Neetel Inside ニートノベル
表紙

黄金の黒
第一部 『WORLD END』

見開き   最大化      



「なあ、黒鉄、おまえどうしてまだ起きている?」
 このジジィなんてこと言いやがる、と黒鉄鋼(くろがね はがね)は思った。どうして起きているって? それが日本スーパーフェザー級チャンピオンと9R打ち合って、2回のダウンを取られながらもニュートラルコーナーに帰ってきたボクサーに言うことか?
「会長、そんなひどいこと言われたら俺泣いちゃうんだけど」
「黒鉄、おまえ分かってないらしいな」
 白石会長はタオルで鋼の右まぶたから流れる血を拭いながら言った。
「いいか、おまえはもう二回ダウンを取られている。しかもインファイトで突っ込もうとしたところを王者のクロスカウンターで、だ。最初は4R、そしていま9Rでもう一度もらった。おまえはダウンし、そして立ち上がった。わかるか?」
「わからん」
「おまえは、倒れていなければならないパンチをもらったんだ。現代ボクシングの常識において、おまえは、KO負けしていなければならない。わしは、タオルを投げる必要すらないと思った。それぐらいすごいパンチだったんだ」
 白石会長は、鋼の目を覗き込んだ。
「棄権しよう」
 鋼は笑った。
「いやだ」
「そんなことはわしだって同じだ。だが、絶対に、精密検査を受けた方がいい」
「この、いま、スポットライトの向こうで俺のファイトに熱狂してくれてる客を置いてか」
「死ぬよりマシだ」
「死ぬより……」
「おまえは充分、よくやったんだ」
 白石会長は鋼の肩をがっしり掴んで、その身体の中のガッツごと揺さぶろうとした。
「わかるか? おまえが闘っているのは王座防衛回数七度の誰もが認めるチャンピオン、この試合でおまえを下せばベルトを返上して世界へ挑む男だ。おまえはその王者相手に9R打ち合った。この場にいる誰もがわかっている、おまえは強いと。たとえ負けても次のある男だと。王者が世界へ行った後、空位になった王座をめぐる決定戦におまえは必ず出るだろう。そうしてそこでベルトを獲るのは間違いなくおまえだ。だが、ここで死ねばそれも叶わん」
 会長の言っていることは、正しい。確かにもうさっきのダウンからこっち、現実感が希薄でいつ意識がぶち切れてもおかしくない。次にジャブでも脳天にもらえば失神するだろう。最悪、そのまま戻って来れない可能性もある。状況は、すでにそれぐらいギリギリのところにあった。
 だが、鋼は思う。正しいことと、俺がやることは、べつだ。
 会長の手に半端に握られていたマウスピースをぱくりと噛んだ。
「黒鉄」
 阻もうとする老体をロープへ押しのけて、鋼は椅子から立ち上がった。向かいのコーナーでは王者がすでに立ち上がり、こっちを見ている。綺麗な目をしていた。
「黒鉄、おまえ」
 白石会長が、もう止められないと知りつつも、それでも最後に言葉を吐いた。
「もう死んでいるんじゃないだろうな?」
 もう死んでいる。俺が?
 鋼は振り返った。自分を育ててくれた恩師に、目で語る。
 それごと確かめてくるよ、会長。そして証明してやる。この島国で誰が一番強いのか。死人が王者になれるのか。
 確かめてくる――
 スポットライトに満ちたキャンバスに鋼は足を踏み出した。視界の端にちらちらするレフェリーに消えてもらいたくてしょうがない。
 ゴングが鳴って、レフェリーが手を振り、最後のラウンドが始まった。
 鋼は前に出た。突撃だ。毎日毎日殴るよりも走ったのではないかと思いたくなるほどのロードワーク、その果てに作ったこの両足でキャンバスをぶち抜くほどの猛ダッシュ。この10Rでまだそれほどの余力があるとはさすがに想像してはいないだろう、だが見てろ。これがこの俺、黒鉄鋼の一撃必倒、この長かったタイトルマッチのフィニッシュブローになるパンチだ。
 鍛えに鍛えた拳が描くその軌道の名前は左のスマッシュ。上下左右ではなく斜め下から打ち上げる拳。ボクサーは予期できないパンチに弱い。スマッシュの使い手はそう多くはない、この試合ではすでに二度使っているがたったそれだけでモーションを盗まれてたまるか。このダッシュとこのスマッシュでベルトはもらった。
 瞬間、時間が融解した。
 ゆっくりと流れる世界で鋼は確かに見た。
 自分の左が空を切るのと、
 少しだけずれた鏡合わせのように自分の腕の内側に沿って打ち下ろされてくる黒いグローブ。チョッピングライトに似ているがむしろねじりこみの急降下フックに近い。それがわかったところで今更もうどうしようもない。
 拳が迫る。
 拳しか見えない――


 ぐわしゃあっ……


 鋼の顔面に王者の拳が突き刺さった。衝撃でブーツがキャンバスを滑る。喉仏をさらすほどのけぞりながら倒れる。見上げるスポットライトが教えてくれる、自分がいま撃ち負かされたことを。モーションが盗まれていた。鋼は笑った。やっぱ強いや、チャンピオン。
 大の字に倒れた。これで負けたら気持ちのいい負けっぷりだと自分でも思った。レフェリーカウントは聞こえない。衝撃で耳をやられたか。いやそれどころか脳ごとイッたかもしれない。パンチをもらった時に確かに鋼は聞いた。自分の中の何かが切り替わる『ぱキッ』という音を。あれが死神の拍手じゃなかったといったい誰に言えるんだ?
 死ぬならリングの上がいいな、と後輩にこぼした自分の声がどこかから聞こえた。よかったな、お望みどおりの最期だぜ。最高じゃないか、この国の言葉を喋るやつの中で一番強い一三〇ポンドの肉体相手と三〇分近くパンチのやり取りをしたんだ。こんな死に方、ちょっとなかなかできないぜ? だが待て、もっと難しいことがあるな。それは、
 いまここで、立ち上がることだ。
 鋼は、立ち上がった。
 グローブを構え、両足でキャンバスを踏みしめた。自分でも何がなんだかわからない。立てるはずがない。ニュートラルコーナーでガッツポーズをしていた王者の顔色が変わっていた。鋼は笑ってみせた。どうだ、俺もちょっとはやるだろう。
 そして、レフェリーが鋼の両目を確かめて、リング中央から退いた瞬間、黒鉄鋼の世界は崩壊した。
 音はとっくのとうに消えていた。人をぎっしり詰め込んだホールのけものくさい臭いも、もうしない。口の中のマウスピースはどこかへ消えて、それどころか舌も歯もなくなっていた。空洞だ。鋼は空洞になった。最後に視界がやられて真っ暗になった。とうとう気絶したか、と自身でも思った。だが違った。
 闇の中に、グローブとブーツとトランクスだけが浮かび上がっている。見覚えがある。王者のやつだ。この三〇分間、俺をぶちのめし続けた男のグローブとブーツとトランクスだ。それがなぜ、闇の中に浮いているんだろう。いったい、王者はどこにいったんだ?
 浮いているといえば、こっちもそうだ。見覚えのある位置に代えの効かない愛用のグローブがあったが、そこから伸びているはずの腕がない。きっと見下ろせばブーツも空っぽで、内側の茶色い染みさえ見えるのだろうし、トランクスの中に穿いたファウルカップは、まだ自分に役目があるのだと勘違いしているに決まっている。
 どうなっちまったんだ、俺は。
 いきなり、黒い拳が飛んできた。うおっ、と声を出したつもりだったが、聞こえなかった。あわてて避けた。野郎、と思う。拳だけになってもやるってのか。いいぜ、それならこっちだっておんなじだ。よくよく考えれば、こんな闇の中でも拳があればボクシングはできる。
 両手足の感覚だけはいつもと変わらなかった。ダッシュして、ボディのありそうなところに拳を叩きこむ。同時に王者の拳を自分のボディがあったところにもらった。相撃ちだ。
 光が弾けた。
 殴ったところを砕けた雪のような輝きが散って、一瞬、グラスファイバーのように透明な人間のかたちが見えた。なるほどパンチ当てれば相手が見えるということか。鋼は思った。見えてるうちに連打にもちこませてもらうぜ。さすがに動く首から上は不可視じゃちょっと当てにくい。こっちもひとつもらった脇腹が光って痛むが、いまはそれどころじゃない。
 だが、王者のブーツはバックステップを取って距離をとった。アウトボクサーで鳴らした王者のこと、しかも二度のダウンを取ってもはや判定上では絶対に負けはしないのだからハイリスクのインファイトになど持ち込ませはしてくれないだろう。そんなこと四回戦のグリーンボーイだって知ってる戦略だ。何も間違っていない。だがボクシングは、人間を殴り倒すスポーツだ。俺はけものの流儀でやる。
 王者は左のストッピングジャブで距離と防御を固め、そしてあわよくば右のストレートでワンツーパンチを狙って来るだろう。それを掻い潜って拳を叩き込まなければこちらに勝ち目はない。あと何秒残っているのか知らないが、せいぜい三十秒といったところだろう。はっきり言ってストッピングジャブで牽制してるだけでも王者は勝てる。決して突っ込んできてはくれない。
 それさえわかれば充分だ。
 ブーツにガッツを注ぎ込む。あとちょっとだけ持ってくれ。一瞬でいい、俺に時間を貸してくれ。
 ボクサーの拳は見えるよりも速く飛んでくる。だからそれを掻い潜るには、それより速く突っ込むしかない。何もかも読み切って、何もかも賭け切って、突っ込む以外に道はない。
 ぴく、と拳を動かすふりをした。
 次の瞬間にはもうダッシュ、カウンターでもらえば左のジャブでも自分は死ぬだろう。

 ぶわっ

 不可視の髪が総毛立つ感覚。拳の動きに釣られた王者の左が鋼の頭上を吹っ飛んでいった。
 掻い潜った。
 拳の感じを確かめる。渾身の力を込めるのは一瞬だ。撃ち込む瞬間だけでいい。全身の筋肉の繋がりを感じる。自分の中に無駄なものが何一つとしてない。練りに練ったエネルギーが右に凝縮される。いまの鋼は一発の拳に過ぎなかった。他には何もなかった。
 外すなよ。
 笑って、鋼は、利き腕のスマッシュを発射した。
 光が、弾けた。


 わああああああ――――
 わああああああ――――
 わああああああ――――


 ああ。
 雨が降ってる――……


     



 控え室では記者たちによるフラッシュとインタビューの波状攻撃が行われていた。前評判では圧倒的に黒鉄鋼の不利だった。戦績を比べれば、鋼は10戦10勝10KOとはいえ、タイトルマッチは初挑戦。対する王者はスーパーバンタム級から階級を上げてきた四階級制覇チャンピオン。50戦46勝1負け3引分という好成績を持つ百戦錬磨のボクサーだった。そのチャンピオンが、まだ一度も10回戦をやったことのないボクサーにファイナルラウンドで沈められたのだ。ジャイアントキリングだった。
 それにしても、カメラマンはちょっとフラッシュを焚き過ぎではあった。記者たちにも新人が多かったのかもしれない。
 だが、鋼はべつにそういうのは嫌ではなくて、むしろ自分のファイトが明日のボクシング界が盛り上がっていくのかと思うとこの痛めつけられた身体にドンドン質問をぶつけて来て欲しいくらいだったが、白石会長がそれを許さなかった。会長はステッキで記者たちを殴りかねない勢いで、ジムメイトの楠春馬――スーパーフェザー級・日本ランキング10位――や荒谷かづき――ライト級・日本ランキング7位――たちが羽交い絞めにして抑える羽目になっていた。
「いいかよく聞けブン屋ども、貴様らは見ているだけでいいだろうがな、ボクサーはリングに上がってたった三〇分間で何十日も休養を取らなければならなくなるほど疲弊するんだ。ましてやこれが人生の土壇場も土壇場のタイトルマッチを終えたすぐ後、ベルトの感触もまだ信じられん選手に質問やらフラッシュやらをやたらめったら浴びせおって、ええ、おい、どうして休ませてやろうと思わない?」
 さすが、マイク・タイソンを育てた名伯楽カス・ダマトよりもクチが悪いと言われているジジィだけはある。鋼はタオルの奥で苦笑いしてしまった。今年も白石ボクシングジムは悪名ばかり積み重ねることになりそうだ。
「まァまァ会長、もう救急車は呼んであるんですから。どの道あと一〇分かそこらで先輩は精密検査行きですよ。ああ、それにしても、やりましたね、先輩!」
 春馬が抱きつきかねない勢いで童顔を寄せてくる。
「先輩はチャンピオンになるべき男だと僕は信じてました、本当ですよ!」
「わかってるよ」
「ああ、わかってる、わかってるだって! 聞きましたか荒谷さん、先輩は、先輩こそが自分は王者にふさわしいと僕よりも思っていたのです!」
「荒谷、こいつうるさい。黙らせて」
「ウッス」
 どすっと荒谷のボディブローが春馬に突き刺さった。突然の暴挙に記者たちがどよめく。が、春馬は何事もなかったかのように立ち直って「荒谷さん、忘れないうちに僕とあなたの拳で再現しましょう、あの歴史に残る激闘を!」とかなんとか言い出して荒谷相手に拳を振り回し始めた。気持ちはありがたいのだが本当にうざったい。会長、記者よりも春馬を追っ払ってくれないかな、とまで鋼は思った。
「会長、救急車が来たみたいです」
 控え室の入り口から顔を見せた練習生のひとりに、白石会長がうむと頷き、鋼に肩を貸した。
「いいって。自分で歩ける」
「だめだ。転んで頭でも打ったらどうする」
「ガキじゃあるまいし」
「おまえなんぞわしからしたらガキ同然だ」
「ははは……違いねえや」
「ふん、どこまでも生意気な小僧よ」
 そのままホール下まで、鋼は白石会長に付き添われていった。知り合いと出くわした時は恥ずかしさで死にたくなったが、しかし、今夜だけは誰にも何の遠慮もしなくていいのかもしれない。
 ――俺は、『チャンピオン』になったんだから。
 みんなに見守られながら、鋼は救急車の担架に乗せられた。まだ試合用のトランクスを履いている鋼を見てまだ若い救急隊員が目を丸くした。
「着替えられないほど手元がおぼつかないんですか? 連絡では特に異常はないが念のため、ということでしたが」
「いや、記者にさ、まだ新卒ほやほやって感じの女の子がいてさ」
 何の話かと救急隊員はきょとんとしている。鋼はなんだか自分でウケに入ってクスクス笑いながら、
「その子の前で素っ裸になりたくなかったんだよ」
 ああ、と救急隊員はようやく鋼の言いたいことがわかってニヤっと笑った。
「すごい試合だったらしいですね」
「悪いな、うちのジムの会長、心配性でさ」
「クロスカウンターで王者――いや、もう元王者でしたね。それでも彼のクロスカウンターを二発も喰らったら私だって心配になりますよ。本当に吐き気や頭痛などはしていないんですか?」
「ああ、たぶん――でもわかんねーな。これで搬送中に死んだりしたら笑えるな」
「笑えませんよ」救急隊員はまじめな顔で言った。
「あなたはこれから世界を狙う人だ。こんなところで死なせはしません」
 鋼はまじまじとその若い隊員の顔を見つめた。
「あんた、ボクシング好きなの?」
 救急隊員は急に素っ気無くなって仕事に戻った。
 たぶん、照れてしまったのだと思う。






 その日、歴史的な事件が都内某所で起こった。
 公道を、F1マシンが走ったのである。
 このニュースを翌朝聞いた人間は誰もがどこから突っ込むべきなのかと考えた。公道をF1マシンが走ってはいけないのは当然にしても、そんな高級品をどこの馬鹿が持ち込み、あるいは作らせ、しかもその結果、一台の救急車にぶつけて死傷者を出したのか。そんなやつは頭がおかしく、その上、きっと金持ちに違いない。
 誰もが抱いたその感想は的を射ていた。親の金でF1マシンのレプリカを購入した少年A(17)は誰もが聞いたことのある製薬会社の社長の息子だった。そのこと自体はテレビでは報道されなかったものの、週刊誌の記者が珍しく芸能人のケツを追っかけるのをやめてみんなが知りたいことをすっぱ抜いた。だが、それまでだった。
 少年Aは無罪になった。
 少年院行きでさえない。
 精神衰弱による責任能力の喪失。相変わらずの悪法がここでも幅を利かせた。
 少年Aはなんの苦労もなく自由を勝ち取った。彼の親父が金と、手持ちの企業の社会的重要性をかさに着てあちこちにカネをバラ撒いていたからだ。最終的には少年Aを逮捕した警官までもが「おかしいな、いま裁判にかけられているあの子は私が捕まえた子ではない。どこかで取り違えがあったのではないかナ」と札束を抱いて言い出してもおかしくなかった。
 後日、少年はある週刊誌の記者にひっそりと本心を語った。
「俺はカリスマなんだと思う」
 この時点ですでにおかしい。だが、少年は省みない。
「だってそうじゃないか。都内をフォーミュラカーでぶっ飛ばしたんだぜ。みんなは俺を悪く言うが、じゃああんたにはできるのか? レプリカとはいえ最高時速二四〇キロで走る車に乗って、障害物だらけの道をアクセルベタ踏みで突っ込めるか? できないだろう」
 くくっと笑い、
「俺はやった。最高の気分だったよ。俺の目の前には青信号しかないんだって思った……終わり方も最高だったな、バリケードみたいな救急車に真横からぶつかって車体を突き破った。でも俺は無傷だった。神様が味方してくれてなければ、いま俺はここにいねえよ」
 煙草の煙を吐く音。
「ボクサー? ……ああ、救急車に乗ってたとかいう。さあね、よく知らない。ボクシングになんか興味ないし。なんでもその日、試合だったんだって? 日本チャンピオンになったとか。すごいね、でもまあ、かえってよかったんじゃない? 無敗のまま引退ってことになってさ。防衛戦であっさり負けちゃってもあんまり名前残らないでしょ。王者になったその日に事故で引退、かっこいいじゃない。ねえ?」
 そして、これからこの事件が取り扱われるたびに何度も何度も放送されることになる名文句を吐いた。
「もう試合が出来ないからってなんだっていうんだ。ボクシング続けて脳に後遺症残るよりマシでしょ。むしろ感謝して欲しいな、そのへん」
 そう言って、少年は人好きのしそうな気持ちのいい笑顔をインタビュアーに浮かべたという。
 そう。確かに、その救急車に乗っていたボクサーは助かった。
 生命に別状は少しもない。経過も良好。
 ただ、
 右腕を、切断した。
 根元から。





 白石ボクシングジムが総出でそのガキを八つ裂きにすることを誓い合った時にはもう、少年Aは国外に出てしまったという噂だけを残して、撓る左や唸る右ではどうやっても殺せないこの国の闇の中に消えた。その日を境に、多くのジム生が白石ボクシングジムから去っていった。
 なにもかも空しくなった、と彼らは口を揃えて言った。
 黒鉄鋼も、そのひとりだった。
 彼が使っていたロッカーはいまでもそのままになっているが、もう彼がそこへ来ることも、壁にかかったグローブを右手でひょいと掴み上げることも、
 もうない。

     


 エロ本というものの極意は捨てることにあると黒鉄鋼は思っている。



 保存することが邪道だ、とは言わない。すべてを保管し、ジャンルごとに分け、手に取りやすいよう工夫し、すべてにビニールカバーをかけることも悪いことではない。それは人の趣味嗜好の範囲だし、自分がとやかく言って直させるようなことではない。
 それをわかっていてなお、鋼はエロ本を捨てる。ひとつのダンボール箱に保管できるエロ本はおおよそ三〇冊。そこから溢れたものは必ず捨てなければならない。三一冊目はないのだ。
 それがルール。
 エロ本を捨てる時はいつも悩む。一度読んで満足したものは次の週にでも古紙回収に出してしまうが、残しておきたいものは秘蔵の三〇冊のどれかと交換しなければならない。鋼はいつもダンボール箱の中から一冊一冊を丁寧に取り出して、万年床以外にはなにもない六畳間に丸く並べる。そうして殿堂入りのエロ本と、膝の上に置いた新入りを火が点くほどに見比べるのだ。
 そうしていると鋼はいつも、途方もない充実感の中で、いいエロ本とはなんだろう、という思いに囚われる。
 それは、好みの女の子が表紙を飾っている号か。それとも連載されている官能小説が伝説的な盛り上がりを見せた号か。あるいは特定のシチュエーションに凝った特集が組まれた号か、それともいっそ初恋の女の子が成長したようにしか見えない素人娘を集めた増刊か。いつも悩む。そうしているうちにだんだん悩みが細分化されていって、いいシチュエーションとはなんだろう、自分が一番グッと来る髪形やスタイルはどれだろう、読みやすい文章だが作者とは絶対に酒を飲み交わせないだろう官能小説と、読みにくくハードで吐き気すらするが絶対にこいつは天才だと思える官能小説どちらが「いい」ものなのか、ここまで来るともはや答えの出しようがなく、鋼はいつも最終的には気分にすべてを任せてしまう。直感で、ただし目をつぶることだけはせずに、一冊選んでそれを捨てる。殿堂入りの中から選ぶこともあるし、新入りを諦めることもある。そうして大抵の場合、どっちを選んでも後悔する。宝物を持ち去っていく冷酷非情な古紙回収車を裸足で追いかけようとしたことさえある。
 失ったものの大きさに身もだえして頭を抱えていると、生意気な後輩からは、そんなに苦しいなら全部取っておけばいいのに、と冷め切った目を向けられる。確かに理屈ではそうだ。鋼の部屋は安普請とはいえエロ本ごときで床が抜けることはないし、部屋にはテレビもゲームもパソコンもない。布団と、そしてひとつの黒いダンボール箱があるだけ。あとはせいぜいその日その日に食い潰したコンビニ弁当の容器やティッシュの空き箱が転がっているのみ。とっておこうと思えばできる。
 だが、鋼はそうしなかった。そうしてしまうと、途端にエロ本への情熱が薄れていってしまいそうな気がした。そして鋼が恐ろしいのは、いまや自分の人生の目的となったこのエロ本の蒐集と廃棄をやめた後に残る、死ぬまで続く倦怠の方だった。それに比べれば捨てたエロ本の中身を思い出そうと深夜の二時に頭抱えて悶々としている方がずっとマシだった。鋼はなにも思い出したくなかった。自分がボクサーだったことも、自分の右腕がもう無いことも。
 何も考えたくなかったし、何もやりたくなかった。


 新しい人生へと踏み出した黒鉄鋼の一日は、驚くほど虚しい。
 カレンダーを見てエロ本の発売日なら昼過ぎに近所の書店へいってその日に出たエロ本を全種類買う。最初は冷徹な目を向けてきた女子大生らしきバイトの女の子も、いまではなかば尊敬の眼差しを向けてくるようになった。周りに子供がいようが人妻がいようがお構いなしに真昼間からエロ本コーナーに突撃して堂々と女子店員のレジにお目当てのブツを置く姿はかえってなにがしかの使命感すら覚える。『エロ本しか買わない片腕の兄ちゃん』と言えばその界隈の小学生なら知らないやつはいない。一時期は鋼の尻を後ろから蹴っ飛ばす遊びがガキどもの間で流行したこともある。鋼はそれでみんなが楽しい学校生活を送れるならそれでもいいかと思って黙って蹴られていた。少し効いた。
 一年もそんな日々が続くともうずっとそんな暮らしをしてきたような気がする。もう朝早くからロードワークに出ることも、ひたすらにサンドバッグを殴り続けることも、汗臭いヘッドギアを着けて3階級上の先輩とスパーリングして顔面を腫らすこともない。大の苦手だった縄跳びなんぞはみじん切りにして捨ててやった。もうボクシングなどしなくてもいいのだ。そうとも。
 したくても、できない。


