Neetel Inside ニートノベル
表紙

黄金の黒
第二部 『LOSS TIME』

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 それは、一本の擦り切れたビデオテープだった。
 引っかき傷のようなノイズが走る中、ひとつの椅子に白衣を着た男が座っている。その顔はやつれ、肌は象のように乾いて灰色がかっていた。目は頭蓋に吸われているように落ち窪み、瞳だけが消滅を拒む熾火のように燃えていた。
 男は、こちらを見ずに、しゃがれた声で語り始めた。
『私がこのざまになったのは、一九九七年の夏に責任があると思う』



 ○


 もう、だいぶ前のことになる。
 私が大学院でくすぶっていた頃、ドラッグでショック症状を起こした女を助けてくれと友人から電話で頼まれたことがあった。私はその夜、教授に頼まれたくだらない資料の作成と専門分野とは髪の毛一本程度しか関わりがないどこぞの博士が雑誌に投稿した英語の論文の翻訳に追われていて、つまり半狂乱になっていた。私はがなり立て続ける携帯電話から耳を離した。女がクスリで死にそうだ? 混ぜ物をしているからそれがよくなかったのかもしれない? そんなことは私の知ったことではなかった。薬学部の連中か、構内で大麻を育てている馬鹿にでも聞けと言いたかった。私の専門が神経学で、それが法学部の彼にとっては魔法と同義のブラックボックスだとしても、科学者は万能ではないし、ましてや私はただの学生に過ぎなかった。私が行ったところで何もできやしない。だが、私はもうそれ以上、履き間違えたソックスのように見るに耐えない文献に一秒だって触れていたくなかった。それに友人のトラブルに興味もあった。なかば野次馬気分で、私は寮を出た。一応、いつか映画で見たように、アドレナリンの注射だけは持参して。



 自転車を飛ばして友人の部屋に行くと、あれだけ騒いだくせに呼び鈴を鳴らしても誰も出てこなかった。蹴破ってやろうかと思ったが、ドアノブを握るとあっさり回った。私は安い木製の扉を肩で押すようにして部屋に入った。
 驚いた。
 何度も遊びに来たことのある六畳一間のその部屋が、一面の赤に染まっていた。昔からスプラッタには怯まない性質の私ですら少し息を呑んだ。柱に付着した血液を指で掬うと、まだ暖かかった。
 一歩進んでみると、友人が壁際にもたれかかって事切れていた。首がほとんどねじ切られていて、そこから血が静かに流れ落ちていた。どうも私にはその首の捻られ方が、人の指によるものに見えたのだが、その時はそんなことはありえないと咄嗟に思った。視界の端に血塗れのライダーグローブが落ちているのが目に入った。それを拾って、そしてその部屋に最初からいた、すやすやと嘘のように眠っている女を見た。女は鼻血を出してはいたが、生きていた。
 それがKとの出会いだった。




 私はKを自分の部屋へと運びこんだ。そして彼女の意識が戻るとすぐに彼女を質問攻めにした。いったいあそこで何があったのか、なぜ友人はあんな風に死んでいたのか、君はどんな混合ドラッグをキメたのか、そしてなぜあんなところにライダーグローブが落ちていたのか。どうしてライダーグローブなんかに拘ったのか、私にも分からない。直感と言ってしまえばそれまでだが、その時の私の脳も何かの拍子で妙な揺れ方をしていたのかもしれない。
 私はいきなりKに殴られた。まったく予想していなかったからか、意識が飛びそうなほど気持ちのいい一発をもらった。鼻血を垂らしながらKを見上げると彼女は言った。
『トイレ』
 トイレなら仕方あるまい、と私は納得して、待った。Kはトイレから出てくると私のベッドシーツで手を拭いながら、世間話でもするように話し始めた。友人とKはたまたま行きつけのドラッグ・バーで出会って意気投合し、そのまま友人の部屋へと向かったのだという。そしてそこで友人がどこからともなく仕入れてきた調合法でブレンドしたドラッグを、一足先にKがキメた。
『あいつ土壇場でビビり出してさ、ひょっとしたらヤバイかも、普通のにしとこうか、なんて言い出して。血みたいな銭出して買ったクスリを混ぜられてからそんなこと言われてもね。面倒くさかったから、あたし先にヤッちゃったんだ。そしたら――』
 Kはシケモクを名残惜しそうに吸った。
『急に今まで感じたことのない、なんていうか、「じわっ」とした感じがアタマの中に広がったの。わかるかな、たとえて言うと、脳の中に他人の血を一滴垂らされたような?』
 わかるよ、と私が言うとKは不満そうに紫煙を吐いた。
『いや、絶対にわからないと思う。あの感じは』
 今では、彼女の言っていた意味がよくわかる。
 彼女は続けた。
『そしたらあたし、血ぃ噴いちゃって。びっくりして手で鼻を押さえたんだけど、そこからぽこぽこと泡まで出てきたのね。そのすぐ後かな、アイツがあんたに電話してたの。あたしはそれ聞きながら、あーこれたぶん死ぬなーって思ってた。そしたらさ、何をトチ狂ったのかアイツ、いきなりあたしの首を絞めてきたのね。たぶん自分の部屋でヤバイ人死にが出るかもと思って、焦ってわけわかんなくなってたんだと思う。クスリで死ぬ前に絞めて殺せば薬物反応は出ないとでも思ったのかな? なかなか悪くない考え方だけど』
 私もKと同意見だった。咄嗟の反応としてはアグレッシブで魅力的だ。ただ、正しくないというだけで。私は先を促した。
『で、首を絞められながら、視界一杯にアイツの顔が広がってさ。あー自分が最後に見るのはこんなしょうもない男の顔なんだって思ったら、カァッと来ちゃって。でも手には力入らないし、そもそも顔中が血やら泡やらでわけわかんなくなってたし、それで、見るでもなしに、床に落ちてたアイツのライダーグローブを見てたら、それが急に浮かんだの。ふわって。ああもうあたし死んだんだな、これは最後の走馬灯の代わりなんだなって思って、じゃあ滅茶苦茶やっちゃえって。あたし、その手袋を動かして、アイツの首を絞め返したの。そしたら』
 パン、とKは手を叩いて、くすくす笑った。
『死んじゃった。……信じる? こんな話。あたし、やっぱりもう駄目なのかな?』
 私はしばらく考えてから答えた。
『君はもう駄目だが、その話は信じよう』
 後で聞いたところによると、Kは私のその答えとその時の目つきで、私も終末的ジャンキーの一人だと思ったという。失礼な話だ。その頃の私はまだ、風邪薬だって滅多に飲んだりしなかったというのに。
 その日から、私とKの交流は始まった。



 どんな用事で会った時も、また何の用事もなくても、私はKにドラッグをやめろとは一度も言わなかった。そんなことを言っても無駄だろう、Kの人生には他に何もなかった。酒と男とドラッグとギャンブル。確かに脳神経学的に見ても脳を直(じか)に揺さぶるそれらよりも多幸的なものを差し出せと言われても私にはどうしようもなかった。愛? そんなものはまやかしだ。雨を歌った詩が、汚水を見上げて紡がれるものでしかないように。


 しばらくの交渉期間を経て、私はKと取引をした。彼女が望むドラッグを私が作ってやる代わりに、彼女は私の研究室の中でドラッグをキメる。その時に私は彼女の頭皮に電極を貼り付け、表面を流れる電流で彼女の脳を調べる。私はあの血みどろの惨死について知りたかったし、彼女はもう市販のドラッグでは満足できなくなっていた。私たちはいい協力関係だった。笑い合いさえした。


 それからの私は、初めて自分がやる『何か』に没頭した。
 空(くう)に浮かんだ手袋で、自分の煙草に火を点ける女の脳が、私の現実を喰らい尽くした。その脳(はこ)を開けて中にある秘密を暴き立てるまで、私はぐっすりと眠ることはできそうもなかった。好奇心という名の狂気が、私の血に流れる身に覚えのない情熱が、それを許してくれなかったから。



 ブラックボクシングという名称をいつ思いついたのか、正確には記憶していない。科学者たちには総スカンにされてしまいそうで恐縮だが、私は価値あるもの以外を記録するつもりは毛頭ない。名などどうでもいいのだ。気に入らなければ変えてくれ。重要なのはそれの本質であり装いではない。だが、私の思惑はともかく、ブラックボクシングという名称はKにとっては気に入るものだったらしい。「あたしはボクサーだ」などと言って握りも引き手もなっていないジャブを白衣の背中に喰らい続けて辟易したこの私が言うのだから間違いはない。



 大学院の研究室にある豊富な機材を無断借用して、私は自分の実験を進めた。調べてみると、やはり私の思った通り、Kの脳は、覚醒剤や幻覚剤などのある種のドラッグを摂取した時に脳の一部を烈しく発火させた。発火というのは、実際に燃えているわけではなく、そこの部分のニューロンが反応したという意味だ。
 それは前頭野にある言語を司るブローカ野と、側頭葉にあるウェルニッケ野だった。
 どちらも言語を司っている部位だ。ブローカ野は言葉を書いたり読んだりする能力を、ウェルニッケ野は言葉そのものを理解する上で働く神経群だ。二つは弓状の神経群を通じて接続しあっており、ブラックボックスをノックしている時、その二点が猛烈に発火した。私の予想では、発火するとしたら肉体を動かす運動野ではなかろうかと思っていたのだが、違ったわけだ。彼女は、脳が言葉を操る時に使う神経群を用いて、私の友人を死に至らしめたのだ。
 私はより彼女の脳を揺さぶることができるドラッグを作り求めた。誰にも頼らなかった。自分の手だけでやりたかった。私はあらゆる文献を漁った。薬理学や栄養学、生化学に果ては魔術や錬金術の本まで読破して、使えそうな記述とアイディアはすべて投入した。この時期が私の人生にとって最高潮の時代だったと言える。
 楽しかった。



 彼女の異能は、多岐に渡った。手袋を浮かしたあのサイコキネシス以外でも彼女の脳のブラックボックスは様々な能力を発現した。
 火炎、電気、風力、氷結、瞬間移動。
 だが、それらにはいくつか制限があることがわかった。まず彼女の念動力は手の形をした、中が空洞になっているものにしか反応しない。簡単に言えば手袋だ。彼女は手袋しか動かせなかった。投薬する幻覚剤を変えてみても――その頃にはもうそれはただの幻覚剤とは呼べない混合薬になっていた――ルールに綻びは見られなかった。これに関しては仮説の粋を出ないが私には自論がある。ブローカ野にはミラーニューロンと呼ばれる神経細胞群があり、そこは目で見たものを『模倣』する機能を有している、脳の中の鏡と呼ばれる領域だ。模倣というものは真似と違って、その目的や指向を理解していないと出来ない。階段を登っている人間を見て、その場で足踏みをし始めるものはいないだろう。きちんと階段を登っている人間の『意思』や『目的』を理解して模倣しているはずだ。階段を登るということを理解していなければ、人間はたとえ目で見た行動をトレースできても、その場で足踏みをして転んでしまう。
 模倣、という言葉を理解に置き換えてもいいかもしれない。そうした方がわかりやすいだろう。そして理解していなければできない、人間の動作はもう一つある。不随意筋にはできない仕事だ。
 それは身振り手振りといった、身体を使ったジェスチャーだ。
 諸君も人と喋っている時にジェスチャーでわかりやすく図や関係を補足することがあるだろう。手で自分が見たものの大きさや形を表したり、ものの動く流れを示したり。ああいった動きも自分が語る内容を理解していなければできないし、またそれを見てその意図を汲むのもまた相手側の理解がなければ通じ合わない。言わば肉体を用いて話す言語――ボディランゲージだ。べつに不思議な話じゃないだろう、どこの国へいったって挨拶する時には手を挙げたり、お別れの時には手を振ったりするだろう。それと似たようなものだ。
 あんな風に説明がてら手を動かしている時に脳のどこが発火するか知っているだろうか? それは運動野ではなく、言語野なのだ。
 つまり、Kに発現した手袋を動かす超能力は一種の『言葉』として出力されたものではないのだろうか? だから、言語的な『手』という媒体にしか反応しない。できないのだ。
 他にも、わかったルールはいくつかあった。発火能力は左手から、電撃能力は右手からしか発動できないことなどもルールのひとつのようだった。Kはよく左手袋に命じて煙草に火を点けさせていてはくすくす笑っていた。私は彼女をただの実験道具としか見ていなかった。だが、そうして楽しそうにしている彼女をわざわざ不快にさせたいとも思わなかった。


 私は常に考えるのをやめなかった。いつかKが言った通りに、私こそ病人だったのかもしれない。
 なぜ、脳の反応ごときが体外にある物質にまで影響を与えるのか? いったいそこにはどんな物理法則があるのか?
 私が最初に立てた仮説はこうだ。まず幻覚剤を投与された脳の中のブラックボックスがオープンになる。そして開かれた箱はまず共感覚能力(テレパシー)を外部へと出力した一種の励起状態になり、周囲の人間の脳と接続(シンパシー)する。そしてテレパシーによって通じ合った多数の人間は、ブラックボクサーが見ている『幻覚』を共有する。手袋が浮いた、とブラックボクサーがその脳の中の鏡に映せばそれがそっくり周囲の人間にも転写され、それは脳の中でのみ通じる真実となる。手袋は何の変わりもなく床に『ある』のに、我々にはそれがわからない。浮かんだように見え、そしてブラックボクサーが念じた通りにその手袋に首を絞められたものがいれば、その通りに首が絞まるのだ。私は、この初期段階の仮説を信じていた。だが、それは一つの実験によって否定された。
 私はKがブラックボクシングに耽っている映像を『大学で撮った映画だ』と詐称して親戚の女の子に見せてみた。その子は目を白黒させて言った、『すごい、本当に手袋が浮かんでいるみたい!』と。
 本当に手袋が浮かんでいるのでなければ、そんなセリフは出てこない。
 なぜならそこにはKはおらず、私も調合ドラッグを飲んでいなかったのだから。もちろんその子もだ。私は悩んだ。Kとの接触によって私にもテレパシー能力が目覚めたのか? だが私には手袋を浮かしたりその手でライターを点けたりなんていうことはできないままだ。ではブラックボックス能力が発動した場合、超広範囲に渡ってその感覚は共通のものになるのか? それならば、もうその『幻想』は『現実』と何も違わない。私たちがどうやっても認識できない『現実』にいったいどんな価値があるというのか?
 私はまたこの難問に苦しめられることになった。脳と外界、たかだか頭蓋ひとつを挟んだだけのその距離が私にはどうしても理屈で埋めることができなかった。脳は筋肉ではない。痛みさえ感じないようにできている。なのになぜ現実世界へ干渉できるのか?
 私は証明こそできなかったが、今ではこう思っている。
 つまり、『世界』にも『意識』があるのだ、と。ブラックボックス能力によって解放されたテレパシー能力はまず誰よりも先に『世界』と接続し、その神経群に発生した『幻想』を注ぎ込む。そして世界という『脳』はブラックボクサーの『脳』によって騙され、改変されている――
 私が興奮してこの話を聞かせると、Kは笑い転げて椅子から落ちた。そばにあった鏡を見ると、私は耳まで真っ赤になっていた。
 だが、たかが赤っ恥ぐらいで自説を下がらせる私ではない。



 そうして、そんな日々が一年も続いただろうか。
 そういう日が来るのは私にはとっくにわかっていた。
 Kが、死んだ。
 私がいつものように研究室の扉を開けると、彼女が『手術台』と呼んでいた寝台にKが座っていた。俯いたままぴくりともしなかった。私が手を差し伸べて頬に添えると、まだ暖かい鼻血が私の手に染みついた。手首から、まるで私のもののように滴り落ちる血液の澄みきった音を、私はしばらく聞いていた。彼女の手元には、私の知らない注射器と、私の興味を惹かない安物のドラッグの粉末があった。
 私がこのざまになった馴れ初めは、これで全部だ。


 ○



 そこまで語り終えて、男はようやくこちらを見る。
『そして私は、Kが死んでからも研究を続けた。たったひとりで』
 白衣のポケットに手を突っ込んで、何かを引っ張り出した。映像の中で、それは何かの爪のように見えたけれど、目を凝らせば透明な外殻に覆われた、赤茶色の液体だということがわかったかもしれない。白衣の男はチラチラ輝くそれをかざして、目を細めた。
『綺麗だろ?』
 その眼差しは、海岸で貝殻を見つけた少年のように澄んでいた。


『ブラックボックスの励起剤だ。名前はアイスピース、と決めた。氷の破片にしては服用しすぎるといくらかちょっと寿命が縮んでしまうが、そんなことは大したことではあるまい。いまの私の有様を見て、この代謝機能のほとんどを失った身体を見て諸君は思うかもしれない。ああ――哀れだ、と』


 言って、アイスピースを握り締め、
『だが、たかが私が一匹死ぬからといって、私のこの研究成果をドラッグ扱いするのはやめてもらいたい。これは断じてドラッグなどではない。脳を揺さぶりこそすれ、これには快楽を惹起する力もなければ、依存性も、脳機能の低下もない。ただ寿命が縮まるだけだ。それ以外にも副作用があるにはあるが、決してそれは快楽には繋がらない。繰り返すぞ、これはドラッグなんかじゃない。Kを殺したあのくだらん安物と同じにされては、この研究成果が可哀想だ』
 掌を開き、軽く汗をかいたそれを、男は口に含んだ。まっすぐ前を見て、噛み砕く。
 ぱキィッ
 男の口元で、砕けた氷の小さな花が咲いた。男の目の光彩が、内側から精巧な万華鏡を当てたようにその色彩を変えた。
 元からあったかどうかもわからない正気の気配が、消える。
 男は目を瞠ったまま、また白衣のポケットに手を突っ込んだ。ちゃらり、と音をさせて、そこから銀色のリングが現れた。小巨人のキーホルダーのようにも見えるそれには、鍵の代わりにグローブが引っかかっていた。ボクシンググローブとは違う、五指がきちんと分かれたエナメル質の手袋。右手は黒、左手は白。それがそれぞれ三つ、合計六つ。
 白衣の男がリングを振ると、ちゃりんとグローブが外れて宙を舞った。
 ひらひらと落ちていくはずの手袋が、止まる。
 男が呟くように言った。
『ブラックボックス……』
 夢見言のようなその呟きで、六つのグローブが膨らみと硬さを持った。
『映像処理をしているように見えるかね? そうではない、とわざわざ言うのも億劫だな。べつに私は信じて欲しいわけじゃない。信じたくなければそうするがいい。私は止めはしない、結局のところ、真実は私の中にあればいい』
 男の周囲をグローブたちが周回軌道を取り始めた。恒星を取り巻く衛星のように、ひゅんひゅんと。
『ここまで習熟するのに、だいぶ生命(いのち)を使った』
 男は嬉しそうに言った。続ける。
『Kが生きていた頃は、脳のブラックボックスをそれほど揺さぶれなかったからか、「手」は左右ひとつずつしか作れなかった。だが私のアイスピースなら六つまで作ることが可能だ。左右あわせて六つまで。白と黒の数は均等に3-3でなくてもいい――だが、六つとも左、あるいは右といった風なマウントの仕方はできない。同じ側の手は五つまでだ。一度に同側の手を六つマウントしようとすると、脳の中で七つ目をマウントしようとした時と同じ反応が起こる。つまり、オーバーロードだ。それがどれほど苦しいかは、初めて酒を飲みすぎた時のことでも思い返してくれ。恐らくこれが脳の限界ということなのだろう――いまのところは』
 男は足を組んで、顎に自分の拳を当てる。
『私はとうとう捕まえたのだ、脳の中の幽霊を。この私の未来とKの生命を犠牲にして。さっきも言ったが、私はもうすぐ死ぬ。そうでもなければこんなビデオを残したりはしない。たとえ悪魔と取引してでも、この研究だけは自分の手でやり遂げたかったが、それはもう叶わない。だからといってこの研究成果を、私の心臓の破片を、ただ風と塵にするつもりもない。だから私は、この研究成果を公開することにする。ただし』
 と、男は言った。
『私の研究を継ぐに相応しい数人の人間にだけ、だ。面識があるものもいる。論文を読んだことしかないものもいる。国籍も様々だ。諸君のことだ。私は諸君にこのアイスピースの精製式を引き渡す。――きっと驚くだろうな。その精製式の構成物は諸君らに馴染み深いものばかりだからだ。少なくとも科学者にとっては。だがまァ、元祖麻酔のエーテルだって、最初はパーティの時に使われる娯楽品でしかなかったのだから、不思議なことは何もない。今までそれらを重ね合わせた者がいなかった。それだけのことだ』
 白衣の男は、立ち上がった。
『胸を張っていい。諸君は私が選りすぐりにすぐった学問世界の人非人だ。恐らくこの研究を悪用しようとするものもいるだろう。恐れおののき国家に保護を求めるものもあるだろう。好きにするがいい。好きにすることこそが、科学発達の絶対条件だ。だが忠告するのなら、諸君、誰よりも先に「答え」へ辿り着きたまえ。それが他者を圧するたったひとつのアドバンテージになるだろう』
 男は画面から消えた。
『諸君らにはもう一つのビデオテープを贈ろう。各ブラックボックス能力について一つずつ私が実演してみせる映像だ。ここは手狭なので、実験室へ移動して、また録画を始めよう。では、それまで――』
 だが、映像はそこで終わらなかった。
 沈黙が流れる。回っているビデオカメラのスイッチに指をかけながらも、まだ何か言うべきことがあるのではないかと逡巡するような、そんな沈黙が。
 誰もいなくなった部屋、空っぽになった椅子だけが残ったそこに、男の声だけが降る。
『確かに今は、私のアイスピースは生命を喰らい尽くす怪物だ。それは言い逃れのできない事実だ。だが、私は信じている。いつの日か、これが己の心臓の破片などでなく、本当に心の欠片となって、誰もが気兼ねせず自由にそれを飲み、すばらしい力のとりことなって、新しい世界へと飛び抜けてくれることを。私は信じている。たとえ私が、もう、どう足掻いてもその新世界へは辿り着けなくても――私が斃れても、誰かが後を継ぎ、私が焦がれた夢(マスターピース)を掴み取ってくれることを』


 そこまで言って、男は笑った。
「私は、わがままだ」
 そこで、テープは終わっている。


 彼、……枕木猟輔に関する情報は彼の趣味嗜好からその思想に及ぶまで第一級のアクセスコードがなければ閲覧できない。
 たとえそれが誰であろうとも。
 たとえそれが実の娘であろうとも。

 後に起こることを考えれば、それは充分、呪いのビデオと呼べる代物だったのかもしれない。




 それは、一本の擦り切れたビデオテープだった。

 それは、世界で最初のピースメイカーの物語。
 それは、世界で最初のブラックボクサーの物語――


 ○


 現在では、枕木猟輔が撮影したもう一本のテープは現存していない。その代わりに後の特異研同士による実験(ファイト)のビデオが撮影され、ブラックボクサーにはそちらを視聴させることになっている。そして、そのビデオを見ることができるのはブラックボクサーだけではなく――
 黒鉄鋼が枕木涼虎に話した推測は、当たらずとも遠からずといったところだった。

     


 天城玄一郎はクルマについて考えていた。クルマ、というのは玄一郎たちの世代にとっては成功の象徴だった。最初はボロでもいい、まずはクルマを買うことだ。大学生か、社会人になってからか、とにかく一台手に入れて、所有していない層から抜け出る。一層出たら後は少しずつ積み重ねていけばいい。一年経つごとに昇給し、昇格し、そしてクルマのランクも上げていく。玄一郎たちの世代にとって生きる、とはそういうことだった。成功していくこと。自分が間違っていなかったのだという証明を、休みの度に水で洗ってワックスをかけてやること。それが生きるということだった。
 だが玄一郎は最近思う。――どんなクルマにも価値はある、と。いや、べつにいま乗っている他人のクルマが自分のそれより三ランクは高級であることを羨んでいるわけではなく、本当に心からそう思っていた。玄一郎を取り巻く富裕層の人間たちが聞けば鼻で笑うだろう。それは弱者の論理だ、と。自分の中の『欲しい』を誤魔化すために、弱者はそれを欲しくないと思い込もうとする。それは仕事に生きるなどと吐(ぬ)かしてペットの犬に話しかける醜女の四十路と何も変わらないのだと。たとえば今、玄一郎の隣に座って真夜中の都心が瞬く光を浴びながら自分が今年何台の新車を買うつもりかを高らかに語るこのクルマの持ち主などは、絶対にそう言う。というか、日頃から言っていた。
「聞いていますか、天城さん。僕にはあなたが心ここにあらずに見えるのですが」
「聞いてるよ」
 そうですか、とクルマの持ち主――山口は頷いて、また自分の自慢話を始めた。その話には節操とか、遠慮とか、そういったものは欠片もない。玄一郎がクルマに詳しくないことを知っているのに(そう、知っているのに!)、コアでニッチなカーデザインの裏話などを平気で語り続けるその神経を一度根こそぎ切り取って天日干しにしてみたいと思う。案外すべてのシナプスが脳から切除されても生きているかもしれない。自分のことさえ考えていればいいのだから、それぐらいはできそうだ。
「天城さんも、クルマは年に三度は変えた方がいいですよ。できれば四度がいいですね、四季に合わせることができますから。四季の度に新車のシートに腰をうずめるあの感覚――自分がやってきたことが正しかったのだと感じられる一瞬ですよ。そしてこれからも、頑張っていこうという気持ちが湧き起こるんだ」
「昔のクルマはどうするんだ」
 と、今まで何十回と繰り返した同じ質問を、なかば喧嘩を売るつもりで吹っかけると、山口はニコニコして答えた。
「もちろん車庫にしまっておきます。そのための駐車場を自宅の地下に持つのは我々富裕層――社会の歯車の代表者としての当然のたしなみですからね。天城さん、クルマですよクルマ。人類の歴史は掘り起こせばグダグダと死に損ないのごとく長々と続いていますが、クルマの歴史はまだ若い。この素晴らしい文化的なアイテムと幸運にも巡り合えた奇跡をどうして堪能しないんですか?」
「私は、今の自分のクルマに人並みの愛着を持っている。それでいいんだ」
「そんなもの!」山口は鼻で笑った。彼は自分にそぐわない意見はすべて迷妄愚鈍の類だと思っているクチの人間だった。
「天城さん、それは違う。それは向上心を失っている証拠ですよ。人間の身体が新陳代謝を繰り返すように、心だってそうしなければ生きていけはしないんだ。多少食欲がなくたって朝ごはんを食べなければキチンとした生活は送れないでしょう? 無理をしてでも贅沢というものはするべきなんです。でないとすぐに」
 顎をくいっと振って、窓の向こうに広がる街を示し、
「あの連中と同じになってしまいますよ。社会の最下層で生きるクズどもにね」
 玄一郎は身体の奥で何かが燃えるのを感じていた。これでも正義感はある方だ――同じ人間をそんな風に卑下する山口を弾劾してやりたかった。だが、仮にいま玄一郎が真摯な口調で諭してもなだめても、山口は醒めた薄笑いを浮かべてこう言うだけだろう。――でも、あなただって助けないんでしょう、彼らを? そうだ、と言うしかない。だがそれは、玄一郎が稼いだ金をそのまま自分の製薬会社の運営資金に回しているからだ。国内で三指に入り世界でもトップ10にランクされる大企業のボスになっても、玄一郎はほとんど自転車操業でやっていた。それでもカネが、世間から見れば有り余っていることは否定しないが、山口のような人種と同じにされるのは嫌だった。言葉には、出せなかったけれど。
「まったくなんで生きているんだろうなあ、あいつら!」
 山口は混ぜ物をこそぎ落とした純金のシガーレットケースから煙草を取り出して深々と吸った。玄一郎が去年まで肺を悪くしていたのを山口も知っているはずである。ある意味で、徹底した男だった。
「僕だったら耐えられないな。欲しいクルマも買えずにカタログ眺める人生なんて――ふん、連中はやれカネがない、やれ運がない、というけど僕から言わせてもらえば甘えてるだけだな。子供なんだな――」
 そう言って、どこかの高級ホテルのマッチで気障ったらしく煙草を点け、深々と吸う山口の経歴は幼稚園から大学までエスカレーター、そしてその後は親の会社の重要ポストに本来の階級手順を五段は飛ばして収まったというもの。若い頃は煙草銭にも困った玄一郎からすれば、殴ってやりたいようなボンボンだった。その耳には富の象徴のような純エメラルドのピアスが嵌め込まれている。
「天城さん、いいディーラーならいつでも紹介しますし、なんなら僕が天城さんにふさわしい運命のクルマを見繕ってあげてもいいんです。忘れないでくださいね、いつでも遠慮なく、頼ってください!」
「わかった、わかったよ」
「わかってくれましたか――」
 話の接ぎ穂が途切れて。
 山口は少しウインドウを開けて、副流煙を街へと流しながら、そのセリフをとうとう言った。
「そういえば、息子さんはお元気ですか?」
 最高級ブランド『リベラーノ』のスーツの上に乗っていた玄一郎の拳が『めきいっ』と音を立てて鳴った。目を血走らせて、意味のない笑みを浮かべている山口を見る。
 そこまでか?
 そこまで馬鹿じゃないと駄目なのか?
 山口、おまえはわかっているはずだよな?
 俺の息子がくだらんクルマに憧れて交通事故を起こし(それはもう事故というよりは『犯罪』そのものだった)、人を二人殺し、他にも一人の重傷者を出したことを? ニュースで見たよな? 面と向かって話もしたよな? それでもなのか?


 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 おまえはさっきまで俺の目の前でクルマの話をしただけでは飽き足らず、

 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 舌の根も乾かぬうちに俺の息子について喋るのか?


 そう、どんなクルマにも価値はある。
 みずから他人を轢き殺そうとしないだけ、どこかの誰かのせがれよりかはいくらか上等なのだから――
 玄一郎は、血を吐くような苦しみに耐えて、沈黙を保った。だが山口は黙らなかった。
「僕にはわかるなあ、燎くんの気持ち。若い頃って、ほら、『一番』に憧れるものだから。だんだん大人になるとね、二番手三番手、まあそれでもトップ集団にいるだけでもタイヘンなことなんだなってわかるんだけど――まだ十七歳でしたっけ? いいなあ、若いなあ。僕も二十年前に戻りたい。天城さん、まだ燎くんをご自宅に?」
「軟禁している。外に出すわけにはいかないだろう、あんな事件を起こして」
「ま、しばらくはそうでしょうね。でも、もう一年近く経つんでしょう? 記事だって三ヶ月を目処にすっぱり切ってその後の取材もトピック掲載もなしって取り決めでお金、マスコミに支払ったんだし、そしたらもう時効だと思うなあ」
「山口くん、君は法学部出身ではなかったかな」
「え? そうですけど。いまそれ関係あります? だって可哀想ですよ。一番になりたかっただけじゃないですか。いま流行りの引きこもりとかニートなんかよりずっと高等で文化的な動機ですよ。それも殺すつもりはなかったんでしょう?」
 殺すつもりはなかった?
 まだ宵も更け切らない都心の道を二四〇キロでぶっ飛ばしておきながら?
「許して受け入れてあげるのが、親の務めだと思うけどなあ。いや、天城さんを責めてるわけじゃないんですよ? でもなあ、僕はどうも納得がいかないなあ。優しさってなんなんだろうなあ」
「山口くん」
「はい、なんでしょう」
「まだ、目的地には、着かない、のかね」
 山口が馬鹿で助かった。
 玄一郎は、子供のように頬杖を窓枠について、外を眺めていた。その目に今にもあふれ出しそうな涙が満ちていることに山口は最後まで気づかなかった。
 腕時計を見て、
「もうすぐですよ。ああ、楽しみだ。年甲斐もなく胸がドキドキしてますよ。僕もまだまだ子供だなあ」
「…………」
「きっと無趣味な天城さんも気に入りますよ。なにせ『あれ』を見られるのはごくごく一部の素性が確かな大物だけですから。僕や天城さんのような、ね。参加するだけでも箔がつきますよ。僕なんかあっちこっちから紹介してくれビデオ回してくれってもう散々ですよ。裏の件だから上流階級の中でも下っ端じゃ無理なんだよっていつも教えてやるんですけどね――天城さん? 聞いてますか天城さん。また寝たフリなんてしちゃって。駄目ですよ天城さん。もうすぐ着きますから、話したいことはまだまだ沢山残ってるんですから――」



「天城さん、着きましたよ」
 タヌキ寝入りのはずがいつの間にか本当に寝入ってしまっていたらしい。玄一郎は焦点の合わない目を何度もこすって喝を入れ、クルマから自分で降りた。
「ああっ! 駄目ですよ天城さん、運転手がドアを開けてくれますから。勝手に降りるなんて貧乏人みたいな――」
「いい」
 もうまともな文章を与えてやることすら億劫だ。仕事の関係上、この山口とは切っても切れない縁がある。玄一郎にとって山口を切ることは社員一千人のクビを切るのと同じだったし、それは向こうも同じだった。もっとも山口にとって心配なのは自社の社員のことなどでなく、クルマの買い替えが年四度から二度に落ちることだったのだろうが。そういうわけでこの気が合わない五十男と三十男の二人組はお互いに銃口を向け合っているがために、かえってあけっぴろげに交友していられるのだった。
 今夜呼び出しを受けたのも、山口の気まぐれだった。どうせまたセレブ向けの見世物にでも玄一郎を同伴させて話し相手にさせるつもりだろう、高級娼婦による本番アリのミュージカルとか、LSDをキメたピアニストの演奏とか。山口はこちらの仕事の納期のことなどまるで考えていない。自分の遊びたい時が誘い時、それでどうしてこの国の頂上近くまで登り詰められたのか玄一郎には理解しかねる。あるいは、もうこの国そのものが山口でも手が届くほどに落ちぶれているのか。
 今夜の見世物は、果たしてどんな悪趣味か。
 クルマから降りた玄一郎が見上げる高層ビルは、深夜零時の闇を無視して煌々と輝いている。
 運転手にぞんざいな態度でクルマを駐車場へ回すよう言いつけた山口が、子犬のような馴れ馴れしさで近寄ってきた。
「さ、いきましょう天城さん。こちらです」
 エントランスに入って、山口は慣れた態度で受付嬢に何かのカードを手渡し、それをカードリーダーで読み取った顔に傷のある受付嬢は笑顔でそれを返した。中央のエレベーターからどうぞ、と背後を指し示す。
 玄一郎は嬉々として歩を進める山口の背中に言った。
「いまの子、銃器を携帯していたようだが」
 セレブにもなると女性の脇に妙な膨らみがあるかないかくらいは気配で分かる。
「つまり、それほど重大でリスキーなイベントってことですよ」
 どうだか、と玄一郎は顔をしかめた。
 二人はやってきたエレベーターのケージに乗り込んだ。玄一郎が「閉」ボタンを押す前にドアが閉まり、ケージが上昇し始めた。脈拍よりも少し早く増えていくエレベーターの階数表示を見上げながら、玄一郎が言う。
「そろそろ教えてくれないか。今夜はいったい何の催しなんだ? 明日も仕事があるんだ、あまり年寄りに無茶はさせないでくれよ」
「大丈夫ですよ。この間みたいにスピードを食材に組み込んだ三ツ星レストランが待っていたりはしませんから」
「あれか。五十男にスピードを食べさせるなんて君は一体何を考えていたんだ。死ぬかと思ったぞ」
「バイアグラみたいなものかと思って」
 死ねばいいのに、と玄一郎は思った。
 山口はふむ、と顎に手を添え、
「ま、強いて言うなら映画鑑賞、ですかね」
「まさか」と玄一郎は顔を青くした。
「スナッフビデオ、じゃないだろうな」
 山口は笑った。
「どうですかね」
 ゆっくりと上昇が止まって、エレベーターのドアが開いた。その向こうはロビーになっている。観音開きの扉が開けっ放しになっていたが、その向こうはよく見えない。ほかに部屋はなかった。二人はケージから降りた。照明が絞られているために、お互いの顔もよく見えなかった。
「早くいきましょう。もう始まる時間です」
 うっかりすれば手まで引きかねない山口に連れられて、玄一郎は開かれた扉の向こうに足を踏み入れた。
 映画館のようだな、と玄一郎が思ったのも無理はない。そこは講演ホールのようになっていて、入り口から下へ向ってローマのコロッセオのように段々になっていた。席はほとんど埋まっている。
「こっちこっち」
 山口が座り、玄一郎もその隣に腰を下ろした。
「本当に映画なのか?」
「しっ、黙って」
 ステージの上で、なにやら人が動く気配がしていた。パッと照明が灯る。部分的に闇から切り取られたそこに、青年が立っていた。その背後にはスクリーンの幕が下ろされている。教師が使うような壇上にはノートパソコンがあり、彼はそれのキーを叩いていたが突然点いた照明にびっくりして顔を上げていた。まるで学生か何かのようだ。白衣を着ている。サラリとした髪は金色に染められ、顔には近未来的なフレームのないミラーグラスをかけていた。脇の暗がりに何か早口で言っていたが、聞き取れなかった。
 こほん、と咳払いして、金髪の青年が白衣の襟元に手をやった。おそらくマイクにスイッチを入れたのだろう。両手を広げて、話し始める。
「今夜はお忙しいところをこうしてお集まりしていただき、誠にありがとうございます。えー、今日はご新規さんが多いとのことですので、久しぶりに分厚い方のパンフレットを配っております。もう間もなくお手元に届くと思いますのでいましばらくお待ちください……」
 狙ったように、通路側から回されたパンフレットが玄一郎の手元に来た。薄暗い照明でわかりにくかったが、それは真っ黒で、クルマの教習本くらいの分厚さがあった。
 表紙には、金字で、
 BLACX BOXING
 ――とある。
(ブラック・ボクシング……)
「天城さん、前の椅子の背中のところにライトがありますよ」
 点けますか、とも聞かずに山口がそれを点灯させた。玄一郎は一応、礼を言ってそのパンフレットをめくった。助かったと思った。これでもうとにかく、今夜の悪趣味が何にしろ、山口の下らない焦らしには付き合わなくて済む。
 玄一郎は昔から速読が得意だった。だからその分厚いパンフをほんの二、三分で把握してしまった。そして、たった二、三分で十数年分の衝撃を受けた。
 思わず笑ってしまった。
「冗談だろ?」
「それが冗談ではないんですって」
「ありえない……私をからかっているに決まってる」
 山口は不思議そうな顔で答えた。
「そんなことして、何が楽しいんですか?」
 玄一郎は、――言い返せなかった。
 信じられない、というまなざしでまだ何も映っていないスクリーンを見下ろす。
 壇上の青年は「あれ、あれ?」と戸惑いながらノートパソコンをいじっていたが、やがてスクリーンに映像がパッと浮かんだ。だが、ほっとした風に肩を撫で下ろす青年のことはもう玄一郎の心のどこにも映っていなかった。
 するすると動き出した映像が、そのすべてを掻っ攫っていったからだ。



