Neetel Inside 文芸新都
表紙

パーフェクト・イレイザー
2章 堕落

見開き   最大化      

♯9.

「試験対策ばっかりで疲れた~」
「受験シーズンだかんねえ」
 夏織は気だるそうに机にうつ伏せになりながら両腕を大きく伸ばした。愛花が慰めるようにその頭を撫でる。
 最近は授業中に過去問を解き、残り時間で解説といった形式の授業が多くなってきていた。故にどの授業でも気を抜くことができない。私もそんな張り詰めた雰囲気にいい加減うんざりしてきていた。私は勉強が嫌いだ。
 少し周りを見渡すと、何人かが一定のグループを形成している。各々が様々な問題集を広げていて、おしゃべりをする気配はなさそうだ。固まる意味あるのかな。まあ、互いに監視することによって、サボタージュ防止効果もあるのかもしれない。それにしても本当に熱心なことだ。とても真似できない。
 しかし、受験生の熱意がなくとも、私にはこの消しゴムがある。これで必勝だ。必ず勝つ。完全に、完璧に。
 この二週間程、私は解けない問題にぶち当たると、たびたび例の消しゴムを使用してきた。そうして、今では随分と小さくなってしまった。 ……それだけ、私ができないってことだけど。今まで使ってきたどの消しゴムよりも消耗が早い。今日の帰りにまたあの店に行かないと。
「よいしょっと」
 私はおもむろに立ち上がった。愛花、夏織、茜里が私を見上げる。愛花が口を開いた。
「ん、帰るの?」
「うん、授業で疲れちゃった」
「そっか」
 愛花は屈託のない笑顔を作った。私は鞄を持つと三人を振り返って右手を振った。
「ばいばい」
 そう言うと、夏織が優しい笑顔で両手を振った。
「うん、私は愛花ちゃんに勉強教えてもらうよ」
「夏織はかわいいからね~」
 愛花が夏織の頭を撫でる。夏織はくすぐったそうに笑みを浮かべた。この二人もここ最近でさらに仲良くなった。同じ壁を一緒に乗り越えるという事はより一層友情関係を強固にするものなのだろう。茜里がそんな二人の顔を見てから立ち上がった。
「私も自習室に行こうかな」
 茜里はそう言って視線を他のグループに移した。なるほど、三人もいればどうしても勉強に集中できそうにない。それどころか、周りに迷惑を与えてしまいそうだ。茜里のこういう気配りが私は好きだ。
「それじゃ」
 私たちは教室を出た。愛花と夏織は私たちが教室を出るまで手を振ってくれた。
 廊下は静まり返っていて、誰もいない。夏休み前まではこの時間帯でもおしゃべりをしてる子はいた。空気を読んでいるのか、塾にでも通うようになったか。いずれにせよ悪いことではない。並んで歩きながら茜里の横顔を見た。本当に綺麗な黒髪だ。つい見入ってしまう。すると、茜里と目が合った。
「何か顔についてる?」
「ううん」
 そう答えると何となく目を逸らす。別に意味はないけれども。茜里もすぐに前を向いた。
 こうして茜里と二人きりというのも随分と久しぶりのような気がする。ずっと、四人でいたけど不思議な感覚だ。何も話さなくても気まずくなんてない。それにしても、自習室は人が多いような気がするけどなあ。
 自習室は私たちの教室のある階の端にある。すぐ横に階段があるので私も付いて行った。自習室入り口隣にある「非常口」のマークの付いた電灯が鈍く輝いていた。部屋を外から覗き込むと既にほとんどの席が埋まっている。集中力が切れたのか、小声で談笑している子もいた。集中して臨みたいのであればあまり適している環境とは思えない。
 茜里の顔を窺うと、少し困ったように笑ってから私の方を向いた。
「私も帰ろうかな」
「だね」
 お互いに苦笑いを浮かべながら下足場へ向かう。茜里とは家の方角が正反対だ。校門を出て、すぐに別れる。
 茜里は勉強してるのかな。真面目な茜里のことだ。毎日しっかりしているに違いない。
 下足場を出ると、広い大空がオレンジ色に染められていた。素直に綺麗だと思った。最後にこんな気持ちになったのは一体どれほど前かな。少なくとも、高校に入ってからは味わったことのない久しい感覚だ。
 茜里は両手を組んで伸びをした。
「友子さ、ちゃんと勉強してる?」
「してるよ、一応」
 嘘だ。真っ黒な嘘。
 語尾が少し弱くなったのは良心がまだ残っているという事なのかな。それとも、単に度胸がないだけなのかもしれない。いずれにせよ、私はそんなに大胆にはなれない。茜里は少し微笑んでからゆっくりと頷いた。
「そっか」
 短くそう言って少し顔を上げた。夕日に照らされた茜里の顔はどこか憂えているように見える。景色も相俟ってか、本当に綺麗だ。
 茜里は私の言葉をどう受け取ったのだろうか。表情からは何も読み取れない。今はただ前を向いている。いつもと同じ会話なのに不思議な気分だ。多分この空のせいなのだろう。
「うん」
 校門に着くと、茜里は小さく呟いた。
「私もがんばらないとな」
 今でも十分がんばってるよ、茜里は。
「もっとがんばるの?」
「うん。できない問題も多いから」
 絶え間ない向上心。やっぱり茜里はすごい。
 茜里と自分を比較してみると、どうも気が滅入る。私には向上心がないのかもしれない。その日が安泰ならそれで満足。今はそれで事足りるのかもしれない。だけど、もっと先の将来、大人になってもそんな調子では大きなしっぺ返しを食らうだろう。それぐらいは馬鹿な私でも何となくわかる。
「それじゃ、ばいばい」
「ばいばい」
 手を振って茜里の背中を見送った。私の動きは茜里に見えるはずがない。それでも手を振った。真剣に壁と向き合う親友に思いを込めて。茜里ならきっと何とかするだろう。
 しばらくして、茜里が見えなくなってから息を吐いた。
「ん?」
 胸に何かが湧き上がった。その異変に気づき、胸に手を当てるとすぐに収まった。脈拍も正常だ。首を傾げても何も起こらない。病気でもなさそうだ。大丈夫、と納得させる。私は茜里とは正反対の方向へと歩き始めた。
 すると、急に辺りが暗くなった。空を見上げると、夕陽に雲がかかっていた。自宅の方角が嫌に薄暗い。早くあの店に行かないと。天気予報ではたしか曇り空と告げていたが、鵜呑みにしてはいけない。それに傘も持ってきていない。私は深呼吸すると、全速力で駆け出した。

     

#10.

