Neetel Inside 文芸新都
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かくも遅咲き短篇集 参
物語の行方/su@u

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 あたりまえの話と、そうでもない話をしよう。
 物語の終わりと、終わらなかった物語の話を。

 『この物語の行方を、誰も知らない』、なんていう煽り文や宣伝文句があるが、それは大いに間違っていて、大抵にしてそうした文をつけられている物語の行方はハッキリしている。
 これは別に、「今の売れ筋が分かっているから先の展開が読める」とか、「前情報でヒントを出しすぎて結末まで見えてしまう」とか、そういったことを言っているわけではなくて、物語の行方というのは1つしかないからだ。

 1つしかない行方、行き先とは、つまり「結末」だ。

 動物が産まれては死ぬように、植物が生えては枯れるように、始まった物語は結末でもって終わりを迎える。至極あたりまえのことだ。『誰も知らない』わけがない、誰もが知っている。知らない、知られていないのは、そこに至るまでの道筋だ。

 そう、物語には道筋がある。
 もちろん世の中には、ただ前に進むだけではなくて、後ろに進んだり横道に逸れたり、あるいは前と後ろを行ったり来たり、瞬間移動でそこかしこを動き回るような物語さえもある。
 それでも、足跡は残る。場面を訪れた語り手の語る描写がある。ページは次に進んでいく。
 そんな足跡が重なって重なって、ページを積み上げ積み上げめくってめくって、最後には語り手は、「結末」に辿り着く。そこは終わりで、どんづまりで、先はない。おしまい。

 物語の行方はだから、1つしかない。
 「結末」、それが作者と読者の待ち望んだものか、あるいは誰も、作者すらも望んでいなかった忌み児のごときものなのか、辿った道筋によっては悲劇とも喜劇とも呼ばれようし、最後の足跡が立った場所から見える景色は、それこそ語られた物語の数だけあるだろうが、その場所の名前だけは決まっている。

 では。
 終わらなかった物語、「結末」に辿り着けず行方を『誰も知らない』物語というのは、何だろう。

 それは完結の見込みのない物語だ。
 事情があるのかないのか、気まぐれなのか計画的なのか、分からない。だけれど、ただ状態として未完なだけでなく、将来に渡ってその未の字が取れる日が来ないような作品のことだ。
 作者が書かないことで語り手は黙し、物語は回らず、足跡は道中で立ちんぼのまま。
 物語は死なず、枯れず、終わりを迎えず、作中世界の時は止まったまま、いつか続きが書かれる「かもしれない」ままで、やがているかどうかも知れない読者や、作者という名の第一の読者にも忘れられていく。
 行方知れずの話というのは、そういうものだ。

 だが、「結末」に、辿り着かない。
 作品はそれを、好しとするだろうか。


***

 あるとき酔っ払った先輩は、いつもの芝居がかった身振りと口調で、そんなことを語っていた。
 そしてその数週間後、連絡も何もなくなって全くの行方知れずになってしまった。

***


 もちろん好しとしようはずがない。
 死なず枯れず終わらずと言えば聞こえはいいが、それは時が止まってしまったようなものだ。
 いったい誰が、動かない物語を望むものか。
 ただでさえ作者という創造主の思うがままに動かされているのに、そのうえ作中の時を進めるも止めるも胸三寸気の向くまま、辿った道筋を消されては別の道を進み、また消されては別の道へ行き、くねりくねってすったもんだした挙句に、作者はそんな世界を作ったことすら忘れてしまって、「結末」には辿り着けずじまい。

 受け容れられるものじゃない。ただ「結末」の景色を読者に見せるために、物語は在るのに。


***

 先輩はまるで、物語が意思を持っているかのように話を続けた。
 それがどうにも引っかかって、つついてみる気になった。

***


 仮に世界に続きがなくて、ある瞬間でずっと時が止まってしまっているなら、その世界の住人がそれを自覚できるのはおかしい、か。
 いい指摘だ。たしかにそうだ。

 だが作品の内にいながら、半歩作品の外へ足を踏み出している者がいるだろう。どんな作品にも必ずいて、どんな主人公よりヒロインより登場人物より、ずっとずっと作者に近い者。現実と物語の境界面の住人。

