Neetel Inside 文芸新都
表紙

パーフェクト・イレイザー
1章 自覚

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 ♯1.

 薄暗い曇り空の下、私は買い物に出かけていた。しかし、買い物という程のものでもないのかもしれない。
 ただ消しゴムを買うだけ。
 それだけのために家を出るのはなんとも苦痛だった。私は受験生。一秒でも無駄にしてはならないのだ! ……なんて性格でもない。
 私、皆本友子は自分の事ぐらいきちんとわかっているつもりだ。
 不思議な事に消しゴムが家のどこにも見当たらなかった。弟の筆箱から摘み出せばいいだけなのかもしれないけど、どこか気が引ける。
 自分がされて嫌だと思うことは他人にしちゃいけない。
 ここは素直にその信条に従おう。……勉強の息抜きもしたかったしね。
 仕方ないよ、こればかりは。
 それにしても、こんな曇り空じゃ気が滅入る。雨が降り始めそうだ。それにここ最近、風が冷たくなってきている。冬の訪れを感じずにはいられない。私はしぶしぶ足を早める。最寄りのスーパーまではもう少しある。
 ああ。最近、運動してないから早歩きだけで筋肉痛になりそう。太ももに違和感を覚える。受験生向けの手軽な運動でも誰か作らないかな。
「あれ?」
 ふと、古ぼけた木造家屋が目に留まった。ずいぶんと年季がはいっているようだ。よくみると「山道文房具屋」の看板がかけられている。「開店中」と小さな札もある。こんな所にこんな店あったのかな。
 好奇心で店内を覗き込んでみた。中に人はいないようだ。文房具屋なら都合がいい。私は引き戸を開けた。がらりと音が鳴り、戸が開く。
 まず思ったことは、店内が埃っぽい。照明はあるものの、スーパーやコンビニ程明るくはない。それにしても静かだ。人の気配がまるでない。店員さんはいるのかな?
 棚には膨大な数の文房具が並べられている。鉛筆はもちろん定規、はさみ、万年筆!
 私は近くにあったプラスチックの円盤を手に取った。細かい数字が散りばめられている。
「へえ……360°の分度器なんてあるんだ」
 自分で思っていたよりも大きな声が出た。思わず、後ろを振り向いてみたけど誰もいない。早く消しゴムを探さないと。上から下へと視線をさまよわせながら棚を見て回る。見たことのない珍しい文房具も取り扱っているようだ。
 少しすると、消しゴムはすぐに見つかった。シャーペンやボールペン程ではないけど一つのエリアを形成している。さて、どれにしようかな?
 丁寧な事に一つ一つに手書きのポップが書かれている。ありがたや。
「うーん……」
 一分くらい眺めてみたけど、正直よくわからない。どれも同じような気がするけど……。
 ふと視線を下ろすと、鮮やかな水色のケースに入った消しゴムが目に留まった。他の消しゴムよりもポップが小さい。
 ポップにはこう書かれていた。
「どんなものでも簡単に消すことができます」
 へえ。ここまではっきり書いていると試したくなってくる。消しゴムに特別なこだわりない。これにしよう。
 消しゴム一つ握り締めて私はカウンターへと向かった。今さらながら、意外にも店内は広いように思える。
 カウンターが見えた。年老いた老爺がレジスター横の椅子でうたた寝している。いくらこの国が安全だからといっても不用心だ。少し迷ってから声をかけた。
「あのー」
 老爺は動かない。我ながら情けない弱腰な声だ。人見知りは不用意に大きな声は出さない。周りに誰もいない事は明らかだが、恥ずかしいのには変わりはない。わずかながらの怒りを込めてもう一度。
「あのーすいません」
「ん……ああ……」
 起きたばかりの老爺と目が合った。眼鏡の奥の眼には穏やかな明るさ。なんだか安心してしまう。私は木製の台の上に消しゴムを置いた。
「この消しゴムください」
「はいはい。えーっと、100円になります」
「はい」
 財布から100円玉を取り出す。
 老爺はそれを受け取ると手際よく消しゴムを小袋に詰めた。妙な所に目が泳いでしまう。消しゴム一つくらいシールでも構わないのに。実は袋を必要としていない人が日本だけで何人いるのだろうか。一人一人が勇気を出せばもっと環境は良くなるんじゃないか、などと考えている間に老爺は袋を私に差し出していた。
「ありがとうございます。大切にお使いください」
「はい。ありがとうございます」
 袋を手渡される際に再び老爺と目が合った。老爺は柔和な笑顔を浮かべている。それを見ると私も思わず笑ってしまった。年の功なのか、とにかくすごい魔力だ。これも一種の接客スキルなのだろうか。
 私は袋を受け取るとそのまま店を後にした。
 来た時の面倒臭いという気持ちはいつの間にかどこかへ消え去っていた。ただ温かい満足感、それだけだ。私は鼻歌交じりで家に向かった。

     

 ♯2.