 駆け足でなんとか<山道文房具屋>にたどり着いた。外は厚い雲に覆われてかなり暗くなっている。相変わらず人の気配はなさそうだ。どうやって経営しているのかが少しだけ気になる。しかし、今は他の人のことまでは気にしていられない。みんなと同じ大学に行くためにはこの消しゴムを活用しなければならない。消しゴムには私の人生がかかっていると言っても過言ではないんだ。
 引き戸を開けて中に入った。店内はこの前の時と同様にとても静かだ。自分の鼻息が聞こえるほどまでに。音楽でもかければ少しはお客さんも入りやすいんじゃないかな。
 私は寄り道せずにまっすぐ消しゴムのコーナーを目指す。そして、目的地に到着した。ペン程は並べられてはいないものの、そこいらのスーパーよりはよっぽど多い。私は右から左へと例の消しゴムを探した。なかなか見つからない。どこだったかな。静寂の中で数十秒凝視した後に、ついに見つけた。
「あ、あった」
 手に取ると最後の一つだった。やっぱり人気なのかな。この前来た時はもう一つくらいあったように思うけど。そのままレジに向かおうとすると、何かが私の頭に引っかかった。ある違和感が私の足を引き止める。
 私は振り返って、値札を見た。
「げ……」
 値段はなんと千円。消しゴム一つだけにしては驚愕の値段だ。おかしい、この前は百円だったはずなのに。思わず財布の中を確かめてみる。
 ある、あるにはある。
 けど、千円は厳しいなあ。……いやいや、輝かしい未来のためなら千円くらい出さないと。塾に通ったり滑り止めの受験料に比べたらなんてことない。そもそも、この消しゴムの存在自体が異様なんだ。覚悟を決めてえいやとレジに向かう。
 レジには誰もいなかった。十数秒待ってみたが、人が来る気がしない。仕方ない。少しだけ恥ずかしいけど、息を吸って、
「すいませーん」
 レジの先にある戸の奥から音が聞こえた気がした。それにしても、これじゃあ万引きし放題だ。私はそんなことしないけど。しかし、ペンの一本ぐらいなら気づかれないだろう。
 そんなことを考えていると戸が開いた。
「はいはい、いらっしゃいませ」
「これください」
「千円になります」
 私は千円札をカウンターの上に置いてから老爺の顔を見た。
「この消しゴム、値段上がったんですね」
「はい、入荷が困難な物で。それに、数も少ないので値上げしました」
「そうですか」
「この前、あなたがご購入されてから三つあった在庫が二つになって、残り二つの内の一つは私が自分で買い取りました。帳簿をつけていて、書き間違いが多いので」
 苦笑いを浮かべながら老爺は手の平を私に見せた。その手は鉛筆の芯で薄汚れていた。年齢による皺もあるせいか、随分と弱々しく見える。
 それと同時にまた別の思考が浮かび上がる。
 この老爺はこの消しゴムの本質に気づいているのだろうか?
 今聞いた話では、「鉛筆で書き間違えた文字だけを消す」というごく普通の使い道だ。本質にはたどり着いていない。私は上目遣いで老爺の顔を盗み見た。消しゴムをせっせと袋に入れている。他に意味はないようだ。何か隠しているようには見えない。
「次に入荷するのはいつ頃ですか?」
 私はこの消しゴムに全てを懸けている。肝心要の受験当日にこの消しゴムがないのであれば全て無意味だ。訊かずにはいられない。
「それがまだ未定なんですよ」
「そ、そうですか……」
 胸がどきりとした。
 もしかしたら一週間で来るのかもしれないし、一ヶ月かもしれない。未定なので誰にもわからない。今度入荷したなら、私が買い占めよう。
「お待たせいたしました。ありがとうございます」
「あ、はい」
 我ながらなんて間の抜けた返答なんだろう。私は一礼してから店をあとにした。
 外に出ると、先程よりもさらに薄暗い。学校を出た時の夕焼け空は見る影も無く、どす黒い暗雲が町全体を覆っている。雨が降るのも時間の問題だろう。全身ずぶ濡れになって、風邪でもひいてはたまらない。私は再び駆け出した。
 帰ったら何をしようか。

     

♯11.

 家に着くとまっすぐ自分の部屋に向かった。小走りで帰宅したので、まだ少し息があがっている。リビングの方からはテレビの音が聞こえてきた。お母さん、今日は仕事じゃなかったんだ。
 でもそんなことは気にせずに今日も部屋でゴロゴロしていよう。
 外を見ると、ぽつぽつと雨が降り始めた。愛花と夏織は傘持ってたのかな。この前、八時くらいまでは学校でがんばってるって聞いたけど、それまでに止むとは思えない。私はただ二人が雨に濡れて風邪を引かないように祈るだけだ。
 服を着替えてからベッドで横になった。意味もなく天井を見つめながら一息つく。胸にはぽっかりと穴が空いたような気持ちだ。
 ここ最近はそんな薄暗い気持ちが続いている。好きな文庫本を読んでいても、どこか浮ついた気持ちになって文字が頭に入ってこない。
 あの消しゴムのおかげで受験からは逃れられた。しかし、心の靄は未だに晴れない。せっかく去年みたいにのんびりと過ごしていても、どこか落ち着かない気持ちになってしまう。
「はぁ……」
 幸せ、とは程遠い今の生活。
 何が不満なのかはわからない。ただただ無意味な日々を過ごしている。これといった趣味があるわけではないので、何をしようという気にもなれない。時計をじっと見つめていても針はなかなか進まない。果てしない退屈さだけが広がる。
「ん?」
 階段を登る音が聞こえる。
 音から察するに、友則ではない。それにあいつは部活だったはず。お父さんはいつもはこんな時間には帰ってこないからありえない。となると、残りは一人。
「入るわよ、友子」
 ドアの向こうから予想していた通りの声が聞こえた。返事をする間もなくドアが開く。私は顔だけ動かしてぼんやりとお母さんの顔を眺めていた。
「……あんた、何やってるの?」
 だらしなく寝転がった私を呆れたように一瞥してから訊いてきた。
「何も」
 私が寝転がったままそう言うと、お母さんは腰に手を当てて大きくため息をついた。ここまでくれば、この先の展開はわかる。耳に手を当てたくなるのを我慢して少し眉をひそめた。
「あんたね、今が受験の時期ってこと忘れてるの? 最近、家でごろごろしてばっかりじゃない」
「授業で過去問やってるけど、結構できてるんだよ」
「油断大敵」
「…………」
 バッサリだ。私の言葉は簡単に跳ね除けられた。
 消しゴムのことは当然お母さんにも話していない。もとより誰にも話すつもりはない。どうやら、私の自堕落な生活ぶりが目に余ったようだ。今度は腕を組んで私を見下ろしている。私はゆっくりと上体を起こしてお母さんの顔を見た。
「今からやる」
「ちゃんとやりなさいよ。晩ご飯になったら呼ぶからね」
 めんどうな時はこうやってやり過ごす。高校受験の時にも使っていた手段。とにかく、机にさえ向かえばひとまずそれ以上は言ってこない。この漫画みたいなやり取りもいちいちめんどくさいなあ。
 私はベッドの側に置いてあった鞄を掴んで椅子に座った。もちろん、やる気はこれっぽっちもない。
 お母さんは椅子に座った私を見届けると、ドアを閉めて出ていった。
 少しして、何となしに筆箱を開けて消しゴムを取り出した。相変わらず、こじんまりとしてしまったものの、表面は新品同様に真っ白だ。汚れが一つもない。今日買った新品の消しゴムもそうだが、元々この消しゴムは小さい方だ。
 私は短く息をはいてから大きく背もたれに寄りかかった。今日は放課後に少しおしゃべりして、文房具屋にも寄り道したからいつもとり少しだけ帰宅時間が遅い。
 さて、晩ご飯までどうしようかな。やっぱり、時計を見つめていると針がなかなか進んでくれない。それにしても、勉強机でもできる退屈しのぎを考えないとなあ。じゃないと、また怒られる。

     

♯12.