     


 風が吹いている――


 といっても屋外ではない。そこは元々は核シェルターとして造られた場所だった。地平線いっぱいに鋼色をした都市がごつごつしたカーペットのように広がって、天井へと続く空(くう)は常に曇っている。触れたら吸い込まれそうな渦を巻く曇天の中には忘れ物のように稲光が瞬いている。天候制御装置が不可逆の破損に及んでしまった現在、もはやその人工の空が晴れることは永遠にない。仮にシェルターが内側から破壊されたとしても、崩れ落ちてくる土砂と施設の残骸が青空への道を一瞬で塞ぐだろう。


 気が遠くなるような長い年月を、空調設備に吸い込まれては吐き出されてきた澱んだ空気が渦巻く中、一際高い二柱のビルの上に生身で立っている人間が二人いた。一人は男で、もう一人は女だった。どちらも黒いタンクトップを着て、下は都市迷彩の野戦服。米粒ほどの大きさの相手と向かい合い、その指先には霜の張ったアイスピースが一欠片。
 二人のブラックボクサーが、それを口に含んで、噛み砕く。口元で咲いた氷の華が散る前に、二人のちょうど真ん中、騎士が持つような馬上槍に二重螺旋をめぐらせたようなモニュメントに黒雲の中から雷光がひとつ迸った。

 轟音。
 落雷。
 それがゴングだった。

 二匹のモルモットが脱兎のごとく駆け出し、その回る足がふわりと宙に浮き、後の機動をスプレイが根こそぎ引き取った。青い軌跡を曳きながら、眼下の都市が溶けて見えるような加速度で虚空へと飛び出していく。
 グローブホルダーから引き千切られた白と黒の拳が次々とマウント。氷殻に守られた二人のブラックボクサーは示し合わせたかのように馬上槍のモニュメントをめぐって相手と位置を入れ替えた。
 そして、制止。
 言うなら、ゴング直後、お互いの拳を合わせたかのような儀礼だったのだろう。
 弱火のスプレイダッシュで穏やかに二人、時計回りにモニュメントを旋回しながら、様子見のような沈黙を保つ。その周囲を衛星のように白と黒の拳が回る。だが、その白と黒の数には二人の間で違いがあった。
 男のブラックボクサーは白が三つ、黒も三つ。だが女の方は白が四つ。黒が二つ。二人の顔色には驚きのそれは見られない。お互いに、それぞれがマウントする白と黒が違っていても不思議ではないことを知っているのだ。
 そう、ブラックボクシングではゴング直前あるいは直後にマウントする白と黒の拳の数を自分で任意に選ぶことができる。ただし、一度アイスピースを飲んだ後にマウントした白と黒の内訳は実験中は変更不能。もし変えたければアイスピースが完全に脳から抜けるのを待たなければならない。



 炎の白(ひだり)か、雷の黒(みぎ)か――



 二人が、動いた。
 女のボクサーが黒をひとつ走らせた。といってもエレキではなく、軽い牽制程度の素のブロー。だが、それでも人間をかすめればバラバラにできる威力はあったし、ビルのひとつにでも突っ込ませれば易々と貫通してしまう威力はあった。そしてその威力がブラックボクシングにおいての最低攻撃力といってもよかった。
 黒のストレートを、男が白のパイロで牽制。黒はエサを狙っている野良犬のようにその鼻面を弾幕の隙間に突っ込もうとしたが、あえなく撃墜された。爆炎が立ちこめ、氷殻の向こうに守られている男の髪が振動で揺れる。鏡のような目に細胞増殖しているかのような煙が映り込んでいる。


 黒煙が晴れた。
 そして、来た。


 お返しにしては多すぎるほどの火球(ジャブ)の群れ――
 男は素直に逃げた。ダウンスプレイで下方へ回避。氷殻の上を冗談じみた量のパイロが飛び去っていった。男の黒の1番が巻き添えを食らって粉々に吹っ飛んだ。舌打ちをしてグローブホルダーから黒の4番を千切ってマウント。ビルの森に女のパイロ群が突っ込んで連鎖爆発が立て続くのを背中で確かめ、スプレイ。女の背後に回る軌道に乗る。が、向こうだって考えることは同じ。自分で撃ったパイロを追うような軌道で女がスプレイ。お互いを食い合う蛇のように、あるいは背面への攻撃力を持たない戦闘機のように、二人は周回軌道へと再び乗る。牽制の白(ひだり)の差し合いが続くが、どちらも見事なスプレイさばきで簡単には当たらない。
 立ち上がりとしては、この実験(ファイト)は穏やかな方だった。いきなりシフトやエレキをブッ放すやつもいる中、この男女のボクサーはしたたかなファイター同士だった。熟練しているというべきか、あるいはマニュアル通りというべきか。少なくともニュービーやパトロンに見せる映像を選ぶとしたら打ってつけなカードではある。


 見(ケン)――
 そして、動く。


 周回軌道から、男が外れた。
 それまでの中火なスプレイから一転して、一気に強火、直角に近い急転進で女から距離を取る。それまでみずからの周囲を円周軌道に乗せていた拳をぎゅっと引き寄せて、固めた。
 スタイルを取ったのだ。
 ボクシングにもオーソドックス、デトロイト、ピーカブー、サウスポー、あるいはガードなど様々な構えがある。それはそれぞれ一つの利点のためにもう一つの不利を背負うようなもので、要は「何を犠牲にして何を得るか」という思想の肉体言語。ピーカブースタイルなどは脇腹がガラ空きだし、左を遮断機のように下ろすデトロイトスタイルは接近戦に持ち込まれると思ったように左を撃てなくなる。
 ブラックボクシングおける『スタイル』とは、白と黒の拳の配置と軌道のことを指す。
 男が取ったのは、『ダイヤモンド』と呼ばれるタイプのスタイル。自分の氷殻を中心に、拳とひし形に配置する。あるいは自分の前後に二つの三角形を作ったと言った方がわかりやすいかもしれない。前の三角形の頂点には黒を配置し、残った二点には白を置く。うしろの三角形の頂点は逆に白を置き、脇を安い黒に固めさせる。
 このスタイルは白と黒を3-3でマウントするブラックボクサーの基本スタイルと言っていい。利点は前後方どちらもバランスのよい配置で、反転させただけでスタイルを簡単にスイッチできることだ。どんな時も黒と白をコンビネーションさせることができる――補充の利かない白が潰されなければ、だが。
 スタイルを取った以上、攻めにかかる意思があるということ。こちらには作戦があり、お前を潰そうと考えていて、そしてその準備はもうできている――その意思表示こそが、スタイル。
 女も、それに倣って単純軌道の輪から拳を寄せた。ただし、スタイルは『ダイヤモンド』ではない。『ダブルホーン』と呼ばれる型で、自分の前方に黒を二つ、けものの角のように配置し、残った四つの白はみずからの氷殻を守るようにぴたりと護衛につけさせる型。値段の安い黒をとにかく特攻させて本体は白の弾幕の中でガードを固めるというW4B2タイプのボクサーの常套手段。あまりのバランスのよさにW3B3を取る価値はないとまで言わしめた万能スタイルだ。その代わり、黒の消耗が烈しく、またエレキを撃とうとしても射出候補が限られて読まれやすく、一発逆転には向かない。また、ダブルホーンに限ったことではないが、W4B2は白を多くマウントしているために一度潰されると取り返しが利かず、ずるずると押し切られることも多い。
 もっとも、それを補って余りある魅力は、さきほどの火球のラッシュが見せた通りだ。
 スタイルを取った二人が、空中で睨みあう。


 一触即発――
 動いたのは、同時。


 男が前方の白二つからパイロの連打。だがその行く末を見届ける前にスプレイで緊急離脱した。そしてまるで示し合わせたかのように、男が寸前までいた空間を女のパイロが怒涛のごとく過ぎ去っていき、遥か下方の無人の都市で大爆発を巻き起こす。
 男の方のブラックボクサーにはわかっていたのだ。白(ひだり)の差し合いでは勝てないと。それは単純明快、数字の差だ。男は白三つ、女は四つ。もっともスタイルの関係で女は自分の背後にある一手以外の三手からパイロを撃っているわけだが、男の方も一つ背中へ放っているので二つで応戦しなければならない。
 新人ボクサーなら、ここで背後の白を前方へ回して火力を上げようとしたかもしれない。だが、おそらくそうした方がこの実験の敗者になっていただろう。それも一撃で。
 ブラックボクシングでは、予想外の攻撃、見えない角度から氷殻への攻撃が一番効くのだ。そしてその見えない角度はおおよそどこからが一番多いか。
 背後である。
 もし背後のガードを疎かにすれば、それがどちらが取った行動にせよ相手は必ずシフトキネシスで相手の背後を取る。あとはキスショットにしろ引き寄せたありったけの黒(みぎ)をぶち込むにしろご自由にどうぞだ。
 それだけで喰らった相手はクラッシュしてしまうこともありえるし、もし生き残っても一撃必倒寸前でその後の長い実験を闘わなくてはならなくなる。趨勢は決する。
 だから、背後から拳を回すわけにはいかない。自分で選んだスタイルを守り続けること――それが遠回りなようでいて、勝利へ続く長い道なのだとブラックボクサーは知っているのだ。


「――――!!」


 男のボクサーの顔に脂汗が浮いている。また一つ、二つと黒を撃墜されて、マウントし直す。安い黒を消耗しているのは女の方でも同じだが、向こうは少しずつ確実に氷殻へのパイロを当ててきている。アイスを震わせる小爆発は少しずつ、男を守る障壁に亀裂を走らせ始めていた。
 男が、少しうつろになってきた表情を苦悶で無理やり引きつらせて、スプレイを下方へ向けて撃った。ただでさえ低空に沈みこんできていた戦闘空域がさらに下がる。
 ぼっ、と空気を押しのける音を残して、男の氷殻が『ビルの森』の中へと消えた。
 素人の一般人がそれを見たら、有効な回避だと思ったかもしれない。ビルの森の中は入り組んでいるし、視界が悪い。体勢を整えるにはうってつけだと。だが、もしプロボクサーの誰かでもその光景を見ていたら、見抜いたろう。ビルの森へ逃げ込むのは不利だと。狭く、スプレイを存分に使えず、そして上空からは狙い撃ちされやすい。見晴らしのいい上空にいる方が不利に見えるが障害物がないためスプレイを心おきなく使えるし、高低の差を活かして真上からストレートかつ広範囲の爆撃がパイロで撃てる。森側は狭苦しいビルの隙間を縫って相手への攻撃ルートを探しつつ、なおかつ相手の空爆から逃げ続けなければならない。シフトを使えば簡単に脱出できるが、それは上空側も読んでいて死角への警戒を怠るはずがない。そもそも期待値の低い一手に貴重なシフト/エレキの弾を一つ要している時点で戦術としては二流もいいとこ。
 ボクシング風に言えば、ビルの森は『コーナー』だ。上手く使えば戦況をひっくり返せるかもしれないが、そのまま相手の猛攻に押し潰されてしまうことも少なくない――
 その考えが聞こえていたかのように、女のボクサーが少し緩めたスタイルから、白の猛烈な大爆撃を直下の都市へと敢行し始めた。化学的にやればどれほどの火薬が必要だったか想像もできない大爆発にシェルター内の都市がひとたまりもなく崩壊していく。都市側からも反撃のパイロが撃ちあがるが、女のボクサーはやはり何もない上空を機敏に動き回って相手の攻撃をさばいてしまう。そして反撃位置から逆算したおおまかな相手の潜伏位置へとますます烈しい火の雨を降り注ぐ――
 氷殻の中、女の横顔に、朱色の弧が引かれる。
 この時、女の方からはわかっていなかったろうが、空爆の余波でビルの森に潜んでいる男の白はすでに二つ潰されていた。この時点でほぼ勝敗は決している。単純な拳の数で言っても四対六だし、もっと緻密な勝率計算で言えば九割方、女の勝利に終わるはずだった。
 瞬間、


 爆炎の中から男がチラリとその姿を見せた。飛びかかってくるわけでもなく、ただ現れた、という雰囲気だった。女は悩まず考えず、ガードに回していた黒の二つのうち一つを男めがけて突っ込ませた。白を全弾投入してもまず勝ち切れるだろうが、何も鉄壁の布陣を壊すこともない。安い黒の一つを牽制で振って、それで終わればよし、駄目ならパイロの雨をまた降らす――それだけのこと。


 さあ。
 素のブローでももはや砕けるぐらいにヒビ割れているその氷殻に、とどめの一撃を――


 だが、撃てなかった。
 男の黒が、女の黒をがっしりと掴んでいた。ルール違反ではない。だが、意図不明な行動だった。黒を掴まれたからなんだというのか? 黒などチェスでいえばポーンのようなもの、取られていくらの捨て駒なのだ。たかがワンブローを的確にキャッチしたからといってそれがなんだと――
 そして。
 男の取った行動は、女の予想を超えていた。
 握手するように絡み合った黒二つ、その周囲に原子から引き千切られた電子の見えない粒がはじけ飛び、イオンが焼けるにおいが立ち込めて、男は相手の黒を掴んだ拳でエレキをぶっ放した。
 ほとんど瞬間移動じみた超加速だった。手袋の口を冗談みたいな推進力のノズルに仕立て上げた拳が、都市めがけて突っ込んでいった。男もその後を追う。
 そして、女のボクサーの氷殻が背骨も折れそうな吸引力と共に急降下した。めまぐるしく回転する視界の中で女は何が自分の身に起こったのかわかっていなかったろう。
 ブラックボクサーとマウントした拳の間には、射程距離がある。おおよそ一八〇メートルほど。それを超えてハンドキネシスを飛ばすことはできない。
 逆に言えば。
 ブラックボクサーがマウントした拳を一八〇メートルを超えて引っ張れば、本体ごと引っ張れるということでもある。
 おまけにエレキの推進力ならお釣りが出るほど充分形。


「――――――ッ!!!!」


 女が悲鳴を上げたかどうかはわからない。
 常軌を逸したジェットコースターのようなスピードで、女を覆った氷殻はビルを三つ斜めにぶち抜いて路面をしたたかに四〇〇メートル以上も削り取り、蒸気の白煙を上げてようやくなんとか制止した。女はよろよろと立ち上がった。その周囲に、やはり女に引っ張られて落ちてきた四つの白と一つの黒が隕石のように路上に激突、アスファルトに悪魔の爪痕のような傷を残してめり込んだ。
 しゅうしゅうと空気の焦げるにおい。ふらつく足元。かすむ視界。
 そして、もう待ったはない。状況は王手に入っていた。
 女の氷殻を真横から、見知らぬ誰かの白(ひだり)がパイロの無制限連射(フルオート)でぶっ飛ばした。情け容赦のないラッシュだった。凄まじい轟音の中、眼前で分裂的に増えていく爆発から女は、まだ混乱の抜け切っていないアタマでなんとかスプレイをかけて離脱。自分の拳を衛星軌道に乗せて回収し、とにかくその場から、敵の火の手から逃げようと手近にあった路地に逃げ込んだ。
 そして見た。
 狭いビルとビルの隙間、見慣れた「止まれ」のすぐ上に、見知らぬ誰かの黒(みぎ)がふよふよと浮かんでいるのを。
 ひくっ、と引きつる女の口元など知らぬげに。
 黒が『めきり』と拳を形作る。
 ――女がシフトキネシスを発動するよりも、その黒手の方がぶっちぎりで速かった。











 刃金色の都市の中、稲妻の落ちる音がした。

     


 映像がカシリと止まっても、玄一郎の心はまだスクリーンの向こう側にあった。そんな彼だけを取り残して、周囲の観客たちがどよめきだす。壇上にいる金髪の男が両手を広げて、それを迎えた。
「いかがだったでしょうか、これはまだほんの数日前に撮影されたブラックボクサー同士の実験を記録した映像です。ちょっとしたものでしょう? ――ああ、ちょっと、落ち着いてくださいみなさん。質問は受け付けますから――新規の人、多いなあ今日」
 我先にと喚き続ける観客たちが静かになるまでに五分以上も要した。
 金髪の男が演壇に手をついて、聴衆を見回し、言った。
「ご覧頂いたように、我々はブラックボクサー、世間で言うところの超能力者について研究している機関です。名称を『DUEL』といいます。Deep Underground ESP Laboratory――パンフレットはお読み頂けましたか? 詳しいことはそちらに記載されていますので、パラパラ眺めながら私どもの話にお耳を傾けて頂ければ幸いです」
 はい、と客席から白い手が一本挙がった。金髪の男はそれをチラリと見やって、
「ああ、質問ですか? いいですね、質問を受け付けながら話をしていきましょうか。どうぞ、あ、いまスタッフがマイクを持っていきますので」
 視線を一身に浴びながら、すらっとした青いドレスを着たボブカットの女が立ち上がった。気取った、自分の美しさをよくよく知った手際で髪をすくと、マイクに息を吹きかける。
「なかなか面白い映像だったわ」
「それはどうも」
「で、あれを私たちに見せてどうしようっていうの? まさか出て行く時に一八〇〇円取られるわけじゃないわよね」
 会場に湿った笑いが広がった。玄一郎の隣で山口も笑っていた。玄一郎は笑わなかった。
「ご安心を。映像もパンフも無料ですよ。ただ、今後どうなるかはわかりませんが」
「どういうこと?」
「DUELのバックボーンにはこの国の政府も関わっていますが、残念ながらこの国の中をめぐる資本からだけでは、DUELの莫大な研究資金を引っ張ってくることはできないのです。そこで、我々はパトロンを募ることにしました」
「それが私たち富裕層ってわけ?」
「そういうことになりますね」
「都合のいい金ヅルってこと。はん。なめられたもんね。私たちがたかが映像ごときに、あるいは夢とロマンといってもいいけど、そんなものに投資すると思う? バカな男連中ならいざ知らず、いまどきのセレブっていうのは流行に敏感な女性投資家だって多いのよ?」
 そこで会場のあちこちにいる男性陣から小学生じみた罵詈雑言が上がったが、女は無視した。壇上にいる金髪の男をきっと睨み、
「どうなのよ、そのへん」
「これは手厳しい」
 ちっとも堪えていなさそうな笑みを浮かべて、男が答えた。
「ですが、私はきっとあなたのような美しい方こそ私たちの研究の有力な協力者になってくれると思っていますよ」
「はあ? どうして私が――確かにさっきのはすごいと思ったけど――ありえないわ」
 男は女から目を切って、客席のどこかにいる誰かに向って話し始めた。
「みなさんもどこかで聞いたことがあると思いますが、脳は、人体に残された最後のブラックボックスです。もちろん他の臓器にも謎や神秘がないとは言いませんが、それでも脳には及ばない――知っていますか? 脳の神経細胞と宇宙の銀河に類似があることを? もちろんそれをバカげた戯言という科学者は多いです。でも僕は信じない。信じない人を信じない。だって素晴らしいとは思いませんか? ただ似ている、というだけかもしれないけれど、この世界でミクロとマクロの極点とも言うべき『神経』と『宇宙』が似ているなんて。そこにはきっと何かがある、そう思うとワクワクしてきませんか? それこそさっきのセリフじゃないですが、夢とロマンがそこにはある――」
 金髪の男は一呼吸置いて、
「私たちがやっているのはそういう研究です。宇宙はあまりに遠いんで、近いところから崩していこうというわけです。ボディブローを重ねて相手の顎をがら空きにしようとするボクサーみたいにね」虚空にパンチを撃つマネをして、
「そう、何も私たちの研究は超能力に関することだけじゃない。脳のブラックボックスへの入出力を研究するということは、それ自体が脳の研究なのです。そこには何があるかまだわからない――今はまだ、ブラックボックスが言語野に関連していることと、ある種の薬品を被験者に投与することで、副作用込みの超能力が発現することがわかっているだけです。ですがこの研究を続けていければ、どんな未来が待っているのか僕らにだってわからない。誰もが何の苦しみもなく超能力を使える世界? あるかもしれません、ひょっとしたらそれがいま一番近い世界かも。あるいは脳の中にある記憶やこころ――そういったものを電子媒体や生体部品へ移植して不老不死を可能にしたり? できるかもしれません、少なくともいま動物の培養脳を実験台にしてそちらの研究も推し進めているところです。それとも、シナプスとそこを駆け巡る神経伝達物質が織り成す星座を完全に解読して、なんのバックアタックもない快楽のみを提供するドラッグを作り出し、もう永遠に苦痛とおさらばするとか――可能かどうかはわかりません、ですがいま、この世界に、それらの世界を否定できる科学者がいないのもまた事実。たったひとりの科学者が、『アイスピース』と呼ばれるひとつの薬を作り出したことによって、それらの未来に希望が見えた――みなさんは、そんな稀有な時代に生まれ、そして誰にも有無を言わさぬ『力』を手にしている人たちだ。はっきり言ってしまえば、あなたたちが諦めるだけで、消える未来と世界がある――」
 自分の声が消えるのを待って、そしてその場にいる誰もが咳ひとつしないのを確かめて、金髪の男はガラリと声の調子を変えた。
「さて、ほかに質問はありますか?」
 はい、と手が挙がった。金髪の男はそちらの方向へマイクを一本投げた。
「使ってください、こっちの方が早いや」
「どうも」とマイクを受け取ったチャイナドレスの女が頷いた。べっこう縁のメガネをかけて、栗色の髪はポニーテールにまとめている。
「パンフレットには、ブラックボクサーが六種類の能力を使い分けるとあります。そこにシフトキネシスと呼ばれる、瞬間移動の力があるとありますが、ブラックボクサーがその能力を使ってあなた方の研究施設から脱走することなどはないのですか?」
 金髪の男は感心したようにウンウン首を振りながら、チャイナドレスの女の自尊心を刺激しないように答えた。
「鋭い指摘です。実際に、ブラックボクサーが脱走を試みることは珍しくありません。ですが、彼らはアイスピースを投与されない限りは微々たる力しか発動できませんし、薬は我々が一括で管理しています。また、もし仮にアイスピースを投与された実験中に脱走を試みても、実験施設は地下二千五百メートル近い深部にあります。シフトの射程距離では届きませんし、もし仮に脱出を成功させたとしてもブラックボクサーとリンクしているブレインがボクサーの脳に極大脳波を同調入力させて殺害します」
「ブレインとは?」
「ブラックボクサーをサポートする、動物の遺伝子から再生した培養脳です。おもにボクサーの脳の状態を監視し、データを取り、また被験者の精神を安定させるために話しかけたりもします。だいたいイルカの脳が主流ですね」
「極大脳波とやらをボクサーに送るとブレインの方はどうなるのですか?」
「死にます」
「ブレインが反逆を起こすことは?」
「脳の一部に局地的な障害を起こさせていて、ブレインは決して人間に反逆したりはしません。できないのです。反逆失認とでも言いますか、逆らう、ということを彼らは理解できないのです。ほら、ずっと同じ字を見ているとその意味がわからなくなってくるでしょう? あんな感じです」
「なるほど。ありがとうございました」
 チャイナドレスの女が座った。
「ほかに質問は?」
 はい、と手がまた挙がった。今度は派手な茶髪の女だった。毛皮を首に巻いていて、ピンク色の少し子供っぽい口紅を塗っていた。飛んできたマイクを白い手で受け取ると、んん、と喉の調子を整えてから喋りだした。
「えっと、難しいことはあんまりわからないんですけど、あの人たちが闘ってたところって、ブッ壊れたりしないんですか?」
 金髪の男が答える。
「はい、あの場所は元々は核シェルターとして建造された施設なのですが、耐久度はおそらく世界一です。外から壊れないということは、中からも壊れない。詳しい建造理念などはちょっと僕も専門外ですし、時間が足りませんので割愛させていただきます」
「ボクサーの人達はいつもあそこを、その、リングとして使ってるってことですか?」
「そういうことになりますね。もっともリングは一つしかないので、ファーストからセブンスまであるDUELの中で使いまわされていて、使用許可が下りない場合はそれぞれのラボが自分たちの隔離室を使ったりもします」
「え、でもそれじゃあ、外殻は壊れなくても中の建物はすぐに壊れてなんにも無くなっちゃうんじゃないですか? あのへんなモニュメントとか」
 鋭い豚だな、と山口が呟いた。もちろん玄一郎にしか聞こえていない。
 金髪の男が薄く笑い、
「普通ならそうですね。ですがこの核シェルターの内部にある建物は、設計された当時の最新技術を駆使して、破壊されても自動修復されるようになっているのです。形状記憶建造物ってやつです。破壊されたところを建材に編みこまれている『繊維』自体が観測して周囲にある瓦礫を分解吸収し、またトカゲのしっぽのように再生します」
 そこでため息、
「ですが、その技術がマズかった。その繊維は非常に優れた技術ではありましたが、コンクリートのように半永久的な耐久性を持たなかったのです。核が落ちたところの放射能が半減するには百年かかるというのはご存知ですか? あの建材は七十五年しか持たないのです。しかも何もしなくても擦り減っていく……もっともその欠陥ゆえに、私たちDUELが使わせてもらっているのですけどね」
「へえ……あ、もうひとついいですか?」
「どうぞ」
「あの槍みたいのってなんですか? 雷が落ちたやつ」
「あれは、シェルターが作られた時にその理念をかたちとして残したいという設計者の意図を汲んで設置されたモニュメントです。槍が方向性、つまり地上ですね。それを表していて、周囲を取り巻く二重螺旋はDNA……人間のことです。いまはこんな地下にいるけれど、いつか必ず地上に戻って、世界の王座に返り咲く……と、言いたいようです」
「むずかしいですね」
「いまはただ、落雷を受け止めるゴングですよ。ああ、補足して説明すると、あの落雷はシェルター内の天候制御装置が異常を起こしているために発生しています。一〇分間に一度落ちて、決して止むことはありません。いつも曇り空で気分が滅入りますが、まあでも、雷のゴングってカッコイイでしょ?」
 会場の男性陣はウンウンと頷いたが、女性陣は「何言ってんだコイツ」みたいな顔を見せていた。
「……ほかに何か?」
 はい、と手が挙がった。金髪の男がマイクを大きく振りかぶって投げた。
「いたっ! なにすんのよこのノーコン!」
「ご、ごめんなさい……」
「ったく……」
 立ち上がった女は、玄一郎たちのすぐ斜め前にいた。驚くべきことにこの表社会の最上階でゴスロリのいでたちである。立ち上がって、マイクがぶつかった額をさすりながら言う。
「あたしが水菱の女と知っての狼藉でしょうね」
「本当にすいませんでした」
 金髪の男が汗だくになったままアタマを下げる。
「もっと練習します」
「そういうことじゃないわよ! ……まあいいわ。それより、あんたなんで若いの?」
「は?」
「だって、普通はそういう科学者って白髪のおじいちゃんって相場が決まってるじゃない。それにそっちの最前列にいる連中もあんたらの身内なんでしょ? 六人いるけど」
 そこで玄一郎は、女の指差した先に白衣を着た連中が客席に紛れ込んでいることに初めて気づいた。どうも、全員女性らしい。何か囁きあって、時折こちらを振り返っているようだが、照明が弱くて表情までは窺えなかった。
「あたしは、もっとマッドでダークなサイエンティストが見たかったのよ。試験管を爆発させたりビン底メガネかけてたりとかさあ」
「えっと……」
 さすがの金髪も何事かとうろたえている。
「この研究は門外不出というか、DUELの中で完結し、外部には非公開のスタンスを取っています。なので、一度入門すると生涯監視なしでは出られませんし、学会などにも論文を発表することはできません。脳神経学以外の分野でもです。なので自分の研究に自分の名前が刻まれることを夢見て朝を迎えてきた年配の方々はあまり参加してくれないんですよ」
「つまり、富も名誉も地位もいらない、根っからの馬鹿以外は参加できないと?」
「じゃあ、それでいいです」
「じゃあって何よ。むかつくなあ……あ、そうだ。さっきファーストとかセブンスとか言ってたけどそれは何? ワクワクしたんだけど」
「ああ、それはですね、DUELは同じ研究機関ですが、わざと七つのラボに同じ施設と設備を与えて、相互不可侵の状態にしてあるんです。その方が切磋琢磨して独自の発展が望めるということで」
「へえ……ラボごとに特色とかあるの?」
 金髪は待ってましたとばかりに手を打った。
「ええ、それをこれからご紹介するところです。では、もう質問がなければファーストからセブンスまでのラボの所長によるプレゼンテーションを行いたいと思います。僕の所属するセブンスは所長がおたふく風邪にかかってしまったので今日は僕が代打ちなのですが……」
 金髪の語りが、止まる。
 手がもう一本、挙がっていた。
 玄一郎だった。
「あ、天城さん? いきなり質問とはなかなか勇気がありますね」などと腑抜けたことを隣で吐かしている山口を無視して、玄一郎を有無を言わせぬ強い目で金髪の男を見た。
 聞きたいことが、ある。
 どうぞ、と金髪が言って、これまた、どうぞ、と水菱の女が前からマイクを流してきた。礼を言って受け取って、言う。
「ブラックボクサーについて聞きたいことがある。……彼らはいったいどういう種類の人間が選ばれているんだ?」
 金髪が答える。
「どんな人間でも」
「それは、つまり、希望があれば、脳に異常さえなければ参加できる、と?」
「基本的には、そうですね。まあボクサーの選び方はラボによって相違がありますが」
「ブラックボクシングについて、もっと詳しく教えてくれないか。ボクシングということだが、普通のそれと同じようにインターバルがあったりするのか?」
「ええ。今回お見せしたフォースとシックスの試合は一ラウンドKOだったのでインターバルまで流れませんでしたが、ブラックボクシングの実験は一ラウンド六分で五回戦、インターバルは九十秒とっています。ボクサーは試合前にブレインのシフトキネシスでリングまで飛ばされます。これはボクサー同士が手を組んでお互いのラボへ流れ込まないための措置です。そしてインターバルになると一端ラボに戻されて、アイスピースの補給を受けます。アイスピースには起動用と継続用があって――」
「それで? ダウンとかは?」
「パンフレットにもあるように、ブラックボクサーはアイスキネシスで自分の周囲に障壁を張ります。ブラックボクシングにおけるダウンは、相手にアイスを砕かれた状態のことを指します。アイスは三層までありますが、その一層が砕かれて、そのまま再展開できずに十秒経てばボクサーとリンクしているブレインが自動的に自分のボクサーをラボへと帰還させます。ダウンしている間、相手は攻撃できません」
「さっきの映像は一撃で試合が終わっていたが」
「あれは至近距離からのエレキを喰らって二層までのアイスを一度に砕かれたからです。KOです。ボクサーの生命を守るため、二層を砕かれて三層のアイスに敵の攻撃がヒットした瞬間、ブレインがやはりボクサーを自分のラボへと強制転送します」
「三層まで砕かれたら?」
「砕かれて、拳が本体に当たらなければ気絶程度で済みますが、直撃すれば死にますね。粉々です」
「どれぐらいの確率で死ぬんだ?」
 金髪は、こう答えた。
「ブラックボクシングは、我々にとっても未知なことばかりなのです」
 それで充分だった。
 玄一郎はスタッフにマイクを返すと、深々と座席に腰掛けて、瞑目した。そのあとに続いたラボの紹介もスルーして、ただ自分の世界の中に浸り続けた。
 ブラックボクシング。
 ブラックボクシング。
 ブラックボクシング――
 そして。
 目を開けると、もうそこには誰も残っていなかった。山口すらいなかった。玄一郎は慌てた。しまった。眠ってしまっていたのか――立ち上がって、あの金髪の男は残ってはいないかと走り出そうとして、何かに躓いて転んだ。十三年ぶりに転んだ。
「うう……」
 何に躓いたのかと思い、振り返った。
 白い尻だった。
 いや、尻というにはあまり大きくなくこじんまりとしていたが、とにかく尻だった。その白は肌ではなく白衣だった。研究者だ。玄一郎は立ち上がり、なぜか通路のど真ん中で蹲っているそいつの顔を覗き込んだ。
 女の子だった。歳は玄一郎の娘といってもいいほど。くせの強い猫ッ毛で、分厚いレンズの黒縁メガネが、一心不乱に手元を見つめる目のすぐ下でずり落ちそうになっていた。
「あの」
 玄一郎が手を伸ばすと、少女が間髪入れずに答えた。
「ちょっと待って、あと少しだけ」
 少女は、ボールペンを握って、手元のメモ帳に何かを猛烈な勢いで書きつけていた。どちらにもディスカウントショップのお買い上げシールと値札が剥がしもされずに残っていた。
 百円のメモ帳と二百五十円のボールペン。
 十数秒に一度、英数字の羅列が記されたメモが弾かれて床に滑り落ちた。少女の周囲にどんどんどんどん、雪が降り積もるようにメモが重なっていく。そしてとうとうメモ帳が切れると、少女がドンと床にボールペンの尻を打ちつけて、ほう、と息をついた。
「終わった……」
 思わず聞いてしまった。
「……何が?」
「ケッサクだ……」
 少女は聞いていない。自分の周囲にばら撒かれたメモをどうやら完全に把握しているらしく、慣れた手さばきで回収していく。そして一山にまとめると白衣から輪ゴムを取り出してくるりと巻いた。賭場でよく見かける札束をまとめた『ズク』のようになったそれを白衣にしまって、振り返り、至近距離から玄一郎の顔を見て、
「わっ」
 しりもちをついた。
「だ、だれ?」
 だれだろう、あまりにも初歩的な質問なので玄一郎にも一瞬わからなくなってしまった。スーツの裏から名刺を取り出す前に、なんとか自分のことを思い出した。
「私は今日、ここに招待された、その……」
「ああ……偉い人」
 間違ってはいないのかもしれないが、面と向かってそう言われるとやはり小恥ずかしかった。
 少女は立ち上がって、玄一郎を見上げた。背が低い。玄一郎も大柄な方だったが、ほとんどアタマ二つ分は違っていた。だがきっと、そのアタマの中身は少女の方が玄一郎のそれを何個つなげても追いつけないほど優れているのだろう。
 恐ろしいほどの知性と、そしてどこか恐怖と無邪気さを湛えた少女の目は、何かの記録媒体のような輝きを放っていた。
「あの……」
 消え入りそうな声で言う、
「あたしに何か用ですか……」
 まるで何もかも自分が悪いんだといわんばかりの消極的な態度にかえって玄一郎の方が面食らってしまった。自分はそんなに、威圧的な態度を取っていただろうか?
「いや、怖がらなくていい」
 相手が一研究機関の、おそらく、所長であることさえ忘れて、子供相手にするような口調になってしまう。
「ちょっと君にお願いがあるんだ」
「お願い?」
「ああ。君は、DUELのラボの所長なんだろう?」
「フォース」
「フォース? ああ、四番目か。ひょっとして、今日見たビデオのは、君の?」
 少女はこくんと頷いて、目線を決して合わせずに、
「男の人のほう……うちの……」
 と言った。
「ああ、じゃあ勝ったほうだ? 凄いな。君が指示を?」
 少女はまたこくんと頷いたが、責め立てられているように苦しそうだった。傷になるのではないかと疑いたくなるようなしかめ面をしている。
「私は天城玄一郎。君の名前は?」
 少女は少しだけ視線を上げた。
「氷坂美雷(ひさか・みらい)」
「そうか……氷坂さん、さっきも言ったが頼みがある。ボクサーになりたいんだ」
 美雷は、気の毒そうに玄一郎の首を見た。
「おじさんは、ちょっと……」
 それを聞いて、玄一郎は気が抜けたように笑った。
「ちがうちがう、私じゃないよ」
 そして、言った。

