Neetel Inside 文芸新都
表紙

御伽世継語
序「御伽への招待」

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 ようこそ。
 君は、おとぎ話というものを知っているかな。
 幼少期、よく小さな絵本を読んだものだろう。桃太郎、白雪姫、オズの魔法使い。それらはよく昔話や童話と呼称されることもあるけれど、すべてをひっくるめた場合はしばしば「おとぎ話」という名で呼ばれることが多い。
 絵本の中身は大抵、正義が悪を滅ぼす、いわゆる勧善懲悪で成り立っているものが多い。桃太郎やお菓子の家なんかが良い例だ。悪者をこらしめて、正義こそが世の中のすべてだと子どもたちに啓蒙するために書かれているからね。まあ、中には浦島太郎みたいな、少し異質なものもあるけれど、それはひとまず捨て置こう。
 おとぎ話の中に、悪者を殺すものが存在する。
 例えば、シンデレラ。原題「灰かぶり」において一番の悪人である継母は、ラストシーンで焼けた靴を履かされ、死ぬまで踊り続けるという結末を迎えることになる。これは非常に残虐な行為だ。悪人を更生させるのではなく、悪人を殺すことによってめでたしめでたし、ハッピーエンドを迎えるのである。人の死によって物語が幕を閉じるのは非常に後味が悪い。
 このシンデレラが含まれるグリム童話始め、おとぎ話における勧善懲悪というのは、基本的に惨たらしいものが主となっている。これは、敵は徹底的にやっつけて「二度と生き返らないように」してしまわないと弱い者は安心して暮らせないという、当時の時代背景を反映しているからではないかと、私は考えている。そして時が経ち、時代は変わった。おとぎ話も子どもを教戒するものから子どもたちが読んで楽しむものに変わり、挿絵がはさまれるようになって、残酷な部分は次第に切り取られていってしまった。時代の変遷に合わせて、おとぎ話もまた、当たり障りの無いように書き換えられていってしまったのだ。
 おっと、少し論旨がずれたね。
 さて、君に訊ねたいことが、一つある。
 君は勧善懲悪の噺における「悪人を殺すことで終とする風潮」をどう考える?
 悪人を更生させずに殺してしまうこと。果たしてこれを君は正しいと思うだろうか。それとも否か、はたまた別の答えを出すのだろうか?
 ああ、まだ、教えてくれなくても大丈夫。きっと答えは、これから君自身が教えてくれる。
 ……何を言っているか、意味が分からない?
 そうか。まあ、それもいいだろう。
 全ての意味が分かっているものほど、つまらないものはないからね。

     


