Neetel Inside ニートノベル
表紙

後藤、家燃えたってよ
第四部 『決戦だってよ』

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 翌朝。
 疲労困憊した俺たちはそのまま廃工場で一夜を過ごしたのだった。
 夏の朝は早い。チュンチュン囀る小鳥の声を聞きながら、俺は目を覚ました。
「あーっ……だりぃ」
 正直何もしたくない。が、恐らく冷蔵庫の中には相変わらず天ヶ峰が入っているのであろう。このままヤツを廃品回収車に冷蔵庫ごとブチこんでもいいのだが、そんなことすればクロユリ団地より恐ろしい事態が起こるのは目に見えている。やつが炎ごときで死ぬわけがない。
「めんどくせえ……開けたら全快とかしててくれねーかなー」
 我ながらいたいけな幼女を一晩4℃以下の暗闇に幽閉した男のセリフとは思えんな。わっはっは。4℃以下の密室といえば普通の女の子なら鼻水垂らしながら恐怖でぶるっぶる震えて涙を流しているところである。うっはー見てみてぇー!
 俺はちょっとワクワクしながら冷蔵庫を開けてみた。がちゃり。
 ん、
 いない。
 一端閉めて「と見せかけて」などと呪文をかけてから開けてみたりしたが、やはり冷蔵庫はカラのまま。
「いねえ……トイレか?」
 事務所から一階の倉庫へと降りると、早乙女が相変わらず気絶していた。いつまで寝てんだよ。
「うぃーっす」
「おう」と鉄骨に座っていた沢村が片手を挙げる。天ヶ峰はいないが、俺はそれよりも気になることがあった。
「あれ、紫電ちゃんは?」
「それがな……」と沢村は腫れた顔を摩りながら語り始めた。
 なんでも、昨夜遅くに黒服の男たちがドカドカと現れ、下着一丁で失神していた紫電ちゃんを見ると問答無用で沢村をぶん殴り、「今後お嬢様に近づいたら指一本貰い受ける」と言い残して去っていったそうだ。豪族の娘って怖いね。
 しくしくと痛み続けるらしい顔を撫でている沢村の肩を俺は叩いて慰めてやった。
「よかったな、お前はもうこの町の北方面を歩くことはできないぞ」
「ふざけんなよ!! なんで追い込みかけてんだよ……クソ……なんて俺は不幸なんだ……」
 はいはい不幸不幸。死にゃしねーよそれぐらいで。南にいければTUTAYAもあるし満足しろよ。旧作100円だぞ?
「沢村、俺はお前の行動範囲が広がろうが狭まろうがどうでもいいんだ。天ヶ峰知らねえ?」
「なんだか無性にお前を殴りたくて仕方ないんだが……まァいいや、天ヶ峰ならさっき表に出てったぞ。すげぇフラフラしてたけど」
「サンキュー」
 開けっ放しになっている門から出て、土が剥き出しの敷地内に出てみると、天ヶ峰が隅っこの方で蹲っていた。
「うげぇ……」
 頑張っていらっしゃるようだ。
 俺は近寄っていって天ヶ峰の背中を擦ってやった。
「おまえマジで風邪なんだな」
「うう……治らない……」
「安心しろ。点滴打ってもらえばインフルエンザでも一発だ」
 ソースは俺。
「ほんと……? ねぇ、後藤……」
「あんだ」
 天ヶ峰はヨダレを口から一筋垂らしながら、恨みつらみの溜まった京女みたいな顔で半分だけ振り返った。
「……あたしの腕……注射針刺さるかな……」
「…………」
 俺はなんだか、このアホが物凄く気の毒になってきてしまった。
 なんとなく、銘刀を鋳潰した特注の針とか使わないと駄目そうな気配がする。今も地面に雑な感じで膝着いてるけど、俺こいつが擦り傷とか作ったところって見たことねーもん。
「天ヶ峰……病は気からって言うだろ? 信じるものは救われるんだ」
「嘘だ! あたし風邪なんて引きたくなかった!!」
 お前の体の中のウイルスもまさかこんな烈しい抵抗力の宿主を得るとは思ってなかっただろうよ。逆に今でも天ヶ峰の中でなんとか生き延びようとしている風邪ウイルスのことを思うと、それだけで一冊ラノベが書けそうである。ミクロの決死圏(ガチ)じゃん。
 また発作に襲われて相当な変質者でない限りは歓迎しがたい物質を地面にぶちまけ始めた天ヶ峰をそれなりに捨て置き、俺は倉庫内の沢村の元へと戻った。沢村は近所のコンビニで買って来たラーメンを喰っている。
「おまえそれ、お湯どうしたんだよ?」
「コンビニのやつ使った」ずずずず。
「へぇー」
 俺は結構、親父がメシとか作るのが好きなので、外食はあんまりしなかったりする。まァチャーハンくらいなら自分で作ったりするし。コンビニってお湯貸してくれんのか。
「初めて知ったわ」
「お前常識なさすぎ」ずずずず。
「うるせえ!!」
 気にしてんだよ。やめろよ。何その目?
 こ、この野郎……俺が小学生時代、天ヶ峰の世話でどれほどの全うな子供としての時間を失ったと思ってやがる……!! ドラクエ7やる時間だってなかったんだぞ!! 今みたいにしょっちゅうあの馬鹿が戦争おっぱじめるから……!!