 ここしばらく、消しゴムを完全に使い切ってしまうのを避けるために使用をなるべく控えてきた。次回入荷するのがいつになるのかがわからないからだ。そうなると、あまり解答修正もできなくなるわけで、間違えた問題の数が多くなってきた。毎日、あの文房具屋には足を運んでいるけど、なかなかあの消しゴムが入荷されない。一つは使い切ってしまい、今はこの前購入した二つ目を使用している。やはり擦り減る早さは桁違いで、早くも丸みを帯びてきている。
 毎回満点を取るのは不自然だから、消しゴムを使っていた時もわざと間違えた問題はあったけど、使用を控えるようにしてからは五割にも到達していない。この科目だけでなく、他の科目も同じような結果だった。
「友ちゃん、体調でも悪いの?」
 夏織が心配そうな顔をして訊ねてくれた。ここまで成績が急降下すれば誰だって心配するのかもしれない。
「ちゃんと勉強してるの?」
 茜里も同様に訊ねてくる。夏織とはまた違った心配そうな顔。茜里らしい表情だ。
 たしかに、最近はまったく勉強していない。夏休みやそれ以外の休日には四人で図書館に行って勉強したりもしたけど、消しゴム入手以降の私は家に帰ってごろごろすることが多くなった。一人でいる時間がこれまでよりも少し多くなった。そして、私の成績の変化。目敏い茜里は私の微妙な変化に気づいたのだろうか。
「まあね」
 苦し紛れに、一つ咳払いして答える。
「そっか……」
 しかし、茜里の表情は冴えない。何もそこまで心配されることなのかな。何だかもやもやする。
 ああ、早く消しゴムを買わないと。これ以上周囲に不信感を与えるわけにはいかない。今日も帰りにあの店に寄ろう。


 今日もここ、<山道文房具屋>へとやってきた。幸いにも、連日顔を出す私に対して老爺は怪訝な顔をしなかった。万が一何か言われても、「この消しゴムを買ってから成績が上がったので、ラッキーアイテムとしてどうしてもほしいんです」とでも言えばいいだろう。まず、そんなことは起こらないだろうけど。
 やはり店内に人の姿はない。人混みが苦手な私にとっては快適な空間だ。物音一つしないのはちょっとだけ怖いけど。
 消しゴムのブースに例の消しゴムはなかった。値札も置かれていない。まだ品出しをしていないのかもしれないので老爺の元に向かう。
「ああ、いらっしゃいませ」
 いつも通りの柔和な笑みを浮かべる。どうやらよくある愛想笑いではなく、心からの微笑んでいるようだ。いつも笑ってくれるので私も安心して質問できる。
「消しゴム入荷しましたか?」
「今日一つ入りましたよ」
「本当ですか!」
 一つというのは少し心もとないが、買っておくのが先決だ。下手に渋って買い逃すよりはよっぽどいい。
「いくらですか」
「一万円になります」
「い……」
 財布にある千円札に伸ばしていた手がぴたりと止まった。聞き間違いだろうか? しかし、老爺は微笑み続けている。どうやら、聞き間違いではないようだ。
 これは消しゴム一個としては破格の値段だ。もちろん、この消しゴムがただの消しゴムではないからという理由があるのかもしれない。だけど、バイトもしていない上に一ヶ月のお小遣いが未だに二千円の私だ。面喰らわずにはいられない。
「一万円ですか……?」
「はい、中々入荷できない商品なので」
 老爺が申し訳なさそうな顔を浮かべる。もう一度、財布を確認してみたけど、やっぱり持ってきた千円と数日分のお昼ご飯代の千円、合わせて二千円しかない。いくら凝視してもお札は増えなかった。
「うーん……」
 一万円、私のお小遣い五ヶ月分。これはあまりにも大きい。でも、家に帰ればお年玉がまだ残っているかもしれない。何しろ今年は受験の年だから外でみんなと遊ぶことも少なかった。まだ余っているかもしれない。
 私はゆっくりと顔を上げた。
「今手持ちが無いので、家に帰ってお金取ってきます」
「申し訳ございません」
 出し惜しみしていてはきっと後悔する。行くときは思い切って行かないと。それに後悔してからじゃ間に合わない。
 私は店を出て、自宅へと駆け出した。


 家から飛び出して、私は息を切らして走っている。
 お年玉は残っていた。それも、一万円以上残っていた。お金が残っていたという安堵感が大きかったので、持ち出す事に抵抗はなかった。嬉しさで胸が高鳴り、頬が緩む。今の私はどんな顔で走っているのかな。
 しかし、喜んでばかりでもいられない。この間にも売り切れてしまう可能性がなくなったわけではない。そんな事はまず起こり得ないとわかっていても、やはり不安は拭えない。“あの消しゴム”の事だ。不足の事態が起きても不思議ではない。世間に知れ渡ってしまえば、数多の手が消しゴムに伸びるだろう。そんな事を私は望まない。
 やっとの思いで店にたどり着いた。店に入る前に数回深呼吸して気持ちを落ち着かせる。そしてゆっくりと戸を開けて、店内に足を踏み入れた。そのまままっすぐレジに向かう。
「お金持って来ました」
「ずいぶんと早かったですね。わざわざ申し訳ございません」
 売り切れるのが怖いから急いで来ました、とは言わなかった。言えるはずもない。
「一万円ですよね」
「はい」
 私は一万円札を取り出し、カウンターに置いた。老爺はお金を受け取り、消しゴムを袋に詰めた。
 これで私の道は確保された。もう本番までは大丈夫のはずだ。全身から力が抜け、どこか浮ついた気持ちになってしまう。
 いつの間にか、老爺は消しゴムの入った小袋を私に差し出していた。
「ありがとうございます」
「はい」
 そうして店を後にした。
 家に向かう足取りは軽快だ。まるで靴に羽が付いたかのように軽い。これで私を苦しめていた悩みの種はさっぱり消え去った。これで心置きなく自由の身になることができる。
 さて、自由になったんだから何をして過ごそうか。家に帰って考えてみよう。

     

♯13.

 ついに試験一ヶ月前になろうとしていた。
 受験直前の独特な空気が日に日に濃くなっていく。みんなは一所懸命に参考書や問題集にかじりつき、窮屈な毎日と格闘している。ホームルームが終わるなり、駆け足で塾に向かう子もいる。なんでも、自習室がすぐに埋まってしまうそうだ。そして席を確保するなり、再びペンを片手に熱意を燃やす。大変なことだ。
 周囲がそんな風に夢中になって何かに打ち込んでいる中、私は一人佇んでいる。それはそれで退屈だった。
 遊ぼうにしても、周りは勉強に釘付けでそれどころじゃない。これじゃあ、一緒に遊ぶことはとてもできそうにはない。何度か三人に、息抜きのために遊ぼうと持ちかけたけど、ぴしゃりと跳ね除けられた。茜里曰く、このままゴールまでノンストップで走り抜けたいそうだ。私にはとても理解できない。
 私は受験から逃れることができたので、 何もしなくなってしまった。授業がある間はぼーっと前を向いて、たまにノートに落書きをしたりする。学校が終わって家に帰ると、お母さんに見つからないようにごろごろと過ごす。全くおもしろみのない毎日がだらだらと続く。いい加減こんな平坦な日々に私も飽き飽きしていた。
 そこで私は退屈から逃れるために外に出ることにした。外は寒いけど、たまにはいいことだろう。自転車に乗り、市内へと向かった。
 やはり外は寒い。
 時折、冷たい風が吹くたびに身を縮めていた。自転車をこいでいれば少しは温まるかもしれないと思っていたけど、どうやらこの程度の運動ではあまり効果がないようだ。緩やかな坂を登り切り、長い坂にさしかかった。ペダルをこがなくとも自転車はスピードを上げていく。
 その途中、中学生の集団とすれ違った。学校指定のジャージを着ていた。部活が終わって帰宅途中なのだろう。羨ましい、と思った。できることなら、中学生の頃に戻って遊び呆けていたい。将来のことなんて考えずに、ずっと笑っていたかった。