       ■

 早生まれの蝉の声が聞こえ始める、五月の半ば。
 冷房が効いておらず温い空気が立ち込める、天領市立図書館の一角。読書のために設けられた長机が並んでいる中、こめかみから汗を流しながら俯せている夏目彰の前に、ばさばさばさ、と三冊の厚い本が乱暴に置かれた。
「……これは何の冗談だ」
「見ればわかるでしょ。数学と化学と物理の参考書。いちいち私が用意しないと、あんたみたいな奴は本当に勉強しないんだから」
 憤慨混じりに、ショートヘアの少女――三宅世里奈は参考書のページをめくって見せた。
「今日はこれの一〇ページまで解く事。終わったら私に見せて」
 生気に欠けた彰の声に対して、律するような口調で世里奈は言う。一方的過ぎる行為に彰は反論の意を示そうとしたが、昔から口喧嘩で勝ったことのない世里奈相手では分が悪いと思い、興味なさげにそっぽを向いた。
「お前文系だろ。なんでこんなもん持ってんだよ。関係ないだろ」
「アキが自分からこんなの絶対買わないから、わざわざ私が買ったの」
「その、アキって言うのやめろ。気持ち悪い」
 お節介に愚痴を返して、彰は机にうつ伏せた。
「話をすり替えるんじゃないの」
 当然、世話焼き気質の世里奈が諦めるわけがなく、すぐさま彰の頭頂部に鈍い痛みが走った。
 参考書の角で殴ったのだ。角で。
 彰は「でっ」と短い呻きを上げ、両手で頭を押さえた。
「どうせ中間試験も散々な成績なんでしょ」
 痛がる彰に世里奈は参考書を指差すように突きつけ、鋭い口調で言う。
「やればそこそこ出来るくせに、自分から勉強しようとしないからこういう事になるのよ。だからまずはこうやって、図書館で勉強してとにかく勉強する習慣をつけないといけないの、いい? 大体あんたは昔っから……」
 世里奈の説教を聞き流しながら、彰は小さくため息を吐く。
 隣に住んでいる、三宅世里奈。
 一個下の幼馴染は、物心ついた時には既に彰の隣にいた。
 肩辺りまで茶髪を伸ばし、おでこを出すように前髪をクローバーの髪飾りで留めている、実年齢より若干童顔めいた容貌。彰より一つ年下だが根っからの姉御肌で、彰に対して敬語は一切使わない。ただそれは幼馴染の彰に対してのみで、他の上級生とはごく普通に敬語で話す。対して、彰には対等どころか、むしろ下等生物を見るかのような態度で接してくる。出会い頭にこういった説教が飛ぶのは日常茶飯事だった。初めのうちは彰も世里奈の小言に皮肉で応酬していたが、いつの間にか右から左へと聞き流すようになった。
 一通り彰の悪口を言い終わると、世里奈は締めくくるように言う。
「今の内から勉強をする習慣をつけておけば、大学や社会に入った時にきっと役立つに間違いないの。たとえば、私の父さんだって真面目に努力して、立派な企業に就職できたんだから。父さんだって決して成績が良いわけじゃなかった。でも努力したから、今こうして働いていられるのよ」
「現実そんなにうまくいったら苦労しないだろ。大体、俺が就職するかどうかもわかんねーのに、そんなこと説く意味ねえだろ」
 彰は不機嫌そうに声のトーンを下げながら言う。
 だがそれを遮るように、世里奈は首を横に振った。
「私はただ、真面目に生きることが大事だってのを言いたいだけ。何回言ってもあんたが聞かないから、こうやって口が酸っぱくなるほど言ってるの」
「余計な世話だ。俺に真面目な生き方なんて合ってない」
「そんな根拠、何処にもないじゃない。あんたね、」
「あるさ」
 彰はいささか声色を変える。
「お前の父親が普通のサラリーマンでも、『俺の父親』は違う」
 痺れを切らした彰がそう言った途端、世里奈は口を少し開けたまま押し黙った。二の句が告げない世里奈を一瞥し、彰はそのまま言い募る。
「子は親を見て育つ、子は親に似るって言うだろ。お前がお前の父親を見て真面目に育っていくのなら、俺は俺の父親を見て不真面目、社会不適合者に育つ運命にある。別にそれに関しては何の恨みも持っちゃいねえけどな。俺とお前、生まれた環境はまるで違うんだ。これ以上自分の価値観を押し付けるんじゃ、ねえよ」
 吐き捨てて、彰は立ち上がる。
 睨みつけるような眼差しを、世里奈に向けた。吐き出された言葉の端々は怨嗟や憎悪とも取れる暗い感情を孕んでいて、世里奈は思わず口元を引き絞り、眉根を寄せる。
 彰は素知らぬ顔で、世里奈の横を歩いて行く。これ以上息苦しい図書館で、あまつさえ世里奈の監視付きで勉強に励むなど、まっぴら御免だった。
「……何処に、行く気なの」
 背後から語りかける世里奈に、肩越しに振り向いた彰は、無表情で答える。
「決まってんだろ。帰る。勉強する気なんてさらさらねえ」
「ちょ、ちょっと待ってよ……」
 それぎり会話をすることもなく、彰は世里奈の元から立ち去った。
 世里奈の視界から逃れるために、振り返ることなく書架の隙間を縫うように進む。少し大きな声で口論をしてしまった所為で周囲の視線が時折り突き刺さるが、そんなことを気にするほどの気力もなかった。
 市立とはいえ県内では随一の蔵書量を誇る天領市立図書館は、整然と本棚が並ぶ一階部分と、読書スペースの多い、真ん中に大きな吹き抜けのある二階部分で構成されている。今日のような平日の午後はそれほど利用者は見当たらないが、週末になると子どもや研究者、老夫婦などの本を求める人々でなかなかの賑わいを見せる。
 その中には当然、読書スペースで勉学に励む学生の姿も多い。彰も見知った顔が参考書片手に一心不乱にシャーペンを走らせている光景も珍しくない。
 そう言った、学生としてあるべき姿を見るたびに、嫌気が差した。
 彰は、真面目に生きている人間が嫌いだった。
 学校で真面目に授業を受け、帰ってからも机に最低三時間以上向かい、毎日同じ時間にご飯を食べ、早寝早起きを心がける。そんな規則正しい生活を送るなんて馬鹿馬鹿しくてたまらない。他人から正しい生き方を教えられ、そのとおりに規律正しく生きるなど、彰には到底考えられなかった。
 図書館を奥へ奥へ抜けていくと、二階の隅、誰も寄り付かない分厚い和書洋書が並べられた本棚に隠れて、埃をかぶった扉があった。部屋名の表記も無く、戸はかすかに開いている。彰はそれを見て怪訝に眉をひそめた。
「…………どう見ても入り口では、なさそうだが」
 顎に手を当てて唸る。
 彰はド級がつくほどの方向音痴だった。
 そんな時、背中の方から彰を呼ぶ声が聞こえた。どうやら、もう一度勉強をさせるために、世里奈が彰のことを追いかけてきているようだ。
「めんどくせえな」
 また捕まってしまうくらいなら、埃塗れになって隠れたほうがまだマシだ。
 制服の襟元を掻きながら、彰は腫物を触るような手つきでドアノブに触れ、扉を引いた。
 途端、

