Neetel Inside ニートノベル
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プロジェクト・リビルド!
第2話 記憶でリビルド!

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 株式会社単芝テックはもともと海沿いの平野に自社ビルを構えていたが、不況と売上不振の影響で数年前に住所を内陸に移した。このときの移転理由が傑作で、数週間を要してひねり出した結論が「地震・津波対策」だというのだから腹が捩れる。少なくとも自社ビルを持っていた会社が現状ビルの三階と四階だけを借りている理由にはなっていない。
 移転前に大量の人員整理が行われた。方籐一郎の同期社員はほとんどその時に希望退職制度を利用して辞めた。退職金自体は微々たるものだったが、泥船に乗ったままでいるよりはましだと判断したのだろう。だが、その後再就職先が見つからずに結婚目前にして自殺した同期のことを思い出し、方籐は朝から陰鬱な気分になった。

 破綻したソフトウェア開発プロジェクトの再建を始めてから一昨日でちょうど1年になった。当たり前のように設計書がなく、当然のようにまともに動かないソフトウェア群をどう立て直すかには骨を折ったが、これには中途入社で多くの開発プロジェクトを経験してきた平針という男の知見と働きが大いに役立った。

 平針は方籐がプロジェクト再建の任について2ヶ月後に中途入社してきたベテランだが、方籐は当初彼を外様として意識し、あからさまに信用しない素振りを見せていた。平針も向こう意気が強いといえば聞こえはいいが、打合せでメンバをひどくこき下ろしたりするなど、お世辞にも褒められたものではない。それは平針に限ったことではなく、他人を悪し様に貶して自分を相対的に持ち上げる悪習が、常態化していたのだ。
 たまたま打ち合わせ室を通り過ぎた総務部長から異常性を指摘されたことで、初めて方籐は「現実」に気付いた。再建プロジェクトを管理をしている自分でさえ、状況を客観視できていない現状に危機感を覚えたが、焦ってばかりいても仕方がない。方籐は友人のコンサルティング業務をやっている人物に少しアドバイスを受けた後(お礼としてラーメンを一年間おごれと言われた)、メンバの意識改革に乗り出す。
 方籐はまずヒアリングを個別に開始した。ソフトウェア開発と言っても現状自分を含めてプロジェクトメンバは七人しかいない。破綻前は数十人単位かつ外注がワンサカといたものだが、新社長の方針で少数精鋭という名のもとに人員数が超大幅に削られてしまった。
 とはいっても、それによって開発ターゲットも同時に絞られているので、人員不足の問題は今のところ発生していない。問題なのはやはり、プロジェクトメンバのコミュニケーションがまともに行われていないことだった。

『スペック不足による新サーバ購入稟議申請が通ったのですが、業者の納期が一ヶ月後でその間テストを行うことができない』
『どうすんのそれ?あのエンジンできないとこっちの作業始められないんだけど』
『それは・・・』
『それを言ったらお前、お前んとこで作ってるツールいつ完成するんだよ。スケジュール的にはもう完成してるはずだろ?』
『いやそれが、開発中に予期せぬバグが発生しましてね、修正しようと思ったらいろいろ頼まれごとをされてしまって未だに着手できずにいるんですよね―。僕も困ってるんですよ』
『なんだよそれ、頼まれごとって。勝手にスケジュール引いてない作業してんじゃねーよ』
『いや引いてますよ。ここ』
『じゃあなんでツールの予定はリスケされてないの?』
『というか俺、そんな作業してるとか聞いてないんだけど。なんで勝手にリスケしてるの?』

 こんなやりとりが週に一回の打合せで毎回行われていた。
 方籐はこれまでこの打合せに自分が参加していなかったことを悔やんだ。個別ヒアリングを行うまで「何も決まらず文句だけ言われる打合せに一体どんな意味があるのか」と平針に言われるまで事態を把握できていなかったのだ。打合せは毎週木曜日に週次会と称して行われるが、他のメンバからも「打合せが辛い」とか「毎週木曜日になると胃が痛くなる」という声を受け、実際に参加してみたらこの状況である。
 結局方籐はその場では何も言わず、週次会は終了する。ただ、平針にだけ会議室に残るよう指示しておいた。