 ♯

 外は早くも暗くなってしまった。
 街に出たものの、これといってしたいことはなかった。さすが無趣味の私だ。惹かれる物がどこにも見当たらない。
 何となしにゲームセンターに入ったけど、うるさい上に臭いがきつい。それに金欠なのでお金を使って遊ぶ余裕はなかった。私は虚しさを胸にすぐに外に出た。
 まるで刺さるような冷気が私を襲う。手袋をしてこなかったのは失敗だった。お金が無いのにこんな所へ来たことも迂闊だった。服を買うにしても、本を買うにしてもお金がかかる。
 しかし、お金を払わずして娯楽を得る……。そんなことができるのだろうか?
 散歩は私の性に合わない。景色に風情を感じることなど、そんな事はできない。それにただ歩くのは疲れるし退屈だ。自分にだけ聞こえるように小さく唸り声を出しながら考えていると、背後に気配を感じた。
 第六感が働いているのか、背中にプレッシャーを感じる。全身で危うい何かを察知していた。恐る恐る振り向くと茜里が立っていた。
 私は息を呑んだ。
 無言のまま私と茜里は見つめ合う。なんとか視線を逸らしたかったけど、まるで凍りついたように動けない。茜里の目に冬の寒さにも負けない冷たい色が見えた気がした。うまく言葉が出ない私はただ茜里を見つめるだけだった。
 すると、強い風が吹いた。本来、凍えて動けなくなってしまう程の冷たい風だったけど、そのおかげで魔法が解けた。
「どうしてここにいるの……?」
 茜里は短く息を吐いた。その時、白い靄が見えた。ため息だったのかはわからない。
「図書館で勉強してた。今はその帰り」
「そ、そっか」
 足が小刻みに震え始めた。寒さのせいではない。私は自転車の鍵を右手で強く握り締めた。
 茜里の目は笑っていない。
「友子はどうしてこんな所にいるの?」
 そう言いながら店を見上げた。紛れもないゲームセンター。看板の横にある電光掲示板が様々な色の光を発しながら煌々と輝いている。その駐輪場に私は立っている。
 どう答えるべきか。頭が高速で回転を始めた。だからといって、事態が好転するわけじゃない。むしろパニックだ。頭の中が真っ白になり、今何をすべきかを懸命に模索する。そして、導かれた言葉を熟考せず反射的に吐き出した。
「いやー息抜きにいろんな所行っててさ」
 息抜き。自分でも呆れるほどの酷い言い訳だ。
 語勢が崩れるように弱くなるのが自分でもはっきりとわかった。今はただ逃げ出したい。茜里は目を逸らさずに私を見つめている。その目を見ると、またしても言葉が出なくなってしまった。
 しばらくの間、黙りこくっていると、茜里は大きくため息をついた。
 何かが解けた。
 すると、茜里は顔を上げ、こちらに向かって歩き始めた。突然の行動に驚いた私は思わず一歩後退した。目の前まで近づいてきた茜里は私の顔を見つめてから右手を私の左頬に添えた。
 その瞬間、
「つめたっ!」
 思わず絶叫してしまった。頬にまるで氷を当てつけられたかのような冷気が走ったからだ。何が起きたのか理解できず、目を瞬かせた。
 ほんの一瞬、茜里は微笑んだ。そして、すぐさま凛とした表情に戻った。
「だめじゃない。勉強しないと」
 茜里の顔を見ると、いつもの表情になっていた。さっきまでの茜里はいつの間にかいなくなってしまった。そのことがわかった瞬間、全身の力が抜けていった。
「ごめんなさい……」
 言葉も出てくるようになっていた。私が謝ると、茜里は小さく頷いた。
「勉強が辛いのはわかるよ。けど、あと一ヶ月なんだからもう少しがんばろうよ。ここで気を抜いたらこの一年の努力が無駄になっちゃうよ」
 普通なら、この説教を聞き胸を痛め、改心するのだろう。
 しかし、私は違った。逆に感情が冷えていった。
 これまで、私はたいした努力はしてこなかった。いつもどこかに気が散ってばかりいた。愛花はともかく、茜里や夏織のような努力はしていない。ただ、漠然と四人で一緒の大学に行けたらいいな、と「思っているだけ」で、何も行動には移さなかった。何度か努力めいたこともしてみたが、どれも長続きはしなかった。結局のところ、最初から全部無駄だった。
 そんな私には茜里の言葉は響かなかった。ただ、沼のようなどろどろとした薄気味悪い何かに沈んでいくだけだった。
「ごめん、ほんのちょっとのつもりだったんだ。それに最初からお金持ってなかったしね」
 そう言いながら、私は小銭しか入っていない財布を人差し指と親指で摘まみながら軽く振った。おどけてみせた私のジェスチャーがおかしかったのか、茜里は苦笑いを浮かべた。
「なんでお金が無いのにゲームセンター……」
「わかんない。賑やかだから、かな?」
 私にもそれはわからない。
 とにかく、ここに来たことは間違いなく失敗だった。時間を浪費してしまった上に茜里にまで見つかってしまった。これで一つペケが付いた。さらにペケが付けばばどうなるのだろうか。それはあまり想像したくない。
 ペケが付いたせいで余計な心配事が増えた。私の気持ちは沈んで行く一方だ。ペケなんて、たとえ一つでもあるよりは無い方がよかったのに。
「帰ろっか」
 茜里はマフラーを巻き直してから言った。肩を寄せて寒そうにしている。それもそうだ。日も沈んだ真冬の外で長居するのは体によくない。
「うん」
 私は自転車の施錠を外してから自転車を押し、茜里の横に並んで歩いた。茜里の表情にはもう冷たさはなかった。その横顔を見てから私は短く息を吐いた。一瞬で白い靄が広がり、夜の暗さに紛れて消えた。
 胸にはただここへ来た後悔だけが渦巻いている。

     

♯14.