 むっ、

 とした古臭い書物の芳しい香りが鼻腔を刺激する。どうやらほとんど使われていない部屋のようで、学校の教室ほどはありそうな空間の中に、ハードカバーの本が所狭しと床に平積みにされていた。天井から下げられている豪奢な照明には何故か淡い明かりが灯っており、積本の間には人が通れるように作為的な通路が出来ていた。
 恐らく、たまに物好きな人間がこっそり立ち入ってるんだろう。彰は特に疑問を持たずに扉を閉めた。そういう人間もいるのだと、思っていたからだ。
 声が部屋から遠ざかるのを確認すると、小さく息を吐いて、彰は部屋の中を歩く。埃っぽい室内は思っていたよりも居心地が良い気がした。そう思ってしまえる自分が嫌だった。慣れてしまっているのだ。本が積み上げられた、少し薄汚い部屋というものに。
 雑念を捨てて、彰は平積みされてある本を目でなぞる。殆どが洋書なのか背表紙が英語で書かれてあるため、英語赤点常連の彰には解読などほぼ不可能だった。そうする気も起こらなかった。
 壁には細かい装飾が施された額縁がいくつも掛けられていて、その中には美術の教科書やらテレビやらで見た記憶のある人物らが描かれていた。ある者は最後の晩餐を嗜み、はたまたある者は物憂げな表情で赤子を抱いている。もちろんそれが誰が誰を描いた、どういう絵画なのかさっぱり理解することはできなかったが、とてつもなく貴重なものであることは直感的に感じ取った。
 それ以外にも、壁際に佇んでいる古時計や、塵埃の溜まった――それでも豪華な紋様が際だって見える絨毯と合わさって、この図書館の一室がまるで一つの芸術品のようにも感じられた。
 だがそれを珍しがる感覚も、長くは続かない。
 彰の脳内では、すでに別の議題が持ち上がっていた。
「さて、ここに逃げ込んだはいいものの、どうしたもんか」
 方向音痴の彰には、自分が今この図書館のどこにいるかなど想像つくはずがない。見たところこの部屋には窓がなく、非常口も見当たらない。かと言ってこの部屋から出れば世里奈に見つかる可能性は格段にアップする上に、そもそも出口の方向すら見当がついていないので出たところでさらに脳内回路が混乱してしまうだけだ。
 なので、見つからずにやり過ごすには、数時間後の閉館時間を待つ他ならない。その頃になれば流石に世里奈も諦めているだろうし、それに――――
「……とにかく、この部屋で時間を潰すしかない、か」
 言い聞かせるように呟いて、彰は壁にもたれかかった。
 時間を潰すといっても、読書嫌いな彰にとって図書館とは昔から惰眠を貪る場所でしかない。この部屋には見たところ、眠るのに都合の良さそうな机と椅子はなく、まず埃が蔓延している部屋で寝ようものなら起きた時にはアレルギーに罹ってしまいそうで、なんとなく眠ることに躊躇いが生じた。
 ものの数分で手持無沙汰になり、天井を見上げる。矮躯なシャンデリアが静かに灯っているのを、彰は茫とした表情で見つめる。
 こうなってしまうと、無駄な思考を巡らせてしまうのが人間の性だった。
 一つ、大きなため息を吐く。
 真面目な人間が嫌いな彰は、真面目に生きていくことも当然嫌いだった。大学に進学してそこらの会社に就職した後、四十年間の労働義務を果たしてからは年金暮らしになり、いつかは寿命を全うしてこの世を後にする。今の世界では半数以上の人間がステレオタイプとも言える人生を送る羽目になっている。もしかしたら自分も、そんな面白味のない生き方を強要されてしまうのかもしれない。そう考えるだけで身体の奥底で黒いものがせめぎ合って、胸糞悪くなる。
 なぜ、そこまで規則正しく生きることを強要されなければいけないのか、全く得心がいかなかった。その一番の理由は、家の書斎に『棲んでいる』父親が否応なしに教えていた。社会から隔絶されたような生活を送っていても、一応人間として生きていくことは可能だと、彰は嫌々信じていた。
 平平凡凡な生き方へ誘うのは、果たして正しいことなのか。他人と同じ生き方をしていく事こそが、この世における絶対的正義なのか。だとしたら、こうして否定的な感情を持っている自分は、世間体で見れば悪なのか。
 度し難かった。苛立ちの顕著な貧乏揺すりをしながら、彰は見えない誰かに問うように、声の許す限り悪態をぶちまけた。
「何の理由があって、『正義』に強要されなきゃいけねえんだよ」

 その瞬間、この静謐な部屋に変革をもたらすものとして、それは突然訪れた。

     

 不意に鼓膜を震わせたのは、何冊もの本が床に落ちる音。
 彰は俯き加減だった頭を上げる。沈黙の空間に突然響き渡った物音に、思わず彰は目を見開いた。
 音は壁にもたれかかっていた彰から見て、中央の方から聞こえた。どうやら、幾重にも本が重ねられていて、ちょうど視界から途切れてしまっている、その空間から発せられたようだ。剣呑な眼差しを見えない「何か」に向け、底冷えする低い声で訊ねかける。
「……そこに、誰かいるのか?」
 警戒心をあらわにしながらも、彰は壁から背中を離して、発信源に歩みを進める。
 乱雑に積み上げられた書物によって複雑怪奇に通路が作られているこの部屋では、どこを通ればどこにたどり着くのか想像がつかない。
 だがそれも、極度の方向音痴夏目彰には関係のない話だ。とにかく真ん中に向かいそうな隙間を選んで、隙間をたどって歩き進めていけばいい。そう考えた彰は、躊躇することなく突き進んでいく。
 積本の所為で予想以上に狭苦しい室内は、少しでも足を踏み外せば本の雪崩を起こしてしまいそうで、意図せず彰の足取りは段々と慎重になる。
 少し時間が過ぎた。本の道はどんどん狭くなる。
 初めは人一人余裕を持って通れるくらいだった道幅が、もはや横歩きでなければ通れないほど狭くなってしまった。