「私の息子のことなんだ」






 駐車場に下りるともう山口のクルマはどこにもなかった。メールを確かめると「見たいドラマがあるので帰ります 山口」とある。
 業腹極まるが今夜だけは涙が出るほどありがたかった。
 通りに出ると探すまでもなく黒塗りのタクシーが止まっていた。自前のクルマと運転手を持っていることがステータス以前の基本である富裕層を相手にしたタクシーは少ないが、それでも足を求める金持ちのにおいを嗅ぎつけてタクシードライバーたちはどこからともなく現れる。二人はがちゃりと開いたドアからクルマに乗り込んだ。
「天城さんですね、製薬会社の」
 制帽を目深に被った運転手がぼそぼそと言う、
「ご自宅まででよろしかったですか?」
「ああ、頼む」
 運転手はすっと帽子のつばに一瞬手を添えると、水のような手さばきでクルマを出した。そして石同然に沈黙した。
 しばらくは、エンジンの軽い唸りしか聞こえなかった。
 美雷に何か話しかけようかと思ったが、やめた。最高級の素材で作られたシートの上で針のむしろに座らされたように固まっている美雷は明らかにこちらの呼吸ひとつにさえ緊張し、警戒しているようだったし、それに何を話すことがあるというのだろう。自分の息子を殺してくれるかもしれない女を相手に? メールアドレスでも聞いてみようか? それとも電話番号? 週末の夜に電話をかけて息子の死に様の思い出話で一花咲かせてみたりもするか?
 そう。
 玄一郎は、自分の息子を殺そうとしていた。厳密には、少し違う。息子は生き残るかもしれない。この、氷坂美雷というDUELの中のひとつのラボのトップは、ブラックボクサーには適正があると言った。アイスピースを飲んで、中にはそれ一発で脳を焼かれて死んでしまう人間もいるという。そうでなければ娯楽に餓えている富裕層が黙っているはずがない。ちょっと気分が悪くなる程度なら平気で手を出す連中が、その手をこまねく理由はたったのひとつ『死ぬ』以外にありはしない。だが今はその『死ぬ』という要素が玄一郎にとって必要なたったひとつの事柄だった。
 昔はこんな風じゃなかった。
 生まれたばかりの頃は、最愛の息子だった。晩婚だった玄一郎にとっては最初で最後の一人息子だった。生まれた時の体重は、そう覚えている、三一二〇gで、ふっくらした髪の毛は天国の綿雲のように柔らかかった。初めて喋った言葉は「まんま」で立ち上がったのは八ヶ月目。他の子より一月早く立ち上がっただけでわが子が天下無敵の英傑に思えた。あっという間に大きくなって、小学校に入り、中学校に上がり、何をやらせても優秀だった。母親によく似て整った顔立ちをしていて、磁気を帯びたような人を惹きつける目をしていた。将来はきっと、何か大きなことを為す誰かになるに違いないと思った。それはきっと世界でもトップ10に入るシェアを誇る会社を継ぐなんていうチャチなことでは断じてなくて、そうきっと、きっと何か大きなこと――
 それが。
 玄一郎は窓ガラスに映った自分の顔をじっと見つめている。
 何が間違っていたのだろうかと思う。そればかりを考えている。自分に落ち度があって、それを改めることができるならなんだってする。どんな責め苦を浴びようと構わない。自慢の息子が昔のように優しくて素直ないい子に戻ってくれるなら、何もいらない、すべてをくれてやる。悪魔とだって取引してやる、どんな金利でも、何と引き換えにしても。
 けれども玄一郎も心のどこかで分かっている。気づいている。あの優しい笑顔の向こうにあったもの、隠されていたもの、それが自分の息子の本性なのだと。気づかなかっただけで、最初から、あれがあの子の本質だったのだと。真実は変えられない。それはわかる。
 だがもう、玄一郎には、真実を受け止めておくことなんてできない。
 理由があるなら、正しさも過ちも抜きにして、きっとただのそれだけだ。
 玄一郎は見る。窓ガラスに映る、自分の顔と、瞬く都市と、そして一人の女の子。
 彼女の白衣のポケットの中にあるものが、長く続いた自分の眠れぬ夜を終わらせてくれる。
 そう思う。
 白衣の少女――氷坂美雷はいつの間にか靴を脱いで、座席の上に持ち上げていた。白い靴下に覆われた爪先をいじいじしながら、ぼんやりと助手席のシートを眺めている。玄一郎から警戒を解いたというよりも、警戒することそのものに飽きてしまったような、そんな印象。
 思わず聞いていた。
「眠いのかい?」
 美雷はすぐには答えずに、「んん」とか「ああ」とかいうような、猫じみた唸りを返してきただけだった。メガネの奥の瞳がかすんでいる。街で過ごしていると忘れがちだが、もう日付が変わる時刻なのだった。
「私の自宅まではまだもう少し時間がかかる。眠っていてくれても構わないよ」
「うん……」
 美雷はそろえた両膝の間に顔をうずめて、動かなくなった。すぐに「すぅ……すぅ……」と綺麗な寝息が聞こえてきて、玄一郎は思わず頬を緩めてしまった。
 娘がいたら、こんな風だったのだろうか。
 どうすることもできない夢の気配を嗅ぎながら、玄一郎は運転手からブランケットを借りて、美雷の肩にそっとかけてやった。美雷は、起きなかった。
 街を抜け、幹線道路を走り、楽屋裏のような住宅地に入るとそこの一番大きな邸宅が天城玄一郎の自宅だった。腕時計を見ると都心からクルマで四十分強。短すぎず、長すぎない通勤距離にある理想的な立地で、表の通りには浮浪者一人寄り付かない。
「着いたよ」
「うぅん……? んんん……!」
 肩を揺すると、美雷はむずがるように身を捻ってブランケットの中に逃げ込もうとした。玄一郎は苦笑して、寝かせておいてあげたいのは山々だが、と前置きをした。
「できれば今夜のうちに話を済ませてしまいたいんだ。息子はいま、ちょっと規則正しい生活をしていてね。もう寝てしまう頃かもしれないんだ」
 美雷はブランケットを壁にして徹底抗戦の構えを見せている。
 玄一郎は強硬手段に出た。
「そっちがその気なら、こっちにも考えがあるよ」
 そう言って、大学時代にラグビー部で鍛えた腕を美雷の身体の下に入れ込んでぐっと持ち上げてしまった。ブランケットの中身が短い悲鳴を上げた。
「ははは、どうだい、おじさんもちょっとはやるだろう? さ、寝ぼけてないでお仕事をしてもらおうか……」
 そう言ってブランケットを剥いだ玄一郎の顔が、曇った。
 腕の中で、美雷はぶるぶる震えていた。身体を極限まで縮こまらせて、目は凝ったように前だけを向いている。まるで銃口を突きつけられた子供のようだった。
 玄一郎は静かに、美雷を地面に下ろした。
「……大丈夫かい?」
 美雷は、まだ震えながら、素早く頷いた。
「ごめんなさい……」
「いや、いいんだ……男に触られるのが、苦手なのかい」
 美雷は首を振って、人間、と呟いた。
 人間か。
 昔の玄一郎なら、人と触れ合う喜びを、親しさを交わす楽しさを偉そうに説いたかもしれない。だが今は、少なくとも今夜は、そうする資格が彼にはなかった。
 二人とも、もう一言も交わさずに、邸内に入った。明かりが絞られたエントランスを抜けて、階段を登り、廊下の突き当たりにその部屋はあった。
 南京錠がかけられている。
 扉には、真鍮製のプレートで『VIP』とある。元々はユニットバスつきの、客人をもてなすための部屋だった。そこが玄一郎の息子の今の部屋だった。
 名前を、天城燎という。
 扉の下から、まだ灯りが漏れていた。中でごそごそと何かが動く気配もする。
 起きている。
 キーホルダーから南京錠のスペアキーを取り出して、差し込む。かちゃり、と錠が開く。部屋の中にいる何かが、その音を聞きつける気配がした。
 この扉を開けた時、自分はどんな顔をしているのだろうか。
 ドアノブを押し開ける瞬間、そんな思いが脳裏を走った。
 光が溢れる。
 VIPルームは、二十畳ほどの洋室だった。奥に天蓋つきのダブルベッドがあり、簡単な食事を取れるガラスのテーブルとソファ、その向かいには40インチの液晶テレビと各種オーディオ機器。その脇を金将と銀将のように黒いスピーカーが陣取っていた。
 玄一郎の自慢の息子は、ソファにもたれて映画を見ていた。テーブルにはサンドイッチの入ったバスケットが乗っていて、すぐそばには半分減ったワインのボトル。
「映画を見ていたんだ」とそいつが言った。
 そいつは、優しい色合いの蜂蜜色に髪を染めた少年だった。顔立ちは何かを静かに待っている天使のように整っていて、穢れも偽りも知らないふうだった。神様が粘土で遊んだら、きっとこんなかたちになるだろうと思わせる輝きが、その身には宿っていた。
「ここに閉じ込められて、初めて映画のよさがわかったよ。今までは、俺にとって映画というのはただ彼女と見に行く行事のひとつで、何も考えずに見られるものが一番いい映画だった」手の中のグラスを弄び、
「でもこうして、朝から晩までレンタルしてきたブルーレイをトライアスロンみたいにずうっと見ていると、なかなかどうして目が肥えてくる。いいものと悪いものの違いってのが見えてくる。どうしてだろうな? 俺はべつに映画なんか好きじゃなかったし、専門的なことだってわかりはしない。それでも、こんな俺にでも映画というものがただ女の横顔を見る時の背景なんかじゃなく、誰かが何かを伝えるために作ったものなんだということがわかる。これが芸術なんだとはっきりわかる」
 こちらを向く、
「それを教えてもらえただけでも、俺はここに閉じ込められてよかったと思うよ、父さん」
「そうだな、燎」
「ところで」
 燎の目が、俯いてじっとしている美雷を捉えた。
「ここは父さんのベッドルームじゃないと思ったけど?」
「ああ、わかってる、わかってるよ」
 玄一郎は、笑った。
「燎、今日はお前にお土産があるんだ」
「お土産?」
「ああ。映画、止めてもいいかい?」
「どうぞ」
「ありがとう」
 玄一郎は、いつの間に持っていたのか、手の中に一枚のブルーレイディスクを持っていた。なんのラベルも入っていない、無銘のディスクだった。それを燎が見ていた、ピンク色の石鹸が出てくる映画のブルーレイと交換した。背中に息子の訝しげな視線を浴びながら、言う。
「まずは見て欲しいんだ。何、そんなに長くはかからない。きっとお前も気に入るよ」
 そう、きっと気に入るはずだ――この子なら。
 人の痛みが分からないこの子なら、ブラックボクサーのあの苦悶と懊悩に満ちた闘いぶりが魅力に映るはずなのだ。
 山口のように、あの場にいた連中のように。
 見かけの美しさに誤魔化されて、その裏にあるものを見通せない。そうでなければ、できるはずがないのだ、人を殺してその手でサンドイッチを食べることなんて。
 だから、きっと惹かれる。憧れる。
 あの世界に。
 どんな映画よりも。
 玄一郎の指が、かちりと、再生ボタンを押した。映像が流れ始める。玄一郎は俯いて、脇に下がった。
 血塗れの十分間が、終わった。
 映像が消えても、画面から燎は目を逸らさなかった。その手元にはもう、ブラックボクシングのパンフレットが置かれている。
 第一声は、こうだった。
「俺ならもっと、上手くやる」
 玄一郎の声が、上ずった。
「……そうか?」
「ああ」全身から漲るような自信を立ち昇らせて、燎は頷き、グラスを置いた。
「ブラック・ボクシング?」
 ぱらりとパンフレットをめくって、閉じた。それだけでこの聡明な天才が中身をすべて一読してしまったことを、父親は知っている。
「面白いね。ああ面白い。へえ、ふうん。なるほどねえ――」
「気に入ったか?」
「気に入ったか、だって?」
 燎はいきなり目の前のガラステーブルを蹴り上げてひっくり返した。乗っていたバスケットからサンドイッチが散乱し、落ちたボトルが派手な音を立てて割れてカーペットを零れたワインで台無しにした。微動だにしない玄一郎の隣で、美雷がビクリと身を縮こまらせる。
「気に入らないわけがないだろうが!! ああ、なんだって、アイスピース? 黒の右と白の左(エレキライト・パイロレフト)? 面白いね、面白い。ああ、そうとも俺には見える。俺があそこにいる光景が――あの鋼色の都市を自由に飛び回る俺の姿が! くそ、くそ、くそ」
 その場でぐるぐると歩き回り、
「なんでこんなこと黙ってた? 嫌がらせか? 畜生、なんで、どうして、くそったれ――」
「私も今夜、知ったんだ」
「そんなことは知ったことじゃない。俺はいくぞ。誰がなんと言おうといく」
 ピタリ、と足を止め。
 その目が再び、美雷を射抜く。美雷は、決して視線を合わせようとはしなかった。
「あんたがあいつらのオーナーか?」
「オーナー?」
「ブラックボクサーの持ち主かってことだよ」
「う、うん……」
 燎は轢き殺しそうな勢いで美雷に近づいて、じろじろとねめつけた。
「おまえが? ああ、そうか書いてあったな、ピースメイカーとかいうやつらか、その白衣」
「そう……」
「ふうん……」
 燎はいきなり、くんくんと美雷の顔の周りのにおいを嗅ぎ始めた。
「ひっ」
「おまえ、ひょっとしてスッピンか?」
「え……そう、だけど……」
 いきなりだった。
 燎が美雷の唇を奪った。
 隣で見ていた玄一郎の髪の毛が総毛だった。何もかも終わったと思った。人間に触れられただけで震えてしまうような女の子が断りもなしにキスされたのだ。玄一郎が自殺したいくらいだった。
「燎っ!!」
 呆然としたままの美雷から顔を放すと、燎は唇を袖でぐいと拭った。美雷はその場にへたりこんでしまった。
「もう一度してもらいたきゃちったあ女を磨くんだな。……それから親父、グズグズしてないでさっさと出て行け」
「え……」
「さっきから視界にチラチラ入ってウザイんだよ。失せろ」
「……わかった。だが、その人に何かするのであれば……」
 燎はくつくつと笑った。
「しねえよ。まだな。いいから出てけって。あんたの自慢の息子は、もういないんだから」
 その通りだった。
 玄一郎が後ろ髪を引かれる思いで部屋を出る時、息子の声が聞こえた。
「早く出せよ。持ってるんだろ、アイスピースとかいうの――」
 扉が閉まる。玄一郎はふらふらと二、三歩進んで、さっきの美雷と同じようにずるずるとその場にしりもちをついた。顔を両手で覆う。
 これですべてが変わる。
 燎がアイスピースを飲んで、生きるにしろ、そうでないにしろ。
 これでようやく――
 どれほど時間が経った頃だろうか。
 突然、VIPルームの中からけたたましい悲鳴があがった。ウトウトしていた玄一郎が背骨から震え上がるような恐ろしいけだものじみた絶叫だった。何事かと立ち上がるとドアから白衣を皺くちゃにした美雷が飛び出してきた。返す刀で体当たりするようにドアを閉めると床に落ちていた南京錠を間一髪のタイミングでかけた。次の瞬間、枠が軋むほどの衝撃が扉を襲った。
「な、なにが……氷坂さん? これはいったい?」
 美雷は両足を踏ん張って背中でドアを押さえつけた。目を伏せたまま、酔ったように言う。
「……ちゃった」
「え?」
「一番強いの、飲ませちゃった……」
 悲鳴は段々と細くなり、やがて女のそれのように甲高くなった。扉はもはや弾けそうになっている。だがそれもやがては弱まり、爪で引っかくような音を残して、止まった。
 玄一郎はごくりと生唾を飲み込んで、
「死……?」
 美雷は、背後を振り返りながら、答えた。
「あの虹彩反応……もし生きてたら、凄いかも」
 そして、ノブを握る。
 完全に状況に呑まれていた玄一郎に、美雷は言った。
「もし、生きてたら、生き残れたら、たぶん、あの人は『ザル』だと思う」
「ザル……?」
「どんなアイスピースにも順応できるってこと。エラーなし、副作用なし……もしかしたら、なれるかも」
 玄一郎は、相槌も打たずに固唾を飲んだ。
 美雷は、ドアノブを捻って、途切れていた言葉を繋ぐ。
「ブラックボックス解放率一〇〇%……本物の、超能力者に」
 扉がゆっくりと開かれていく。
 玄一郎は、この土壇場で、美雷の唇のことを考えていた。なんだかやけに間延びした時間の中、間抜けなことに思いを馳せる。人間に触れられただけで震えてものも言えなくなったにしては、彼女はずいぶん早く立ち直ったものだ。玄一郎がもうおじさんだから? 違うと思う。なぜだろう。そしてはたと気づいた。
 ああ、そうか。彼女は。
 『人間』に触れられるのが、嫌なんだったな――
 そして、扉は開かれた。



 天城玄一郎はそれから十五年後、都内某所の病院で、長年連れ添った老妻に手を握られながら、ひっそりと息を引き取った。その死に顔は安らかで、どこか笑っているようにも見えた。彼が一生を費やして手がけた事業は、血縁関係こそないものの優秀な部下たちの手に引き継がれ、つつがなくその功績を次世代へと伝えていった。
 玄一郎は、最後まで自分の一人息子のその後を知ることはなかった。
 幸せだったはずである。

     


 炸裂弾のような白(ひだり)だった。
 氷殻をノックする細胞分裂じみた爆発の衝撃が脳にまで伝わる。イオンチャンネルをぶち抜いて伝達した活動電位/インパルスが苦痛と恐怖の結晶を造り出し、発汗と動悸を促進する。氷殻に亀裂が入っていくのを視覚が掬い取ってその情報がまた焦燥と嫌悪に繋がっていく。割れた。スプレイダッシュで後方へ逃げ延びながら氷殻の第一層を再展開。お試し期間/モラトリアムを終えたブラック・ボクシングでは第一層など鼻血が出るくらい簡単に割れる。爆煙から足掻くように脱出。黒い幕が晴れるとそこにはやはり剣崎八洲の白(ひだり)があった。
 四度目のスパーリングだった。
 痛むアタマを左手でさすり、黒鉄鋼は片目で相手を見上げた。
 八洲は相変わらず、氷殻を張った自分の周囲に黒(みぎ)をひとつ衛星(ガード)にしてぐるぐる回し、その軌道とちょうどバッテンを組む形/ラインで半径を広げた白を五つ周回させながら、鋼鉄の都市を睥睨している。W5B1の高火力と鉄壁の防御力を誇るスタイル・『キングダム』は依然として瓦解する気配すら見せずに、もうラウンド2だった。それでも今まではラウンド1でKOされていたことを思えば、鋼は充分戦果を挙げているとも言える。少なくとも真っ向から白の差し合いを挑んで八洲と自分の間にある圧倒的なブラックボクシング技術の差を露呈するだけの内容の練習はもうしていない。
 小刻みなスプレイダッシュを連続してかけ、回転する五つの白から不規則に降り注ぐパイロをかわしていく。背中で幾柱ものビルが倒壊していく轟音と振動を聞きながら、檻の目のような白を掻い潜るルートを探す。鋼は思った。
 無理そう。
『諦めるの早っ!』
 脳内で少女の声がツッコミを入れてくる。
『だってあいつ手加減してくれないし』と鋼。
『コドモかおのれはっ! ……それに手加減なんてされたら火が出るくらい怒るくせにぃ』
 鋼は笑った。
 よくわかっていらっしゃる。
『とにかくクロガネくん、白を多くマウントするW5B1とかW4B2は遠距離から黒を湯水のように使って各個撃破を狙っていくのがセオリーだから、そんなに自分から近づこうとしなくていいよ』
 それは確かにその通りなのだ。補充の利かない白はひとつ潰せばそれだけで値千金のリターンがある。ゆえに長期戦で白をチクチクと潰して相手を丸裸にさえすれば、新米の鋼でも先輩の八洲を真正面から撃ち砕くことは可能だ。
 だが、ここでもやはり、
『黒(みぎ)がな』
 鋼はぼやいた。
 相変わらず引き攣るような違和感が黒に絡みついていた。まるで知らない誰かがぴったりと黒の拳にまとわりついて、鋼が望まぬ方向へ拳を引っ張っているようなまどろっこしさ。ある程度、黒を至近距離に置いておけばいくらか緩和されるのだが、そうすればするほど戦闘空域が近くなり鋼自身の被弾率も跳ね上がる。
『でも、それだけじゃないでしょ。また懲りずにキスショット狙ってるでしょ。ルイお姉さんはあんまりオススメしないなー。いくらダメージが第三層のアイスに達したらこっちで自動転送(サルベージ)するって言っても、その前に三層ごとクロガネくんが砕かれちゃったら助けてあげられないからね? あたし《死ぬ》のはあんまり感じたくないなあ』
『死にたくないのは俺もだよ。……あ、やべっ』
 八洲がダッシュをかけてきた。それに伴い護衛の白が周囲に網目のような炎の弾幕を張った。瞬間的にガードした黒が二つ撃墜。鋼は目をすがめ、状況を全体像から掴もうとする――弾幕のところどころに狙いどころに見える隙間がチラついているが恐らく陽動だろう。とはいえその中に本物の隙が紛れている可能性もあるにはあるが、鋼にはその区別がつかない。撃ち込めばカウンターを喰らい、逃げればますます攻め込まれる。ビルの森はもうすぐ足下まで迫っていた。だが望むところだ。接近戦で黒の精度を上げつつ白を潰す。そのセオリーそのものに異論はない。
 身を捻って左手でホルダーから黒の手袋を二個千切りとって空にばら撒き充填(マウント)する。六つの拳を自分の前方に扇状のフォームで並べる。
 スタイル・『リベリオン』。
 後方へのガードを捨てた攻撃特化の構え。徹底的に自分を守る『キングダム』とは正反対のスタイルだ。だが真逆なのはナックルのポジションだけではない。その内容もだ。
 鋼の手札(カード)は、独創的かつ捨て鉢気味なW1B5。
『白が一個だけなんて、無茶だと思うけどなあ』
『いいんだよこれで。さァ――いくぜいくぜいくぜいくぜいくぜいくぜいくぜ?』
 子供の落書きのような軌道でスプレイダッシュ、弾幕の中へと身を投じ、ありったけの黒を八洲の白めがけて飛ばした。拳たちはまだ鋼を信じきれないとでも言いたげにハッキリとしない動きを見せたがそれでも前へは飛んでいく。ほとんどパイロと相殺されながら鋼はどんどん黒を補填していく。嵩んだ負けに溺れたギャンブラーのようにほとんど手を止めずに黒を注ぎ込む。
 特攻の末に、いくつかの黒が白に肉薄した。鋼は迷わない、スプレイダッシュで自分から相手の火弾に突っ込んでまで距離を詰めた。虚空に浮かぶ拳にまとわりついた不協和の糸が少しだけ解ける。ほんの、ほんの少しだけ。
 それで充分。
 もっとも八洲の白に近かった黒の双拳を重ねた。八洲の黒が支援に向っているが危急の白を助けに来るには一秒ほどかかるだろう。遅すぎる。
 喰らえ。
 タイミングを誤魔化した双拳が左右に分かれて噛み合うようなシザース・フックを繰り出す。どちらか一発でいい、芯に捉えれば向こうの白は死ぬ。その自信がある。
 そして、珍しいことに、あるいは鋼がそれだけ接近していたのか、二つの拳は狙った通りに噛み合って、八洲の白を左右から八つ裂きにしてみせた。手袋の断片が虚空に舞い、役目を遂げた黒の拳が歓喜の滑走に入り、鋼の口元にうっすら笑みが浮かびかけた時、衝撃が来た。
 真上から来た。
 脳天にハンマーで杭を撃ち込まれたような気分だった。鋼の意識が一瞬飛んだ。我に返った時にはもうビルの森に顔面から突っ込んでいった。居住用のそれの床を十二層まとめてぶち抜いて地面に激突した時にはもう、そこには瓦礫しかなかった。
 ルイの呼ぶ声がする。
 答えてやれる余裕がない。
 その余裕がどこへ向かっていたかというと八洲の取ったアクションに注がれていた。頭上からの強打。間違いなくシフトキネシスからのキスショットだろう。W5B1は黒の数が少ない。そのためエレキを使わずともパイロのみで試合を有利に進めていくことができ、他のラインナップよりもシフトに自由が利く。くそ。
 その場でスプレイを三六〇度全方位にぶっ放して周囲に立ち込めていた砂塵を払いのけた。視界が晴れる。そして見た。
 嘘みたいな数で、天から降り注ぐ火の粉の雨。
 世界の終わりのような、その光景を。
 鋼は一瞬で決断した。本体に釣られて墜落していた黒五つを掘り起こしてガードに回し、雀の涙ほどの抵抗をたったひとつの白(パイロ)に任せた。激震と爆発が何もかもを埋め尽くした。苦痛と恐怖の中で顔の前に掲げた左腕の時計の文字盤が目に入った。
 あと三十二秒。

 ○

 それにしても、
「――ひっどいやられっぷりだなァ」
 金髪の男の軽口に白衣の女が眉をひそめた。
「殊村くん、頑張っている人間に対して口が悪いですよ」
 モニターから溢れる青い影に満たされた転送室の中に、涼虎と殊村がいた。二人だけだ。涼虎は相変わらず黒ウサギのスリッパを履いて白衣に身を包み、ポケットに両手を突っ込んでモニターを見上げている。その脇に控えるようにして、殊村がどこから持ち出してきたのかパイプ椅子に深々と座って足を組んでいた。偉そうである。
「だって一方的じゃないか。実戦形式でスパー始めてからずっとこれだよ? 僕がジャッジなら止めるね、この試合」
 パイプ椅子をぎしぎし鳴らして、
「やっぱり無謀なんだよW1B5なんて。普通に初心者(ビギナー)はW4B2で、あとあとスタイルを変えるにしろ基本的なセオリーから身に着けていくのが先だったんじゃない?」
 べつに悪く言いたいわけじゃないんだけどとでも言いたげに肩をすくめて、
「補充できる黒を多く使えば長期戦向きに見えるけど、実際は逆だ。潰された黒の補充は気圧や水圧みたいなもので、下へ行けば行くほど、数字を重ねれば重ねるほどブラックボクサーにかかる負担は大きくなる。対して白は補充こそ効かないけどパイロはほぼ制限なしで撃てるし、その攻撃力も制空力も圧倒的。ある程度の補充ならともかくW1B5で待ったなしに黒を湯水のように使うなんて、まるで苦行だね」
「苦行――」
 ぽつりと、雫が滴るような涼虎の呟きを殊村は聞き逃し、
「彼に任せずこっちでスタイルを組んであげた方がよかったんじゃない?」
「そうしようと思ったのですが、頑として譲ってくれませんでしたし、一応ルイとは相談していたみたいなので、許可しました」
 それに、と涼虎は続ける。
「たとえ勝てなくても、生き残ってくれさえすればいいとも思うんです」
 甘いね、と殊村は情けも容赦もなく切り捨てる。
「涼虎ちゃん、わかってるはずだろ。僕らセブンスは嫌われ者の集まりだ。ここのラボを取り潰されたらもう他のラボでは引き取ってもらえない。なにせどいつもこいつも言うことは聞かない、時間は守らない、常識は知らない学歴はないのケチとヤボの塊みたいな連中だものね僕らは。――いいとこの大学に出て卒業論文は何を書いて研究室では何々教授の元に師事しましたってところでようやくスタートラインに立てるエリート様たちからすれば、僕らみたいな背景のないチンピラは、自分たちを否定する存在そのものってわけ。見殺しにするならまだしも仲間に入れてくれるなんて希望的観測さ。だから僕らがこの竪穴で生きていくには、結果が必要だ。何者をも黙らせる結果が」
 どこか、自分に言い聞かせるかのような殊村の長口舌。
 それに涼虎は何か言いかけて、やめた。そしてふっとため息をつき、
「心配無用です。――たかが負けたくらいで取り潰しにされるようなデキのものを作った覚えはありません」
「言うねえ」殊村は嬉しそうだ。
「ま、そうシンプルにことが進めばいいけど。それより涼虎ちゃんの方は大丈夫?」
 涼虎は小首を傾げた。
「なにがです?」
「もうすぐ黒鉄くん戻ってくるけど」
 殊村はくいっと顎をモニターに振ってみせた。右上のタイムカウントが見る見るうちに減っていく。
 あと三十二秒。
 画面の中では、ビルの森が矢のように降り注ぐ火の雨を浴びて黒煙に飲み込まれているところだった。
 涼虎は親の仇を見るような目でモニターを睨んだが、あまりにも表情筋の動きが微量だったために、殊村はそれがしかめっ面だと気づかなかった。
 棒を飲んだような声で言う、
「なにも問題ありません、ええ、問題? なんですかそれは。知らない言葉です」
「……そ、そう? ならいいんだけど」
 涼虎は背中に氷を突っ込まれたように身を縮めて、それっきり緩めようとしない。敵を見つけた亀のように首をすぼめ、目はモニターを上目遣いに見ているようでその実なにも見てはおらず、ポケットの中で握り締められた白衣の生地が年老いたようにしわくちゃになっていることに気づいているのかいないのか。いないだろう。
 叱られるのをわかっていながら家へ帰る子供のような涼虎のことなど気にもかけずにタイムカウントがゼロになり、そして二人の背後の転送座(シューター)に空気が細い管を通るような音がして、どさりと誰かが腰かける気配がした。振り向く。
 誰もいなかったはずのその場所に、黒鉄鋼が汗だくになってそこにいた。
「ぜぇっ……ぜぇっ……はぁーっ……」
 すかさず殊村が立ち上がって、いつの間に持っていたのか、水の入ったボトルを鋼の口元へ持っていった。鋼はボトルから突き出たストローを慣れた様子で口に含み、吸い上げた水を飲まずに吐き出した。吐き出された水を殊村がバケツに繋がったノズルで受け止める。
「くそっ。強いな」
 慣れた手つきで殊村が、鋼の腰から下がった目減りしたグローブホルダーを新品と取り替えながら言い、
「君が来るまでうちのナンバー1だった男だからね」
 鋼はにやっと笑い、
「そんな記録は、塗り替える」
 インターバルは九十秒しかない。
 転送座に埋まるようにして腰かけた鋼に、すっと涼虎が身を寄せた。手を伸ばしても掴めないかもしれない長い黒髪が一房流れた。
「黒鉄さん、気分はどうですか」
「ああ、散々撃たれたから目がチカチカするよ。でも心配はいらない、実はさっきボコボコにされながら思いついたことが一個あっ」

 て、

 もちろん、なんの覚悟もしていなかった。
 時間が、世界から盗まれた。
 なんの前置きもなく、涼虎の薄い桃色の唇が、啄ばむように鋼のそれと重なっている。
「――――」
 時間が、少しも進まない。
 抵抗する意思を奪う湿った舌先が鋼の前歯を乗り越えてその奥へと進み、カラダの中で一番身近な内側をまるで探し物でもしているかのように蠢く。自分の左手が拳を握ってぶるぶると震えているのをどこか冷静な心が感じていた。見張った目は焦点のぼけた彼女の瞳だけを見ている。
 動けなかった。
 そして、始まった時と同じくらいにあっけなく、それは終わった。涼虎は身体を離して、少し散らばった髪をかき上げて何事もなかったかのように澄ましていた。
 冗談じゃなかった。
 鋼はわなわな震えながら、涼虎を見上げた。
「バっ……バっカかお前、なんっ……なっ……ひいっ!!」
「……落ち着いてください」
 さすがの涼虎の鉄仮面もタガが緩んだ。下唇を噛んでついっと目を逸らす。さもバツが悪そうだったが鋼からすればそんな顔をされても困るのだった。いきなりキスをされたのは鋼の方だ。それも一方的に。鋼はトイレットペーパーでも手繰るように傍らの殊村の白衣を引っつかんでぶんぶん揺さぶった。
「これが落ち着いていられるかっ!! 助けてくれ真琴くん、こいつ仕事中に俺になんて狼藉を」
 殊村は諦めたように深い息をついて、
「驚くべきことにこれも彼女の仕事の内なんだよね。ああ、いいなあ黒鉄くん。羨ましいなあ。ずるいなあ。死んでよ」
「俺が悪いのか!? 今のは俺が悪いのか!?」
 左手でアタマを抱えて地団太を踏み始め現実との迎合がまったく出来ていない鋼の肩をぐっと涼虎は押さえつけた。繰り返すがインターバルは九十秒しかない。やめてえ、やめてよう、と必死の抵抗に出る鋼の口に有無を言わさず白衣のポケットから掴み出した色とりどりの氷殻を四切れ突っ込んだ。
 実戦用アイスピースの継続使用においては、ノッカーなどとは違って調整用の特製ピースが付随して使用される。その目安は2Rを終えて3Rへむかう時のインターバルと4Rから5Rへむかう時のインターバル。
 なぜキスをしなければならないのかということを説明する時間がないことに涼虎は身を焼かれるような思いを感じる。調整用のピース『ミスト』は様々な種類と組み合わせがあり、ボクサーがアイスピースを飲みブラックボックスした後に出てくる脳の反応はさらに多彩で複雑で精密で面倒で下手を打つと不可逆のダメージが残る場合がある。それ自体はミストを投与すれば落ち着くものなのだが、その配合を間違えればやはり死(デッド)、そして実験から戻ってきたブラックボクサーに二十種以上あるミストからどれとどれを組み合わせて投与すべきか知る手段は現在ピースメイカーによるブラックボクサーの口内を五感によって探知する方法以外にない。
 なぜと言われても困る。そんなことは涼虎が聞きたい。
 もちろん細かい脳の情報をブレインであるルイに言語出力してもらえれば何も涼虎が一定ラウンドごとに捨て身の一撃になど打って出る必要はないが、クドクドと続くルイの言語出力が終わるまでにはおおよそ三日半ほどかかる。書類で出力してもらってもそれを翻訳するのに二時間。だが、こちらのやり方ならブラックボクサーの口内に舌先を入れてそこから唾液の分泌具合や歯のエナメルに流れる微弱な活動電位の影などを追いかけるやり方なら、――綺麗にほぼ一瞬でカタがつき、このように涼虎はインターバルが終わる前に鋼のブラックボックスの反応具合を正しく捉えて白衣のポケットから『アンバー』・『アンバー』・『サファイア』のミストと氷漬けの赤『ゴールド・ブラッド』を取り出し、被験者の口にそれらを無事突っ込むことが可能になったというわけだ。めでたしめでたし。
 泣きたいのは涼虎も同じだった。
 今までのスパーでは、1Rで終わっていたためにここまで辿り着くことはなかった。いやもちろんわかっている、散々ルイには言われた『なんで早く言わないの?』そんなことは涼虎にだって分かっていた、ちゃんと説明して理解を得てこれがなんでもないことなのだと、言ってみれば人工呼吸と同じただの医療行為のひとつなのだとサラッと言ってしまえばそれで済んだ話をこの土壇場までボクサーに黙っていたというのがそもそもおかしい。そんなことは涼虎が一番わかっている。誰よりもわかっている。
 でも言えなかった。
 なぜかは、わからない。
 針のむしろのような沈黙が、流れた。
 冷静なアタマのどこかで誰かがタイムカウントを告げる。
 あと七秒。
「必要だったんです」
 ギリギリやっと、それだけ言えた。だが、すべての事情を簡潔に言い表しているいい言葉だと思う。必要だったから。そう、これは必要なことで、不必要だったらまさかやりはしないことなのだとちゃんと相手に伝わったはずだ。
 チラッと鋼の顔を見やる。
 鋼は実に落ち着いたものだった。その顔つきは真実を探求してやまない哲学者のように思慮深く、ボクサーにしては細い指を唇に沿わせてその感触を丁寧に確かめていた。問い質すまでもなかった。
 全然聞いていない。
 涼虎の中で、何かが切れた。
 小さな拳がめきりと鳴ってからが速かった。
 涼虎の右ストレートが綺麗なフォームで転送座に突き刺さるのと、タイムカウントがゼロになるのと、紫色の放電をぱチぱチと残して一瞬前までそこにいたブラックボクサーがブレインにリングへシュートされるのがほとんどすべて同時だった。
 仲間の突然の発狂に殊村がパイプ椅子にへばりつくようにしてビックリしている。
 じわじわと伝わってくる拳の痛みと、絶句している殊村の気配、そして胸の中で繁殖し始めた得体の知れない感情のすべてが、涼虎には荷が重すぎた。
 ぐちゃぐちゃになった感情は、言葉になって走り出る。