 今は昼休みの時間だ。なのに気分は最悪だ。
 外に出ていたのがばれてしまったせいで、退屈しのぎの外出もできなくなった。私は万が一にもまた見られてしまうことを恐れていた。特に一度見つかっている茜里には。あの時の茜里の表情は思い出したくもない。
 家にいても何も楽しいことなんてない。無為にゴロゴロするのもそれはそれで辛い。何をしようにも集中が持続しなかった。
 一年前のように、みんなと遊びたかった。しかし、三人は受験の真っ最中だ。消しゴムのおかげで抜け出した私とは状況が違う。三人とは遊べない。
 学校にいても退屈で仕方ない。最近は授業中どころか休み時間や昼休みでさえ進路や勉強の話をしている。関係の無くなった今となってはその話は何のおもしろみもない。むしろ、苦痛を感じるくらいだ。
 そんな数日を過ごす中で、私はぼんやりとする時間が増えた。
 意識を一旦よそへ流すことで時間の経過が早くなる。そうすれば退屈を経験する時間が短くなる。欠点としては周囲への注意が散漫になり、名前を呼ばれても反応が鈍くなったり、返事が適当になったりすることだ。最近はどうやら腑抜けているように見えるらしい。肩を揺すられることも少なくない。
「おーい、友子ってば」
「えっ」
 愛花に肩を揺さぶられて我に返った。どうやら、またぽかんとしていたらしい。
「どうしたのさ、ぼーっとしちゃってさ」
「あー……寝不足でね」
 苦笑いしながらなんとか答えた。
 すると、愛花は人差し指を私に向けた。
「体調管理もしっかりね。肝心の本番に気分悪いだなんてフルに実力を発揮できないんだから」
「うん、気をつける」
 私の要は消しゴムだけだ。マークシート方式に限って私は無敵になれる。試験の日に忘れたりした日には目も当てられない。当日、どんなに体調が悪くても、あの消しゴムだけは手放さない。
「風邪対策にはみかんだよっ!」
 夏織がみかんを差し出してくれた。私が両手を添えると、そこにみかんが落下した。なんだか小ぶりに見えるような気もする。
「ほら、茜里ちゃんも」
 夏織は笑顔のまま茜里にもみかんを差し出した。
「あ、うん。ありがとう」
 一瞬、遅れて返事をした茜里は手に収まったみかんをじっと見つめた。何か考え事をしているようにも見える。私はみかんの皮をゆっくりと剥いた。
 最近、茜里は訝しげな表情で私を見ることがある。やっぱりこの前のペケは痛い。いくら鋭い茜里でも消しゴムには気づいていないはずだ。あれは常識の外、イレギュラーな存在だ。あの店にでも行かない限り、存在すら意識しないだろう。なので、消しゴムに関して心配することはない。
 となると、やはり最近の腑抜けた様子の私を危ぶんでいるのだろう。ペケの付いている私だ。四人で一緒に合格を目標にしているのだから、私をマークするのは当然なのだろう。
 しかし、私には消しゴムがある。これさえあれば、愛花にも勝てる。むしろ、消しゴムのおかげで私が一番安全な立場にいる。
 だけど、そんなこと茜里に言えるはずもない。言ったとしても、消しゴムの事なんて信じないだろうし、真面目な茜里は不正行為も許さないはずだ。なので、消しゴムに関しては沈黙を通す。このことは墓場まで持って行こうと固く決めていた。
 私は右手でポケットに忍ばせている消しゴムを弄んだ。今やお守り代わりだ。どんなお守りもこれには太刀打ちできるはずがない。
 最後に消しゴムを強く握り締めてから、右手をポケットから出した。
 すると、予鈴が鳴った。
 私はみかんを一つ口にした。それは思っていたよりも甘酸っぱく、思わず目を細めた。



 授業は退屈だ。
 今日も机に肘を付けながら窓の外の景色をぼんやりと眺めていた。葉の抜け落ちた木が冬の風に吹かれて枝を揺らしている。この厳しさを乗り越えて、春には桜の花を開花させる。随分と辛抱強い木だ。
 一応ペンは手にしているが、先生の言葉はまったく頭に入らない。もはや学校に来る必要があるのかも疑問だった。一度疑問を抱くと、もう学校に来る面倒だった。どんどんと楽な方へと傾いていくのがわかる。わざわざ自分が好きでもないことに足を踏み入れることはない。明日は試しに休んでみよう。お母さんには適当な言い訳をすれば、一日くらいなら休ませてくれるだろう。この辺りは受験生の特権だ。たまにはこういう風に受験生の肩書きを利用しないと。
「皆本さん」
「は、はい」
 突然名前を呼ばれ、口ごもる。前を見ると、先生が笑顔で私の顔を見つめていた。
「起きてる?」
 考え事をしている様子が眠っているように見えたようだ。何人かがこちらを振り向いているので少し恥ずかしい。
「起きてます」
「この時間だと眠たいかもしれないですね」
 先生は笑いながらそう言って授業を再開した。
 安心した私は短く息を吐いた。やっぱり、座っているだけなんて時間の無駄でしかない。家は退屈だけど、こんな窮屈な空間で耐え続けるよりはよっぽどマシだ。明日は休もう。
 決意が確かな物となり一段落ついた。
 その時、背中に視線を感じた。直感で、好意的な物ではないと感じる。ぴりぴりとした鋭い何かが私の背中に突き刺さるようだった。戦々恐々としながらゆっくりと後ろを振り返る。すると、視線の正体と目が合った。見据えた先にあったのは茜里の目。視線が交差したと思われた瞬間、茜里は下を向いてノートにペンを動かした。黒板に書かれている文字を書き込んでいる様子だ。まるで、授業中なんだから友子の事なんて見つめていない、と主張しているように思えた。
 私の見間違えだったのかな?
 いや、私を見ていたに違いない。
 軽くとはいえ、先生に呼びかけられるほど腑抜けていた。そんな私を見つめる事によって非難したのかもしれない。何しろ、さっき感じた気配はあの時の夜と同じだった。
 これ以上茜里に不信感を抱かれても困る。授業は残り三十分。せめて板書だけでもしよう。
 私は渋々ペンを手に黒板に目を向けた。どうやら、一向にやる気は湧き上がって来ないようだ。
 冷たくて鋭い何かは私の胸に突き刺さったままだ。

     

♯15.

 意味も無く自室の薄暗い天井をぼんやりと眺めていた。
 結局、学校は休んだ。家には私以外誰もいない。ただ、静かな時間だけがゆっくりと流れていく。
 やっぱり退屈で仕方が無い。家も学校も苦痛でしかない。私の安息できる場所ははたしてこの世に存在するのだろうか。もしあるのなら、そこでずっとごろごろとしていたい。
「はぁ……」
 瞼が重い。
 先程から何度か眠気の波が押し寄せてきていた。今寝てしまえば、夜に眠れなくなってしまうかもしれない。そうなると、翌朝の学校が辛い。結局、必ずどこかで我慢しなければいけない。今、この眠気をこらえるか、明日の授業中に眠たいのを気合いで乗り切るか。
 私は今、ベッドに横になっている。既に答えは出ているようなものだった。目の前の誘惑にゆっくりと手を伸ばした。
 目を閉じ、眠気に身を委ねる。この心地良さは何物にも変えられない。穏やかな波が私を優しく揺する。すると、次第に意識が遠のき、意識は眠気の彼方へと流された。