 勝手に戦ばっか起こしやがってさァ、っっっっとにあの馬鹿は戦国武将か何かの生まれ変わりに違いねーよ。いつか討滅してやる。
 だが、今のところは南小の奴らの方が気に喰わん。
「で、どうするよ」
 俺は沢村が買って来ていた焼きおにぎりを勝手にパクってモグつきながら、今後の方針について言及した。
「戦力としては、また二人に戻っちゃったわけだが」
「なんか最近、俺とお前のタッグ多くね?」
 最近っつっても昨日今日だけどな。俺は指についた米をぺろりと舐め取った。
「紫電ちゃんがいなくなったのが痛いな。俺らだけじゃ地柱病院の前に敷かれた南小の包囲網には、どう頑張っても突破口を見出せん」
「なんで俺たち、友達を病院に連れて行くだけでこんな苦労してるんだろうな……」
 沢村がションボリと肩を落とす。けっ、主人公気質が。落ち込んでりゃ勝手に突破口が見えてくるなら世話ねーぜ。悩む前に行動だよ行動。
「考えたんだが、天ヶ峰を生贄に捧げて病院へ入れさせてもらうのはどうだろう」
「お前それ家帰りたいだけじゃねーか!! いい加減に家帰るコースは諦めろよ!!」
「焼きおにぎり一個じゃ割りに合わねーんだよ天ヶ峰じゃ」
「つーか、そもそもそれ俺のだし……はあ」
 深々とため息をつく沢村。イラつくわァその態度。
「とにかくだな、仲間が必要だと思うんだよな」
「後藤にしては前向きな意見だな。でも、木村たちは全滅させられたんだろ?」
「残念ながらな」
 茂田にいたっては裏切りやがったし。
「ちっ。仕方ねー。おい沢村、なんか今持ってるか?」
「は?」
「ポケットの中を見せてみろ」
「あっ、なにすんだよやめっ、いやっ」
 色っぽい声をあげる沢村の短パンに俺は手を突っ込み、中身を根こそぎ穿り返した。
 ホントに大したもん入ってねえ。コンビニのレシートに、しまうのが面倒だった小銭、小さな財布、ビー玉、型落ちのトレカ、糸くず、輪ゴム、水切りによさそうな小石、ゲームボーイアドバンスのカセット。
「マジでゴミしか持ってねえな。まァいいや」
 俺は沢村のゴミを持って、倉庫の中に転がっていたクッキーの空き缶の中にそれをぶち込んだ。自分のポケットの中からも手当たり次第にゴミを入れ始める。
 タイムカプセルを作っているように見えたかもしれない。
「何やってんだよ……?」
 と、俺の肩越しに覗き込む沢村を無視して、俺はその缶を天ヶ峰の吐瀉物のそばに埋めた。盛り土に蹴りを一つくれてやって、沢村を振り返る。
「今、俺たちは死んだと思え」
「…………」
「思え」
「い、嫌だよ!?」沢村が叫んだ。
「おまっ、ふざけんなよ何勝手に俺の葬式を執り行なっちゃってんの!? 戦時中じゃねーんだぞ!!」
「それくらいの覚悟は必要だ」
「覚悟が重過ぎるだろ!!」
「うるせーなー。家帰らないんだったら死ぬしかねーじゃん」
「も、もっと前向きな考え方をしようぜ……?」
 沢村が生意気にも呆れ顔になった。まったく。
「背水の陣を敷くしかねーんだよ俺らは。おら、天ヶ峰いくぞ」
 俺はまだしゃがみ込んでいた天ヶ峰の腕を引っ張った。
「うぇっぷ……ぎもぢわるい」
「もうちょっとだ頑張れ」
 最悪、俺と沢村が八つ裂きになっている間に、具合が悪くても天ヶ峰が腕の一本でも振り回せばなんとか最終防衛線を突破できるだろう。
 それもこれも帰宅コースを認めてくれない沢村のせいである。
 やるんだったら徹底的に、やらないんだったらビタ一やってはいけない。
 それが勝負ってもんである。
 と、親父が昔、言っていた。
 気がする。
「くそがああああああああ!!」
 俺は青空に向かって吼えて、威勢よく表の通りに飛び出した。
「いくぞ沢村、腹ァくくれ!!」
「マ、マジかよ……」
 泣きが入った沢村だったが、結果的に見ればヤツがちょっとグダグダしていたおかげで俺らは助かったのである。
 援軍が来たからだ。
「後藤、助けに来たぞ!」
 それは、俺たちが待ち望んでいたセリフだった。思わず沢村を顔を見合わせ、パァッと俺たちの顔にショタ独特の穢れなき笑顔が咲いた。小五だからね。
「その声は……!!」
 俺たちが振り返ると、そこにいたのは――
「し、茂田……!!」
 ふふっ、と茂田はちょっとその頃伸ばし気味だった前髪をかきあげた。
「遅くなって済まなかったな。だが、この俺が来たからには、もう安心しぎゅぶっ」
 腕組みをして啖呵を切ろうとした茂田の喉に俺の右ストレートが炸裂した。茂田はもんどり打って倒れこみ盛大にゲホゲホせきこみ始めた。
「なっ、何しやがるこのクソ汚れ眼鏡が!!」
「うるせえ、どのツラ下げてきたんだテメェ!!」あと言い過ぎだぞ!!
「殴ることねーだろ!!」と茂田はご立腹のご様子。
 なーにが殴ることない、だ。殴ることあるに決まってんだろ。裏切り者め、世が世なら切腹なんだよ、テメェ。
 ……ったくよぉ。

