Neetel Inside 文芸新都
表紙

どどめ色の露
猫ラーメン

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 小学校高学年。当時、物心が付いて初めての最高学年に浮かれていた私は、とある噂を検証することに躊躇しなかった。
 クラス中、いや、もしかすると学校中がこの噂に夢中だった。何せ、ペット人気の上位を争う猫が殺されるどころか、ラーメンの材料として食されているというのだから、みんなは恐れや憤りなどを感ぜずにはいられず、その捌け口を求めるように事あるごとに話題の種として取り上げたのだ。しかし今思い出してみると、各地でこの手の噂はあるようで、なぜみんながあれほど熱心になっていたのか疑問でもある。怪しいラーメン屋だの、食べたことのない味のラーメンだのには、この手の噂がつく。それに、猫を惨殺して楽しむような小心者よりは、ちゃんと食べている分、筋が通った行為のようにも思うし、なにより猫は保健所や道ばたでの事故、三味線の材料としても、日々殺されているのである。猫を食べる位なんだというのか。
 しかしその様に勝手な考察をする一方で、古い落語なんかには、猫は祟る、という噺がゴマンとある。更にその逆として、猫塚という噺では、猫が殺された主人の仇をとるともいい、幾らか神秘性を以て語られる対象なのも確かで、そういう意味では、猫を殺すだの食うだのというのは罰当たりという考え方もできるのかもしれない。
 子供の頃の噂によれば、三丁目にある小ぢんまりとした店の出汁に猫が紛れ込んでいるのだとか。私は、確か両親ともが仕事で不在だった日曜の昼にそのラーメン屋に向かったのだった。
 日曜の昼、小学生が一人でラーメンを食べに来てよく何も詰問されなかったものだと思う。中はカウンター席のみで、正午だというのに私の他には一人のサラリーマンらしい男性が麺を啜っているばかりだった。私は、そこまでは躊躇せずに向かったものの、些か緊張しながら醤油ラーメンを頼んだ。そこの店主らしいおじさんは、熱いから気を付けなと、手短に言うと、私の目の前にたっぷりのスープで満たされたどんぶりを置いた。ぶっきら棒だが、悪い人では無さそうだと感じた。
 結局そのラーメンはそれまでに食べたことのあるものと、大した差はなく、きっとあの噂は根も葉もないものだろうと結論付けた。
 ところで、根も葉もない噂というのは、根が原因で、葉が結果を例えているのだろうか。もしそうだとするならば、噂に葉はあった、ということになる。私は夜遅くに帰ってきた父にその噂話をすると、笑いながら教えてくれた。
「ああ、最近猫が殺される事件が多発しているらしい。少し前に、ずっと遠いところでだけど、そこからエスカレートして人殺しに発展した事件もあったから、みんな疑心暗鬼になっているんだよ。悪のりして、そんな噂で人が怖がるのを楽しんでいるような奴もいるから、騙されちゃ駄目だよ。それと猫殺しの事は、父さんも心配だから、もし怪しい人がいたらすぐ走って逃げるんだよ」
 つまり、猫の惨殺という結果があったために、その原因が何かということで噂になったのだ。だが、これを知れば直ぐにわかる。惨殺と言うことは遺骸は出てきているのだ。食われたなら、原形を留めた状態で発見されるとは考えにくい。やはり、猫ラーメンなど嘘だったのだ。
 こういうことを知ると、人に話したくなるのが悪い癖で、私はすっかり得意になってクラスの友人に話した。ところがこれの評判が頗る悪く、噂の根深さを思い知らされる事となった。それに、その時知ったのだが、飼い猫を殺された女の子も居たらしく、その子を泣かせてしまうという、何とも苦々しい結果になってしまった。
 今でも忘れたいが忘れ難い思い出だ。しかし、私という犠牲のおかげというと図々しいものの、その件がおおよその境目となり、猫ラーメンが噂に上がることは一気に減った。父の話によれば、猫の惨殺もそれから暫くしてぱったりと途絶えたのだそうだ。