 携帯のバイブレーションの音が聞こえる。固い机の上に置かれているのか、振動音と一緒にカタカタという音も聞こえる。うつ伏せになって寝ていた私が顔を上げると、そこは教室だった。しかし、教室には誰もいなかった。外からも音は何も聞こえない。まるで人の気配が感じられない。
 一定のリズムで震える携帯のディスプレイを見ると、見知らぬ番号が表示されていた。間違え電話だろうか。誰の携帯かはわからなかったけど、私は迷わずボタンを押した。
「はい」
 しかし、返答はない。そのまま十数秒待ち続けるが、何も起こらない。無言電話? 不気味だ。こんなことをして一体何の意味があるんだろう。だけど、何も聞こえないわけじゃなかった。風の音が聞こえる。少々強いのか、時折ノイズが発生する。
 もしかすると、風のせいで私の声が聞こえないのかもしれない。私は携帯を耳から遠ざけると、元あった机の上に置いた。これだけ距離が開くともう何も聞こえない。スピーカーに耳を密着させてやっと風の音が聞こえた程だ。
 通話者は何か私に話したいことがあったのかもしれない。しかし、向こうは何も言ってこなかった。私は確かに「はい」と言った。だから今頃向こうで大きな声で呼びかけていて、私が気づかなかったとしても、私は悪くない。
 そのまま、通話中と表示されたままのディスプレイを眺めているといつの間にか辺りの景色が変わっていた。
 そこは暗闇だった。腕を伸ばすと、何かにぶつかった。目を凝らしてよく見てみると、どうやらレンガのようだ。レンガが私の周囲を円状に取り囲んでいる。足元を見てみると、くるぶしの辺りまで水に浸かっていた。今気がついたけど、私は靴を履いていなかった。上を見上げると、灰色の空が見える。どうやらここは井戸の内部らしい。しかし、ロープも滑車もバケツもない。
 水に浸かっている事を自覚した途端、気温が急激に下がったように思えた。寒さのあまり、体ががくがくと震え始めた。堪えようにも、今着ているのは制服だけで、上着も何も無い。両腕で自分の体を抱き締める事しかできなかった。
 不意に井戸内部が暗くなった。上を見上げると、人影が見える。私の立っている場所である井戸の底を眺めているらしい。逆光でそれが誰かは確認できなかった。助けを呼ぼうとしても声が出なかった。喉に無機質な感覚を覚えた。声を発しているはずなのに、どういうわけか音にならない。そうしていると、人影はいなくなり、再び内部がわずかに明るくなった。
 どうして声が出なかったんだろう?
 心に影が差し込んだ。どうにもよくわからない。
 その時、強い風が巻き起こった。下から吹き上げているようだ。思わず目を瞑り、腕で顔を覆い隠した。まるで急激に落下するような恐怖感に襲われ、私は身も凍るような思いだった。
 すると、風は止み、静寂が訪れていた。恐る恐る目を開けると、道の上に立っているのがわかった。道がずっと先にまで伸びている。両脇には草原が広がっていて、眺めているだけで心が癒されるような美しい光景だ。
 私は歩き始めた。
 穏やかな日光の下、こうした中を歩くのは初めての事だった。小鳥の鳴き声も聞こえるような気がする。暖かい風も緩やかに吹き、私の心を落ち着かせた。何もかもが新鮮な心地で気持ちがいい。しかし、どこか懐かしいような感情も湧き上がっていた。この広大な草原もまた気分を清々しくしてくれる。何も無い道をただ歩いていく。これだけで私の澱んだ心が浄化されるようだ。
 しばらく歩くと、白い道路灯と白塗りのベンチを見つけた。近くには噴水もある。ちょうどいい、ここで一休みしよう。腰を掛けてから短く息を吐いた。悩み事が抜けたかのように肩が軽いような気がする。先程からどうにも過去の記憶がちらほらと蘇る。リラックスしているからだろうか。
 しばらく想いに耽っていると、向こうから小さな女の子がやってきた。小学生なのだろうか。もしかすると、小学生ですらないのかもしれない。それほど幼く見えた。しかし、予想される年齢の割には足取りがしっかりとしている。私との距離が短くなり、女の子の顔が徐々に明らかになってきた。その顔をはっきりと認識した瞬間、私は目を見開いた。
 髪型、目、鼻、口元、輪郭のどれをとっても私の幼い頃の姿に瓜二つだった。女の子はにこにこと笑顔を浮かべながら、唖然とする私の目の前で立ち止まった。
「こんにちは。わたし、友子!」
 快活な声で挨拶をくれた。私と同じ名前だ。苗字までは名乗らなかったけど、既に直感ではわかっているような気がする。目の前の女の子は『私』だ。
 私はただただ驚き、目の前にいる私にそっくりな女の子を見つめることしかできなかった。明らかに動揺する私を見て、女の子は笑みを深くした。
 軽く咳払いをした。
「わ、私も、友子」
 年下相手に情けない返答だ。しかし、この子が放っている超然的な雰囲気はなんだろう。年齢と不釣り合いとしか思えない。
 女の子は手を後ろで組んで少し前屈みになった。笑みは浮かべたままだ。
「知ってるよ」
 にっと笑ってから、
「だって、あなたはわたしだもん」
 その時、風が吹いた。木々がざわざわと音を鳴らす。噴水が水を噴出し、宙を舞った水が再び溜まりに落下して音を立てる。そんな音には構わずに私たちは見つめ合った。
 目の前の女の子は「あなたはわたし」と言った。つまり、“もう一人の私”を自称している。何という大胆な発言だ。しかし、さっきから異様な状況が連続している。あまり、気にすることではないのかもしれない。
 もう一人の私は私とベンチに視線を彷徨わせている。その様子を察した私は右手でベンチの座席をぽんと叩いた。
「ここ、空いてるよ」
「え、いいの?」
「うん。誰か来るわけでもないから」
「じゃ、座ろっかな」
 もう一人の私は私の右側にちょこんと座った。足が地につかないのか、前後にぶらぶらと動かしている。その動きを眺めていると、やはり細かい仕草や表情は子どもらしい。しかし、纏う雰囲気はまったく異なる。大人びているわけでもなく、ある意味では人間のものではないかのような掴み所の無さがある。