「――もぉ!!」

 ――黙って冷えピタを(なぜ持っている?)差し出した殊村の手を涼虎の裏拳が払い落とし、
 そして、
 第3ラウンドが始まった。

     



 いつ見上げても機嫌を損ねたっきりの空の下、小石を落として跳ねた飛沫のような高層建築の群れ、その一柱の屋上に、周囲の空気を切り裂いて一人の人間が瞬間移動で現れた。
 黒鉄鋼である。
 脳天にハンマーを喰らったように額を押さえ、足元がおぼついていない。どうもなかなかいいパンチをもらったようである。うう、うう、と呻きながら千鳥足でそこらをふらふらするざまはまるきり酔っ払いのそれだ。
 そんな鋼のアタマの中にべつの少女の声が割り込む。
『いやあビックリしてましたねえクロガネくん』
『――――!!』
 竜巻のごとく荒れ狂った鋼の脳波は、人の言葉を為していなかった。
『ビックリしてますねえ、クロガネくん』
『当たり前だ!! 言えよ!!』
 大出力で怒鳴った鋼に、流水じみた波長でルイがさらりと答える。
『べつにいいじゃん』
『はあ!?』
『いいからいいから。それよりほら向こうもかわいいセコンドのベーゼを受けて気合充分、向かってくると思うけど? いいのほっといて?』
『わかってるよ!! ああくそ、畜生!! やってやる、やってやるよ、やってやるってんだよくそったれがァ――――!!』
 少女は声で笑う、
『その意気その意気』


 アタマを振って、前を見る。
 まだ緩んでいる口元を一撫でして黙らせる。
 臨時政府庁舎と特別閉鎖裁判所の屋上に立ち合って、おおよそ一二〇〇メートル差を置いて睨みあう。
 その中央に作られたモニュメントはモノもいわずに、ただ閉じられた天を指している。
 馬上槍を二重螺旋で飾ったようなその構図の意味するものは地上への回帰。核戦争が終わって、いつか地上を目指そうという言葉が形として残されたもの。
 そんなガラクタを眺めるだけでガッツが湧いてくれば誰も苦労はしない。
 天候制御装置が壊れて永遠に澱み続ける羽目になった雷雲がチカリチカリと瞬く。機嫌を損ねていた曇天がとうとう癇癪を起こして黄金色の稲妻を落とした。
 落雷を浴びた二重螺旋と突撃槍のモニュメントが割れ鐘のような音を立てる。
 それが、ゴングだった。
 青い炎の軌跡を残して、二匹のモルモットが壊れた都市に広がる虚空に飛んだ。

 ○

『お見事です、マスター』
 アタマの中で、少女の声がする。
『アングル・タイミング・パワーどれを取ってもKO級のキスショットでした。相手がノックアウトされなかったのは、ひとえに向こうのアイスのタフネスによるものと思われます。あなたの落ち度ではありません』
 それを聞いて、八洲はふっと笑った。
 アタマの中の声はいつも優しい。
『ありがとよ、スイ』
 そのまま流れるように腰のグローブホルダーから素早く六発のグローブを千切り取る。身を捻るまでもなく、それを肩口からポイと放り捨てた。スプレイダッシュが生み出す風の螺旋にグローブたちが吸い込まれていく。見捨てはしない、すかさず充填(マウント)。カンフル剤でもあるミストの補助のおかげで、ラウンド越しでも白を充填し直せる。ちなみに第2ラウンドでもマウントし直せるのは、あらかじめ使用するアイスピースに2ラウンド用のミストを混ぜてあるからだとか。もっとも脳にさっきまでのブラックボクシングが継続していると誤解させるだけの効果しかなく、失った白までは戻ってこない。
 風が鳴る。
 どうして自分たちを捨てるのかと追及するように、白四発/黒一発の拳がスプレイをかけている八洲に追いついた。追い越す。周回軌道に乗る。スタイル・『キングダム』展開。目前に二重螺旋のモニュメントが見える。引っかけるようにして旋回。
 馬上槍を中心にして線対称を描くように、反対側で自分と同じ軌道を取った相手と九〇メートル差で向かい合う。
 黒鉄鋼だった。
 アタマの中の声が言う、
『相手は新米です。今まで通り白(ひだり)で翻弄しましょう』
『……新米、ね』
『黒鉄鋼がスタイル・リベリオンを展開。相対距離八三・七メートル。シフトキネシスの射程距離内です。接近することをオススメします』
『そうする』
 ハンドキネシスの射程距離はアイスピースの質にもよるが平均して一八〇メートル前後。ここからでも充分に拳が当たる距離ではあるが、相手の姿がかすむほどの遠距離戦をキングダムで挑むのはあまり好ましくない。補充の利かない白はお互いをカバーし合う必要があるからだ。自然、ボクサーを中心とした拳の織り成す半径は短くなる。特に相手が犠牲を恐れない黒拳使い(ブリッツ・ファイター)である時などは。
『さっさとシフトしますか、それともじっくりスプレイ?』
『じっくりいく。シフトはさっき一つ使っちまったしな』
 ちなみに黒鉄鋼が使っている『調整用アイスピース』はシフト/エレキは6分5ラウンドの一試合で四発の使用が可能になっている。八洲の『ブルーパスポート』も同じく四発である。
『了解』
 八洲はスプレイをかけた。自分の前方へ周回する白の弾幕を張り始める。パイロを黒でガードした鋼の姿が爆煙に隠れた。すぐに現れる。小刻みなスプレイダッシュをかけて、的を絞らせない。
 ひゅん、
 軽い唸りを乗せて鋼の黒が一発、火炎を掻い潜って接近してきた。八洲の目が磁力を帯びたようにそれを追う。だが、あえてかわそうとはしなかった。鋼の拳がめきりと拳を握ってモーションに入った。
 それでも八洲は、ただそれを見ているだけ。
 エレキを使ってくるようなら、シフトするつもりだった。
 ここにブラックボクシングがただ黒を振り回して先にエレキを当てた者勝ちにならない秘密がある。
 エレキは、それがどんなタイミングであれ必ず発動前に紫電の放出が一瞬見える。状況によってはスプレイでもかわせるし、シフトならほぼ確実にさばける。つまりエレキはいわゆる一つのテレフォンパンチ――よっぽどでない限りは見え見えなのだ。
 鋼の拳が、紫電を見せずに動いた。
 八洲は、避けない。
 ビル一柱をジェンガのように容易く破壊せしめる黒のフック。その殺人パンチが、八洲のアイスその鼻先をかすめ、火花が散るような速度であらぬ方角へと飛んでいく。
 スカだ。
 八洲は、爆炎に包まれた戦闘空域の向こうにいる男を見て目をすがめる。
 これが黒鉄鋼の弱点。
 切れはあっても狙いが定かではないパンチ。三度のスパーリングを経て、八洲はもうほとんど鋼の黒には注意を割かなくてもいいということを知っていた。少なくとも戦闘空域から偶然紛れこんできたようなラッキーパンチは放っておいてもほとんど逸れていく。これが二、三発と連続して接近してくれば別だが、それでも芯を捉えたパンチには至らないのではないかと八洲は思っている。
 セオリーでは、まずエレキを使わない黒のノーマル・ブローを小さく細かく速く相手に当て、その連続攻撃にエレキを組み込む。だが鋼にはそれができない。その証拠にほとんどエレキを使ってこない。シフトは八洲が使わせない。ある程度の集中力が必要とされるシフトは連続攻撃の最中では発動までに時間がかかる。第2ラウンドでビルの森から鋼が脱出できなかったのもそのせいだ。これは単純に、経験の問題でもある。


『敵ボクサー、バックスプレイをかけてやや後退』
 だが、それでも八洲は鋼を弱いとは思わなかった。
 恐らく涼虎や殊村から見れば八洲の闘いぶりは鮮やかで洗練されていて、鋼は一方的にあしらわれているように見えるだろう。ひょっとしたら八洲のブレインでさえそう思っているかもしれない。
 だが、それは違う。
 最初は、八洲も彼らと同じ意見だった。鋼から提案してきたスパーリング――W5B1対W1B5など少しも実戦的ではない。まずブラックボクシングで手札(カード)といえばW4B2かW3B3。稀にW2B4がいるくらいでリミット一杯までどちらかに偏らせるなどデメリットの塊でしかない。こうして優位を保っている八洲のW5B1『キングダム』でさえ他のボクサーと実戦でやりあえば白の高さと射程距離の狭さを突かれて包むような攻撃を喰らいラウンド3を待たずして撃墜されているはずだ。もちろん鋼のW1B5などは一方的に打ちのめしてくれと言っているようなもの――牽制のために振る白が一つしかないのだから。
 その鋼と三度のスパーリングを経て、八洲はいま、第3ラウンドにいる。
 第3ラウンドに、だ。
 手加減はしていない。
 するならもっと早くにしていたし、鋼からはいっそ殺すつもりでかかってきてくれと頼まれていた。でなければスパーなんてやる意味がない、と。そういうタイプが稀にいることは八洲も知っていたし、だから八洲はそれを真摯に守っていた。
 それでも、
 全力で押して、第3ラウンドまでもつれこんでいた。
 たった三度の、スパーリングをしただけの相手に――
 闘いづらいことこの上なかった。白の差し合いでは圧倒的に八洲が上だ。だが、キングダムの性質上、白を自分の近くに配備しておくことが多く懐を深く構えた相手にはなかなか潜りこませてもらえない。鋼はキスショットこそ狙ってはいるようだが、それも一撃離脱に近いやり方を目指しているらしく決して迂闊に近寄っては来ない。そのあたりはさすが元プロボクサー。徹底していた。
 殺るなら確実に、というわけだ。
 ならばW5B1の特性を活かしてシフトを使い相手の死角からゼロレンジで仕掛けるのはどうか。セオリーならそうだろう。事実、さっきは決まった。だが、八洲にはそれができない。なぜだろう、さっきは決まったのに、もう一度決められる自信がない。あんな背後へのガードを無くした攻撃特化の『リベリオン』相手にシフトをかける自信がない――
 理屈でいえば鋼のスプレイにミソがある。鋼は常に左右方向へ交互にスプレイを振っていて、ひとところに留まっていない。しかも左右へ動くたびに身を捻って自分の死角を最小限に絞っている。それでまず、シフトで狙える死角が狭くなっているということが一点。だが重要なのはそんな小賢しいことではないのかもしれない。
 リベリオンを張る以上、鋼は背後や真上からのキスショットが致命傷に至ることをわかった上でそうしている。そう、さっきは上手くいった。だが次はそうはいかないかもしれない。さっきのアレが誘いだとはまさか思いはしない。しないが、覚えられてしまったのではないかという恐怖はある。死角からの攻撃、それに対してあいつは『カウンター』を狙っているのではないか――八洲はその考えがアタマをチラついて離れない。シフトして急降下したら相手がどこにも見当たらず、いきなり横っ腹を撃ち抜かれればさすがの八洲も強制転送されかねない。
 負けたくなかった。
 その気持ちが、絶対的優位にいるはずの八洲の手を縮ませている。
 白の差し合いで優位を維持しているからといってなんだというのか。相手のアイスには煤ひとつついてはいないだろうが。そう思いながらも、この状況を打破する気持ちが湧いてこない――
『マスター』
 スイが、グラスに満たした水のような声で言った。
『チャンスです』
 何事かと思った。
『なに? なんて?』
『黒鉄鋼は動揺しています』
『なんで』
 スイは答えた。
『これがラウンド3だから、です。黒鉄鋼はさっきのインターバルで初めてミストを投与されたはずですから』
 一瞬、なに言ってんだこいつ、と思ったが、すぐにスイの言わんとしているところに八洲は気づいた。
 今度こそ、声を出して笑った。
『――なるほど』
 だが、言われてみればそうかもしれない。
『つまりあれか、いま黒鉄のやつは涼虎の「べろちゅー」を喰らったばかりで足元が覚束ないはずだからいっちょボッコボコにしてやろう――って言いたいのか?』
『おおむね、そういうことです』
 澄ました声でブレインが答える。八洲はブレインが冗談を言うのを初めて聞いた。鋼のブレインは感情表現が豊かなタイプだが、ほとんどのブレインはスイのように自分の意思をあまり表には出さないのが普通だ。それなのに。
 前を見る。
 不思議なやつだと思う。
 あいつがここに来てから、妙なことばかりが起きている。少なくとも退屈はしない毎日になった。ひょっとしたら、実戦に明け暮れていた頃よりも。
 拳を握って、八洲は決めた。
 よし。
 やろう。
 たかがスパーリングで手を縮ませていて何になる。自分の役目は実戦を控えたブラックボクサーの調整相手だ。勝つだの負けるだのはどうでもいいことだ。いまはただ、あいつに質のいい練習をさせること。それが一番大事なことだ。
 決めた。
 クロスレンジだ。
 白拳使い(ファイアスターター)で鳴らした剣崎八洲と『ブルーパスポート』の真価を見せてやる。
 八洲はスプレイダッシュをかけて自ら戦闘空域に突っ込んだ。周回するおのれの白と黒の半径をほとんど等しくするほどにスタイルを圧縮(プレス)する。鋼とその黒との距離も縮まる。なめし皮を磨くような小刻みなスプレイの音が聞こえそうな近距離。三〇メートル。
 速射砲のような白を撃ちに撃った。
 弾幕のひとつ、八洲の炎を鋼の黒が拳の甲で弾く。
 バレーボールサイズの火弾がやや着弾点を逸らされて爆発する――
 瞬間、その炎の裏に忍ばせていた八洲の白が水を得た魚のように躍り出た。
『クロガネくん、白!!』
 鋼の目が見開かれる。その口元が剃刀じみたスリルで笑みに歪む。
 八洲の野郎。
 こっちの目を引く炎そのものを囮にして、虎の子の白を突っ込ませてきやがった――!
 くそったれ――だが、
 まだ間に合う。
 周囲に飛んでいた黒を固めてガードに回す。アイスにまでは攻撃を届けさせない――
 結果的に言えば、八洲の白は鋼のアイスに届いた。
 白が、燃えた。
 一瞬だった。
 見間違えたかと思うような刹那、燃える拳が鋼の黒のシールドのようなブロックをぶち壊して氷殻を撃った。気がついた時には、鋼は回転する天地を半失神で眺めていた。
 話には聞いていた。
 それは、パイロキネシスの奥義とも言える技で、力加減を間違えればみずからの白を自爆させてしまう諸刃の剣なのだが、その代わりに瞬間的に黒並みのパンチ力を白に与える能力なのだという。外科医のような精密さが求められるために初心者の鋼にはやる前から禁止令が出されていた。
 時間と経験の試練を乗り越えたボクサーにしか使うことのできない本物の技術。
 パイロフィスト。
 言わば、リードブローから繰り出されるKOパンチ。
 その真価は幻想の脇腹にしかと刻みつけられた。なるほど確かに甘くない。これがあるなら熟練のボクサーが白を重視した戦闘計画(ファイト・プラン)を組むのもよくわかる。セカンド・アイスの芯にまで亀裂が入った。確かに、これは効く――
『だ、だいじょうぶクロガネくん!? めっちゃ効いちゃったみたいなんだけど!!』
 こちらの脳を常にモニターしているブレイン・ルイが精神の波長で鋼に叫ぶ。鋼は笑い、制動スプレイをぶっ放して追撃のパイロをかわしつつ、自分の心境と状態を慎重に吟味した結果、次のように述べた。
『アドレナリンのションベンが出そう』
『全っ然だいじょうぶじゃないね!? しっかりしてぇ!! 気を確かに持ってぇ!! あと2ラウンド持てばまたリョーコちゃんとのべろちゅータイムなんだからウェヘヘヘヘヘ』
 しっかりするのはお前だと言いたい。
『失礼な!!』漏れていた。
『あたしの数少ない楽しみをなんだと思ってるの!! クロガネくんにはビシバシテキパキ頑張ってラウンド5まで進んでもらわないといけないんだから!! その後はどうでもいいや』
 冗談はさておき、
『ああ、本当は自分のクチビルというやつでぶちゅーっとやってみたかった……』
『その話まだ続くのかよ!? ふざけんなよ俺いまスパーしてんだぞ!!』
『はいはい頑張ってー。これでいい? あ、いまヤシマとの相対距離が一〇〇メートル突破。シフトキネシスの射程から外れたよー』
 少女の声が笑う、
『チャンスだね』
 その通り。
 鋼鉄の天地のど真ん中で、鋼はスプレイをアンバランスにかけてその場で宙返りをする。後方へ飛び去っていく八洲のパイロの連打が巻き起こした破壊の気配を背中で聞いて、前を見る。パイロフィストを喰らってから自分をカバーさせるのに費やした黒を左手でホルダーから千切って充填。奇跡的に生き残った白と共に六発の拳を円環運動(サークリング)させる。スタイル・『シリンダー』を展開。
「いくぜ」
 不可視の鎖を外されたように拳が鋼の右脇から一斉に放たれる。黒黒黒白黒黒。至近距離でシリンダーをぶつけ合うとお互いの白が状況次第でごっそり減って勝負の趨勢が風のように変わることもあるのだが、それはまた別の話。
 鋼の真意は今、そこにはない。


『黒鉄鋼との相対距離が一三〇メートルを突破。シリンダーから撃ち出された拳が接近、――エンカウント』
 連鎖爆発。
 愚直に突っ込んできた黒を八洲の白が迎え撃つ。黒煙で視界が悪い。掴めば掴めそうな質感を持った煙から不意打ち、鋼の火弾が飛んできた。
 これが狙いか。
 しかしせっかくの近接火炎(クロスファイア)も猟犬じみた八洲の黒がすべて払いのけた。正確無比なその軌跡はいまの鋼にはないものだ。炎を弾いて爆発が起きた時にはもう引き手を取って回避しているため八洲の黒はゼロダメージのまま。
 鉄壁、
 キングダムは崩せない。
 八洲は鋼の黒と白を相手にしながら、アッパースプレイ、視界の悪い空域から離脱して鋼を目視しようとした。スイによればシフトキネシスの射程――九〇メートルよりも向こうにいるらしいが、それでも油断はできない。なぜならシフトキネシスには『裏技』があって、それを使えば簡単に射程制限の九〇メートルを越えて飛んでこれるからだ。
 その裏技とは、通称『ナックルシフト』。
 自分との距離が九〇メートルを超えたところにある拳と自分を入れ替えるという、チェスでいえばキャスリング――キングとルークを入れ替えるような戦術だ。この能力はまだ一年ほど前に開発されたアイスピースで発見されたばかりで、比較的最近のピースでしか使えない。
 単純なシフトキネシスと違いナックルシフトにはいくつかの制約がある。まず一点、自分の拳と入れ替えになるためにその拳は逆に自分がいた地点に転移してしまう、ということ。危険地帯から逃げる時など、黒ならともかく白にはあまりかけたくない技――というよりも、ナックルシフトは黒にしかかけられない。黒を多くマウントした際の利点のひとつと言える。
 そして二点目は、位置の入れ替えが自分と対象になった拳だけではなくほかのマウントされた拳にも及ぶ。簡単に言えば、ナックルシフトをかけた時の周囲の拳の位置が『反転』する。コンパスを使って弧を描いて、それを反対側にも同じように引いた図を想像するとわかりやすいかもしれない。たとえば今、黒煙に紛れている黒のどれかに鋼がナックルシフトをかければ、鋼自身はここまで飛んでこれるが、元々この空域にあった拳はすべて鋼が元いた地点まで飛ばされる。そういう制約つきの超・長距離シフトがナックルシフトなのだ。
 だが、いかにも鋼が使いそうな技ではある。
 ゆえに八洲は不意の一撃を警戒してアッパースプレイをかけたのだが、杞憂だったらしい。鋼はまだ遥か彼方にいる。
 考えすぎか――
『黒、接近』
『む』
 スイの声に釣られて黒煙の塊に目を落とす。だが、そこからぼフッと吐き出されてきたのは鋼の黒だった。何かの衝撃を喰らって吹っ飛んだのだろう。なんだ――ただの裸馬か。
 だが、それが油断だった。
『黒、接近!!』
 遅かった。
 八洲の視界一杯に迫るほどの近さと速さでべつの黒が黒煙から突っ込んできた。
 ただし、裏拳で。

 べきいッ

 アイスにひしゃげた黒が突き刺さる。
『――――ッ!!』
『ますたあ!!』
 スイの悲痛な声に八洲は答える余裕がなかった。芯こそ外していたが威力はやはり底抜けだった。一気に五〇メートル近く後方へ流されてしまった。スプレイで制動をかける。
『――くそ、やられた』
 タネは割れていた。予想もしていなかった。
 まさか、
 拳を投げてくる、とは。
 確かに自分の拳同士なら精密動作に難があっても掴むぐらいなら出来もするだろう。そして滅茶苦茶な方角へ投げたとしても、力の抜き方をシンプルにすれば『まっすぐ』飛んでいかせること自体はそれほど難しくもあるまい。少なくとも今までのようにボクシング初心者が振りかぶって打つような大振りの右フック/オーバーハンドライトよりかはいくらかストレートに近い直線的なパンチが望める。たとえ裏拳でもなんでも。くそ、わざわざ超遠距離戦に運んだのは体勢を立て直すためだけでなく、ナックルシフトからのキスショットに八洲の意識を振らせるため――無謀な男にしては『切れる』やり方だ。
 だが、それもここまでだ。タネは割れた。もうそうそう喰らわない、あんな派手なパンチなど。
『マスター!!』
 今度はなんだ、そう思って何気なく見た――
 左。
『!』
 今度こそ、心臓が止まりかけた。
 いや、止まるヒマもなかった。つくづく八洲は思い知ることになる。黒鉄鋼の性格というやつを。鋼は、優位と勝利の違いを骨身に染みて理解している男だった。そう、優位はなんのためにあるのか。安心するためか。違う。
 勝ち切るためにあるのだ。
『――――ッ!!』
 燃えるような速度を帯びて、黒の拳がもうすぐ目の前に迫っていた。アドレナリンが大量に分泌されて粘性を帯びた五感と時間の中で八洲は確かに見た。鋼の黒が正確な軌道に乗っているのを。
 綺麗なフォームだった。
 そのフォームは名前を、『右フック』という。

 めキィッ

 冗談みたいな威力と共に、八洲の幻想の脇腹に鋼の黒のフックが突き刺さった。ファースト・アイスが乾燥し切って風化した植物のようにあっけなく砕け散る。もとより一層になど期待していない、が、セカンド・アイスまでが亀裂で視界不良を起こしていた。それを綺麗にしてくれるものがあるとすればそれはこの土壇場にあってはもはや絞りに絞ったガッツしかない。ガッツだ。撃ち抜かれた衝撃でスプレイなしに吹っ飛ばされながら八洲はよく強制転移されなかったものだと霞む意識の中で考えていた。おそらくはスイの一言、あれで心のどこかで覚悟の種が芽吹いていたのだ。それがなければ恐らくやられていた。くそ――ゆっくり考える時間も、相手を褒め称える隙もない。今度のタネも八洲は瞬時に見抜いていた。
 鋼の不調の黒、それが正しい軌跡を描けたたったひとつの答え。
 それは、ハンドキネシスの射程距離。
 ハンドはボクサーを中心に据えて半径一八〇メートルが射程限界。つまり突き詰めて考えれば、その制限範囲は綺麗な円なのだ。八洲はさっき弾かれて空域をおっぽり出されたように見えた鋼の黒を思い出す。あれだ――あれを密かに潜行させて射程限界一杯まで辿り着かせ、そこから射程のリミットめがけておおまかな力の方向だけ定めて思い切りぶっ放したのだ。あとは射程距離の『レール』に沿ってパンチは自動的に走っていく。エレキを使わなかったのは、エレキの特性として射程を無視して突っ込めることが邪魔だったからだろう。
 最初から、裏拳は囮。
 こっちの予想できないフックが本命――

 そして、
 恐らく、
 ああ、
 畜生!

 八洲はなけなしの気力を振り絞って身をよじり、振り返った。そうだ、何かで読んだことがある、ボクシングにおけるパンチのコンビネーション。
 フックというものは、左右でセットにするものなのだ。
 案の定、親指を下にして、鋼の『左』フックが火花が散るような速度でもうすぐ目の前に迫っていた。
『マスタ――』
 戻ったら、絶対に、スイを相手に愚痴を言いまくってやる。
 だが、いまは、なんとしても、
 この一撃を、かわすこと――!!
 最後の力を振り絞った八洲のダウンスプレイ。制動をかける暇もなかったからかなり緩やかな下降だった。
 間に合うか――……
 ちりちりと八洲のアイスを震わせながら、鋼のフックが、虚空へと過ぎ去った。
 かわした。
 八洲はさすがにほっと安堵のため息をついた。
 さばいた。
 さばき切った。
 これでなんとかなる。いま大慌てで引き戻している白と黒が再びキングダムを展開させれば状況はリターンする。それにもうすぐゴングも鳴って第3ラウンドは終わりインターバルに入る。そうなれば、もう第4ラウンドからは決して油断しない。そう、第4ラウンドにいきさえすれば――
 ふと。
 もう、それはほとんど予知のようなものだった。
 振り返る。
 そこにいたのは、
 とことんしつこい、
 あの男。
 氷の城壁をまとい、風の王座に座し、仁王に虚空に立ち塞がる片手の男。
 黒鉄――鋼――……
 八洲は思った。
 キスショットだ。
 鋼はキスショットを狙っている。
 すぐに覚悟を決めた。耐えてみせる。見てから喰らうキスショットなんぞタカが知れている。もうすぐのはずなのだ。もういまにも鳴るはずなのだ。それさえ鳴れば、あの曇天から金色の稲妻さえ落ちてくれば――
 だがきっと、稲妻は自分に落ちるのだろう。
 鋼のすぐそばに、黒の拳が三つマウントされていた。
 さすがにもう理解が追いつかなくなってきた。休ませて欲しかった。つくづく思い知った。人間の勝利にかける執念というものを。あるいは男の意地というものの実態を。ここまでかと思う。ここまで人間は高みを目指さないと気が済まないのか、それともそうまでしなければできないのだろうか。
 何かに勝つ、などということは。
 鋼の白は生きていたが、ここにはない。恐らく中間距離だったあの空域にまだほとんどズレずに残っているのだろう。仕事は果たしただろうから。
 自分の黒を潰すという大事な仕事は。
 数は合っているはずだ。最初の裏拳でひとつ。次に右フックでひとつ。そのあとに左フックでひとつ。八洲がかわしたあの黒でナックルシフトをかけたのだろう。空域に残っていた二発の黒は鋼の白自身がパイロで撃ち砕き、そして裏拳の際に破裂した拳もついでにマウントして鋼はそばに置いたのだ。そうすればそのまま拳を引き連れてここまで飛んでこれるから。
 よくもまあここまで思いつくものだと八洲は驚愕を通り越して呆れるような心境だった。シフトをかけたくてもすでに八洲の心は溺れてしまってこの期に及んでのコンセントレーションなど、どこか遠くの絵空事だった。よくわかった。

 かわせない。
 絶対に。

 相手を見上げる。
 天を見上げる。
 無謀?
 無謀だと?


 これが、無謀な男のやることか?


 目だけは瞑るまい。
 そう決める。
 実に2ラウンドぶりに鋼と目と目がかち合った。
 曇った鏡のような目だった。
 視線で誰かを殺せる人間は、きっと誰もがあんな目をしているのだろう。
 空っぽの袖が足掻くようにはためく。
 あいつは、やる男だと思った。
 たとえ、相手が死ぬと分かっていても。
 そして。
 鋼は悩まなかった。
 三つの黒が放電を発し始め、周囲に電子を撒き散らして造ったイオンを螺旋に取り込み、焼き尽くし、そのすべての過程を速度に変換、三弾連弾まとめてぶっ放した。
 撃ち放たれた三つの黒は包むような柔らかい軌道に乗って、八洲のアイスをかすめながら、三重螺旋を描いてビルの森に突っ込み、瓦礫の高波を派手に跳ね上げた。
 ガラガラと崩れるその音が、どこか笑い声にも似ていた。
「…………」
「…………」
 八洲と鋼は馬鹿になったように顎を落として、呆然とそれを眺めていた。
 全部外れた。
 繰り返す。重ねて記す。
 全部外れた。

 ……あとのことはもう、わざわざ語るまでもない。

     


「黒鉄くんさァ……」
「やめろよ、泣いている子もいるんだぞ」
「お前だろ」
 鋼、八洲、殊村の三人は食堂にいた。スパーリングが終了してから、一時間ほど経過している。
 八洲が頬杖を突きながら、ぶすっとしている鋼を見て苦笑した。
「それにしても、あそこで外すかね」
 わざわざ言われなくたって鋼だって綺麗に当てて終わらせたかった。だが、最後の瞬間、失ったはずの右腕が烈しく『痛』んだのだ。それは、蜘蛛の巣のようにあるはずのない神経を通って鋼の脳天から爪先までを貫く冷たさだった。結果、見事に三発連弾まとめて鋼の黒は虚空を裂き、そして痛みで集中力を欠き風(あし)にきた鋼を仕留め切れない剣崎八洲ではなかった。
 それだけのこと。
 鋼は空っぽの右袖を左手で撫でさすった。
「くそっ、もう少しだったのによ」
「それは認める」と、八洲が頷いた。
「危なかったよ。マジでやられるかと思った」
「畜生、マコトくん、俺の黒、なんとかならねえかな。もういい加減イヤになってきたぜ。肝心な時に使えないんじゃ頼りにできねえよ」
「うーん。どうして黒鉄くんの黒があんなに不安定なのかは僕らの方でも調査中なんだけど、わかったのは、きみの左脳にあるブラックボックスの一部が他のボクサーよりも発火していないってこと。たぶん、そこがハンドキネシスの黒を司ってる部位なんだろうけど」
「お前は何を言っているんだ」
 仮説だよ、と殊村は前置きして、面白くもなさそうに続けた。
「黒鉄くんは一年前、交通事故で右腕を肩の付け根から切断したよね。それ以来、当然だけど右腕は使っていない。だから――カラダの右半身を司っている左脳の一部が劣化してしまったんじゃないかって、ラボでは話になってる」
「……へえ」
「べつに僕がそうしたわけじゃないぜ。恨まないでくれよ」
「わかってるよ」
 鋼はテーブルに突っ伏した。
「あーあ。俺の勝ちだったのによォ。畜生、あそこで外れるパンチが悪いんだよ」
「おまえそれ元ボクサーの言うことかよ?」
「発つ鳥あとを濁しまくり」
「うるせえ」
 そうこうしているうちに、トレイに夕食を乗せた涼虎がやってきた。珍しく、割烹着を着ている。
「相変わらず三人とも声が大きいですね。調理場から会話が丸聞こえです」
「助けてくれ枕木。みんなが俺をいじめるんだ」
「はいはいそうですか」
 涼虎はテーブルにトレイを置いた。
 肉じゃがである。
「どうぞ。いつも同じ人が作った同じメニューでは味気ないですから。これはみなさんの働きに対するせめてもの気持ちです。今日は拙いながら私が、お玉を振るわせていただきました」
 そこで涼虎はきっと顔を上げ、
「私が、お玉を振るいました」
 万に一つでも茶化したら、お玉のサビにされそうな気配が漂っていた。
 男三人がそれぞれ黙って容器に入った肉じゃがを受け取っていく。
 女子に手料理を作ってもらって嬉しくない男子はいない。自然と三人の声が明るくなった。
「おいおい、ジャガイモが溶けてるじゃねーか。小さく切り過ぎなんだよ」
「豚肉小さっ。ケチケチすんなよ肉ぐらい喰わせろや」
「なんか見た感じタマネギが生っぽいよ涼虎ちゃ」
 どんッ!
 テーブルに叩きつけられた碗が、ハシャぎまくっていた男子三人を一発で黙らせた。
 一瞬前と打って変わって、お通夜のような空気が流れる。
 端に用意されていた炊飯器からご飯をよそいながら、涼虎は機関銃でも掃射するような殺人的な視線で三人を順繰りにねめつけ回し、ぼそりと尋ねた。
「なにか文句でも?」
「ないです」
「ありません」
「すみません」
「よろしい」