 社会人として自立した今も、猫ラーメンの噂のある店に出くわすことが間々ある。私はあの時がっかりした記憶がこびり付いていて、そういう店に特別立ち寄るようなことはしていなかったが、偶然残業の後に今時珍しい屋台のラーメン屋が出ているのを見つけ、腹が減って仕方がなかった私はすぐさま足を向けた。そしてひんやりとした席に尻を落ちつけた時に、ふと思い出したのだ。これは例の噂のある店だ、と。同僚が昼食時に言っていたのを思い出した。私が、冗談混じりに猫ラーメンと餃子というと、店主は慣れているのか怒りもせずにからかわれちゃ困りますよ、醤油でいいですね、と返してきた。私は笑いながら、大盛りにしてくれと注文し直した。
 ラーメンを待つ間、隣で瓶ビールを操っていた部屋着らしい服に身を包んでいた髪の薄いおじさんが話しかけてきた。
「兄ちゃん、猫ラーメンの噂を聞いてきたのかい」
 私は、立ち寄ったのは偶然で、ちょっと思い出したから言ってみただけだと弁解した。おじさんは上機嫌にそうかというと、ここのラーメンは絶品だからと、講釈を垂れ始めた。私は気持ち半分に聞いていたのだが、いつの間にか彼の一人息子の話にすり変わっていて、自分が居眠りでもしていたのかと焦ったものだが、酔っぱらいの話などそういうものだろうと、適当に相槌を打っていた。
 ラーメンは比較的うまい方で、私はさっきの講釈の通りうまい、とおじさんの味覚に共感を示したのだが、もうすっかり三十路を超えた無職の息子の話に夢中になっていて、私の話など耳に入らない様子だった。さっきから彼は、空の瓶を片手に喋りっ放しだった。店主もこんな客に居座られたのでは回転率が下がって大変だろうと思ったのだが、今度は店主の方がおじさんの話に共感してしまっていて、うんうんと唸りながら聞き入っていた。それから、死んだ美人の奥さんの話と二転三転しつつ、男親だと手料理を食わせてやれなくて申し訳ないというような事も言っていた。今時男だから料理が出来ないと言うのは、言い訳にすらならないと思ったが、人間には得手不得手が有るし、それなりに苦労した結果だと思うと、そんな事を言う気になれなかった。
 初老の苦悩する父親たちの話を聞かされ、げんなりして自宅へ戻ることになった。いつか自分も、そんなことに心をすり減らす日が来るのだろうか、などと思いながら。
 それから、私はそのラーメン屋を見るとつい足が向くようになった。もう半分、という落語で語られた居酒屋の前を通るとつい飲みたくなるという気持ちが分かるような気がした。仕事の終わりのけじめみたいなものの様にさえ感じた。例の部屋着のおじさんは重度の常連らしく、私が行く時には必ず居た。そしてラーメンのうまさを存分に語った後に、息子の話をする。最初のうちこそげんなりして聞いていたが、だんだん他人事とは思えなくなり、自分が親孝行できているか、子供が出来たらどういう風に育てればいいのか、なんてことを話し合うようになっていた。

     



