1、
実の母をして、そうまで言って念を押す程度である。
「なんにもないし、あんたムリについて来んでもええよ」
母は毎年、夏になると実家に盆参りすべく里帰りする。なにしろ辺鄙な村落である。交通の便すこぶる悪く、携帯の電波も圏外だ。目に映える緑色は格別の風情を楽しませてくれるといえ、都会の生活に馴染んだ者ならば短期滞在の観光訪問でないならお勧めはしない。無理強いもしない。
というのが昔から変わらぬ母の言い分である。少年が物心つかぬうちは、母がその手を引いて田舎に連れて帰っていたというが、今では少年も母の原風景から遠のいて久しい。その原因は少年の精神的成長に伴った、自我の芽生えと生活圏の自覚過程にある。だからといってそれが悪いわけではないし、また特別褒められた話でもないのだが。
少年の気持ちは揺るがなかった。そもそもが行くにも行かぬにも特別な理由など必要ないのである。母も少年に一度尋ねただけで、それきり追及することはなかった。
走る郷土資料というべきボンネットバスを降り立って、船みたいに低くうねるエンジン音からようやく解放された。それと同時に日射しを遮る天蓋を失って、蝉時雨と殺人的な日射の感覚を取り戻した。うんざりするような真夏の風物詩から逃れる術を知らない。眼前に迫る鮮やかな緑、むっとするような草いきれ。嗅ぎ慣れない匂いが気になっている。
山間に拓けた未舗装路はどこまでも遠く続いている。途中でゆらゆらと蜃気楼がくすぶって、あのワープゾーンを抜けたら夢の国へでも通じているのではないか、などとわけの分からぬ妄想を浮かべた。
五、六歩先を歩き出していた母が少年を省みる。早く着きすぎたから迎えの車も間に合っていないらしい。待っていてもミミズみたいに干乾びてしまいそうだから動いてしまおう。この村では携帯電話も通じないから。麦わら帽子が母の顔に濃い影をつける。
少年は、母の盆参りについてきたことを早くも後悔し始めていた。母の実家に辿り着いてもいないうちから、気まぐれな無精者に対する田舎の洗礼はてきめんである。
母に急かされて少年は歩き出した。ゾンビよろしく覚束ない足取りで、ようやく母の隣に並んだと思うと、そのときふたりのはるか頭上を、なにかずいぶん長くて揺れ動くものが過ぎった。そいつは瞬間太陽を遮って、一迅の風を母子のもとに運んだ。
空を見上げるとトカゲが天に昇ってゆくところだった。胴長の図体をゆらゆらとくねらせて、ちぎったパンのような積雲を突き貫けて見えなくなった。
少年の思考が停止した。あれは何だ。納得のゆく解答を導き出すことができない。
「ありゃ竜だよ」
母も空を見上げていた。
麦わらのひさしを少し開いて、懐かしいものでも見るように目を細めながら言う。
「あんなに高く空が飛べたら気持ちがいいだろうね」
そう、竜ですか。
随分と呑気な母を倣って、難しく考えずに受け入れることにした。
だって夏だからね。竜の一匹や二匹、空を飛んでいてもおかしくはないような暑さだし。
母によると、竜はこの村では身近な存在であるそうだ。神の使いとして祭り上げられることもあり、子供の遊び相手として追い駆け回されることもあり、はたまた狩猟の対象となることもあり、その場合最終的には人間様の胃袋に収まることになるという、聞く限りでは非常に雑な扱いを受けているけものである。
「だからあんたも、神社のお祭りに遊びに行ったこともあるし、葉月ちゃんとこどもの竜を追い回していたこともあるし、竜の肝を食べてお腹を壊したこともあるんだよ? 忘れたのかね、ぜんぶ?」
すっかり忘れてしまっているのだろう。記憶にない逸話ばかりが溢れてくる。
母の表情に、分かり易く「呆れた」と書いてあった。そんな顔を見せられても困る。