 ――全く、面倒なところに入り込んでしまった。

 彰は今日何度目かの溜め息を吐いた。
 元々は図書館の出口を探すためにうろついていたはずなのが、どういうわけか図書館の奥部に位置するであろう、人気のない本の溢れる謎の部屋へとたどり着いてしまった。もちろんそれは世里奈から逃れるためで、好き好んで入って来たわけではなかったのだが。
 と言っても、今更引き返すことは出来そうにない。もはや、後ろさえ満足に振り返ることができない状況だ。ここまで歩いてきた道を再び戻るとなれば、何のためにここまで来たのか意味が分からなかい。そもそも、彰がこの部屋の入口までたどり着ける保証もなかった。
 だから、音の正体を確かめるためだけに、彰は数多の本に囲まれながら進む。
 少しだけ空気が淀んできた気がして、彰は軽く咳き込んだ。換気するような場所もなく、これだけ埃に塗れた本が散らばっている部屋だ。何かしらのアレルギーを引き起こしたとしても仕方がない。彰はアレルギーも花粉症も持ってはいなかったが、ここまでひどい埃だと身体が拒絶反応を起こしてしまいそうだった。
 咳き込んだ所為で肺が疼き、殆ど密室の空間にいるためか、首筋に汗が流れる。
 どこまで続いているのか、部屋の広さにしてはやけに長い気もする、積み上げられた本と本とが作り上げている隘路を、彰は無心で進んでいく。
 もはや何のためにこの部屋に来て、こうして歩を進めているのか、考えることもできなくなってしまった。

 それを見計らったかのように“異変”は彰を染め上げていく。

 淡い光に照らされていたはずの部屋が、ようようと薄闇に包まれ始める。
 静寂が――――息づく。
 自分の歩く音と、時折服と本が擦れる音だけが聴覚を支配し始める。脈動が身体の中でやけに大きく響き、両の肺を握りつぶされる錯覚に陥って、次第に息苦しさは増していく。心臓が早鐘のように脈打ち、漏れ出す息の量が段々と増えていく。両足は鉛のように重く、一秒に一歩踏み出すのがやっとだった。
 彰は、異変に気付いた。
 そして、それが遅すぎたということにも。
 頭上には明りの灯ったシャンデリアが見える。しかし、双眸が映す風景は、夕刻を過ぎた世界のように暗闇で塗り潰されようとしていた。視界がフェードアウトするモノクロフィルムのように色彩を失う。眼前に掲げた自分の手は得体の知れない感情に突き動かされて、小刻みに震えていた。
 それが本能的な恐怖であると、ようやく理解した。
 明かりが消えているのではない。
 彰の視界が光を映さなくなってきているのだ。
 とうとう彰は積み上げられている本に寄りかかり、自分の両目を押さえた。
 録に見えない手の平で何度も瞼を擦るが、視野はもはや闇一色に染まりきってしまっている。視覚は黒の塊に敷衍されていく。いくら瞬きを繰り返しても、暗転は終わらない。目の表面が真っ黒な涙に覆われているような錯覚がして、様々な顔をした闇が蛆虫が這いまわるように彰の視界で不気味に蠢いた。
「……一体、何が…………起こって…………」
 彰は握り込むようにして両目を押さえる。どくんどくん、とひどく脈打つそれは、異常をきたした双眼のものか、はたまた臆病風に吹かれた自身の鼓動であるのか全く分からなかった。
 だが既に彰の頭からはそういった類の思考は消えていて、握りしめた二つの手は、彰の脳によって徐々に力が込められていった。
 その理由は、ただ一つ。
「俺の目は、一体…………」
 うわ言のように呟く。がちがちと歯の根が合わなくなって、本の壁にもたれかかったまま、汗で湿った指先を、そろり、と皮膚越しに眼窩に這わせる。瞼と眼球の間に爪が食い込み、鈍いわずかな痛みが眼球全体を打擲した。
 ずず、
 ずず、
 と、爪を立てた指先が瞼越しに眼球を覆い始める。
 思考回路は途絶えていた。うつろな表情をした抜け殻のようになった彰は、柔らかいその表面を抉るように彰は――――彰の手は躊躇することなく、一対の目玉を掴んで引きずり出そうと、強引に――――――――


「そこまでに、しておいたほうがいいでしょう」


 その瞬間、景色が閃光に焼かれたようにフラッシュバックした。
 長きに渡って眠っていた感覚を呼び起こされたように、神経に直接語りかけてくるような不思議な「声」が耳に届いた。身体にまとわりついていた粘質性の闇が光によって浄化されていく。そんな感覚だった。
 次に目を開いた瞬間、そこは先刻まで彰がいた場所とはかけ離れていた。
 恐る恐る瞼を上げると、床に座り込んでいる自分の足が見える。足はさっきまで恐怖に打ち震えていたはずなのに、それはぴたりと止んでいる。彰が腰を下ろしているのは臙脂色を基調とした欧風の絨毯で、先程の部屋のものに柄が似ているようにも思えたが、それには埃は一切溜まっていなかった。
 壁にもたれかかりながら、彰はゆっくりと立ち上がる。視界はまだおぼつかず、ぼんやりとしたままだったが、部屋の全景は何となしに分かった。
 少し前まで歩いていた部屋よりも、わずかに狭い部屋。本棚が壁一面に敷き詰められていて、より一層狭く感じる。後ろを手で触れるとひんやりとした冷たい感触があって、肩越しに振り向くと木製の黒い扉であることが分かった。
 彰は視線を前に向ける。部屋の床の殆どを覆ってしまうほど大きな絨毯の先に、大会社の社長が肘をつくような、豪奢な机が見える。天井から下がっているステンドグラスのシャンデリアに照らされて、真新しい表面が黒く光っている。机の上には所狭しと本が積み上げられていて、本来の目的を果たしてはいなかった。
 毒されていた視力が回復して、ようやく世界が鮮明に見えてきた、その時。