     




「覚悟は出来ているんだろうな」
 病院へ続いていく坂道の途中にある小さな公園の桜の木に、俺と沢村は茂田を縛り上げていた。幼児がほったらかして帰ったと思しきなわとびが放置されていて手間がはぶけたぜ。
 囚われの身になった茂田はぺっぺと唾を吐き散らしまくりながら反抗的な態度を続けた。
「おいっ、せっかく助太刀してやろうって思ってきたのにこの仕打ちはなんだ!」
「助太刀など要らぬ」
「要るだろ!! 認めろよ彼我の戦力差を!!」
「討ち死にこそ男子の本懐」
「いのちだいじにっ!! いのちだいじにーっ!!」
 とうとう少し泣きが入った茂田を、渋々解放してやった。どさっと地面に崩れ落ち屈辱に震える茂田を見て沢村が気の毒そうにしている。
「後藤……」
「まァいいだろう、許してやるか。で、茂田、ノコノコやってきたからには何か秘策でもあるんだろーな」
「なかったらどうするんだ?」
「鉄砲玉にする」
「嫌だよそんな田舎から上京してきて結果的に極道へと進んだ好青年みたいな末路!!」
 てめー普段どんなドラマ見てたらそんなセリフが出てくるんだ。古いわ。
「俺は、俺はもっとラクに金を稼ぐ偉い人になりたい!!」
「そんなん誰でもそうだわ。で、どうなんだ」
「あることはある」
 じゃあゴネんなよ!! なんだったんだよいままでのやり取りは……
 俺と沢村は茂田の身体についた泥を払ってやりながら、先を促した。茂田は近くの水道で汚れた手を洗いながら、話し始めた。
「要は、天ヶ峰を病院に送り届けられればいいんだろ……?」

 ………………
 …………
 ……

 時計の長針が四分の一ほど回った頃、茂田の『秘策』は発表され終わった。
 俺と沢村は顔を見合わせる。
「いいな」
「よさそう」
「せやろ」と茂田。どや顔うぜぇ。
「ふっふっふ、後藤の性格からしてこれぐらいの妙案はもってこないと仲間に入れてくれないだろうからな」
「どんだけお前からは残忍な男に見えてるんだ俺は」
「まァ木に縛り付けたりしたしな」と沢村は呆れ顔。んだとコラ。
「いいじゃねーか! やってみたい歳頃なんだよ!!」
「なんで逆ギレ!? な、茂田、俺悪くないよな?」
「悪い」
「はあああああああああ!?」
 バカ村め、茂田が弱いほうにつくと思うてか。ヤツは好機と見れば大将も刺す男よ。
「なんなんだよ……この町の論理が俺にはよく分からん」
「お前が一番地元っ子じゃねーか」
 どうでもいいが、茂田は二歳の頃にこの町に引っ越してきたらしいので、元々はこの町の種ではない。そう思うと俺も横井も茂田も全員、余所からの引越し組だなァ。まァ、育ったのはほとんど地柱だけど。
 本当にどうでもいいな。
「よっしゃいこうぜ」俺は出しっぱなしになっていた水道の水を締めた。
「目指すは、地柱スーパーマーケッツ!!」
 ずびしっと俺は青空に向かって一筋の指先を振るった。キマった。
「スーパーそっちじゃねえぞ」と茂田。
「こっちだ」と沢村。
「こっちか……」
 俺は方向を改めた。
 ……あ、あ、あっちでもこっちでもどっちでもいいっつーの!!
 べ、別に恥ずかしかったわけじゃないんだからね。

 ○

 平日の午前中ということもあって、スーパーはまだ空いている。主婦どもは夏休み限定の昼ドラをゲラゲラ見るための準備段階としてお菓子でも齧っているのであろう。日本の未来は暗い。良妻賢母はどこいった。
 まァ、おかげでどっからどう見てもクソガキの俺らがろくすっぽ金も持たずに怪しまれずスーパーに入れるわけだが。小三の頃、店内を走り回ってたらどう見てもプロレスラーにしか見えないおばさんにアルゼンチンバックブリーカーされてから俺はちょっとスーパー恐怖症である。
「大丈夫か……?」
「しっ、落ち着けよYOU」
 俺はチャリ置き場の塀から自動ドアの向こうに広がる店内を見やり、間違っても兵糧を整えにやってきた南小の連中と出会いがしらにぶつかったりしないよう、細心の注意を払ってから、手を振った。
「GO」
「うぜぇ」
 ちょっとひどくない?
 そうして、忍者よろしく俺たちは店内へと突入した。一階の食品売り場は魚と氷のにおいが充満していた。くせぇ。
 中腰になり、ひとまずはにおいから脱出するたびにお菓子売り場へ。嗅ぎなれたチョコ系のにおいに包まれ、俺たちはヒロポンを打ったバイニンのように落ち着きを取り戻した。
「俺、将来絶対魚とかさばけないわ。お嫁さんにやってもらう」
 沢村が泣き言を吐いた。
「……嫁さんねぇ」
 俺らが小五の頃はまだお嫁さんが台所に立ってくれるという妄想が罷り通っていた時代である。今はもうなんか全体的にクソである。矢口真里はさすがに許されないと思うよ、俺がダンナだったらぜってぇ二度とチンコ起たなくなるくらい凹むわアレ。
「後藤、どうしたぼーっとして」
「いや、ウェハースが俺を誘惑するんだ」
「金ないんだから自制しろよ!!」と一番金を持っている沢村が小声で叫ぶ。まァお菓子買うってなったら確実にコイツの財布から金を出さないと窃盗になるからな、ヤツも必死だ。
「分かってらァ。最優先目標は別にある、任務第一で行動するさ」
 ちなみに天ヶ峰は女子トイレにぶちこんできた。いくら吐いても問題あるまい。
「いくぞ、皆の衆」
「お供が二人って水戸黄門かよ」
「イエローゲートの悪口はやめろぶっ殺すぞ」
 うちの親父が好きなんだよ。
 なんとかお菓子ゾーンの誘惑を振り切った俺たちは、レジカウンターのそばへと出た。ガムとかフリスクとか電池とか、毒にも薬にもならないものばかり売っているあのへんである。俺たちは積み上げられた米の脇に隠れた。
「いるか……?」
「いるな……」
 俺と茂田は顔を見合わせて沈黙した。沢村が「?」顔を寄せてくる。
「なんだよ、どうしたんだよ」
「オマエには言っていなかったが、俺は昔、このスーパーでふざけていたら買い物途中のおばさんにアルゼンチンバックブリーカーを喰らったことがある」
「いや、嘘はいいよ」
「あれを見てもそう言えるか?」
 俺が指差した先には、出口のそばに仁王立ちになった、軍神の像か何かと見紛うおばさんがいた。ネームプレートが蛍光灯のあかりを反射してキラリと光った。関谷さんという。
 沢村がぶるぶる震え始めた。
「お、おい俺たち、あんなおばさんからカート盗んだりできるのかよ……」
 そうなのである。
 茂田が俺たちに提案した作戦には、どうしてもスーパーのカートが三台は必要なのだ。だが、主に万引きGメンと無料試食のお姉さんを酔っ払いから守るために君臨している関谷さんの前でそんなことをすれば、今度はバックブリーカーでは済まないかもしれない。筋肉バスターで済めばいいが、最悪はサバ折りである。
「動物とかが車に轢かれて死んでると悲しいよな……」
「おいなぜ今その話をした茂田」
「だってよ……」
「くそっ、関谷さんの休憩時間さえ分かればあの関門を突破できるかもしれないのに……! なんであのおばさん主婦からパートにクラスチェンジしてんだよ! ふざけんな」
 俺に言われても、と沢村が身を引いた。
「それもこれも女が社会進出したりするからいけねーんだ。女は井戸端会議してろ!」
「天ヶ峰みたいな女とばったり出くわすかもしれない路地とか怖くて歩けねーけどな」
 その恐怖の象徴をトイレの便座から引っぺがすために頑張っているのだから、俺たちもなんというか因果な生き物である。
「……まァ、希望的観測を述べれば、出口からカート置き場は近い。ひったくってそのまま遮二無二抜ければ、何事もなく終わるかもしれん」
「失敗したらサバ折りだろ……」
「何か、何か抜け道はないのか……!!」
 俺は背骨を擦りながら考えた。
 ……。
 ん、あれは……
「よし、いけそうだ」
「閃いたのか雷電」
 イロイロ違うし上手くもねーぞ茂田。まァいい。
 俺は腹いっぱいに息を吸い込み、フロア中に響き渡る大声で叫んだ。