 夜、ふと夢の名残を嗅ぎながら目を覚ますことが今でもある。布団の中で鋼は全身汗だくで、闇の中を凝った目玉でぎしっと見つめている。木目も見えない闇の向こうにさっきまで見ていた夢が浮かんでくるような気がするのだ。そうしてだんだんと聴こえてくる。本当にリアルなほどにハッキリとした、雨のような拍手と自分の名を呼ぶ歓声が。


 トレーナーにならないか、と白石会長には薦められた。なにせ事故に遭ったとはいえ元・国内チャンピオン。その教えを請いたがる後輩は多かったし、仮に含むところがあったとしても、誰もまだ生きている鋼の左を前にして偉そうなことなど言いたくても言えなかっただろう。ミット持ちもへたっぴに任せるくらいなら片腕でも元王者の方がよっぽどいい、などと言って慕ってくれるやつもいた。だが、鋼は首を縦には振らなかった。
「いいよ、やめとく」
「先輩……でも、せっかくですから、受けてみたらどうですか?」
「俺は感覚だけでやってたから。お前らに変なクセつけさせちゃ悪いよ」
「そんなことないですよ。先輩のボクシングには華があった。みんな、先輩に憧れていたんです」
「いいんだ」
「先輩……」
「気にするなって。俺はべつに、困ってるわけじゃないから」
 しかし本当はそれも建前で、鋼は心の底ではこう思っていたのだ。
 ――楽しそうに右腕を振っているやつをずっと見ていたら、きっと我慢できない。俺は、そいつを残った左で殴り殺してしまうだろう――
 恩に着ているジムの床を血みどろにするわけにはいかない。
 鋼はトレーナーを辞退し、右腕を売って得たような、障害者年金を食い潰す生活を始めた。最初は頻繁にお見舞いに来てくれた後輩たちも、日を追って顔を出さなくなっていった。たぶん、それには鋼の大事な大事な黒い箱も無関係ではないだろう。誰だって憧れていた人間の落ちぶれた姿なんて見たくはない。ましてやボクサーの。
 十八歳の日本王者も、たった一年でただの無職に成り果てた。


 いま。
 鋼の前に、二冊のエロ本がある。
 鋼はそれをあぐらをかいた膝前に置いて、いったいどちらで腹を切ろうかと考えているように微動だにしない。
 問題の二冊のうち、一冊は鋼が前から所有していたものだ。表紙は麦藁帽子にワンピースを着た、雨のように長い黒髪を散らした女の子が前かがみにこちらを見下ろしているもの。一見するとエロ本に見えないが、そういう趣旨を持って作成されていて、中を開くとまず机に座って窓の向こうを見つめる制服姿の女の子の白黒写真と、短い小説が載っている。シチュエーションの内容は、友達のいないクラスメイトの女の子に冴えない男子が声をかけてみようと思い立つ、というもので、順繰りにめくっていくとピンナップと共に小説のストーリーが続いていくという、よくもこれを五〇〇円で売る気になったなと言いたくなるほど凝った作りになっている。確かに最終的にはアダルトな展開になってしまうのだが、付属の小説の出来がまた悔しいほどによく、これはもうほとんど青少年が初めて女の子と付き合っていく際の指南書と言っても言いすぎではない。鋼はもうそれを長い間、ベルトを獲る前からお気に入りの一冊として引っ越す時も捨てずに持ち越したほどの気に入りようだった。版元に在庫が残っていれば保存用と布教用にも買っていたところだ。
 もう一冊を鋼は手に取ってみる。こちらはさっき買ってきたばかりの新品で、この蒸し暑い部屋の中で鋼がひとり頭を悩ます羽目になった元凶である。表紙はショートカットで童顔気味の女の子が片目を瞑って人差し指を唇の前に立てているもの。店頭で見かけた時に思わずまじまじと覗き込んでしまったほど、鋼はその子に一発で魂を抜かれた。中身はさして珍しくもないコスプレもので、メイド服やチャイナ服をその子が着回していくだけのものだし、中にはその子じゃない女の子がコスプレしているピンナップもあった。完成度で言えば黒髪ロングのワンピ少女に軍配が上がる。なにせ向こうは一度も王座を明け渡したことのない、いわば鋼のエロ本の中の女王である。
 冷静に考えれば、ワンピ少女だ。
 だが、それでも鋼はショートカットを捨て切れなかった。
 両方取っておけばいい、という意見はきっと誰もが言うだろう。あるいはどうしても三〇冊に収めたいのなら、なにも頂上決戦などせずにどの道いずれ引退を迫られる三流雑誌のどれかを捨てて、ショートカットの子をナンバーワンでもツーでも末永くワンピ少女と共に君臨させてやればいいだけのこと。何をわざわざ誰に強いられたわけでもない二者択一に拘るのか――
 鋼にも、それはわからない。
 それでも、鋼は思うのだ。
 頂点というものはひとつだから「いい」のだと。
 ここで欲に負けて、二冊両方どちらが上でも下でもない、どっちもよくてどっちも抜ける、そんな風にこの土壇場を誤魔化したら絶対に自分は後悔する。
 確信がある。
 この二冊の内、どちらかが生涯最高のエロ本になるという確信が。
 だからこそ、どちらかを捨てねばならない。理由などない。
 最強は一人でいい。
 鋼は迷った。
 それでもやっぱり、鋼はワンピ少女とさよならすることに決めた。決着は愛着でついた。蒐集家になる前からの付き合いの彼女には、今の自分などとても見るに堪えないだろうと思ったから。
 決めたからにはすぐに動いてしまわなければならなかった。鋼は部屋の隅に重なっていた四流の上にワンピ少女を乗せて、そのまなざしに最後のお別れを済ませてから左手と両足を使って本を縛った。片腕で雑誌を縛るのにはコツがいる。鋼は今でも慣れない。
 やっとのことで本を縛って、アパートの下まで持っていった。電信柱の影の中にそれを置き去りにする時に身を裂かれるような思いがした。
 手を伸ばしさえすれば。
 手を伸ばしさえすれば、何もかも元通りになるのに。


 鋼は部屋に戻った。
 万年床の中央には、新しい女王が鋼に笑顔を向けている。その笑顔はまぎれもなく鋼の心を打つ本物だったし、女王として不足はない。これから鋼はきっと彼女に満足していくだろう。失ったものは大きい、だがそれゆえに残ったものの輝きが増す。だから、これでよかったのだ。
 ぺらりぺらりとショートカット少女のコスプレシーンを物色していると、ピンポン、とチャイムが鳴った。新聞屋はここに住んでいるのが誰なのか又聞きで知っているのか一度もやってきたことはないし、新興宗教は長く続く不況のせいで組織の維持すら覚束ないらしかった。となるとこんなろくでもない部屋にやってくるのは後輩の誰かか、それとも何かの間違いか。
 がちゃり、とさほど警戒もせずに鋼はドアを開けた。外の空気と一緒に、何か懐かしいにおいがした。
 雨のように長い黒髪を散らした少女が、ドアの向こうに立っていた。


「――黒鉄鋼さん、ですね」
「――――……」
 まだ衝撃から回復していない鋼に、少女はすっと一歩近寄った。
「突然、ですが治験に興味はありませんか?」
 治験、その言葉で鋼は急速に現実感を取り戻していった。よくよく見れば少女はあのモデルよりも若かったし色白だった。目元には涙ぼくろが浮いている。しかも3つ。服装だってワンピースじゃなくて無地のカッターシャツに薄緑色のカーディガンを羽織っていて、下はフレアスカート、荷物は肩から提げたクリーム色のポシェットと、いったいどこの箱入り娘さまですかという感じだ。
 知らないやつだ。
「治験? バイトってこと?」
「ええ――そうなりますか。バイト、というには少々拘束時間が長いのですけれども」
「なんで俺に? なにかの悪戯?」
「違います」
 少女の瞳は決然として揺らがない。
「厳正なる選定の結果、あなたが被験者候補に選ばれたのです」
 嘘くさいにもほどがある。鋼は誰か笑ってやしないかと周囲を見回しながら言った。
「治験って、新薬が人間に効くかどうか実験台になるバイトだよな」
「おおむねそう思って頂いて結構です」
「いくらもらえるの?」
「その答えはいくつかあります」少女は指を一本立てた。
「薬が効かなかった場合、百万円ほどお支払いさせて頂きたいと考えておりますが」
「百万……」
 鋼は気のない声で言った。百万円。なるほどたかが新薬の臨床実験にしては高額かもしれない。目の色変えて飛びつくやつもいるだろう。
 だが、人生を変えるには少しばかり、はした金だ。
「中に入ってもいいですか? ここは少し陽が当たるので」
「え? ああ、どうぞ」
 気になることが多すぎてすんなりと少女を部屋へ上げてしまった。後悔したのは万年床にででんとご開帳されているサイケデリックなピンナップとそのお仲間をぎっしり詰め込んだ黒ダンボール箱に気づいてからだった。しまった。
 百に一つの可能性を信じ、何も言わずに座って、何食わぬ顔でショートカット少女の雑誌を手に取ろうとしたが、その手が空を切った。鋼は信じられない思いだった。この女マジかと思った。
 少女は、パラパラと鋼のエロ本を眺め始めた。
 いったいこれはどういうことなのだろうと鋼は思う。とうとう暑さと孤独にやられて脳がバグったか。何もかも幻覚と幻聴が織り成す万華鏡か。それならそれでいいか。
 鋼がじっと見ていると、少女はぽいっとエロ本を放り捨てた。(なんてことしやがる!)と鋼は泣きそうになったが、エロ本はとぐろを巻いたタオルケットに落ちてことなきを得た。
 そして少女は、エロ本を見ていた時と少しも変わらない、シャーベットのような冷たい目で鋼を見つめ、言った。
「元日本スーパーフェザー級五十二代チャンピオン、黒鉄鋼」
 その言葉は、今の鋼にとって、罵声にも等しい。
 鋼の目の色が、変わった。酒乱のそれに近い。
「それが今では」
 氷の瞳が今度は黒い箱へ注がれる。
「アダルト雑誌の蒐集家ですか」
 もう、こいつを夢か幻かなんて思わない。
 鋼は自分の左手で、右肩の付け根をぽんと叩いた。顔は杭で打ったように少女の方を向いている。
「知ってるか、ボクシングってのは両手があるやつの格闘技なんだ。両の拳がないやつはリングに立っちゃいけないんだ」
「知っています」
「俺は立ちたくても、もうリングに立つことはできない。俺がどう足掻こうともだ。残った左にグローブはめて吼えて見せても誰も相手になんかしてくれない。ただ哀れそうな顔でリングを下りてどこか静かな場所で元気に暮らしていってくれとお祈りされるのがせいぜいだ」
 鋼は少女を貫くように睨んだ。
「――俺にどうしろって言うんだ、ほかに」
 そんなことは、鋼が一番、知りたいのだ。
 鋼は唇を噛み千切りそうになるのを、こらえた。
「なあ、頼むから出て行ってくれないか。俺はあんたを敵だと思い始めてる。もし完全にそう思ってしまったら、俺はきっとあんたを殴る」
 ボクサーの拳は、見るよりも速く飛んでくる。視神経が脳へと情報伝達する0,2秒を超えてその拳は空を
裂く。その向こうに十六、七かそこらの女の子の顔面を置くようなマネだけはしたくなかった。
 それでも、自分は相手が敵だと思えば躊躇わずにやるだろう。
 失うものなど、もう、どこにも無いのだから。
 少女は、鋼から目を逸らさなかった。
 触れただけで傷がつきそうな唇が囁いた。
「私はきっと、あなたにチャンスを持ってきたんだと思います」
 はっ。
 今度は影も形もようとも知れないエセ自己啓発か。
 鋼が疑いと怒りの念が左拳に宿らないように苦心惨憺している間に、少女はポシェットから何かを取り出した。
 どこにでも売っている板チョコレートの包みだった。少女が銀紙を剥いで、ぱきりと一欠けらを割り取る。それを指でつまんで、手品師のように鋼の顔の前に掲げてみせる。
「これが、あなたに試して頂きたい新薬です」
 鋼は思わず鼻で笑ってしまった。次はいったい何を言い出すのか。このわたちの愛をいっぱい溶かして固めたお薬が、あなたのお胸の痛みを綺麗綺麗に取っちゃうの! そこまで言ってみせて片目を瞑りぺろりと舌まで出したら半殺しで許してやろうと思う。そうして仕掛け人を見つけ出し、生まれてきたことを後悔するまでぶん殴る。
 だが、少女は鋼の想像をいくらかだいぶ超えてきた。
「この薬を正しい用法・用途を守って服用すれば、あなたは、特殊な能力に目覚めます」
「特殊な能力?」
「簡単に言ってしまえば、超能力です」
 はっ。
 お笑い種だった。
 この期に及んで超能力か。捻りも何もなくてかえって脱力してしまった。そうだろうな、その程度がせいぜいで、これ以上の驚きを引き起こす悪戯というのはちょっとやそっとのセンスと才能じゃおっ着かない。誰が描いた絵だか知らないが多少はハラハラさせてもらった。だが、それも仕舞いだ。劇は終わった。役者には帰ってもらおう。
 鋼は立ち上がった。もはや容赦しなかった。まだ一度も使ったことのないガラスの灰皿を鷲づかみにすると躊躇うことなく少女の背後に向かって投げた。引き戸のガラスが粉々に砕け、灰皿のそれと混じりあって小さな欠片になって畳に降り注いだ。
 ひどいことをしている自覚だけはあった。
「帰れよ。もう遊びは終わっただろ? 彼氏んとこ走っていって、よくできましたって褒めてもらえよ。仕掛け人は誰だ? 虹山ジムの田口か? それとも猿渡のおやじんとこの馬鹿兄弟か。どっちもスパー組んだ時に壊れるまで殴っちゃったからな。ごめんって言ったのに。まあなんでもいいやとっとと帰れ、俺は忙しいんだ、あんたが投げ捨てたエロ本とちょっと野暮用があるんでな」
 少女は動かなかった。
「仕掛け人なんて、いません」
 鋼は一瞬、二の句が継げなかった。だが、ここで怯んだらこっちの負けだ。息をそっと吸う。小さく細かく速く、言葉のショートパンチで一気呵成にまくし立てた。
「ああわかってるよ皆まで言うな、そう、確かにあんたの言う通り仕掛け人なんていなくって、俺はその怪しげなチョコを食べて超能力に目覚めるんだろう。急に力が身体に漲り、だるさは消えてお目目ぱっちり、それはひょっとすると麻薬をキメた時に似ているかもしれないが、それは神をも信じぬ哀れな愚か者の常套句で、あんた方のは正真正銘の神通力、たとえ本当に空に浮かんでなんていなくたって俺がそうだと信じてられればそれでよし、いったい何の問題がある? 片腕を失ってこんな狭苦しい牢獄同然の六畳間でエロ本片手にかつての栄光に浸るしかないどうしようもなく哀れなこの俺が救われるには信仰を深め壷を買いあんた方の言うところの神の言葉を代弁する教祖さまに誠心誠意尽くすほかにはないんだ。それには一にも二にもまずカネで、あんたたちはそのチョコだかなんだかで俺をふらふらの狂信者に仕立て上げ、足元もおぼつかない俺の襟首を猫みたいに掴み上げながら俺の親類縁者にこう言うんだ、カネを出せばこいつを救ってやる。そうして昔は一家に錦を飾ったこの俺に、みんなはお金を出し合ってくれ、あんたたちはそれを拾うために俺から手を離し、あとには自分ひとりで小便にもいけないズタボロのジャンキーに成り果てた腕一本の生ゴミがその場に取り残されるという筋書きだ。
 ちがうか?」
 きっと聞いていなかったに違いない、と鋼は思った。
 少女はなんの顔色も浮かべていなかった。本当に自分がまだ何も喋っていないのではないかと疑ってしまう。息が切れていなければそう信じて、もう一度まくし立てていたかもしれない。
 少女は、鋼を見上げて言った。
「同じだとは思いませんか?」
「あ?」
「いま、ここで私の誘いに乗って、この欠片を飲んで――そう、気づいているかもしれませんが、私は薬の効果が現れなかった時、百万円を差し上げると言いました。では、もし薬が『効いて』しまったら――」
 薬が効いてしまったら。
 少女の目は、どこまで落ちていけそうな深さを湛えている。
「新しい力に目覚めるか、さもなくば――死」
 死。
「それの」
 上擦る、
「それのどこが同じなんだ。百万もらうのと、超能力者になることと、死ぬこと――どれがどう一緒だって言うんだ」
「同じですよ」
 今度は少女が貫くように目を離さない。
「ここにいる限り、いえ、もう一度あの強さを取り戻さない限り、あなたは死んでいるのと同じです」
 死んでいる。
 俺が?
 いつかも聞いた、セリフ。
「あなたは私に色々とまくし立てましたが、そのどれもが本当でも構わないとは思いませんか。仕掛け人がいる? そうされても仕方の無いと思えるほど情けない男が私の目の前に今います。新興宗教が金ヅルのジャンキーを増やそうとしている? お言葉ですがもし仮にそうであったとしても、あなたにお金を払ってくれる親類縁者などいないことはすでに調査済みです。薬が効かない? よかったですね、これからも続くこの下らない耽美な世界を私が差し上げる百万円でほんの少し豪華にしたらいかがです。死ぬ? だからなんだと言うのです。いま、この部屋でくすぶっているあなたのことをいったい誰が生きているなどと言えますか」
 鋼は、一言も返せなかった。
 首を切られて転がり落ちて、自分の身体を見上げている生首の気持ちがした。
「ですが、一つだけ確かなことがあります。もしあなたが死なず、負けず、新しい力を得ることができたら、脳の中にある未知の力が詰まった宝石箱のフタを開けることができたなら、約束しましょう。あなたをもう一度、リングへ上げてみせると。――もう一度、リングへ上がりたくはありませんか?」
 もう一度、リングへ。
 どれほどその言葉を待っていたか知れない。
 思えば奇妙な話だ。エロ本の中から飛び出してきたような女の子が俺に生きるか死ぬかをとっとと決めろと迫ってくる。
 もう一度リングへ上がりたいかだって?
 上がりたいさ。
 いますぐグローブ持ってジムに来いと言われればきっとすぐに飛んでいくし、左手一本だろうと尻込みなんて絶対しない。この左で世界ランカーの鼻っ柱だってへし折って、その頭蓋に二度と立ち上がれない激震を走らせてやる。
 もし、もう一度、
 俺に居場所をくれるなら、
 今度は絶対、
 離さない――
 鋼は少女の顔を見た。そして、差し出された、その手の中にある一欠片のチョコレートを見た。シャーベット状の透明な外殻はこの暑さと少女の体温でかすかに汗をかいていて、その中に、どろりとしたチョコレートそっくりの溶液がなみなみと満ちている。
 鋼は言った。
「もう一度聞かせてくれ。――なんで俺なんだ」
「言えません」
「俺を選んだのは誰だ」
「私です」
「じゃあ、俺が死んだらあんたのせいだな」
 初めて、少女の顔色が変わった。
「――そうです」
 鋼は、少しだけ頬に赤みの差した少女の顔をじっと見た。そして何も言わず、その指先からチョコレートに似たまったく異質な何かを受け取った。
 掌に乗せる。
 思った通りの、氷そっくりの手触り。表面に浮いた氷の粒々がいつかどこかで食べたアイスを思い出させる。その冷たさが急かしてくる、悩むのはいいが、溶ける前にしてくれよ。
 鋼はそれを口の中に放り込んだ。右の奥歯に舌で押し込む。なぜだか少女の目が見れなくなって、畳に残った誰がつけたものとも知れない傷跡を見つめた。次第にそれも焦点がぼけてきて、鋼は無意識の緊張の中に溶けていった。鋼はもう何も見てはいない。
 思い出す。
 あの時、会長は心から自分を心配してくれていたのだ。何もかもが変わってしまったあの日、9Rが終わってニュートラルコーナーに帰ってきた時に聞いた白石会長の助言は最初から最後まで何一つ間違っていなかった。自分は精密検査を受けるためにリングを去るべきだったし、もしそうしていたらベルトこそ獲れなかったが自慢の右を失うこともなかった。脳にこそ甚大な障害は発生していなかったものの、運命的には会長に従うことが正しかった。
 だから、今日もそうなのかもしれない。この欠片を口にしたら自分はあっけなく死んでしまうのかもしれない。いまここに白石会長がいたらそんな怪しげな女の差し出す毒薬まがいのゲテモノなんか口にするなと言ってくれるのかもしれない。だが、それでも、鋼の耳には少女の言葉がわんわんと反響して鳴り止んでくれない。
 ――もう一度、リングへ上がりたくはありませんか?
 鋼は少女を見た。少女も鋼を見た。
 最後に聞く。
「あんた、名前は?」
 少女は一瞬、躊躇った後に名乗った。
 それを聞いて、鋼は笑った。
 とりあえず、冥土の土産はこしらえた。
 笑いながら、躊躇わず、
 鋼は奥歯を噛み締めた。

 ぱキッ

 氷の外殻が砕け、中の溶液があふれ出した。舌先にそのどろりとした食感を覚えた瞬間、鋼の脳みそが電流に撃たれた。目玉が破裂するかと思った。その場に倒れ込み、痙攣し始めた身体を抑えることもできず、鋼はただ自分を見下ろしてくる少女の顔を滲んだ視界に捉えていた。その表情は曇った瞳に遮られてよく見えなかった。
 遠のいていく意識を感じながら、鋼は思う。
 綺麗な薔薇には、棘がある――きっと恐らく、毒だって。
 どうして、もっとよく考えなかったのだろう。
 いまさら気づいても、もう遅い。
 だが、よく考えてみたところで、何が変わる?
 べつに、いまがいまだから誘いに乗ったわけじゃない。
 俺は、いつだって――……


 答えに辿り着く前に、意識がブラックアウトした。

     



 目を開けると、見知らぬ天井があった。鋼はぼんやりとそれを見上げている。
「ここは……?」
 もう、眠気や倦怠は身体のどこにも残っていない。鋼はかけられていた布団を蹴飛ばすように跳ね起きた。腹をすかせたけもののようにあたりを見回す。
 そこは病室のようだった。鋼も、病人用の貫頭衣を着せられている。
 金髪の男が、ベッド脇の冷蔵庫を覗き込んでいた。
「おい」
「ん? ああ、おはよう、黒鉄くん。調子はどう?」
 振り返った男はミラーグラスをかけていて、目元が見えない。が、歳は鋼とさほど変わらないだろう。十七か八か。くたびれた白衣を着ている。男は鋼の答えを待たずにベッド脇の電話を取って耳に当てた。
「もしもし、涼虎ちゃん? うん、そう、起きたよ。顔見せてあげてよ。僕まだ彼と喋ったことないし、正直気まずいんだよね」
 そういって金髪の男はへらへらと笑った。本人を前にしてよくもまあ口走ったものだが、かえって鋼はそれで警戒を解いてしまった。
 金髪の男は通話を終えて電話を元に戻した。
「えーと、やっぱりこういう時って初めましてかな? 僕は殊村真琴って言います。特異研の所員で――ああっと、どこまで話聞いてる?」
 鋼はぶすっとして答えた。
「変な女が変なチョコ食べたらリングに上げてくれるって言ってた」
 金髪――殊村はあちゃーとアタマをかいた。
「全然事情説明されてないっぽいね。話しても無駄だと思ったのかな涼虎ちゃん。参ったなあ――ええと、じゃあ、涼虎ちゃんの名前は知ってる?」
 知っていた。あの黒髪の少女が名乗った名前が、確か、
「枕木涼虎……」
「そうそう。それは聞いてたんだ」
「名前も知らないやつに殺されたらたまんねーよ」
「ははは、確かに――おや、お早い到着だ」
 部屋にひとつしかない扉から涼虎が入ってきた。今度はカーディガンではなく白衣を羽織っている。鋼は「よっ」と片手を挙げてみせた。
 涼虎はつかつかと鋼が座っているベッドに近寄ると、おもむろに顔を近づけてペンライトで瞳孔を覗き込んだ。
「どこか体調に異常は?」
「みんなそれだな。むしろ気分爽快だよ。腹減って腹減って死にそうだ。なんかくれ」
「食べ物? そうですね、いまチョコレートならありますけど」
 涼虎がポケットから取り出した板チョコの包みを見て鋼は嫌そうな顔をした。
「甘いのはいい」
「そうですか、じゃあ私が食べます」
「なんでそうなる。……鼻血出るぞ?」
「大きなお世話です」
「気が強いやつ。……ああそうだ、真琴くんがさ、おまえは事情をろくすっぽ説明もしないでアブナイ薬をいたいけな俺に飲ませたひどいやつだって言ってた」
 涼虎が無言で殊村を睨んだ。殊村は汗だくになって「言ってない言ってない」と両手をぶんぶん振っている。
「りょ、涼虎ちゃん落ち着いて。いまは僕にメンチを切ってる場合じゃないよ。黒鉄くんがちゃんと『目覚め』たのか確かめないと……」
「それならすぐに済みます」
 言って、涼虎は白衣の胸ポケットからボールペンを抜き取った。診断でも始めるのか――と鋼はのん気に思っていたが、大間違いだった。
 鋼の動体視力でも追い切れない手錬れさで、涼虎がボールペンを鋼の顔に向かって投げた。