「貴方はその目玉を抉り取って、誰に献上するつもりだったのでしょうか?」

 彰は視線の先に、二つの細長い「耳」を捉えた。
 机の上に積み上がっている本の向こうから、一対の白い「耳」が姿を見せていた。
 それは、兎の耳だった。
「かの旅人は旅路の果てに自らの目玉を魔物に捧げたと言いますが、貴方の場合は順序がまるで逆だ。まずは目玉を捧げ、それから足を千切られ、腕を◯がれ、それからようやく身ぐるみ剥がされていく。順序が逆であることには、貴方自身何か思うところがあるのでしょうか? それとも逆説的に、自分は他人には騙されないということを暗示しているのでしょうか?」
 霞がかっていた意識が、思考が、一瞬にして吹き飛んだ。
 彰はまず、自分の耳を疑った。
 視界に映っているのは、積み上げられた本の先で揺れる二つの耳。この部屋の中に確認できる人間の姿は、恐らくは自分だけ。それ以外には見渡したところ人っ子一人見当たらない。壁は本棚で埋め尽くされている所為で、部屋の外から声が漏れているとも考え難い。そもそも、声は部屋の中からはっきりと響いてくる。
 ならば一体、この「声」の主は誰なのか。
 この、無菌室のように澄みきった声を発しているのは、一体。
 彰は一度深く深呼吸をして、「そこにいる何か」に向けて、口を開く。
「そこに――――誰か、いるのか?」
 同じ言葉を、今度は語調を強めて、言い放った。
 すると、わずかな間こそはあったが、小さな唸り声と共に答えは返ってきた。
「そうですね、貴方が私を存在していると認めるのであれば私はここにいると言えますし、裏返せば貴方が私の存在を否定すれば、恐らくは私はここにはいなかったことになるでしょう。貴方はどちらを選びますか?」
「声が聞こえるってことは、そこにいるんだろ」
「成る程。私が思うに、貴方は実に直感的で、思索に富んでいるわけではない、と見ました」
 彰は声の主の言った意味が瞬間に理解できず、頭の中で彼の喋った言葉を反復した。そして、自分が侮辱されたのだと分かると、すぐに頭に血が昇った。
「おい、俺を馬鹿にしてるのか? 大体、お前は何者なんだ?」
「おっと、失礼……。いやはや、こちらの方々とは長きに渡り言葉を交わしていなかったもので……。度重なる無礼をお許しください」
 妙に慇懃な態度がかえって見下しているような気がして、彰は右の拳を握りしめた。姿が見えていれば、すぐにでも殴りかかっているところだった。しかし、それは実行に移せなかった。
「私の正体、でしたね。この世には、二つの世界があるのをご存知でしょうか」
 ばたん、と本を閉じる音が聞こえる。
「一つは、貴方がたの暮らす平凡な世界。私たちはそれを俗に『現身之世』と呼称します。所謂、地球という星の法の下に成り立っている世界のことを指します。私たちはこの世界の事もよく知っていますが、一般に貴方がたはこの世界の事しか知り得ません。双方向性がないからです」
 語り手は椅子を引いて、立ち上がる。隠されていた容貌が、露わになる。その瞬間、彰は驚きで一歩後ずさりながらも、落ち着いた表情で、信じがたいその姿形を脳裏に焼き付けた。
「そして、もう一つ。私のような異形の住人が住まう、俗に、『御伽之世』」
 黒い外套を身に着けた、“首から上は兎、首から下は人間”の容姿――――。
「名を、エスカ。ただ、貴方を導くだけの存在です」


     一ノ噺「獅子搏兎」

     


     ■

 自分が住んでいる以外の「世界」は存在する。
 人類が哺乳類の枝分かれの末に誕生したように、「世界」という概念も何百年、何千年という過程を経ていくつもの世界に分断されていった。代表的なものを上げれば、人間界、魔界、幽冥界、平行世界。当然、これらの世界は人によって世界そのものの認識が変わるかもしれないが、ただ一つ言えるのは、これらの世界は必ず存在しているということ。一説によれば、誰かがその「世界」は存在すると認識した瞬間、その世界は存在していたことになる、と言う。