     


-2-

 平針は大仰に両手を広げ、ため息を付いて方籐の方を見て、愚痴をこぼす。
「いかがでしょう、この現実」
「いやあ、思ったより悪いね。皆仕事はしてるのはいいんだけど、同じ方向を向いていないというか、自分しか見てないというか」
 がらんとした部屋の天井を見上げながら、方籐は言った。それから何も言おうとしないので、しびれを切らして平針が口を開いた。
「じゃあなんとかしてくださいよ―。まずは時縞課長のマネジメントからメス入れて欲しいですね自分としては」
「いやあ、あいつはだめだよ。開発者としては一流かもしれんけど、チームをまとめる気概がない。管理職になればなにか変わると思ったけど、いまんところそんな気配はないな」
 もったいぶった話の展開に平針はイライラした。そもそも呼び止めたのは方籐なのだから、彼の方からなにか言うことがあるはずなのだ。
「何が仰りたいんですか?結論を言って下さい」
「まあまあそう焦らず。君が入社してどれくらいになるかな」
 突然の質問に困惑する平針だが、記憶を巡らせ、十ヶ月程度であることを思い出す。
「だいたい一年弱ですね。このプロジェクト再建が始まって二ヶ月後入社なので」
「そう。それで平針くんが入社して一ヶ月位たった時、ぼくは驚いたね。入社して間もない君が、開発プロセスの改善を提案してきたというんだから」
 そういうこともあった、と思い出しながら、平針は苦い顔をした。入社直後の記憶からいい思い出を引き出すことは困難と思えるほど、あの時はいろいろあった。
「その時どうなったか、覚えているかい」
 ニコニコしながら方籐が話すので、平針は彼の意図が読めず混乱した。なぜいまさらこんな話を蒸し返すのだろう。
「ええ、もちろん」口の端をひきつらせ、露骨に苦い顔をしながら平針は続ける。「『いや、そんなのもうあるから』という理由で内容の精査もなく一蹴されましたからね」
 内容には絶対の自信があった。今まで積み重ねてきたノウハウを結集した渾身の出来と言っていい自負があった。それが社内の「変化を嫌う風潮」によって、議題にも上らなかったのだ。
 あれがあってから、平針は、社内で何かを改善しようという感情を一切持たなくなった。
「きみがそれをやったと聞いたのが随分後でね。しかも飲み屋の席で時縞くんが君の悪評を広める意図でぼくに教えてくれたんだよ。いやあ飲み会も開いてみるもんだね」
 平針は「うわあ」と言って、また苦笑いした。正直言って悪意自体は感じていたが、確信に至るまでではなかった。だがここへ来て事実を突きつけられても、なかなかどうして、大して怒りも湧いてこなかった。
「彼が優秀なことは確かなんだよ。実装したコードを見たことが何度かあるが、本当に無駄のない仕事をする人間だ」
 だが、と一拍おいて、氏を断罪する。
「管理職には向いていない」
「でしょうね」と、平針は相槌を打った。フォローをする理由がないことを正直に表現する。「入社してからずっと、そう思っていました」
「そこでだ」
 方籐は、今日何度目かの接続詞を用い、もったいぶった言い方でようやく結論を話した。

「君にはこのプロジェクトのリーダーをやってもらう」

 平針幾人はこの時、未だかつて発したことのない声量で、会議室に響き渡る次の言を発した。

「はぁ!?」

     