バスを降りて母子ふたり、埃っぽいあぜ道をとぼとぼと歩きながら、少年は自らの幼少の記憶を、母の口から追体験させられていた。
それらは当然、聞いていてあまり面白い話とはいえなかったが。
じきに母子は発見する。あぜ道を砂煙をあげて驀進してくる軽トラがある。運転席から腕を出して、ひらひら手を振っているのは我らの眷属がひとりであろうか。
母の予想通り、それは本家から母子を迎えに遣わされた送迎車であった。ショーファーは丸眼鏡を掛けた、長身のお姉さんだった。
「葵ちゃん、久しぶり。お迎えありがとう」
そう母が言ったから、彼女の名前はアオイであろう。うんぬんかんぬんと定型の挨拶が交わされる。少年はその顔に見覚えがない。
が、彼女の方は少年になにか思うところがあるらしい。興味津々といった様子で、先から穴が空きそうなほど見つめられている。初心な少年は気の置き所がなかった。
「信坊かな。誰かと思えば」
少年は、なにも言い返せなかった。癖ッ毛を後ろでひとつにまとめ上げた丸眼鏡のお姉さんが自分の名前を知っている、という事実が信じられなかったからだが、よくよく考えれば年嵩の親族である。少年の名前を知っていて何の不思議もないではないか。
大きくなったね、とか、前に会ったのは何年前だっけ、とか、ここで体験したやり取りは、少年は今後数時間に渡って、多数の大人たちを相手に繰り返さねばならなかった。
ただこのとき、後に他の誰に言われたときよりも一番ときめかされた社交辞令がひとつあった。
「大人になったね、ずっと格好良くなってびっくりしたよ」
アオイ姉ちゃんは母の姉夫婦の娘だそうだ。少年は、従姉とは四親等関係であるので結婚できる、という豆知識を思い出した。
すぐ三人は軽トラに乗り込んだ。少年の座席は後部の荷台が割り当てられた。
軽トラの荷台は空焚きのフライパンよろしく熱を帯びていたが、首筋を通り抜けてゆく風が涼しかった。
キャビンでは、従姉が本家に集った一族の名前を順番に挙げている。荷台の上の少年にも大きな声で話しかけてきた。
「信坊、葉月があんたのこと首を長くして待ってるぞ。会えるの楽しみにしときな」
――ハヅキ。
誰だ。
ここにはたぶん、おれが知っていたはずの名前のひとばかり住んでいるんだろうな。
少年の腹の底には、小さいが冷ややかな感情が転がっていた。それを見つめる彼の心もまた冷たかった。
もともと社交性に欠ける少年は、この辺りで本格的に気が滅入ってきた。気まぐれに思い付いた母の盆参りの同行で何を見出だそうというのか。結局どこに行ったって変わらぬのだな。自分はどうありたくてそのためになにを変えたいのか。そもそも変えたかったのか。ごちゃごちゃ考えていると本家に到着した。
2、
仏間を区画する襖を取り払って二十畳ほどの広間になる。縁側から玄関先が見渡せるのでめちゃくちゃに視野が広い。
広間には足の短い長机が並べられており、活気溢れる台所から、湯気の立つ料理が大皿に載せられて運び込まれてゆく。
煮物のいい香りが漂ってくる。みりんと、生姜と、鶏肉の脂か。
到着するやいなや「信坊お酒運ぶの手伝っとくれ」と一息つく暇もない。炊事に命を張るおばさんたちの気迫に圧されて、言われるがまま食卓の準備を整えていった。母もエプロンを手渡され、慣れた手つきで腰紐を結んだあと、髪を頭の後ろにまとめ上げた。
「せわしないねえ」
おばさんやお姉さんや小さい子供たち、女ばかりが炊事場を忙しく駆け回っている。厨房にひとり男子の少年は、目立つからか、会うひと会うひとに「ひさしぶり」とか「おおきゅうなったね」などの言葉を投げかけられる。こっちは誰の顔も、名前も、覚えていやしないというのに。ただ黙々と、次から次に与えられる仕事をこなしてゆく。