 涼虎がこれまたどこから持ち出したのか、ずいっと古ぼけたラジオを炊飯器の前に引っ張り出してきた。チューナーをいじるまでもなく、がりがりと音を立ててラジオから声がこぼれ出す。
『お疲れ様ー』
 ルイだった。
『今日のスパーリングの結果はクロガネくんの3ラウンドKO負け。惜しかったね、クロガネくん』
 鋼は不味そうに豚肉を喰っている。
『まあ、みんな言いたいことはあると思うんだけど――とりあえず所長から何か一言どうぞ』
 はい、と涼虎は頷いて、一同を見回した。
「みなさん本当にお疲れ様でした。黒鉄さんも剣崎くんも、最後まで動いてくれて実りの多いスパーリングだったと思います。とても四度目とは思えませんでした。……黒鉄さん、何か言いたいことは?」
「知るか」
「結構です。その悔しさをバネに今後も励んでください」
 鋼は噛み切れないパンを口に含んでいるような顔をした。
「では、殊村くんと剣崎くん。何か言いたいことは」
 ありますか、と涼虎が言い切る前に殊村が食べ尽くした茶碗を叩きつけるようにして、テーブルに置いた。ミラーグラスが蛍光灯を直に受けてギラギラと輝いている。
「僕から言わせてもらえば、やっぱり黒鉄くんのW1B5にはやっぱり無理があると思う」
「ほう」
 腕組みをして、殊村の気炎を受けたのは当の鋼ではなくスパーリングパートナーの八洲。時代遅れの道場破りでも見るような目で殊村を睨む。
「俺はそうは思わんね。今日のスパーを見てなかったのか? 黒鉄のやつは俺を相手に充分うまくやっていたぜ。……無理がある? いいや俺は逆だと思う、W1B5、いけると思うぜ充分に」
「へえ? どういう風の吹き回しかな八洲くん。この間まできみもW1B5には難色を示していたと思うけど?」
「リスクが高いといっていただけで、殊村、お前みたいにアタマごなしに否定してはいなかったさ。それに勘違いするなよ、俺はお前と同じようにW4B2を黒鉄に押しつけようとはしていなかった」
「押しつける? 勘違いしているのはきみの方だな。僕はただ、もっともポピュラーなカードはW4B2だと言っただけだ。きみだってその点には異論ないだろう」
 ばチばチと火花を散らして舌戦に突入した八洲と殊村を見て、鋼と涼虎は顔を見合わせた。
 また始まった。
 ことの発端は二度目のスパーリングが終わった後からだった。W1B5を強行した鋼に対して殊村が不服を申し立て、ほとんど子供をあやすような調子になっていた。言っていることはブラックボクシングをかじったものなら頷かざるを得ないものではあったのだが、その話ぶりが気に入らなかったのか、それとも男子というのはとりあえず目の前にいる相手にすべからく反逆したくなるものなのか、八洲が殊村に猛反論したのだ。涼虎によれば以前からこの二人はブラックボクシングの進行と戦術において意見を闘わせることが多かったらしい。まるで竜巻のような二人の討論に鋼と涼虎はついていけず、ルイはもとより人間の脳味噌越しに味わうメシのことしかアタマになく、スパー後の恒例となった『みんなで晩御飯』の時には自然と殊村―八洲サイドと鋼―涼虎―ルイサイドに分かれていた。鋼は自分のことで二人が言い争っているのはわかるのだが、まったく口を挟む隙間が見えてこないので、大人しく肉じゃがを突いている。涼虎もホットミルクをずずっとすすって暖かいため息をつきながら、隣に座る鋼の顔を見ている。
「八洲くん、きみがW1B5でもいけると判断した気持ちはわからなくもない」と殊村が言う。
「ほう?」
「どうせあの右フックだろう」殊村は白衣を翻して右を振った。
「確かにあの一撃はモニターしていた僕から見ても強烈だった。ハンドキネシスの射程距離を利用した黒のノーマルブロー……見事だったよ黒鉄くん」
 鋼が顔を上げた。
「うんあれは俺もちょっと頑張ったかなって思」
「でもだからといってW1B5の制空力の低さがカバーされるわけじゃない。それにあのフックには致命的な欠点がある」
「欠点?」
「ああ欠点さ。第一に、相手を射程一杯の位置に誘導しなければならないこと。第二に、戦線を離れている黒を相手の心理から外しておかなければならないこと。そしてなにより、一度見せたら二度と通用しないこと。たった一度きりの技を頼りに危険なカードで勝負するなんて愚策もいいところだ」
 よしお前の言い分はよくわかったとばかりに八洲が身を乗り出した。
「なるほど確かにそうだ。だがそれほど無理ってわけでもない。実際に黒鉄とグローブを合わせた俺が言うんだから間違いないぜ。いいか、コイツには普通のボクシングで鍛えたプレッシャーのかけ方がある。俺はそれで随分後退させられた。それをもっと伸ばしていけば相手との距離を一八〇メートルまで引き剥がすことは可能だし、そもそも黒鉄は自分の黒のことを考えれば本当は黒が当たりやすい位置まで近づきたいはずなんだ。相手だってそう思う。その黒鉄が遠距離で使える必殺ブローを持っているってのは大きいぜ。なあ黒鉄?」
「そうだな俺もあれがそれほど難易度が高」
「だからといって一度見せたら通用しないことには変わりない。相手は人間なんだ。プログラムのパターンにしか添えないロボットとは違う。二度とフックが届くラインには近づかないはずだ」
 八洲の目がキラリと光った。
「だからいいんじゃないか」
「なんだって?」
「しっかりしろよ殊村。相手がフックラインに近づかない? 結構じゃないか。……黒鉄はインファイトに持ち込みたいんだぜ?」
 殊村の喉仏がごくんと上下した。
「くっ……!」
「脳波の影響だか神経の磨耗だかなんだか知らないが黒鉄の黒は至近距離じゃないと当てるのは難しい。それはもう仕方のないことだ。だったら、相手を近づけさせればいい。そうするためのプレッシャーとしてもあのフックは有効なんだ。うかつに下ればまともにあの黒を喰らうとなれば、おいそれとはバックスプレイをかけられない。となれば自然、勝負はインファイトの流れになる――そうだろ黒鉄?」
「そうなんだよ俺もそれが言いた」
「それならべつにW1B5じゃなくてもいいじゃないか。黒はW4B2でも二発ちゃんとあるんだぜ。それでフックを撃つなり見せるなりすればいい。きみがW1B5を支持する理由として右フックだけじゃ薄弱だ。……ちょっと格好悪いところを見られたからって相手を擁護するのはいかがなものかと思うよ?」
 八洲がふふふと笑った。
 目が血走っている。
「言ってくれるじゃねえか。じゃあ言わせてもらうけどな、こっちは実際にリングに上がってパンチを交換してるんだ。現場でしか味わえない臨場感ってものがあるんだよ。なあ黒鉄?」
「枕木、ティッシュ取って」
「はい」
「八洲くん、僕はべつにブラックボクサーには自分の意見を持つ必要がないなんて言っていないよ。それに僕らピースメイカーはセコンド役も兼ねているんだ。客観的にモニターで見て取ったデータも信用してもらいたいものだね。……それで? 臨場感がなんだって?」
 八洲はけものじみた吐息をこぼした。
「W1B5のメリットは他にもあるってことだ」
「というと?」
「まず、あれだけ黒が多いとどこからエレキがぶっ放されるのか判断しにくい。黒鉄の黒は暴れ馬じみて扱いには困るかもしれないが、威力はある。それがブンブン振り回されてるだけでもスプレイにキレがないやつなら脅威だぜ。俺はスプレイ使いのファイアスターターだったから、避けるのも見切るのも簡単だったが、俺以外のボクサー相手ならもっと最初から善戦できていた可能性はある」
「……確かに、黒の数が増えればそれだけ警戒の的を絞るのが難しくなる。それは認めよう。でもだからといって、黒鉄くんが白の弾幕をほとんど突破できていないことを見てみぬフリはできないな」
『リョーコちゃん、この味つけ濃くない? 男の子は喜びそうだけど』
「黙ってろルイ。……殊村よ、やっぱりお前は大局観ってのがないらしいな。見てなかったのか? あのナックルシフトを」
「見てたよ。だから?」
「黒がそれだけ多いということは、ナックルシフトをかけられるポイントがそれだけ多いってことだろうが。白の弾幕? そんなもん飛び越えちまえばいいんだよ」
「ふざけるなよ。敵の白と差し合ってる時に自分のそばに黒なんて置いておいたら戦闘空域の自分の白を守りきれなくなる。今日だって結局三弾まとめて外した後に白を潰されて黒鉄くんは負けたんじゃないか」
「だから今度はエレキなんて撃たなきゃいいんだよ!」
「じゃあ何を撃つのさ!」
「――キスショット」
 殊村は黙った。
 八洲は投資話でも持ちかけるように声を潜めた。
「俺はいままで黒鉄がキスショットで自滅したところを見たことがない。たぶん、アイスが相当硬いんだ。それを利用しない手はないぜ」
「キスショットの応酬は我慢比べになる。危険すぎるよ」
「勝てばいいのさ」
「これだから根性論者は……気合で空が飛べるものか!」
「飛んでるぞ?」
「飛んでるね……」
 どうやら、今日は殊村の分が悪いらしい。
 二人はようやく鋼の方に首を振り向けた。
「終わったぞ黒鉄。お前の言いたかったことはすべて俺が代弁してやった」
「おう。まァ、おおむね合ってたよ」
「おおむね?」
 うん――と鋼は口元をナプキンで拭いながら、悪いんだけどさ、と言った。
「俺はもう、やめにするつもりなんだ」
 ようやく言えた。
 八洲が怪訝そうに眉をひそめる。
「なにを?」
「W1B5」
「はあ!?」
 八洲が鬼のような顔になり、殊村が天に諸手を掲げた。
「ふざけんなよ黒鉄。俺の頑張りはどうなる」
「まァ聞けよ。俺はべつに実戦でもW1B5でやるなんて最初から言ってなかったろ?」
「じゃあ何か?」八洲はどかっと椅子の背もたれに背中を打ちつけた。
「あれはスパーリングの時だけってことかよ。はっ。それなら殊村の言うとおり最初からW4B2でやればよかったんじゃねえか」
「そう言うなよ。確かめたかったんだよ、俺は」
 左手で、グローブホルダーのリングを撫でながら、
「黒と白の使い方を」
「お互いがリミット一杯まで白と黒で埋めれば」
 言ったのは、涼虎だ。視線は手元のカップに下げている。
「ブラックボクシングの大綱、白と黒の使い方がハッキリと浮き彫りになる。それはきっと、W4B2やW3B3でお互いにやりあうよりも――そう考えたんですか?」
 鋼は頷いた。
「だから、剣崎くんにもW5B1でやるように希望した?」
「そうだ」
「言ってくれればよかったのに」
「ハッキリと言葉にできなかった。今、お前が喋ってくれて、ようやくまともな形になったって感じなんだ」
 笑って、
「なんかさ、俺って昔からこうでさ。よくうちのジムの会長にも怒られた。お前は人の話を聞いてないのかって――」
 懐かしそうに目を細める鋼。
「悪かったな。でも、もうあんな極振りは終わりにするよ。次からはW3B3でやる。色々考えたけど、3-3が俺のベストカードだと思う。……それでやらせてくれるか?」
 鋼が、ほんの少しだけ心許なさげな声で聞いた。
 涼虎は、カップの中に立てかけられた小さなスプーンをかちりと縁に当てて、答えた。
「あなたが、それを望むなら」




 八洲と殊村はしかめた顔を見合わせた。
 どうやら、二人だけの世界に入っていたのは、自分たちだけではなかったらしい。
「アホくさ」
「涼虎ちゃん、小岩井さんにレシピ聞いたにしてはこの肉じゃがは凡庸だね」
「ちょっと待ってください殊村くん、どのスジからそれを……」
「あーあ。いこうよ八洲くん。腹ごなしにキャッチボールしよう」
「いいけど俺の顔に当てるなよ」
「だっ、誰がノーコンだよ!!」
「お前だよ」
 ぶつくさ文句を言いながら八洲と殊村は食堂から出て行ってしまった。自然、鋼と涼虎は取り残された形になる。ラジオを電波ジャックしているルイもいるといえばいるのだが、いらない気を回しているのか満腹になっておさらばしたのか、黙っていた。
 張りかけた沈黙を鋼が破った。
「美味かったぞ」
 からり、とフォークを左手から重箱の中に落とした。
「……ありがとう、ございます」
 涼虎は、なぜか身をすくませている。
 さて、と立ち上がろうとした鋼の袖が引かれた。
「うん?」
「すみません、実はまだ話があるんです」
「話……?」
 鋼は座り直した。
「なんだよ。いい話? 悪い話?」
「わかりません」
「わからない?」
 涼虎は、逸らし気味だった視線を捨てて、鋼の目をまっすぐに見た。
「試合の日程が決まりました」
 鋼は、笑った。
「……へえ」
「十日後、七月十四日の午後五時三十分に、あなたにはブラックボクシングのリングに上がってもらいます」
「ずいぶん急だな。本当のボクシングでそんな急ぎの試合組んだら苦情が出るぜ」
「あなたのボクシングのように充分な調整はできないと思ってもらって結構です。実験は一月に一度から二度の頻度でありますから」
「はっはァ、戦前みたいだな。いいね、グッと来る。ハードスケジュール大いに結構! どんどん組んじゃってくれよ、どーんどん」
「そう言ってもらえると助かります」
 少し言葉を切って、涼虎はいった。
「では、また、明日」
「ああ、また、明日」
 涼虎が去ってしばらく経って、ごちそうさま、と改めて膳に片手拝みすると鋼は立ち上がって重箱を洗い場に戻し、自分の部屋に戻った。部屋に入ると、電気が自動的に点灯する。
 そのまま上着だけ剥いでハンガーにかけると、沈み込むようにベッドに腰を下ろした。
 手相でも確かめるように、鋼はじっと自分の左手を見る。
『……クロガネくん、へんな脳波が出てる。これって、苦しいの? それとも悲しいの?」
『さあな』
『試合が決まって、嬉しい?』
『嬉しいさ』
 拳を握る。
『ずっと待ってたんだ。あの頃に戻るのを。この右を失くした時からずっと。ああ、そうとも。俺はやり直すんだ。あの頃と同じに――……』
 空っぽの袖を潰れるほどに握り締める。
『夢のような想いの中でだけ、かろうじて、生きてるって感じるんだ。……わかるか? 俺の言ってること』
 ルイは、少し寂しそうに答えた。
『わかんない。……あたしがイルカだからかな? 人間だったら、クロガネくんの気持ちが、分かるのかな』
『どうかな』
 笑って、鋼は天井を仰いだ。
 その向こうにリングの影を見て。
『待ち遠しいよ、戻ってくるあの頃が。……ボクサーだったあの頃が』
 軽く握った左の拳が虚空にジャブを突き通す。
 その軌跡は、あの頃のまま。
 すべての答えは、もうすぐ出る。

     



 独りぼっちには慣れていた。


 どこにでもあるような、ありふれた食堂で、白衣の群れが一塊になって何かを熱心に語り合っていた。彼らの手の中には印刷したてのプリントアウトの束が握られ、そこに印刷されたモノクロのデータと写真を指差し点検で自分の意見の材料にしている。誰もが最終的には自分の意見が正しいことを信じて疑わず、それを他人に押しつけようと躍起になっている。
 自分の研究所の職員が、そして世界で一握りの選りに選られたピースメイカーたちが、そんな醜態を晒していることがDUEL4thのトップである氷坂美雷にはとても悲しいことだった。
 具体的にその悲しみは、白衣の一団から遠く離れたテーブルに夕餉を置くことで表現された。肩身を狭めて夕食をつつくその姿は、とてもこの地下二千五百メートルの地の底を牛耳り支配するマッドサイエンティストの幹部には思えない。
 誘いがなかったと言えば嘘になる。
 ラボメンバーたちはトップである美雷を軽んじたり、侮辱したりはしなかった。しかしそれでも差し出された手を取る気にならなかったのは、彼らの顔に、あの悪臭極まる「自分はおまえのことを理解できる」という思いあがった自惚れがべったりと貼りついていたから。そして、あわよくば顔だけは怖いほど整っている美雷と「そういう関係」になれればいいという薄ら寒い欲望が獣じみた両目に宿っていたから。美雷はため息をつく。
 男は、苦手だった。
 なのに、美雷のラボにはほとんど男しかいない。それも超一流の名門医大から巨額の賃金と人跡未踏の研究という餌で釣られたエリートしか。そういう人間は自分にできないことはないし、同じ人間の、それも自分より学歴も地位も能力も下位の人間のことなら必ず理解してみせるし、何より自分にはその才能があると思いこんでいるやつしかいなかった。少なくとも美雷にはそう見えたし、ちょっとご飯に付き合っただけで彼氏面をし始める男にそのそしりを跳ね除ける資格があるとは思えない。
 美雷は、うらなりが嫌いだ。
 細くて、弱くて、触れると冷たい男になんて興味はなかった。が、何度それを伝えてもあの白衣の群れは「誤解」を解こうとしてくる。そうするのが「正しい」のだといわんばかりに。美雷にとっては、たとえ誤解であっても、それが自分の意見であって変更不能のクオリアであり、それを否定されることは自分を否定されるに等しかった。それが正しいのだとしても、その結果として相手を理解することに繋がるとしても、嫌だった。どうしても、嫌なのだった。
 それを何度言ってもわかってくれない人たちが、食堂の中央で決して擦り寄ることのない意見を闘わせている。議題は聞かなくても分かる。さっきのスパーリングのことだろう。彼らが盛り上がるのもわかる。
 天城燎。
 所長直々のスカウトでこの世界へ進撃してきた彼の通算成績は、恐らくブラックボクサーが何もない虚空にグローブをかけて闘い始めて以来のフルマークだった。
 最初の星(ミット)打ちでは白黒/左右問わずに一発ですべての星を撃墜した。続くノッカープラスによる2on2のスパーリングでも十二秒で相手の氷殻をクラッシュアウト。相手のボクサーはその場で失神、現在も意識不明。ノッカーの初期投与による副作用は、美雷が最初に与えたあの『目覚めの一発』以来まったく見られず。それは調整用のテストアイスを投与してのスパーリングに移行してからも変わらなかった。その成績も。
 スパーリングとはいえ、八戦して八勝。
 そしてつい数時間前に行われたばかりの一戦で、とうとう再起不能者が出た。名前は鏑木信弥。ブラックボクシング暦は二年で、数ヶ月前にセブンスの剣崎八洲に負傷させられなければ最優秀の栄光を勝ち取っていたはずだと言われていた才能のあるブラックボクサーだった。
 それが、同じアイスピース、同じ手札(カード)でやりあって見事に燎に負けた。
 3ラウンド四十八秒TKO負け。
 1ラウンドで終わらせなかったのは、美雷との例の『インターバル』を楽しむため、なのだろう。多分。
 燎のパイロはすでに半ば戦意喪失していた鏑木のアイスを突き破り、その中にいた鏑木を生焼けにした。ブレインによる緊急転送の甲斐もなく、鏑木は重傷を負い、そしてもう二度と戻ってくることはないだろう。先刻、美雷自身の手で、彼のブラックボクサーとしての登録は抹消された。闘えないボクサーに貴重な地下の空気を分け与えておくわけにはいかない。
 熱に浮かされた白衣の群れの、昆虫の羽音じみた喧騒を聞きながら、美雷は手元のコーヒーカップを見下ろした。真っ黒な液体に、小さな栗色の粒々が浮いている。
「――また食べこぼしてる」
 美雷は顔を上げた。
「……銀子」
 フォースで美雷を除けばひとりしかいない女性のピースメイカー、空木銀子は野次を飛ばしてくる白衣の群れに(ボスを襲うなよ、肉食獣!)舌を突き出して抵抗すると美雷の前の席に座った。
「それ。汚いって」
 銀子が指差したのは、銀色の皿に乗ったクッキー。勝ちが積もった勝負師の卓のように山になったそれそのものが汚いのではなく、銀子は美雷の癖のことを言っている。
 美雷は、食べこぼしが烈しい。
 ご飯を箸で食べれば半分は膝に落としてしまうため白米をスプーンで食べているほどで、それは愛嬌を通り越して病魔を連想させる。ましてやクッキーなどという強く摘むだけで砕ける菓子を食べるとなればゴミ箱の上でかじるしかないほど。だがもちろん、そんなみじめなことをするわけにもいかず、美雷は最近、なみなみと注いだコーヒーの上でクッキーをリスのように食べている。そうすればクズが落ちても後で飲めばいいから。
 美雷には、どうしてそれがいけないことなのかがわからない。
「……銀子には迷惑はかけてない」
「そりゃあね。そうでしょうとも。あんたはあんたの勝手にしかできないもんね。だからあたしも勝手に思ったことを口走ってるだけ。悪い?」
 美雷は首を振る。
 たったひとりの友達と言ってもいいこの女(ひと)の、こういうサッパリとしたところが美雷は嫌いではない。
「ったく。男連中と来たら、燎くんがどこまで強いか、十年も前のブラックボクサーまで引き合いに出して語っちゃってまあ。男って好きよね、『サイキョー』ってやつ」
 チラリ、と美雷が銀子を上目遣いに見る。
「銀子は、好きじゃない?」
「最強? べつに。だってあたしたちの仕事って、誰でも超能力者になれるクスリを開発することで、ブラックボクシングはそのオマケでしょ? 目的と手段を取り違えるほどガキじゃないわよ」
 言って、銀子は下ろした髪をばさりと五本の指で梳った。
「それより聞いたわよ。あんた、またデートの約束すっぽかしたんだって? 御崎くん、怒ってたわよ」
「約束した覚えなんかない」
「あんた忘れてんのよ毎回毎回。だってあたし、生であんたが約束するの聞いたもん」
「嘘」
「ほんと。ま、天才サマは自分のタイヘンな研究のことでアタマがいつでもイッパイイッパイなんでしょうけど? ……でも、たまには遊んであげたら? セントラルってそのためにあるんだし。あんただって、男の一人くらい作らないともったいないわよ。可愛いのに」
 美雷は、髪が逆立つほど首を振った。
「…………!!」
「頑固なことで。……ところで、燎くんは?」
「知らない。もう部屋にいったと思う」
「そ。あんた、明日のこと彼にちゃんと伝えた?」
 美雷は口を丸く開けた。
「あ」
「ったく。あとで言っときなさいよ? なんならあたしが言おうか」
「いい。燎の部屋のパスは私にしか開けられない」
 銀子が口をアヒルのように尖らせる。
「はいはいわかってますよーだ。……でもさ、今日はホントに凄かったね。あんなに速く、綺麗に、あの世界で動ける人がいるなんて……さすがのあたしも見惚れちゃった」
 美雷は、真っ黒な水面に浮かぶ茶色いキューブを眺めている。銀子は重ねた手の上に顎を乗せて、夢見るように喋り続ける。
「左の使い方が天才的よね。すべてのパイロに意味があるっていうか、相手を追い込むのに何か、彼にしか見えない仕組みに従って動いてるっていうか……」
「……」
「彼なら、絶対にいいところまでいくと思う。ひょっとしたらブラックボクシングなんてしないでも、どんなアイスピースにも適合できる特異体質の彼さえいれば、私たちの研究はパラダイムシフトを起こせるレベルに達するかもしれない」
「そうかもね」
「なに、その連れない感じ。本当はまんざらでもないくせに」
 コーヒーカップの取っ手を掴む指が、軋む。顔を伏せた美雷の髪に銀子の無邪気な声がぶつかる。
「ね、あんたたち付き合っちゃいなさいよ、もう」


 銀子は、
 銀子は、美雷が絶対に首を縦には振らないことを知っている。
 知っているのに、聞いてきている。
 つまりそれは、そういうこと。


 ――たったひとりの親友が、つまらない牽制を振ってくるようになってしまったことが、美雷には、とても悲しい。



 ○

 銀子を置き去りにして、食堂を出た。夜間に絞られた照明の中を、暖かなオレンジ色に満たされた小さなトンネルの中を、美雷はポケットに両手を突っ込んで少し下を見ながら、歩いていく。背中に伝わる部下たちの喧騒がすり抜けていく風のようにどこかへいってしまうと、ようやく人心地ついた。肩から荷物が下ろされたような気分。一人になってかえって落ち着くなんて我ながら根が暗いと落ち込む。だが、仕方ない。こういう性分なのだ。
 もう一日の仕事は終わらせた。あとは部屋に帰って寝るだけだ。それなのになぜか爪先が自分の部屋から逸れてラボの中を彷徨った。曲がり角を折れて、自販機の前に出る。顔を伏せていたから、誰かがいることにギリギリまで気づかなかった。
「よう」
 自販機の強すぎる白(ひかり)の中で、天城燎がベンチに腰かけて笑っていた。缶コーヒーを割れ物のように指先でそっと掴んでいる。ゆらゆらと揺れるそれに美雷の目が止まった。
「……起きてたんだ」
「眠れなくてね」缶コーヒーを一口あおり、聞く。
「どうしてって聞かないのか?」
「え?」
「ここはピースメイカー専用のフロアだろ。ボクサー禁制なのにって驚いてもらわなくっちゃ張り合いがないな」
 言って、燎は百年来の親友のような笑顔を浮かべた。
「……どうせ、銀子からパスカードの複製でももらったんでしょ」
「ふふふ、いや? 俺のファンは女だけじゃないんだぜ」
 恐ろしいことをさらりと言って、燎はベンチの空いたスペースをポンポンと叩いた。
「こっち来いよ。何か飲むか?」
「いらない」
「そう言うなって」
 燎は、飛行気乗り風のジャケットの上着から、もう一本、缶コーヒーを取り出して美雷に放った。ぱしりと美雷の手がそれを受け取り、ひっくり返す。
 BLACK。
「どうして、私が来るってわかったの?」
「足音」
 わかってしまえば、当たり前の話だ。
 いくつかの刹那を躊躇いで重ねた後、美雷は諦めて燎の隣に座った。どうせ無視して歩いていっても付きまとわれる。最悪、自室まで来るかもしれない。そんなのはゴメンだった。
 白い光の中で、壁に映る自分たちの間延びした影を見ながら、二人は缶コーヒーを飲んだ。
「苦いな」
 燎はあらためて自分の缶を見て舌を出した。
「おまえ、よくこんなの飲めるな。俺はもう買わない」
「……嫌なら飲まなければいいのに」
「お前がいつも飲んでるから気になったんだよ」
 美雷は、顔をしかめた。
「べつにいい。そういうの」
「ははっ、ま、いいじゃねえか。愛されてるうちが華さ。……で、どうだった?」
「何が?」
「今日の俺の相手」
 美雷はぼそっと答えた。
「再起不能」
「うっし」
 燎は軽く拳を引いた。最軽量のガッツポーズ。
「やっと一人殺せたか。あんまり仕留め切れないんでイライラしてきてたところなんだ」
「狙ってたの?」
「当たり前だろ。でなくっちゃ面白くない。勝負は生きるか死ぬかでなくっちゃな」
 美雷は、手元の缶コーヒーの表面を指で拭った。
「あの、ああいうのは、できればやめて欲しい。スパーリングパートナーがいなくなるから」
「いなくていいさ。俺が一番強いんだから。だろ?」
「そうだと、いいけど」
「絶対そうさ」
 燎はベンチに両手を突いた。
「誰が相手でも俺は負けない。そうだろ。俺は結果を出してる。お前らピースメイカーが喉から手が出るほど欲しがる特異体質でもある。それとも不満か? あと何人殺せば、お前は俺を認めてくれる?」
「私は、……あなたを認めてる」
「いいや認めてないね」
 その笑顔に輝く両目は曇っている。
「お前は俺をガキだと思ってる」
「まあ……歳は一つ下だし」
「そういうことを言ってるんじゃねーよ」
 まったく、と燎は諦めたように首を振った。
「お前みたいなやつは初めてだ。俺になびかない女なんていないと思ってた」
 美雷は割りと本気で引いた。
「うわあ……すごい自信」
「だってそうだろ? 俺に欠点があるなら言ってみな。拳の槍をかわし炎の雨を潜って相手を仕留めてみせるこの俺の、いったいどこに不満がある? 顔だって控えめにいっても美少年だろ?」
「…………」
 いいさ、と燎は飲み終えた缶コーヒーを振り返ってトラッシュボックスに放り捨てた。ガコココォン、と小気味のいい音を立てて缶はボックスの中へ消えた。
「これでいいのさ。なんといっても俺は、俺にになにがなんでもなびかない、そんなお前だからこそ欲しくなっちまったんだからな」
「……悪いけど、その気持ちには、その、答えられないと思う」
「だからいいって」
 照れたように笑う燎は、まるで普通の少年のように見える。
 とても、人殺しには見えない。
 美雷は、手の中の缶コーヒーの処理について考えているうちに、銀子に釘を刺されていたことを思い出した。
「そうだ、忘れてた」
「ん? どした」
「いや、大したことじゃないんだけど――」
 二、三の事務連絡を伝えると燎はふむふむとうなずいた。
「わかった」
「あと、これ」
 美雷が差し出したものは、銀紙に包まれた四角い欠片。燎はそれを受け取ると銀紙を剥いた。うっすらと霜を張った氷殻の中に、赤黒い液体が揺れている。
「アイスピース……?」
「お守り」
「こんなの、いつ使うんだよ」
「それは、使いたいと思った時かな。本当に、お守りだと思えばいいから。君ならテストしないでも副作用残らないだろうし」
 それじゃ、と美雷は必殺のタイミングで立ち上がり、さっさとその場を後にしようとした。残してしまった缶コーヒーなど自分の部屋でも捨てられる。
「なあ、俺も忘れちゃいそうだから、今日のうちに一個聞いておいてもいいか」
 聞こえなかったフリをしようかと、少しだけ迷ったが、結局美雷は足を止め、返事を待つ燎を振り返った。
「……何?」
「いや、俺はいいんだよ」と燎は言った。
「俺は昔から自分がちょっと普通じゃないのは知ってる。特別な才能があるっていうのも。だから結局、こういう危ない橋を渡って生きていく運命にあったと思う」
 でも、と燎は言った。
「お前は? お前はなんでピースメイカーなんて裏世界の道に入ろうと思ったんだ? お前くらいの才能があればさ、心が壊れてるわけじゃなし、もっとまともな道もあったんじゃないか?」
 美雷には、燎が何を言っているのかよく分からない。
 だが、なんとか噛み砕いて考えれば、どうしてピースメイカーになったのかと聞かれている気がする。そんなことは美雷が知りたかった。そのために誕生したから、というならそうだろう。だが、なんのために、ただ毎日を重ねる以上の情熱を持って、アイスピースを、人間を進化させるクスリを作っているのかと言われれば、どうして何もかも投げ捨てて死なないかと言われれば――
 桜色の子供っぽい唇が、言葉を紡ぐ。
「いまを、いまじゃなくなるようにするため」
「……は?」
 どうせ伝わらないのは、わかっていた。
 いい、べつにいい。
 わかってもらえなくてもいい。
 自分にだって本当にわかっているのかどうか、わからないのだから。
 震えそうになる足をなんとか誤魔化して、美雷は歩き出しかけた。そして最後に、ささやかな意趣返しに出た。
「本当は、言っちゃいけないんだけど、教えてあげる」
「……何?」
「次の対戦相手」
 空気がピシリと固まった。
「誰?」
「君の知ってる人」
「だから、誰だよ。俺に殺されるやつの名前は?」
 美雷は、死人に呼びかけるように、少しだけ振り向いた。
「黒鉄鋼――元日本スーパーフェザー級チャンピオン」
 その戦績を、美雷はすべて諳んじられる。
 デビュー戦から日本タイトル奪取に至るまでの栄光の階、そのすべてを。
 かつて黄金の右と呼ばれ、10戦10勝10KOの勝ち星を積み上げた男は、美雷がボクシングを見るきっかけになったボクサーだった。
 そして、彼は、一人の少年によって未来を奪われた。
 彼は、と美雷は言った。

「――彼は、君が右腕を殺した相手だよ」

 覚えてないかもしれないけど――その呟きが、果たして燎に届いたかどうか。
 効果は、少しはあったらしい。
 自分にまとわりついていた熱っぽい気配がほぐれて、その触手を宿主の元へと戻した。美雷は今度こそ廊下を進んで、燎の前から姿を消した。そして、ひとつ目の曲がり角を折れるとすぐに、お守りを渡したことも、燎と喋っていたことも、何もかも、忘れてしまった。後にはただ、霞がかった眠たい意識と、たったひとりの名前だけが残留していた。
 黒鉄鋼。
 テレビの画面を通して、氷坂美雷が初めて、いいなと思えた相手。
 この男(ひと)になら、自分の言葉が届くんじゃないかと思えた相手。
 もうすぐ会える。
 もうすぐ――……

 会えたら、きっと、一年前に伝えたかった言葉を贈ろう。
 そう決めていた。

     



 電話が鳴っている。自分のだ。



 ベッドの上でミイラのようにタオルケットを身体に巻きつけながら、黒鉄鋼はやっとの思いで電話に出た。
「……モシモシ?」
 おはようございます、と電話の声が言った。涼虎だった。
「ああ……おはよう」
『寝てました?』
「そうかもしれない」
『昨日の話は覚えてますか』
 昨日の話?
 鋼はぼんやりと中空を見上げる。そもそも昨日なにを食べたかも覚えていないのに人の話まで聞いて覚えているわけがない。なのでそれを正直に伝えるとぞっとするようなため息が返ってきた。
『今日は懇親会があると、お話したはずですが』
「こんしんかい?」
『下半期の実験が始まるに当たって、各々のラボのブラックボクサーとピースメイカー、それからあなたが以前言い当てましたが、この実験に出資して下さっている投資者の方々とパーティがあるんです』
「へえ、そりゃいいね。で、いつから?」
『いまから』
「早くね?」
『だから、昨日お話したんです、少し早くから出ますからちゃんと準備しておいて下さいって。……言いましたよね?』
「そうだったかな」
 涼虎の声音に霜が張った。
『……命令です。今すぐ戦闘服に着替えて転送座(シューター)まで来てください。今すぐです。会場へはルイに送ってもらいますから』
「わかったよ。……で、戦闘服? 正装でいかなくていいのか」
『パトロンの中には、ブラックボクサーを一種のヒロイズムで捉えている方もいらっしゃいますから。ボスには媚を売っておくものだと殊村くんが言っていました』
「あいつの言うことは話半分に聞いとけって。……で、おまえは?」
『は?』
「おまえはどうするんだ。ドレスとか着るのか?」
『……それが何か問題でも?』
「いや? べつに。ただ慣れないロングでも穿いて裾でも踏んづけないかと思ってさァ。あっはっはっはっ……あ」
 切れた。
 無情な不通音を残している受話器を見下ろして、鋼は眉根を寄せ、会いたくもない知り合いに出くわしたような顔を作った。
「俺は馬鹿か」
 どうやらそうらしい。

(カット)
 ため息をひとつ。
 寝巻きを剥いでシャワーを浴び、すっかり慣れた手つきで戦闘服を着る。ドブネズミ色のズボンと黒いアンダーウェアを着て、その上から飛行機乗り風のジャケットを羽織り、編み上げブーツのストラップを縛れば一丁上がりだ。鋼は鏡を見ないから、容貌(かたち)の出来栄えは分かりはしないが誰もなんとも言ってこないということはこれで問題ないのだろう。中から鍵を挿して引き戸を開けて誰もいない廊下に出る。誰もいない道をいく。少し寂しいけれどそうそう悪いものでもない、ぼんやりと、ボクシングのことでも考えながら一人で歩いていくことは。
(/カット)

 今でも覚えている。
 初めてダウンしたのは、デビュー戦の時だった。1R1分42秒。大振りで回した左フックが空を切って下からショートアッパーを突き上げられた。
 らしい。
 気がついた時にはキャンバスに大の字になっていて、ホールの照明を見上げていた。レフェリーがしゃがみこんですぐそばで指を揃えてカウントしていた。跳ね起きたのは本能に近かった。レフェリーと目が合った。
 ――現役時代、黒鉄鋼は決してダウンの少ない選手ではなかったし、目の上もよく切って出血した。だが、その戦績の中で負傷によるレフェリーストップは一度もなされていない。不思議なものでレフェリーが試合を止めたがる選手というものがいて、べつに八百長というわけではないのだろうが、その逆もなぜかいた。
 鋼はその手のボクサーだった。
 どうもレフェリーはパンチをもらった時のボクサーがその瞬間にどういう目をしているかで試合の続行と中止を見極めているようなのだった。試合を止められにくい選手はみな、どこか狂気と熱意を眼球から吸い上げて唯一無二の輝きに変換しているような、そんな瞳をしていた。
 なので鋼は心置きなく、玄人からは口を揃えて「もらいすぎ」と言われるボクシングを我武者羅にやりまくって、わずか十戦でグローブを壁にかけたボクサーにしては多すぎるほどのダウンの経験を得たのだった。ダウンにはいろんなダウンがある。鈍い音を立てて腹部に突き刺さったボディブローによってずるずると崩れ落ちていくダウン。あれは痛い。テンプルにフックを回されて意識ごと旋転する錐揉みダウン。言語障害が残るのはこの手のダウンだ。尖った顎を撃ち抜かれたダウンはデビュー戦の鋼のように一瞬意識が飛ぶ。戻ってこれるかどうかが永遠に消えない白星と黒星の交差を決める。
 では、このダウンはどんなダウンだろう。
「――黒鉄さん?」
 鋼は立っている。そういう意味ではスタンディングダウンとも言える。レフェリーがいないのでカウントは始まっていないが、誰かが顔の前で手を振ってもそよ風ほどにも感じなかったろう。約束の時刻を過ぎ去った時計を見た瞬間で止まったような、そんな顔をしていた。
「――あの」
 一方ルイは鋼の目を盗んで同調し、転送室の四方に備え付けられた監視カメラからではなく、実際に目の前の状況を冷静に分析していた。ああ、これはまずい。すぐにそう思った。なにせ赤いのだ。赤は駄目だ。赤は効く。特に涼虎のようなタイプだと――赤は――
「なにか、おかしいですか」
 そう言って、涼虎は身にまとった赤いドレスのスカートの裾をひょいと軽くつまんだ。追い撃ちである。鋼の足元がぐらついた。
「いや――」
「似合っていませんか?」
 似合っていないわけがなかった。
 普段は鉄の白衣で押し通しているこの飾り気のない少女が、まさにおめかしと呼ぶべき装いで鋼の前にいる。真紅のパーティドレスは細身のカラダにあつらえたようにフィットしたワンピースタイプ。多段になった裾は一段下がるごとに薄くなっていき最後には半透明な素材へと切り替わっている。両手を包む手袋もドレスに合わせた赤色。赤はいい、だがそれ以上に涼虎自身の肌がよかった。毒々しいまでのワインレッドをさらりと拒む絹肌は穢れを知らない潔白で、そのコントラストはどう考えても誰かが計算していたとしか思えない。その首筋に添って流れる緑がかった黒髪に触れられるなら腕のもう一本や二本は惜しくないように思えた。半ば冗談、しかし半ば本気で。
 綺麗だった。
「黒鉄さん?」
 いつもよりも赤い頬、そして唇に塗られた朱色が鋼に女が化粧をする意味を無理やり押し込むようにわからせる。
『だめだめ』
 ルイがこぽこぽと振動波で喋った。
『完全にダウンしてるよクロガネ選手。しゅーりょー。試合しゅーりょーでーす。TKO・1R負けー』
「はい?」
『敗因は女性経験の少なさですかね』
「うるさい」
 鋼はアタマを振って回復した。ちらっと涼虎を見て、
「い――いつも白いのが赤いのになってたからビックリしただけだ」
 その素っ気無い言い方にむっと涼虎がわずかに膨れる。
「白いのってなんですか。気に入らなかったんですか」
「気に入らなかったね」そんなことはなかった。
「じゃあ今度から黒いのを着ます」
「いやっ……黒……黒か……黒なあ……」
『なんか悪者っぽくない?』
「そうですか? ……もともと、これは殊村くんが貸してくれたドレスなんです」
 涼虎がまたスカートの裾をつまんで鋼にダメージを与える。
「私は、派手すぎると思ったんですけど……やっぱり、着替えてきましょうか」
 雷に打たれたのかと思った。思わず何も言えなくなった。
「確かべつのがあったはずです。そうだ、黒もありましたから、そっちにしましょう。黒鉄さんは赤いのと一緒にいるのは嫌なようですし」
「ちょっ、ちょっと待っ」
 言って、歩き出しかけた涼虎の手を思わず鋼の左手ががしっと掴んだ。
 そして目が合うと、それまでどちらと言わずに誤魔化しておいたくだんの一件が共鳴的に揺り返されて二人はぱっと視線を逸らした。
「――――」
「――――」
「……時間だろ? もう」
 固い声が出た。
 涼虎もそうだった。
「そう、ですね」
 お互いに視線を繋げられないまま、示し合わせたわけでもなく、涼虎がすとんと転送座にお人形さんのように座った。
「さ――先にいってますから。すぐに来てください」
 言って、カメラのフラッシュのような閃光が走ったかと思うと、もう次の瞬間には転送座は空になっていた。鋼はぬくもりも残っていない鋼鉄の座に着くと、頭上でこぽこぽ言っている培養脳を見上げた。
「――写真とか撮ってない?」
『ばーか』
 セントラルへの転送は、いつものそれより少しだけ荒っぽく思えた。