 私、皆本友子は危機に瀕している。絶対絶命の危機だ。
 本日は定期考査の日で科目は数学だった。いくら眉を寄せようが答えが浮かび上がるはずもなく、時間だけが冷酷に過ぎていく。私は必死に解答用紙を睨みつける。
 ああ、神様お願い。いつもは神様なんて信じませんが、こういう絶体絶命の時は祈らせてください。

 残り十分
 左右を窺うと、力を使い果たして机に突っ伏している子や解答用紙を持ち上げて見直している子もいた。計算用紙に視線を下ろすと、余白がほとんど無いことに気づいた。私は苦々しい思いで消しゴムを握り締めた。
 焦燥感のせいか、消しゴムを握る力が自然と強くなる。力を込めて消しゴムで擦りつけた。消しゴムが往復するたびに用紙が僅かに音を立ててずれ動く。そのたびに私は無性に腹が立った。
 
 消えろ、消えろ、消えろ、消えろ。
 
 書き込まれた文字は真新しい消しゴムによって綺麗に消されていく。しかし、何よりも量が多い。消す時間を惜しんだのが裏目に出た。ふつふつとした焦燥感が疑問へ、疑問が怒りへと移り変わる。
 私は呪った。
 どうしてこの世には定期テストなるものが存在するの? どうして? 受けないと呼吸ができなくなって死んじゃうわけでもあるまいし。それにしても寝不足でいらいらする。こんなもので運命が決まっちゃうの? こんな薄っぺらい紙切れで? 一人の人間の人生ってこんなに薄っぺらいのかな。徳のある人はさぞかし分厚い人生なんだろうな。
 ああ、こんなもの消えてなくなればいいのに!
 より一層消しゴムに力を込める。
 すると、思いがけない奇妙な現象が起きた。
「あっ!」
 その異変に驚き、つい声を出してしまった。場の空気が明らかに変わった。試験監督が教卓越しに私を睨む。そんなに睨まなくてもいいのに。めんどくさいな。
「す、すいません。何もないです」
 私がしどろもどろになりながらもなんとか答えると、試験監督は短く咳払いしてそれ以上は言及しなかった。気を取り直して、少し一息。
 それから私は目を丸くして計算用紙を眺めた。用紙には十数センチにかけて一直線の穴が空いていた。記入した文字が消えたのではなく、計算用紙そのものが綺麗に消えてしまっていた。
 私には何が起こったのかさっぱりわからなかった。

     

 ♯3.