 ぱキッ

 いつか聞いた、あの脳の中のどこかが切り替わる音。
 鋼はごくっと生唾を飲み込んだ。
 眼球すれすれの空中に、ボールペンが制止していた。そして鋼が目をそらす暇もなく、ぐしゃり、と紙くずみたいに捻られて真っ二つに弾けとんだ。鋼は左手で顔を庇った。
「あぶねっ」
 ふむ、と涼虎がこともなげに息をついた。隣の殊村は涼虎の突然の凶行に震え上がっている。
 鋼は心臓を抑えながら涼虎を睨んだ。
「枕木、おま、おまえな、今のは人間のやることじゃないよ」
「そうでしょうか。ボクサーは目で見るより速く、ボールペンが飛ぶより速く拳を出せると聞いていたので、もし『目覚め』ていなくてもどうにかなるかと思ったのですが」
 そんなもの時と場合によるに決まっている。せめて左手にあらかじめ「頑張ってね」ぐらい言っておいて欲しかった。いきなりだったから左もビックリしたと思う。
 鋼と殊村が「この女ちょっとおかしいな」という意思を視線で通わせている間に、涼虎がねじ切れたボールペンの欠片を拾い上げた。
「ですが、実験は成功したようですね」
「俺は今、人体実験という言葉の意味を体感したよ」
 涼虎は鋼のクレームを無視して、続けた。
「これがあなたの手に入れた力、その末端です。これからあなたにはもっともっと強い力を操ってもらいます。私たちのために、そしてあなた自身のために」
「そう、そう、それよ」
 鋼は左手の指をぴっと伸ばした。
「俺は一体全体、何をすればいいんだ? リングに上げてくれるとは聞いたけど、まさか超能力を使って人間を次から次へと虐殺しろなんて言わないよな」
「したいんですか?」
「したくない」
 即答した。
 涼虎は少し間を置いてから、続けた。
「まず、自己紹介と私たちの目的を改めて話しておいた方がいいでしょう。私と殊村くんは、ありていに言えば、超能力開発に携わっています」
「で、何ックスファイルなのその話?」
「それ以上茶化したら身ぐるみを剥ぎます」
 鋼はかけ布団を胸元まで引き上げてぶるぶる震えた。涼虎はそれを苛立たしげに睨む。
「超能力開発というのは、公にはもちろん知られていませんが、ある種の薬を人間に投薬することによって行われています。あなたが私と初めて会った日に飲んだあれも、そのひとつです。我々は、より強い能力を発現させられる薬を作り出すための研究機関の人間なのです」
 殊村が割って入ってきた。
「そうそう、特別な異常現象の研究所、正式には『Deep Underground ESP Laboratory』って言ってね、デュエルって略すことが多いかな。日本には七つ支部あるんだ。ここはデュエルの第七研究所で、涼虎ちゃんはその所長。僕は下っ端」
「あなたには、私たちが作る新薬――アイスピースと呼ばれています――の被験者になって欲しいのです」
 鋼はふむふむと頷いた。
「なるほど、それで『治験』だなんて言ってきたってわけか」
「そういうことです」
「じゃあ、俺はただクスリ飲んで、あんたらの実験に付き合えばいいのか? なんかの測定器みたいのに繋がれて、こう、人型のターゲットみたいなのをウルトラサイキックパワーでバコバコぶっ壊せば三度のメシにありつけるのか?」
 鋼は笑った。
「ちがうよな」
 涼虎は、――顔を背けた。
「あなたには、人体実験に参加してもらいます」
「ボールペン投げられるよりも厳しいやつか」
「ボールペン投げられるよりも厳しいやつです」
「へえ。どんな?」
「我々の目的はブラックボックス能力の測定とさらなる強化――最終的にはブラックボックスの『解放率』一〇〇パーセントに到達できるアイスピースの開発を目指しています。しかし、能力や性能というものは必ずしも定例通りにやっていて限界を超えることはまず、ありません。練習だけでは意味がないのです。実戦を踏まえなければ、本当の価値、本当の強さはわからない」
「同感だね」
「あなたには試合をしてもらいます。べつのラボにいる、あなたと同じアイスピースを飲んだ被験者と、何を壊しても許されるフィールドで。脳の中にあるブラックボックスをクスリで叩いて開けて、超常の力を相手とぶつけ合うのです」
「……もし負けたら?」
「結果を出せない研究施設に資金を下ろしてくれるところなんてありません。『上』が求めているのは、より強力なアイスピース、ただそれだけです。結果、結果、結果――それを提供できなければ我々研究員は役目を失い、秘密を知ったあなたも本土には戻れない」
「何?」
「勝つことです」
 涼虎は言った。
「勝てば、すべてが解決します。それが、あなたの新しい仕事です。超常の力を相手とぶつけ合って勝ち、自分の飲んだアイスピースの効果と精度を証明し、我々はそのデータを国家に収めて資金を融通してもらう。ギブ&テイクです。なにか問題がありますか?」
 なにもないようにも思えるし、問題だらけのような気もした。
 どっちにしろ、同じこと。
「ふうん――」
 鋼は深々とベッドに身体を沈めた。そして、どうでもよさそうに聞いた。
「死ぬの?」
 答えはなかった。
 それが答えだった。
「率直に答えてくれ。どうせ滅茶苦茶な実験なんだろ。どれぐらいの割合で人が死んでる?」
 涼虎でなく、殊村が答えた。
「そうだね、ボクシングでたとえるなら、13R以上で殴りあった時に起こるリング禍よりかは、多いかな。たぶん。数えてないけど」
「…………」
 鋼は目を閉じた。そのまま、涼虎の話を聞く。
「詳しい調整はこれからになっていくとは思いますが、数日中にも、最初の測定試験を受けてもらうことになると思います。その時はまだ対戦形式ではありませんから、安心してください」
 鋼は答えずにヒラヒラと手を振ってみせた。涼虎はちらっと殊村を見て、
「それでは、私はこれで失礼します。……殊村くん、彼のことをお願いします」
「了解」
 涼虎が去り、殊村が椅子に座って文庫本を読み始めた頃になって、鋼はぱちりと目を開けた。
「真琴くん、連れションいこうぜ」
「……ひょっとして、タイミングうかがってたの?」
 鋼は笑った。


 病室を出ると、ほとんど真っ暗だった。ところどころに非常灯が灯っているほかは、明かりはすべて落とされている。真夜中の病院かと思ったが、窓がひとつもないので昼なのか夜なのかもわからない。地下なのかもしれなかった。
 スリッパを履いた鋼の足がよろけた。殊村がそれを支える。
「悪いな、なんかフラフラするんだ」
「無理ないよ。『ノッカー』を初めて飲んだ人間は、みんなしばらく平衡感覚を失うんだ。まあ、他の『ダーク・ロイヤル』とか『ヴァンプ・メーカー』とかに比べれば軽い方だけど」
「……ノッカー?」
「君が最初に飲んだアイスピースだよ。涼虎ちゃんに渡されたやつ。一番古くて、一番やさしいんだ」
「ああ、あれ。ノッカーって言うのか。マズくしてしょうがなかったぜ。あいつきっと料理も下手だな」
「言っておくよ」
「やめて」
 二人して、トイレを目指して廊下を進む。次第に鋼は回復してきて、支えなしに歩けるようになった。殊村は少し驚いていたようだが、鋼からすればちょっと過保護に見える。
「にしても、これから俺も超能力者かァ。そんなの名乗ることになるかと思うと気が重いな」
「ハハ、今はもうそんな呼び方してないよ」
「そうなの?」
「うん。さっき涼虎ちゃんが言ってたろ? 僕たちの作る薬――アイスピースは人間の脳のブラックボックスを揺さぶって超常の力を引き出させる。その力を使う君たちのことを僕らは」
 鋼は次の言葉を待った。
 殊村は、それを言った。
「ブラックボクサー、って呼んでいるんだ」


 思えば。
 自分は決してボクシングが好きだったわけじゃない。
 ただ、それが自分にできることだっただけ。
 勉強するより、働くより、拳を振るっている時が一番誰かに認めてもらえたというだけのこと。
 ボクシングのことは愛していたが、決して好きじゃなかった。
 奇妙な言い回しだが、鋼の中では確かに、そういうことになっていた。
 その言葉の責任を取る時がやって来たのかもしれない。
 鋼は、残った拳を強く強く握り締めた。
 傷になるほどに。
 前を向く。
 やってやろうじゃないかと思う、その口元は、懐かしい知り合いを見つけたように、
 笑ってる。

     


 白い空間の中に、鋼はいる。




 四方三〇〇メートルの立方体。壁面と床にはチェス盤のようなマス目が張り巡らされ、天井は開閉機構があるが、いまは閉じている。鋼の左手に提げられたビニール袋にはチョコレートのようなブラックボックス・ノッカーがぎっしりと詰まっている。ベルトに袋を引っ掛け、左手で一欠片つまみ、口に放り込んで噛み砕く。

 ぱキッ

 氷殻が割れて、溶液が溢れ出し、舌の上にぴりぴりとした電気の味が広がる。その味は、昔ふざけて舐めたブラウン管テレビの画面の味。涼虎に飲まされた時は舌が爛れそうな苦さしか感じなかったが、いまではもうだいぶ慣れてきていた。
 鋼は左手で、左右の腰に吊っているリング状のグローブホルダーから手袋をひとつずつ引き千切った。左は白、右は黒。甲にはそれぞれ白には赤、黒には金の英数字で「1」と記されている。
 それを宙に放った。
 ふわり、とそのまま木の葉のように落ちていくかに思われた手袋がなんの支えもなく制止する。
 はめ手のいないエナメル質の手袋が、蠢く。まるで透明人間が鋼から手袋を受け取ってはめて見せたかのような念力(ハンドキネシス)。
 鋼はそれに驚きもせず、なにもない空間を向いている。その瞳に、眼前をパリパリと覆っていく氷の殻が映り込む。
 鋼の周囲半径一・八メートルに氷の球が張った。その透明な表面にはささくれ立った細かな霜がまとわりついている。だがその強度は見かけは似ている砂糖菓子とは一つも二つもデキが違う。
 球状の障壁は重なるように二層連なっている。本番では三層らしいが、旧型のノッカーでは二つまでしか障壁を張れない。なんらかの事態を受け、一層が砕かれた時点でテストは終了、鋼は涼虎から赤点をもらうことになる。
 氷殻の中で、鋼はゴキゴキと首を鳴らした。
 ――クロガネくん、準備いい? いいなら星、出しちゃうけど。
 アタマの中に直接、少女の声が響き渡ってくる。この精神感応能力者(テレパシスト)の正体を鋼はまだ知らされていないが、もう七度もアドバイザーとしてテストに付き合ってもらっている。そのおかげで、もうすっかり無線(テレパシー)にも慣れたし警戒心も融けていた。
 ――ああ、いいよルイちゃん、やってくれ。
 ――はいな。
 空間の隅、開いた四方のハッチから長距離砲台がせり上がって来て、てんでばらばらの方向を照準する。見た目は鉄製の長筒に過ぎないし、構造はピンボールの親戚のようなものだったが、内部に積み込まれたスプリングに人体が巻き込まれればミンチを通り越して霧になる代物だ。そこから撃ち出されるものと激突するだけでも人間の身体なんぞはバラバラに吹っ飛ぶだろう。
 ――注意事項、言えってリョーコちゃんがうるさいからもう一回言うね。噴射(スプレイ)の残量に気をつけること。エレキは絶対一回までしか使わないこと。極力キスショットはしないこと。アイスが割れたらすぐに離脱すること。ハンドの射程は一八〇メートル、星に引っかけて引きずり込まれないようにね。
 鋼は頷きもしない。もう七度は聞いている。いまさら言われるまでもない。
 アタマの中の声が静まると、無音があたりを包んだ。緊張のせいで、障壁がかすかに唸る音も聞こえない。

 どムッ

 粘っこい音を立てて、四方の大砲が詰め込まれていた中身を猛烈な勢いで吐き出した。その正体は特別製のゴム・ボール。計算され尽くした角度で放たれたそのボール群、通称『星』は空間の広さをまったく感じさせない速度で鋼へと激突する軌道に乗っている。このまま動かなければ鋼は星に吹っ飛ばされ、衝撃の入力具合ではその一撃で障壁を一枚割ることになるだろう。
 もちろん、そんなことにはならない。
 鋼は軽く腰をたわめると、左方上段から突っ込んでくる星を睨んだ。睨んだまま、鋼の背中のあたりの障壁から、燐粉のような光の粒子が瞬き始めた。
 ――来るよ!
 光の粒子が、青い炎へと変わる。鋼はスプレイで一気に加速、青い炎のジェットで星の一発を綺麗にかわした。獲物を失った星が白い床を一瞬噛んで、ゆるいL字を描いてまた別の壁めがけて吹っ飛んでいった。
 鋼は背面飛行気味にその光景を見送っていたが、ふと首を捻ると回避不能の位置と軌道と速度で星がまた一発迫って来ていることに気づいた。かわせない。鋼は目を瞑る。
 ぶつかる――
 が、
 激突寸前、鋼の左右からミサイルのように白(ひだり)と黒(みぎ)が待ってましたと発射され、星をそれぞれのやり方で弾き飛ばした。白は見慣れた角度でフックを入れ、黒は芯こそ外していたが寒気のするショートアッパーを叩き込んだ。
 ギャるるっ
 弾き飛ばされた星が空間の隅に引っかかった。星を撃ち出した大砲はすでにハッチの下で眠っている。行き場のないエネルギーが空転の度に失われ、とうとうひとつの星が完全に沈黙、コロリと転がった。
 これで一点、である。
 四つの星を完全に停止させるか、破裂させること。それがこのテストの趣旨である。それを完遂するまでこのテストは終わらない。
 鋼は床を離れて空中へとスプレイした。天井へ足を向けて逆さになり、地面から跳ね返ってくる三つの星を見上げる。苦手科目の空中戦だが、恥をかいた第一回目のテスト以降、ベッドの中でいろいろ考えていたのは伊達じゃないところを見せてやろう。

 まるでそれそのものに意思があるかのように、星は何度跳ね返っても鋼の障壁と接触する軌道で飛んでくる。そのことごとくを、イメージトレーニングで鍛えに鍛えたスプレイさばきで鋼はかわしていく。その作業はまさに、神経を『使う』もの。
 失速から復速、からかうように鋼は星と交錯し、すれ違い、翻弄する。ギリギリでかわせない軌道にあったものは白と黒で弾き飛ばした。そのうちにまたひとつ、四方の隅で終わりのない空転へと放り込んでやり、二点目を獲得した。
 ――いいよ、クロガネくん、その調子! 次はもう少し旋回を細かくしてみよっか。
 了解。
 ――あ、それとね、スプレイで加速する時にグローブの精密動作、鈍ってるよ。気をつけて。
 バレていた。言葉遣いや性格はどこぞのボールペン女(!)とは天と地ほどの違いがあるが、手持ちの選手の癖や傾向を見抜く力もなかなかどうして立派なものだ。実験中の『ブレイン』として、アタマの中で話しかけてくるようになったこの少女らしい人物と鋼はまだ会ったことはないが、きっと美少女に違いない。
 そんなのん気に構えていたのが間違いだった。
 ――危ない!
 衝撃。
 鋼を包む氷殻はそのまま押し出され壁面に激突、そのままコンマ数秒意識を失ったまま空中を彷徨った。はっと瞳に再び光が灯った時にはもう星が目の前まで迫っていた。射程距離に引っかかった白と黒が本体である鋼に引きずられて吹っ飛んでくる。
 やられた。
 どうやら飽き性の自分は七回も同じ訓練を積んでいつの間にか嫌気が差していたらしい。使えば使えたものを意味もなく温存しておいたのがそのいい証拠だ。
 鋼はがりっと唇を噛んだ。舌に触れる血の味で意識を戦闘に釘付けにし、白(ひだり)を自分と星の間に挟んだ。
 その掌に陽光のような輝きが生まれる。
 その光球を、撃った。
 掌から放たれた輝く球と星が衝突し爆発、炎上。黒煙が上がり、視界が煙る。
 火炎放射能力(パイロキネシス)。
 これも脳のブラックボックス領域から引きずり出された力のひとつ。白(ひだり)から火球を放つが、威力はそれほど高くない。
「――――……」
 鋼はスプレイで軌道を変えた。
 案の定だ。
 星は黒煙を突破して、煤まみれになりながらも突っ込んできた。もう一つの星も鋼を弾く軌道に乗っている。鋼は白をかざし、連続して細かく三方向に火球を放つ。黒(みぎ)はガードとして自分を取り巻く衛星軌道に乗せておく。スプレイで加速。
 ――クロガネくん、パイロ、もう少し頑張ろっか。
 ルイの言葉を脳で聞き取り、なんだかちょっと情けない気持ちになる。
 涼虎や殊村が言うには、熟練すればノッカーのパイロでも星を割ることはできるらしいが、いまの自分では煤をつける程度が精一杯だ。もっともパイロキネシスとスプレイダッシュは後天的な習熟が比較的に簡単で、発現した時にほぼその素養が割れるエレキや障壁に比べればまだ希望があるそうだが。そういえば、ジムメイトで後輩の楠春馬は基礎練の中でもフットワークが大の苦手で、よくリングの上で足をもつれさせてはスッ転んでいた。鋼はよくそれをからかいつつも、ロードワーク中にわざとちょっかいをかけたりして後輩の足腰を慮ってやったものだ。そんなあいつが自分の跡を継ぐように全日本新人王になったのは、もうどれぐらい前のことだったろう……西の新人王をKOで下したあいつの足腰は、あの時にはもう、紛れもなく本物だった。
 いまは、昔のことを思い返している時じゃない。
 鋼はアタマを振って懐かしさを追い払った。春馬だっていつまでもガキじゃない、俺のことなぞ忘れてもう自分自身の道を見つけているはずだ。見つけていなければならないのだ。
 鋼は煤けた星の群れを見やる。パイロが効かない以上、鋼には勝利条件が限られている。これまでの二つのように角に叩き込んで空転させるか、あるいは、『右』を使うか。だが、黒は発現してから今までずっと調子が悪いままだ。狙った方向へはまず飛んでいかない。まるであの、いつまで経っても慣れなかった義手のようだ。金属とバネで出来た偽物の骨格を鋼の中の『何か』が拒んでいる――そんな気がしてならない。
 だが、この空中のど真ん中でもっとも希望を持てるのは黒の拳に宿った電磁攻撃能力(エレキキネシス)しかない。不調の黒もエレキのトリガーが引けることだけが救いだ。
 鋼には不思議でしょうがなかったが、ブラックボクサーが使えるサイコキネシス――物に触れずに力を伝える超能力――の対象は白と黒の手袋にしか発動できない。他の対象には発動しなかったり、してもいつぞやの恐るべきボールペンのように破裂してしまうことがほとんどだった。そのことについて涼虎はこんなことを言っていた。

 ――我々が研究している脳のブラックボックス領域、『b2野』は言語野と深いかかわりがあるようなのです。ブラックボックスというのは『入力』と『出力』の間の相互関係が不明な事象へつけられる形容ですが、それでもブラックボックスが『出力』している時に脳のどの部分が発火しているのかは機材を用いれば簡単にわかります。そしてブラックボクサーが能力を使っている時に発火しているのは、言語野のすぐそばなのです。
 ――言語と手先を使った身振りの関係について、黒鉄さん、あなたはいま何も理解していない顔をしていますからあんまり長くは言いませんが、あなたでも喋っている時に手先を動かすことくらいあるでしょう。あれは無意味な行動ではなく、意味のあることなのです。それはわかりやすく伝えようという意思の表れかもしれないし、あるいは言語そのものの起源が他者の『模倣』から始まっていることもひとつの原因かもしれません。その二つには繋がりがあり、身振りを行っている時に脳が発火するのは、運動野ではなく言語野なのです。あなた風に言えば、『拳で語る』ですか。あれもまんざら笑えた言葉じゃないということです。
 ――なぜブラックボクサーが手袋にしか完全なサイコキネシスを発動できないのか、私にもまだわかりません。私が語ったこれらのことが関係しているかもしれないし、そうじゃないかもしれない。そこはまだ研究途上どころか観測途上の問題なんです。
 ――それから黒鉄さん、食堂でスプーンを無駄にねじ切るのはやめてください。スタッフの方から苦情がありました。ええ、もう問題はありません。破壊されたスプーンの弁償代金はまだ未払いのあなたのお給料から支払いましたので。

 おかげで鋼は購買部でエロ本も買えない日々を送っている。
 今後なにが起ころうとも勝って生き延びなければエロ本だって買えないままなのだ。それは物凄く困る。
 ので。
 鋼は今度こそ狙い済まし、飽きもせずに突撃してくる星に向かって、黒を撃発(トリガー)した。
 脳の中の神経が冷たく燃えて唸り出す――

 ばヂヂヂヂヂッ……

 黒が青白い光の棘に包まれた。ささくれ立った拳がイオンの焼けるにおいを残して、そして、
 消えた。
 目玉をくりぬかれた生き馬のような発狂的軌道、獲物との距離を瞬間に殺害した拳が、星をかすめて飛び抜け、真白の内壁に激突し耳を劈く音を立てて電撃の火花を散らした。ズタズタになった黒のきれっぱしが落ちていく。鋼は舌打ち。
 外した。
 これなのだ。
 どうやってもまっすぐに飛んでくれない。
 普段もひどいがエレキを引いた時はもっとひどい。いまはかろうじて掠めたから格好だけはついたが、ほとんどの場合がむしろ獲物から逃げているのではないかと思える軌道を黒は取る。こちらへ向かって飛んでこないだけよくやっていると褒めてやりたいほど、デキの悪い右だった。
 ――クロガネくん、気にしないで。落ち着いてね。エレキは一発、わかってるよね。
 無駄口を叩かずにブレインのルイが静かな口調で言う。心なしか緊張が聞いて取れる。それもそのはず、なぜこうまでルイたちが『エレキは一発』に拘るのかと言えば、それが鋼の生命そのものに直結しているからだ。
 アイスピースを飲み、ブラックボックスを『ノック』した場合、奇妙な符号がひとつある。スプレイやパイロ、アイスは残量が個別にある。スプレイを使い切ったからといってパイロまでガス欠ということにはならない――脳の特性として一つの能力を『切』れば他の能力に余った力が補填されることはある――が、エレキだけはひとつのサイキック能力と使用残度が直接に連結している。
 それは『シフトキネシス』、つまり『瞬間移動』だ。
 シフトはスプレイの噴射よりも確実な回避だ。コンマゼロゼロ秒も必要なく瞬間的にその空域を離脱できる。ノッカーにおけるテレポートの距離などたかがしれているがそれでもこの空間三つ分くらいの飛距離はある。それはつまり星に鋼が殺されかかった時の最後の命綱がシフト能力であり、エレキの残度ということになる。その残度は『ノッカー』では二発。
 ゆえに、エレキ使用限界が二発ということは、シフトも二回までということ。一度のテストで二度エレキを使えばもうシフトは使えない。
 この時点でもはや、鋼の勝利はないに等しい。
 これまで偶然四発とも角に叩きこめた第三回と第五回のテストを除いて、すべてこのままジリ貧になりスプレイ切れか、障壁を一枚割られての離脱で終わってきた。気にすることはない、とルイも殊村も言う。あの涼虎だってそう言う。だが、それでは駄目なのだと鋼だけが思っている。
 それでは何も変えられないのだと、鋼だけが信じている。

 ぐしゃっ

 祟り目に弱り目。捻りこみのパンチを当てて軌道を変えようとした白が逆に弾き飛ばされて破裂した。黒はいくらでも補給が効くが、白は補給することができない。最初にマウントしていたものだけでやるしかない、だから白と黒をひとつずつしかマウントできないノッカーでは一度やられれば白はそれまでなのだ。
 鋼は目を細めた。腰のグローブホルダーから黒の2番を千切って放る。
 ――クロガネくん?
 黒をマウント。星は上手い具合に安い軌道でこっちへ向かってきてくれる。時間はたっぷりありそうだ。
 ――クロガネくん!