支度が済むと今までどこに隠れていたのか、かの一族郎党、そのうちの男子勢力がわらわらと姿を現し、広間に集い始めた。
少年の祖母だという背の低い婆様がごく短い挨拶で乾杯の音頭を執ると、たちまち賑やかな笑い声があちこちで上がりだした。いかにも陽気な眷属ではある。
その中に見覚えのある顔を捜せども、見つからない。少年の記憶力は煮物にされた鶏肉と同程度だったのかもしれない。
従姉に聞かされたハヅキなる面影にも心当たりがない。申し訳なさに心が痛む。この陽気な会合のなかに、顔も忘れた待ち人がいるという情報は、少年の居心地をすこぶる悪いものにした。
いっそのこと、すっかり先方にご無沙汰なのも、なにかしらの理由をでっち上げてそのせいにしてしまえ、などと考え始める。街で買い物でもしていた最中、頭上に落下した植木鉢の打ち所が悪く記憶喪失を患って自宅療養を続けていた、とでも言えば良いだろう。言うまでもなく却下である。
そのうち広間全体に酔いが回ってきて、少年は鼻を赤くしたおじさんたちの無理強いする一升瓶から逃げ惑っていた。
背後から両肩を掴まれ、畳に尻を押し付けられたときは観念せざるを得なかったが、誰かと顧みれば、――といって顔見知りなどいないに等しいのであるが、それは先程の運転手。従姉の葵であった。
従姉は群がる酔漢を追い払ってくれた。しかし自身もまたほの赤らんだ顔を少年に近づけ、何を語るのかと思えば竜の話だった。吐息が生温く、酒くさかった。
久々に竜を見て腰抜かしたんだってね。まあ無理もないよ非常識極まりない浮遊物だ。それに村を離れると竜のことなんか忘れてしまうからなあ。こればっかりはしょうがない。ところで竜ってどんな動物に近いか知ってるかあ。――ん、爬虫類というかもう少し高等でね、結構昔から鳥の仲間だって言われてはいるんだな。ティラノサウルスだってスズメの兄貴分だったっていうだろ。
「竜が雲の上まで昇りつめることができるのはどうしてか知っているか」
なんつっても気嚢だ。これは古くは恐竜や、鳥たちにも備わっている特別な器官なんだ。これを活用した呼吸システムのおかげで、竜は雲を突き貫けて天高く舞い上がることができる。そして雨雲を呼ぶの。呼吸の効率がすごく良いから酸素濃度の薄い高高度でも活動ができるんだな。
そりゃ、呼吸くらいしてるよ。生き物だもの。まあ、肝心のどうやって浮かんでるのか、空を飛んでるのかってことは、さっぱり分かっちゃいないんだけど。物理畑の知り合いに話したら、重力子解明の先鞭を云々、言い出したけどあいつは一体どうなったのかな。
従姉の話はいつまでも続くようだった。
そのうち空模様があやしく翳ってきた。自然採光の広間はだんだん薄暗くなっていく。空気がにわかに湿り気を帯びて冷たくなる。
ひと雨きそうだな、なんて、誰かが言い終るのを待たずにぽつぽつと雨音が響いてくる。耳を澄ますまでもなく勢いづいた雨は篠突く勢いの本降りになる。夕立だ。
おばさんたちが席を立って、慌しく散らばっていった。あっちの戸を閉めてこい、窓を閉めてこい。洗濯物がどうしたこうした。
雰囲気に呑まれた少年が、なんとなく落ち着かなくなって、立ち上がってみたものの、何をすべきなのか、果たして自分の仕事が残っているのかさえ、見当がつかなかった。走り回るおばさんたちを眺めて、ただぼんやりと立ち尽くすばかりである。
それを見た従姉が言った。信坊、誰か行ったかもしれないけど、もう一度縁側を見てきてよ。降り込んでたらいけない。
従姉はその後にわかに慌てだして、軽トラの窓が開けっ放しだと言って母屋を飛び出していった。