-3-

 もともとは業務拡大として組織されたSIソリューション部だが、組込系からの脱却を意図して組織再編や人事による人材流入が昨今になってよく行われるようになった。パッケージソフトのプロジェクト破綻時期近辺ではさすがにおとなしくなったどころか人数が削られたが、一時期は相当な人数に膨れ上がり、管理者の心労も比例して増大した。
 ちなみに、社内ではプロジェクト破綻とは言われていない。その辺りの時期は『プロジェクト再建開始時期』という言葉で話すよう、破綻という言葉は使用しないよう社内で箝口令が敷かれている。「シンキングはポジティブに」を座右の銘とする社長のトップダウンだ。使用したことによる罰はないが、そのことが逆に社内の発言を抑制し、空気を沈殿させていると言う者もいる。「自由な発言が自由な発想を生む」とかなんとかそれらしいことを言っていたが、それ以来そいつは仕事中あまり無駄話をしなくなったので、珍しく平針は社長に感謝していた。
 その人材流動が活発になる時期にSIソリューション部に入ってきたのが、平針の隣に座っている長宗我部知夏という人間だ。てっきり業務縮小時期に別部署へ異動になるものとばかり思っていたし、本人もそう希望していたようなのだが、なぜかまだ一緒に仕事をしているし、時々昼ごはんを一緒に食べたりしている。
 この戦国武将のような名字を持つ長宗我部だが、平針には一つの疑念が出会って以来ずっと頭のなかにこびりついて離れないでいた。それは平針と長宗我部の社会人としての付き合い方の根源に関わる問題だった。
 長宗我部が、オトコか、オンナか、わからないのだ。
 見てくれでは確実に判断できない。男とも言えるし、女と言っても疑念を抱かない中性的な顔立ちをしているし、スカートを履いていないことが女性認定を決定付けないことは、パンツスーツでリクルート活動を行う女性が多いことからもわかる。
 趣味からなにか情報を得られないかとデスクの周りを見回しても、可愛らしいカエルのキャラクターがついたストラップをデスクのセパレートにさした押しピンに吊るしているかと思えば、缶コーヒーのおまけでついてくるクルマのミニカーを綺麗に飾ったりしている。ミニカーも可愛らしい物だけ集めているのかとおもいきや、意外といかついフォルムのセダンやトラックなんかもあったりして一貫性がない。
 長宗我部は女性社員とよく話をしている。以前、『こいつは男』と思い込んで仕事をしようと考えていた時期があり、そのように接していたのだが、ある時女性社員と会話している長宗我部を見かけた時に衝撃的な言葉を聞いてしまって以来、長宗我部の人間像を固定できずにいた。
「チカってスタイルいいよね~。ダイエットしてるの?」
 なんというか、完全に”ジョシ”の会話をしていた。勝手に「トモナツ」だと思っていた名前もその女子社員は「チカ」と呼んでいた。衝撃だった。その発想がなかったからに他ならないが、その女子社員は自分が知らない事実を知っているのだ。エクセルで集計関数も使えないようなアバズ…性的方面において開放的で積極的な人間が、平針の叡智の連峰を鼻歌交じりに跨いだのだ。
 もちろん「チカ」はニックネームかもしれない。だがその出来事は平針の胸骨を安々とかわして心の臓にクリティカルダメージを与えた。平針はそれ以来、その件に関して思考することをやめ、長宗我部を「一社員」としてのみ見るよう努めるようになった。
 本人に直接聞けばいい、と思うかもしれない。しかし平針は「あなたは男ですか、それとも女ですか」と愚直に訊ねてしまえるほど心臓は毛深くないし、こればかりは「聞いてはいけないことを聞けるアホ」の降臨を待つ以外に手立てはないと思える。
 そんな不思議人間チョウソカベがさっきから耳障りな鼻歌を歌いながらキーボードを打鍵しているので、平針は昨日指示していた作業の進捗を進捗を確認がてら、破滅の協奏曲を中断させようと画策する。
「どう?できた?」
 完了予定が週末なのだからまだ出来上がるはずはないのだけれど、平針は別の話題を見つけるのが面倒だったのでそう聞いた。
「いえ、まだ半分というところですね。急ぎになりましたか?」
 なぜ質問されたかを思考して回答を寄こす長宗我部の仕事姿勢については、平針は気に入っていた。聞かれたことにしか答えない人間は、先の質問にはイエスかノーでしか答えないだろう。それが悪いとは言わないが、それはプログラムだってできることだ。
「いや、急ぎじゃないよ。ちょっと作ってるやつ見れるかな」
「あ、りょーかいです。ちょっと待って下さいね」
 長宗我部がブックマークからアドレスを呼び出すと、そこにはとてもファンシーな画面が表示された。クマやウサギ、カエルのぬいぐるみのようなキャラクターがボタンの横にアイコンとして貼り付いており、カーソルを合わせるとアニメーションするような作りになっている。なんだこれは。
「アドレス間違えた?」平針が確認のために質問した。「昨日指示したものの成果物が見たいんだけども」
 一応完全な意図を伝えたつもりだったが、長宗我部は真顔でアドレスの選択違いを否定した。
「このアドレスであってますよ。よく出来ているでしょう。マウスオーバーのアイコンを作るのにちょっと苦労しました!」
 たしかに良く出来てはいたが、やりすぎだ。
「えと、たしかに出来はいいな。これなら女性有名人がブログのスキンとして使いたがるんじゃないだろうか」
「そうでしょうそうでしょう」
 長宗我部が胸を張って言うのは慣れていたので、そのことに関しては腹は立たなかったが、ここに来て以来ずっと修正しようにも曲がらない長宗我部の仕事ぶりに平針は辟易していた。
「だが次からクマを使うときはオレに許可をとってからにしろ。あと今回のプロジェクトではクマは使えない」
「ええ、そうなんですか。わかりました」
 ここで『じゃあウサギはいいんですか』と聞き返さないのが長宗我部のまだましな点だ。こちらの言ったことを噛み砕いて適切に認識するところだけ、平針は助かっていた。言動に組み込まれていない意図を自分で表現してしまうところを除けば、なかなかの優良社員だ、そう思う。
「無機物のクマにしますね」
「なんだそれは。ダメだ」