「ちっ、痴漢だああああああああああっ!!!!」



 ビクゥッ、とその場にいた全員が俺を見、そしてすぐに俺の指が示す先を見やった。そこには、結構かわいめの女子大生チックな試食のお姉さんからミートボールをいままさにもらおうとしていた中年の親父がいた。
 どこの親父かといえば、うちの親父である。
 あのオッサン、どうやら仕事途中にガスがなくなり、そばのガソスタに軽トラを停め、そのまま洗車にでも出して昼飯を買いにきたのであろう。よくある親父の平凡な一日だ。親父の不運だったことは、この優秀な息子が作戦行動中だったことである。つまようじをつまみかけたまま、自分を痴漢呼ばわりした息子に怪訝そうな目を向けていた親父は、すぐに迫り来る恐怖に気づいた。
 関谷さん、歩くと結構フロアが揺れる。
「うわあああああああああああ!!」
 絶叫して逃げ出した俺の親父を関谷さんがジェット戦闘機のような高機動で追っかけていく。あの人、いまドリフトしたよな。
「よし、これでカートは持ち出せるな」
「で、でもあのおじさんには何の罪もないのに……」
「言うな沢村……名も無き親父に、敬礼!」
 茂田がピシっと片手を額に差し当て、俺もそれに倣った。善は急げで女子トイレから天ヶ峰を引っ張り出した俺たちは、カート三台を押しに押してスーパーをあとにした。
 ……ノリでやっちゃったけど、これが現実だったのなら、親父、どうか逃げ延びてくれよ。いま親父がいなくなっても俺を養子に取ってくれそうな知り合いといえばあっちゃんママパパぐらいしかいない。
 も、もしそうなったら……天ヶ峰が俺の妹……?
「おええええええええええええ」
 どうしたっ、大丈夫か後藤っ、という二人の声にまともに返事もできず、俺は胃液の筋を背後に残しながら、とにもかくにも突っ走った。もう少しだ! もう少しで、すべてが終わるんだ!! うおおおおおおおおおおおお!!!!


     