縁側を歩くと雨の音が近くなった。素足に板張りが冷たくて心地良い。縁側には立派な捨て庇が張り出しており雨粒の一滴も見つからなかった。このぶんだと鎧戸を閉じなくてもいいのだろうか。
雨が地面に跳ね返るのを眺めている。空気が急激に冷やされてにわかに肌寒くなる。
ふと気付くと隣に人影が立っていた。少年の頭ひとつぶん背が低い少女は日に焼けた肌をさらして、肩が痩せていてひどく華奢にみえる。
先ほどまで広間に見なかった面影だと思えた。だからというわけでもないが少女の名前に心当たりがあった。
――葉月ちゃんか。
少女は口を結んだまま少年を見上げた。黒目がちの瞳は椿の照葉を滑る雨粒みたいに透き通っていた。
なので少年は大げさにたじろいだ。
――あれ、間違ってたらゴメン。
少年のその言い草を耳にした少女は両目を見開いて、それまでが人形みたいだった印象と裏腹に甲高い声を上げ、
「なによ、それっ」
少年の、
「まさか私のこと忘れたなんていうんじゃないでしょうねっ」
襟元を手繰り寄せて首をがくがくと揺すぶった。外見からは意外なほどの力である。
「ふっ、ふざけくさってこの、このうっ」
おばさん! あんたんとこのお転婆が信坊の首絞めてるっ。という猟奇的な通報が広間に響き渡ったころには雨足も弱まって、雲の切れ目から晴れ間が覗いていた。また蒸し暑くなる。
3、
葉月ちゃんはねえ、今度の竜顕祭でお神楽を舞うのよ。竜の巫女よ。緋袴を穿いてミテグラを振るのよ。きっと可愛いのよ。
一族の女衆は少年の従妹にあたる華奢な少女を取り囲んで、その頭を撫で回している。少年はといえば対面でなぜか正座したままその様子を眺めている。はあ、とかへえ、とか間の抜けた相槌を打ちながら女衆の娘自慢を聞かされている。
リュウケンサイとはこの村の土地神を祀る伝統的な祭事で、北斗神拳とはとくべつ関係のない、良くある農村のお祭り、だそうである。ひどく大雑把な説明を聞いた。
毎年夏の終わりに開かれて、神の使いである竜を崇め奉り供物を捧げる。夜になると松明の仄明るさの下で神楽舞を奉納するという。
この里神楽は、代々口伝されてきたという大昔の故事をもとにして作られたらしく、歴史的には他所のお神楽よりも新しいほうだ、という。
あんたもちっちゃい頃、見たことがあるはずなんだけどね。母はまたそんなことを言っていた。
そこに軽トラの窓を閉めに夕立のなかに飛び出した葵姉が戻ってきた。
「小母さんがた。信坊と葉月、借りますよ」
葵姉は頭からぐっしょり濡れ鼠で、その容貌は女衆に大層世話を焼かす羽目になった。
「従姉弟の会も同時開催ですから。きょう」
などと出鱈目なことを言っていた。持ってきな持ってきなは少年の母の言。
少年少女は従姉に導かれて広間から退いた。
従姉に件の会とは何ぞと問うと、気にしなくていいから黙ってついて来なさいと返る。先ほどまで酔っ払っていたはずの従姉はこのとき神妙で、夕立に降られると酔いが醒める体質なのだろうか。二階の奥座敷に連れてゆくという。
二階の廊下は先ほどの夕立に際して鎧戸が閉じられ、まるで暗い。空気が淀んでいて、さらに重たいような気がしたのは、古い屋敷と、一族が歩んできた歴史のそれであろうか。
葵姉が襖を引いて葉月と少年を奥へ促す。ふたりを部屋に入れると自らも続く。後ろ手に襖を閉めると、彼女は敷居のそばに座した。芝居がかった所作がうさんくさく、薄気味が悪い。
葉月はというと上座に居住まいを正している。
部屋は暗く、夕立ちが通りすぎて気温も上がって、蒸し暑くて敵わなかった。
鎧戸を開けようとして障子のほうに歩み寄るが、葉月に制された。一体何の悪ふざけだ。あんたら。口には出さないが大いに不信を募らせてゆく。