「以前、旧い友人から聞いた話です。もちろん、憶測の域を出ませんが」
 そう言ってコートを羽織る兎人――――エスカは部屋の中ほどに置いた椅子に座り、膝の上に置いた数冊の本を、黒い革の手袋を着けた手で撫でた。
「現身之世も、御伽之世も、私たちが存在していたことにしている世界の一つです」
「いや、そうじゃなくてだな」
「たとえばあなたが死後の世界を信じているとすれば、死後の世界は存在しているということになります。しかし、一般的に観測すると、その世界が存在するかは蓋を開けない限り分かりません。シュレディンガーの猫に少し似ていますね。その世界を覗くまでは、果たして存在しているのか、していないのか確かめることは出来ません。なぜなら、その世界を訪れることでしか、存在を証明できないからです」
「人の話を聞け、って言ってるんだ」
 彰は半ば激昂気味に、言葉の端々を尖らせる。
「いきなり変な部屋にやって来たかと思えば、兎の頭をした変な野郎にわけの分からない話を延々聞かされる気分になってみろ」
「それはとても楽しそうですね。未知の世界は好奇が疼きます」
 エスカはくつくつと、嘲笑ではなく純粋な笑い声を上げる。直接口から発するのではなく、まるで本来発声器官のない生き物が身体の中身を捻じ曲げて無理やり音を発したような、どろどろと不協和にくぐもった声。それが動物的な小さい口から垂れ流されているように感じ取れた。
「感じたことがありませんか? 未知のものに対する好奇、を」
 いやに流暢な、不快に歪んだ声が鼓膜を撃つ。
「世界だけではありません。手近で言えば『明日』という存在も未知です。不透明な闇の中に指先を落とし込んだ時の感覚。闇夜の海に視界をうずめた時の感覚。想像しただけでも、悪寒に似た恍惚が背筋をなぞります」
「さあな。感じたこともねえよ。いいから早く、ここから出せ」
 自分の話を聞く様子を見せないエスカに、彰は苛立っていた。後ろに扉があると分かった瞬間に、すぐに扉を開けて逃げようと考えたが、どういうわけかドアノブは固く締められていて、一朝一夕では開けられそうになかったのだ。
「ところで、貴方に一つ質問があります」
 エスカは本を撫でる手を止め、頭を少し上げると、扉にもたれかかっている彰に目線を合わせた。頭の形は完全に兎のそれだが、二つの目だけはやけに人間的で、目を細める仕草はほぼ人間の目を模倣していた。
「貴方、どうして私の姿を見ても、然程驚いていないのでしょうか?」
 彰の肩が、わずかに反応する。
「普通の人間なら、私のような異形に出くわしたとなれば、腰を抜かすほどの驚愕に見舞われても不思議ではありません。人間の言葉を話すとなれば尚更です。失神、気絶、錯乱状態に陥っても、それは恐らく正常。それにもかかわらず、貴方は今こうして私と対峙し、尚、両目から光を絶やさず、むしろ私に対して敵意を向けているように感じます。これは非常に稀有なパターンです」
 冷静に分析する、エスカ。
 彰は、無意識に握りしめた拳が湿るのを感じた。
「それはまるで――――以前にも私のような異形に出会ったことがあるかのような、とても興味深い反応。今まで遭遇したことのない貴重な例です。私は、知りたい。なぜ、貴方が驚きの色を見せないのか。そして、なぜ私の言葉に対して、今、“焦りを隠せずにいるのか”」
「…………!」
 に、と一層目を細めて、エスカは彰に語りかける。
「今まで、何千人何万人……数え切れないほどの人間と問答を交わしてきました。それぐらいになれば、表情、手の動き、瞳孔、呼吸間隔といった要素に目を向けると、自ずから相手が何を考えているのか、想像がつくようになります。勿論、完全に理解できるわけではありません。ただ、貴方が私に対して抱いている考えは、何となしに理解できているつもりでいます」
 彰は喉を鳴らして唾を飲み込んだ。
 見通されている。夜色の外套で身を包んだこの兎人は、彰の考えていることを小さな行動原理から解釈して、過去の経験と照らし合わせて導き出しているようだった。それは、心理学について相当量の造詣がなければ、決して為し得ぬ手法。
 彰は警戒心を強めながらも、痺れを切らしたように口を開いた。
「……昔から、そんな御伽噺みたいなことは、散々聞かされてきたんだ」
 大きく息を吐き出し、記憶をたどりながら。
「変な奴がいてよ。そいつに作り話みたいな経験談を死ぬほど注ぎ込まれた。狼の形相をした亜人と酌み交わした話。小人に陥れられて、蛆を吐き出す女と接吻させられた話。象の頭を持つ人間を観察したって話。人魚姫と出会って策謀を企てて魔女を殺した話。小さい頃は信じ切って真面目に聞いてたけどよ、ある程度常識が理解できるようになってからは頭の狂った人間の妄言としか捉えなくなったんだ」