 俺は、リングに上がりにきたのだ。
 モルモットになるためでも、エクササイズのためでもない。
 勝ち負けのやり取りをしに、こんな場所まで流れて来たのだ。
 今度は外さない。

 鋼は、黒を撃発(トリガー)した。
 ばヂィッと寒気のする音と目を焼く光の尾を引いて、黒が吹っ飛んでいく。鋼は全神経を使いに使った。一瞬でも気を抜けば黒はどこへとも知れない負け方へ吹っ飛んでいくだろう。そうはさせない。俺はいつまでもこんなところでグズグズしている暇はないんだ。俺の右を名乗るなら、俺の右らしい一発を見せてみろ。
 黒は、やはり、まっすぐには飛んでくれなかった。
 だが、少々ジグザグながらも中心線は確かに星を捉えていた。
 いい一撃だった。
 粉々になった星の欠片が降って来る。鋼はそれを眩しそうに見上げた。
 その背中に、最後に残った星が迫る。
 鋼は振り向いた。
 脳の中でルイの声がこだまする。
 ――クロガネくん、クロガネくん! もう無茶はしないで、すぐスプレイで上がってきて!! 今ハッチ開けるから!!
 それは困る。途中終了じゃ戦績に残らない。星を捕獲するための粘液が噴射されるまであと二秒とかからないだろう。
 その前にカタをつける。


 黒はボンクラ、白はない。
 となると最後の手段だ。


 鋼は息を吸うと残った一つの星に頭から突撃した。
 ガマン比べだ。
 ――ちょっ、クロガネくん駄目だって、避けて!
 避けない。
 星と真正面から衝突(キスショット)。
 氷殻が二枚とも砕ければ無事では済まない。
 だからこそ、やる価値がある。
 衝撃。
 目の前でダメージを受けた氷殻が極彩色に輝き、異物の侵攻に震え慄きながらも抗う。その向こうで、飢えた速度の『死』が唸りを上げている。その『死』は少し気を抜けば、喜び勇んで鋼をバラバラにするだろう。後腐れもなく鋼をただの無残な肉片にしてくれるだろう。この向こうにあるのはただのゴムボールだが、いまこの瞬間だけは、そんじょそこらのゴムボールとはワケが違った、鋼を殺すかもしれないゴムボールだ。
 氷殻に亀裂が走った。
 欠けた精神の欠片が剥がれて落ちる。まぶたの裏に光の亀裂が走って喉の奥から血の味がする。衝撃に反応した氷殻が悲鳴のような極光を垂れ流して目を開けていることも難しい。

 鋼は思う。
 難しいことは、わからない。きっと教えてもらっても、そうだろう。
 ただいつも、鋼の前には自分に『できること』があって、そこから目を逸らせば数え切れないくらいの自分には『できないこと』が待ち受けている。
 鋼にできることは、少ない。
 だから、できることからだけは逃げたくない――

 鋼は、吼えた。

 みちみちみちみち
 嫌な音がして、星が思い出したようにパァンと破裂する。
 後にはただ、なにもかもが嘘だったように白い空間だけが残って、力を使い果たした鋼がゆっくりと落ちていく。目を閉じる。
 勝った。

     


 頭上のハッチが重々しい音を立てて開いた。見上げる鋼の気は重い。
 どうせ怒られるに決まっているのだ。
 吊ったビニール袋からノッカーを取り出して口に放り込む。ノッカーは耐性に弱く、一日に何度も服用すると効果が激減する。現在、鋼の脳の中のブラックボックスは綺麗さっぱり弾切れ状態で、いま噛んだ分では三十秒ほどのスプレイを回復させることしかできない。また元通りの能力を取り戻すには二十四時間近く待たねばならない。が、いまは三十秒でも充分だ。
 スプレイに残った神経を割き、青色の尾を引きながら上昇。積層になった防御隔壁のクロワッサンを潜り抜け、ハンガーに吊るされたような格好で鋼はモニタールームに出た。
 涼虎は激怒している。
 下で計測された実験の内容が大画面のモニターに表示されているが、ひとつも鋼には理解できない。それを熱心に見上げているフリをして殊村が我関せずを貫き、ほかの研究員たちもそれに従っている。
 鋼は閉じたハッチの上に降り立つと研究員の一人からタオルを受け取り、汗を拭きつつ何食わぬ顔で出て行こうとした。
 アンダーウェアの右袖をつかまれた。
「さっきのは、どういうつもりですか」
 空っぽの袖を掴まれていい気はしない。
 鋼は肩を振って涼虎の手を振り払った。
 涼虎は鋼を睨む。
「あそこまで無理をしろとは指示していません。なぜ、あんな危険な真似をしたんですか」
 鋼は笑った。
「笑ってないで答えてください」
「そんなことよりルイちゃんに会わせてくれよ。一方的にアタマの中に話しかけられるだけってのはあんまり気分がよくない」
「言われなくてもじきに会わせます。話をはぐらかさないで下さい。私はあなたに聞いてるんです、黒鉄鋼さん」
 涼虎はどうしても退く気がないらしい。目を見ればわかる。鋼は観念した。
「できると思ったから」
 嘘ではない。
「やれるところまでやってみたかった。それが、そんなに気に喰わねえか」
 涼虎は深く息を吸って、押しつぶすように吐き出した。
「二度とやめてください。あなたは、自分を軽視しすぎている」
「悪かったな、勝手をするモルモットはいらないか?」
「ええ」
 涼虎は即答した。
「その通りです。――誰もあなたにそこまで求めていません」
 鋼の呼吸が、止まった。
 けもののように血走った目で振り返り、頭ひとつ下にある涼虎の顔を睨みつける。本当にそう思っているのか? この俺をモルモットだと? 換えの効く誰かだと? そうなのか?
 硬く握られた左がギリギリと軋んだが、それを見ても涼虎は汗ひとつかかなかった。周囲では研究員たちが固唾を飲んで状況を見守っている。
 拳が、緩む。
 何も言わずに背を向けて、かけられていた上着を剥ぎ取り羽織り、部屋を出た。
 その背中を見送って、殊村は深々とため息をつく。
「心臓に悪いなあ、涼虎ちゃん。ちょっとは言葉を選んだ方がいいんじゃないかな」
「なぜ?」
「なぜって……そういうもんだよ? 人間関係って。細かいとこでも大事にしていかないと」
 涼虎はモニターの青い光を横顔に受けながら、ミラーグラスに覆われた殊村の目を見やった。
「私は、あなたほど人生経験が豊富ではありませんが、もしあなたの言うことが正しいのなら、外の世界なんて見たくもありません」
 取りつく島もない。
 殊村は肩をすくめて降参した。
 涼虎が研究員の一人から印刷されたばかりのまだ暖かい紙片を受け取る。
「私のことより、彼のことです。――どう思います」
「それは僕よりルイちゃんに聞いた方がいいんじゃないかな」
『呼んだー?』
 モニターの左端に虹色の波形が浮かび上がり、スピーカーから少女の声が響き渡った。涼虎はスピーカーを見上げながら、言った。
「データはたった今、受け取りました。率直に聞きます。……彼は使い物になると思いますか、ルイ?」
 少女の声はさらりと答えた。
『ならないんじゃないかなー、データ上では』
 引っかかる言い回しである。
「では、データを排して、あなたの感覚ではどう受け取れましたか? これまでの彼の戦闘は」
『カッコよかった』
 少女の声は楽しそうだ。
『白の散らし方も黒の振り方もひどいもんだけど、でもそれを補って余りある魅力が彼にはあるとあたしは思うな。なんていうか、自分の背負ったハンデを理解した上でどうしたらいいのかってのをずっと探してるような動き方をしてる。見てる分には楽しいよ』
「命運を預ける身としては楽しくありません」
『あたしはそんなの知らないもんねー。リョーコちゃん、あの人をクビにしたりしたらあたし怒っちゃうからね。もうカンカンになるから。ハイパーボイコットタイム』
「クビにはしませんし、したくありません」
『お? そうなの?』
 涼虎はふう、と息をついて、コンソールの縁に腰を預けた。
「したくない、というよりも、できません。他の被験者を探している余裕も育てる時間もない。できることなら今すぐ実験(ファイト)を組んで彼には我々の食い扶持を稼いで来て欲しいくらいなんです」
 スピーカーがおどけた悲鳴を上げた。
『うっわー「食い扶持を稼いできて」、だってぇ? やあんもう大っ胆発言! ったくもうノロケてくれちゃってまあ新妻は大変だねぇ』
「……薄気味悪い冗談はやめてください」
 涼虎は力なく首を振った。
「ルイ」
『なに?』
「彼は本番に間に合うと思いますか?」
『それは』
 少女の声が答える。
『……ヤシマ次第、なんじゃない?』


 ○




 部屋に戻った鋼は、着替えもせずにベッドに寝転がった。
 全身が鉛になったように重い。まだ心臓の動悸が鎮まらない。熱が熱を呼んで暑苦しかった。

 ――誰もあなたにそこまで求めていません。

 蛍光灯の味気ない光を嫌って、鋼は両目を瞑った。
 まぶたの裏が涙で溢れかえっているのが、わかる。だが湿って溢れているのは、なにも眼球の表面だけではなかった。その胸の中も、たった二時間の間に黒い何かでべたべたに成り果てていた。
 こんなはずではなかったのに。
 その感情を何と呼べばいいのか、鋼にはわからない。ただ喉の奥の奥で息苦しさが絡まっていて、目の前は暗く、次の瞬間にはもう息継ぎを忘れて二度と思い出せないんじゃないかという冷たい不安が溢れている。
 塞いだ両目から涙が滲む。
 こんなことで泣くなんて馬鹿じゃないのかと自分でも思うが、それでも、鋼にはどうしようもなく恐ろしかった。自分が認められないかもしれないということが。これしかできない自分が、それを奪われてしまったら、そう思うと鋼はいつも、震えるほどに怯えてしまう。
 女々しいことこの上ない。
 自分がいらない人間なんじゃないかという疑いは、どんな敵よりも恐ろしい敵だった。自分が、誰のことも幸福にできず、ただ災厄をばら撒くだけの存在ではないといったい誰に言い切れる? 自分の歩いてきた道を振り返れば、そこに散らばっているのは輝かしい勝ち星の航跡などではなく、大なり小なりの苦痛の石塊ばかりじゃないか?
「畜生……」
 思わず漏れる得体の知れない、敵さえハッキリしてこない呪詛がまた一層と鋼の誇りを傷つける。
 何が王者だ。何がボクサーだ。
 自分は『最初のあの日』から、何一つとして変わっていない。
 空っぽの右袖を左手で掴み、握り締める。まだそこに腕があって、痛みを発しているかのように。
 本当に、痛かったのかもしれない。
 疲れ切っていた鋼は、そのまま自分でも気づかぬまま、眠ってしまった。
 掴まれた右袖のシワが、少しずつ広がっていく。




 ボクサーになったその日に借りたあのアパートの一室から黒鉄鋼がいなくなって、もう二週間が経っていた。
 ポストには頼んでもいないダイレクトメールの森が茂り始め、誰も閉めることのないカーテンから差し込む日差しがホコリまみれの六畳間の畳を少しずつ焦がしていき、誰が何度チャイムを押してももう誰も応答することはない。
 その部屋にはすぐにも他の誰かが住み始め、なにもなかったかのように、世間に流れる日常は過ぎていくのだろう。
 百万円で人生が買えないように、義手をつけたボクサーがリングに上がれないように、超能力者になったところで何かが劇的に変わってくれなどしなかった。

     




 いつの間にか、眠っていたらしい。
 鋼はがばりと起き上がった。人殺しのような目つきを左右にゆっくりと振った。
 まだ、新しい自分の部屋に馴染めない。
 借り物くさいベッドから起き上がり、空っぽの袖をたらんと垂らし、左手で両目を押さえた。酒も飲んでいないのに頭痛がした。こういう時はアレに限ると思い、ベッドの下から黒塗りのダンボールを引きずり出した。両足の下にパカっと開かれた天国のおかげで頭痛が吹っ飛ぶ。が、時計を見て思い直した。さすがに朝からはどうかと思った。
 今日は、休養日に当てられている。予定は、ない。
 壁を見る。
 なにか恨みでもあるのかと思うほど白い壁には、真新しい地図が額に入って吊るされていた。島の地図だ。右下に縮尺と共に獅子頭(ししど)島、という走り書きがあった。デュエル・セブンスはこの島の地下にあるのだと殊村は教えてくれたが、本当かどうかはわからない。獅子頭島と言えば太平洋沖にある七瀬群島に含まれる島のひとつの名前だ。国有地らしいとは噂されていたが、まさか超能力者の格闘施設が真下にあるとは誰も考えもしなかっただろう。核弾頭になった気持ちがした。
 核弾頭だろうと爆弾人間だろうと、腹は減る。
 鋼は食堂へ行くために部屋を出た。



 誰もいない。朝なので蛍光灯がついている。夜中は七時に消灯されるが、壁にパネルがあって誰でも点けられる。鋼の病室よりは少し茶色くなった壁には『節電』の貼り紙が貼られていた。ひょっとしたらこのラボのどこかに発電所があって、そこで電力をまかなっているのかもしれない。鋼は想像する。ボクサーパンツ一丁の痩せこけた禿頭の青年が白衣の男たちに引っ立てられ、電気椅子のようなものに座らされ、洗濯ばさみのバケモノのような電極をあちこちに取り付けられ、3,2,1の合図で誘電用の電撃を流されその脳から貴重な生活必需品の電力を搾り取られている様を。その男の顔がどうしても自分と重ならないので、あまり怖い思いつきではなかった。そして節電の張り紙を通り過ぎて三歩も歩くと鋼はそんな妄想は忘れてしまった。
 この研究所では、ほとんど誰ともすれ違わない。
 静かすぎて最近の鋼は少しボケそうになっている。


 食堂はB127にある。鋼の自室はB130だ。エレベーターはあるにはあるが封鎖されていて使えない。自由に歩けるのはその四層だけで、他の階層への立ち入りは隔壁によって禁止されている。
 鋼に許された居住区は、少し学校に似ている。ちょっとした図書館まである。ボクサーに割り当てられた部屋が教室。階段のそばの理科室や音楽室に当たる部屋は研究室になっていて、時々、鋼は身体検査を受けさせられたりする。図書館にある本はすべて洋書で何一つとして読めない。貸出カードはあるくせに、受付のカウンターはいつ行っても無人だった。
 空っぽの袖をぷらぷらと揺らしながら、鋼は油くさい食堂に入っていった。食堂の前にある格技棟からはバスケットボールの弾む音がしている。


 券売機でチャーシューメンの食券を買って、料理場が見えるステンレスのカウンターに券を滑らせた。
「おばちゃん、ラーメン」
 中で手を洗っていた中年のおばさんが、こっちを向いてにかっと笑った。
「はいよ。チャーシューね。また一人?」
「残念ながら」
「涼虎ちゃんはもう誘ってみたかい?」
「そんな勇気あるわけねーだろ。それに……」
 昨日ちょっとモメたんだ、と打ち明けようとして、やめた。話すと自分の心情まで語る羽目になるし、たぶん言ってもわかってはもらえない。
 おばちゃんは感慨深げなため息をついた。
「昔はもう少し大勢いたんだけどねぇ、ここも」
「そうなの?」
「ああ、あんたみたいなボクサーたちで賑わってたもんさ。今じゃもうあんたともう一人ぐらいしかいないけど。研究員たちの子は騒がしいのが嫌いな子ばかりで全然来ないし」
「へえ、もったいねえなあ。ここのメシ美味いのによ」
 おばちゃんはカウンターにどんぶりを置いてまたあのにかり笑いをした。
「ありがと。でも悪いね、全部レトルトかインスタントなんだ、ウチ」
「それでも美味い」
「あんたちょろい男だね」
「ひでえなァ」
 笑って、鋼は適当な席を見つけてトレイを置いた。
 ラーメンからは瞳も曇りそうな湯気が立ち昇っている。
 左手でフォークを掴むと「いただきます」と一瞬だけ瞑目して、麺をかき込み始めた。慣れない左手があたりに汁を撒き散らし始めた。
 ナルトをどうしようかと考え始めた頃だった。
 どん、とラーメンの丼が鋼の目の前に叩きつけるように置かれた。
 鋼はむっと顔を上げた。
 テーブルの向こうに、坊主頭を四ヶ月かそこらほったらかしたような短髪の男が立っていた。ギラギラした目で鋼を睨みつけてくる。体格は、鋼の目を信じればライト級。飛行機乗り風のジャケットを黒のアンダーウェアの上から羽織っていた。鋼にも支給されたものだ。今も着ている。
 男は体重をかけるようにして椅子に座り、ギロリ、と鋼を改めて睨んだ。首や腕や指にはシルバーアクセサリーを巻いていたが、その冷たい輝きが男の目にもそっくりそのまま宿っているような気がした。
 鋼はナルトをもぐもぐやりながら男を見つめ返した。
 因縁をつけられているのは間違いない。
 買う気はなかったが、いい気はしない。
 いったいこいつは誰なのか?
 研究員ではないだろう。
 となると便所の掃除人か。
 もしそうならいつも綺麗にしてくれてありがとうございます、凄く使いやすいですとお礼を言いたかったが、掃除人にまでジャケットを支給したりはしないだろう。となるとやはり答えはひとつだ。おばちゃんの言葉を思い出す。
 自分以外の、もう一人のブラックボクサー。
「…………」
「…………」
 メシが食いにくい。
 どうせなら、食い終わった後に絡んできて欲しかった。が、もうつけられてしまった因縁をグチグチ嘆いていても仕方ない。
 先手を打とう。鋼は覚悟を決めた。


 左手でフォークをしっかり握る。赤ん坊のようなたどたどしい動きに耐えて、鋼はそれを自分の丼の中のチャーシューにブッ刺した。それをぽいっと男の丼に放り込み、おそるおそる向こうの出方を待つ。
 どう見ても相手は困惑している。
 少なくとも鋼は、チャーシューをもらったら嬉しい。
 が、ひょっとすると目の前のこいつはそうじゃないかもしれない。
 そうなら敵だ。気が合わない。
 男の丼の底にチャーシューがぶくぶくと沈んでいく。
 鋼は生唾を飲み込んだ。
 さあ、どっちだ。
 俺は、俺の気分に乗れないやつと一緒にメシは喰えないぜ。
「…………」
 おもむろに、男は、がっと箸を引っつかむと丼ごと喰う勢いで麺をかき込み始めた。無論チャーシューなど一撃で粉砕されて男の胃袋に消えていった。その喰いっぷりに鋼は思わず感嘆の吐息をついた。
 どんっ!
 男は空になった丼をテーブルに叩きつけた。数秒、鋼を親の仇のように睨みつけ、そしてジャケットの裾を翻して食堂を出て行った。鋼はしばらく呆然としていたが、腰を浮かして叫んだ。
「おいっ、丼を片付けてから帰れよ!」
 男は、戻ってこない。
「しょうがねえな……」
 鋼はしぶしぶ相手の丼をカウンターに戻した。と、テーブルに戻り際、床に何か落ちているのを見つけた。拾い上げてみる。定期入れだ。中に一枚だけ磁気カードが入っていた。
 さっきの男の顔写真と、識別番号らしき英数字と、黒いラインの下に少し大きなフォントで氏名が書いてある。鋼は目をすがめて男の名前を読んだ。
「剣崎――ヤス、か」
 のちにわかることだが、八洲(ヤシマ)である。
 負けず嫌いなのは間違いない。

     