 で、俺、茂田、沢村の三人は無事にスーパーマーケットからカートを三台強奪した。罪状は窃盗である。まァそれはいい。
 茂田のアホが「我に策あり、戦は勝てり」みたいな顔をしてえらっそーにしているもんだから、わざわざ俺たちは危ない橋を渡ったのである。天ヶ峰のボケを病院に叩っ込んでとっとと点滴を打つなりケツに座薬をぶち込むなりさせるために、茂田が何をしたか。
 まず、風邪を引いた天ヶ峰をズタ袋にぶち込んだ。
「…………」
「…………」
「…………」
 女子をズタ袋にぶち込んだ後、どんなことが起きるか。
 気まずくなる。
 俺と沢村は何度もお互いを肘で突きあった挙句、ようやく俺が口を開いた。
「茂田、これはなんだ」
「なにって、天ヶ峰だ」
 ズタ袋は時折もぞもぞ動いている。俺はそれを冷ややかに見下ろしていた。
「なぜ天ヶ峰をズタ袋に入れる必要がある?」
「察しの悪いヤツだな」茂田はやれやれと首を振り、
「こうするんだ」
 天ヶ峰の詰まったズタ袋を、パクってきたカートにドシンと乗せた。
 俺は猫をいじめている人を見たような気持ちになった。
「……それで?」
 茂田は、見ろ、と自分の方を顎でしゃくって、天ヶ峰の乗ったカートをぐるぐる公園の中で回したり、走らせたり、ドリフトさせたりした。沢村がハンカチで涙を拭った。
「……な?」
 茂田はいい汗をかいている。
 俺にはサッパリ何がなんだか分からん。
「茂田、お前はそんなに天ヶ峰から金を借りているのか?」
「借りてねーよ! コイツが金なんか貸すわけねーだろ!!」
 それを知っていてなお、お前の行動は挙動不審だよ。疲れてんの? ズタ袋がお前の高機動で動かなくなったぞ。
 俺は額に手を当てた。沢村が天ヶ峰をカートから降ろしている。
「……茂田よ、ひょっとしてお前、このカートに天ヶ峰をぶち込んで、それを三台の間で回しながら南小の奴らをかわし、病院というゴールにこのズタ袋の中身を叩っ込むつもりか?」
「ああ」
 俺は茂田を殴った。
「痛ぇ!! なにすんだ、後藤、血迷ったか!!」
「まずお前の頭の中の血の巡りが路頭に迷っているだろが。なんだソリャ! オマエな、カート間で天ヶ峰のパスなんかできるわけねーだろ」
 俺には見える。机上の空論と自分は特別なんだとこの期に及んで信じてしまう厨二魂が、天ヶ峰を大空に舞わせ、……そしてキャッチし損ない大惨事になる俺と天ヶ峰と巻き込まれたガヤの連中の姿が。人間をパスできるわけねーだろこのカスが。だからゲームは一日一時間までって約束したろ!! 箱庭ゲーばっかやってるからお前いつもスキップしたりジャンプしたりしてんだよ。取り戻せ、現実を。
 俺の目まぐるしいツッコミを聞き尽くして、茂田は腕を組み、毅然として言い放った。
「オマエの言い分は分かった、だが、それでもふざけるな後藤。俺の案の何が悪いんだ。ちょっと不可能ってだけじゃねーか!!」
「そ――れ――が『バカだ』っつってんだよ人の話を聞いてねーのかこの類人猿が!!」
「なんだと、お前みたいなヤツがネアンデルタール人を絶滅させたりするんだ!! このホモ・サピエンスの破壊神が!!」
「なんだとぅ」
「やんのかよぅ」
 俺たちはこのクソ暑い中、デコを突き合せて零距離でメンチを切り合った。
「おい茂田、てめーデコがぬるぬるしてんぞ。お前暑いとローションを分泌するのか」
「そういうお前はエロイことばっか考えてるからメガネが興奮して曇ってるぞ」
「メガネが興奮してるってなんだよ!! 生きてねーよコイツは!!」
「俺の裸ばっか想像しやがって。いやらしい」
 茂田は胸を隠した。
「……っ!! うげぇぇぇぇぇぇぇ」
 茂田のあまりの気持ち悪さに、俺はその場で嘔吐した。
 くそっ、貴重な体力が……。
 べちゃべちゃと胃液を吐き散らしながら、横目で見ると沢村がドン引きしていた。黙って見てねーでお前もなんか言えよ!! くそが、いつもなら横井が止めるところで横槍が入らないから俺と茂田はついヒートアップしてしまったのだ。
 冷静に考えれば俺が嘔吐したのは日向でメンチを切り合っていたのも悪かろう、ということに茂田が気づき、俺たちは日陰へ移動した。天ヶ峰のズタ袋はずるずる引きずって、砂にうねった航路を残した。運び終わった頃にはもう俺と茂田は何でいがみ合っていたのかよく思い出せなかった。なんだっけ。まァいいや。
「とにかく、天ヶ峰の話だ。茂田、オマエは何か鮮やかなカート捌きが自分には出来ると信じているのかもしれんが、俺たちはただ車輪に踊らされているだけだ。幼稚園の頃の思い出は捨てろ」
「……そうかもしれねえな」
「まァでも、カートに天ヶ峰を乗せるってのは良さそうだよな」と沢村。
「カートそのものをパスし合うとかならいいんじゃね? バスケみたいに」
 俺と茂田は「名案を思いついた」とばかりに顔を笑み崩している沢村を睨んだ。
 思いっきり、睨んだ。
「なんでオマエそれを早く言わねーの?」
「おかげで後藤は吐いちゃったじゃねーか」
 それは九割オマエのせいだけどな茂田。まァいいよ。俺の嘔吐のことは忘れようぜ。ホントなんで帽子かぶってねーんだ俺らは。バカなのか。
 とにかく、俺たちは天ヶ峰をカートに入れて、病院前の大通りまで移動することにした。ウダウダしてても始まらねーし。
 道ゆく人たちが可哀想なものを見る目で俺たちを見てくる。
「……ところでさ」と沢村が、しばらく経ってから言い出した。
「俺、ちょっと気づいちゃったんだけど」
「何がだ」
「言ってみろ」
「なんでお前らそんな偉そうなんだ。……まァいいや、あのさ、結局……、