 私は大学は別の県に行っていたのだが、就職にあたり地元に戻ることになった。収入があるし、両親と子供の頃の様にマンションに一緒に住むとなると手狭なので、適当なアパートを借りて一人暮らしをしていた。
 ある日の朝、道端で猫が死んでいるのを見かけた。それも普通の状態とは言えない。右の前後の足が欠損していた。車に撥ねられた後にカラスにでも啄ばまれたのだろうか。私は、子供の頃の猫惨殺事件を思い出し、嫌な感じがしつつも、遅刻寸前だったのでそのまま会社へと急いだ。
 その週末、久しぶりに実家へ戻り、父と酒を交わしながら、猫の遺骸を見たことを話した。父は地方公務員で、地元のその手の噺は嫌でも舞い込んでくる。すると、もう十年も音沙汰が無かった猫惨殺事件が再び起こっているという。詳しいことは聞けなかったが、手口が似ているので、同一犯の可能性も高いらしい。私は、いくらか恐ろしい様な気がしたが、酒が回っていたせいもあってかそのままソファで一夜を過ごした。
 数日が経って、夜中に自宅の窓の外から猫の鳴き声が聞こえてくるのに気付いた。今までの経緯もあって、ほのぼのとした感想を持てずにいたが、突如喧嘩でもする様なぎゃあぎゃあという鳴き声に変わり、数分も続いただろうか、ぱったりと止んでしまった。私は恐ろしくなり、夜も更けていたので、風呂にも入らずに布団に潜り込んだ。さっきの騒がしい声が嘘の様に、しんと静まり返って、生き物は何も無くなってしまったかの様だった。その日に限って、何時も五月蠅い隣が静かなのは、意図的に嫌がらせでもしているのではないかと邪推してしまう。
 次の朝、どうしても気になって早くに起きてしまい、やっと空が白んだころ、東雲を背に辺りに何かしら残ってはいまいかと探してみたが、何も見つけることはできなかった。心中に蟠りが残るのを感じつつも、唯の猫の縄張り争いだったのだろうと自分に言い聞かせて出勤の準備を始めた。以前見た猫の遺骸は、近所の人が片付けたのか、発見した夜には無くなっていた。
 仕事中も、猫のことが頭から離れなくなっていた。その理由が理由なだけに、同僚の女子社員が飼い猫の画像を見せびらかしに来た時も、苦笑いしか返せなかった。猫の話ばかりするので、彼女の顔が猫に見えて来たほどだ。私が具合悪そうにしていると、上目遣いで心配してくるので、危うく惚れるところだった。彼女は、短く切った真っ黒な前髪の所為で、実際より若く、と言うよりは幼く見えた。本人はそれを気にしているようだったが、髪を伸ばしたり、明るい色にするのは好まないらしい。
 昼食時に独りで外出すると、懐かしい顔を見つけた。小学校の頃泣かせてしまった女性だ。私は最早気まずいとも思わずに、気軽に声をかけた。彼女は現在、県外の男性と結婚し、専業主婦に落ち付いているという話だった。その時は年末と言う事で夫を置いて里帰りをしていたらしい。何となく一緒にファミレスで昼食をとる事に為り、向かいの席に座った。彼女は浮気みたいでドキドキする等と言っていたが、そんなに独占欲の強い男性と結婚したのだろうか。私は罪悪感なんかさらさら感じていない小学校の時の件を、序でに謝った。彼女はそんな事もあったわね、と懐かしげにため息をつく。
「ねえ、知ってた? 私あの時、その後中学でクラスが離れてからも暫く、あなたに気が有ったって」
 私は知らなかったと答えた。驚いた様に聞こえる様に務めたが、相手にはどう映っただろうか。彼女はなおも続ける。
「今、いい人はいるの? もしよかったら相手してあげようか」
 二人が頼んだ物が同時に来て、それぞれつつきながら話を続けた。
 私はだんだんとこの女の本性を思い出して来ていた。こうやって刺激の強い言葉を使って相手をからかいつつ、自分への興味を引き出そうと言う、所謂かまってちゃんなのだ。私も嘘はそこそこに付くが、彼女の言葉はどれ一つとして信用に値しない。泣かせてしまった当時こそ罪悪感を感じていたが、中学に上がり、クラスが変わり、一歩引いた目線で彼女を見られるようになってから、あの件も若しかしたら演技で、一杯食わされたのかもしれないと、疑っていた。私は反撃とばかりに、最近も猫の惨殺が増えてきている様だと言った。彼女はよしてと言うが、私は構わず執拗に続けた。彼女は、魔性の目の上にある眉根を寄せる。やはり彼女は美人だ。
「あなた、小学校の時から何も変わらないのね」
 彼女は機嫌を悪くして、料理を少しばかり残したままさっさと帰って行った。あのままからかわれる事を考えると、女性のランチ代くらい安いものだ。私は残りの食事を終えると、会計を済ませた。彼女は当時はもっと子供らしい方法で、人の注意を無暗に引こうとする娘だった。変わっていないのは彼女の方だ。彼女のペットは確かに殺されたらしい。親と教師のやり取りを誰かが聞いていた。しかし、その遺骸はどういう状態だっただろう。私は其れまで、人前で泣いたことだけが目立つ為の手段だったと思っていたが、もしかしたら彼女はペットを自分で――
 いや、唯の推測でこれ以上考えるのは止そう。最近は下らない事を余計に考え込む癖が酷くなってきている。