どこで誰が聞き耳を立てているかわからん、そういう意味のことを従妹が口にした。なにを言っておるのだ、誰かに聞かれてまずい話でも聞かせようというのかと冗談めかすと、その通りだと言う。
従姉は先程から身動きせず、黙りこくっている。
薄暗い奥座敷で従姉妹と三人、誰かに聞かれてまずい話というのは一体どんなものだ。階下には一族郎党がやんやと快哉を上げ酒盛りをしているというのに。誰かに聞かれるとまずいこと? 女ふたり男ひとりで? なにを? 色っぽい従姉とお転婆の従妹が一体おれに何をしようと? 少年は喉を鳴らした。
少女がひざ立ちになって少年ににじり寄る。細い指が腕を掴み、抵抗しない少年の体は華奢な少女にぐいと引き寄せられてしまう。少女は少年の耳に唇を近づける。首筋に浅い吐息が吐きかかる。
竜顕祭のお神楽を舞った巫女たちは秋が来る前に神隠しに遭ってしまうの。去年も一昨年も、竜の巫女は祭りが終わるといつの間にか村から姿を消していたの。本当のことよ。
少年の頭が善からぬ妄想で一杯になっているところへ、なにやら不穏な言葉の羅列が上書きされていく。
大昔から竜は、若い娘を捕まえてはねぐらに連れ去っていたの。一度竜に連れ去られた娘は生きて村に戻ることはなかった。お神楽は、決起した村人たちが竜を退治しようと夜の山に進んでゆくところから始まるわ。村びとを困らせる悪い竜をどうにかして殺そうとした。
結果は一旦村人たちが勝利を収める。竜はお山の頂上に封じられて、そして同時に、この村は痛みわけの呪いを掛けられてしまうのよ。
竜は元来雷雨天候、それに豊穣を司るの。竜退治の後の大旱魃と作物の不作、飢餓や疫病の流行は、村人たちの思考に過去の竜退治を結びつけるのにた易かった。自分たちの村に呪いが掛けられていることを知った村人たちは、自分たちの愚かな行いを悔いて、竜のお山に願掛けをする。でも竜は聞く耳を持たなかったから、結局すぐに封印を解いてしまわないといけなくなったの。
竜は村に掛けた呪いを解く代わりに、村人にある約束を結ばせた。竜を祀り供物を捧げること。夏の終わりに若い生娘をニエとして差し出すこと。――竜顕神楽はこの村の敗北の記憶よ。そしてニエの因習は、私の代にも受け継がれている。竜の巫女は夏の終わりに、ねぐらに連れ去られて生きたまま竜に喰われてしまうの。大昔から現代に至るまで、竜の巫女の犠牲の上にこの村の人々は生きてこられたのよ。今年は私が竜の巫女に選ばれたの。どういう意味か分かる?
少女が少年の耳朶を噛まんばかりに唇を寄せて、耳打ちをする。
「私のいのちもこの夏が終わるまでってことなの。本当の話よ」
「それで、信坊」
葵姉があとを続ける。
「あんたに頼みがあるんだが――」
この村は腐ってる。くそったれの因習を先祖代々唯々諾々と受け継いで疑問の欠片も抱かなかった。解決法は簡単だ。こんな村を放り出して逃げ出せばいい。それで私たちはずっと機会を窺っていたのさ。葉月が今年の竜の巫女に決められてからずっと。味方はこの村にはひとりだっていない。でも、あんたが今日ここに来るのを、私たちは知っていたから、待っていたのさ。葉月をつれてこの村を出て、出来るだけ遠くへ逃げてくれ。そして誰にも見つからない場所でふたりだけで暮らせ。竜にだって見つかるな。あいつらはその気になれば日本のどこの空にだって現れる。無茶をいうようだがあんたしかいないんだ。……
信じろって言うのか。
おれになにが出来るっていうんだよ。
この村のこともあんたらのこともほぼ知らないような奴だぞ。
あんたらばかりがおれを憶えていて、おれはそっちのことなんかすっかり忘れてしまっているんだぞ。
それでも?