 食堂を出て、行くところに困った。体育館にいっても片腕で出来る一人遊びはそう多くないし、いつもは図書館に行くのだがそれほど本が好きなわけでもない。細かな字を読んでいると頭痛がしてくることも珍しくなかったし、そもそも片腕で文庫本をめくっていると本が傷みそうで悪いと思うのだ。
 ので。
 鋼はいつものようにふらふらっと誰かいないかと期待しながら、殊村の仮眠室に向かった。仮眠室は食堂の奥側にある。
 白衣を着ていてブラックボクサーから逃げないのはボールペン女と殊村真琴の二人しかいない。どちらもすぐそばに気合一発で自分の脳細胞を破壊するかもしれない男を前にして少しも怯まない。もっとも人体を破壊するには体表面を流れている微電流を突破しなければならないわ、ピース抜きでそこまでのサイコキネシスを扱うのは気合一発では栄養ドリンクを何本空けても足りないわで、現実的には不可能だったが研究員たちは世間で思われているよりも迷信深い人種のようだった。そういう意味では涼虎たちはまさに御伽噺の中の研究者そのものだった。数字に生命を預けられる人種だ。
 仮眠室のドアは開けっ放しになっていてドアストッパーが差し込まれ、灯りが部屋の中から漏れている。鋼は光に呼び寄せられる虫のように仮眠室に入った。左拳で一度だけドアをノックする。ゴン。
「おっす」
 学生寮風に二段ベッドが置かれた部屋の奥、デスクに座ってディスプレイを眺めていた殊村が振り返った。蛍光灯の光を反射して偏光グラスがきらりと光る。
「ああ、黒鉄くん。何か用?」
「出会いがしらに何か用、はやめろって。なんか冷たいぞ」
「えー、そうかなあ? 普通の切り返しだと思うけど」
「俺はいやなんだ」
「いきなりやってきて人の口調に文句を言うなんてさすがだね」
 ふふんと笑い、
「まあな」
「まあなじゃないよ。なに、きみ、寂しいの?」
「うん」
 鋼は二段ベッドの下段に腰かけて、キョロキョロし始めた。まるっきり友達の家に遊びに来た子供である。
「なんか話そうぜ。ここはヒマで困るんだ」
 殊村が椅子を無闇にきぃきぃ鳴らして無言の文句を言うが鋼には通じない。
「……普通はピース飲んだら次の日は辛くて動くのも億劫なはずなんだけどね。君はクスリに対する耐性は強いらしい」
「そういえば、昔からハライタのクスリは飲んでも全然効かなかった」
「……えーと、それは、どうなんだろう? 整腸剤とピースはあんまり関係ないんじゃないかな」
「難しいことはわからん」
 鋼はベッドの下をごそごそ漁り始めた。エロ本が無いことはとっくにわかっている。引っ張り出してきたのはダンボールに詰め込まれた殊村の私物のマンガだ。ラインナップはざっと見ただけでも、なかなかいい趣味をしている。
 鋼は腹ばいになってマンガを読み始めた。殊村の口元が釣り針に引っ掛けられた魚のようになっている。呆れているのだろう。
「……今までいろんなブラックボクサーを見てきたけど、君ほど自由なやつはいなかったなあ」
「ふーん。……今まではどんなやつらがいたんだ?」
「十人十色さ」
「なにそれ?」
「いろいろってこと」
「いろいろねえ。女はいなかったのか?」
「いたよ。ピースの効果に男女の性差は関係ない。もっとも女性は出産などにどんな影響が出るか分からないから、あまり投薬したくないけどね」
「それで、そいつはどうなった?」
「もういないよ」
 殊村はディスプレイに向き直ってカタカタとキーボードを叩き始めた。鋼がマンガから目を上げる。鋼はキーボードが打てない。ネットもやらない。
「また仕事か。まじめだねえ」
「君のためにやってるんだよ」
 殊村は優雅にコーヒーカップを手にとって傾けた。殊村は煙草を吸わない。
「俺のため?」
「君、説明をちゃんと聞いてなかっただろ。前にも言ったと思うけど、君の仕事は新しいピースの被験。超能力者になれるクスリを飲んでその効果のほどを大暴れして実証してもらう。でも君にだって体質はあるし、隠れたアレルギーだってあるかもしれない。だからピースにその時その時でいろいろ混ぜてみて君の脳の反応を観察し、できるだけ君が飲みやすいよう微妙に改良しているんだ。精製式っていう、まあ料理のレシピみたいな根幹のフォーマットまでは変えられないけどね」
「へえー」
「わかってないだろ。……要するにさ、君の脳に『これはおいしい? これはまずい?』って聞いてみて、君の脳が『おいしい!』って言ってくれる味付けを調べてるってわけ」
「ああ、それであのMRIとかいうゴンゴンガンガンうるせえ機械に入れられたのか」
 鋼の言っているMRIとは核磁気共鳴画像法のことである。核磁気を共鳴させて、頭蓋骨に穴を開けたりしなくても脳の画像情報を撮影できる優れものだ。鋼はラボに来てすぐに一度撮影されていた。
 だが、鋼は分かっていない。一度脳の画像を撮影しただけで、その後も鋼の脳を情報追跡していくことなどできはしない。それに気づくことなく、鋼はウンウン訳知り顔で頷いている。
「なるほどなあ。でもさ、味付けするならもう少し美味くしてくれよ。炭酸は苦手なんだ」
「本当に味付けなんかしてないし、できないし、そもそも炭酸なんか使ってないよ。ああ、でも、次にお披露目する氷菓は甘いって涼虎ちゃんが言ってたかな。あの人舐めてないのにどうして味がわかるんだろう」
 鋼は笑った。
「あいつもブラックボクサーだったりして……」
「そんなはずない。僕たち研究員は自分で自分に投薬しちゃいけないんだ。もしバレたら殺」
 口を噤み、
「……追放は免れないし、中にはブラックボックスが『ノック』されたら過激反応を起こす物質をすでに飲み込んでる研究員もいるよ。初期メンバーなんかはそのクチ。ウチでいうと涼虎ちゃんとか」
「それって危なくないのか?」
「抗生物質の悪玉バージョンだね」
 よく意味がわからない。
「ピースの中の溶液は外殻が砕けて舌上に広がった瞬間に溶けて消えるから、間違って飲んじゃったら一巻の終わり。ウチの涼虎ちゃんに限ってそんなことはないだろうけど」
 殊村は澄ました笑いを作った。
「ま、僕や涼虎ちゃんがブラックボクサーになる羽目にならないように、君たち現役には頑張って実験資金(ファイトマネー)を稼いでもらわないとね」
 それで思い出した。鋼はパスッとマンガを閉じた。
「ヤスに会った」
「ヤス? ……ああ、ヤシマくんか」
「ヤシマ? ヤシマって読むのかコレ」
 鋼は左手でポケットから食堂で拾った磁気カードを取り出した。殊村がそれを指先で受け取る。
「うん。ケンザキヤシマ。君より半年ほど先輩のブラックボクサーだよ」
「強いのか」
「強かったのかな。成績はそれほど悪くなかった」
 過去形だ。
「今は?」
 殊村は鋼の声が聞こえなかったように、手元の磁気カードを見下ろしている。
「彼、何か言ってた?」
「チャーシューあげたら喰って帰った」
「何やってんの君」
「仲良くやろうぜって言いたかったんだ」鋼はすねた。
「新入りが気に喰わないってのはジムの中でもよく見かけた。でも俺はそういうのキライだ。来るもの拒まず去るもの追わず、それが気持ちのいい関係ってやつじゃないのか」
「うーん。彼の場合は、ちょっと事情が複雑なんだ」
「事情?」
「……ピースはクスリだ。そしてどんなクスリでも絶対に効かないやつがいる。特異体質ってほどでもないけど、それぞれがクスリに対する反応は違う生き物みたいに別々だ」
 殊村は言った。
「彼はね、僕たちが今作っている新薬のテストで不適格だと診断されたんだ。そのピースを飲んだ彼のブラックボックスの反応はノッカーよりも低く、Ω波周波数220Hz以下。クスリが効かないんじゃそのお披露目はできないよね」
 ミラーグラスが鋼の方を向いた。
「だから、君が呼ばれたんだ。彼の代わりに」
「……それじゃあ俺が嫌われるのも無理ないかもなあ」鋼は頬をかいた。
「でもよ、えっと、俺が飲むのは新しいやつなんだろ? だったらヤシマは古いので頑張ってればいいじゃんか」
「ただ闘えばいいってわけじゃないのさ」
 殊村はため息をついた。
「勘違いさせちゃってるのかもしれないけど、いいかい黒鉄くん、ブラックボクシングの主役はボクサーじゃない。ピースなんだ。君たちはいわば新車のテストドライバーみたいなもので、『上』からしたら君たちの素性も努力も知ったことじゃない。もちろんテストドライバーが腕利きなら新車も物凄くいい走りをするだろうし、構造上はよその車の方が上質でも結果として出てくる『数字』はこっちが上ってことになる。評価もね」
 鋼は英語の授業を思い出していた。
「なんで?」
 殊村には鋼がなぜ理解しないのかが分からない。
「……ちょっと最初からおさらいしようか。黒鉄くんのアタマの中で何が起こってるのか僕にもよく分かんないからヤシマくんのことも含めて簡単に説明するね」
 咳払い、
「僕たちはピースを作ってはラボ同士で競わせて、その年の上半期にひとつ、下半期にひとつ、優秀なひとつの銘柄を決める。たとえて言うならタイトルマッチみたいなものさ。上半期はそれまでラボが作ってきた代表的な銘柄の改良系、下半期は一度ゼロから組み立てなおした新しいピースを使った新人戦。ヤシマくんは上半期では総合成績四位、ウチの銘柄に『優』のハンコを押して戻ってきてくれた。でも――涼虎ちゃんはその銘柄を破棄した」
「なんでまた?」
「その精製式をフォーマットにしたピースで引き出せる脳の黒域が限界に達したから。それ以上、改良の余地がないものを後生大事に抱えていても仕方ない。その銘柄『パスポート』は殿堂入り扱いにしてデータを他のラボに公開、その役目を終えた。同時に、ヤシマくんの役目も。ピースは実験期間中はその精製式をラボが独占していていいんだけど、それが済んだら公開してよそのラボでも作れるようにしなきゃいけないんだ。これは、ラボ同士の面子の取り合いじゃなくて国家から要請されている『実験』なんだから勝手はできない。だから、君の言ったような古いので新しいのをやっつけるなんてことは無理。ヤシマくんは、もうウチではスパーリング・パートナーとしてしか扱えない」
「…………」
「で、これから君に飲んでもらうのは下半期用に用意されている新柄だ。ウチは代表銘柄を破棄してしまったから実質、現行で研究されているのがこれひとつしかない。下半期で結果を残してそのまま来年の上半期へエントリーする資格をその銘柄が得られなければ、最悪、たった一度の負けでラボの取り潰しもありうる」
「そんな、おおげさな。こんなでかいラボなのに」
「おおげさじゃない。ウチは弱小なんだ、こう見えても。施設は大きくても人気(ひとけ)のなさでわかるだろ? 一研のラボなんて電車が走ってるらしいよ」
「マジかよ。いらねえだろ竪穴に電車なんて」
 あれ確かにそうだなと思ったが殊村はすぐに思い直した。一から七までのラボはすべて相互不可侵で研究員はお互い立ち入りできない。
「とにかく、そういう事情があるんだ」
 これで話は終わりだと殊村はむんと胸を張ったが、鋼はまだもごもごしている。
「あのさ、またヤシマの話なんだけど、移籍ってのは駄目なのか? ピースを研究してるラボは七つもあるんだろ? だったらさ……」
 殊村は笑った。
「できるよ。でも、一方的な移籍じゃなくて交換って形になる。そして、わざわざこっちが困ってる時に手を差し伸べてくれる敵なんていると思う? ヤシマくんの交換を拒否していれば、七研のブラックボクサーは不足、結局は新人を本土からスカウトしてくるしかなくなる。下半期が始まるまで一月もないっていうのにね」
「…………」
「それに、一度ピースに拒絶反応を出したボクサーは、クセがつくっていうか、変な言い方すると縁起が悪いんだ。新しいピースでエラーを出したってことはその系譜を継いでる後発の作品でもエラーを出しやすい。一度そうなったボクサーをもう二度とリングに上げないなんてのは、よその研究所じゃそれほど珍しいことでもない」
 殊村はため息をついた。
「何か出来ることがあれば、とっくに僕らでやってる。ヤシマくんには悪いけど、どうしようもないんだ。たぶん、彼は僕らが自分のことを切ろうとしているんじゃないかって考えてるんじゃないかな。そりゃ気も立っちゃうよ」
 鋼は黙っている。
「そういうわけだから、ヤシマくんのことはそっとしておいてあげて欲しい。あまり刺激しないようにね」
「わかった」
 鋼はようやく納得したらしく、マンガ本を元に戻して出て行こうとした。殊村が本格的にディスプレイに向き直りかけ、鋼の手がドアノブを握ろうとした時、先にドアが開いた。
 涼虎が入ってきた。
 鋼の身体を擦るようにすれ違う。
「あのさ、枕木、昨日は」
「そのことはもういいです」
 涼虎は切って捨てるように言い放ち、一瞥もくれずに背中を向けた。
「殊村くん、明日のテストの件なんですが、ピースにパイロ用のニトロを混ぜようかと思ってるんです。一度きっかけさえあればもう少し出力の度合いもスムーズになると思うのですが」
「え、ああ、うん、いいんじゃない? ねえ黒鉄くん?」
「俺が知るかよ」
 鋼は出て行こうとした。その背中に、涼虎が言う。
「黒鉄さん」
「なんだよ」
 涼虎は手元のカルテのようなものをめくっていて、その表情は鋼からはよく見えない。わずかに唇が動くのだけが見えた。
「まだ身体が薬に慣れていないはずです。なにもない日は、無理せずに休んでいてください」
「…………」
 鋼は静かに、ドアを閉めた。


 ○


 照明の絞られたモニタールームは青い光の層の中に沈んでいる。そこに響き渡る恐ろしい戦闘音は、天井に備え付けられたスピーカーから漏れ出している。べつに誰がやめろと言ったわけでもないのに誰も大きな声で会話したりしないのは、なんとなくモニタールーム内の空気が映画館のそれと似ているからかもしれない。
 研究員たちはおのおの椅子に座っていたり立って画面を見上げていたりするが、中にはゴザを敷いて仮眠を取っていたり座禅を組んでもう明日のメシにも致死量ギリギリの毒物の扱いにも悩むことのない深みへ旅立っているものもいる。サヴァン症候群スレスレの秀才を集めているとどこでもこうなる。普通のふの字を見ただけでアタマの中に「ふ」から始まる単語が五十も百も溢れ出す連中にまじめになれと言っても「まじめ」という単語に辿り着くまでに五十や百は関係のないくだらないことを思いつくだろう。特異研の中でも七研がイロモノ扱いされているのは、よそからはみ出してきた流浪の天才児たちの受け入れ先でもあるからだ。ラボによっては「七研の馬鹿どもとはクチも利きたくない」とはっきり言って憚らないところもある。


 あるクチの悪いやつは言う。
 ――誰が一番の変わり者かって枕木所長が一番そうなのさ。あの人にゃ誰も彼もがおんなじに見えていて、自分の役に立つか立たないか、それしか見えていないんだ。そうと来ればおれたちなんて、やるこた奇天烈でも結果出せって言われりゃ一研の連中にだって引けは取らねえ馬鹿とハサミの紙一重。ゴザ敷こうがパンツ被ろうが仕事さえ完遂させることができるなら、おれたちなんてあの人にとっちゃそれで充分満足の小道具なのさ。


 だいたいこういうことを言い出すやつは、どうせフタを開けてみれば涼虎と面と向かって喋った日の晩など自分の枕に顔をうずめて大絶叫しているのが常なので、もう誰もそんなことをまじめに聞いたりしはしない。


 だがそれでも、涼虎があの人形じみた表情の向こう側で何を考え、何を目指しているのか、それは研究員たちの誰を逆さにして振ってみたって分からないことであるのも事実だ。そもそも下っ端の研究員たちは氷菓精製の理由すらロクに知らされていない。どいつもこいつも戸籍さえあるのかないのか危うい連中ばかりなので、とにかく喰いっぱぐれないために来る日も来る日もA試験体とB試験体を混ぜては溶かすしかないのだ。そういう意味では研究員たちもブラックボクサーとそれほど立場は変わらない。


 その日も涼虎は、映画館のようなモニタールームの中央で、白衣のポケットに両手を突っ込み、怒っているのか無視しているのか分からないような表情で、液晶画面いっぱいに映し出された戦闘風景を眺めていた。
 そしてそれを、殊村は見ている。


 液晶画面の中では、鋼が白を振って火球を三つ放ち、迫り来る星を三つとも爆破したところだった。幾筋にも引き裂かれた黒煙が鋼の氷殻に沿って後方へと流れていく。鋼の目が右へ左へと動く。
「もう星四つじゃ足りないね。追加で出してもすぐ撃墜されちゃうし、ノッカーで引き出せる脳の黒域は完全に塗り潰したと思っていいんじゃないかな?」
「そうでしょうか」
 涼虎は、不満があるというよりも、どちらとも決めかねているようだった。
「パイロ用にデコレイトしてあるノッカーでの成績ですから、まだ次のステップへ進むのは早計ではないでしょうか。パイロで星を割れるようになったのも突然すぎて、なんだかかえって……」
「不安?」
 にやにや笑う殊村に、涼虎は平然と頷いた。
「ええ。彼に何かあれば、私たちには後がありませんから」
 殊村は肩をすくめた。
「だから、もう一人くらい連れてくればよかったのに」
「言ったでしょう。もう一人の候補者は、私が本土に上がった時にはもう、ファーストにスカウトされた後だったと」
「あっはは、さすが医療の名門・聖杖大学からごっそり引き抜かれてきた超エリートたちだねぇ。やることにそつがないや」
「――私を出し抜いたのは彼らではないと思いますけどね」
 涼虎が言い終えた時、すさまじい爆音が響き渡った。画面を見ると四個の星が燃え落ちていくところだった。まだ錆び切っていない後背筋の浮き出た鋼の背中が、激しく上下している。涼虎は言った。
「ハッチを開けてください」
 研究員の一人がコンソールのキーを叩くと、涼虎の足元が鋭い音を立てて開いた。閉じ込められていた空気まで疲労の気配を孕んでいるような気がした。
 汗だくの鋼が飛び出してきた。
「はあっ……はあっ……」
「お疲れ様です、黒鉄さん」
 涼虎がふわふわのタオルを手渡すと、鋼は頷いて受け取った。喋るのも億劫らしい。
 たまたまそばにいた小太りの研究員の腕をいきなりガシッと掴んだ。え、と戸惑った彼をくるりと回して、その場に跪かせ、「悪ィ」と一言だけくれてやってその背中に座ってしまった。椅子にされた研究員はあまりの手際の良さに物も言えずにいる。
「……黒鉄さん、お疲れのところ申し訳ないのですが、和泉くんの上に座るのはやめてあげてください」
「ぜえっ……ぜえっ……」
 涼虎はため息をついた。
「誰か飲み物を持ってきてあげてください」
「はいはい」
 殊村が俊敏に動いて、簡易キッチンの冷蔵庫からスポーツドリンクのボトルを持ってきた。
「ほら、黒鉄くん。新しい水だよ」
 鋼はそれを左手で奪うように受け取った。
「古くちゃ……ぜえ……困るって……はあ……げほっ」
 渾身の切り返しにもキレがない。鋼はボトルに口をつけると浴びるように飲み始めた。
「――ぷはあっ。生き返った。あんがと」
 一発で空になったボトルを殊村に投げ返しながら、
「倒せる白(ひだり)にはなってきたけどよ、すげー疲れるなこれ。参った。威力が上がってもスタミナが持たねえ」
「そんなことないよ。パイロをあれだけフルに使って三〇分近くノッカーの効果を持続させていられたんだから。充分実戦に耐えられるレベルさ。ねえ涼虎ちゃん?」
「三〇分ではなく、二十七分四十八秒二十四です」
 この女マジか、と殊村は思った。振り返ってそっと窺った鋼の顔はタオルを被っていてよく見えない。もう一度肩越しに振り返って言う。
「ねえ涼虎ちゃん、そんなのもう誤差の範囲だしこの調子でテストしていけば三〇分超えなんて楽勝だよ」
「そうでしょうか。ブラックボックス現象は我々にも完全に把握できている事柄ではありません。楽勝とか、絶対とか、そんなのはありえないんです」
「それはそうだけどさ……」
「平均で言えば、実戦用の氷菓を持続させるにはテスト用のノッカーを最低三〇分、欲をかけば五〇分以上継続して使用できるくらいの耐久力が必要なんです。これでもう充分だなんて言ってる余裕はないんです、全然」
「あのさ、涼虎ちゃん」
「なんです?」
 殊村は、もう涼虎の方を見なかった。
「頑張って戻ってきた人に、そういう言い方はないなって思わない? 僕に言わないで、黒鉄くんに直接言いなよ」
 涼虎は、気がついたら雨が降っていた時のような顔をした。
「私は、ただ――」
 言葉が続かない。
 いつもよりも少しだけ湿った目で、殊村越しに、ぴくりとも動かず座っている鋼の方を見た。殊村もそうした。
 鋼は、何も言わない。その身体が壁にもたれかかって傾く。かぶっていたタオルがずるっと滑って落ちた。


 寝ている。



 ○


「なあ、そんなに怒るなって」
「怒ってません」
「疲れてたんだよ。ゆうべ――いやべつになんもなかったんだけど、ほんとなんもしてないんだけど、今日はなんか朝から体調があんまよくなくって」
「へえ」
「その割には大奮闘してたなって思ってるだろ?」
「思ってません」
「いや思ってる。いいじゃんか頑張ったんだから。見たか? 七分過ぎくらいに後ろから突っ込んできたやつをスプレイでかわして左から回り込んだやつ。あれすげーうまく出来たと思うんだよ。ルイちゃんもすげー褒めてくれたし」
「そう」
「なあ凄かったろ? 頼む! 嘘でもいいから凄いって言って」
「男の人って、そうまでしてあげないと引き下がってくれないんですか?」
 ぐうの音も出ない。


 だが鋼は諦めなかった。殊村は「転校しても友達でいようね」みたいな薄情な表情を浮かべていたが鋼はくじけたりしない。せっかく最近は涼虎とも上手くやれていたのだ、まさかさっきちょっと話し合いの最中に眠りこけたぐらいで気まずい感じになってたまるか。好きだの嫌いだのの前に女子がいたらいい格好がしたい、それが男子たるものの矜持だ。


 もうこの際なんでもいい。放っておくと廊下の曲がり角を巧みに使ってこちらを撒こうとする涼虎を、鋼は左手を広げて通せんぼした。
「いかせんっ!」
「……は?」
「わかった、こうしよう」
 名案を思いついたように廊下の右下を見つめ顎に手を沿え、
「メシを喰おう。俺のおごりで。な?」
「あなたにおごってもらう理由が思い当たりません」
 思い当たってください。もうどうしていいかわからない。
 鋼はテンパってとうとう最終手段のボタンを押した。
「枕木!」
 拳を作っていたら倒せていた速度で左手をぶっ放し、涼虎のもちもちしたほっぺに手を添えた。
 涼虎は、スーファミのソフトを突っ込まれたソニー製品みたいな顔をしている。
「な、な、な……!!」
「前から思ってたんだが顔色が悪いぞ。肉喰え肉。ああでも焼肉屋なんてここないよな? どうしよう。どうしたらいいかな?」
 真っ白になっている涼虎に分かるわけがない。鋼はぷにぷにと涼虎のほっぺを左手で挟みながら喋り続ける。
「食堂にある肉って何があるかな? ハンバーグ? チャーシューメン? もう少し肉っぽいのがいいよなあ。何があるだろ……」
 そこで鋼は空っぽの脳味噌にズガンと天恵を得た。
「……からあげ?」
 涼虎は、びっくりしたように鋼の『背後』を見ている。鋼は、それに気づかない。
「そうだ、からあげだ。からあげがいい。あれ肉っぽいもん。一緒にからあげ喰おうぜ! なあ枕木おまえってレモンかける派かけない派?」
「剣崎くん……」
「剣崎くん?」
 鋼は振り返った。
 廊下の奥、階段の踊り場に恐ろしい顔をした男が立っていた。体格はライト級。飛行機乗り風のジャケット。坊主頭をしばらくほったらかしたような短髪。人工の光を浴びて、あちこちに巻きつけられたシルバーアクセサリーが鈍い輝きを放ち、男の目にも、その銀色が宿っているような気がした。
 霧がかっていたアタマの中が吹き払われたように覚めていく。
「ヤシマ」