「いやー終わったね」
「……終わったよ」
「……なんか違う意味混ざってないか」
「あはは」
 テストも終わって、いつもより早い放課後。持てる能力を発揮した私たち四人は談笑していた。このメンバーで集まっている時が一番落ち着く。私は疲れを吐き出すかのように大きくため息をついた。
 今は何もしたくないし、考えたくもない。ただ流れに身を任せたい。
「まあ、思ったよりできて安心したかな」
 満足げに両腕を天井に突き出しているのは五木愛花(いつき あいか)。ポニーテール、容姿端麗、すこぶる明るい性格、勉強も運動もできる漫画にでも出てきそうな完全無欠ハイスペック女子高生。それが五木愛花だ。
 愛花とは中学から一緒だ。愛花は誰からも好かれている。たとえ、ここが女子校でもだ。悪口も陰口も聞いたことがない。明るいし、自ら率先して動き回るので人望もある。欠点が何一つとして見当たらない万能人だ。どうして私と一緒にいてくれるのかな。時々、そんなことを考えてしまう。
「愛花は何でもできるから羨ましいや」
 のんびりとした口調で話す、六山夏織(むやま かおり)。テストから解放された余韻なのか、どこか幸せそうな顔だ。今にも、顔の周りに花でも飛び出しそう。夏織はどこかふわふわしたような性格がかわいらしくて友達も多い。これが自然体なのだろう。
「友子は大丈夫だったのか?」
 腕を組んで私を見つめるのは日渡茜里(ひわたり あかり)。黒髪ロング、どこか大人びた容姿、真面目さを象徴するような眼鏡。べらべらと話す性格ではないけど、話してみるとなかなかおもしろい。気の利いた事も言ってくれる。やはり成績も良い。
 夏織と茜里は高校からの友達だ。いつの間にか集まって、いつの間にか仲良くなっていた。この四人でよく遊びに行った。本当に楽しかった。しかし、心から充実している時間とは往往にしてすぐに過ぎて行くもので、今や私たちは受験生になってしまった。
 私たち四人は同じ大学に入学するという目標を掲げている。それは名門の女子大。愛花や茜里の成績なら問題なく合格できるに違いない。夏織もここ最近は成績が急上昇している。
 一方の私は……。
「あ、赤点はないと思うよ」
 この有様だ。受験シーズンもまもなく追い込みに入ろうとしている。世間一般の善良な学生なら学校が終わると塾やら自習室にまっすぐ向かうのだろう。そして、鉛筆を握り締めて夜遅くまでテキストと睨み合う。
 私は家に帰るとまず服を着替える。そして、身軽になってベッドに飛び込んで横になる。気がつけば夕飯の時間になって、食べ終わってもだらだらとテレビを見続ける。気がつけば九時。急いでお風呂に入っても、出た頃には十時前。さあ、過去問に取り掛かろうと思っても、ペンが思うようには進んでくれない。そのまま十二時になりタイムアップ。今夜もおやすみ。
 これが私のスタイル。
 既に黒い光が私の未来を照らしている。
 そんなことくらい嫌になるほど承知している。モヤモヤとした焦燥感は夏頃からずっと感じている。この虚しい気持ちはどうすれば払拭できるのかな。ああ、逃げ出したい、私には大きすぎるこの壁から。
「苦手教科は対策しないと」
 得意教科もあるわけじゃない、なんて言えないなぁ……。茜里は勉強に関しては手厳しい。先程から、茜里の言葉が鋭い槍のように突き刺さり、胸の辺りが何となく苦しい気がする。私は思わず、茜里から目を逸らした。
「そうだね、A問題からやり直すよ」
「そうそう、勉強は基礎からが基本だよ」
 愛花が机に顔を預けながら簡単に言ってのける。確かに、やれば誰でもそこそこには成績も伸びるだろう。でも私にはそれができない。凡人の私には無理だ。愛花自身、今までに基礎とか考えたことあるのかな。勉強をしている姿はほとんど見たことがない。
 何度も言うように、愛花は成績が良い。
  しかし、机にしがみつくようなタイプではない。何でもそつなくこなしてしまう。勉強でもスポーツでも遊びでも。生まれ持った素質、センスなのだろう。そんな愛花を見ているとどこか期待してしまう。愛花の限界はどこなのか、と。愛花は自身をどう見ているのだろうか。
「うん、早く対策しないとね」
 苦笑いしながら言葉を濁す。しかし、直感ではもうわかっている。
 いつからなのか、もう……。
「はい」
「え?」
 唐突に夏織が手を突き出してきた。感傷に浸っていた私は一瞬戸惑ってしまったが、すぐに気を取り直して両手を夏織の作る拳の下に添えた。ぽとりと両手に落下したのは飴玉の袋だった。
「お菓子持ってきたよ」
「ん、ありがとう、夏織」
 包み紙を開けて口に放り込む。飴玉はりんご味だった。甘くておいしい。夏織は愛花と茜里にも飴玉を手渡した。突然、愛花が袋を指差しながら表情を明るくした。純粋な子どもみたいな笑顔だ。
「青森産のりんご使ってるんだって!」
へえ。私にはそこいらのりんご風味の飴玉との違いがわからなかった。青森産のりんごじゃなくても、多分おいしいと思うけどな。
「おいしいよね」
 夏織もにんまりと笑っている。
 夏織は甘い食べ物をこよなく愛している。まさにその甘い食べ物を口に含んでいるのだから、この表情も当然だ。こんな夏織を見ていると、将来はスイーツ専門のグルメリポーターの道もあるのではないかとつい思ってしまう。
 一方で、茜里は大人びている。無表情というわけではないけど、どこか凛としていて様になっている。それでも笑う時は笑うし、話していても退屈はしない。茜里からは何か、大人力のようなものを感じる。駄々をこねている私なんかとは大違いだ。
 飴玉はほとんど溶けてしまった。そろそろ噛み砕こうか考えていると、愛花が難しそうに顔をしかめながら大きく伸びをした。
「あーもう。せっかく、テスト終わったのに遊べないなんて!」
 思わぬ大声にぎょっとした。周りにも居残りをして必死に勉強に勤しんでいる子もいるのだ。しかし、まだほとんどが昼ごはんを食べていた。どちらにせよ、愛花なら大丈夫か。
「あ、ごめん。でもフラストレーションが溜まるよ、まったく」
 非礼を詫びると、今度は大げさに肩をすくめてみせた。愛花の言う事はもっともだ。私だって今すぐにでも、この閉塞しきった空間から抜け出したい。万が一抜け出せたのなら、ごろごろして平穏な日々を再度満喫してみせよう。
「仕方ないだろ。大学目指す人は誰もが通る道なんだから」
 これまたごもっとも。間違いのない正論。この場合、正論は私に重くのしかかる。正論が力のない凡人の言い訳を吹き飛ばすことなんてあまりにも容易い。
 真に強い人は自分にとって困難な状況でも立ち上がり、強く一歩を進める。私にはそれができない。やっぱり駄目駄目人間。
 私は短く息を吐いた。何もテスト終了直後にこんな話しなくてもいいと思う。これじゃあ、リラックスしている状態とはいえない。こういった話題の増加も受験が差し迫っている影響なのだろうか。毎日こんな話題が続けば、いつか私は押しつぶされてしまう。
 時計を見ると後数分で一時になろうとしている。私たち以外はぼちぼちと参考書やテキストを鞄から取り出している。そろそろ引き上げ時だろう。私が視線を戻すと愛花と目が合った。すると、愛花は口元に笑みを浮かべながら立ち上がった。
「お腹空いたし帰ろっか!」