 救急車を呼べばいいんじゃね??」


 俺と茂田は顔を見合わせ、
 盛大なため息をついた。
「分かってねーな沢村」
「え? え? なんで?」
「オマエそれでも男子かよ」
「なんで!? そこまで俺アレなこと言ったの!?」
 知るか。自分がアレかどうかは自分で決めろィ。
 俺はゴロゴロとカートを転がしながら、沢村に言った。
「いいか、まずな、通報するだろ」
「警察に?」
「救急にだよ!! なんで言いだしっぺが話を理解してねーんだ。バカか」
 沢村がしゅんとなった。俺は気にせず続けた。
「すると、病院から救急車が出てくるだろ。当然、俺らを迎えに来るわけだよな。敵が張ってるところから」
「うん。……うん?」
「そういうことだ。ローラースケートという会社の重役の子供か、お母さんが元ヤンか、いずれかの子供にしか手に入らない文明の利器を持った奴らは坂道でアホみたいな加速をつけて救急車を尾行し、そして通報した場所でのんびりぼさっと突っ立っている俺たちをボコし、ドブに沈めるかクール宅急便で田舎のばあちゃんちに送りつけるかした後に、さも自分たちが通報したかのように救急車に乗って絵日記のネタを一つ手に入れる。そういうことになる」
「ドブって……そんなひどいことされるの俺ら」
「モノのたとえだ。だが、子供ってのは加減を知らないからな。やりたい、って思ったら、やられる、って思った方がいい。トンボの羽をむしるのと一緒だ。人間って怖いな」
「ああ……でも、人間を救えるのも人間だけだと思うぜ!」
 沢村が、きらり、と白い歯を見せて言い放った。俺はすぐに聞き返した。
「猫カフェは?」
「え?」
「猫カフェは人類の救済には該当しないの? あそこの常連は救われてないの?」
「そ、それは……」
「沢村、世界はオマエがまだ知らない闇に覆われているんだ……深く、深くな……」
「おいお前ら、ふざけるのもそこまでにしておけ」
 まさかの茂田のツッコミだった。
 見ると、坂を登りきった俺たちの前に、でかい白ビルがデデンと鎮座していた。なんだか風景写真の一枚を見ているかのようである。綺麗に整えられた街路樹と、車通りの少ない、あまり汚れの目立たないアスファルトの先に、その病院はあった。あそこがゴールだ。夏の暑さが俺の思考をぼやけさせる。陽炎に揺れる視界の中で、わらわらと金シャツを着た腕白坊主どもがこっちをめがけて突っ走ってくるのが見えた。背中に旗を差しているバカがいる。俺はぐっとカートの取っ手を握り締めた。ズタ袋の中の天ヶ峰がまた寝ぼけてごそごそ動いている。
 まったく、子供やるのもラクじゃないぜ。
 俺たちは、雄叫びをあげながら駆け出した――――

     



「ヘイ、茂田ヘイ、パスパス!」
「くっ、沢村頼む!」しゅっ
「パァァァァァァァス!!!!」
 くっそお、なんで俺にパスよこさねえんだよ茂田あ!
 ああっ、天ヶ峰を積んだカートが沢村の手に渡り、沢村の必要性をあまり感じない操作テクによって南小生たちが次々に翻弄されてその場にへたり込んでいく。なんなのあいつ。足がマリオカートで出来てるの?
「後藤、カバー頼む!」沢村が叫んだ。
「うるせえ、俺なんかいなくてもなんでもできるくせに!」
「なんでそんなスネてんだよ!? あっ、やばい茂田パス!」
「任せろっ」解き放たれたカートの取っ手を恋人のそれのように鮮やかに繋ぎ止める茂田。俺はそのすぐ後ろで発狂した。
「もぉぉぉぉぉぉ!!!! やっぱ俺いらないじゃん、なんだよこのくそな作戦は!!!!」
「この期に及んでゴネるなよ!」と沢村。
「男らしくねぇぜ」と茂田。
「おまえ自分の発案だからってシャシャってんじゃねーぞ茂田!!」俺は叫んだ。
「俺は、俺は……こっ、この中で一番ドンくさくなんてないんだからねっ、あっ」
 ドテリ。俺は膝からイッた。
 茂田が恐怖新聞を見たような顔をした。
「てめえコケてんじゃねーか!! 足手まといも甚だしいわ、ふんっ」
 茂田の左フックが南小生の太ももを強打した。見事なローブロー。くそっ、なんでこいつら多対少で闘えてるんだよ。精神と時の部屋だろ絶対。ズリィよ。俺は凹んだ。
「あぶないっ後藤ーっ!」
「ん? ぎゃああああああああ」
 三十センチ定規を振り下ろした南小生をなんとか避けて恥も外聞もない腰の引けた突っ張りをぶちかまして転倒させた俺は、とにかく遮二無二走りまくった。
 いまや俺たちの間でたらいまわしにされたカートはスゲェ速度で病院のエントランスめがけて突っ走っているのである。
 ぶっちゃけ茂田が手を離してもそのまま南小生どもを蹴散らしてゴールインしそうだ。
 カートを転がし始めた当初は茂田の話を「カート」だけ聞いて良さそうだと早合点したことを盛大に後悔したものだったが、なんとか上手く天ヶ峰を病院へとぶち込む、もとい届けることが出来そうだ。
 俺はぐっと目頭を押さえた。
 思えばここまで長かった……ワケの分からんことの連続だったが、頑張り続けていればいつか活路は開ける。俺はつくづくそれを思い知、
「ごふっ」
「後藤ォォォォォォォォ!!」
 やべぇ考え事に夢中になりすぎてて茂田からのパスを受け止め損ね、モロに脇腹にカートの強打を貰ってしまった。いってぇ。なんかもう純粋にいてえ。俺はその場に転がった。天ヶ峰もカートからおっぽり出されて転がっていった。ちなみにズタ袋の中にいる。
「チャンスだてめえら! あのバケモノの首を挙げろーっ!!」
 ワァァァァァァァァ
 南小のアホどもがいっせいにズタ袋に殺到する。くそっ……立ち上がって追っかけていっては間に合わん。俺はあたりを見回し、死に掛けていたセミを見つけるとそれを鷲づかみにし、連中のど真ん中に放り投げた。俺の気が伝染したのかもしれん、奇跡的に息を吹き返したセミがプロペラ機のエンジンのように大回転して連中を威嚇した。
「ぐあああああ」
「セミだあああ」
 所詮は小学生。
 必要以上のオーバーリアクションで隙だらけである。
 俺はその間になんとか天ヶ峰を回収してカートに乗せ、キックでもエンジンがかからなくなったバイクに走り乗りするように重たい動きで駆け出した。沢村と茂田が追いついてくる。
「ナイスだぜ後藤!」サムズアップする沢村。
「おまえ本当にゴミを上手く使うの得意な」どこか冷たい目で感心する茂田。この野郎、そんな風に思ってたのかよ。俺は若干顔をモニョらせてしまったが、まァいい。ゴールの近さに免じて許してやる。
 狂った自動歩道のようにぐんぐんと周囲の景色が過ぎ去っていく。周囲にもう南小生の姿はない、俺が再びコケない限りは。大丈夫だ、入り口まであとプール一個分もない。もうちょい、もう、あとちょっと……
 もう……
 その時、地面が爆ぜた。