 ○



 考えてみよう。
 そいつは不安で不安で仕方なかったはずである。事情はどうあれこのラボにいるということは実社会から爪弾きにされて鉄砲玉になる道を選ばざるを得なかった経緯があるのだろう。家族が病気だ、金がいる。そうかもしれない。親父が死んだ、借金かぶった。それかもしれない。なんにせよ、ブラックボクサーであることを選んだ人間にはここ以外で生きていく道などないのだ。そいつが、ヘマをしたわけでもなく、むしろ今までずっと結果を残してきたそいつが、ある日突然に戦力外通告を受ける。説明されたってわかりっこない。理解できたところで納得ができない。
 なぜ自分が。
 翼をもがれただけならまだいい。翼がなくても頑張れば生きていけるかもしれない。だが自分はどうだろう。毒物を飲んで耐えて闘い続けることで三度のメシを喰ってきた自分が、それなしで果たして誰かに必要とされるだろうか? この世の中というやつは、冗談ひとつろくすっぽ言えないタダ飯喰らいに仮に余っていたとしてもメシを喰わせ続けてくれるのだろうか?
 誰かに必要とされたくても、その方法が分からない。
 スパーリング・パートナー? それだけのために俺に給金を払い続ける? 一度エラーを起こした縁起の悪いこの自分を? それぐらいだったらクスリに強い新人を入れて育てて実戦もスパーもこなせる人材にした方がいいんじゃないか? トレードにも出せない邪魔なカードをいったい誰がいつまで後生大事に隠し持つ? ババ抜きだったらどうだ? 答えはもう決まっているんじゃないか?
 夜も眠れなかったはずである。
 そして妄想をさらに加速させる起爆剤がやってきた。新しいブラックボクサー。見知らぬ男が、見知った空間をウロチョロし始めた。
 あせった。
 そいつに右腕がないことにもだいぶ後になってから気がつく有様だった。ひょっとすると自分が消される原因になるかもしれない、そんなやつが目を覚まして顔を洗って歯を磨いて表へ出ると間抜けヅラを晒してウロウロしているのだ。
 どうにかならない方がどうかしている。
 それでも耐えた。無いアタマを捻って、理屈の鎖で自分をがんじがらめにした。新入りは一人だ。パートナーが必要なはずだ。自分はまだ必要とされている。消されたりしない。スパーリング・パートナーとして生きていけばいいのだ。
 かつては期待を希望を一身に背負ったこのおれが、たかが一人のスパーリング・パートナーとして。
 考えたくないことばかり考えていた。
 それでも、耐えようと思った。
 そんな時だ。
 気に喰わない新入りが、自分を拾ってくれた恩人の枕木涼虎の顔に触れているのを見たのは。
 その時、凍っていく心の中で何を思ったのか。
 本当のところは、剣崎八洲にしか分からない。




「その手を放せ、片端野郎」



 すっ、と。
 涼虎の頬から鋼は手を引いた。振り向く。
「――あ?」
 その顔色は、もはや怒りで青黒い。銀に近い濁った白目が蛍光灯の光を受けてぬらぬらと輝いていた。
 涼虎は声も出ない。
「いまなんて言った」
 きっかり三メートルの距離を開けて、ヤシマも負けてはいない、顔の皮が裂けるのではないかと思えるほど険しく頬を歪めて、言った。
「涼虎に触るなって言ったんだよ、出来損ない」
「どうしてお前に、そんなこと言われなくちゃならない?」
 ヤシマは鼻で笑った。
「元プロボクサーなんだろ? ジムの先輩にゃ敬意を払うのが仁義ってもんだろうが」
「俺は」
 紙やすりですり潰したような声で、鋼は言う。
「強いやつしか尊敬しない」
「言うだけなら安いよな。だいたいそんなナリで誰よりおまえが強いってんだ? 右手がお留守になってるくせによ」
 空気が焼けた。
 蛍光灯が割れた。
「右がお留守で悪かったな」
 鋼の左足がキャンセル不能のモーションに沈む。
「お詫びに、左でお相手してやるぜ」
 あとで分かったことだが、廊下の床には亀裂が入っていたらしい。
 非常用の電灯が点灯するまでの1,6秒をぶち抜いて、塗りたくったような闇の中に鋼の左拳がぶっ放された。ためらいはなかった。容赦もしなかった。殺すつもりでやった。
 何かが壊れる音がした。
 オレンジ色の非常電灯が点く。
 ヤシマは大の字になってぶっ倒れていた。鼻から血を吹いている。白目を向いて、ぴくぴくと痙攣している。ごほっ、と嫌な感じの咳をした。
「剣崎くんっ!」
 涼虎が鋼を跳ね飛ばすようにして前に駆け出た。一気に三つか四つは歳を減らしたように不安と恐怖で引きつった顔をして、倒れたヤシマのそばに跪き、その身体を揺さぶった。それをどこか遠い意識の中で見下ろしながら鋼は思った。どうやらもう、何もかもが終わったらしい。
 どっと壁にもたれかかって、そのまま後ろも見ずにその場から逃げ出そうとした時、涼虎が息を呑む気配を聞いた。振り返る。
 顔面血みどろ。
「おまえ――……医務室、行った方がいいぞ」
「うるぜえ」
 立ち上がったヤシマはごほっと血混じりの咳をした。口の中を切ったらしい。そんなことはどうでもいいとばかりに、ヤシマはちょいちょいと鋼を手招きする。
「どうした、来いよ、それで終わりか。口先だけの片端野郎が」
 鋼の血管が嫌な音を立てて盛り上がりかけたが、なんとかギリギリで抑え込んだ。
「お前分かってんのか。もう一発喰らったら、死ぬぞ、お前」
「来いって言ってんだよ……!」
「や、やめて下さい! 何を考えてるんですか!?」
 涼虎が滅多に出さない大声をあげて、ヤシマの腕に取りすがった。
「どうしてあんなこと言ったんですか!? どうしてこんなっ……」
「どいてろ枕木」
 鋼が左拳を上げた。
「そいつはやめる気がない」
「その拳を下げなさい、黒鉄鋼」
 涼虎の目にその時、宿っていたのは、たぶん、憎悪だと思う。
 黒い瞳の中に揺らめく嫌悪を、鋼はぼんやりと眺めた。
「剣崎くんを殺したりしたら、その時は私があなたを殺します」
 鋼は笑った。
「何がおかしいんですか? これが楽しいんですか? 人を傷つけることが?」
「見てなかったのか。喧嘩売ってきたのは向こうだぜ」
「たかが悪口で……」
「あんたにはたかが悪口かもしれないが、俺にはちょっと勝手が違うんだ」
「どけっ、涼虎、邪魔だ!!」
「ちょっ……剣崎く……あっ」
 ヤシマが腕を振るって涼虎を跳ね飛ばした。
 涼虎は、壁際にしりもちをついて愕然とした。
 これでもう、二人の男の間に立ち塞がるものが何もない。
 誰も二人を止められない。
 けものくさい殺気が蒸気のようにあたりに満ちた。鋼とヤシマはお互いの目を見て逸らさない。瞳孔がお互いを照準したように狭まっていく。ヤシマが両拳を握る。鋼が膝をたわめる。
 ヤシマの膝が震えている。
 ヤシマは絶対、もう退かないだろう。そして、もう、何があっても気絶や失神で決着はつかないはずだ。もし次にヤシマの意識が刈り取られることがあるとしたら、それはヤシマの死を伴う。
 黒鉄鋼の拳は人を殺せる拳だから。
 監視カメラで見ている研究員たちが警備兵を連れてやってくるまでには絶望的な時間が広がっている。涼虎は観念した。もうヤシマのラッキーパンチに期待するしかない。ヤシマが勝って、この喧嘩に終止符を打つ以外にヤシマが生き残る術はない。
 そう。
 ヤシマが勝てば――
 勝負開始の合図になりかねなかったタイミングで、涼虎が叫んだ。

「わかりましたっ!!」

 時間が止まる。
「……わかった?」
「……って、何が?」
 唇をほとんど動かさずに、二人が聞いた。涼虎は立ち上がって、白衣の裾をパンパンと払った。
「そこまで言うなら認めましょう」
 二人の顔が涼虎を向いた。失礼な表情をしている。
 涼虎は、亀裂の入った床を見下ろしたまま言った。
「特別措置です。そこまでお互いどっちが強いのか知りたいというのなら、準備不足は否めませんが、いいでしょう、決着をつけなさい」
 涼虎はおもむろに白衣のポケットからハンカチを取り出すと、それでごしごしと乱暴にヤシマの顔を拭った。激痛を覚えたヤシマは悲鳴を上げて逃げ惑ったが涼虎は容赦しない。無理やり顔面から血を拭き取ると真っ赤に染まったハンカチを仕舞って、反対側のポケットから今度はひとつのアイスピースを取り出した。それを鋼に放る。鋼は当然、左で受け取るしかない。
 これでもう、拳は握れない。
 涼虎は背を向けて、言った。
「それは『ノッカープラス』。ノッカーの力をすべて引き出し、チュートリアルをクリアしたブラックボクサーに与えられる、いわば卒業証書です。おめでとうございます、黒鉄さん。あなたは形はどうあれ長かった準備期間を終え、いま正式にブラックボクサーとしてリングに立つことを認められました」
 鋼は怪訝そうな顔をしている。手元にあるピースの氷殻、そのすぐ内側にカカオ色の溶液を背景にして生クリームで書いたような『Knocker Plus』の文字を見ながら、言う。
「……そりゃどうも。で? どうしてそれを今、渡すんだ」
「そのノッカープラスはスパーリング用のアイスピースだからです。いいですか、あなた方はブラックボクサーです。もう人間であってなかば人間じゃない。脳のブラックボックスをノックされた人体実験の被験者であり被害者。筋肉以外の出力方法を見つけてしまった進化の異端児です。それを心の底の底からわかっているなら」
 振り向く。
「ブラックボクシングで、カタをつけなさい」
 これでいい、と涼虎は思う。今から『リング』の使用申請をしても間に合わないだろうし、そんな資金の余裕もない。星のカタパルトがある例の隔離室を使うことになるだろうが、ノッカープラス程度の火力ならそれで充分だろう。
「ちょっと待てよ」と鋼が言う。
「俺はさっきピースを飲んだばっかで、今日はもう……」
「ノッカープラスはノッカーで使い切った部分よりもさらに奥の脳域から力を引き出せます。ですから今日でもまだ1Rぐらいなら闘えるはずです。その代わり、慣れていないと反動で二、三日はまともに動けなくなるでしょうが、今更そんなことで止まるあなたじゃないでしょう」
 ぐうの音も出させない。鋼は押し黙った。
「剣崎くんも、それでいいですね。鬱憤がたまっていたんでしょう? だったらそれを心ゆくまで晴らしてください。あなた自身がこのラボに必要だということをあなたの力で証明しなさい。でなければ、あなたは私が何を言っても、きっと納得してくれない」
「…………」
 ヤシマは鼻を押さえてウンともスンとも言わない。だが、その目だけはギラギラと光っていた。
 壁にある内線電話を取り上げて、涼虎は隔離室上部を呼び出した。
「もしもし殊村くんですか? 警備兵は引き上げてくださって結構です。ええ、見えていると思いますが私が勝負を預かりました。今からそっちへいって預かった勝負をハッチの下に落とすつもりですので、準備をお願いします。それでは」
 まだ何か喚き続ける電話機を叩きつけるようにフックにかけて、涼虎は無言の男二人を睨んでみせる。
「これでお膳立ては整いました。何か、ご不満でも?」
 あるわけがない。

     



 足元で開いたハッチの底から、軽い唸りのようなものが聞こえてくる。恐らく、さっきまで跳ね回っていた鋼と星の残響か何かだろう。ヤシマは、もうピースを持って飛び降りていった。次は鋼の番だ。
 鋼は、そばにいた研究員の子に剥いだ自分の上着を押し付けるように手渡した。そのうしろから椅子に座った殊村が顔を出す。
「まったくもう、やめてよね、ラボの中で乱闘沙汰とかさ。ブラックボクサー同士が簡単に接触できる環境だって『上』を説得してやっと維持してるっていうのに……あのカメラの映像がもしバレたら黒鉄くんアレだよ、隔離されちゃうかもよ。それでもいいの?」
「ワリ」
 これだもんな、と殊村は諸手を挙げて降参した。
「涼虎ちゃんが冒険に出るわけだ。前代未聞だよこんなの」
「研究データが蓄えられていいじゃん」
「いまさらノッカーシリーズのデータなんか集めてもね。まあ気になるのはせいぜいプラスを飲んだ君の体調ぐらいかな」
 殊村はふわわ、とあくびして背もたれにもたれかかった。しっしと手を振る。
「僕はさ、君たちと違って喧嘩なんかやってる余力はないの。眠ってるから、涼虎ちゃん、後はよろしく」
「ええ、おやすみなさい。殊村くん」
 コテンと寝入ってしまった殊村を、鋼と涼虎は肩を並べて見下ろした。
「注意事項はいつもと同じです。スプレイの残量に気をつけること。エレキは絶対一回までしか使わないこと。極力キスショットはしないこと。障壁が割れたらすぐに離脱すること。プラスでも障壁は二層までしか張れません。お忘れなく」
「うん」
 涼虎は、少し間を取ってから続けた。
「これは、あなたの生命を守るために言ってるんです。あなたのために。あなたに、死んで欲しくないから」
 鋼は涼虎の横顔を見た。
「……ヤシマも?」
「剣崎くんも、です。人が無闇に死んで、それが何になりますか?」
 鋼は薄く笑った。
「なんにも、だな」
「わかってくれましたか?」
「ああ、もちろん。わかってるって。たかがスパーだろ?」
「それならいいんです。安心しました。いってらっしゃい、黒鉄さん。5分間、頑張って」
 涼虎の声に、鋼は左拳をぐっと横に突き上げて応えた。そのまま振り返らず、ハッチの下へ身を躍らせる。風が顔を強く打った。目を開けていられない。防御隔壁のクロワッサンを滑るように落ちていって、白い空間に出る。
 ヤシマから一〇メートル挟んだ床に、両足から突っ込んだ。
 衝撃。
 鋼は一瞬止まってから、平然と起き直った。
 アイスピースなしでも発動できるブラックボックス能力はいくつかある。スプーン曲げや、さっき蛍光灯を割ってみせたのもそのひとつだ。そして鋼がいま使った、高所から飛び降りた時の衝撃をそのまま床に流す技もピースなしで発動できる。
「――『フラッシュ』ができるってことは、一応、基礎はこなしてきたらしいな」
 頬にどでかいガーゼを張っているヤシマが言った。どうも今のはフラッシュという技だったらしい。鋼は初めて聞いた。
 もちろんそんなことは顔に出さない。むん、と胸を張った。
「天才なんでね」
「へえ、そりゃお気の毒」
「あん?」
「だって、いまから俺に殺されて、その貴重な才能を散らしちゃうんだからさ」
 鋼は染みるように笑った。
『まったくもー、あんなこと言ってるよヤシマのやつ』
 ピースを取り出そうとした鋼の指が止まる。
『ルイちゃん? なんだ、今回もサポートについてくれるのか』
 アタマの中に響く少女の声が、呆れたようなため息をついた。
『あったり前でしょ。黒鉄くんをひとりで戦場に出すなんて寂しいことしませんよー』
『嬉しいなあ。でも、向こうのサポートはしなくてもいいのか?』
『向こうは向こうでべつのブレイン持ってるからいいの。ねえねえねえ、それより何したの? あたしあんまり事情聞いてないんだよね』
 鋼はちょっと考えて、答えた。
『あいつさ、俺のあげたチャーシューが気に入らないんだって』
 ルイは感心しているようだ。
『へええ。ねえ』
『ん?』
『チャーシューって何?』
『チャーシュ』
 鋼は心の声を詰まらせた。何事かと思った。
『あんた、チャーシュー知らないの?』
『知らない』
『……そっか』
 言って、鋼は、ベルトに下げた袋からノッカープラスを摘み出し、口の中に放り込んだ。
『帰ったら、喰わせてやる』
 答えを待たずに奥歯に乗せたアイスピースをバリンと噛み砕く。氷の破片が飛び散り、パッケージされていた溶液が溢れ出し、味覚から神経系統を電気の味が悪寒のように走り抜け、直上、脳の暗部に入力の一撃を叩き込み、
 目覚めた。
 慣れた手つきでグローブホルダーから白(ひだり)と黒(みぎ)を引きちぎってマウント。宙に置いた拳を振ってみる。軽い。ノッカーとは比べ物にならない。テスト用のバージョンアップでこれなら、新型というのはどこまでの力を引き出せるのだろう。空恐ろしくすらなる。
 前を向く。
 視界を新たに覆っていく氷殻の向こうで、敵も障壁に包まれていくのが見えた。
 目が合う。


 ブザーが鳴った。


 やることは決まっている。時間はかけない。最初から飛ばしていく。鋼は自分の前に白(ひだり)を引っ張ってきて、先手必勝の火球を撃とうとした。
 撃てなかった。
 背面上段から左捻りで障壁が砕けるような一発が、文字通り落ちてきた。
 衝撃。
 想定外の一撃だった。思いもかけない衝撃と障壁に亀裂が入った騒音で鋼の脳は一瞬、真っ白になった。それがいけなかった。ブラックボクシングにおいて脳の入力される情報はゴミでもダメージになるものはなる。ましてやそれが想定外の一撃ともなれば、覚悟して受けたダメージの数倍の破壊力にも到達しうる。
 いま鋼の受けた一撃が、まさにそうだ。
 声が聞こえる。
『――いじょうぶ!? 黒鉄くん、とりあえずスプレイで逃げて! どこでもいいから緊急回避!』
『わかっ……て……る』
 鋼は方向も定めずにスプレイをぶっ放した。だが壁に衝突すればそれだけでもう障壁が割れかねなかったので、さほど距離を稼げずに停止せざるを得なかった。壁際ギリギリで氷殻が停止する。冷気で壁面に薄く霜が張った。
 アタマを押さえて、片目を見開く。
 ヤシマは、鋼から星七つ分ほどの距離を隔てて飛んでいる。逆さになって腕を組み、ニタニタ笑っている。いや、逆さになっているのは自分の方かもしれない。たった数秒で上下もわからなくなってしまった。
 やられた。
『いったいなにが……』
『あいつ、始まってすぐにテレポートして後ろからキスショットしてきたんだよ。しかも一番効く背面上段から容赦なし』
『先手必勝は、向こうも考えてたってことか……うぐっ……』
『大丈夫? どこか痛む?』
『問題ねえ』
 問題はあった。両目の奥がひどく熱い。視界の縁を白い稲妻のようなものが脈打つ度に頭痛と吐き気がした。唾を飲み込んで誤魔化す。
 ただでさえさっきテストを終えての連戦状態。1ラウンド限定とはいえ、3分持つかどうか危うい。今にも障壁が一層どころか二層まとめて砕けそうだ。
『障壁だけど、パイロとかパンチぐらいなら何度か受け止めきれると思う。でもキスショットはこっちからも向こうからも駄目。障壁同士が触れ合ったら、アウトだと思って』
『わかった。……どうすればいい?』
『とりあえず基本に忠実に。左(パイロ)で揺さぶって右(エレキ)を当てる。黒鉄くんの黒でも超至近距離なら当たるよ。バチッと決めちゃって』
『ああ』
 呼び寄せた白と黒を障壁の前で構え、敵の薄ら笑いを見上げ、鋼は思う。
 ――余裕ぶってすぐに倒さなかったことを後悔しなければいいけどな?
 目を細め、狙い澄まし、剣崎八洲を守る氷殻めがけてパイロの連打を放つ――!



 燃え盛る火球が三発、四発、五発、瞬きすれば当たる速度でヤシマへと襲い掛かる。獰猛な炎のショートパンチは見てからかわすには速すぎる。鋼は確信した。
 全弾命中、もらった。
 が、
 空気が叩かれるサウンドエフェクトとリボンのような気流の筋を残して、ヤシマがスプレイでバックダッシュした。くん、と軌道をL字に曲げて危険区域から離脱。外れた火球が壁面へ次々と飲み込まれ爆発した。
『黒鉄くんっ!』
 言われるまでもない。いつまでもお試し期間が続くとは鋼も思っていなかった。ヤシマの白(ひだり)から『こっちが本場だ』とでも言わんばかりに五発六発七発と火球が放たれる。その弾道は計算し尽くされ、鋼が上下左右どこへ逃げても必ず一発はかする軌道に乗っていた。鋼は歯軋りする。
 悔しいが、やはり、ブラックボクシングの経験では自分はヤシマに到底及ばない。いまの『左の差し合い』で鋼にはそれがよくわかった。ヤシマは見かけ以上に冷静なやつだ。戦いながらアタマも休めずに動ける男だ。
 あのバックダッシュがそれを物語っている。
 ヤシマがこっちの火球を回避できたのはマグレでもなんでもない。あのバックダッシュで、自分の後退速度と火球の進行速度を一瞬で合わせたのだ。当然、同じ速度で動けば火球は止まって見えただろう。その間に回避できるポイントを見抜いて離脱したのだ。
 向こうが上だ、実力では。
 が、それならそれで、やり方はある。
『バックダッシュ!』
 ルイの声と同時に背面加速。覚えさせてもらった技を早速に猿真似する。が、火球と同じ速度に一瞬で達するのは並大抵の神経では出来ることではない。まだ鋼には荷が重かった。火球は少し動くが鈍くなっただけで鋼を諦めようとはしない。なんとか弾幕の薄いところから離脱を――
 だが、間に合わない。
 二発、もらった。
 目が覚めるような爆発。
 轟音で耳がやられそうになる。障壁に亀裂が走り、そこから痛みがダイレクトに脳を揺さぶる。膝が震えた。耐える。
 顔を上げる。
 ヤシマは、笑っている。
「くっそがあッ!!」
 鋼は白(ひだり)で火球の弾幕を張り、黒(みぎ)をその中に紛れ込ませるように突撃させた。ヤシマもスプレイで微速ダッシュを繰り返しながら、同じように弾幕を張り黒を出撃させる。お互いの火球同士がぶつかり合って爆炎を上げ、テストルーム全体が微弱な振動に包まれる。立ち込める黒煙の中に、鋼の氷殻が埋もれていく。
 本格的な弾幕戦の始まりだった。


 ここで、ブラックボクシングについて簡単におさらいしよう。
 チェスの駒のように、カードの役のように、ブラックボクサーの能力には種類と限りがある。
 グローブを見えない力で本物の手のように操るサイコキネシス。
 白(ひだり)の掌から火球を撃ち出すパイロキネシス。
 黒(みぎ)の拳をレールガンのごとく撃ちこむエレキキネシス。
 ボクサーの周囲を守る直径2mの氷殻を作り出すアイスキネシス。
 風を操作し、宙に浮くボクサーの足となるスプレイを噴射するエアロキネシス。
 瞬時に移動できるが、エレキキネシスの残弾と使用回数が直結しているシフトキネシス。
 ブラックボクシングは、究極的にはこの六つの組み合わせから、相手の氷殻を砕く一手を弾き出せれば勝ちとなる。
「――――!」
 針で細を穿つ弾幕戦の最中、鋼もヤシマも、火球で相手の氷殻を割ろうとは考えていない。雷撃で砕こうと考えている。エレキの威力はパイロとは比べ物にならない。どれほど鈍い当たり方をしても氷殻の耐久値を半分以上は削れる。芯を撃てば一つ下の層まで砕けかねない。
 だからこそ、相手の黒だけは臆病なほどに警戒し、パイロの弾幕を突破されないようにしておかなければならない。そして自分の黒だけは弾幕を突破させ、相手へ辿り着かせたい。
 どちらも、そのライン取りに苦しんでいた。
 しかも鋼の黒に至っては、相変わらずの不調で思った通りに動いてくれず、まんまと火球の餌食にされることがもう三度もあった。そのたびに鋼はグローブホルダーに手を伸ばして新しい黒をマウントさせていく。
 黒の4番が戦線に突っ込んでいったところで、ルイからの忠告があった。
『忘れてないと思うけど、白(ひだり)は換えが利かないから注意してね』
『ああ』
 ブラックボクシングでは、黒は何度でも精神(スタミナ)が持つ限り破壊されてもホルダーから新しい黒を充填(マウント)できる。が、白だけは途中での補充が利かない。これはルールというよりも、ブラックボックスをどんなアイスピースで叩いても同じ出力、同じ結果、同じ答えしか戻ってこないためだ。少なくともこれまで精製されてきたピースでは、白のリマウントが出来るものは確認されていない。
 このことについて、研究員たちはこんな風に言っている。
「神様のやつも、お話作りのイロハってのがようやく分かってきたらしいな」
 洒落では済まない。
 こんな地下で来る日も来る日も説明のできない超常現象に関わっているだけでも気狂い沙汰なのだ。その上、神だのなんだのの意思が働いているとしか思えない事柄に出くわせばいよいよ病院送りになってもおかしくない精神状態が形成されていく。事実、年に何人かは研究員たちの中で発狂するものが出てくる。考え抜く才能があるばかりに、答えの出ない疑問に飲み込まれて、これまで何人もの天才が消えていった。
 だが、いまの鋼にはそんなことに思いを馳せている余裕がない。
 ヤシマがまだ黒の2番を前線に送っているのに対し、もう鋼は4番まで回してしまった。グローブをマウントさせるのもタダではない。そのたびに神経が削られアタマの中にかかった霧が濃くなっていく。失神するまでマウントを繰り返したことはないが、恐らく黒の6番の出番は回って来ないだろう。
 ルイに助けを乞おうとして、やめた。
 ちょっと思いついたことがあった。
「…………」
 見てろ、と思う。絶え間ない弾幕の中、黒をギクシャクさせながらも左右に振って、相手を霍乱させつつ、火球を撃つタイミングを計る。
 今。
 鋼は、火球を撃った。ヤシマが応戦してカウンターパイロを放ってくる。それでいい。
 火球の裏に、黒を追わせる。周囲は黒煙が絶えず立ち込めていて視界が晴れない。
 二つの火球が衝突、爆発した。一瞬だけ周囲のモノトーンが逆になる。
 その瞬間、間髪入れずに鋼は黒(みぎ)を撃発(トリガー)した。
 金色の曳光を引いて黒の拳が電撃的軌道に乗った。その動きは目標補足をトチった小型ミサイルにそっくりだ。大切なものをどこにしまったか思い出せない子供のように半狂乱に陥った黒の拳が瞬間を切り裂いてヤシマに迫る。もう、火球でガードするのは間に合わない。
 鋼が珍しく、にやりと笑った。
 が、その笑みが凍りつく。
 ヤシマの白(ひだり)が、自身側の黒の2番をパイロで撃ち落していた。突然の自殺点(オウンゴール)に鋼の表情が変わるには時間があと一秒足りなかったが、しかし筋肉まで到達できなくとも神経だけは理解していた。
 ヤシマが切り返したのだということは。
 燃え尽きた黒が落ち始める前に、驚くほど白いヤシマの指先がグローブホルダーを弾いていた。
 閃光。
 電離した電子を周囲にばら撒いて、イオンが焼けるにおいを残し、稲妻の拳が斜めに落ちた。