(カット)
 もっとも、娯楽施設であるセントラルまで鋼と脳波同調する射程距離を持たないルイにとっては、結局お留守番の形になるわけで、元々ふてくされ気味なことも無理はなかった。
(/カット)



 ○


 やめときなって、二人とも怒るよ。
 そう言ったのは殊村真琴だった。転送室へと続く通路を先をいく剣崎八洲の太鼓持ちのように付いていく。八洲は振り返りもしなかった。
「うるせーな、俺だってボクサーなんだぜ。セントラルで休暇を楽しむ自由くらいあるんだ。そもそもそのために作られたところだろうが?」
「それはまァ、そうだけどさァ」
「何か問題でもあるのかよ」
「だから、いくならいくで最初から一緒にいけばよかったじゃないか。こんな覗きみたいな真似したら怒られるって。僕はもうあの液体窒素みたいな目で見つめられるのは嫌だよ。まだ黒鉄くんに八つ当たりでどつかれる方がマシだ」
「おまえ結構タフだよな。……でもよ」と八洲はちらり、と振り返った。もう転送室は目の前だった。中には八洲のブレイン・スイと転送座が控えているはずだ。
「お前だって、あの二人が実際どうなのか知りたいだろ?」
 重油のような沈黙の後に殊村は答えた。
「知りたい」
「なら決定な」八洲は笑顔を見せた。殊村は肩をすくめて、
「揉め事は起こさないでよ? いまの君は正式には控えのボクサーであって来期の実験には参加しないんだから。見咎められて難癖つけられたらちょっと言い訳利かないよ。向こうは結局、お金でルールを買えるところなんだから。危ないよ? 君が思ってるよりもあの連中って」
「わかってるって。心配するな」
 八洲は言った。
「俺は超能力者だぜ?」
 嬉々としてお節介を焼きにいく友人の後ろ姿に殊村は静かな吐息を贈った。振り返りながらぶつぶつとアタマの中で考える。さて、自分が担当するボクサーがいなくなったとわかれば八洲のピースメイカーを務めるあの少女の機嫌はどうなるだろうか。
 八つ当たりは免れまい。殊村は覚悟を決めた。
 損な役回りであることは、前々から分かっていたつもりだった。



 ○


 要するに従軍慰安婦みたいなものか、と言ったら怒られた。でも結局そういうことだろう、と鋼は思う。
 セントラル・ヘヴン。
 そこは一番から七番までのラボが接触できる唯一の緩衝地帯。あらゆる行動には監視がつくが、その代わりに許された範囲でいくらでも羽目を外していいところ。飲み食いは自由で希望があれば男女問わず床の相手も呼べるらしい。そんなもの呼んだら二度と口を利いてくれなくなりそうな知り合いがすぐそばにいるので鋼は興味がないフリをしていたが、しかし内心では納得していた。その下衆っぽさに。生命を張って新薬を治験する半ばギャンブルに参加してくれている以上は持て成すのが当たり前――そこで「惜しい」と思わせなければボクサーの心はリングから離れていく。誰も彼もが戦闘狂いなわけもなく、結局は土臭い欲望からしか闘争本能は生まれない。黄金は糞にも似て、蝿が止まった行き過ぎたでその価値は絶えず止まらず変動する。
 虫唾が走った。
 だから鋼は、実際にセントラルに敷き詰められた絨毯を踏んで、眩いシャンデリアに顔を打たれて、右手に親しみ左手にグラスを携えた紳士淑女の面々にお愛想を振りまいていくことが即効で嫌になってしまった。完全にふてくされたガキの態度のそれで涼虎の斜め後ろをくっついてダンスホールの中をジグザグに俯きながら進んだ。
 気に入らなかった。
 見たこともない顔で笑う涼虎も気に入らなかったし、当たり前のようにジロジロと鋼の空っぽの袖に鬱陶しい視線を絡めてくる金持ちにもウンザリした。こいつらの神経は「金さえ払えばいいだろう」の単細胞でできていてそこから1ミクロンだって進んじゃいないのだ。そして何よりも気に入らないのは、こいつらから受け取った金なんぞ目の前でズタズタに引き裂いてやると思いはしても、結局は彼らなしでは元の木阿弥になるしかない無様な今の自分だった。
 もうすぐリングに上がれる。
 その確約がなければ、耐えられなかった。
 ここまで気分を害するものかと思う。下らない、おべんちゃらと上っ面の気遣いだけがぬるぬるとして流れていく場所で静かに白痴じみた微笑だけを浮かべていればいい、そこまでわかっていながら鋼にはそれができない。今すぐ左拳を自分は今日、決して死なないのだと思い込んでいる連中の鼻っ柱に埋め込んでやりたい。間違いなくベアナックル――素手でそんなマネをすれば相手は死ぬだろうが。よくて鼻骨骨折。
 俺は違うぞ、と思う。俺はお前らがぶら下げた餌なんかに食いついたりはしない。そんなものは偽物だ。仮の契約であって仮の欲望だ。俺はそんなものはいらない――だが俺はいま、こいつらの懐から流れた金で一丁前みたいな顔をして服を着ている。畜生、いっそいますぐここで全裸になってやろうか。何かが変わる気がする。
 そこまで考えてとうとう殴るか脱ぐかの瀬戸際まで追い込まれた時、それまで周りを取り囲んでいた人垣がさあっと分かれて、昆虫じみた喧騒が少しだけ止んだ。涼虎に呼ばれた気がして鋼はうっすら顔を上げた。
 目の前に、白いドレスに身を包んだ少女が立っていた。
 どこかで見た顔だった。


 肩まで伸ばした色素の薄い髪は天然の茶色で、稀少動物のような毛並みをしていた。すっと通った鼻筋は大人びているが、その両目は小動物のようにくりくりしていて悪戯っぽい。高慢さと恭しさを兼ね備えた愛嬌はそこらの乞食の安っぽい生命よりもよほど重そうだった。
「あんた……! あんたは、ええと」
「知らないはずよ」
 白いドレスの少女は笑った。
「名乗ってないもの」
 その微笑で鋼はすべてを思い出した。呆然とする。
 隣にいる涼虎が訝しげに呟く。
「……知り合いですか?」
「いや、いつも俺の試合を見に来てくれてた子なんだよ、デビューしたての四回戦の頃から。凄いな、いいとこのお嬢様だったのか」
「そうみたいね、でも驚いた。まさかあなたがいるなんて」
「いや俺も……」
 鋼はしげしげと少女の全身を眺めた。
「驚いたよ。……枕木、この人なんて言うんだ?」
「……新藤悠里。出資者の一人のご令嬢です」
「そして、枕木涼虎博士の数少ない幼馴染」
 悠里は笑った。
「どこまで喋っていいのかな?」
「何も、話す必要はありません」
 涼虎は珍しく、敵意混じりの声音で言った。
「……そ? でも私は勝手に名乗るけどね。よろしく、黒鉄鋼くん」
 ためらわずに左手を差し出す。鋼はそれに応えた。握手越しにチカリと目が合う。
「遠慮しなくていいよ。大金持ちの娘って言ったって、実の娘じゃないもの」
「……そうなのか?」
「うん。私は孤児でね、今のパパにもらわれたんだ。……いきなり重い話でごめんね? でも気にしなくていいし、もっと黒鉄くんと仲良くなりたいからとっととバラしたの。巻き添え喰った人には悪いと思うけどね」
 巻き添え。
 それの意味するところを、鋼は涼虎の顔を見ることで確かめる勇気はなかった。
 いつの間にか、吐き気は消えていた。
「…………」
「気にすることなんてないのにね、孤児なんて、今時。そんなこと気にするほど余裕のある人間、もうこの国にはいないもの。そう思わない? 黒鉄くん」
「え? ああ……どうだろうな。そうかもしれないな」
「その右腕だって、べつに誰も同情も興味もくれなかったでしょ?」
「…………」
「ふふ」
 悠里はフリルのついた綿のようなスカートの前で手を組んで、んんっと少し身体を伸ばした。
「身体が凝っちゃった。動きにくいね、こういうの。そっちはどう? 動きやすい?」
 鋼はいま自分が服を着ていることに気づいたような顔で、ジャケットの裾をつまんだ。
「ああ、うん、まあ、普通」
「そうじゃなくてさ」悠里はくすくす笑う。
「古きよき拳闘の日々はどうなのかな、ってこと」
「拳闘?」
「だってそうでしょ。いま、あなたはボクシングをしているんだから。ブラック、がその前につくけど、大したことじゃないよそんなの」
 悠里は、ちらっと黙ったままの涼虎を見やった。
「黒鉄くんが引退した時は悲しかったな……」
 そこで鋼は、ようやっと、ずっと前から聞きたかったことを吐き出した。
「なんで、俺の試合を?」
「好きだったから」
 鋼は石のように黙り込んだ。悠里がそれを見て夢のように笑う。
「ふふ、嘘。ホントは友達にビデオを頼まれてたの。デビュー戦からあなたのファンでね。でも見てるうちにすっかり私まであなたのパンチの虜になっちゃった」
 顔を寄せ、
「だからあの事故は本当に悲しかった。これからって時だったのに……」
「……彼は、そんなに強かったんですか?」
 涼虎が言った。どことなく二人と一人の間に流れていた緊迫が弾けて、不必要なまでの注目を呼んだ。
「それを知らないことが罪って感じ」
 と悠里は言って、出し抜けに鋼の空っぽの袖を掴んだ。そしてそのジャケットの肌触りからかつて見た何かを呼び戻そうとするかのように、何度も指先で撫でた。鋼は身を固くして、それに耐えた。
「性格や経歴やファイトスタイルを話題にすれば、黒鉄くんを好きになれない人はたくさんいたと思うよ。ガード甘いし、パンチもらいすぎだし、ボクシングを知っていれば知っている人にほど、あんまり好かれてなかったよね。雑誌とかでも辛口コメントされてたし」
 読んだのか、と鋼は暗い気持ちになる。結構いろいろ、大言壮語を吐き散らかした覚えがある。
「それでも、あのリングの上で、焼いたパンみたいに汗で身体を光らせて相手に突っ込んでいく背中を見て、私は思った。彼は、人間を殴り倒すことにかけては神様みたいに天才的だって。骨まで壊すボディブローと意識を天井近くまで吹っ飛ばすアッパーカット。……スマッシュって言うんだっけ?」
 そう、スマッシュ。
 懐かしい名前。
 黒鉄鋼の、一番得意な、サンデーパンチ……。
 悠里は夢見るように続けた。
「雑誌にはこうも書いてあった。……彼と対戦した相手は負けて目が覚めたようにボクシングから遠ざかった選手もいれば、一階級上げてベルトを掴んだ選手もいる。いずれにしても彼と拳を合わせた人は、そのパンチに心のどこかを変えられてしまうんだって」
「そんなこと書いてたのかあの記者……勝手なこと言いやがって」
「いいじゃない、その通りだと思ったし。知ってる? あなたが倒したチャンピオン、引退したんだよ」
 はるか昔に、後輩の楠春馬から聞いたような覚えがある。



 そりゃそうだろうな、と思った。
 あんな振りの大きいアッパー一発もらってベルト取られちゃ、やめたくもなる。
 あの一瞬は、お互いが気づけないくらい速かった。
 何かを思うより速く、拳が出た。
 鋼はすぐに自分が勝ったなんて信じられなかったし、向こうだってそうだろう。
 再起しようと思えば元王者にはできたはずだが、そうしなかったということは、それだけ徹底的にあの男のプライドを、鋼の拳がぶち壊してしまったのだろう。恐らく。



「あの人が引退したくなるのもわかるよ。それぐらい、あなたのボクシングは凄かった。世界だって狙えると思った。ちゃんと練習して、技術を上げて、しかるべき時にしかるべきリングにいれば、きっとその腰には金色に輝く世界チャンピオンのベルトが巻かれるはずだ……って」
 そう、そして、
 ついたあだ名が、
「黄金の右……って、ファンの間では呼んでた。なかなかいないよ、そんな新人」
 涼虎の視線を、頬に感じる。
 だが鋼は振り向かなかった。
 魅せられたように、悠里の言葉に聞き入っていた。
「でもよかった。あなたはこうしてまた戻って来たんだもの」
 悠里の小さな手が、ぎゅっと空っぽの袖を握り潰した。
 骨が軋むほどに、強く、握った。
「今度は負けないでね、黒鉄鋼くん」
 じゃね、と軽く言い残して、新藤悠里は去っていった。最初からいなかったのではないかと思えるほどの唐突さだった。
「……変わった子だったな、いまの」と鋼は言った。
「なあ枕木。……枕木?」
 見ると涼虎は、他人のようにその場を早くも立ち去ろうとしていた。鋼は人垣を左手一本で掻き分けて、やっと赤いドレスに追いついた。
「どうしたんだよ。……ひょっとして機嫌悪いのか」
「そうかもしれません」
 珍しく、涼虎は認めた。
「……そりゃ、難儀だな」
 責めるように涼虎が鋼を見る。
「それだけ?」
「だって他に、どう言えばいいんだ」
 涼虎は黙った。そしてウェイターの一人から琥珀色の液体が注がれたグラスを受け取ると、一息で飲み干した。それで済ますのかと思えば、空いたグラスを受け取ろうとしたウェイターからクロスカウンターで琥珀色の液体が満ちたグラスをかっさらった。まとめて三つ。
 曲芸師のように続けざま、グラスを呷って空にする。
「おいおい」
「きっと私が嫌な気分になっているのは、あなたの試合を見たことがないから、です」
 空になったグラスに、涼虎の顔が歪んで映っている。
 鋼は、気のないジャブのように言った。
「……見たいのか?」
「わかりません」
「……無理に見るようなものでもないさ。血だって出るし、傷は増えるし、いいことねえよ」
「……なんだか、いいですね」
「え?」
「何かをやってきた人の、重たい言葉に聞こえます」
「俺はべつに説教なんか……おい?」
 涼虎がふらりとよろめいた。赤色が瞬いて、吸い込まれるように鋼の手の中に収まった。
 触れるような距離で目が合った。
「……枕木?」
「踊りませんか、黒鉄さん」
 涼虎の頬が、差した朱よりも赤くなっている。
「みんなそうしていますから」
 言われてみれば、確かに二人がいるのはダンスホールであって、すぐそばでは紳士淑女が手と手を取り合って音楽に合わせてステップを踏んでいる。しかしそれは、自分たちには関係のない世界のことだったはずだ。
「いや、俺は、ダンスなんて」
「じゃあ」
 涼虎の左手が鋼のそれをまさぐった。
「手だけでも、繋ぎましょうか」
 鋼は息を呑んだ。
「お前、酔ってるだろ。……酔ってるんだろ?」
 涼虎は答えずに、身を離し、左手一本で鋼と繋がったまま、すっと、
 自分の右手を、背中に回した。
 鋼は覚悟を決めた。
 途端、震えるような、くすぐったい恐怖がこみ上げてきた。
 涼虎が、一歩踏み出す。鋼はそれを受けて、一歩下がる。
 きっと最後までそれぐらいしかできないだろう。
 鮮やかな熟練の踊りに耽る男女の間で、忘れ去られたように、二人、拙い足を運んでいく。緩やかなピアノの優しい音色が時間を殺してくれていた。
 少し前まで、自分がこんなところに流れ着くなんて思ってもいなかった。自分の人生は、あの日に確かに終わりを告げて、後は狂ったようにただ、毎日を、お情けで与えられた余生をひとつひとつ潰していくだけの人生が待っているのだと思っていた。それでいいと思っていた。鋼の気持ちなど関係なく、そうなるしかないはずだった。
 なら、いま、目の前にある現実はなんなのだろう。
 夢なのかもしれない。
 ふっと真実が忍び寄ってきて、この世には超能力も地下世界もないのだと告げるのかもしれない。それを受けた鋼は少しずつ現実味を取り戻して、夢を信じられなくなって、はったりと気づいた時にはもうあの六畳間の上に転がっていて、相変わらず右腕は失われたまま、暗い天井と通り過ぎていく車の排気音と選りに選りすぐったエロ本だけが黒鉄鋼を待っているのかもしれない。
 もし、そうだとするなら。
 この左手から感染してくる温もりは、ずいぶんいくらか手の込んだ脳髄の悪戯だ。
 たまには脳のやつも憎いことをする。褒めてやってもいいくらいだ。
 そうとも。
 ずっと、このまま、何も起こらなければいい。
 涼虎の瞳と絡みついた視線を味わいながら、鋼はそう思った。
 このままでいい。
 このままで――
「黒鉄さん」
 涼虎が言う。その俯き加減の顔に、お前は夢かと問いかけたくなる。
「ボクサーは、フットワークが大事なんじゃないですか?」
 何を言われてるのか一瞬わからなかった。
 どうやら、からかわれているらしい。
 鋼は笑った。
「ボクサー相手は何度もしたけど、お前の相手は初めてだからな。緊張してるんだ」
「元王者の目から見て、私はそんなに強く見えますか?」
「ああ、強そうだね。一発大きいのもらったらノックアウトされちまうな」
 涼虎は笑った。そして、すぐにその裏に影が走った。
「私は、あなたが思っているほど強くもないし、立派でもありません。いつも悩んでばかりで、臆病で、……悔やんでばかりいるんです」
「枕木……」
「黒鉄さん、一つ聞いていいですか?」
「ああ」
「ここでの生活は、辛くないですか。来なければよかったと思いますか?」
「何言ってんだ。そんなことあるわけないだろ。……枕木?」
 とすっ、と。
 涼虎は、アタマを鋼の胸に押し当てた。
 心臓の音を、聞かれたと思う。
「……私はやっぱり、卑怯者ですね」
「枕木……?」
 涼虎は身体を離して、額に手をやった。
「少し疲れました。お水飲んできます。黒鉄さんはちょっと散歩でもしててください」
「散歩って、お前な」
「踊りたい人がいれば、誘ってきたらどうです?」
「バカ、いねえしそんなの」
 それを聞いて、涼虎はふっと笑って、
「またあとで」
 去っていった。
 鋼はふらり、と飲んでもいない酒の酔いでも醒ますように、覚束ない足取りで歩き出した。緩んだ口元を左手で覆う。何度もリフレインするのは、あの笑顔。
 今日はきっと、いい日になると思った。

     


 いきなり人前で裸に剥かれたようなものだと、思ってもらって構わない。
 悠里が涼虎に言い放った言葉には、それだけの威力があった。
 ――それを知らないことが罪って感じ。
 何も、
 何も言い返せなかった。
 悠里と鋼が、シャンデリアの光を浴びて、懐かしそうに話をしている間に自分は入っていけなかった。
 自分は、枕木涼虎は黒鉄鋼のセコンドなのに。
 ブラックボクサーには必要不可欠の、ピースメイカーなのに。
 何も、言えなかった。
 ただ、黙って、自分の知らない世界について話す二人の話を聞いていただけ。
 水なんて、少しも飲みたくなかった。ただ耐え切れなくなって、逃げ出してきてしまった。
 鋼の顔をまともに見ることもできず。
 現実を直視することもできず。
 逃げ出した。
 周囲の喧騒が遠く聞こえる。出資者に囲まれて談笑する、どこかのべつのブラックボクサーの姿が見える。涼虎は度重なる拷問を受けた人間のように虚ろな目の端でそれを捉えていた。
 かつて日本王座に就いたことがある男は誰もが、あんな風に笑っていたのだろうかと思う。
 借り物のドレスのスカートをぐしゃぐしゃになるまで握り締め、唇を噛む。
 悠里は、正しい。
 自分は、ボクサーだった頃の黒鉄鋼を知らない。
 それは確かだ。映像だって見たことはない。取り寄せようと思えばそうできたのに。見ようと思えば見れたのに。自分は、黒鉄鋼が闘うところを、自分の手持ちのブラックボクサーがどんな人間だったのかを、本当の意味で見たことがない。
 ――見たいのか?
 ――わかりません。
 嘘だ。
 本当は見たくなんてない。考えただけでも身体が震えてしまう。パッと点けたテレビに偶然にも彼が映っていたらと思うとニュースひとつ見る気にならない。もし、真っ黒なグローブを着けて、自分とまったく同じ体重の相手と懸命に殴り合っているその姿を見てしまったら、気づいてしまうから。
 自分が何をダシにしたのか。
 自分が何を踏み台にしたのか。
 だから、見れない。見たくもない。
 恐ろしくて――

 スカートを掴んでいた手を、離した。
 毒のような疑心が、冷えた脳髄に根を張る。
 それだけだろうか、と思う。
 自分は黒鉄鋼のことを何も知らずに、彼を生き死にのやり取りへと駆り出している。その傲慢さが、その身勝手さが自分でも許せなかった。だから、逃げた。
 本当に、それだけ――?
 それとも、自分は、何かべつの感情を抱いているのだろうか。
 美しい悠里の微笑みに水をかけられたように動けなくなっていた黒鉄鋼を見る自分の目には、いずれ血まみれの未来に対する罪悪感しか宿っていなかったのだろうか。
 踊ろうなんて柄にもないことをいきなり言い出した自分には、本当に、弱い女の薄ら寒い策略がなかったと言い切れるのか。
 苦い味が喉にこみ上げてきた。
 悪魔と契約して魂を売り渡した人間は、こんな気分がするのだろう。
 相手のぬくもりがまだうっすらと残っている左手を見つめて、涼虎は思う。
 もし自分があの男(ひと)に好意を抱いているとしたら、それは、ただ許してもらうためにこの薄汚れた脳髄が捻り出した媚態という名の策略だ。けだもののおぞましい本能だ。
 死ねばいい。
 こんな自分なら死ねばいい。心も魂も砕けてしまえばいい。
 彼の生命の重さも知らずに、ここまで穢れる魂ならば。
 もはや、足元の絨毯とドレスの赤の区別もつかない。酒の魔力もあったのだろう、亡霊のように覚束ない足取りで涼虎はホールを彷徨った。自分が飼い殺しにしているブラックボクサーから逃げているのか、それとも彼を探しているのかもわからないまま。そして、自分のラボのナンバーを袖に刺繍されたジャケットが視界に映って、顔を上げた。
 だが、見つけたジャケットの持ち主は、黒鉄鋼ではなく。
「あれ……?」
 剣崎八洲は、ここにはいないはずだった。

 ○


 その手を取らないやつがいたら嘘だと思う。


 べつに、大した話じゃない。
 高校に行きそびれた。
 中三の冬に両親が離婚して、そのドタバタで、そのまま住んでいた家に残るかどうかも怪しく、結局離れることになって、裸同然で東京に出た。そのまま、どこかの高校にもぐりこむこともせず、学力も足りず、八洲はスーパーの品出しのバイトに入った。
 きっと、物凄く努力すればなんとかなった程度の話だとは思う。
 壊滅していた学力は一年二年でどうにかなるものではなかったかもしれないが、そういうやつら向きの学校だってあったわけだし、あるいはいっそ不服な親元から離れることだって、選ばなければそう道がなかったわけじゃない。
 たとえば、ヤクザの使い走りになるとか。
 たとえば、公営ギャンブルで喰いつないでみるとか。
 たとえば、……ボクサーになる、とか。
 もちろんボクサーと言ったって、チャンピオンにでもならなければその道一本で喰っていくことなどできはしない、そんなことは八洲にもわかっていた。
 それでも、一番進みたかった道を思い起こして悔やめと言うなら、ボクサーだったろうと思う。本当はどんな男だってそうじゃないのかと思う。拳ひとつで自分の前に立ちはだかる男を軒並みぶち倒して食い扶持を稼ぐ。そんな夢を一度も見たことがない男なんて、本当に男と言えるのか。
 八洲は、そういう男だった。
 元々、鋼に突っかかっていったのだって、やつが自分の進めなかった道を歩いてきた男だったからに他ならない。
 八洲はボクサーにはならなかった。何度も何度も近所のジムを窓から覗き込みながら、誰か声をかけてはくれまいかと期待しながら、とうとうサンドバッグを叩いたことさえない。
 両の拳で自分の世界を変えることをせず、時給八百二十円の誰にでもできる仕事をして、たった一度の青春を喰い潰した。
 結局、そのささやかな生活は弟の煙草の不始末で自宅が全焼し、あっけなく終わった。
 母と弟を失った日、八洲はヘルプで入ったレジの打ち間違えで三年続けたバイトをクビになっていた。
 二度目のチャンスも、八洲は蹴った。
 泡銭うずまく世界から目を切って、父親に泣きつくこともせず、それから半年、畜生のように暮らした。飲食店の残飯を漁り、おがくずのにおいのする毛布をまとった。生ゴミから出るあたたかいガスを求めてゴミ箱の中で眠った。
 その暮らしは、ある日の明け方、一人の白衣を着た少女の差し出した手によってあっけなく終わりを告げた。
 彼女は言った。
 こっちへ来ませんか、と。

 その手を、
 その手を取らないやつがいたら嘘だと思う。

 それが、枕木涼虎との、そして、ブラックボクシングとの出会いだった。
 八洲に訪れた三度目のチャンスは、ほんの少しだけ、優しかった。
 だから最近、生命の恩人の鉄仮面が錆びついてきたように思えたのは、彼女に救われた身としてやっぱり心配だったが、ようやくわかった。
 杞憂だと。
 ダンスホールで鋼に手を差し出す涼虎の顔を見て、それがわかったのだ。
 鋼と涼虎はうまくやるだろう。
 自分には、彼女にあんな顔はさせられない。
 涼虎も最初は短くない付き合いと、そしてやはり本物のボクサーが女からは理解しがたい人種だったということもあって、だいぶこちらの肩を持ってくれたが、それもそろそろ限界、あの鉄仮面に打たれたボルトはタガが外れる寸前だ。
 願わくば、その仮面の下にある顔が、つまらないほどあっけなく、いつまでも、笑っていて欲しい。
 そう思う。
 飛行機乗り風のジャケットに両手を突っ込んで、見えない誰かに肩をそっと押さえつけられたように、八洲はため息を深々と吐いた。
「ったくよお」
 煙草でも吸わなければやっていられない、と八洲が思ったのも無理はない。



 ホールの喧騒と輝きを避けるように、八洲は外縁の通路に出た。扉一枚挟んだだけで、寒くなるような沈黙が下りていた。薄暗い照明と灰色の床に挟まれて、八洲はジャケットの懐をごそごそ漁りながらトイレに向かった。
 基本的に、ブラックボクサーは禁煙を勧められる。なぜならタバコというものは脳に悪影響を与えるものだからだ。
 アイスピースと煙草はピースメイカーたちによれば直接の影響はさほどない、ということになっているが、それでも『万が一』が起こることを朝起きてから寝るまで心配していなくては呼吸も出来ない人種にとっては、見過ごせないことなのだろう。ギった煙草で震える身体に暖を取ったこともある八洲からすればちゃんちゃらおかしい。煙草ぐらいで死ぬなら死ねばいいのだ。もっとも、連中が心配しているのはブラックボクシングへの影響であって八洲の生き死にではないわけだが、それはそれでムカつく。
 なので八洲は、なんの気兼ねもなくあたたかいホールで高級煙草をスパスパやっている連中の脇をすり抜けて、一人寂しくトイレで安煙草をくゆらせにいくところなのだった。うすうす予感していたとはいえ事実上の失恋もあいまって、どこからどう見てもいいとこなしなのだが、なぜだかどうして、それほど悪い気分はしなかった。
 奥歯のように薄暗い僻地にあるトイレを見つけて中に入り込む。目を伏せて入ったために気づくのが遅れた。八洲はぎょっとしてその場に釘づけになった。
 洗面台で、半裸の女と男が身体を押しつけあっていた。
 うわあ、と思う。いくらなんでもここでやるか? そういう部屋ならいくらでも上にいけばあるのになんでわざわざここで? そういうシュミの人たちなのか? よっぽど背中を向けて出て行ってやろうかと思ったが、目の前の光景のインパクトがあまりに強すぎて思考がショートしていた。なにやってんだホントにもう。
 八洲から見て左半身になっていた男がちら、と八洲を見た。八洲はその時、ようやくそいつがまだガキと言っていい、せいぜい高校生ぐらいの年齢で、そして飛行機乗り風のジャケットを着ていることに気づいた。襟に毛皮がついた、くすんだ銀色のジャケットはブラックボクサーの備品のひとつだ。
 その若いボクサーは、トイレの入り口でぼけっと突っ立っている八洲を確かめて、その目を糸で引いたように緩めた。
 八洲も男である。
 それが「お前に俺と同じことができるのか?」という挑発行為に他ならないと一発で気づいてアタマにカアッ血が上った。
 売られた喧嘩は買うほかない。
 ここで逃げ出すくらいなら堂々と個室に入って深々と煙草を吸ってやる。
 あとあと気まずくなってコトが上手くいかなくなっても誰が責任なんぞ取るものか。
 八洲は鬼のような顔で愛と愛がぶつかりあっている胸糞悪い現場の前を通り過ぎ、個室に入ってどっかと便座の上に腰かけた。精神衛生上あまりよろしくない環境音を耳にしながら安い煙草に左手の指先で火を点けようとしたが、思っていた以上に動揺していたのか上手くいかない。仕方なくライターを取り出してさっさと点火した。クスリに頼らなければ煙草ひとつ吸えない超能力者というのもなんだか少し物悲しかった。
 幾筋もの紫煙が、悪臭を消して天に昇った。
 八洲が煙草を三本根元まで吸いきる頃に、外の情事が終わった気配がした。その頃にはもう八洲はいまさら出るにも出れず、完全にグロッギーになっていて、五十も歳を喰ったような顔になって項垂れていた。十数分前の自分に教えてやりたい。意地を張らずにさっさと消えろと。そうすればこんなオーブンに入れられて焼かれるような生殺しの目に遭うことにはならなかったのだ。鍵を開けて少し戸を開けたり床の隙間から覗き上げたりしなかった自分を褒めてやりたい。畜生、失恋したての男になんて仕打ちをしやがる。これが神様のやり方か?
 一刻も早く出て行って欲しい。衣擦れの音を聞きながら八洲はそう思った。外の二人が、何事か囁き合っている。へえ、人間の言葉しゃべれるんだ、と八洲はクサった。それぐらいさっきまで凄かった。
「……すごい、ブラックボクサーよりも向いてる仕事があったんじゃない?」と女が言う。
「まさか。これが俺の天職さ」カチャカチャとベルトを締める音。
「こんな危険な仕事が?」
「他の仕事は他の連中がやればいい。俺は、他の誰にもできないことがしたかったんだよ」
「いいね、それ」女が笑う。
「そういう男って好き。見ていて飽きないもん」
「見てるだけならな」
「ね、どうして燎はさ、ブラックボクサーになったの?」
 八洲の濁った目がトイレの壁に書きなぐられた矢印に翻弄されている。なぜとっとと出て行かないのか。こんなところで立ち話するような下世話をいったいどこで覚えてくるのか。
 燎と呼ばれた少年が答える。
「親父がうちにピースメイカーを連れてきたんだ。その場でノッカーを、ああ脳の中のブラックボックスを覚醒させる励起剤なんだが、それを飲ませられて一発合格さ」
「じゃあスカウトされたってこと?」
「そういうことになるな」
「へええ、やっぱ違うんだね。あなたは何か持ってるんだ。普通のボクサーは借金苦とか、自殺志願者とかから選ばれるらしいけど。でもそういう心が弱い連中は、あんまりアイスピースに適合できないんだって。だから最近はスカウトなんか始めたのかな」
「ま、当て馬ってのは弱ければ弱い方がいいからな」
「なんでェ?」
「負けても誰も悲しまない」
「あはは、言えてるゥ」
 女がハイヒールをパイプか何かに当てる音がした。洗面台に座っているらしい。
「でもよかった、あなたみたいな素敵な人がボクサーで。正直言って、超能力者の殴り合いなんてあたし興味なくってさ。なのにうちの馬鹿親が熱上げちゃって、将来は私たちのムスメも超能力者にィ、とか言ってて。そんなことあるわけないじゃんね。くっだらない」
 吐き捨てるようなセリフには、親なしでは生きていかれない子供の鬱屈が滲んでいる。
 扉越しでも、顔を見なくても、その気持ちは八洲にはよくわかった。
 燎が笑う。
「ま、せいぜい俺に投資するように言っとけよ、間抜けなパパとママに」
 そこで女は少し黙った。
「……ね、ちょっと聞いたんだけど、あなたが今期の最初の試合に出るってホント?」
「ああ、そうらしい」
「その相手がさ……元ボクサーって話は? あ、つまりホントの殴り合いのって意味」
「合ってるよ」
 八洲は思わず立ち上がりかけた。が、出て行くよりも黙って座っていた方が話を詳しく聞き出せると思いなおして便座に静かに腰を下ろし直した。
 対戦相手が、元ボクサー?
 燎は、壁に背をもたれかけさせたらしい。
「黒鉄鋼。元日本……階級どこだったかな、とにかくどっかの軽量級のチャンピオンだったやつ」
「チャンピオン?」
「ああ、まァでも大したことねえよ。世界を獲ったわけじゃない、防衛戦だってやってない」
 八洲の拳がめきりと鳴った。
 大したことない? 世界を獲ったわけじゃない?
 ――それが、何もしていない人間が言っていい言葉か。
 女が、恐る恐るといった感じで、尋ねる。
「……あのさ、違ってたらゴメンなんだけど、あの、そのなんとかって人、事故で腕がなくなったって。で、その事故っていうのが……」
 ああ、と燎は笑った。
「俺がやったんだ。――ざまあねえよな、あの時に死んでりゃラクだったのに」
 八洲は、落書きだらけのドアを蹴破った。





 蝶番がへし折れてばったりと倒れこんだ扉を、どこか冷めた自分が眺めていた。だが、身体は勝手に動いていく。映画でも見ているような遠い気持ちで、八洲は二人の前に立った。がりがりに凝った眼球が男の薄ら笑いを捉えて動かせそうになかった。
 てめえ、と絞るような声が出る。
「いまなんつった」
「な、なにコイツ……キモッ、マジ意味わか」
 八洲はキレた。
 洗面台の鏡が不可視の波動を喰らって次々と割れていき、そばにいた女が悲鳴を上げてその場にしゃがみ込んだ。一名脱落。
 燎が、組んでいた腕をほどき、壁から背を離す。その目が八洲のジャケットの袖にある数字を見る。
「セブンスか。確か黒鉄のところのラボだな」
「そんなこと聞いてねえ」
「そうカッカするなよ。これでも飲んで落ち着けって」
 燎はポケットから缶コーヒーを取り出して、それを八洲に放った。
 その缶が、何もない空中で破裂した。
 アメーバのような黒が八洲の視界の八割を一瞬で殺し尽くす。八洲は怯んだ。燎が踏み込む気配。
 辛うじて間に合った八洲の右ガードに男の左フックが叩きつけられた。ライト級はある体格の八洲の爪先が浮いた。
「……!!」
「悪い悪い、力の制御がまだできないんだ。ルーキーなんでね、大目に見てよ、先輩。大目にさ」
 男がすっと構える。左拳は軽く伸ばし、右拳は顎の前のオーソドックス・スタイル。軽くフットワークを取って揺れるその体格はせいぜいバンタム級のそれ。
「ボクシングでもやってみる? ボクサーらしくさ」
 自分のモノとは思えない声が出た。
「お前はボクサーなんかじゃねえ」
「どうだろう、肩腕がないやつよりはマシだと思ってるけど」
 急転直下、八洲は右ストレートを撃った。
 が、撃ち抜いたのは虚空。
 アタマを下げて姿勢を低くしていた燎がにやりと笑い、右ショートアッパーで八洲の顎を突き上げた。
「ぐっ」
 ダメージはそれほどなかったが、しりもちを突いた。リングの上ならダウンを取られるところだ。八洲は立ち上がって、顎を撫でた。頬の裏から血の味がする。
「この野郎ォ」
「わかってないな、おまえらなんかじゃ勝てないんだよ、俺には」
 男が素早くジャブを放ってくる。八洲の顔が衝撃で弾けた。
「つっ!」
「だいたいさ、鬱陶しいんだよ、ベルトとか、栄光とか、そういうのさァ」
 燎は、笑いながら八洲を殴る。ジャブ二連発からの左ボディ、ガードが空いたところに右ストレート。
「王者とかなんとか言ってるけど、あんなのそれだけだからね? べつに国一個持ってるわけでもねーし、世界チャンプになれりゃ儲かるのかもしれないけど、たかだか日本王者くらいでゴチャゴチャと……くだらねえよ」
 起死回生の八洲の右ストレートをバックステップでかわしざまに左フックの置き土産。ボディを打たれた八洲の口から泡が飛ぶ。
「あんな狭苦しいリングでグローブつけて殴り合って、強いだ弱いだ言っちゃってまァ飽きないもんだよな。どんなに切れるパンチでも拳銃持ってこられたら土下座して命乞いするしかないし、そもそも寝技も関節もない格闘技にある意味ってなに? おのれの拳二つで挑むことに意義がある! ……ってかァ? へっ、馬鹿馬鹿しい。勝てなくても頑張ればそれでいいなんざガキのお遊戯とレベルが一緒だっての」
 もはやグロッギー状態、ガードを固めて亀に成り果てた八洲にブロックの上から容赦なく、燎の右ストレートが突き刺さる。
「だからさ、はっきり言っておいてくれよ黒鉄サンに。右腕無くしててめえでまともにマスもかけねえからヒマしてんのはわかるけどさ、落ちこぼれが俺の世界に侵入してくるのはこっちからしたら目障りでしょうがねえんだわ。大人しく生活保護でも受けて余生を過ごしていればいいんだよ。……あんたはもうボクサーなんかじゃないんだから、ってな!!」
 もはや反撃する意思が見られない八洲に燎は左のストレートを叩きつけた。その肉の感触に満足し、拳を引き戻そうとした。
 が、できなかった。
 ぞっとした。
 八洲の左が、燎の左を掴んでいた。
 交差する腕越しに、ぎらぎらとした両目が輝いている。
 やばい。
 そう思った時にはもう遅かった。
 絶対に離さないと固く誓った八洲の左に動きを封じられた燎の顔面に、極限まで圧縮された剣崎八洲の右拳が突き刺さった。
 顔面の皮膚が伸びるほどの一撃だった。
 殴り抜けざま、後頭部から倒れこんだ燎に、八洲は吐き捨てた。
「ボクサーじゃないのはお前だけじゃない。……俺もだ」