どうしてもっていうんだったら、――
どうなっても知らんからな。
4、
「バイクの免許は持ってるんだろ」
葵姉は少年に訊いたが、とくに返事を期待していたわけではなかったらしい。はいヘルメット、と手渡したのは作業用の安全帽。
「ひとつしか見つかんないな。まあいいや、信坊はこれでも被ってろよ」
そう言って薄汚い麦藁帽子をぐしと押し付けられた。
母屋の向かいの納屋には軽トラやトラクター、田植え機などの農作業用の乗り物や道具等等が納められていた。
「なあこれ、最高のバイクだろ。おあつらえだよ」
葵姉は雑多な道具置き場に入り込んで、年季の入ったスーパーカブを奥から引きずり出した。
達者で暮らせよ。私はまだこの村でやることがあるから一緒には行かないが。すぐにあとを追って村を出るよ。なァに、人間その気になれば逃避行なんて簡単さ。わけの分からんトカゲの浮遊物が相手でもな。それじゃ、幸運を祈るよ。
あ、――そうだ、信坊。ちょっと。
○
すっかり夜だった。
スーパーカブの貧弱なヘッドライトの視界ではスピードを出すのが怖い。こんなもんじゃ田舎の暗黒とは戦えない。少年少女は安全速度で安息の地へと旅立った。
バイクに二人乗りなんて久しぶりだった。しかも女子と。お転婆のちんちくりんでも女子には違いがない。少年の長年の夢がひとつ叶えられた。
「夢、私とバイクに二人乗りするのが?」
――ちがう、女子とバイクに二人乗りをするのがだ。
「したことなかったの」
――機会に恵まれなくてね。
「学校に、仲の良い友達とか、いないの」
――友達くらいいるよ。おれが勝手にそう思ってるだけかもしれないけどね。何だ、女友達か。ほとんどいないんだなあこれが。用事がなかったら話しかけもしない。されない。
「それじゃ、彼女とか、いないの」
――彼女はいない。情けないができたこともない。
「ふうん」
「都会の高校生は彼女のひとりやふたり、付き合ったことがあるんだと思ってた」
――それは偏見だ。葉月がどう考えているか知らんが、人生てのは手強いんだな。おれはできれば、同じ制服を着た女子生徒とバイクで二人乗りがしたいのだ。高校生活もあと半年で終わっちまう。間に合うかどうか、いよいよ切羽詰ってきてだな。
「ふうん」
「偉そうに言ってるけど要するに甲斐性なしってことね」
――あんまり言うなよ、そういうことを。傷つくだろ。
「ま、まあこれからは私とずっと一緒に暮らさなきゃならないんだから? しっかりしてもらわないと困るからね」
――はいはい。
「なによそれ、ていうかどこに向かってるの。こっちの方向、町の方向と逆なんだけど」
――葵姉ちゃんに教えてもらったんだよ。こっちの道に出てしばらく行った角を曲がれば、うってつけの場所に出られるからって。ここか。曲がるぞ、落ちるなよ。
「えっ、ちょっと、まって」
両側を森に挟まれた細い道を真っ直ぐ行くと開けた丘に出る。一直線の道だから暗くても迷わないだろう。村を出る前にそこで星空でも眺めてから行くといいんじゃないの。
葵姉に言われたとおりの道順だとしても、土地勘のない少年がその場所に辿り着けたのは極めて幸運といえるだろう。
夕立に降られた草木が湿っていた。バイクのエンジンを止めてヘッドライトを消すと、自分の居場所すら分からない程の闇に浸った。
葉月はそわそわしている。
「こんなことしてる場合じゃないんだよ? 逃げないと」
――そう焦るな。本家の人たちも酔っ払って寝込んでるよ。追いかけてきやしない。おれらがいなくなってること、気づいてすらないかも。
「そうかもしれないけど」
――だからここでちょっと休憩して、星見て、それからでも遅くないよ。逃げるの。
「もう、星なんかいつだって見れるじゃない」
――とはいえ、都会じゃそうはいかないんだよ。せっかくこんな山奥まで来たんだから、星くらい拝ませてくれ。
「知らないわよばか、甲斐性なし」
――なにそれ気に入ったのか。やめろよその言い草。
「ああもうっなんであんたみたいなやつ、……」
――え、何?