 ――光が、晴れる。

 鋼は笑った。
 大したものだと思った。ヤシマは無事だった。あの一瞬で、黒の3番をマウントして鋼のエレキにぶつけてガードしたのだ。閃光の余波ぐらいは喰らったかもしれないが、それでも直撃は回避された。それはそっくりそのままだった。ヤシマは知らないかもしれない、だが鋼はよく知っている。
 ボクシングでは拳を手で振り払う動作のことを、『パリング』と呼ぶ。
 鋼の雷撃は、ヤシマの黒でパリングされたのだ。
 もう悔しがる気にもなれなかった。
 惚れ惚れするほど見事な切り返しだった。
 ヤシマを見る。ヤシマの顔色が変わっていた。朝起きたら自分が違う人間になっていた時のような顔をしていた。その面構えを見ると、どうやらこっちも素人同然にしてはなかなか悪くない一手を打ってみせたらしい。
 そんなことをのん気に考えていたのが間違いだった。
 途切れた弾幕の張り合い、それをヤシマが一瞬早く再開した。ぼうっと火球が空気を貪婪にかっ喰らって、燃え盛る。鋼の白は回避も応戦もできなかった。
 爆発。炎上。
 鋼の、たったひとつの白が燃えて落ちていく。鋼はそれを呆然と見下ろしていた。
『マウントっ!!』
 アタマの中の少女の声に操られる傀儡のごとく、鋼の指先がグローブホルダーに触れた。が、滑った。黒の5番が木の葉のように落ちていく。
 間の悪いことに、スプレイが切れた。すんすん、すん、としばらくエアの噴射は鋼を支えていたが、地面スレスレで最後の意地を見せて落下速度を殺し切った後は、ウンともスンとも言わなくなった。泣きっ面に蜂とはこのことだ。
『黒鉄くん――!』
 もうアタマの中の声に答える余裕が、ない。
 鋼はその場に跪いて、頭(こうべ)を垂れた。
 神経質なまでに白い床に、少し汚れた汗がぽたぽたと滴って染みを作った。
 顔が上げられない。
 立ち上がることができない。
 ダウンだった。
 それを見て、ヤシマの顔に凄絶な笑みが浮かぶ。
 ――勝った。




 アッパースプレイで軽く上昇。残った仕事は簡単だ。しゃがみ込んだ敵の氷殻を急転直下のキスショットでギリギリかすめてクラッシュアウト、再上昇して勝利の雄叫びと喝采の双拳を突き立てる。それで終わりだ。
 ぶわああああっと不退転のスプレイを残量度外視でぶっ放し、身が切れそうな風切音の中、ヤシマは流れ星のように落ちていく。どんどん大きく迫ってくる敵を視界に入れながら、ヤシマは何も考えていなかった。真っ白だった。闘っている時だけは、空白のままでいられた。綺麗な熱気の中に浸っていられた。それを奪われてからは、どんどんと自分の中にどす黒い何かが溜まっていった。自分ではどうすることもできなかった。理屈はなんの支えにもなってくれず、正論は少しもヤシマのことを思いやってはくれなかった。自分の務めを奪われたヤシマのことは、ヤシマ自身でカタをつけるしかなかった。
 だから、いま、ヤシマはここにいる。
 ――あと一秒もせずに鋼の氷殻と接触する。
 ヤシマは、少しだけ落下軌道を上方に修正した。これで万一、氷殻を二層ごとぶち破ってもしゃがんでいる鋼の身体を傷つけることはない。最初から殺すつもりなどない。そんなことをすれば最後の居場所すらも失ってしまう。それは嫌だった。自分の手で捨てられないくらいには、ヤシマはここでの人生を気に入っていた。
 自分の勝ちを焼き付けようとするかのように、ヤシマは目を限界一杯まで見開く。
 いろいろ驚かされもしたが、これで決まりだ、黒鉄鋼。
 所詮、おまえは、俺の『代わり』であって、『つなぎ』なんだ。そのことを二度と忘れないように、脳に刻んでおいてやる――忘れるな。
 誰が『上』かということを。




 接触寸前、鋼と目が合った。




 衝撃は、訪れなかった。
 ヤシマのキスショットは虚空に突っ込んだ。
 意識が状況を理解し損なった。ヤシマの氷殻は再上昇せず、そのまま白い床に激突した。目をつぶって階段を下り切った時のような想定外の衝撃に氷殻は寒気がするような亀裂を走らせ、そのままバウンドして宙に跳ね返った。
 何が起こったのかわからなかった。
 確実に、自分は鋼との衝突コースに乗っていたはずだ。
 砕けるのは、俺じゃなく、やつの氷でなければならないはずだ。
 それが、どうして。
 目まぐるしく回転する視界の中、ヤシマの片目がうずくまった鋼の姿を捉えた。
 鋼はさっきと寸分違わず、ヒザをつき両手を支えにしたまま、動かなかった。顔だけが、こちらを斜に構えて向いている。
 鋼は、そのままの姿だった。
 氷殻はどこにもなかった。砕けて散らばってすらいなかった。
 消えていた。
 当たり前のことだが、練習にしろ本番にしろ、やり合っている最中に氷殻を切る馬鹿はいない。だが一応、ルール上では『氷殻が砕けるか、戦闘不能にならなければ負けではない』ことになってはいる。
 だからといって、この戦闘区域のど真ん中で、こっちのキスショットが髪の毛もさらうような距離を通過するその時に、氷殻を消してまで闘い続ける馬鹿がいるか。
 そいつは。
 ヤシマの遥か下、十三メートルの床に満身創痍でへたばりこんでいた。
 一瞬、ヤシマの心に理解不能な敗北感がよぎった。氷殻がないやつをどうやって『倒した』とみなせばいい? ひょっとしてこれは『詰み』なんじゃないか? よくよく考えればそんなことはない。生身の人間を戦闘不能になんていくらでも出来る。なぜならこっちは超能力者で、向こうは力を使い果たしたもはやただの人間なのだから。黒でも白でもひとつ飛ばして頚動脈をゆっくりと押し潰してやれば30秒もかからずに失神するはずだ。
 だが、ヤシマがそれをすることはなかった。
 視界の端で、黒いものが蠢くのが見えた。
 そっちを見る。
 上方、3メートル。
 ひらひらと黒い手袋が大気に巻かれて落ちてきていた。
 透明人間がはめて見せたかのように、手袋が膨らむ。
 その甲には、金字で『5』と印されていた。
 鋼の落とした黒の5番だった。
 気づいた時にはもう遅い。
 エレキをトリガーするまでもなく、不調の鋼の黒とはいえ、ほぼゼロ距離では外すことの方が難しかった。
 だが、偶然ながらも、その時だけは芯を捉えた。

 めきぃっ

 鋼の絞りに絞った最後の一撃、渾身の打ち下ろしの右(チョッピング・ライト)が、
 ど真ん中、
 ヤシマの氷殻、その一層を情け容赦なくぶち抜いた。
 二層にまで拳が刺さった。
 声も出ない。
 そのまま床とグローブに挟み込まれて、ひとたまりもなく、ヤシマの氷殻が悲鳴のような音を立てて粉々に砕け散った。
 失神して鼻血を出したヤシマが、どさりと床に転がった。伸ばした手の指先が、ぴくぴくと震えている。
 うずくまったまま、鋼の左目がそれを捉える。目を瞑る。大の字になる。
 左拳を突き上げる。
 誰かが歓声を上げている。
 ブザーが鳴った。






 たかがスパーのはずだった。



     



 八〇〇mダッシュ十本のあとにさらに三本追加された時のように、搾りカスの気力を突っ込んで、鋼はノッカーを飲んだ。あれほど強烈だった痺れる味わいが今は気泡が抜けたソーダのようにしか感じない。だが、それでもなんとか飛べそうだ。ようやく出番の回ってきた黒の6番をマウント。ギリギリ残った右と自前の左でヤシマを抱えてアッパースプレイ。十三層に渡って続いていく防御隔壁のクロワッサンを飛び抜けてモニタールームに戻った。
 地に足が着いたと同時に、涼虎と目が合う。
 バツの悪い顔だけはするまいと決めていた。
 だが、涼虎はいつもと変わらず、いやそれどころか少し機嫌がよさそうだった。
「お見事です」
「……え? あ、うん」
 涼虎は白衣のポッケに両手を突っ込んだまま、他人の話でもするような口調で喋った。
「スプレイの使い方も、白と黒の振り方も板についてきましたね。まだ少し黒の精密動作に難があるようですが、こればかりは慣れでしょう。それと最後、剣崎くんがキスショットを外してくれたおかげでもありますが、そこから切り返したのは素人とは思えませんでした」
 鋼は思う。
 バレてない?
 横目でちらりと殊村を見るとヨダレを垂らして爆睡していた。他の研究員たちは「見るものは見た」とでも言いたげな空気だけを残してとっくのとうに消えている。まるでスタッフロールを見ないで映画館から出て行ってしまう客のようだ。
 涼虎が、鋼に支えられているヤシマの顔を覗き込んだ。
「このまま寝かせておいてあげた方がよさそうですね。殊村くん、ちょっと起きてください」
「むう……」
「寝たフリなんてしたって駄目です。本当はもう起きているんでしょう?」
「起きたくなあい。寝てたい」
「剣崎くんが気絶したままなんです。黒鉄さんもお疲れですし、ほら、起きて」
「……しょうがないなあ」
 むくりと起き上がると、殊村は、ふらっと出て行った。どこへいくのかと思えば、すぐに台車をゴロゴロと転がして戻ってきた。寝起きの青い顔色と目元を隠すミラーグラスのせいで殊村はいつもより冷酷な人間に見える。ずりずり引きずってヤシマを台車に乗せ、そのままダンボールか何かを運び去るようにしてモニタールームから出て行った。
「いま人権が侵害される瞬間を目撃してしまった気がする」
「いつものことです」
「ヤシマはキャベツじゃないんだぞ!」
「……それだけ冗談が言えれば大丈夫そうですね」
 涼虎はふっとため息をついて白衣の背を向けた。呆れられてしまったのかもしれない、と鋼は思う。
「それでは、今日はこれで。お疲れさまでした」
「……おう」
 なんだか、もやもやするものを抱えながら鋼が部屋を出ようとすると、涼虎が呼び止めてきた。
「黒鉄さん、忘れ物」
「え?」
 鋼の肩に、ふぁさりと上着がかけられた。
 ちゃんと右肩の方を深めにして。
「…………」
「あの」
 振り向きかけたままの鋼の横顔に、涼虎は言う。
「初めてのスパーリングで、どうなることかと思いましたが、二人とも無事に戻ってきてくれて嬉しいです」
 鋼は、壁を見ている。
「俺も」
「え?」
「俺も、あんたを困らせなくて済んで嬉しい」

 鋼は振り返らずに部屋を出た。自動ドアが背後で馬鹿にしたようにぷしゅんと閉まる。もう用はないはずだった。のろのろと重たい足が一歩を踏み出し、歩いていき、曲がり角を折れる。もう今日は誰にも会うことなく終わるだろう。
 振り返ればよかったかな、と思う。

 ○

 右手がある。
 鋼は公園にいた。昼下がりの平日、陽光をフィラメントに切り取る葉の屋根の下、そこには子供連れの母親やゲートボールに興じる老人、ハトにエサをやる世捨て人にそれをまっさらなキャンバスに描くベレー帽の画家がいた。鋼はそれを見ながらアイスクリーム屋で買ってきたバニラアイスを持って、噴水の前、青いベンチに座っている。
 絶えず水の噴き出す音と小鳥の鳴き声が、優しい手つきで鋼の脳を癒してくれる。
 平和だった。もう、何も考えなくていいくらいに。
 敵もいなければ、自己否定の極みたる減量もない。なわとびはみんなでやるものだったし、サンドバッグの中身は砂場にぶちまけられて今では立派なお城になっている。知り合いが一人も見えないことだけが寂しかったが、それもいい。たまには一人でゆっくりするのも。
 おっといけない、日差しを浴びてアイスが溶けてきた。もったいない。早く食べてしまわないと。
 コーンを伝って、溶けたアイスが鋼の指に触れる。
 熱かった。
 驚いて思わず手を放しかけたが、そんなことをすればアイスを駄目にしてしまう。かといって熱の塊と化した氷菓を食べるわけにもいかず、鋼はベンチの上で途方に暮れた。その間にもアイスは噛みつくような熱さで鋼の右手を苛んだ。そして気がつく。
 ああこれは夢なのだ。
 焼けた鉄のように熱を持ったアイスクリームなんてあるわけない。
 失った右手がここにあるはずがない。俺の腕はもうゴミと一緒に焼かれて灰すらどこかに散り去った。
 そんなことは、きっと最初からわかっていた。
 でもせめて、今だけは、気づかずに終わってしまって欲しかった。
 こんなに素敵な夢だから。
 ああ溶けたアイスが右手を覆う。
 熱い。
 熱い。
 熱い――
 鋼は目を覚ました。
 視界一杯に白い天井が広がる。時刻の経過に合わせて緩やかな明滅を繰り返すよう設定してある蛍光灯のあかりが、昼前であることを教えてくれた。左手がシーツを強く強く握り締めている。全身がびっしょりと寝汗をかいていた。鋼は死体のようにしばらくそのまま動かなかった。
 視線を下げて、右手を確かめる気になれない。
 今もそこには熱の残滓がさまよっていて、自分の失くしたあの腕が、虚無を貫いてそこにまだあるような、そんな気がした。
 それでも熱は冷めていき、あとには気だるさだけが取り残される。鋼は観念して起き上がって、シャワーを浴びにいった。それから左手一本でえずきながら歯磨きを済ませると、狙ったように内線が鳴った。
 受話器を取る。
「もしもし?」
『おはようございます。枕木涼虎です。いま、お電話しても大丈夫でしょうか』
「うん」
『突然のことで申し訳ないのですが、ちょっとしたお話がありますので、今日これから食堂までご足労願えないでしょうか』
「はあ」
『本来なら昨日のうちに連絡を差し上げるべきところを滞りまして本当に申し訳ありません。何分、急に決まったことでして』
「気にすんな」
『いらして頂いてもよろしいですか?』
 鋼は首を捻って、壁にかかった時計を見ながら言った。
「その口調やめてくれるならいく」


 食堂に行くと、中央あたりのテーブルに涼虎とヤシマがL字に座っていた。ヤシマが上着を脱いで椅子にかけるところだったので、向こうもまだ来たばかりなのだろう。鋼は左手を挙げてみせた。
「おっす」
「お」
 涼虎が歯を食いしばって言う。
「おっす」
「いや無理にマネしなきゃいけないルールとかないから」
「そうなんですか」
「そうなんですよ」
 鋼はヤシマと向かい合って座った。お互い、視線を合わせない。
 涼虎が、テーブルに乗っている自分のカレーライスに向かって喋り始めた。
「今日、お二方に集まってもらったのは他でもありません。先日の件は、こちらの落ち度でもありました。お二人のメンタルケアにまで気が回らなかったのは、すべて私の不足の為すところです。本当に申し訳ありませんでした」
 ぺこり、と。
 涼虎は首から水のような黒髪を流して、アタマを下げた。
 鋼はごくりと生唾を飲み込む。
「やっぱりお前、練習して来たろ」
「つきましてはお二人には一緒に食事をしてもらって、今後もつつがなく実験に協力して頂けるよう、親交を深めて頂きたいと思うのです。――黒鉄さん、今から注文すると時間がズレてしまいますし、私のカレーを食べますか? まだ手をつけていませんから」
 見ると確かに、皿にかかったスプーンの上にはすくったそのままの綺麗なカレーライスの欠片が乗っている。
 恐らくふうふうしたものだと思われる。
 鋼は神妙に頷いた。
「いただこう」
「なんですかその口調。……まあ、どうぞ」
 鋼は左手で自分の方にカレーを寄せた。スプーンを手に取る。
 が、ヤシマは腕組みしたまま、かに玉チャーハンに手をつける気配を見せない。
「……剣崎くん」
「…………」
「あの」
「…………」
「……あなたに服用してもらっていたアイスピース……『パスポート』を破棄する時に、一言も相談しなかったのは、その、あの時はああするしかなかったんです。どんな話し合いをしても、結局はああするしかありませんでした。だから、私は、無駄を省くつもりで……」
「…………」
「ごめんなさい。私はあなたの気持ちを、少しも考えていなかった……」
 涼虎は、きゅっと唇を軽く噛んで、続けた。
「でも、これだけは約束します。私はあなたがこれから何度エラーを出しても、決してあなたを見捨てたりはしません。あなたは実験道具のモルモットじゃないし、ましてや新しいブラックボクサーの当て馬でもない。……もっと早くに、言葉にして伝えていればよかったですね」
 ヤシマは、かに玉チャーハンをやるせない目つきで見下ろしている。
「剣崎くん、黒鉄さん。お願いです。私たちにはあなたたち二人が必要なんです。ですから、どうか怒りの矛先を収めて、すべて水に流してもらえないでしょうか」
 鋼は、重々しいため息をついた。
「だってよ、ヤス。どうする?」
 ヤシマは首をごきごきと鳴らした。
「どうするもこうするも仲良くしねーと職とメシにあぶれるぜ。あとヤスじゃない」
「じゃ、仲良くすっか」
「おう」
 鋼は調理場に向かって怒鳴った。
「おばちゃーん!! ほうれん草のソテー1個追加でー!!」
 ヤシマが鋼の肩をつついた。
「俺も」
「おばちゃーん!! やっぱ2つでー!!」
 はいよー、と調理場からおばちゃんのこだまが戻ってくる。
「いやー、ここのほうれん草のソテーがなかったら野菜不足で死んじゃうわ」と鋼。
「確かにな。メイン喰いながらあれをつまんだ次の日の体調のよさはやばい」とヤシマ。
 涼虎の目つきが険しい。
「……あの……」
「どうした?」
「昨日あれほど揉めていたのは何だったのでしょうか……。ほうれん草のソテー? あなた方がいったい何を考えているのか、私には計りかねるのですが」
 鋼が答えた。
「栄養バランス」
「そういうこと言ってるんじゃないんです」
 メンチを切られた。
「……こういうことですか? 最初から私をからかっていた、と?」
「そんなわけねーだろ。冗談であんな左撃つかよ」
 そうともあれはすごく痛かった、とヤシマが訳知り顔で頷く。涼虎はそれをねめつけながら、
「ならなぜそんな急に……こういうことには、手順というか、順序というものがあると聞いていました」
 自分から水に流せと言い出してきたのにわけのわからないやつである。
「順序って……お前は考えすぎなんだよ枕木。昨日のアレでもうカタはついたからさ、別にこれからも顔合わせるたびに喧嘩なんかしねーよ」
「めんどいしな」
「言えてる」
 涼虎はまだ新種のバクテリアを見る目つきをやめない。鋼はぼりぼりと首をかいた。
「なんだよ、ケジメつけて謝ればいいのか? わかったよ。おいヤス、昨日は悪かったな」
「つか、最初に絡んだのって俺じゃね?」
「そうだっけ? 忘れちまったよ、そんな昔のこと」
「俺も俺も」
 わっはっはっはっは。
 仲睦まじく笑いあう二人のブラックボクサーを見て、さほど不機嫌そうでもなく、むしろ透明な表情に戻って、涼虎はおもむろに立ち上がった。
「……お二人ともなかよしになれたみたいで嬉しいです。私はお邪魔虫のようなので向こうで食べることにします。あとは友情水要らずでごゆっくり」
 席を離れようとする涼虎に鋼が言葉で追いかける。
「怒るなって! なんで怒るの? 目的は達成されたじゃん」
 涼虎はきっと鋼を睨み、
「私は、あなたのそういういい加減なところが……」
 言いよどみ、
「……へんだと思います」
 妙な啖呵を切って、一番角の席に移ってしまった。途中でおばちゃんが運んできてくれたほうれん草のソテーをカツアゲして持っていく。席に座るとご丁寧に背中まで向けてきた。そんなにイヤか。
「あいつ俺に惚れてるな」
 鋼はカレーをぱくっと食べてニヤニヤ笑った。ヤシマが気の毒そうに首を振る。
「それはねーよ。涼虎のやつ好きな男のタイプ聞いたらエプロンの似合う家庭的なダンナさんって言ってたぞ。お前が前掛けつけたら魚屋にしか見えねーよ」
「おい言い過ぎだぞ! 泣かれたくなければ黙れ」
「いい歳して泣くのを脅しに使うなよ……。つーか、お前いくつ?」
「十九」
「なんだタメか。よかった、上下差開いてたらどうしようかと思った」
「ああ、敬語まじりのタメ語とか使う羽目になるのかと心配になったよな」
「そうそう」
 それからヤシマは鋼の半分の時間をかけて、かに玉チャーハンの皿を空にした。
 もたもた喰っている予想外にどんくさい鋼を見ながら、ヤシマは本題を口にした。
「あのさ。おまえって、元プロボクサーだったんだろ」
 鋼は左手の親指をぐっと突き上げた。八洲はそれを見て薄く笑って、
「俺はボクシングなんかやったことねえが、なんとなくよ、ボクサーなんてのは暴力的で、居丈高で、粗野粗暴なやつしかいないんだと思ってた」
「それはひどい。誤解だよ。金のために礼儀正しく人を殴るサラリーマンボクサーだってそう珍しくなかったぜ」
「ああ、そうなんだろうな。お前は思ってたよりも、嫌なやつじゃねえし」
「お前もな。久しぶりだったよ。俺の拳に耐えたやつ」
 ヤシマはまだガーゼを張った頬をぺちりと撫でた。
「芯まで響いたぜ。あれは効いた」
「本気で殴ったからな。悪かった。芯を外してなかったら殺してた」
 ヤシマは笑った。
「天才なのに外したのかよ?」
「それ言うなって。あんなの冗談だ」
「いや、冗談じゃねえだろ。実際に手を合わせてみて、俺にはわかった。確かにお前はある種の天才だよ」
 ヤシマはきっと、現役時代の鋼が載ったボクシングマガジンか何かを読んだのだと思う。
 何か言いかけた鋼を遮って、ヤシマは重ねた。
「元プロボクサーのブラックボクサーなんて多分お前が初めてなんだろうが、そのせいなのかどうなのか、それでもやっぱりお前は何かが違ったよ。俺たちはここに来るまで誰かと闘った経験なんてせいぜい部活の大会とか受験戦争とか、その程度だ。でもお前は実際に殺るか殺られるかのところから来たんだもんな。しかもチャンピオンだったんだろ?」
「四十八分間だけな。それに、実際に試合中にしろスパーにしろ、死者が出るなんて飛び降り目撃するくらい珍しいんだぞ」
「うるせえな、それでも分かったもんは分かったんだ。だから言っとく。いいか、お前が天才であってもそれが何をやってもいい、何をしてもいいってことにはなりはしないんだ」
 鋼はカレーをもぐもぐやりながら、視線はヤシマから逸らさなかった。ヤシマは続けた。
「お前の凄さが分かるやつにはいい。お前が何をしても信じざるを得ないからな。けどな、涼虎は別だ。あの運動音痴にはお前の動きなんかいくら見てても目を回すだけだ」
 確かに、涼虎は最後まで鋼の死亡寸前のアイス・オフに気づかなかった。恐らく、他の研究員たちも。
「お前がいくら自分を信じろ、大丈夫だ上手くやる、そんな風に言ったところであいつは心配するし、不安なはずだ」
 ヤシマは、ちらっと遠くでほうれん草のソテーをもぐもぐやっている涼虎を見やる。
「あんまりな、あいつに負担をかけないでやってくれ。ああ見えて、あいつはそんなに強くないんだ」
 カレーをごくんと飲み込み、まじめな顔で、鋼は言った。
「ヤス、お前――今、なんかすごく説教好きなおじいちゃんっぽい」
「俺すげーいいこと言ってたのにおまえのそれのせいで何もかもが台無しだよ。あとヤシマな」
 鋼は笑った。
「ワリワリ」
「けっ……」
 ヤシマは立ち上がって、トレイを戻してから、出て行った。
 それを見送った鋼が手元のカレーを見下ろすと、いつの間にかカニのきれっぱしが隠れるようにルーに埋もれていた。鋼はそれをスプーンですくい、目を瞑って口に放り込んだ。
 鋼には、魚介類がゴムの味に感じられる。
 要するに、嫌いである。
 だが、喰った。