     


-4-

 一年前は、単芝テックにとって転機と言える時期だった。
 代表取締役が元官僚の天下りである白田から、SIerを定年退職し経営コンサルタント会社の社長をしていた黒河に替わった。
 白田は数年の経営不振に抜本的な改善策を打ち出さないどころか、赤字垂れ流しの状況を維持するかのような「対策しないことが対策」などの意味不明な発言をマスメディアでも発信しており、株主はもとより消費者から反発を買っていた。コールセンターが一時、白田への苦情の多さで回線がパンクしたほどだ。中にはあまりの抗議の多さに精神的にまいってしまい休職に追い込まれた者もいた。
 あまりの無策に取締役会がようやく重い腰を上げ、白田の代表取締役解任の決議を採択しようとしたが、白田はそのことを事前に嗅ぎつけ、解任決議案採択の前に辞任し、数日後姿を消した。
 白田に替わって代表の任についたのは、それまで献身的な貢献で業績を上げているにもかかわらずなぜか社長になれないでいた黒河だった。当初は白田の派閥にいた福井常務取締役が次期代表取締役の最右翼にいたが、白田が失踪して以降急速に求心力を失う。そこで消去法的に候補に上がったのが黒河だった。
 黒河がまず行ったことは、人事部の再編だった。黒河自身が人事部内の人材について経歴を洗ったところ、要職の人間は全て白田の息のかかった、もしくは官僚の天下りで入社した人物だった。
 黒河は希望退職制度と異動人事を駆使し、要職の人間の首を全てすげ替えることに成功する。業務の引き継ぎに懸念があったが、現場の人間に聞いてみたところこのような返答があったため黒河は強権発動をためらいなく行うことができた。
「あ、あの人ら何もやってないんで大丈夫っす。引き継ぐこと一切ないっす。昼休み以外ずっとマインスイーパやってますからね。よく飽きないもんだ」
 確固たる証拠を挙げて懲戒解雇にしてやろうかとも考えたが、黒河は白田の失踪で随分骨を折った経緯があるので、これ以上社内に「厄介事」を増やしたくないと思うくらい精神が削られていた。それに、無表情で人間にナタを振り下ろして平気なほど、黒河の心臓は丈夫にできていなかった。表面上は温情裁量で希望退職制度と異動の併用により、人事部の要職にいた白田勢力を排除する。人事部長は適任が見つからなかったので、しばらく黒河自身が兼任するということになり、黒河は社長室でなく人事部の部長席に常駐することになったから、もともとゆるかった人事部内の空気が一変し、数ヶ月は体調不良(腹痛)で休む社員が頻発した。
 黒河がヒアリングしていくうち、白田が残していった負の財産がいかに大きく、腐敗していたかを思い知ることになる。入社した社員のうち四分の二がいわゆる「コネ入社」であり、それ以外の四分の一は「ろくに面接や試験もされず、学歴だけ見て採用を決定」で、のこりの四分の一のうち「白田に金を送った」とされる社員は実に七割を超えていた。
 人事は会社経営の根幹である。根が腐っていては木はまともに立つことはできない。
 黒河は人事改革を着実に進め、数カ月後にはようやく「健全」と言える状況にまで持ち直した。「コネ入社」がなくなり、評価の基準が大幅に増えたことから仕事量が大幅に増え社内に悲鳴が上がったが、声高に「ノー」と言って仕事をしない社員がいなかったことは、黒河にとって幸運だったといえる。