     

 ♯4.

 帰り道。風の冷たさが身を震わせる。私は一人で家に向かっている。
 ふと、穴の空いた計算用紙の事を思い出した。あの用紙はテストが終わるとすぐに鞄にしまい込んでしまった。どうしてかはわからないけど、他の人には見られたくなかった。
 家に着いたら何をしようかな。不思議と足取りは良くない。去年まではこんな気持ちじゃなかったのにな。受験なんてなくなってしまえばいいのに。目指せ平等社会。
 しかし、その道のりは遥かに険しいのだろう。
 
 
 自室に到着すると、服を着替えた。振り返るとそこには机がある。小学生の頃から荷物置き場として扱われ、勉強机という本分をあまり果たしてこなかった机だ。
 今日くらいは……。
 私は鞄を床に下ろして数学のテキストを取り出した。表紙をみるだけで気が滅入る。しかし、うだうだと文句を言っている場合じゃない。私は筆箱からシャーペンを取り出し、テキストに勝負を挑んだ。


「あ~あ……」
 三十分も経たないうちに私は敗北した。ルーズリーフには落書きが描かれている。机の上にある参考書は自動的に閉まっていた。使い古された物ならこんなことはまず起こらないだろう。
 ため息をつきながら天井を見上げた。椅子が僅かに軋む。明かりは勉強机の電灯だけだったので、天井は薄暗い。思わず自嘲気味に笑い出す。
 こんな調子では受験という巨大な壁はとても突破できそうにはない。不安や焦燥感のようなものが絶えず私を苛む。
 愛花はともかく、夏織や茜里は今も勉強しているんだろうな。現に二人の成績は好調だ。ああ、四人で同じ大学に行きたい。
 右手を見るとペンだこ。なにも過度の勉強でできたものではない。単にペンの持ち方が悪いだけだ。
 ルーズリーフの片隅にある落書きが目に留まった。怠惰の表れ、私はそう思った。消しゴムを握り締め、落書きをなぞった。すると、なぞられた落書きは綺麗に消え去った。さらに数回こすると、全て消えてしまった。
 ある違和感が浮かび上がる。
 先程の落書きはいつもより気合を込めたボールペンで清書されていたはずだ。私は目を凝らして落書き跡を見た。しかし、汚れの一つすら見当たらない。いくら優れた消しゴムだからとはいえ、ボールペンのインクまで消せるのだろうか?
 しかし、数分後にはそんな疑問も消え去り、良い買い物をしたという満足感だけが残るのであった。
 そうして、その日は終わった。

     

♯5.