 燎がふらつきながら立ち上がる。まだ愚かにもガードを上げようとしている。馬鹿が。完全に足にきているガキ一匹を仕留め切れない八洲じゃなかった。勝負は、ただ握った拳を振り回すだけの安い喧嘩にもつれ込んでいた。洗面台のそばにしゃがみ込んでいた女はもういない。八洲が立て続けに決めていく左右のボディフックの見事なラッシュの目撃者は、もうお互いしかいなかった。その猛攻に、たまらず燎が嘔吐した。構わずその顔を八洲は殴り抜けた。子供が見ていたら泣き出していただろう。それぐらい苛烈で一方的な攻撃だった。
 だが、泣いているのは八洲だった。
 悔しかった。
 何がそんなに悔しいのか。目の前の自惚れたガキの安い啖呵か。それとも腕を切断されボクサーの夢を奪われた黒鉄鋼への同情か。あるいは、今さっき自分で吐いたセリフがそっくりそのまま自身を傷つけていたからか。
 そうとも、俺は、ボクサーじゃない。
 ボクサーに、なれなかった。
 いや、ならなかったのだ。
 あと、ほんの少しの勇気が無くて――
 あと、ほんの一歩が踏み出せなくて――
 もし、あの時、あの氷漬けにされたような両足が前に進んでいたら、いまの自分は何かが変わっていたのだろうか。
 あのダンスホールで涼虎と手を繋いでいたのは、自分だったのだろうか。
 そんなラチの開かないイフの話に溺れながら、八洲は殴り続ける。べったりとした油じみた血液が飛び散り、壁のタイルに映る影が即興の残酷劇を演じる。
 殺しかねない勢いだった八洲のラッシュも、汚らしい床に燎がずるずると座り込んだことで終わりを告げた。八洲はツバを吐きかけたい気持ちを押さえて、うずくまった少年に言った。
「死ね」
 いまほどこの呪われた言葉が相応しい瞬間もないだろう。
 八洲はまだ熱した血で湯だっているアタマに手をやりながら、ふらふらとトイレから出て行こうとした。少し冷静になると、これからブラックボクシングをやる予定のボクサーをボコボコにしてしまったので、上から何か処罰が下されるかもしれない。おそらく涼虎に迷惑をかけることになるだろう。それを思うと憂鬱だった。そう、それに心配事はまだある。
 右腕を殺したガキがトイレでノビていることを黒鉄鋼に伝えるべきか、どうか。
 随分、迷った。
 だが、答えは出せかった。
 トイレから出ることもできなかった。
 誰かに足を掴まれていたから。
 八洲はいよいよ怒りが感極まって半ば笑いながら、足元を振り返った。見ると、燎も笑っていた。その血まみれの口になにかくわえている。
 白い粒の張った氷殻の中に、揺らめく赤茶色の液体が見えた。
 止める時間は、なかった。


 燎は、その氷菓を噛み砕いた。

     


 煌びやかなホールのどこかで、肉を打つ音がした。
「…………」
 鋼は、目がいい。というよりこの男の持つ五感で鈍いものはないと言っていい。ゆえに、リング上の相手のブーツの靴擦れの音さえ聞き分けるその鋭敏な聴覚で、その肉を打つ音も聞き取ることができた。
 眩い照明の下、周囲では出資者や他のブラックボクサー、ピースメイカーが変わりなく談笑していたが、鋼には自信があった。いまのは肉を打擲する音だ。
 昔取った杵柄で、疾風のごとく、ホール端の螺旋階段を駆け上がる。安い人間を五、六人は飼える値段の絨毯を蹴って、鋼は一階から四階まで一気に詰めた。
「…………」
 緩やかな弧を右に描いて伸びている回廊には、めまいがするほど等間隔でドアが配置されている。そのひとつ、半開きになったそれの前で女が一人、膝が馬鹿になったようにぺたんと座り込んでいた。鼻から血が一筋垂れて、着ている黒のドレスに消えない染みを作っている。
 甘いものの食べすぎには、見えない。
 その女、というよりも少女を自分の影で覆い隠すように男が立っている。少女を冷たく見下ろしていたその横顔が、こっちを向いた。嫌がる顔面に眼球を無理矢理に埋め込んだような、あまり詩的でない面構えをしていた。なるほど。
 状況は完璧だ。
 俗に言う、大ピンチってやつ。
 鋼は笑った。
 男は笑わなかった。
 じっとこちらを見るその濁った目には、無視すればそれで済むのか、それとも何も考えずにヤりたいようにヤってしまった方がラクなのか、けだものじみた計算が走っていた。そんなことしても、もう無駄なのに。
 男の足元で、どう見ても女物の眼鏡が踏み潰されて粉々になっている。その割れたレンズの破片をべったりした視線で確かめた後、鋼は黒いドレスの少女を見やった。そして、その顔を見て、おや、と思った。
 初対面だ。それは間違いない。
 悠里のようにどこかで会った覚えはない。
 だが、どこかで見たような気がしてならなかった。
 金色に近い色素の薄い髪。綿のように白く柔らかそうな肌。クセの強い猫毛の隙間から覗く、やはり金色に近い、卵黄のような輝く瞳。誰かに似ている。でも誰に?
 若い頃のお袋に似ているのかな、とチラっと思った。
「おい、そこのお前」
 男が言った。顔を少女に向けたまま、鋼の目が磁力で曳きつけられたように男を捉えた。
「失せろ」
 そう言って男は顎を振った。まるで犬か猫にでもやるような仕草だった。
 へえ。
 ごきり、と鋼が首を鳴らす。そしてそのまま軽く顎を引き、チッチと舌打ちしながら左手で相手を誘った。
 そう悪い気分じゃなかった。状況は完璧。鼻血を出して座り込んでいる女の子がいて、どう見てもその拳に切り損なった小便のように血飛沫をへばりつかせている男がいる。
 一度やってみたかった。
 正義の味方、というやつを。
 ――くくっ。
 あばた顔の男が締められた鶏のように笑った。その目が映画でも見るような気安さで揺れる鋼の右袖を捉えている。
「あんまり頑張るなよ、身障者」
「すぐにお前もこうなるさ」
 一瞬、男は言葉の意味が理解できなかったらしく眉根を寄せた。だがすぐに各駅停車の思考回路に火が点いて、カァッとその顔が真っ赤に染まった。そしてそれはただの怒りでなく、本当に『そう』なる可能性を瞬時に連想して恐怖に繋がった。恐怖は、人間のタガを破壊する。
 男がいきなり鋼に殴りかかった。
 今度は鼻血で済みそうになかった。男の拳が作った影が座り込んだ少女の両目をレーザーのように横切る。フックとストレートの中間、大振りのオーバーハンドライト。そのモーションは丸見えで、どこか砲丸投げに似ていた。
 鋼の編み上げブーツが弾けるように絨毯を蹴った。
 見事なサイドステップでパンチをかわした鋼に、男はぎょっとしたらしかった。すぐに構えを取り直す。
「この野郎ォ……!!」
「焦りすぎなんだよ」
 言って鋼は、何もしない。
 左半身に構え、後ろ足に体重を乗せ、前後左右どこへでも飛べる姿勢を保ちながら、左腕をくの字型に伸ばした。指を二本立てて、ちょいちょいと招く。
「どうした? 最初に当てさせてやるから撃って来いよ。さっきはできたんだろ?」
 これがお前の漏らしたミソパンだ、とでも言うかのように鋼は嘲り切った目で、黒いドレスの少女を顎で差した。
「それとも、女しか殴れない腰抜けか?」
 ようやく、男の両目から完全に理性が掻き消えた。
「――――!!」
 肉食動物のような雄叫びを上げて、ほとんど体当たりのような殴打に出た男を、鋼はアタマを下げて身体を流し、流水のようにさばいた。男は懲りずに右に左にと拳を繰り出す。だが、それのどれも鋼の髪にすらかすらない。そして男の顔に、全力でパンチを撃ち続けた者に特有の疲労が浮かんだ時、鋼は反撃に出た。
 床をぶち抜くかのような踏み込み。
 それだけ。
 それだけで、男が怯んだ。顔面を両腕でガードし、たたらを踏んだ。
 鋼の左は、ただ揺れている。
 ガードの間から、男が混乱した顔を覗かせている。それもそのはず、殴られると思ったからガードしたのだし、実際に殴るチャンスは鋼にあった。なぜ、左拳を出さなかったのか、それが男には分からない。
 簡単だ。
 殴るまでもない。
 フェイントだけで、カタがつく。
 続けて、鋼は身体を左右に振って相手の意識の綱を引っ張り回し、肩の入れ込みと腰の捻りを利かしながら左足をまっすぐに踏み込んだ。男のガードの真ン前を左フックが通り過ぎた。その風圧がすでにひとつのパンチだったかのように男がまた後退する。なかば振り払うようなパンチを滅茶苦茶に撃ちまくる。だが鋼は避けるどころか逆に突っ込んできて、そのすべての拳をアタマを振って肩で弾いて、寄せつけない。気味が悪いほどの近距離で男の顔に恐怖が溢れたところで再び、ドン、と踏み込んだ。まるで左のショートアッパーを喰らったように男の身体が浮き足立って、もつれた。
 鋼は、ジャンケンが強い。
 百戦百勝とはいかないが、最初の一回さえ済めば、同じ相手と連続して拳を突き合わせる限りまず負けない。相手の心は目に宿る。少なくとも鋼はそう信じている。インチキくさい精神論じみていてバツが悪いが、仕方ない、鋼はいつも相手の目を見る。その生きたガラス玉に映る光の明滅を読み取れば、おのずと相手の次の手もわかる。一種のテレパシー? そんなわけはない、ただ鋼はこうも思っている。――本気と本気がぶつかり合えば、安い嘘なんか吐き通せるわけがない。血も凍る時間の中では、自分は相手になり、相手が自分になる。その精度が上回った方が勝つ。それがジャンケン。それが、勝負。
 だから、目は嘘を吐けない。
 そもそも人間は、他者に理解を求める生き物だから。
 男は、鋼のフェイントに面白いように引っかかる。右腕のない男のフェイントに、あるはずのない肩を入れているだけの「右」に怯み、寸止めで戻る「左」に押されて身体がうしろに下がっていく。
 悪夢だった。
 破れかぶれの右フックを男が撃ち、鋼はそれをダッキングしてかわす。そして自分の頭上を通過した右フックの中から、男を見上げた。目が合った。捻りは充分、踏み込みも好形。最初の一発を見た時から決めていた。最後はこれでトドメにすると。
 怒涛のような殺気の熱波をぶち撒けて、鋼は『右』のオーバーハンドライトを、撃った。
 下から弧を描いて上昇し、爆撃するように相手の顔面へと辿り着くそのパンチに実体はない。左と違って風圧さえない。
 だが、その『右』は確かに男の心をノックアウトした。
 殺される、と男は思った。
 ぼんやり歩いていた人間がふと横を見たら大型トラックがクラクションを鳴らしながら突っ込んできた時の恐怖をそっくりそのまま感じた。悲鳴を上げて両腕で顔面を庇うのが精一杯だった。そして、幻想の衝撃に今度こそ身体が浮く。あっと思った時にはもう男を支える地面はなかった。螺旋階段の淵だった。世界が一回転して、金属同士がぶつかるような固い音を男は確かに聞いた。それきり、真っ暗になった。



 階段の柵にアタマを打ちつけて伸びている男を確かめると、鋼は振り返って、少女のそばに歩を進めた。一歩一歩、噛み締めるように。自分の戦果に甘い痺れを感じながら。
 ちょろいものだった。
 片膝をついて、少女の顔を覗きこむ。
「大丈夫か?」
 その顔には、誰にも見せたことがないような優しい微笑みが浮かんでいる。
 言い訳をさせてやろう。
 鋼は一滴の酒も飲んでいない。
 が、この時、ほとんど酔っていた。

(カット)
 というのも鋼は瞬息の世界に生きてきた男だ。素人とは違う。拳の届くか届かないかの距離で相手と視線を交わし、その色彩の微細な変化から次の一手を読み奪る。でなければ知覚するよりも速く飛んでくるパンチはかわせない。だから、鋼は人ごみが苦手なのだ。雑多な人間に揉まれているとその瞬息が暴走を始めてしまう。あらゆる人間の『次』を探し求めてしまう鋼は怒涛のような共感覚に飲み込まれて、意識はなかば朦朧としてくる。人間の瞳は天賦の才があろうとなかろうとそれだけで一種の魔性なのだ。でなければどうして、わざわざ他人と視線を合わせたりするものか。
(/カット)

 この黄金のホールと、喧嘩の名残と、そして自分の力に酔っていた。
 少女が、鋼を見上げる。その桜色の薄い唇が言葉を作る。
「くろがね・はがね……」
 べつに、不思議な話ではない。
 あの事故から一ヶ月あまり、そのニュースは鋼の現役時代の映像と絡めて放送されていたから、見知らぬ他人が鋼のことを知っていても少しも不思議ではない。
 今日は、昔の自分を知っている人間によく会う日らしい。
「三月十二日……後楽園ホール……」
 熱に浮かされて見る夢を語るように、黒いドレスの少女は言った。鋼を見ながら。
 少女が何を言おうとしているのか、鋼はすぐに理解した。
「10R……右のクロスカウンター」
 そうだ。
「ダウンをもらって……」
 立ち上がって。
「そして……」
 そこから先はもう言わなくてもよかった。
 とっくに脳の中の映写機には、「あの日」が映し出されていた。
 手で触れられそうなくらいに、覚えている。
「チャンピオンの」
 左のジャブ。
「ほんの一瞬だけ乗った体重(ウェート)に」
 合わせた。
「カウンターで当てた右の……右の……」
 俺の、
「右の、スマッシュ――」



 懐かしい、夢だった。



 絡み合った視線の中に、二人は同じ世界(もの)を見ていた。
「なんで……」
 痛いくらいに冷たい満天の星空を見上げた時に、思わずこぼれる感嘆のように、陶然と、少女は言った。
 まっすぐな言葉で。


「なんで、死んでくれなかったんですか? あんなに素敵な、腕だったのに」


 その言葉は、一撃で、
 鋼の心を撃ち砕いた。
 少女は、堰を切ったように喋り出した。挨拶もせず。名乗りもせず。そんなものは必要ないのだと信じているかのように。自分の中にこの溢れる気持ちだけが世界のすべてであると、本気で思っているかのように、ひたむきに喋り続けた。
「私は、あなたのことが好きだった。誰にも負けず、決して退かず、ただ我武者羅に身体を振って、フックを回して、相手を壊しにいくあなたの背中が好きだった」
 少女が、立ち上がる。
 責めるように、鋼を見上げる。
「勝った後、相手をマットに沈めたあとの、天国みたいなリングの上で、両腕を、そう、演奏を終えた指揮者みたいに両腕を高々と掲げるあなたのことが好きだった。でも、あなたはもうボクサーじゃない。なのに、どうして――どうして――?」
 鋼には、答えられなかった。
 少女は顔を伏せて、鋼の視界から、狭く不動の舞台から退場する。役者のいなくなった壁を、鋼の両目が凝視している。
 あまり知られていないことかもしれないが、心には暗証番号というものがある。
 それは、ほとんど決して解かれることのない言葉の数字。
 アングル・タイミング・パワー・スピード。
 どれが欠けてもその番号は通らない。
 だが、今通った。
 空気を震わせ鼓膜を通じ、神経細胞のレールに乗って一直線に、その言葉は鋼の側頭葉を撃ち抜き、その心を解き明かした。
 言い訳するのは、簡単だ。
 じゃあ、あの部屋にずっといればよかったのか?
 そう言えば、相手は何も言えなくなるだろう。
 そうとも。
 悠里のように言ってくれるやつは、きっと探せばいくらでもいるはずだ。何も間違っていない。俺はあの部屋から飛び出して、ここへ来た。この地の底に。あそこにいるよりはよっぽどマシ。誰が見たってそう言ってくれるだろう。
 でも、ここは俺が愛した拳闘の世界じゃない。
 それはどうにもならない真実だ。目を切ってはいけない条件だ。俺は取り戻したんじゃない。昔に戻ったんじゃない。
 捨てたんだ、すべて。
 右腕ごと、あの頃を。
 そうとも。
 俺は負けた。
 負けたんだ。
 その事実は、変わらなかったはずなのに。
 気取って浮かれて、俺はいったい、何をした?
 こんなところで素人相手に力を見せつけるのが俺のボクシングか?
 練りに練った俺の技は、あんなやつを突っ転がすために鍛え上げたのか?
 こんな地の果てで、ボクシングの真似事をするために、俺は、俺はあんなに練習したっていうのか――?

 違う。
 違ったはずだ。
 絶対に――……

 ――なんで、死んでくれなかったんですか。

 鋼は思う。
 きっとそれは、本当に、
 自分が言われたかった言葉だったのだろう。
 虚ろな目で腕時計をチラリと見やる。
 ああ、もういい時間だ。
 あれから何秒経ったのだろう。



 俺が死ななきゃいけなかった、あの瞬間から。

     



 誰かに肩を揺さ振られている。
「黒鉄さん――黒鉄さん――」
「え――?」
 誰かと思えば、涼虎だった。シャンデリアの逆光を受けて、顔に影が差している。
「ちょっといいですか、あの、気になることがあって」
「ああ、何――?」
「剣崎くんが来ているみたいなんです」
「八洲が?」
「はい――それで、あの、帰還用のシューターに聞いてみたんですが、八洲くん、まだ戻ってきていないみたいで。ちょっと一緒に探してくれませんか」
 鋼は、よろりと一歩踏み出した。クチから流れる言葉と、アタマの中で響いている言葉が少しも一致しない。
「ああ、いいよ、わかった。どこから探す?」
「黒鉄さん」
「ん?」
 涼虎が、心配げにまつげを震わせていた。
「――なにか、ありました?」
「いや? べつに、なんにも」
「そう、ですか」
 鋼は不思議そうに聞き返す。
「俺、なんかヘンだったか?」
「いえ、べつに……いきましょう、なんだか嫌な予感がするんです」
「女の勘ってやつ?」
「そうかもしれません」
 それから鋼と涼虎は、ホール中を探し回った。
 だが、八洲はいなかった。
「どこいったんだアイツ。ひょっとして上の部屋のどれかとか?」
「問い合わせてみましたが、いないみたいです」
「ったく、手間隙かけさせやがって」
 鋼は笑った。
 本当に辛い時、鋼は明るく振舞う。
 どうせ誰もわかってくれないから、という、ガキっぽい意地で。
 自分でも、思う。
 俺は、とうとう大人になれなかったのだ、と。
 大人はきっと、こんなことで落ち込まないのだ。
「あとはもう、トイレぐらいか……」と鋼。
「ちょっと見てきてくれませんか。男子トイレは、ちょっと」と涼虎。
「なんだよ、かわい子ぶっちゃって」
「…………どうせ、私は可愛げのない女です」
「誰もそんなこと言って――」
 鋼は黙った。
 二人は、ホールの外周通路にいた。
 涼虎が、怪訝そうに尋ねる。
「黒鉄さん――?」
「血」
「え?」
「血のにおいだ」
 それだけ言って、鋼は走り出した。女の勘どころの話じゃなかった。何も知らないのに、鋼はもう後悔していた。まだ何も知らないのに――
 そして、すぐに知った。
 突き当たりにある、寂れた男子トイレ。鏡が割れ、タイルに血が飛び散っているそこに飛び込んだ。滑りかけるブーツにブレーキをかけて、そして、開け放たれたドアの向こうを見た。
「黒鉄さん? いったい――」
「――来るな」
 鋼の怒声に、涼虎の身体がびくりと止まった。
「来ないで、やってくれ……」
 その声は、震えていた。
 一歩一歩、トイレへと近づく。その横顔には、いまにも泣き出しそうな表情が貼りついていた。
「八洲……」
 汚らしいタイルに躊躇わず膝をついたとき、トイレの中から真っ赤な手が伸びてきて、鋼の左腕を掴んだ。ひっ、と来るなと制したにも関わらず『それ』を見てしまった涼虎が短い悲鳴を上げた。鋼こそ、いまにも悲鳴を上げそうな顔をしていた。その目が、上に滑る。便座の真上の壁に、吐き気がするような血の赤で、こう書かれていた。

 カリスマ参上。

 左腕が痛んだ。見ると、真っ赤な手が鋼の腕を掴んでぶるぶる震えていた。トイレの中には喘ぐような息遣いだけが満ちていた。
 その喘ぎが声だと気づくのに、鋼はだいぶ時間を使ってしまった。
 声は言っていた。悲壮な思いで告げていた。真っ赤な爪を突き立てながら、痛みでもって叫んでいた。
 あいつを倒してくれ、と。


 もう、
 もう何も聞こえなかった。
 鋼はキレた。
 振り払うまでもなく赤い手は敢闘虚しく力尽きタイルに沈んだ。鋼は轢き殺しかねない勢いで涼虎を突き飛ばしてトイレから駆け出した。耳鳴りがしていた。目の前が真っ赤に染まっていた。そしてその『赤』の向こうにあまりにもコントラストが強すぎる、夏の日差しを叩きつけたような鮮明さでさっきの光景が、トイレの中の地獄が浮かび上がっていた。喉の奥から蛇の鳴き声じみた呼気が漏れた。身体のどこかにある殺意のポンプから中身が吹き出たのかもしれない。構わない、と思う。どうせブッ殺すんだ。ホールへ続く扉を蹴破って一番近くにいたブラックボクサーを殴り飛ばした。殺意の波動が走って、吊られたシャンデリアが破壊され即席のプレス機になった。誰もいない場所にそれは落ちたが、視覚的な効果は抜群だ。客どもが悲鳴を上げて我先にと正面出口からネズミのように逃げていく。きちがい一匹によくもまァそんなビビれるもんだ。お得意の正論はどうした? 言ってみろよ。いまの俺に何か正しいことを言ってみろよ。二目と見れない顔にしてやるからよ。
 いきなり背後から羽交い絞めにされた。ヘッドロックをかけられたままギリギリギリと首だけで振り返ると、サングラスをかけた黒服の顔がすぐそばにあった。でかい。ライト・ヘビー級はあるだろう。だが、そんなことはどうでもよかった。問題なのは、誰も彼もが金のかかった正装のピースメイカーたちが、ジャケットを羽織った虎の子のブラックボクサーたちを素早く逃がそうとしていることだ。どいつもこいつも子羊のように出口へ向かっている。あの中の誰かが八洲をヤったのだ。あの中の誰かが。
 ライト・ヘビー級?
 なめんな。
 その場で右足から踏み込み、ガキの首ひとつくらいなら捻じ切れるくらいの回転を全身にかけた。竜巻のようなシフトウェートに黒服が耐え切れず吹っ飛び、かけつけてきた仲間にぶつかって転がった。戦果なんてどうでもいい。自分が強いかどうかなんて確かめたくもない。いままさにシャッターが下りようとしている出口に向かって猫科の猛獣を思わせる猛烈なダッシュをかける。距離が路銀のように溶けていく。ブラックボクサーたちの背中をピースメイカーたちが懸命に押してシャッターの向こうへ押し出そうとしている。ブラックボクサーたちは脇目も振らずに逃げていく。その中にあの黒いドレスの少女がいた。顔を腫らした少年を庇って、走っていた。
 顔を腫らした少年の口元が、笑っていた。
 それを見て思う。
 とうとう出てきたヘビー級の男にしがみつかれながら、思う。

 ――逃げるのか。
 八洲をやったくせに。
 八洲をやりやがったくせに。
 この土壇場で逃げるのか? この俺から逃げるのか?
 かかってこいよ、ブッ殺してやる、いますぐケリをつけようぜ、カリスマ野郎。
 いるんだろ、そこに。
 俺の声が聞こえてるんだろ?

 シャッターが、閉じていく。
 猛獣から善良な人々を守るために。

 いいぜ。
 逃げろよ。無事に、安全に。
 だが忘れるな?
 おまえは今、確かに、逃げたんだ。
 そんなにか?
 なあ、そんなにか?
 女の、


 女の背中に隠れて、そんなに嬉しいか?


 答えてみせろよ――
 ああ、よくわかった。
 わかったよ。
 馬鹿な俺にもようやくわかった。
 ここには、ボクサーなんて一人もいなかった。最初から。
 この俺を、含めて。


 鋼は、吼えた。


 ヘビー級かどうかなんて関係なかった。気迫と殺意が圧力を跳ね返した。黒服たちのサングラスが粉々に砕け散り、拳ひとつ分の距離さえあれば鋼の左がボディ撃ち一発で歴戦のSPたちを真っ赤な絨毯にアルマジロのように丸まらせてしまった。人間が耐えられるようなパンチではない。ましてやベアナックルである。黄金などと呼ぶのは生ぬるい、それはもはや鋼鉄の凶器だった。真っ赤な血に塗れた鋼は行き場のない拳を次々と襲い掛かってくる黒服たちに叩きつけた。左腕一本で殴り続けた。風のように避け、槍のように突いた。拳銃を持ち出したやつにはその機構そのものに波動を当ててジャムらせた。スプリング一個ブッ壊れただけで使えなくなるものをよく武器として信じる気になったものだと思う。まるでオモチャだ。
 俺の拳は違う。
 捨てパンチとフェイントが鋼の空間を作る。本命のフックが男たちの顎を粉々に撃ち砕き、水月にまともにブチこまれたボディアッパーは焦げ茶色の吐瀉物を胃袋から引きずり出し、そして体重を乗せた左ストレートはガードの上から相手の鼻をへし折った。もう止められなかった。その動きは水のように柔らかく、風のようにたおやかだった。怪物がいるならこういう存在を指すに違いなかった。誰が見ても勝ち目なんてないはずだった。その道のプロの男たちを相手にして、ボクサーに、たかがアスリートに何ができる? 本物と見世物は違うのだ。それが、この世界に静かに流れている常識のはずだった。だから彼らが雇われたのだ。
 常識?
 正論?
 馬鹿じゃないのかと思う。
 そんなものがこの土壇場で役に立つものか。
 おまえらには絶対にわからない。
 俺の気持ちは絶対にわからない。
 俺は、友達はあまり多くないけど、数少ないその友達だけは、絶対に失いたくないんだ。
 傷つけられたく、ないんだ。
 ああ、そうだ。
 この拳が俺に教えてくれる。
 おまえらの血が俺に教えてくれる。
 俺があいつを、なんだと思っていたのかを。
 それだけが、真実だ。
 生贄だ、てめえらみんな。
 俺を止めようと刃向かったことを悔い改めて這い蹲って涙を流せ。
 俺に逆らうとどうなるか、徹底的に教えてやる。
 なに泣いてんだよ? 首振ってんだよ?
 ひょっとしてこの程度だと思ってんのか?
 なめんなよ。
 俺の拳はこんなもんじゃねえ。
 俺の、右は、
 俺の、右は――――


 こんなもんじゃ、なかった。


 最後の一人を殴り倒し、拳についた血を無意識のうちに舐めていた。
 その血は、怒りのせいか蜜のように甘かった。
 まだだ、まだ足りない。
 こんなものじゃ今の俺は止められない――
 背後に気配。
 まだ生き残りがいたのかと舌打ちする。
 振り返る。
 そこにあったのは、見知った顔。
「枕木?」
 とすっ
 軽い音を立てて、首に何かが刺さった。
 途端に、足から力が抜ける。前のめりに倒れこむ。視界の端に首に刺さったままの小振りな注射器が見えた。立てない。
 嘘みたいなダウンだった。そう言おうとも思った。だが、声が出なかった。
 意識が急転直下で闇に溶けていく、その間際。
 涼虎が、両目に冷たい輝きを宿して、こちらを見下ろしている。
 その桜色の唇が、無声の囁きを放った。


 だから言ったでしょ?
 私は卑怯者だって。

     




 夢を見た。


 何もかもが、真っ白だった。
 ちょっとやそっとの白さではない。なにせ地平線まで見渡す限り真っ白だ。
 いくら目を凝らしても、傷ひとつ影ひとつ見出せない。
 かといって清潔な印象はまるでない。
 鳥の糞や砕けた彫刻を寄せ集めたような、穢れた白。
 それがすべてだった。
 そんな真っ白な世界の中で、一脚のパイプ椅子に、鋼はぐったりと腰かけていた。
 何か大事なことをしている最中だった気がするのだが、どうしても思い出せない。ものを考えようとするとアタマの中がシュワシュワしてきて思考回路が根こそぎ殺菌消毒されてしまう。左手で何度も顔を擦ったが、効果はなかった。
 ここはどこだろう。
 俺は、……俺だ。
 それだけは、すぐに分かった。
「黒鉄鋼さん?」
 あ、はい。
 思わず返事をして、声がした方に顔を向ける。と、六メートルほど向こうに机に座った男がいた。攻撃的なダークブラウンのスーツ姿。ホチキス留めされた手元の書類をせわしげにめくっては、モノを見るような目を鋼に向けてくる。
 面接官だ、と鋼は思った。
 男が言う。
「困りますね、ぼうっとされては。いまがどういう状況かお分かりですか?」
「えっと……?」
「いまは、あなたが当社に就職できるかどうかの瀬戸際なんですよ!」
「就職?」
 言われてみれば、鋼もパリっとしたダークスーツを着ていた。喉元を締め上げてくるカッターシャツのボタンが、今頃になって苦しくなってきた。指を突っ込んで風を送り込みたい気持ちを堪えつつ、鋼は思う。そうだ、就職。俺は面接に来たんだ。でも、どうしてだろう。俺はボクサーだったはずなのに。
「本来ならとっくにお帰り願うところですが」
 男は、ため息まじりに言う。
「せっかく貴重な時間を割いてあなただけの面接の場を設けたのですから、ここでやめては本当に何もかも時間の無駄になってしまいます。黒鉄さん、質問に戻ってもよろしいですか?」
 戻るも何も、鋼は何も覚えていない。曖昧に笑って、頷いた。
「はい」
「まったく。……では、あなたの経歴を簡単に説明してください」
「経歴――?」
 鋼は、考えた。
「ボクサー、でした」
「それはもう聞きましたよ」男がうんざりしたように言う。
「その前は? なぜ、ボクサーになろうと思ったんですか?」
「それは、その、いつの間にか」
「いつの間にか、では説明になっていません。ふざけているんですか?」
「ち、違います。俺はただ――」
「俺?」
「――僕、いや私は、その、うまく言えないんです。どういう気持ちだったか、それははっきり思い出せる、はず、なんですが、でも、言葉にしろっていわれても――」
「言葉以外で、どう私に理解しろと? まァいいでしょう。では、質問を変えます。家族構成は?」
「えっと、親父はいません。会ったこともありません。俺が生まれてすぐにお袋を捨てて出て行った、とだけ聞いたきりです。そのお袋も十六の時に死にました」
「なぜ?」
「なぜ? なぜって、……過労です。女手一つで、ってやつだったんで」
「あなたはその時、何をしていたんですか?」
「何って、高校に通ってましたよ。普通に。それがなんだっていうんですか?」
「お母さんを手伝おうとは思わなかった?」
「――――」
「ただ学校の勉強をしていればいい、というのは社会に出たら通用しませんよ。社会というのは相互協力によって成り立っているんですから。普通に生きているだけの人間など不要です」
「不要――」
 鋼の呟きが虚空に溶けた。
 面接官がぺらりと書類をめくる。
「高校は中退、と。十七歳でプロボクサーに?」
「ライセンスが、十七歳から取れるんで」
「それまではどうやって生活を?」
「お袋の貯金が、高校を出るくらいまでは喰っていけるくらいには残ってたんで、それで」
「そのお母さんの気持ちを無にして、中退してしまったわけだ」
「……ボクシングに専念したかったんです」
「亡くなられたお母さんの気持ちは考えなかった? きっと高校ぐらいは出て欲しいと思っていたでしょうに」
「喰っていける自信は、ありました。俺の戦績を見てもらえば、分かると思います」
「自信があったら、何をしてもいいと? 自分の独断で、他人を犠牲にしてもいいと?」
「誰もそんなこと、言ってないでしょ?」
「実際に、君はやっていけなかったではないですか」
 面接官の石のような目が鋼の空っぽの袖を見る。
「私にはどうも、君がボクサーではない証拠が見えるのですがね」
「……だから、仕事を貰いに来てるんすよ。それがなんか悪いですか? それが、そんなに蔑まれなきゃいけないことですか?」
「ほら、これだ」面接官が軽蔑したように口元をゆがめる。
「だからあなたは子供なんですよ、黒鉄さん。ドスを効かせているつもりですか? はっ、かえって滑稽なだけですよ。なんですかその目は。私の質問に答えずに、睨めばそれで済むとでも?」
 鋼はもう我慢しなかった。ネクタイを剥ぎ取って、前かがみになった。
「いいから、まずあんたから答えてくれよ。俺がそんなに悪いのか?」
「君が全身全霊を尽くせば、何もかも犠牲にすれば、きっとお母さんは死ななかったはずだ」面接官は芝居がかった仕草で、かけていたメガネを外し、目頭をぎゅっぎゅと揉んだ。
「下らない夢を追いかけた挙句に、腕を落とし、金を浪費し、青春を無駄にした。そうして今、まるで許しを乞うように私の前に座っている。いまさらだと自分でも思いませんか? なんてみっともないと少しは恥じてみせたらどうです。ボクシングでメシを喰う、自慢の拳さえあればどうにかなる。そんな甘い夢に溺れて現実から逃げた人間を雇いたいと思う企業があると思いますか?」
「俺は、俺はチャンピオンだったんだ!」
「だから? たかが日本王座を一度奪取したくらいで何を生意気な。あんなラッキーパンチが当たったからなんだというんです。よくもまァ自分でチャンピオンだなどと名乗れますね。――チャンピオン? それは仮のものでしょう。世界チャンピオン以外はすべて偽者だ。ひとまずのかりそめの姿に過ぎない。この世で一番強いやつにならなければ、あなたの傲慢は許されない」
「……お前」
「違うと言うなら答えてみてください」
 面接官が、手の中で眼鏡を畳んだ。石のような目が、鈍く輝く。
「あなたの拳が、我が社にとってどんなメリットがあるんですか?」
「メリット、だと? ふざけんな、くそったれ、そんなもん――」
 教えてください、と男は言う。
 私には分からないのだ、と。
「そう、私にはわからない。仲間のひとりも助けられない拳に、いったいなんの意味があるのかが」
 鋼は、いきなり見えない手に喉仏を潰されたように、何も言えなかった。ツゥ……っと、こめかみから、一筋の冷たい汗が滴った。身体が震える。寒さのせいではなかった。
 いつの間にか、男は両手を組んで、その向こうから鋼をじっと素顔で見ていた。いまさらになって、鋼は男の顔が誰のものか気づいた。
 自分だった。
「八洲があんな目に遭っていた時に、お前は何をしていた?」
 男が言う。
「鍛えた技の名残を使って、お前は素人相手に何をした?」
「それ、は」


 ――どうして死んでくれなかったんですか?