 俺からしてみれば一瞬でメガネがぶっ壊れて、意識に上ったのは何もかもがクソだということくらいだった。
 岩石って顔に当たるとスゲェ痛ぇのね。鼻潰れるかと思った。ってー。まじってー。
 とかなんとかしてる内にも事態は進行していた。突然の爆裂に俺とカートは分断され、そばを追走していた茂田と沢村も鞠のようにアスファルトを弾んでいた。瓦礫の細かな散弾を喰らった南小生までもが転倒と動転を一緒くたに喰らっていて、つまり全てが混乱していた。
 犯人は、分かっていた。
 赤い靴を履いた少女だ。
「……みつけた」
「あ、荒宮……」
 俺は頭を振って、フレームからへし折れたメガネを顔から飛ばした。
 荒宮蒔火は、今度は茂田の代わりにぬいぐるみを抱いて、いつものチルドレンチックなワンピース姿のまま、俺の前に立っていた。
 狂気に染まった顔で。
「酷いよ後藤くん……こんなにも私はあなたを欲しているのに……化物に出会ったみたいに逃げ惑うなんて……」
 鏡見て? 目怖いよ。
 荒宮は、目薬を差す気にでもなったかのようにまぶたをカッと見開いて、血走った目で俺を見下ろしている。顔のあっちこっちの皮膚が時々ぶるるっと痙攣しては収縮している。どんなキレ方したらこんなになるんだ。
「てめぇ……いきなり道路に穴空けやがって……つーか俺を狙ったのか今の飛び蹴り!? ふざけんな死ぬわ!!」
「そしたら後藤くんをずっと覚えていられるね……安心して、お墓は一緒のところにする」
 他人を勝手に自分ちの墓に入れるんじゃないよ。
 俺はぐっと歯を食いしばって、ちらっと背後を見やった。茂田を見る。ダウン。沢村を見る。どうも足でも捻ったらしく蹲っている。くそ。
 天ヶ峰は、ズタ袋に入ったまま、病院まであと数メートルのところで転がっている。ツイてねえ、誰も中から出てこねぇ。赤信号に五個連続で捕まるくらいの不運。畜生。
 あと、もうちょっとだったってのによォ……
 俺がキッと荒宮を睨んだ。絶対泣かす。
「なあにいその目は……?」
 俺が泣きそう。
 荒宮が、赤い靴の先っぽで俺の顎をくいっと持ち上げた。視線は背後の天ヶ峰に向いている。
「惜しかったねえ、あの泥棒猫、もうちょっとでお医者さんにかかれたのに……」
「あいつは泥棒なんかじゃねえ。強盗か何かだ」日頃の行いを見ればよくわかる。
「へええ? もうそこまで進んだのォ?」
 どこまでだよ。
「心を奪い合うって素敵ね……」
 荒宮の左手が俺の首を絞めた。鋼鉄か何かで出来ているとしか思えない指が二本、俺の頚動脈を締め上げた。身体が浮く。
「かっ……はっ……」
「それじゃあ……マキビと後藤くんは命を奪い合うってのはどうかな……?」
 アホかっ、一方的におめーが奪うだけだろ! くそっ、惚れられてるのかなんだか知らねーが、お気に入りの人間を殺そうとする神経がわかんねえ。
 つーか、
 マジで苦しい。
「おっ……げっ……!!」
「もっと」
「ぐっ……かはぁ……ぁぁ……」
「もっとぉ」
 俺は荒宮の腕を掴み、なんとか振りほどこうとしたが、離れない。ジタバタもがいて蹴りのけようともしてみたが、荒宮の胸板は壁のように分厚かった。おっぱい、おっぱいはどこ。おっぱいの弾力さえあればなんとかなる気がする。
「ご、後藤ォーッ!!」
 俺の背後でようやく蘇生した沢村が脱兎のごとく駆け出し、荒宮に飛び掛ってくれた。が、
「邪魔するなこのくたばり損ないがァーッ!!!!」
 荒宮の右手に、ぬいぐるみを持ったライト・バック・ハンドをモロに頬に喰らって、今度こそ沢村は昏倒した。そうだった、この荒宮蒔火のフェイバリット・ウェポン『ブラックキング』はその可愛らしい黒クマボディの中に金属を仕込んであり、振り回しただけで凶器になる。ましてやそれを握った裏拳、しかも女子のそれともなれば沢村はしばらく物を噛んで食うことはできまい。
「ざっ……わむっ……」
「ねえ」
 荒宮が、泥沼のような目で俺を見つめてくる。酸欠で涙目になった視界の中で、べったりとした黒髪を顔に貼りつけた少女が俺を見上げてくる。人はっ、人は大地から離れて生きていくことはできなっ、
「……どうしてスキって言わないの?」
 俺はジタバタした。肉体言語しかない世界だったら、『あなたがわたしの首を絞めているから』と伝わったことだろう。だがこの物理的貞子もとい荒宮蒔火は、さらに俺の首にかける指の力を上げるという暴挙に出た。テレパシストになりたい。
「スキって言えば、離してあげるよ」
「だっ……がばっ……ぼまっ……ぇぇ……あ……」
「……離しても、スキって言ってくれないんでしょ?」
 俺は足をジタバタさせるのをやめた。
 荒宮が俺を静かに見上げている。
「マキビのほかに、好きな人がいるの?」
 俺は黙って見返した。
「……あの子が、好きなの?」
 俺は荒宮の胸を蹴った。