「どうだった?」
「まあまあかな」
「そんなこといってー。どうせ私よりも高いんでしょ!」
 私は憂鬱だった。
 今日はテスト返却日。クラスの皆は様々な表情を浮かべている。既に返却してもらった子は近くの子と顔を寄せて話し合っている。その中で私は一人呆然としていた。意味もなく天井の辺りを眺め、名前が呼ばれるのを待っていた。はたして解答用紙にはいくつ丸が並んでるのか。
 斜め隣を見ると、一足早く用紙を受け取った夏織がにっこりと笑っている。表情から察するに、平均点は越えている様子。その一方で、私はまだ受け取ってもないのに沈んでいる。なんだか夏織が遠くに行ってしまったような気持ちだ。夏織だけじゃない、みんなの背中がだんだん遠くなっていく。
「皆本」
 思わず体が飛び跳ねそうになった。どうしてこんなに緊張してるんだろう。結果は見えているのに。意外と諦めが悪いのかな。私は急いで立ち上がり、駆け足気味に先生の元へ向かった。
 数学教師の山本は私を一瞥すると、軽く半分にたたんだ解答用紙を手渡してきた。その顔に表情はない。何を考えているかさっぱりわからない。さっきまでこんな表情だったかな。私が緊張してるせいなのかもしれない。
 失望? 軽蔑? 呆れた?
 自分の座席に向かう途中、みんなが私を見ているような気がした。さっきからどうも神経質だ。私らしくない。私はゆっくりと自分の席に着いた。折りたたまれた答案用紙を顔に少しだけ近づける。
 さあ、ある意味では見たくもあり、見たくもない代物でもある。しかし、当然ながら開かないと結果はわからない。息を吸って覚悟を決めた。私は眩暈のようなものを感じながら、ゆっくりと用紙を開いた。
「うっ……」
 頭を鈍い衝撃が走った気がした。
 点数は四十一。
 赤点スレスレだ。今までの私なら安堵していただろう。でも、今は……。
 こんな点数じゃ、とてもみんなと同じ大学なんて行けない。目指せない。既に結果は見えていた。自分自身で不幸な結末はわかりきっていた。しかし、何かに期待していた私がいたんだろう。これは十分に私をノックアウトできる威力だった。目に少し涙が浮かびそうになるのがわかった。私はそっと解答用紙を畳んでそれを眺めた。周囲の声が急激に遠のいていく。
 ああ……。
「友子!」
 肩に手が置かれた。ゆっくり振り向くと愛花が立っていた。
「テストどうだった?」
 ぐっと喉が引き締まった。私は唾を飲み込んでから苦笑いを浮かべてみせた。少し見ただけでは気づかれないだろうが、ほんの少し涙目になっているのが自分でわかった。今は愛花の顔を見るのが辛い。
「ギリギリ赤点回避だった」
「そっか。友子、数学苦手だもんね。まずは赤点回避おめでとう!」
 愛花は快活な笑顔を浮かべながら親指を立てた。何の混じり気のない純粋な笑顔。愛花の結果が良かったからなのか、私を励ますためなのかはわからない。とにかく、悪気はないようだ。
 愛花は学年トップに違いない。絶対にそうだ。周りにはもっとレベルの高い高校はあるのにどうしてこの学校にしたんだろう。そんなことは一度も訊いたことがなかった。
「どうだったの、友子」
 茜里もやってきた。何となく見られたくない。茜里はどことなくお母さんのような雰囲気がある。茜里の言葉は簡単に私の胸を揺らがせる事ができる。私は何となく両手を用紙の上に置いた。
「ギリギリだった」
「赤点回避、か……。でも、気を緩めちゃ駄目。今日のうちにわからなかった所をチェックすること、いい?」
「うーん……」
 うめき声だったのか返事だったのかは自分でもわからない。茜里は短くため息をつくと自分の席へと向かった。やっぱり茜里は手厳しい。お母さんに叱られるような気持ちになる。もっとも、原因は勉強不足の自分にあるんだけど。
「はい、席に着いて。問題の解説をするから」
 山本が手を叩いた。みんなが一斉に席に着く。
 私は少しの間、間の抜けた表情を浮かべていたがチョークが音を立てると茜里の声が思い浮かんだ。相変わらずその声は私を不安に駆らせるが、弱音を吐いても仕方ない。今からでもやらないと。
 私は心のギアを入れ替えるように筆箱からシャーペンを取り出した。さ、集中集中。

     

♯6.