 人事改革と同時期に着手したのが、SI部門の再建だった。パッケージソフトの出来の悪さから失注に次ぐ失注で、部下の持ってくる改善・販促計画がほとんど絵に描いた餅だったため、これも人事と同じく抜本改革が必要とされた。
 とはいえ黒河は人事制度改革で現場に直接口出しするなどして手一杯である。そこで黒河は社内にキーマンを見出して改革を委任することにした。
 委任する人物の要件は以下のとおり。

・改善、改革に熱意があり、その実績があること。
・白田派に所属せず、また白田に金を送っていないこと。
・部下に人望があること。

 黒河は、人事部の部長席の左奥にある会議室Aに、方籐一郎というメガネを掛けた無精髭の男を呼び出した。

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 長宗我部にクマの討伐クエストを命じた平針は、自席に戻って後輩の残した作業の続きをすることにした。ちなみにその後輩は「遅めの夏休みとってきまーす」と言って日本からいなくなった。おそくねーよ。今お盆だよ。今遅めの夏ってどこの国基準だ。
 バージョン管理ツールから最新のソースコードを取得したところ、画面にすでにエラーが表示されている。頭の足りない後輩はこのソースコードが自動的にサーバでビルドされているとは知らず、不具合を残したままソースコードをコミットしていったのだ。
 ちなみにバージョン管理ツール内のソースコードは一定間隔でビルド用サーバにダウンロードされ、自動的にビルドが行われるようになっている。その定期ビルドでエラーが発生した場合、ソースコード管理者にメールで通知が送信されるようシステムが構築されている。平針はそのメールの槍の直撃を受けた被害者であった。
 不具合は軽微なものだった。参照している関数のパッケージを省略しているのに、パッケージをインポートしていないために発生するエラーが表示されていた。当該関数のサジェスト結果を見るとクラスの候補は一つだけだったので、当該クラスをインポートするよう修正するとエラー表示は消えた。
 ビルドと簡単な動作確認をした後バージョン管理ツールにコミットする。本来ならテストツールを走らせるなりして検証すべきだが、今は心臓に負担をかけ生命の危機を脅かすビルドエラー通知メールから自身の健康を守るのが先決であり、検証は帰ってから後輩にやらせればよい。平針は迷うことなくコミットのボタンを押下した。
 定期ビルドは30分間隔で行われる。コミット後に動いた定期ビルドの結果を見て平針はゾッとした。エラーが発生しているのだ。
 ログを精査してみると、コミットした部分ではエラーは発生していない。どうやら今回コミットしたところとは別の場所でエラーが発生しているようだった。
 定期ビルドで問題が発生した場合、ソースコードの最終コミット者のところに社内の電話で連絡が行くようになっているが、今回平針のところには連絡はきていない。コミットした人間しかわからないので、連絡する側が対応を決めあぐねていたようだ。
 上長からビルドエラー修正の依頼があって初めて、メールで通知されていたビルドエラーが後輩発端であることを認識した。今回のビルドエラーでは誰に連絡が行っているのかなと他人事のように考えていると、二つくらいとなりのパーティションから喧騒が聞こえてきた。
「だから知りませんよそんなの!何かの間違いでしょう」
 おそらくビルドエラーに関する問い合わせだろう。だとしたら間違いであるはずがない。ビルドのログはしっかりサーバに残っているし、今最新のソースコードを取得して試してみたら全く同じ箇所でビルドエラーが発生した。これでしらばっくれる人間にしてあげられることといえば、優しく事実を説明して納得してもらうか、脳神経外科の受診をすすめるかのどちらかだろう。
 電話口の人間も白熱しているようで、何を言っているかわからないもののかなり大きい音が聞こえてくる。これだけ遠くにいてうるさいのだから、受話器をとった当人の耳が聞こえなくなる可能性を考慮し、平針は心を痛めた。