「俺のせいじゃない。俺は、悪くない」
「言い訳するのは簡単だよな」
「じゃあ、どうしろっていうんだ。どうすればよかったっていうんだ。俺に何ができたっていうんだ。俺に、俺に何が、俺に――」
「そうとも」
 スーツ姿の鋼が自嘲する。
「お前には何もできない。何もつかめない。何も変えられない。自分も、世界も。お前は何も変わってない。あの頃のまま、ガキのまま、ただボクシングに逃げているだけだ。この期に及んで、俺は――」
 白い世界が、音を立てて剥がれ落ちていく。パラパラと。バリバリと。
 終わる世界の中、誰もいない椅子を見つめながら、スーツ姿の鋼は左手一本で顔を覆う。



 強くなれば、
 強くなれば、すべてが変わると思っていた。
 すべてが――――


 ○


 だん、だん、だん、と。
 涼虎が、バスケットボールを体育館でバウンドさせている。
 他には、誰もいない。
 幕が下ろされたステージの前で、白衣を着た涼虎は、気のない調子でボールを弾ませ、おもむろに両手でぱしっとそれを捕まえると、爪先立ちになってゴールにボールを放った。ゆっくりとボールは放物線を描いて、飛んでいった。
 がん、
 そっけない音を立てて、ボールがゴールに弾かれ、てんてんてんと体育館の床を転がる。涼虎は足元に戻ってきたボールを拾い上げる。
 涼虎のボールは、いつもリングに嫌われる。
「残念」
 振り返ると、殊村真琴が、ミラーグラスをきらきらさせながら立っていた。口元には、あの表情の読めない微笑が浮かんでいる。
「ちっとも上手くならないね」
「……ボールが悪いんです」
「ははっ、そうかもね。きっとそうなんだろう」
 涼虎は、ちらっと殊村を見る。
「……なんの話ですか?」
 殊村は、びっとVサインを突き出して見せた。
「悪いニュースが二つあるけど、どっちからにする?」
「……どう、選べばいいと?」
 突き出していたVサインを、殊村が白衣に仕舞いこむ。
「じゃ、八洲くんの方からいこうか。……容態は、安定したよ。あれだけ滅茶苦茶に殴られて、後遺症が残りそうにないのがラッキーだったってさ。脳内血管が水道管みたいに破裂しててもおかしくない怪我だったからね。とはいえ、全治三ヶ月」
「……三ヶ月」
「生命に別状はないから、不幸中のなんとかだね。いや、やっぱり不幸は不幸かな」
「どういうことです?」
「セントラルに申請した、フォース・ラボに対する苦情申請。あれ、蹴られた」
 涼虎の呼吸が、止まった。
「……え? そんな、だってあれは誰がどう見たって……」
 殊村が肩をすくめる。
 そんなこと、最初からわかっていたことだろう、とでも言いたげに。
「八洲くんは、今回はうちのブラックボクサー枠じゃない。スパーリングパートナーは、ボクサーとしてはカウントされない。だから、セントラルがうちに対して提示してきたのはフォースからの新しいスパーリングパートナーを買う費用の賠償だけ。それだけはキチッともらってきたけど、涼虎ちゃんが望んでたように向こうの研究プログラムそのものを凍結させたり解体させるとかは、無理だった」
「それは、つまり、彼は……備品でしかない、と?」
「そう言われたのと同じだね。ま、仕方ないさ。泣こうが暴れようが、それが上の出した結論だ。雇われの僕らは従うしかない。どんな世界だろうと、理不尽さは付きまとう。例外はない」
 それから殊村はにへらと笑って、「アラブの石油王に生まれたかったなァ」と冗談を吐いたが、涼虎は無視した。
「……好野に、なんて言えば」
「ああ、彼女、もう落ち着いたの? 僕、最近見かけてないんだけど。まだ暴れてんの?」
「いえ、今は平静です。ですが、やっぱり、ショックだったみたいで。ピースメイカーとして、自分の受け持つブラックボクサーがあんなことになる、なんて」
 俯く涼虎に、一拍置いて、殊村が言う。
「それ、本気で言ってんの?」
「え?」
「……いや、いいや。分かってないなら。まァ、好野にも僕が伝えとくよ。また髪の毛、掴まれたくないでしょ?」
「……すみません、お願いします。私には、どうすればいいのか、わからないので」
「所長のくせにね」
 突然吐かれた辛辣なセリフに、一瞬、涼虎が呆然とした。が、すぐにまた、長い髪で表情を隠す。
「わかってます。自分でも」
「わかってるだけじゃ、意味ないさ」
「…………」
「ま、いいさ。君には能力がある。それは事実だ。だから、ラボメンの緩衝材くらいは、僕がやってやるよ。でも、次からは自分で言いなね。これぐらい」
「……はい」
 ため息。
 殊村が、続ける。
「二つ目のニュースは、黒鉄くんのこと。『箱詰め』にされてから」腕時計を見、
「七十二時間。そろそろ終わってもいい頃だけど、リンクしてるルイちゃんからの報告だとまだ小康状態にはなっていないらしい」
「剣崎くんの時は……」
「六時間」殊村は即答した。恐らく、彼自身が何度も反芻した数字だったのだろう。
「うちのラボで出た最長時間は紅堂の十八時間。その四倍も経ってるのに、まだ、症状が治まらない」
 涼虎が、ぽつんと呟く。
「ESPD……」
「そう。超感覚ドランカー。度重なるアイスピースの摂取に脳が適応してしまって発症する禁断症状。僕もまさか、これほど黒鉄くんに……」
 言いよどみ、
「……適性がないとは、思わなかった」
「そんな言い方……」
「じゃあ、他になんて言えばいい? 他のラボのケースファイルを総ざらいにしたってあれほど重度のESPDになったブラックボクサーが実験に復帰できた試しはないんだぞ? どんなに長くても、五十時間がリミットだ。それを超えてESPDを押さえ込めなかったというなら、もう……」
 殊村は、首を振った。
「僕らは、新しいボクサーをどこかから融通してもらえないか、検討すべきだ」
「……そんなこと」
「彼が、箱から出て来れなければそれまでだ。実験はキャンセル。このラボはブラックボクシングの研究機構としての任を果たせず、僕らは解散。他のラボにツテがあるような面子じゃない。仲良く揃ってサメのエサさ」
「サメ?」
「本土に帰れるわけないだろ。口封じで殺されるか、あるいはどこかのラボの使い捨ての検体になって廃人コースさ。フィフスの噂知ってる? ライトまで赤いらしいよ」
「…………」
「……じゃ、僕は好野に、八洲くんのこと伝えにいくから」
 背中を向けた殊村に、涼虎が言う。
「殊村くん」
「……ん?」
「私たちは、人でなしですね」
 殊村は笑った。
「そうだよ。なんだと思った?」
 涼虎が、ボールを放る。放物線を描いたボールが、リングに弾かれる。
 涼虎のボールは、いつもリングに嫌われる。


 ○


 後頭部に手をやってみると、べったりと血がついていた。
 どうやら自分で、壁にアタマを打ちつけていたらしい。
 いよいよもって、狂ってきた。
 鋼は背中を壁に預け、床に足を広げて座り込んでいた。狭い部屋だった。いくつかパイプが通っている以外は、純粋な正方形。幅は六メートルといったところか。右手に洗面台が一つある。そのそばの隅には傾斜した溝がある。排泄はそこでする。下手にトイレなどつけるとあの手この手を使って自殺するやつがいるからかもしれない。左手奥には缶詰のピラミッド。すべて同じ種類の栄養食が詰めてある。嫌がらせとしか思えない。
 鋼は、ごん、ごん、とアタマを壁に打ちつけながら、渇いた舌で言葉を紡いだ。
 アイス、アイス。
 アイスをくれ。
『……駄目』
 アタマの中の声は、いつも同じ返事をする。
『いまアイスを舐めたら、もっとひどくなるから』
 鋼は笑う。この状況よりひどいことなどあるとはとても思えない。脅し半分に思い切りアタマを壁に打ちつけようとして、首筋に神経パルスの電撃を叩きつけられた。棒で打たれた獣のように鋼は甲高い悲鳴をあげ、身をよじった。
『もうすぐだから。もうすぐ』
 そんな言葉を信じていられる時間は過ぎた。
『頑張って』
 そんな言葉で、この身を裂く苦しみは癒えはしない。
 左手を顔の前に掲げる。
 ぶるぶると震えていて、時々、あらぬ方向に拳が出る。そのたびに肩が引っ張られて、鋼は無様に床に転がる。足がもがくように動くが、どこへ進むというわけでもない。ただ、じたばたと、死に損ないの虫けらのように悶えている。
 もう、この箱のような部屋に閉じ込められてから何時間経ったのか、分からない。五年は間違いなく経っている気がする。
『そんなに経ってるわけないよ』
 少しも楽しくなさそうに、少女の声が笑う。
『しっかりして。クロガネくんは、ヤシマの仇を取らなきゃなんだから』
 ヤシマ? 仇?
 鋼はそばに転がっていた空き缶を、缶詰の山に投げた。物凄い音を立てて、がらがらと缶詰が崩れ落ちる。
 何もかも、知ったことじゃなかった。
『……クロガネくん。なにその気持ち』
 うるせえ。アイスをよこせ。
『いい加減にしなよ。ホントにどうでもいいの? ヤシマ、大怪我したんだよ? すぐそばで見たんでしょ? 仲間をあんな風にされて……禁断症状が辛いのは分かるけど、しっかりしてよ。そんなんじゃなかったじゃん、クロガネくんはさ』
 てめえに俺の何が分かる。
『わかんないよ。わかんないけど』
 辛いんだよ。
『わかるよ。リンクしてるから』
 わかってない。わかってるなら、アイスをよこすはずだ。本当にわかってるなら。
『アイス、アイスって。まるで子供だね』
 うるさい。たかがイルカに何がわかる。
『……あ、それ言っちゃう? ふーん。ひどいんだ。あたし気にしてるのに』
 勝手に気にしてろ。
『いいよどうせ。好きなだけ暴れなよ、心の中で。あたしは、あなたのスタビライザーでもあるんだから』
 アイス。
『駄目』
 くそったれが。
『ふふん。あーいい気持ち。犬とかお預けにするのってこういう気持ちなんだ。人間がペットを飼う気持ちがわかったかな』
 殺すぞ。
『いいよ。おいでよ。転送室にあたしの脳味噌はあるからさ。禁断症状を耐え切って、小康状態まで持ち直して、ここを出て試合に出てくれるならあたしは殺されたっていいよ。あなたのためにあたしは生きてるんだから。あなたに殺されるなら仕方ないよ』
 絶対に粉々にしてやる。覚えとけ。
『あーはいはい。覚えておきますよっと。でもね』
 少女の声が、険を帯びる。
『あなたこそ覚えておいてよ。あなたには、いろんな人間が期待をかけてるんだってこと。知ったことじゃない? ふざけないでよ。そんなんで済まされると思ってんの?』
 鋼は、身を固めた。
『…………』
『あなたからしたら全然理解できないことかもしれないけどね、アイスピース作るのって凄く神経を使うんだよ。だってモルモットとかに投与しても効果ないし。だからね、一発勝負で人間の脳に適合するものを調合しないといけないの。どうやってるか知ってる? 簡単だよ、経験とカン。それだけ。たったそれだけで、結果を出さなきゃいけないのがピースメイカーなの。ヘタしたら人間一人、自分のセンスのなさで殺しちゃうかもしれないんだよ? それがどれだけ負担かわかる? その負担を乗り越えて作ったアイスが、いつか、未来になると信じてみんなまともにご飯も食べないで仕事してんの。それがあなたにわかる?』
『…………』
『ピースメイカーだけじゃない。あなたのスパーリングパートナーだって、そう。ヤシマがいつもスパーが終わった後、あたしにあなたのこと自慢しに転送室に来てたの知ってる? あいつは天才だって、いつか絶対なにか物凄いことをするやつだって、恋人ののろけ話でもするみたいに喋りに来てたんだよ? 本当は、自分がリングに立ちたいはずなのに。誰よりも、あなたになりたかったはずなのに』
『…………』
『あたしだって』
 声が、震えを抑える。
『あたしだって、ただの脳味噌だけど、培養された自分のカラダも持ってない化物だけど、でも、あなたの応援が出来るのは、嬉しかったし、それでいいって思ってた。あたしには、何も出来ない。ただ見たり聞いたりすることしか出来ない。でも、でも、でも、あなたは、違う! 違うでしょ!?』
『…………』
『あなたには、力がある。誰にも負けない強さがある。それはパンチの質とか、元国内チャンピオンとか、ましてや戦闘センスなんかでもない。あなたは、本当の強さを持ってる。誰もがくじけてしまう時に、前に進める力がある。だから、あなたはここにいるんじゃないの? だから、あの日、リョーコちゃんの誘いに乗ったんじゃないの? 右腕がなくったって、あなたは諦めてなんかいなかった。心の底じゃ、何も失ってなんかいなかった。……あなたが』
 ルイは、言う。
『あなたが、勝たなきゃ、いったいどこの誰が、何かに勝つって言うのよ……!!』
 不思議な気分だった。
 ただの声が、神経パルスの揺らめきが、泣いていた。
『負けて死ぬなんて絶対許さない。あなたは、勝たなきゃいけないのよ。負けていった人たちのために。あなたが倒してきた人たちのために。そして何より、あなたを信じている、何もできないあたしたちのために』
 だから、と少女は言う。
『だから、だからお願い。勝って。どんなものにも、誰にも何にも負けないで。必ず勝って。でないと、あたし……』
 声は、それきり、消えた。時々、すすり泣くような気配だけを、鋼は感じていた。
 それからの百四十二時間は静かに過ぎた。鋼はほとんど身じろぎもせずに、空っぽの右袖を掴んで、前を向いていた。闇の中に、何も見通せなかった。だが、あかりなど少しもいらなかった。
 その両眼に、煌々と輝く、誰にも消せない炎が燃えていたから。
 拳を握る。
 試合。
 試合だ。



 勝負が、俺を待っている。


 ○



 最後の一歩が、どうしても踏み出せなかった。
 涼虎の前に、封印された扉がある。電子的なロックと、物理的な南京錠によって、その扉は堅く堅く、閉ざされていた。
 二百二時間。
 それが、枕木涼虎が現実から目を切った時間。
 それが、黒鉄鋼がこの『箱』に詰められてから経った時間。
 涼虎は、その時間に決着をつけなければならない。この扉を開けて、禁断症状に苦しみ抜いたボクサーを解放してやらなければならない。
 もう、電子ロックはパスしてある。
 あとは、南京錠に鍵を差し込み、捻るだけ。
 それだけで、黒鉄鋼を苛み続けた二百二時間は終わりを告げる。
 それだけで、彼を救うことができるのに、この期に及んで涼虎は、最後の一歩を躊躇する。足は震え、手は固まり、いたずらに小さな銀色の鍵を握り締める力ばかりが強くなって痛いほどだ。
 怖かった。
 自分が落とした牢獄から、囚人をこの手で解き放たなければならないことが、なりふり構わず怖かった。
 モニターしているルイからは、中にいるブラックボクサーを出しても問題はない、という報告が来ている。理屈では、分かっている。それでも、どうしても、最後の一歩が踏み出せない。ここまで来れたのに。あとちょっとなのに。
 この奥では、自分のボクサーがまだ苦しんでいるのに。
 涼虎は、息を呑んだ。
 それこそ人間一人を刺し殺すような気持ちで、南京錠に鍵を差し込む。
 捻った。
 南京錠が絡まっていた鎖をまとわりつかせたままジャラジャラと落ちると、それを吹っ飛ばして扉が開き、中から黒いものがどうっと床に倒れこんだ。涼虎は小さな悲鳴を上げて飛び退った。意味もなく白衣の前を押さえる。
「…………よう」
「黒鉄、さん……」
「ひさしぶり」
 思っていたよりも、へらへらしている。
 鋼はその場に大の字になって、浅く息をしていた。顔面は真っ青で、びっしりと玉の汗をかいている。どう見ても病人だった。スタミナドリンクでどうにかなりそうな衰弱ぶりではない。そのくせ、目の色を見るだけで、もう彼の中から薬物中毒者の狂気が去っていることがすぐにわかった。
 涼虎は、背後に隠し持っていた注射器を、そっと白衣に仕舞いこんだ。視線を逸らさないように気をつけて、床に転がっている鋼に言う。
「大丈夫、ですか」
「ん? ああ、なんとかな」
 鋼は立ち上がろうとしたが、よろけて壁にしたたかにぶつかった。涼虎は慌てて、鋼を左側から支えた。
「悪いな。まだ足がフラフラすんだよ」
「当たり前です。こんな……」
 こんな長い時間も、いったい誰が彼を閉じ込めたのか思い出して、涼虎は口をつぐんだ。鋼の疲れた目が、それを見て笑う。
「気にするなよ。べつにあんたのせいじゃない」
「ですが……」
「死ななかっただけラッキーだったと思おうぜ。それでさ……」
 鋼はよろめきながらも、一歩、前へ踏み出した。その足の向かう先には、おそらく、エレベーターがある。
「時間の感覚、ねえんだけど、今日だよな、俺の試合」
「……はい」
 鋼の左腕を飼っているフェレットのように首に巻きつかせながら、涼虎が答えた。
「正確に言えば、いまから三十分後です」
「ははっ、そりゃよかった。遅刻しないで済みそうだ」
「……私が言うのも、卑怯ですけど、大丈夫なんですか? とても闘えるようには……」
「心配いらない。一番きつかった時の減量に比べれば、こんなのどうってことねえよ。現役時代、俺はとにかく体重が落ちにくくてさ……いつも苦労したんだ。それにさ、八洲をボコした野郎と戦れるんだから、疲れなんてぶっ飛ぶぜ」
「……ルイから、もう聞いたんですね?」
「聞いた。天城燎って言うんだろ、俺の相手。へっ、ムカつくよな。格好つけまくりの調子くれまくりの、いけ好かない名前でさ」
 眩しいくらいに白い通路の果てに、エレベーターが見えてくる。
「結構きついこと言われたよ、ルイちゃんに」
「ルイが?」
「ああ。なんて言ってたっけな……お前は逃げてるとか、確かそんなんだ。意識が朦朧としてて、あんまり覚えてないんだけどな」
「そう……ですか」
「でも、あいつの言うとおりだ。俺は、逃げてた」
 鋼が、噛み締めるように言う。
「この右腕を落として、俺は落ち込んだりしなかった。本当はな、心の底で嬉しかったんだよ。分からないか? そうかもな。俺はさ、病院で目が覚めて右腕がどこにもないのを初めて見た時、思ったんだ。……これでもう、闘わずに済むって」
「…………」
「ボクシングをやってて、辛くない時なんてなかった。いつもきつくて、辛くて、誰かに愚痴りたくて仕方なかった。嫌で嫌でしょうがなかったよ。それで、じゃあなんでやるんだって言ったら、多分、それしか出来ないからだったんだな」
「……ボクシングしか、出来ない?」
「ああ。走るのが辛いからって、すりむけた拳が痛いからって、グローブを壁にかけて俺にいくアテなんかなかった。俺がいていい場所なんて、どこにもなかった。だから、自分がいていい場所にいたいなら、俺はリングに上がるしかなかった。俺の試合を見に来てくれてる観客だけが俺の本当の家族だった。あの真っ白なスポットライトの下でだけ、俺は、どこかの別の誰かじゃなかった。俺っていう人間でいられた……」
「……わかる気が、します。なんとなく、ですけど」
「ありがとな。そう言ってもらえるだけでも嬉しいよ。ああ、そうとも。俺にはこれしかできない。闘うことしか。そして勝つことしか。俺にとっては、小さな勝ちとか、終わった勝ちなんてもの、どうでもよかったんだけど、ルイちゃんに言わせるとそうじゃないらしいぜ」
「そうじゃない?」
「勝者には、勝者の義務がある。負けていったやつらのためにも、勝ったやつは負けちゃいけねえんだ。勝ち続けなくちゃいけない。たとえそれがどんなに辛くとも。負けた方がマシな人生になろうとも――そういうことらしい」
「…………」
「俺も、そう思うんだ」
 エレベーターが来る。扉が開いて、誰もいない箱が開かれる。そこに二人は、足を踏み入れた。涼虎に支えられながら、満身創痍の身体で立って、閉じていく扉に置き土産のように鋼は呟く。



 俺は負けない。
 必ず勝つ。

     


 深海のような、青い光が満ちている。
 その中で、培養槽を取りつけられた転送座に、一人の少女が座っていた。金色に近いクセのある髪。Sサイズの白衣に包まれた子供っぽい身体。そして、氷のように揺るがない瞳。
 氷坂美雷だった。
 少女は、モニターの時刻表示を見上げる。
 手持ちのボクサーは、まだ来ない。
 ため息をひとつ零して、白衣のポケットに両手を突っ込む。指先に、銀紙の包みの感触。その手触りを引っかくようにして楽しみながら、目を閉じる。
 美雷のアイスピース。
 ブランド・コード;魔手火札(マジックハンド・レッドカード)。
 エレキ/シフトの装弾数はボクサーの質にもよるが、およそ六発。これまでのアイスピースの最多装弾数は五発なので、これだけでもすでに新記録だ。たった一発、装弾数を上げるために、この一年間のすべてを突っ込んだ。
 この一年。
 朝と昼と夜と夢と魂を費やして、美雷はこのクスリを作った。寝食を忘れ、欲望を捨て、孤独に耐えた。たったひとりで机に向き合い、未知という闇と殴りあった。アイディアのジャブで道を作り、努力のストレートでガードを壊し、センスのフックで相手を追い詰め、そして気の遠くなるような時間という名の右アッパーを叩き込んで、美雷はいま、指先にその結晶の感触を味わっている。
 持てる力は、すべて出し尽くした。
 人間の脳を目覚めさせるクスリとしては、この世界中で誰にも負けないものが出来た自信がある。
 だが、それは向こうも同じだろう。
 枕木涼虎――
 彼女も、才能に関しては自分と同等、いや、それ以上だ。
 もし、彼女が自分と同じだけの努力と時間を費やせば、人間をやめるほどの精神力を持っていれば、おそらく、美雷などでは歯が立たないだろう。
 生まれ持ったパンチの質が変えられないように。
 アイディアの質もまた、生来のものがある。この世界には、当たり前のようにどれだけ頑張っても届かない高みがあるから。
 けれど。
 けれど、枕木涼虎には、氷坂美雷が持つような狂気は決してない。
 彼女は、生涯、狂うことはできない。
 優しいから。
 優しい人に、何かに勝つことなど絶対にできない。
 勝負の世界は、狂気の世界。
 だから、諦めさせてやるのが一番いいのだ。自分には、この世界で、こんな魔窟で生きていくことなど無理なのだと。普通にどこかの別の誰かになって、平穏に暮らしていくしかないのだと。
 美雷は、ポケットの中の銀紙を握り締めた。
 それはもう、自分自身を握り締めるのと、ほとんど同じだった。


 ○


 扉が開いて、転送室にボクサーとピースメイカーがやって来たのを見て、殊村真琴は転送座から立ち上がった。
「や、元気?」
 軽く言う金髪の青年に、黒髪のボクサーが笑う。
「ボロボロだけど、いま充電してる」
「……充電?」と、鋼を支える涼虎が怪訝そうに眉をひそめる。
 くっくと殊村が笑い、虎の子のボクサーを転送座に座らせるのを手伝った。その身体は鉛のように重かった。
「何か食べる? っていっても消化のいいパンとかしかないけど」
「いや、いい。それよりうがいさせてくれ」
「いいとも」
 ボトルから水を口に含んだ鋼が、ジャブジャブと口をゆすいだ後、殊村の持つノズルにペッと唾液まじりのそれを吐き出した。
「作戦は?」
 おもむろに、殊村が聞いた。涼虎も気がかりそうに、チラリと鋼を窺う。結局、ロクな相談もできずに本番になってしまった。
 鋼は背もたれにアタマを預けながら、薄く笑った。
「スタイルは、変えない。W3B3の捨身(リベリオン)でやる。相手のスタイルが分からねえから、初っ端は様子見かな。エレキは無駄撃ちしないで、狙っていくつもりだ」
 殊村が得たりと頷く。
「ああ、それがいいだろうね。相手は強豪フォースの氷坂美雷と、ドランカーだって噂の新人ボクサーだ。君みたいにESPDで消耗してることは、まずないと見ていい。油断は禁物だよ」
「へっ、ガキに負けるほど耄碌してねえよ」
「ははっ、その調子で頼むよ」
 殊村がチラリとモニターの時刻表示を見て、転送座から一段下がった。あと五分もすれば、いま画面に映っている廃墟都市は、リングになる。
 それまでの時間を、もう一人のピースメイカーに譲るつもりだった。
 殊村に目礼して、涼虎が鋼のかたわらに立つ。
「黒鉄さん……」
 それきり、言葉に詰まって何も言えない涼虎の髪を、鋼が左手でくしゃくしゃとかき混ぜた。いつもなら、振り払われているところだったが、涼虎はされるがままだった。
「心配するな。大丈夫だって。な?」
「…………で」
 よく聞こえなかった。
「悪い、なんだって?」
 涼虎は、罪を告白するように、囁いた。
「死なないで」


 ○



「プロジェクト・イカロス」
「――あ?」
 転送座に就いて、パンをかじっていた燎がそばに控える美雷を見た。
「なんだって?」
「言ってなかったかなと思って。この実験の名前」
 確かに、正式名称などは聞かされた覚えがなかった。ひょっとするとボクサーには教えない決まりだったのかもしれないが、そんなものを守る美雷ではない。
「イカロスって、あれか。高い崖の上から空を飛ぼうとして、落っこちたとかいう……太陽に羽を溶かされたんだっけか」
「そう、それ。有名なギリシャ神話。私、あの話が好きなんだよね。聞いてると勇気が湧くっていうか」
「……馬鹿な夢を見て転落死したやつの話が? お前さ、前から思ってたんだけどどうかしてるんじゃねえのか」
「そうかもね。でも、ピッタリだと思わない?」
 美雷が、モニターを見上げる。
「たったひとつのマスターピースを作り出すために、あのリングはこれまでにもう何人ものブラックボクサーの血を浴びてきた。普通だったら、こんな実験は許されない。あまりにも非人道的すぎる。でも、この地の底の底では、それがルール。変更不能の命題。当たり前の、こと」
「……ま、人の生命の軽さを思い出すにはうってつけの場所だよな」と言って燎は、頬についたパンくずを拭った。その顔には、まだ馬鹿な男につけられた青アザが残っている。
「ふん、愚者か。確かにそうだ。この俺と氷坂美雷を相手にして勝とうなんてな」
「……そうだね。そういう意味もある。でもね、イカロスの話には、愚かさ以外の寓意も秘められてると思うんだ」
「寓意?」
 美雷は、床を見ている。そこに自分の道を指し示す経典があるかのように。
「本当に空を飛べる人間を見つけるには、本当に、どうにもならないことをどうにかしようとするなら――こんな伝説が残るほどに大勢の犠牲者が、必要ってこと。でなければ、本物の一人を見つけることはできない。本当に空を飛べるものを見つけることは、絶対に、できない」
「…………」
「どんどんどんどん死ねばいい」
 美雷は言う。
 当たり前のことのように。
 モニターの向こう、都市の向こう、何もかもを貫いたその先を見ながら。
「負けて死ぬやつには、負けて死ぬやつなりの価値がある。だから、死ねばいい。どんどんどんどん死ねばいい。闘って、抗って、なんの甲斐もなく死に続ければいい。死ぬしかないやつらを踏み越えて、そうしてようやく、本当の一人が現れる。何人死のうが構わない。夢を諦めるくらいなら――」
 その言葉に、嘘偽りは何一つとしてない。
 たとえ自分がリングに上がるとしても、美雷は同じことを言うだろう。
 そう言うしかない、そう言うことしかしらない、魂の怪物。
 その怪物の、太陽よりも熱く燃える炎を宿した目が、何かを嚥下するように動いた。
 もうすぐ、ゴングが鳴る。答えが出る。
 死ねばいい。
 いや、違う。
 殺してみせる。
 私の作ったボクサーが、あなたを殺す。










 黒鉄鋼。




 ○




 ゴングが鳴った。二人のボクサーがコーナーから飛び出す。真っ黒なグローブを両手に嵌め、顔にはヘッドギアを着けている。地下のリングのオレンジがかったランプの下で、二つのボクシンググローブが交差した。ぱあん、とパンチにしては軽い音。一人がたたらを踏み、相手が重ねてジャブの連打でペースを掴みにいく。ジャブ、ジャブ、ストレート。愚直なまでのワンツースリー。倒せる左でガードを壊し、開いた顎から右を撃ち込む。だが、顔を背けられてクリーンヒットには届かない。リングの外でセコンドが的確に指示を出しているのが聞こえてはいたが、どこか遠い気持ちでそれを聞いていた。
 クリンチされ、レフェリーに引き剥がされる。距離を取って仕切り直し。相手はもう、こちらのファイトスタイルを今の一瞬で味わい切って、接近戦には持ち込ませないつもりらしい。左を棒のように突き出して距離を取ってくる。こちらがラフに攻めれば狙い澄ましたカウンターでダウンを狙って来るだろう。そう、チャンピオンでもなければ有名ジムに所属しているわけでもない自分たちには、どうしても『KOで勝つ』ということが必要なのだ。観客に、ボクシング界に、スポンサーに、拳でもって誰が強いのかを教えてやらなければならない。でなければ、この暗い地下室が自分の夢の墓場になるだけだから。
 さすがに上手い。倒すというよりも当てることに意識を傾けた的確なジャブをいくつももらう。セコンドから頭を振ってパンチをかわすように指示が飛んでくる。それができれば苦労はしないが、それができなければ勝てはしないのがボクシングの苦しいところだ。
 そうとも――ただの思考ゲームとは違う。
 これは、必勝法のない闘い。頭を捻れば、策を練り上げればどうにかなるようなものじゃない。仮に確実に勝てるプランを思いついたところで、それを実行するカラダがなければ所詮はそれまで。白痴のように走りこみ、痴呆のように殴り続けなければ、何もかもが無意味だ。ボクシングの真実は氷のように冷え切っている。
 相手に勝つには、相手より強くなるしかない。
 どこまでも、相手より、ただ強く――
 試合前の減量もいよいよピークで、身体は重く、汗は冷たく、意識はやもすれば相手のパンチにまぎれて消えてしまいそうだった。それでも走りに走った足は動いた。誰かにしがみつかれているような気さえする重たい拳はギリギリなんとか使えるレベル。こんなんで本当に人間が倒せるのか、自分でも疑問だ。だが弱音を吐いている余裕はない。コーナーに詰められて、もう十七秒近く一方的にボコボコ殴られているのは他でもない自分だ。弱い顎を守って空いたボディを撃たれるたびに膝が落ちそうになる。セコンドの指示はもはや怒鳴り声だ。ああ畜生――このままだと負けるのは、自分だ。
 かすむ視界の向こうに、勝利を確信した相手の顔が見える。
 勝ちをくれてやってもいい。
 そう思った。
 こんなスパーリングで押されてダウンしたからって、それがなんだと言うのか。試合前に無茶な練習をすることこそ愚の骨頂。大切なのは、ベストのコンディションで出来る範囲内で煮詰めたトレーニングを積み、きちんとリングに上がること。それがボクサーとしての、当たり前の心構え。分かっていたことだ、そんなことは一つ残らず。さあリングを下りよう。ロープから転がり出て笑って相手を見上げよう。握手の一つでもして気持ちよく終わろうじゃないか。それがスポーツというものだ。そうだろ?
 そこまで考えて、ようやく分かった。
 自分のどうしようもない、捻くれ者っぷりが。
 トドメとばかりに相手が右を振りかぶる。モーションが大きい。完全にスウィングパンチだ。左ボディががら空き。拳も腕もなく一直線に開かれたその脇腹が、思わず生唾を飲み込むほどのご馳走に見えた。
 鉤型に固めた左ボディフックを、壊すつもりで振り抜く。
 こちらのパンチが脇腹を撃った瞬間、相手の動きが完全に止まった。気持ちの抜けた右のブローがこめかみをかすめて背後へ消えていく。頭はそのことを考えていたはずなのに、いつの間にか左ボディをもう一撃見舞っていた。パンチを撃って相手の腹が震えてから、自分が殴ったことに気がついた。身体をくの字に曲げた相手とヘッドギア越しに目が合った。やめてくれと言われても、やめられなかっただろう。それよりも早く、左の三連撃目を飾るショートアッパーが、相手の顎を斜め下からぶち抜いていた。唾液にまみれたマウスピースが宙を飛び、スパーリングパートナーが背中からリングに落ちた。ゴングが鳴る。
 楠春馬は、ヘッドギアを外して、倒れた相手を見下ろした。




「……タイトル挑戦への準備は、整っているようだな」
 リングを下りた春馬に、白石会長が声をかけた。首にかけたタオルで、汗だくになった春馬の顔をぐいぐいと拭ってやる。
「それにしても、スマッシュか。お前も頑固な男だな。あれは攻撃力こそあるが、どうしてもガードが下がる。ましてやお前が使ってくることはチャンピオンも読んでいるぞ」
「何が言いたいんです?」
「……タイトルマッチでは、使うなよ。左のガードが下がるということは、相手の右が飛んでくるってことだ。王座決定戦で決まった王者とはいえ、相手はチャンピオンだ。くだらない感傷に気を取られていて勝てる相手じゃ」
 そこまで言った白石会長の胸倉を、バンテージを巻いた春馬の手が掴んだ。
「くだらない感傷?」
「……春馬、落ち着け」
「僕は落ち着いてますよ。分かってますから。このスタイルじゃ世界は取れないってことくらい、ね」
「……春馬」
「ジャブ、フック、ストレート、アッパー、スマッシュ」
 暗誦するように、春馬は言う。
「このスタイルから出る左はすべて倒せるパンチだ。しかもそれが相手に近い方の腕から出ると来ている。攻撃力だけなら抜群だ。先輩は、そういうボクサーだった」
「……なら分かっているだろう? あいつがなんて呼ばれていたのか」
 春馬は、手を放した。その目が責めるような光を、帯びる。
「……黄金の右」
 白石会長は、伸びきったシャツの襟首を直した。
「皮肉なものだ。黄金の右と呼ばれていながら、やつが現役時代に右で取ったKOはわずか一つ。引退試合になってしまった、あのタイトルマッチの時だけだ。それ以外のKOはすべて左。右はほとんど、使っていなかった」
 白石会長が、壁を見上げた。そこには白石ボクシングジムから生まれた、数少ない国内チャンピオンたちの写真が飾られている。
「黄金の右……その、わずか十戦の新人に送られるにしては大袈裟な呼び名は、誰もがあいつの『右』を期待していたからだ。左を制するものは世界を制する。確かにそうだ、だが左一本で掴めるほど世界のベルトは軽くない。誰もがそれをわかっていたから、あいつを『右』と呼んだんだ」
 白石会長は、罪人のように俯き、目を瞑った。
「あの日、初めて右でKOを取ったあいつを見て、わしは確信した。あいつは国内で終わる男ではないと。本当に、これからという時だったんだ。変則ボクサー。今になって思えば、あいつはその手のトリッキーな選手だった。変幻自在にスイッチし、右でも左でも相手に合わせてパンチの種類を、試合の中で増やしていく。あいつはデビュー戦の頃から、傍で見ているわしより相手のことを分析していることがよくあった。もし、今もここでサンドバッグを叩いていたら……グローブを壁にかけずにボクサーであり続けたなら……」
 チラリ、と春馬を見る。
「……悪いが、お前にはあいつほどの才能はない」
「……分かっていますよ」
「分かっているなら、スタイルを戻せ。昔のようなアウトボクサーに戻るんだ。足を使え。距離を取れ。まずくなったらクリンチしろ。ポイントアウトのために小刻みなパンチを積み重ねろ。それが、お前のボクシングだ」
「客を呼べないボクシング、ね」
「その代わり、お前は勝つだろう。黒鉄鋼が巻いたベルトをどこかの別の誰かに巻かれたくなければ、お前が取れ。春馬」
「言われなくとも、取りますよ」
「なら、いい」
 白石会長は、背を向けた。もう今日のトレーニングは終わりだ。
(……先輩)
 いったい、どこへ行ってしまったんですか。
 何もない部屋だけ残して。誰にも何も言わず。
 どうして、何も言ってくれなかったんですか。
 たとえ誰が見捨てようと、僕だけは違ったのに。先輩がどんなになろうとも、僕だけは、先輩のことを覚えていたのに。
 先輩は、強かった。
 誰が認めなくても、僕だけは、覚えている。
 あの黄金のスマッシュを。


 そして、春馬はその時、確かに聞いた。ふいに足を止めた春馬に、会長が怪訝そうな顔で振り返る。
「どうした」
「いま、聞こえませんでした?」
 春馬は、リングの方を見ている。照明の落とされた、暗いリングを。小首を傾げるばかりの白石会長の気配を背中で感じながら、春馬は、暗闇に向かって呟いた。
「いま、絶対に鳴りましたよ。どこかで絶対――」






「ゴングが」

       

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