 日本史の授業は退屈だった。なんで同じ人が何回も総理大臣になるの?
 さっきの決意という名の魔物は冷静さを取り出したようだ。先程から何度も強烈な眠気に襲われている。眠気の波は強弱をつけてから押し寄せてきて、私は抗えずにいる。外は雲一つない良い天気だ。どうか私の淀んだ心を眩しい光で照らしてください。
 根気強い人ならば、ここからすぐに立ち上がるのだろう。しかし、私は危機感を抱きつつも、立ち上がれないでいた。頭が緩急をつけながら前後する。さっきから、先生と何度も目が合っている気がする。もはや周りの目は気にならない。
 ああ、一年や二年の時は試験が終わるとゆっくりできたんだけどな。家に帰ってゴロゴロしたり何でもできたのに。私は朦朧とする意識の中で過去の思い出に耽っていた。やっとの思いで時計を見上げると、授業終了まで後二十五分も残されている。
「うっ」
 小さいうめき声が漏れた。今の私にとっては果てしなく長い時間だ。
 私はシャープペンシルと消しゴムを強く握り締め、眠気に抗おうと試みた。しかし、眠気は手を緩める事を知らないかのように私を飲み込もうとする。そんな強大な力に圧され、ただただ沈んでいく。そうして、私の抗う意思は徐々に削がれていく。

 ──なんで定期試験が終わったのに勉強を続けなきゃいけないの。ちょっとぐらい休んだっていいじゃない。

 思いに耽る間に、その様な感情が浮かび上がった。
 眠気という悪魔が私に手招きしている。その横には“怠惰”も存在している。その誘惑はあまりにも強力だった。私のか細い意思はフラフラと悪魔の方へと流される。ゆっくりと足を進め、そのまま差し出された手を掴もうとした。
 だが私は立ち止まった。
 今からでも勉強を続けなければ、確実に四人で同じ大学には行けないだろう。それは間違いない。現実という名の扉が非情に背後に立ちはだかる。今はまだ開いている。が、いつ閉じてしまうかは誰にもわからない。しかし、そう遠い未来ではないと私は理解している。

 ──みんなと同じ大学に行きたい。でも、勉強はしたくない!

 あらゆるプレッシャーが私に重なっていく。
 目を瞑ると、胸の鼓動が聞こえた。それは徐々に早まり、加速し続ける。もう耐えられない、そう思った瞬間、ガタンと大きな音が鳴った。
 机が音を立て、私は素早く起き上がった。一瞬、教室は静寂に包まれ、その直後に笑い声が起こった。
「え?」
 周囲の反応から、自分が寝ていた事に気がついた。少し遅れて、顔が紅潮しているのがわかった。体が燃え上がるように暑い。顔から湯気でも出てきそうだ。どこか隠れる穴はないものか。しかし、避難場所は存在しなかった。
「皆本さん?」
 教師は苦笑いしながら私の名前を呼んだ。私は苦笑いでそれに答えるのが精一杯だった。すいません、と謝罪の言葉を述べてから息を吐いた。
 机を正し、視線を下ろしてからある現象に気づいた。
 ノートに一直線の穴が空いていたのだ。穴の終着点には消しゴムが転がっている。穴の底には机の表面が見えた。どうして穴が? 寝ぼけた私の頭はこの事態を処理できないようだ。ノートは裏表紙まで貫通していた。破った様子などは見られない。
 私は消しゴムを目の前まで持ち上げて凝視した。しかし、消しゴムに異常は見当たらない。どうみてもそれはただの消しゴムだ。

     

♯7.