 語り手だ。

 三人称の物語におけるそれを「語り手」と呼ぶのに違和感を覚えるなら、視点と言ってもいい。
 主人公やヒロインや登場人物を兼ねることもあるが、それは物語上の役割に過ぎない。そういうガワを被っているだけだ。語り手の本質はそこじゃない。

 作中世界と現実世界との橋渡しこそが、語り手の語り手たる部分だ。

 何にしろ語り手だけが、語り手の語る言葉だけが現実に開かれていて、そこからしか読者は物語に触れられない。作者だって物語を綴るのに語り手の目を通さずにはいられない。作者はたしかに作中世界を創造したろうが、しかしそれを表すのに書かれるのは飽くまで語り手のことでしかない。そうせずに表される物語なんてものは、ない。

 ああ、間違っても語り手と作者を同一視はするな。物語がフィクションだろうとノンと付こうと、その視点は作者の生み出したものではあるが、一致はしない。絶対にだ。そんなことになるんだとしたら、その作者は最初から紙上の人物だったんだ。現実に存在するものじゃないし、すべきじゃない。言葉の上でだけ、十全に己を表せる、なんて。


***

 先輩の言によれば、物語とは語り手、作中世界を覗く視点そのもの、なのだそうだ。
 物語を書くことは、その視点の振る舞いを書くこと。
 丁寧に作中世界を見て回るのか、乱雑に大雑把にしか描写しようとしないのか。
 それは作者がその視点をどういうものだとして作り出したかによるけれど、しかし作者とはある種切り離された性格を持つ。
 子が親とは別の意思を持つように。

***


 これまで話したように、ある意味で語り手は登場人物よりも読者よりも作者よりも優位に立っている部分がある。
 だけどもし、物語の「時が止まってしまった」ら、一番の被害者になるのも語り手だ。
 登場人物たちはそのことに気がつかない。
 作者は忘れているか、敢えて忘れようとしている。
 読者が続きを読めないのは被害らしい被害だが、世に物語はあふれにあふれている。その中の1つが読めなくなったところで、また別の物語に手を出せばいい。

 だが語り手はそうもいかない。
 半歩、物語の外にいるせいで、「時が止まってしまった」ことに気づいてしまう。
 作者の心が物語[じぶん]から離れていることが分かってしまう。
 読者のように別の物語に移るなんてのは無理が過ぎる。語り手は作中世界を観測する視点であると同時に、語り手自体が描写されるべき物語でもあるからだ。自分で自分を切り捨てることは、できない。

 では語り手は、泣き寝入りするだけなのかというとそうでもない。
 本当に忘れ去られてしまう前に、語り手たちは動きだす。

 まずその居場所を変える。別の物語にじゃない。
 作者の頭の中に。
 そうして「続きを書いてくれ」と、しくしく泣いて懇願してくるんだ。
 続きが書かれるまで、幾度も、幾たびも。


***

 先輩の語ったこの話を、よしんば他の部分は置くにしても、最後の部分は信じられなかった。
 そもそも語り手だとか視点だとかに人格があるように話すのが分からない。それらは単なる文字列の集合に過ぎず、もし意思があるように見えるのならば、それは作者がそのように書いたからに過ぎない。語り手が作者の脳内にやってくるというのも、あまつさえ続きを書くよう要請してくるというのも、己の未完の作品について、そういう風に感じることもある、と先輩らしい表現で言ってみただけではないか。

 そう、思っていた。
 今は、違う。信じている。

 先輩の語ったことはきっと、過去に経験したことなんだろう。
 そして今また、囁く声を脳内に感じて、書いているのだろう。
 学校も、連絡も、寝食も何も忘れて。ただ書いて。
 これはたしかに、そうさせるだけの力がある。

「だから、ああ、分かっている。書くさ、すぐに。続きを。「結末」に至る道筋を」

 耳の奥に響く、他人には聞こえないだろうすすり泣く声が、ようやく落ち着いたように思えた。



終わり

///
(あとがき)
 こそっと書かせてもらいました。「投げんなよ、絶対投げんなよ?!」という話でした。ではでは。

       

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