「うるさいっ。なにも言ってないっ」
カブの前かごを手探りするとピクニックシートが入っていた。ほかには、懐中電灯と膝掛け毛布。水筒。水筒の中身は麦茶だった。出発直前に葵姉が「これ持ってけ」と言って放り込んだやつだ。
そして少年にだけ聞こえるように「あんまり遅くなるなよ」とも言った。そういう話なのだ。つまりは。
少年も、従姉妹たちの話を丸っきり信じていたわけではなかった。あまりに突飛な妄想が過ぎていた。それでも不意を突かれてというか、驚かされたことには間違いないが。
視覚の暗順応を崩さぬように、懐中電灯を使わずシートを広げている。葉月は「なにしてんの」とシャツの裾を引いた。座るんだよと答える。寝転がって星を見るんだ。
葉月は黙り込んで、身動きが俄然小さく、少なくなった。それはそれで、少年は星空を眺めたくてしょうがなかった。
先んじてシートに胡坐を掻く。見上げると満天に星々が瞬いて、そのひとつひとつが目の前に迫ってくるようだった。想像していたよりもずっと空気が澄んでいる。
少年はそれだけで満悦だったのだが、少女のほうはそうでもないらしい。夜空にやせっぽちのシルエットが浮かび上がって、先ほどから動かずにじっと少年を見下ろしている。
少年は上体を起こして、何か気の利いたせりふをと考えを巡らしたが何も浮かばなかった。これでは甲斐性なしと詰られても仕方がない。仕方がないので行動で示す。立ち上がって葉月の肩を抱いて、もう片方の腕で膝の後ろをすくって横向きに抱え上げる。
「えっ、ちょっと」
お姫様抱っこである。少年の夢がまたひとつ叶えられた。そして葉月を抱えたまま、再びピクニックシートに腰を下ろす。
――星がすごくきれいだから。
口をついたのは変なセリフだった。慣れないことをして胸がドキドキしている。拗ねていた葉月は渋々といった様子ではあるが、ちゃんと返事をくれた。
「うん」
少女が抱え上げられたとき少年の首に回した腕を、彼女はいつまでも離さなかったので、少年の計算は狂わされた。少年はいよいよ心臓の高鳴りが抑えきれなくなり、少女の汗ばんだ体温や、心地よい体重、細い腕、お互いの体臭などが気になって、とても星空どころではなくなってしまった。膝の上で少女がにじり動くたびに背骨に電流が走るような気がした。
「あ」
少女は星空になにかを発見したらしい。少年からすればもう何も喋らないでいてほしかった。が、彼女は素っ頓狂なことを口走った。
「あれ、竜かも」
――なんだとう。
「あそこ、ちがう、むこう、そう。あのゆらゆら動いてるの」
――いや、分かんない。
「じゃあ、呼んでみよっか」
――呼ぶ? こっちに来るの。
「この笛でね」
葉月は自分の襟元を探って、犬笛のような筒を取り出す。いつも首から提げて歩いていると言う。
「お神楽の練習で使うの。笛を鳴らすと竜がそれを見に来るから。竜に見てもらいながら練習すると上手になるって。だから今までの竜の巫女はだいたい持ってるよ」
あ、こいつ、と少年は思った。思っただけで、何も言わないことにした。
「それで、どうする、呼ぶ? 機嫌が良かったら背中に乗って、夜空を散歩できるかもよ」
――いや、それは。
――また今度でいいです。夜も遅いから迷惑かもしれないし、……
「そう」
笛をもとに仕舞いながら、葉月はいつまでも膝の上から降りようとしない。少年の肩に頭を乗せて、静かに呼吸している。
「竜顕祭までこっちにいるの?」
その予定はなかった。盆が暮れたら母と共に自宅へと帰る予定だ。
「そっか」
虫の声。夜鳥の鳴き声。木の枝の落ちる音。少女の吐息。少年の心拍。何も話さなければこのまま融けてひとつになってしまいそうなほど、ふたりの汗は混ざり合って、垂れて、滴になって溢れてゆく。
――でも、見に来るよ。学校休んででも。
「うん」
「ありがとう」
少年は今だって、少女のことは名前以外にろくなことを知らない。
少女は十年近くも以前の少年の記憶さえ、しっかり残っているらしいが、少年は未だ何をも思い出さないのである。
だったら、こっちから新しく記憶しない限り不公平というものであろう。
そういう風な理屈を用意していたが、取り立てて訊かれなかったので答える機会はなかった。
「また来るんだよね」
「また話そうね」
「じゃあ、これおまじないね」
そう言って、葉月は体を捻って少年を押し倒した。そして唇を少年の頬に一瞬だけ押し付けるとすぐに顔を離して、立ち上がった。夜空のシルエットに少女は浮かび上がる。
少年は仰向けにそれを見上げている。
「今日は信二くんの勝ちだね」
少年はもごもごと返事をして帰り支度をする。
少年。少年は何かを見つけたくてこの村を訪れた。
少女は少年の記憶の深いところに隠れて、捜し出してくれるのをずっと待っていたかもしれない。
少年はしかし、決意の通りこれから未来のことを記憶に残していこうとするであろう。
高三の夏、葉月の村には竜がいたのである。新しい記憶を、これから大事にしていこうと思ったわけである。
〈オワリ〉