 私は自室のベッドに横になりながら、消しゴムを見つめていた。どこからどう見てもただの消しゴムだ。気になる点があるとすれば、既に何度も使っているのにほとんど擦り減っていないことだ。黒鉛による汚れも全くない。
 ふと、あの文房具屋にあったこの消しゴムのポップを思い出した。
「どんなものでも簡単に消すことができます」
 本当に何でも消せるのかな。
 好奇心が湧き上がり、立ち上がって机に向かった。一枚の用紙にボールペンで数本線を引いた。本来ならば、紙が無駄になる。だが、この消しゴムなら。
 私は胸を高鳴らせながら、線に沿って消しゴムをスライドした。すると、
「消えない……」
 インクは消えていなかった。私の中ではっきりとしない期待がみるみる内にしぼんでいった。思わず短いため息が漏れる。
「この前は消せたのに……」
 しかし、私は諦めなかった。消しゴムを握り直すと、力を込めて擦り付けた。消しゴムが前後する度に用紙が音を鳴らす。心の中で「消えろ」と念じた。何度も何度も。
「……消えろ」
 無意識のうちに声が出ていた。しかし、私はまったく気にも留めずに腕を動かし続ける。自身がまるで壊れたロボットのようだと思った。だが、今の私には感情が存在する。好奇心という名の魔物が。どのようなことが起こるのかをこの目で確かめたかった。
 怒りにも似た感情が吹き上がったその時、
「あっ」
 インクが消えた。用紙にはペン先によって刻まれた跡が僅かに見えるだけで、それ以外の痕跡はまったく残されていない。私は右腕を震わせながら恐る恐る消しゴムを見た。その瞬間、ある考えに至った。
 この消しゴムは消えるように念じないと消えない。それも中途半端じゃ駄目だ。
 これまでの事を思い返すと合点がいく。そして、更なる好奇心が湧き上がる。
「『何でも消せる』って、本当に何でも消せるのかな……」
 部屋の辺りを見渡すが、いざ消えても構わない物を探すとなると少し戸惑ってしまう。足元に視線を落とすと、机の側にゴミ箱があった。中を覗くとポテトチップスの袋があったので、それをつまみ上げて机の上に置いた。そして、袋に消しゴムを持った右手を近づける。緊張からか少し指先が震える。
 私は強く念じた。
 消えろ……消えろ……!
 消しゴムの先端が袋に触れた瞬間、接触面の部分が消えた。そのまま、右手を動かし続けると、袋は徐々に原型を崩していった。そして、数十秒もすると袋は綺麗に無くなってしまった。
「うわあ……」
 私は感嘆の声を上げた。まるで漫画のような出来事が目の前で起こっている。私にはそれが信じられなかった。だが非現実な事が目の前で起き、それに興奮している自分にも気づいた。気がつけば、胸の動悸がずいぶんと早くなっている。
 ふと、消しゴムを見ると、斜めに擦り減っていた。これまでほとんど形を変えなかった消しゴムだったが、確かに擦り減っている。しかし、そのことを私は気にしなかった。
 薄暗い光のような何かが私の胸に差し込んだ気がした。

     

♯8.

「はい、マーク試験対策のテストをします」
 現代文の授業。
 先生がマークシートのプリントを配布している。今日は評論文だっけ。テストが終わって一週間経過しても、どこか慌ただしい気がする。それだけ、本番に近づいているのだと改めて実感させられてしまう。私にとってはそんな毎日が憂鬱で仕方ない。
 魔法のような消しゴムを手に入れたからといって、受験の波から逃れられるわけではない。私は消しゴムの事は誰にも話していなかった。その理由は私自身もよくわからなかった。何となく言わない方がいいような気がした。
 先生が腕時計から目を離して顔を上げた。
「それでは……はじめ」
 クラスの全員が一斉に問題用紙をめくる。
 私はその音に耳を傾けていた。文章から読み始める人、問題から確認する人、凄まじい勢いでページをめくる人など、音だけでも色々な事がわかった。
 ……急がないと。私には余裕なんてないんだから。鉛筆を見つめてから気を取り直し、文章を読み始めた。