「巫山戯た想像だと、貴方は思ったわけですね」
「そういうことだ。その話の中に、お前みたいな兎の頭を持つ人間も現れた。存在するわけがないと高はくくっていた……が、ある程度の想像はついていたから、別に今更驚こうとは思わなかった」
「随分と不思議な経験を、幼少期になさったようで」
「……変な奴の話を、ただ聞き流してただけだ」
 不機嫌そうに漏らす彰を余所に、エスカの興味は別の視点に移る。
「と言うことは、貴方の中には、そう言った狂言を一瞬でも信じた過去がある、といった解釈で宜しいですね?」
「ガキの頃も含めるって言うなら、そうなるな。今はもう微塵も信じて……いや、お前みたいなのが目の前にいる時点で、これが夢じゃなけりゃ信じるしかないが」
「ご安心を、現実です。過去に一度でも信じたことがあるのなら、『資格』は十分にありますね。それが確認出来ただけでも、成果があるというものです」
「何だその、『資格』ってのは」
 安堵したのか、胸を撫で下ろすエスカに、彰は問いかけた。
「そうですね。そろそろ、私がここに来た目的を話しておきましょう」
 答えるエスカは、嬉しそうに。
「実は今、御伽之世は混迷に陥っています。詳しいことはお話しできませんが、兎に角あちら側の者だけでは解決できぬ異常事態が発生しているのです。そこで私が現身之世を訪れ、問題解決に相応しい人物を探そうとしている、というわけです。そして、その現場に貴方が現れたところで、物語は息を止めています」
「待てよ。その、御伽之世のコンメイだとか何とかがどうなろうが知ったこっちゃないが、別に俺はこの部屋に来たくて来たわけじゃねえんだ。俺はただ、この息苦しい部屋から外に出たいだけだ。少し話ができたからって、勘違いするんじゃねえ」
「……勘違いされているのは、貴方ではありませんか?」
 疑問を投げかけた彰に、今度はエスカが疑問符を浮かべる。
「私は別段、貴方をここに招待したわけではありません。貴方自身が、貴方の意思でここにやって来たのです。先刻、貴方は言っていたでしょう。『いきなり変な部屋にやって来た』、と。つまりそれは、無意識の内にあなたがここを訪れた証拠です。貴方の身体は分かっているのです」
 その言葉を聞いて、彰は二の句が告げなくなった。エスカによると、彰は自分の意思でこの部屋までやってきたということだった。勿論そんなつもりはさらさら無かった上に、そもそもこの部屋に来るまでの記憶が抜け落ちていたため、それを証明する方法も、論破する方法も持ち合わせていなかった。
「話を戻しましょう。私は御伽之世の混乱を鎮めるだけの『資格』を持つ人物を探しています。そして今目の前に、それだけの『資格』を有する貴方が立っています。結論から言えば、貴方にその役目を担っていただきたいと、私は考えています。その方が、より早く解決できる可能性がありますからね」
 五本指の右手を顎に添えて、エスカは言う。
「それに今。貴方は、この世界に不満がある。違いますか?」
 少し口を開いたまま、押し黙る彰。
 返答を待たずに、エスカは本を片手で抱えて、立ち上がる。
「貴方の持つ不満がどのような要因によるものかは知りかねますが、少なくとも、この世界とは異なる世界の空気、法、鼓動に触れるだけでも、貴方の中の世界は面白いように豹変するはずです。それは、私が保証します」
 力を込めていた拳が、いつ間にか解けていた。
 扉に寄りかかっていた身体が、いつの間にか直立していた。
「勿論最後は、貴方自身の判断に委ねます。私の言葉を甘んじて受け入れ、御伽之世への招待を良しとするか。私を悪意の塊と認識し、異世界への誘致を拒絶するか。私に強制権は一切ありません。私はあくまで、貴方を導くだけの存在です」
 まだ何も理解は追いついていなかった。
 御伽之世がどんな世界なのか知る由もなく、それが真であるかどうかも分からず、これが夢であるかもわからず、全くもって不鮮明で不確かな理由で彰を異次元に誘導している、このエスカと言う異形が何者であるかも知らず、それらを全て信じることなど不可能だった。
 それでも、妙な安心感があった。
 エスカの言葉の端々には、自分の知り得もしない事が夥しく溢れていた。
 今の世界に、現状に、不満がある。
 もしそうであれば、御伽之世を訪れると良い。エスカはそう言った。
『今日は、割れた瓶の口が独り言を垂れていた時の話をしよう』
『今日は、兎が狸を追い回しているのを見た時の話をしよう』
 頭の片隅で、幼い日の自分が、羨ましそうに彰を眺めている気がした。
 やがて彰の思考は、現行のこの突飛な世界事情について、彰自身も予想だにしなかった、単純明快な答えを打ち出した。


