の話を聞いたんだ」
「きっと、私が一体何に縋っているのか、貴方の望みどおりの回答ができたのでしょうね。だって私はそれを強く望んでいたし、そうなっているとばかり思っていたのだから。確認なんてしようがないわ。だって私はあの時目が見えない、感覚も麻痺している。人の声が聞こえて、言葉が何故か話せるだけのお人形だったんだもの。都合の良い服を着せられて、部屋に飾られていただけなのだから。この数十年間、私は夢と幻にあははうふふと声を上げて乙女ぶっていただけなのだから」
「君は、十分立派な女性だ」
「なら何故、私に手足があるのよ!」
穏やかだった彼女の顔が、大きく歪んだ。そして両手で蒲団を思い切り鷲掴みにするとベッドの脇に退け、目から溢れ出る涙を手で拭いながらその白く細い両足を手繰り寄せて抱きしめた。
「お腹には傷が二つだけ、両手足には縫合痕も……胸元に傷さえ無い。私の中でね、アレが強く脈打ってる音が聞こえてくる。どくん、どくんって」
彼女は目を固く閉じ、首を強く振った。
「こんな残酷なことって、無いわ」
椅子から立ち上がり、ベッドに蹲る彼女を見つめる。
目元が熱くなる。呼吸が苦しくなる。
彼女は私の手に依って五感を取り戻すことが出来た。
よく見ると脹脛に分厚いガーゼが一つ、太腿に包帯が巻かれている。成程彼女の部屋にベッド以外のものが無いのはそういうことなのだろう。まだ何か物を使わなければ自分を傷つけることができないのだろう。
「あの子から受けた感謝の言葉も、手を失った奥さんも、足を失った娘さんも、心臓病を抱えた少女も。皆本当は何も傷んでいなかった。知ってるかしら? この村ね、私がここに留まり続けるならという理由で、父と母に援助していたそうよ。そうね……もしかしたら私は気づかない内にこの村で子供を生んでいたかもしれない。だって意識と身体が分断されていただけなんだもの。そうでしょう、お医者様」
「それは……」
「無いとは言い切れないわよね。だってこれだけ大掛かりなことをして私達家族をここに閉じ込めていたのよ?」
彼女は大きく咳き込むと、ぜえぜえと息を絶え絶えにしながら身体を屈めた。体力の戻っていない彼女にとって相当な負担だったのだろう。
私は立ち上がると、荒い息を吐き出し俯く彼女の背中に、そっと手を添える。それは果たして謝罪のつもりなのか、慰めのつもりなのか、背に触れた私自身、うまく理解ができずに居た。
ただ、こうしてやりたいと、そう思ったのだ。
「ねえお医者さん、なんで私、こんな仕打ちに遭っているの?」
私は答えない。
「私は誰かの役に立ちたいって、思っていただけなのよ?」
私は答えない。
「こんな望みもしない奇跡、起きて欲しくなんてなかった」
泣きじゃくる彼女を眺め、それから私はぐっと奥歯を噛み締める。
そこでやっと、口を開いた。
「君のこれは、奇跡なんかじゃない」
その瞬間、時が止まった。
私も、彼女も、窓の外の風に揺れる葉も、全てがぴたりと静寂に飲み込まれ、時間が消え去り、全てが息衝くのを辞めた。
一瞬の後、部屋に無音が注がれる。彼女はゆっくりと顔を上げ、涙で赤く腫れ、血走った目を私に向けた。彼女の潤んだ瞳の中で、私はぐらりと揺れている。
「都合の良い出来事を奇跡と呼ぶなら、都合の悪い出来事は、不条理でしかない。私やご両親にとって奇跡だったとしても、君にとってこれは不条理だ」
「不条理……?」
戸惑う彼女に構わず、私は続ける。
「だから、呪えばいい。恨めばいい。自分の幸福を願い続け、誰かを踏み台にすることを厭わなかった私達に悪意を込めればいい。君にはその権利がある」
私は、悪でいい。恨まれても構わない。君が、こうやって様々な表情を見せてくれるのならば。
「私は、君を使うことで、奇跡を奇跡じゃなくしたかった。君の出会った病は、もう不治ではない。奇跡的に治療できたわけでもない。私が明確な突破口を見つけ、結果を出した。今君の病は、そうだな、風邪と同様だ。こじらせる程度のレベルになった」
呆けている彼女に、私は優しく微笑みかけた。
「これは私が望んだ幸福だ。奇跡を奇跡でなくすること。君が自己犠牲に依る救いを幸福としているように、私にも私の望みがあった。言っただろう? 僕は君の心を奪ってでも、救いたい人がいると。感情を取り戻したい人がいるって……」
――ああ。
それはただの吐息だったのか、はたまた納得から漏れた言葉だったのか。彼女は頭をぐしぐしと掻き回すと、ベッドに倒れ込み四肢を放り出す。
やがて、嗚咽と共に彼女の目元に涙が溜まった。
「なにそれ、自分勝手にも程がある」
「そう、自分勝手なんだ。不条理だよ。だから恨めばいい。憎めばいい。私は、その為に、ここに来たんだ。君を背負うために、君に顔を覚えてもらって、憎み続けてもらうために……」
呆れた。と彼女は湿った声で言うと、やがて私の下に擦り寄って、再び大きな声を上げて泣き出した。
シャツを掴む彼女の白く細い手はしかし力強く、暖かくて、涙は灼けるように熱い。もしかしたら、本当に私は灼かれているのかもしれない。
激しい痛みを胸の奥に感じながら、しかし私は安堵していた。
私は今、幸福だ。
私の願いは、こうして実現したのだから。