 カレーを平らげて膨れた腹をさすっていると涼虎が戻ってきた。
「黒鉄さん。この後、お時間よろしいですか?」
「よかろう」
「……少し長くなるかもしれませんが」
「いいよべつに」鋼はスプーンを皿の中に放り込んだ。
「どうせやることなんかない」
 二人は並んでトレイを流し場に戻すと、食堂を出た。閉じられた体育館の向こうから響いてくるバスケットボールが弾む音を背に通路を進む。シャッターが下ろされた窓枠の列を通り過ぎて、踊り場のエレベーターの前で止まる。エレベーターの取っ手には南京錠が鎖とともにかけられている。涼虎は白衣のポケットから鍵を取り出し開錠すると、今度はカードリーダーに磁気カードを滑らせた。エレベーターのドアが真ん中から音もなく開いた。
 中に乗り込むと涼虎の指がキーパネルに向かう階数を直接入力した。B52。
 扉が閉まる。
 なんだか取り返しのつかないことをしている気分になる浮遊感と共にエレベーターが昇っていく。機械的な生命活動を思わせる間歇的な重低音に包まれながら、二人はエレベーターボックスの対角に立った。
 涼虎はこっちを見ない。親の言いつけを頑なに守る子供のようにキーパネルの方を向いたままピクリともしない。せっかくなので鋼は涼虎をじっくり眺めることにした。左手を顎に添えて証拠物品を検証する探偵よろしく目を光らせる。
 美人である。
 さすが鋼の秘蔵の一品に出演した彼女と瓜二つなことはある。濡れたように光を拒む黒髪はいつ見ても毛先の果てまで滑らかで、触れても触れても指の隙間から零れ落ちてしまうのではないかとさえ思える。肌はニスでも塗って天日干ししたように人工的な完璧さを保ち、突けば突いただけ反動が戻ってきそうなほど柔軟そうに見える。鋼はいつも涼虎を見るたびに「大人ぶってるくせにガキみたいなタマゴ肌」だと褒めてやりたいのだが、なぜだか言ったら絶対に怒られそうなので黙っている。しかし鋼からすればパリっとした白衣の足元に黒ウサスリッパを愛用している女を大人の女性と呼ぶ気には到底ならない。
 この生意気で歳不相応な立場にいる女が、本当に国家から超能力開発を委任された研究所のひとつを仕切っているなんて、鋼は今でも目が覚めて彼女に会うたび嘘っぱちなんじゃないかと疑っている。いったいこの国のどこで生まれてどういう育ち方をすれば、たかだか十七、八かそこらで人間の頭脳、その奥深くにあるブラックボックスを解放するクスリを作り出す氷菓精製者/ピースメイカーなんていう絵空事の仕事に就く羽目になるというのか。しかし、じゃあお前はどこで生まれてどういう育ち方をすれば十七、八かそこらでボクサーなんて危険な職業に就いたのかと言われれば鋼にだってロクな答えは用意できない。細かいきっかけは数あれど、気づいてみればなるようになっていたとしか言えない。涼虎もそうなのかもしれない。
 鋼の視線が、涼虎の背中の緩やかな曲線、そしてその下へ降りていき始めた頃、涼虎が言った。
「あなたは、なぜって言わないんですね」
 なぜもくそもなくこれからがお楽しみだった鋼はその声に仰天してどかっと背中を壁にぶつけた。
「……何か言ったか?」
 しれっと返したが、その心臓はバックバクである。
「普通、ブラックボクサーになったばかりの人たちは、もともとは本土で普通に暮らしていた方たちです。ですから、いろいろ聞いてくることが多いんです。ここはどこだ、おまえたちは何者だ、これはいったい誰の差し金だ、なぜ国家は能力のことを黙っているのか、そもそもアイスピースとはなんなんだ――」
 鋼は素直な気持ちでこう言った。
「へえ」
「へえって……気にならないんですか?」
「気にならないわけじゃないよ」
 鋼は左手で首筋をぼりぼりかいた。
「いろいろ考えてはいるさ。喋ってやろうか?」
 涼虎は頷いた。
「ぜひ」
「よし。たとえばそうだな、こんなのはどうだ? 俺たちのこの実験にはご大層な大義名分なんて元からありはしないんだ」
 白衣の背中が少しだけ驚くのを、鋼はその薄い筋肉から見て取った。
「ブラックボクシングの光景は撮影されていて、それはこっそり外の世界の一部の金持ちどもに送られるんだ。連中はそれを見て、贔屓にしてる研究所か、あるいは頼りにできるピースメイカーに、もしくはいわくつきの経歴を持つブラックボクサーに巨額の大金を賭ける。言わば特権階級のスペシャル・ギャンブルさ。ごくごく一握りの勝ち組にしか見ることのできない超人同士の殴り合い。人気が出るのも無理はない、とうとう人間の退屈を拒む気持ちは自分らの脳髄の奥の奥まで開けて覗いてみてしまうほどなんだから」
 涼虎の背中は、何も言わない。
「この研究所はギャンブルで連中から吸い上げた霞みたいなテラ銭で運営されている娯楽施設。七つのラボがこの国にはあるとか言ってたが、言い換えればそれはこのギャンブルに携わっている金持ちグループのメンバー数が七つってことと同じだ。連中は自分たちが荒稼ぎした財を注ぎ込んで、ブラックボクサーが白と黒の架空の拳を宙に打ち上げ、風のダッシュで間合いを取って炎のジャブをぶっ放し、雷のストレートを掻い潜らせ氷の壁を砕き割り、そして瞬きすればもういない、そんなスーパーファンタジーを革張りの椅子に座って300インチの大画面モニターでシャンパン片手に眺めてる。これがこの奇妙な施設の真相」
 鋼は続ける。
「だがそれにしてはおかしな点がいくつかある。まず第一に、この案だと国家だの政府だのは介入していないことになる。やってることがわかればいつ何時にどんな事故が起こるかわからん遊びをほったらかしにしてはおかないだろうし、むしろ向こうがブラックボクシングそのものを規制・研究内容を独占しようとすることは想像するに難くない。誰だって他人の武器は取り上げて自分の部屋に放り込んでおきたいだろうからな。だからまあ、金持ちが俺たちで賭けをやってるってのはありえないわけじゃないが、せいぜい資金捻出の一経路ってのが実態なのかもな」
 涼虎が、ほんの少しだけこちらを見た。
「それで?」
「金持ちの道楽説じゃないとすればこうだ。――今じゃ水面下の世界では超能力開発にどこもかしこもやっきになっていて、やられる前にやるためには誰よりも早く強くなるしかない。それならひたすら強さと結果を求めるあんたらのやり口にも納得できる。アメリカイギリス中国ドイツロシア、ええっと、あと他の国ってなんだっけ? まあいいやインドとかだろ、そんな国々で同時多発的に開発されたアイスピースをめぐってちょっとした生存競争が起こったわけだ。もし研究が進んで、ブラックボックス解放率100パーセントで、なおかつ誰が飲んでも拒絶反応が出ない、そんなピースが開発されて量産されたらその国はこの星を獲る国になれるってわけだ。ノッカー云々ならいざ知らず、あんたらが俺に飲ませようとしてる『実戦用』のアイスピースなら、ひょっとして核とかナントカ線とかも効かないんじゃないの? このご時勢に国ごとビビるってそれぐらいのインパクトないとキツイよな」
 涼虎は、もうはっきりと振り返って鋼を見ていた。
 その唇が、ゆっくりと開いていく。
 だが、鋼は気にせず続けた。
「でも、俺はこの案も違うと思ってる」
 涼虎の口が、ぴくりと止まった。
「だってそうだろ、たとえば外国が敵ならさ、超能力の存在なんかバラしちまえばいいんだ。そうした方が最終的には得なんだ。数はどうしようもなく力で、国民全員から被験者を募れば事はもっと速やかに流れるはずだ。なぜバラさない?」
 鋼は笑った。
「バラせないからだ。少なくとも今はまだ黙っておこうと躊躇う理由があるんだ。なぜ? 一言で片付けてやる。――『恐怖』だ。こんな地下に人だの物だの金だのが滴り落ちてくるには平和ボケした官僚どもがぶるって現金の小便を漏らしてねえと起こりっこねえ」
 鋼は左手を振った。
「で、その『恐怖』が何かと言えば俺にもわからない。ひょっとしたら、誰にも。――で、どう?」
 背中をどすっと壁に預けて、
「俺の考えは当たった? それとも外れた?」
 涼虎はいつもよりも固く見える表情をしていた。
「機密事項です」
「ホントはあんたも知らないんだろ」
「――――」
「だってそうじゃん。もしあんたが真相を知ってたら、それはどの道ヤバイことのはずだ。わざわざそんなこと話題にするか? それでもあんたはクチにした。なぜならあんたもそれを知りたいから。俺から意見を取り出して、それを一つの可能性としてためつすがめつ眺めていたいんだ。そうだろ?」
 涼虎は、言った。
「それも、機密事項です」
「だと思ったよ」
「黒鉄さん、あなたは私が思っていたよりもアタマが切れる人のようですね」
「そうだろうそうだろう。もっと褒めてくれ。もっと讃えてくれ。俺は頑張った。無いアタマを久々に捻った。さあ、褒めちぎれ!」
「嫌です」
 涼虎はぷいっと顔を背けた。そういうところがガキなのだと言ってやりたいが、そっくりそのまま返されそうだ。
 エレベーターの階数表示がB60を越えたあたりで、鋼は言った。
「安心しろよ枕木。俺はヤシマとは違う。知っててどうにかなることならまだしも、知ったところで他にどうしようもないなら考えたって苦しんだって無駄なこと。俺は迷わない。目の前に立ち塞がったやつはどこの誰だろうとぶちのめす。この、」
 空っぽの右袖を掴み、
「右で」
 鋼の言葉を聞いて、涼虎がぽつりと何か言った。が、それはB52に着いたエレベーターの開閉音に紛れて鋼には届かなかった。だがもしドアの金属に反射した、薄暗い涼虎の鏡像を鋼が見ていたら、音では受け取れなくても言葉はきっと伝わっただろう。
 うらやましい、の六文字が。



 B52はまっすぐな通路だけだった。曲がり角や部屋の扉などは一切ない。ただただ、通路だった。涼虎が先頭を闊歩していき、鋼はそれに従う。心持ち不安げな顔だ。
「なあ、これってどこ向かってんの? ひょっとしてまたあのうるさい機械に入れられるのか?」
「うるさい機械? ああ、MRIのことですか。あれのことならもう心配はしなくていいです。二度と」
「……二度と?」
「ええ」
 涼虎はぺたぺたと歩きながら言う。
「あなたには、これからルイに会ってもらいます」
「なんだって!」鋼は髪の毛が逆立つほどに驚いた。
「聞いてないぞ。おい枕木よく聞け。俺にだって身だしなみを整えることくらいあるんだ!」
「着替えなんてパジャマしか持ってないくせに。ああ、そうか」
 涼虎は遠い目になった。
「黒鉄さんは簡単に無駄遣いができない事情がありましたね。ごめんなさい、忘れていました」
「は? おまえ何言っ……ちょっと待って、おまえいますごく失礼なこと考えてないか?」
「べつに? そう思うのは心にやましいところがあるからじゃないですか」
「おい、いじめだぞこれは」
「悪いなんて言ってないじゃないですか。どうぞご自由に。私にはまったく関係ありませんから」
「そんな……」
「あの箱とその中身を私の目の前で捨ててみせたら、見直してあげましょう」
「それは……こ、今度! 今度な! 今度やるよ。絶対やる」
「絶対うそ」
 ぐうの音も出ない。
 しょんぼりした鋼は起死回生の切り返しに打って出た。
「……でさ、ルイちゃんってどんな子なんだ? いや、性格に関しちゃ明るい子だってのはもうわかったけど」
 涼虎は鋼を見た。
「いい子ですよ。たぶん、あなたが思っている以上に。……彼女を見ても、驚かないであげてくださいね」
「……何かあんのか? 障害でも?」
「説明するよりも、見てもらった方が早いと思います。……ここです」
 二人は立ち止まった。
 目の前には、大きな鋼鉄の扉がある。何か紋章のようなものがレリーフとしてあしらわれているが、鋼にはその『聖杯に絡みついた蛇』が何を意味するのかはわからなかった。ヒュギエイアの杯は、世界的な薬学のシンボルである。
 涼虎がカードをスロットに滑らせて、扉がゆっくりと開いていく。中からキンキンに冷やされた空気が溢れ出して来た。
 涼虎に誘われるように、鋼はその部屋へ入った。
 広々とした空間には、ほとんど何もなかった。中央に大きな鋼鉄の椅子が置かれているほかは、沈黙したモニターが入り口となった扉のすぐ上に展開しているだけだ。
「お、来たね」と殊村が片手を挙げた。
「待ってたよ。とうとうご対面か。ルイちゃんと仲良くしてあげてよ、黒鉄くん」
「ご対面って」
 鋼はキョロキョロと部屋を見回した。
「どこにいるんだよ、噂のかわいこちゃんは?」
 殊村がぎゅっと眉根を寄せた。
「いまどきかわいこちゃんって……」
「俺もそう思う」
「じゃあなんで言ったの!」
 涼虎がため息をついた。
「ふざけてないでルイを見てあげてください、黒鉄さん」
「だからルイちゃんはどこだって……」
 涼虎が、椅子の上を見上げている。
 鋼も釣られてそうした。
 椅子というよりは台座か玉座に近いその鋼鉄の塊の上に、見慣れぬ機構が付随していた。暗くてそれまではよく見えなかったのだ。それは、ガラスでできた円筒状のケースだった。ぼわっ、と時折、その中に満ちた溶液がため息のような水泡を作っている。溶液の中に浮かんでいるのは、
「――脳?」
 涼虎が頷いた。だが、答えた声は別だった。
『あはは……とうとうバレちゃったか。そうだよね、もう、そういう時期だもんね……』
 いつものように鋼のアタマの中に響いてくるのは、人間の少女の声。
「ルイちゃん?」
『うん、そう。あたしがルイ。この培養槽に浮かんでいる脳が、あたし……』
 涼虎が目を伏せて、先を引き継ぐ。
「彼女は動物のブラックボックスの研究途上で偶発的に生まれた培養脳のひとつなんです。元はイルカの脳を使用していますが、そこに遺伝子的ノックアウトとジーンセラピーを施してほとんど別の生き物になっています。その目的は、b2野をブーストして増強されたテレパシーやシフトキネシスを使ってブラックボクサーをサポートすること……そして脳そのものの規格を改造して、ブラックボックスによりマッチングする脳組織を解明すること……」
『もういいよリョーコちゃん。説明するの辛いでしょ。あたしを作ったのがリョーコちゃんたちってわけじゃないんだし。それにあたしはこれでも結構満足してるから』
「ルイ……」
『ごめんね、クロガネくん。気持ち悪いよね。ごめんね。今度からはあんまり生き物っぽく喋ったりしないから許してね。でも、ちょっとの間だったけど、クロガネくんと話せて、楽しかったよ』
 鋼は呆然としていたが、はっと我に返って、こう言った。
「ラーメン食べれる?」
 は?
 涼虎と殊村とルイがまったく同じ反応を示した。が、鋼は気にしない。左手を顎に添えてなぞなぞでも解くような顔で培養槽に浮かぶ脳を見上げた。
「いや、こないだ約束したじゃん。チャーシューメン食べさせてやるって」
『えっと……』
 培養脳が動揺していた。
『このままじゃ食べられないけど……あ、でもあたしクロガネくんのMRIのデータ飲んでて、それで君の体感情報ならトレースできるから……そうだよねリョーコちゃん? そういうことだよね?』
「ええ……まあ……」
 鋼にはよくわからない。
「体感情報? どういうこと?」
「いつもあなたがブラックボクシングをしている時にルイがサポートしてくれるでしょう。あの時ルイはあなたの脳と精神接続して同調しているんです。つまり、あなたが感じた痛みなどがルイにも伝わっているということです」
『リョーコちゃんのバカっ! なんでそういうこといきなり言うの!? 気持ち悪いじゃんそんなの……ごめんねクロガネくん、ごめん、普段はそんなことしてないからね? そんな覗きみたいなマネしてないから……』
 鋼は自分の考えに没頭していててんで聞いちゃいない。
「……ってことはアレか。ブラックボクシングしてない時でもルイちゃんが繋がろうと思えば繋がれて、たとえばそれがメシ時でもいいってことか」
「そういうことに……なるのかな? 涼虎ちゃん?」と殊村。
「そう……ですね」と涼虎。
「なんだ、じゃあ簡単じゃん。おいルイちゃん、今度はメシ時になったら合図するから俺にタダ乗りしてくれていいぜ。なんだよ、そういうことなら今日カレーだったんだぜカレー。同調させてあげればよかった。枕木さあ、言うの遅いよ」
「それは……その、すみません」
 思わず涼虎も謝ってしまった。鋼はウンウンと頷き、
「そっかールイちゃんはイルカだったのか。道理で人間離れした優しさだと思ったぜ。ボールペン投げてきたりしないし」
 涼虎がきっと鋼を睨んだ。
「あなたそれしつこいですね。ひょっとして根に持ってます?」
「うん」
「……ルイ、この人はもうプライバシーなんていらないそうです。いつでも接続してしまいなさい」
『あ、うん……く、クロガネくんはそれでいいの? 気持ち悪くない?』
 鋼はちょっと迷ってから、言った。
「ダメな時はダメって言うわ」
 なぜか三人は、それで納得させられてしまったのだった。
 鋼はどかっと鋼鉄の台座に座って足を組んだ。
「そうと決まれば夕飯なににしようかなあ。ルイちゃんって苦手なものとかあんの?」
『……とりあえず小魚とか馴染みやすそうなものからトライしたい、かな?』
「なるほど……イルカだしな……」
 ああでもないこうでもないと献立について相談し始めた二人に、涼虎がこほんと咳払いした。
「仲睦まじいところ申し訳ありませんが、黒鉄さん、まだ話は半分しか済んでいないんです。殊村くん」
「あい」
 殊村がひょいっとレザーバッグを投げてきた。鋼はそれを胸元で受け取る。かさり、と軽い音がした。
「なにこれ?」
「さっき精製が終わったアイスピースさ。噂の新型」
「お、出来上がったのか?」
「さっきね。で、それを君に見せびらかすって出て行った涼虎ちゃんが軽やかにラボに忘れていったから、僕がここまで届けにきたってわけ」
「そういうことは言わなくていいです……」涼虎は片手で顔を覆った。
「ははは、いいじゃない、いいじゃない。さ、黒鉄くん、見てくれよ。今年の二月くらいから僕らが暖めに暖めてきた、我らがセブンスの命運を握る金の卵をさ」
 鋼は言われた通りに、袋の口を開けてみた。中には氷器に封印されたクスリがぎっしりと詰まっていた。その中のひとつを手に取ってみる。氷殻の中には、赤黒い溶液がなみなみと注がれている。そして生クリームに似た白い筆跡で、容器に文字が刻印されていた。
 “Gold Blood”
 Gの白字が、印刷ミスのせいか、少しだけ滲んで霞んでいた。
「冷血<コールド・ブラッド>?」
「いいえ、純血<ゴールド・ブラッド>です」
「へっ、サラブレッドみたいな名前だな」
「そうあって欲しいと思います。……それがあなたのアイスピースです」
「俺の……」
 初めてナイフを手渡された猿人のように、鋼はそれを何度も手の中でひっくり返した。
「いいにおいがする」
「アイリスの香りを振ってあります。私の好きな花なんです、紫色の小さな花で……」
 そう言って、涼虎はふっと微笑んだ。
 それが、彼女が鋼に見せた、最初の笑顔だった。
 鋼は言葉を失って、笑顔の去った涼虎の横顔を、手元のアイスの背を撫でながら見つめていた。血のような赤と凍りついた白が鋼の指先で何度も翻った。
「ルイ、モニターを」
『あいあい・さー』
 パチン、と暗い部屋に青い光が満ちた。モニターが点灯したのだ。そこには、灰色の都市が映っていた。停止されている映像なのか、画面の縁にノイズのような亀裂がいくつも走っている。
「いまから、あなたには過去に実際に行われたブラックボクシングの実戦の録画映像を見て頂きます。あなたはもう、ノッカーでブラックボックスの使い方の大綱は掴んだはず。これからはその応用と発展へとフェイズを移行します」
「ああ」
「これからが、あなたの本当の闘いの始まりになります。……後悔していませんか?」
 鋼は笑った。
「するヒマねーよ」
 涼虎が頷く。
 映像の中で止まっていた時間が、するすると、息を吹き返したように動き始めた。
 そして鋼は、新しい世界を、
 見た。

       

表紙

顎男 先生に励ましのお便りを送ろう!!

〒みんなの感想を読む

Tweet

Neetsha