     “どうせなら、もっと知りたい。
      嘘と信じて疑わなかった、世界の事を”。


「さて、これが最初で最後の選択です」
 エスカは黒い右手を差し出し、にい、と双眸を細めた。
「物語を紡ぐ、覚悟は?」

     ▽

「全く、アキったら一体どこまで逃げたのよ……」
 世里奈は、逃亡を計った彰のことを嗅ぎ回っていた。彰が極度の方向音痴だというのは良く分かっていたので、あえて入口の方ではなく、図書館の奥まった部分を念入りに捜索していた。どこかに隠れてやり過ごされることもあるかもしれないので、念入りに隅々まで目を走らせながら。
 そんな時、ある一つの扉が目に付いた。
「? あれ、どうして……」
 それは、図書館のかなり奥に位置する、今では古書の集積場所として扱われている、積書架が並んでいるはずの名前もない部屋。使用されることもほとんどないその部屋の扉が、どういうわけかわずかに開いているのだ。
 入り口とはまさしく大反対の、誰も入らないような部屋の扉。
「まさか……」
 世里奈は表情を引き攣らせながらも、否定できない可能性を信じて、ドアノブを掴み、ゆっくりと扉を引いた。

     

     ■

「御伽之世についてまだ、詳しく話していませんでしたね」
 エスカは彰を椅子に座らせ、本の頁をめくりながら言った。
「御伽之世というのは、簡単に言えば御伽の形をとり、御伽の背景に倣い、御伽の理に法った世界の事です。たとえば『桃太郎』の体をした世界があれば、『浦島太郎』の背景を孕んだ世界も、『シンデレラ』に法った世界もあります」
「つまり、御伽噺の世界『そのもの』ではないってことか?」
「そういうことになりますね」
 エスカは深く肯いた。御伽の世界を装っているが、それはその世界自体がそう思い込んでいるだけに過ぎない。彰はエスカの言葉をそんな風に認識した。
「御伽之世の住人はその御伽噺の住人として、己の配役を全うしようとします。桃太郎でしたら、鬼を退治しようと。浦島太郎でしたら、亀を助けて竜宮城へ行く、と言ったように」
「でもそれだと、おかしいことにならねえか?」
「……それは、なぜ?」
 態とらしく首をかしげるエスカに、彰は問う。
「例えば桃太郎だったらよ、鬼を退治して財宝を持ち帰ったらめでたしめでたしで終わりだろ。御伽噺はそこで『つづく』ってことにはならない。すべての役者が与えられた役目を終えたとなれば、その後はどうなるんだ?」
「やはり貴方は、相当に良い感覚をお持ちだ」
 くつくつと小笑いを浮かべながら、エスカは両の掌を合わせた。
「喜んでください。それほどの嗅覚をお持ちであれば、私の口から説明するまでもありません。御伽之世へ赴けば、きっと貴方のその素晴らしい本能で見極められることでしょう。貴方の浮かべる、疑問符の真相を」
 エスカは弄ぶようにして答えをはぐらかした。
 こんな奴を信用してよかったのか、と彰は溜め息が漏れそうな心境に陥ったが、それを汲み取ろうともせずにエスカは言葉を紡ぎ続ける。
「さて、のんびりと談話をする暇はありません」
 主に話してるのはお前だろ、と彰は心の中で突っ込んでおいた。
「私は、御伽之世が混迷に陥っていると言いました。簡潔に申し上げると、先刻述べました御伽の『理』が崩壊しようとしているのです。もちろん、全ての世界ではありませんが」
 御伽の理が崩壊しようとしている。彰は頭の中で、その文章を反芻する。エスカの言葉はどれも中途半端に抽象的で、御伽之世が一体どういう世界なのか、そこで何が起こっているのかは、限りなく曖昧なままだった。
「崩壊……物語の筋書きが破綻する、みたいな事か?」
「短絡的に申しあげると、非常に近いですね」
 肯定も否定もせず、エスカは徐に立ち上がる。
 そして背後にある本棚に近寄ると、また別の本を手に取った。
「……御伽之世に向かっていただく際に、いくつか注意事項があります」
 エスカは彰の眼前に屹立し、指折り数えながら言う。
「一つ、御伽之世で、現身之世の事を口にしてはならない。
 二つ、御伽之世で、文明の利器を用いてはならない。
 三つ、御伽之世で、『成り行き』を壊してはならない。
 以上、遵守ください」
「成り行き?」
「訪れれば分かります。では、準備をいたしますので暫くお待ちください」
 碌な返答もしないで、エスカは本の頁をめくり始める。
 彰はまだ若干後悔の念に駆られていた。とんでもないことに巻き込まれたという億劫な思いと、御伽之世がどういう世界なのか気になる思いが葛藤している。溜め息さえも出ず、ただ頭の中で想像上の御伽之世とエスカへの不信感とが過って、疑惑の念がふつふつと湧いていた。
 ――どうしてこんなことになるまで首を突っ込むのを辞めなかった?
 椅子の肘掛けに頬杖を突きながら、目を伏せて心の中で述懐する。
 彰は生来こういった異常現象は全く信じない類の人間であり、エスカという『亜人』と呼ぶべき生物を目の当たりにしたからと言って、そう簡単に非現実的な事を信じる人間ではなかった。
 それは彰の無愛想な人柄や強い厭世観が蟠っている所為もあるだろうが、尤もらしい理由は、彰の過去に確かに存在していた。
 幼い頃の記憶がフラッシュバックする。

 まだ書斎の本を高く見上げていた頃、
 毎日違う本を手にとっては、
 言い聞かせるように読み諭した、『父親』。

 今でもその情景はありありと思い浮かぶ。
 長らく続いた慣習の記憶と言うのはなかなか忘れられないようで、鮮明に思い出すことのできる自分に苛立って、彰は聞こえないように小さく舌打ちした。
 まだ思索に乏しい幼少期。
 彰は少なくとも今より御伽噺の世界に興味があった。恐らく先刻もその記憶が蘇ってしまった所為で、無意識にエスカの誘いを受け入れてしまったのだと、彰は考えた。
 毎日幼稚園から帰っては『父親』による読み聞かせを心待ちにし、始まると自分の知らない世界の事に目を輝かせた。実に純粋無垢な時代だった。物事の分別が容易になった今ではとても考えられなかった。
 過去の忌まわしい記憶と現実に起こっている異常事態が重なって、鬩ぎ合う。
 御伽噺なんて非現実なものを信じても仕方がない、とにべもなく否定する自分。
 今そこにある世界を享受し、一瞬でも疑念の中に期待を浮かべた自分。
 まるで二重人格を持っているような気分になり、互いが互いを否定して、二色の絵の具を混ぜるように頭の中で撹拌され、わずかに混乱気味になって、彰は片手で頭を抱えた。一旦落ち着こうと、彰は雑念を払い除けるように頭を横に振り、首を鳴らしながら頭をもたげて、閉ざしていた視界を明るみに出した。
 その時、

 エスカの右手に“拳銃”が握られていて、
 その銃口が彰に向けられているのが見えた。

「それでは、さようなら」
 彰が黒い銃身を認識したのとほぼ同時に、エスカはその引き金を引いた。
 二人だけの空間に、大きな銃声が響き渡った。


     ***

 こうして――――
 “継語”は、呼吸を始める。

       

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