     


-5-

 定時を過ぎた頃、当日の作業を終わらせた平針は、CE部の同期入社である高島と居酒屋『足軽』へ足を運んだ。高島は平針自身と同じ中途採用でありながら年齢が同じという稀有な間柄だった。
 若干態度が横柄な、それでいて和服美人な女店員に案内され、掘炬燵の部屋に腰を下ろす。店員がおしぼりとお通しの小皿を置いて「とりあえずビール二つ」という高島の注文を電子伝票に打ち込んだあと厨房の方へ戻って行くのを見届けてから、高島が口を開いた。
「今日お前んとこなんか揉めてたの?すげーうるさくてこっちのシマまで聞こえてきてたんだけど」
 例のビルドエラーの件だ。平針はうんざりしながら、何から説明したものかと頭をもたげた。
「やっぱおまえんとこだったのか。結局どうなったの?」
「うちじゃない。常葉さんとこのチームだわ」
 高島は、ああ、なるほど、という顔で苦笑いした。当該チームはトラブルメーカーとして名を馳せている。
「なんだ。マシンでもぶっ壊したのか」
「そんなわかりやすいことなら騒がないよ。問題がめんどくさくて、かつ双方のゴールが違うからややこしいことになる」
 常葉が勝手に菊川のIDで修正したソースコードをバージョン管理ツールにコミットして、そのせいでいろいろエラーが発生して、ビルドを監視しているメンバーから問い合わせが来てもめていたのだけれど、それをCEの高島に説明して伝わるかどうか自信がない。彼もエンジニアなのである程度話は通じるとは思うが、説明中に不明な用語で引っかかると説明の途中でも根掘り葉掘り聞いてくるめんどくさいやつなので、平針は詳しく説明したくなかった。
「トコハーンがしくじったんだよ」
 会社内では絶対に口にできない二つ名を使って、本日のトラブルを明瞭簡潔に説明すると、高島は、ああ、めんどくさいんだな、と感じて、「なるへそ」といったきりその件についてはそれ以上聞いてこなかった。
「トコハーンな、客先でもしくじってたぞ」
「まじか。なにやらかしたんだ」
「まじまじ。あいつ顧客データで使用中のテーブル一つ消しやがった」
「うわ!すごい。ナッパかよ」
 常葉は立場上オペレーションしないはずだし、なにがしかのレビューもされることはないので起こりえない事象かと一度思ったが、今日の顛末から考えるにその出来事についても、「さもありなん」と思えた。
 ビールが来た。高島が二つ受け取り、一つをこちらに置く。チンとグラスを合わせ、一口飲んだ後に「ナッパかよ」という平針の発言を意図的に無視して高島が続ける。
「だろ。操作担当が少し席を外した隙に変な気を利かせてデータをDBに入れようとしたんだけど、順序間違えてるのに途中で気付いて、やり直そうとインサートしたデータ消そうとしたんだよ」
「ああ、だいたい何が起きたかわかった」
「いや、奴の思考は我々の斜め上をいってるぞ。常識とはなんなのかを、考えるいい機会になった」
 平針は高島が何をいっているのかわからなかった。この状況に斜め上などあるのだろうか。とにかく、自分がすぐに思いついた「トコハーン予想」を高島に提示してみることにする。