 とん、という押すにも満たないそれを荒宮は無視する。
「死ぬほど好きなの?」
 俺はもう一度、胸を蹴った。
「マキビにもっと痛い目に遭わされても? 苦しい目に遭わされても? あのへんなのがいいの? 毛虫みたいな髪の毛してるくせに。あんなのがいいの?」
 俺は強く、荒宮の胸を蹴った。
 荒宮がよろけた。
 しばらく、睨みあった。
 やがて、荒宮が俺を放した。どさりと音を立てて地面に落ちた俺は、何度もむせこみながら喉をさすった。マジで死ぬかと思った。
 そして荒宮を見上げようとすると、その顔を蹴りぬかれた。
「ぐっ……!!」
 真夏の太陽に熱せられたアスファルトに、赤い靴で顔を踏みつけられる。
「ぎゃあああああああ……!!」
「これでも? これでもマキビがスキって言えない? マキビにゴメンナサイできない? ねえ? 言えば許されるんだよ? 諦めればそれで全部済むのに。どうして? なんで? マキビ分かんない。分かんないよ」
「あああああ…………」
「どうして……」
 その時、荒宮が後ろを振り返る気配がした。俺の頬から靴が離れた。俺は丸められるカーペットのようにゴロゴロと転がって逃げた。顔を上げる。
 ズタ袋が、空っぽになっている。
 荒宮が右腕にブラックキングを抱えたまま、病院の入り口をじっと見ていた。指先に力がこもり、ぬいぐるみの生地が苦しげに呻いた。
 病院の、自動ドアが、開く。
 キンキンに効かされたクーラーの冷気が、白いもやのように外の夏に流れ出してきた。冷たさをまといながら、一人の少女が暗がりの中から一歩一歩、歩いてくる。
 寝巻きのまんまの、毛虫みたいなモジャモジャ頭。
 俺の幼馴染の、元いじめられっ子。
 蹴りでバスをなぎ倒す最強の女子――……
 天ヶ峰美里が、そこにいた。
 ――槍のように携えた点滴台からもぎ取った、栄養剤のパックを左手で握り締めながら。
 ちゅうちゅう。
 ちゅうちゅう。
 誰から奪ってきたのか、衛生面で最高にヤバイんじゃないのか、
 そんなことは俺の意識から吹っ飛んでいた。
 パックから伸びたチューブを直接口に含んで、天ヶ峰は養っていた。
 英気を。
 野性を。
 闘争心を。
 それらすべてを宿したその目が、ギラギラと輝く両目が、荒宮を捉えて外れなかった。ぺっと絞り尽くしたチューブを吐き捨て、点滴台をその場で膝にぶち当ててへし折った。二本の棒と化したそれを滑るように落とした。からんからんと、奇妙な風鈴が夏を彩る。
 やべぇ。
 アイツ怒ってる。
 俺はしりもちを突いたまま後ずさった。ああなった天ヶ峰はもう理屈ではない。敵を滅ぼすだけの兵器か何かだ。巻き添えを食わないうちに逃げよう。すまん茂田、沢村、あの世で俺を待ってろ。
 しかし、
 どん、と。
 俺の背中に何かが当たった。俺は振りまいた。
 荒宮蒔火の膝だった。
「い、いつの間に……」
 荒宮は俺を見下ろし、左手で俺の腕をねじり上げ、無理やり立たせた。
 天ヶ峰がこっちを見ている。
「痛い? 後藤くん」
 俺の返事も聞かずに荒宮が腕の捻りを深くする。俺の喉から小動物じみた苦悶が漏れた。荒宮は、それを聞きながら、天ヶ峰を見返している。
「後藤くんがこんな目に遭ってるのはね、あの女のせいなんだァ」
「…………」
「キライだよね? あんなヤツ。こんなツライ目に後藤くんを遭わせるなんて、ヒドイ女だよねェ」
「…………」
「ねえ、なんとか言ってよ」
 ギリギリギリ……
「キライって言って? あんなヤツはキライだあって。それだけで離してあげるよ。ね。そうしよ。ね?」
 耳に触れそうな近さで荒宮の唇が囁いた。俺は迷った。だって痛かったし。だいぶ迷った。だって辛かったし。そして、ようやく言った。




「……知らねぇよ、バーカ」




 ボキリ、と。
 俺の腕が折れる音がした。
「っっっっっっっっっ!!!!!!!!!!!!」
 俺はその場に跪き、芋虫のように転がった。痛みで景色が七色に見える。歪んだ視界の中で荒宮の目だけが冷たく光っていた。
「あーあ。いけないんだ。天ヶ峰美里がいけないんだ。後藤くんに無理やりこんなこと言わせて。なんてヒドイやつ。死んだほうがいいね」
 ねえ、と荒宮が振り返る。
「……あなたもそう思うでしょ? 天ヶ峰美里」
 天ヶ峰は答えなかった。
 俺の方を、ただ見ていた。どんな表情をしているのか、逆光でよく見えなかった。しかし、裏から考えれば俺の顔はあいつにはよく見えているわけだ。どんな時でも考えようだぜ。だから俺は唇だけを動かして、こう言った。
 ――やっちまえ、天ヶ峰。
 天ヶ峰がうなずいたかどうか分からない。
 一瞬後、視界は粉塵に包まれていた。

       

表紙

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