     



 この一週間ほど、例のラーメン屋に行き合わなかったのでご無沙汰の様な気がしていたが、どうやら何時の間にか私も重度の常連に為りつつあるなと考え直した矢先に、見慣れた屋台に出くわした。どうやら席も空いているようなので、店主に挨拶をしながら味噌ラーメンを注文した。味噌にバターと玉蜀黍を載せた奴が好きなのだが、そのトッピングはないというので、チャーシュウを多めにしてもらった。
 ラーメンを啜っていると、猫の鳴き声がしたので変な叫び声を出してしまったが、他の客達は此方を見もしなかったので、ほっとしつつも少し寂しかった。猫は何かねだっている様だった。かと言って、ラーメンに載っているチャーシュウは塩分が強すぎるのではないだろうか。店主に猫にやるのに何か良い物は無いかと聞くと、チャーシュウを白湯に晒して気休め程度に塩分を抜いた物を出してくれた。まあ一枚くらいなら良いだろう。私は猫の頭を撫でると、目の前に一枚の肉をちらつかせた。猫は途端に目を輝かせて、飛びかかる。私は寸での所でそれを避けて、再び肉をひらひらと揺らめかせる。猫はさっきより慎重に狙いを定めて飛びかかる。今度は避けずに猫に食いつかせると、猫は餌を盗られない様にする為か子供でも居るのか、肉を咥えたまま暗闇の中へ消えて行ってしまった。
 ふと、薄毛頭のおじさんが居ないのに気付いた。何時もより早く退勤してきたので、まだ来ていないだけかと思ったのだが、店主がためらいがちにあの人ここの所来てないんですよ、と言った。隣の、早くも一杯引っかけて来たらしい若いスーツ姿の男たちは此方に気付かずに盛り上がっている。この所、と言っても、一週間前には会っている訳だから、いくら毎日の様に来ている人とはいえ、そういう偶然もあるだろう。店主はそうですがね、と言うと酷く心配そうな表情を浮かべた。いくら常連と言っても、店と客の関係である以上、食いにくるかどうかは客の自由だ。しかし、そんな関係でも友人に近しいほどに深く分かり合えることもあるのかもしれない。名前すら知らなくても、いろんな話で盛り上がった相手と言うのは、貴重だ。しかし、店主の表情にはそれ以上の意味が含まれているような気がした。若者たちが席を立ち、会計を済ませて去っていく。私はどうにも気になったので、ビールを頼んで、もう少し居座ることにした。もう客は私しかいない。
「いえね、あの人は掛け値なしに毎日うちに食いに来てくれていたんです。しかし、五日前だったかどうもいつもと様子が違う。既に泥酔した様子でやってきて、冷やを出せと言うもんだから、あんまり飲み過ぎると体に毒だと嗜めたんです。だが俺は客だぞと、普段言わないような言葉遣いで、あんまりにも凄い剣幕なので、私は言われたままにしました。あの人はそれをぐいと一口でやっちまうと、また例のろくでなしの一人息子の話を始めました。あの人は、やっちまうだのやられるだのという言葉を殺しの様な意味合いを込めて言っているようでした。しかし、話の要点はつかめないくらいめちゃくちゃで、それ以上のことはわかりませんでした。なんだか物騒なことじゃないですか」
 店主はそういうと、もう客も来ないと思ったのか、ビールを一杯口にした。偶に、酒を飲んで車中で一夜を明かしてから、朝方に帰るという様なこともあるらしい。寒い夜が続いているから、凍死でもしないかと不安になったが、車に布団を載せているという。私は話に聞き入っていて飲み損ねたビールをラップと輪ゴムで栓をしてもらうと、なんだか私も妙にざわつくから家まで送ると申し出た。店主は遠慮したものの考え直し、よろしくお願いしますと深々と頭を下げた。屋台を解体して軽トラックの荷台に載せて、店主を家まで送り届けた。