 ♯

 時計を見ると、残り八分。
 一通りは解き終えた。後は飛ばした問題を片付けるだけだ。しかし、ここからが問題だった。五択の内、二つか三つは除外できた。だが、残りの選択肢はどれも怪しい物だった。私は現代文のこういった一面が苦手だ。
 どっちだろう。どっちも正解だと思うんだけどな。しかし、疑わしさを払拭できる根拠が見つからない。ええい、困った時は「2」だ。
 わからない問題は勘で解いていった。そんな調子でなんとか全てのマークを埋める事ができた。あと五分も残っている。私は安心して短く息を吐いた。
 見直すために問題用紙を手に取って確認を始めた。マークミスは無いようだ。全体を見直してから、鉛筆を机に置いた。
 その時、消しゴムが目に留まった。
 私は消しゴムに何か想像もつかないような可能性が秘められているような気がした。なんとなしに手の平に消しゴムを置いてみた。
 この消しゴムは「何でも消すことができる」。
 それなら……。
 “間違った答えだけ”を消すことはできるのかな……?
 好奇心と背徳心の波が押し寄せる。しかし、既に動いている手を止められない。今ならはっきりと心音が聞こえる。私は意識を消しゴムの先端に集中させた。またもや指先が震える。決意を固め、私は消しゴムを動かした。
「!!」
 数個のマークが消えた。しかし、中には消えていないマークもある。もちろん、そのマークの上にも消しゴムはかけられていた。だが、消えていない。その刹那、確信した。
 消せる。消すことができる! 何でも消せるというより、消したいと思った物が消えるんだ!
 異様な現象を目の前にしても、私は意外と冷静になれた。それよりも時間だ。私は急いで問題用紙を手に取り、解答を確かめた。消えたマークの番号が示すのは、わからないので仕方なく勘で問いた問題だった。鉛筆を手に取り、もう片方のマークを塗りつぶし、再び消しゴムをかけた。しかし、マークは消えない。私はほくそ笑んだ。じわりと高揚感が胸一杯に広がっていく。
 時計を確認すると、残り二分。時間がない。
 私は問題用紙を置いて右手に鉛筆、左手に消しゴムを持ち、修正作業に取り掛かった。消えるのなら、塗り直す。消えないのなら、そのままで。
「あと、十秒です」
 タイムリミットが宣告されると、私は僅かに動揺した。集中が乱れると何も消せなくなってしまう。
 修正箇所はあと、三問。
 私は一種、何かに取り憑かれたように猛然と作業に取り掛かっていた。執念なのか焦りなのかはわからない。けれど、何かに追い詰められているような気はしていた。ただ、ひたすらに両手を動かす。鉛筆を持つ右手はがくがくと震えて、まともに握り締められていなかった。
 教師がゆっくりと立ち上がった。
「はい、時間です。解答冊子を開いて答え合わせしてください。終わったら解説をするので、その後に提出ね」
 教室に弛緩した空気が流れる。私だけが呆然と鉛筆と消しゴムを握り締めていた。全て修正するのには時間が足りなかった。私は鉛筆を置いて、椅子に背中をあずけた。こんなに緊張したのは高校入試の面接以来だ。
「はぁ~……」
「どうかしたの、友ちゃん?」
「え?」
 ため息をついていると、夏織が話しかけてきた。突然のことだったので、思わず間の抜けた声を出した。夏織は構わずに続ける。
「終わりの方になんか急いでなかった?」
「っ……」
 私は胸をきつく締め付けられたような気がした。
 何か感づかれたのでは、と一瞬危惧したが、夏織の表情はいつも通りだ。突然、口ごもった私を見て首を傾げてはいるものの、怪しんでいるようには見えない。
「いやあ、マークズレちゃっててさーはは」
「それは怖いね。これからは気をつけないとね」
 夏織はお気の毒様とばかりに微笑んだ。大丈夫、気づいてない気づいてない。
 何とかごまかしおおせた私は密かに胸を撫で下ろした。やはり消しゴムの事は知られたくない。解答冊子を開いて、恐る恐る答え合わせを始めた。まだ決まったわけじゃない、と自分を落ち着かせる。しかし、高まる期待感はごまかしきれなかった。体温が上がるのを感じる。
 私はペンを持って採点を始めた。
「おお……」
 赤ボールペンが軽快に動き回る。今までにこんなに丸のある解答用紙は見たことがなかった。そして、最後の三問だけバツ印が付いていた。それでも、結果は今までに取ったことのない十分な高得点だった。全問修正できなかった事については悔しさが残るものの、それ以上に得た物は大きかった。
 罪悪感が無いとは言えない。後ろめたさで胸がジリジリとした感覚に襲われる。しかし、どうしてもわからなかった問題だけ、と自分を納得させた。
 仕方ないよ、こればかりは。

       

表紙

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Neetsha