「条件指定せずにデリートしたんじゃないの?」
「ともーじゃん?そこが常人と天才の壁だよな」
 高島がやけに焦らすので、平針は行儀悪く箸であさっての方を2回ほど指して「さっさと言え」と正解を促す。
「トランケートしたんだよ」
 は?と平針は口に出して言った。
「すごいだろ?まず最初に2千万強レコードの表切り捨てでパフォーマンスが超悪化。しかもマスタデータがなくなったから業務ストップ。幸い1時間前にバックアップ取ってあったから復旧はできたけど、その間顧客の電話が社内からの苦情でパンク。おまけにバックアップのレコード数の巨大さと復旧方法を手順化してなかったっていうのもあって完全復旧に翌日4時までかかるという凄惨な事件だった」
 テーブルをトランケート(表切り捨て)する場合、ロールバック(削除する前の状態に戻すこと)ができない。結構危険なコマンドなので、パフォーマンスに関する深刻な影響がない限りは普通行わない操作だが、高島の話だと当時の作業にパフォーマンス改善に関するものはなかったというし、「なぜ起きたか」を「操作した人間の頭がおかしい」としか説明出来ない。
「テンパってたのかな……」
 少ない可能性の塵の中から精一杯探してみたが、平針にはこれが限界だった。もともと常葉の肩をもつ理由もないが、無意識に理由を探してしまうのはSEの職業病だろうか。
「いや、常葉は『テスト用DBを触っていたつもり』なんだそうで」
「理由になってねーよ」
「うむ」
 高島は大げさに頷いたあと、グラスに口をつける。二口目でグラスが空になりそうだ。
「だから最近常葉さん帰ってきてたのか」
「ご明察。社内では入社年月が早いことを盾にえらそうにしているよ」
 えらそうにしても全然構わないが、問題を起こされてはたまったものではない。事実、常葉のチームである菊川からヘルプ要請が来て問題解決まで手伝わされたのだ。頼りにされることは悪い気はしないが、それくらい自分でやれよとも思うし、これが頻繁に発生した場合は付き合っていられない。
「可及的速やかに社外へ出稼ぎに行っていただきたいものです」
「するどいねキミ。この度常葉の社外出向が決まった」
 ん、とグラスを持った手をピタリと止め、平針は何か嫌な予感を抱いた。高島はこれからひどいことを言う気がする、となぜか思った。
「観神だよ」高島は自分が行くわけでもないのに偉そうな素振りを見せる。「旧財閥の流れを汲む総合商社。全世界で名の知られるグローバル企業だ」
 うんざりするほど知っていたし、できれば二度と耳にしたくない名前だった。脳DBの記憶マスタからデリートしたいレコードだ。名前を聞くだけで不愉快になるが、高島は平針の過去を知らないし、平針も高島について同様である。人付き合いをしていく上で予期せぬ爆弾のスイッチを踏んでしまうのは仕方のないことだ。

 できればこの場だけで「観神」の話は終わらせたいところだったが、運命はそうさせてはくれなかった。悪夢のWBSは、すでにキックオフしていたのだ。

       

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