 そんな『わたし』に質問してみる。
「あなたは本当に『私』なの?」
「うん、さっき言った通り」
 『わたし』は自分の手の指をいじり回しながら短く答えた。本気なのか冗談なのかは読み取れなかった。幼い頃の私でも、こんな表情ができたのかな。
「ここはどこなの?」
「どこだろうね」
 『わたし』の答えてくれる口調にどこか懐かしいような気持ちが思い浮かんだ。だけど、それが何かは思い出せなかった。穏やかで、諭されているような気がする。
 私は伸びをしてから短く息を吐いてから言った。
「まぁ、どこでもいっか」
「そうそう、どこでもいいんだよ」
 どうせわかってもあまり意味は無いと思った。
 そんなことより、私はこのままずっとここに留まっていたかった。この場所は私にとって桃源郷であって、楽園だ。憂鬱な気分になる勉強も存在しない。久しぶりに見えない何かから解放された今の気持ちは軽やかで心地よかった。
「ねえ、『私』」
 『わたし』は首を少し前に傾けながらこちらに向き直った。
「調子はどうなの?」
「え?」
 調子? 言っている意味を図りかねている間に『わたし』は続けた。
「受験勉強の調子」
 一瞬、視界が揺れた。杭が胸に突き立てられた。『わたし』は追撃を止めない。
「ちゃんとしてるの? 試験もう少しなんでしょ?」
 口の中が渇く。今や、子どもらしい眼の中に鋭い光が宿っているように見える。
「ど、どうしてそんなこと」
「“そんなこと”、じゃ済まされないよ。だってわたし、みんなと同じ大学に行きたいんだから!」
 『わたし』はそう言いながら両腕を大きく広げた。それはまるで将来の夢を語る小学生のような表情だった。幼い『わたし』は白い歯を見せた。その顔が眩しくて私は思わず俯いてしまった。
 いつからこんな風にまっすぐに夢を追いかけられなくなったんだろう。いつまでなら取り返しがついたんだろう。
 わからない。私にはもうわからない。
「……してないんだね。してないんでしょ?」
 杭が少しずつ沈んでいく。そのたびに胸が苦しくなっていく。
 私は思わず顔を背けてしまった。今まで何度もそうしてきたように。
「どうしてしないの?」
 幼いとはいえ、目の前の『わたし』に消しゴムの事を話してもいいのだろうか。全てを見通すかのような雰囲気に圧倒されてしまっている。どうも、こういうタイプの人には弱い。
「……勉強が嫌いだから」
「嫌いなの? でも、みんなと同じ大学に行きたいんじゃないの? わたしは行きたいな」
 もちろん行きたい。愛花と。茜里と夏織と。同じ大学に行って楽しく過ごしていたい。
 だけど、
「でも、私の頭じゃ絶対に無理だから」
 私がそう言った瞬間、『わたし』は肩を竦めながらため息をついた。
「『絶対』なんてのは存在しないよ。絶対に」
「…………」
 諭されてしまった。
 それにしても、どうして『わたし』はこの気持ちをわかってくれないんだろう。同じ『私』のはずなのに。私の楽しみ、喜び、悲しみ、苦しみ、怒りを全てを理解しているのは自分自身のはずなのに。
「してないってことは、何か勝算でもあるの? 実は愛花をも凌ぐ天才肌でしたー……とか」
 『わたし』は口元に薄い笑みを浮かべていた。
 もしそうなら、どれほど楽だったんだろう。試験に近づくにつれて、何度そう思ったことか。
 私はポケットに手を入れた。今となっては馴染み深い感触が指先に伝わる。それはあの消しゴムだった。それを強く握り締めてから答える。
「ある。けど、あなたには言えない」
「どうして?」
「どうしても」
「……ふーん」
 『わたし』は訝しげな目で私の顔を見つめた後に足元に視線を下ろした。もう足はぶらぶらと揺れてはいなかった。
「けど、やっぱり怪しいなあ。本当にそんな勝算があるの? わたしには思い浮かばないけど。あるとしても、よっぽど黒い何かだよね。カンニングとか!」
「カンニングなんかじゃない」
「じゃあ何?」
「言えない」
「同じ自分にくらい話せばいいのに」
 『わたし』は呆れた子どもを見つけたような少し困った笑顔になった。
 さっきから話していると、性格が違うように思える。どこか余裕のあるような態度が不愉快だ。やはり打ち明けようとは思えない。
 少しばかりの間の後に横を見ると、もう『わたし』は笑っていなかった。
「そうやってさ、いつまでも逃げてらんないよ」
 私の顔を、目を見つめながら話しかけてくる。
「今は逃げ切れても、いつか大きなしっぺ返しがくるよ」
 ……何も知らないくせに偉そうに。
 とても私自身とは思えない発言だ。やっぱり、偽者だ。顔や基本的な部分は同じでも、この子は『私』じゃない。
 だいたい、何様だろう。私の事を知ったような口調で話した挙句、説教までしてくる。こんなちんちくりんな歳のくせに。何を知った上で、ここまで私が鬱陶しいと感じる事をするんだろう。自分がされちゃ嫌な事は人にしちゃいけない。
 今も『わたし』は、最後まで諦めちゃだめだよとか何とか腕を大きく広げながら説いている。その割には表情に真剣味が無い。共通していると思えるのはその点くらいだ。
 ああ、もう目の前から消えてほしい。
 その時、黒い何かが閃いた。
 私はほぼ無意識にポケットに手を突っ込み、消しゴムを握り締めた。
 『わたし』はそんな私の行動には興味を示さずに話を続けている。どうやら、今からでも改心するようにと勧めているらしい。……そんなこと、もうあるはずもないのに。
 この消しゴムに手を伸ばしてしまった以上、もう引っ込みはつかない。
 いよいよ、ポケットを脱した消しゴムは私の三本の指に納められている。心臓が早鐘を打つ。私は腕を、『わたし』目掛けて大きく横に振った。
「消えろ」
 消しゴムの先端が触れた瞬間、『わたし』は消え去った。
 不意に静寂が訪れる。私は肩で息をしながら胸元を押さえた。心臓がまだばくばくと鳴り続いている。罪悪感は無かった。
 ただ、安寧が再び訪れたことに安堵するだけだった。