 店主の家は一階が昼間用の店舗、その二階に住居スペースと言う私のアパートと比べても遜色の無い質素な物だった。あのおじさんと盛り上がっていた一人息子は自立心の強い人物らしく、大学も就職も自分で何とかしたのだそうだ。私は外でタクシーを待つつもりで上には上がらないでいたが、先に上がった店主に唆されたのか、店主の奥さんらしき人が降りてきて、お寒いでしょうから、中でお待ちになってください、と恭しく述べた。
 タクシーが来るまで一杯やりましょうと、ほんの少しの時間だが酒を飲んで過ごした。一緒に飲むのは其れが初めてだったが、店主はそれほど酒が強い方じゃないらしく、直ぐに顔を真っ赤にしていた。それに、屋台ではおじさんの愚痴に共感しているように頷いていたのだが、県外でしっかりやっている独り息子が余程の自慢らしく、大したことはしてやれなかったのに、あいつは大した奴だと何度も言っていた。奥さんは恐縮そうにしていたものの、彼女自身にとっても自慢の息子だろうから、終始ニコニコとしていた。私はそれ程長い時間でも無かったし、適当に相槌を打って過ごした。タクシー代は店主が多めに握らせてくれたのだが、却って悪い気がしてしまった。自分の申し出なのに、店主に金を出させるというのは筋が通らない気がしたのだが、店主はここまでしてもらってなにもしないんじゃ、男が廃るというので押し切られてしまった。
 また数日が経ち、あまりにも頻発する猫の惨殺事件が新聞の片隅に掲載されるようになった。多くの市民が不安を募らせていると締められたその記事には、猫が少なくとも十匹も殺されていると書かれていた。前足だけが転がっていたようなこともあったらしい。犯人が増長しないことを祈るばかりだった。
 その晩、日付が変わってから何か暖かい物を夜食として食いたくなったので、コンビニに向かった。太るとわかりつつも、偶の贅沢として月に一度くらいやってしまう。白い息を吐きながら背を丸めて歩いていると、物陰の闇から誰かが動いているような衣擦れの音がした。きっとろくでもないことをしているんだろうと思って、近付いてみると、私の足音に気付いたのか、そいつは逃げ出した。私は事態が飲み込めないでいたので、逃げた奴のことはうっちゃって、奴がいた所に持参のペンライトを当ててみた。そこには猫よりも大きいものの変わり果てた姿があった。
 ほんの二十分程度のつもりが、妙な事に巻き込まれてしまった。救急車と警察が到着し、事情を聞いた警察は私が所謂口封じの為に狙われる可能性を示唆した。しかし、封じる口も悴んで、喋る内容も無い私を、どうして狙う必要があるのかと思ったが、結局それを犯人が知らなければ意味が無いのだと気付いた。襲われた人は助からなかったらしい。切り傷や刺し傷が多く、恨みによる凶行だということが予想された。だが、それ以上の、つまり、猫達に施された様な狂気の痕は無かった為、猫惨殺とは別件とされた。ついそればかり気にし過ぎていて、その上こんな事件だから連想してしまったのだが、ほっとした様な気もしたが、つまりは生物を殺害するような精神状態の人間がこの界隈に二人も居るということになるのだから、むしろ不安は募ってしかるべきだった。