 目が覚めた。
 今まで見てきた夢の中で一番酷い夢だった。体中じっとりとした汗までかいている。息もあがっていたのか、走った直後のような感覚だ。
「はぁ……」
 ため息の音が虚しく部屋に響く。
 それにしても悪夢のせいで目覚めが悪いのか、どこか薄暗い気分だ。このまま部屋に居続けるのはどこか息詰まってしまう。今日は全員帰りが遅いはずだから外に出よう。
 となると、どこへ行くか。ひとまず、シャワーでも浴びながら考えよう。

     

♯16.

 私は坂道を自転車を押しながら歩いていた。
 時折吹いてくる冬の風は厳しさを伴っている。ハンドルを握る手は寒さで悴んで、なかなか思うようには動いてくれない。お腹から息を吐くと、いつもより多くの白い靄が吐き出された。それは渦を巻いて、たちまちに消える。まるでやる気になった時の私みたいだ。現れてはすぐに消えてしまう。
 私が今向かっているのは鶴見神社。
 私と愛花の住んでいる高沢の外れに位置している。神社の周辺は辺鄙な地で有名で、祭り事でも無い限り、人はほとんどいない。神社から少し歩けば、茜里の住む桶名に出る。ちなみに夏織は郡山だ。
 家を出る直前に携帯を確認すると、メールが三件きていた。愛花、茜里、夏織の三人からだった。三つとも体調管理をしっかりすること、家で安静にしていること、といった内容だった。今日お母さんに使った言い訳は風邪による体調不良だ。ささいなことだけど、忘れられていないことがわかったので私はうれしかった。本当はずる休みなのに。三人には「ふとんでしっかりと休む」旨を送信した。少しばかりの罪悪感が渦巻く。
 ようやく神社に辿り着いた。遠くへ行きたい気分だったのでちょうどいい場所だ。ここなら知り合いは誰も来ないだろう。時刻はもうすぐ夕方になろうとしている。空は曇り空で、全体が薄暗くなっている。今までにもこんな空を見たことがあるような気がするけど、どうしてか思い出せない。ただ、あまり良い事ではなさそうだ。
 境内に入ると、やはり閑散としている。自動販売機も何もない。あるのは神木と本殿、社務所に味気のないベンチだ。やはり人の気配が感じられない。
「はぁ……」
 それにしても、さっき見た夢は悪夢だった。少し目眩がする。幼い自分にまで責め立てられるとは思わなかった。『わたし』さえ現れなければ、夢の中とはいえリラックスできたはずなのに。それを『わたし』が台無しにしてしまった。とてもありがたくなかった。おかげで随分と精神衰弱状態だ。心身共にフラフラとしている。
 しかし、夢は夢だ。どれだけ説得されようが、私はもう消しゴムを使うと固く決めている。今さら躊躇うつもりは一切ない。ここまできて使わないなんて、自分から泥沼に沈む馬鹿だ。せめて、正しいと思う道は自分の意志で選びたかった。消しゴムはまさに私にとっては完璧に正しい道だ。世界がどうなろうと、これは間違っていないはず。
 厳しい風が時折吹きつけてくる。なんとなく頭が冴えるような気がする。精神も研ぎ澄まされていく心地だ。携帯と時計を忘れてしまったので、時間感覚がいまいち掴めない。いくら弟やお母さんの帰りが遅いといっても限度はある。ほどほどに切り上げないといけない。悪夢をみた不快感はまだ残っているけど、ほんの少しだけ気が楽になった。そうそろ帰ろう。顔を俯けてため息をついた。
 その時、ざっと靴と砂が擦れ合う音が背後で鳴った。辺りが静かなのもあってか、音は克明に聞こえた。私みたいにこんな外れにまで来る人がいるとは。
 振り返ると、黒いコートを羽織った黒髪の女の人が立っていた。茜里だった。
 予期せぬ対面に、私は目を瞬かせた。茜里も驚いているのか、少し目を見開いている。神木の前で、私たちは無言で見つめ合う。
 あまり出ていない表情とは裏腹に、私は内心動揺していた。
 どうして茜里がいるの? ここは高沢の外れにある神社なのに。 ……いや、ここから少し歩けば桶名に出る。来ることはできない、とは言えない。でも、どうして私のいる今日に限って……。
「友子」
 茜里が喋り始めたので私ははっと顔を上げた。
「今日は家で安静にするんじゃなかったの」
 質問、にしてはあまりにも鋭い。問い詰めと言った方がいいのかもしれない。もちろん、私は答えられずに口を閉ざす。茜里の冷たい視線が矢のようにいくつも突き刺さる。
「風邪だから休んだんじゃなかったの」
 夢を見ていた時に感じた胸の苦しみが再び蘇った。茜里は冷たい正論で徐々に私を追い詰めていく。喉元が固く引き締められ、声を発することができない。
 最悪なのは、こういった出来事が二回目であるということだ。この前のゲームセンターの時は何とか許してもらった。だけど、今日は嘘をついた上でこの場で鉢合わせてしまった。言い逃れはできない。
 仏の顔も三度、とは言うけど、今は試験まで時間も残されていない。その望みも期待できないだろう。
 心のどこかで、まだ何かにすがろうとしている自分が惨めに思えた。
 無言で石のように立っているだけの私に痺れを切らしたのか、茜里は短くため息をついた。それから私を見据えた。その眼は強い何かを宿している。
「友子は学校をサボったの? 私たちに……自分に嘘をついたの? 自分に『今日は体がだるいから休もう』って」
 茜里は胸に手を当てた。
 私の中の何かに罅が入った。だが、言葉が出てこない。
「授業でも、どこかうわの空みたいだしさ。最近の友子、少し変わったよ」
 傍目には私は変わってしまったように見えるのだろうか。自分のことなのにわからない。自分のことほど案外難しいのかもしれない。茜里の目には一体、いつから私の変化が目に留まるようになったのだろうか。
 考えられる時期は一つ。
 “消しゴム”を買って以降だ。
 できるだけ授業中の過去問対策でも、全問正解をわざと外したりして違和感の無いようにこなしてきたつもりだった。しかし、隠し切れなかった。これは当然なのかもしれない。非現実的な武器である消しゴムは私の生活に大きな影響を与えている。それは凡人である私が完全に隠蔽することは不可能だった。多分、確実な成功のための武器を手に入れたために、授業態度や些細な行動が消しゴムを買う以前のものとは異なったのかもしれない。先程、茜里に指摘されたよう、“どこかうわの空”だったのも間違いではないのだろう。
 永遠に思える長い沈黙。とりあえず、場をつなぐために一つ訊いた。
「ど、どうして茜里はここにいるの?」
 茜里は風で乱れた長い髪を横に流した。
「私は毎日ここに来てお祈りをしているの。全員で一緒の大学に行けますように、って」
 知らなかった。茜里にそんな日課があっただなんて。想像すらしていなかった。茜里は一体いつからお祈りを始めたんだろう。ただ、そのお祈りも無意味だった。祈るだけで勉強ができるのなら苦労しない。私はもっと確実性が保障されているものを信じる。
 茜里は再び私を見据えた。
「友子は私と……。愛花や夏織と同じ大学に行きたくないの? 私は行きたいよ」
 ここで、別の感情が浮上した。
 私だって、四人で同じ大学に行きたい。行きたいに決まっている。それを茜里は疑っている。このことは、消しゴムの事を打ち明ければ済む話だ。これさえあれば必ず合格できて同じ大学に行けるから、と。
 でも、茜里はそんな不正を許してくれないだろう。茜里は真面目な性格だ。「消しゴムを使って合格した友子の代わりに、一生懸命ここまで勉強をがんばってきた子が落ちているかもしれない。喜べない」と言っても不思議ではない。
 だけど、打ち明けなければ、今この状況のようにずっと責められ続ける。どっちに転んでも状況が好転するとは思えない。
 この板挟みの状況にもいいかげん疲れ果てる。私は私なりに一緒の大学に行く方法を見つけたのに。そう、大金をはたいて私は消しゴムを購入した。これで確実なんだ。でも、茜里は許してくれない。
 その時、自分の中で湧き上がっている感情の正体に気づいた。これは「怒り」だ。もっと自分のことを心配すればいいのに、いちいち私の勉強態度にまで世話を焼く茜里。そして、説教まで始める。 ……まるで、夢でみた『わたし』のようだ。
 茜里は私のことをまるでわかっていない。長期に渡る努力が苦手なこと、嫌いなことはとことん避けること、嫌いなことと向き合わないこと。数え上げれば切りが無い。
 私は静かに答えた。
「私だって行きたい」
「じゃあ! どうして勉強しないの!」
「勉強が嫌いだから!」
 思わず大きな声が出た。すると、茜里は目を閉じて力一杯叫んだ。
「そうやって嫌いなことから目を背けないで!」
 大きな亀裂が走った。うめき声が漏れる。何かが大きく崩れ落ちた。
 いつの間にか私は焦っていた。気がつけば動悸が早くなっている。思考が短絡的になっている。今のこの状況が、さっきまで見ていた悪夢の再現のように思えた。吐き気すらする。
 逃げ出したい、逃げ出したい。全てから逃げ出したい。
 受験から、学校から、勉強から、この覚めない悪夢から。……茜里から。
 その時、宙を彷徨うような感覚に襲われた。地に足が着かない。まるで夢を見ているような感覚に陥った。さっき茜里が放った言葉が頭の中で何度も何度も反響する。そして『わたし』の放った言葉と交わり、私を苛む。
 私は助けを乞うかのように、無意識のうちに震える手をポケットに伸ばした。指先が弾力性のある何かに触れた。それは消しゴムだった。
 これは夢? あまりにも『わたし』と茜里の言動のニュアンスが似ている。じゃあ、さっき見たのは夢の夢? まったく状況がわからない。気持ちが悪い。目眩もする。もう耐えられない。
 私は思考を投げ出した。激情に身を委ねた。
 悪夢なら、早く終わらせるしかない。私は消しゴムを指で握り締めた。
 茜里が何か言っている。しかし、今の私にはもう届かない。私は駆け出した。茜里に向かって、恐怖から逃げ出すように。
 走りながら消しゴムを持つ右手を肩の高さで構えた。茜里の顔が引きつっている。
 終わらせる、この手で。私は全身全霊を込めて、右腕を茜里に突き出した。
 もう、止められない。

       

表紙

和泉 先生に励ましのお便りを送ろう!!

〒みんなの感想を読む

Tweet

Neetsha