     



 その日は、午前中だけ休みを貰って睡眠を摂ってから出社し、退勤後に再び警察に出頭して、事情聴取をされた。
 気が病んでしまっていたが、両親の元に逃げ込むのも何だか情けない様な気がして結局自宅でその夜も過ごすことにした。何時もよりも厳重に戸締りをして、早めに就寝した。だが、布団の中でも目は冴えたままで時計の針の動く音が、ゆっくりと聞こえた。何時頃かは分からないが、深夜に猫が一声鳴いた。縄張り争いをするでもなく、発情するでもなく、何かを語りかけるような泣き声だった。
 私の部屋は二階にあったが、突然窓ががたがたと震え始めた。地震ではない。誰かが、或いは何かが意図的に窓を揺らせているのだ。開けようとしているのだろうか。かたく握りしめた拳が汗ばむ。カーテン越しでは、私からも向こうからも、お互いの様子は分からない。鍵はしっかり閉まっていたから、窓が開く筈もなかったが、今度はどんどんと叩くような音に変わった。大きな音だから、近所の人も起き出してきて、警察に連絡してくれるかもしれない。ふと、贔屓にしている週刊少年漫画雑誌を買い忘れていた事に気付いた。
 そもそも、窓を鳴らしているのは誰なのか。仮に例の犯人だとしたら、昨日の今日で私の家を突き止め、二階に攀じ登り、この愚行を冒していると言うのだろうか。それともあの事件とは無関係の強盗だろうか。しかしそれにしては此処まで登りながらも、窓をこじ開ける手段を持っていないと言うのも間抜けな話だ。私は、子供の頃の好奇心がむらむらと湧き上がり、カーテンの隙間から向こう側を覗いてみる事にした。音を立てない様にゆっくりと布団を抜け出し、刺す様な冷たい空気を肌に感じながら窓に近付いた。その途端、先刻まで五月蠅かった音は止み、辺りはしじまが支配した。
 其の儘カーテンを開けてみても良かったのだが、虚をつかれた所為で好奇心が萎えてしまったので、私は布団に戻った。其れを皮切りに強烈な尿意に襲われたが、もう二度と布団から出るものか、という気分だった。
 翌朝、ベランダを見てみると桑の実の色をした猫のものと思われる足跡が無数に付いていて、もしや猫の悪戯だったのかと推測してみたが、窓の唸りはどうも猫のものとは思われない激しさだったように感ぜられて、釈然としないまま其の日も出勤時間を迎えた。
 その朝の新聞には、まだ調べが付いていないのか採り上げるまでも無いと判断されたのか、男性が殺された事実が簡潔にまとめられているだけだった。その男性が何処の誰か、年齢すらも示されていなかった。
 その日は流石に実家に泊まる事にして、両親にはベランダが猫に汚されたということだけ伝えた。それと、猫ラーメンの噂を久しぶりに話してみると、お前は小学生の頃から変わっていないな、と笑いながらも、最近入って来たという話を聞かせてくれた。昔は野良猫があちこちに居たから其れでロハで肉が手に入ると思った奴らが、材料費をけちって猫を使ってるんじゃないかとか勝手に噂したんだろう、実際に猫の出汁を試しているのを見た様な稀有な例もあるかもしれないけれどな、等と笑いながら言っていた。猫ラーメンの噂は根も葉もない事が少なくない様だ。何処かで聞きかじって来た話を、街の寂れた店に当て嵌めたり悪戯半分か、商売敵を貶める為か、周囲の人間に言いふらすと言う事もあるかもしれない。兎に角継続的に、あの小動物を利用した料理を出すことは難しいらしい。確かに、今どきスーパーに行けば格安でとんこつだのげんこつだの売っている訳だから、自分で猫を捌くなんて馬鹿げている。
 それから、結婚の話に為りうざったく思いながらも、やはり両親としては心配ごとの一つなのだろうとラーメン屋での話から思い直し、身を固める事も前向きに検討して行くと言った。何も言わなかったらそのまま見合い写真でも出して来そうな勢いだったと言うのも理由の一つだし、口では言ったものの、女性に当ては無い。
 新聞によると、殺された男性は三十代無職の男性で、被害者の自宅からは被害者の父親がバラバラの状態でスーパーの袋やゴミ袋に分けられているのが見つかった。その上被害者の部屋から、大量の猫の毛、二匹の猫の遺骸、血塗れの刃物が数本見つかり、例の猫惨殺の犯人は今回の被害者で、推測では被害者自身が父親を手に掛けたのではないかと言われている。猫のバラバラ死体はそれ以来見られなくなった。男性を殺した犯人は未だ見つかっていない。
 ラーメン屋の店主と例の事件について話そうとしたが、店主もそうだったのかもしれないが、どう切り出せば良いのか分からず、その日は醤油ラーメンだけ啜って帰った。
 それから何度かそのラーメン屋に行ったものの、薄毛頭の、一人息子の心配と、死んだ奥さんの自慢話をする初老の男性が、屋台に顔を出すことはなかった。

       

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Neetsha