Neetel Inside 文芸新都
表紙

かくも遅咲き短篇集 参
蝉時雨が枯れていく/観点室

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 14歳の時に彼女は中学へ通うことをやめた。
 その時から、生き残ったノートは一冊だけになった。
 数学も、国語も、理科も、社会も、他の何もかも。丁寧な文字で、綺麗にまとめられたノート達は、役目を終えることなくみんな息を止めている。

 彼女の最後のノートにはたくさんの言葉が刻まれていた。
 いくつもの質問と、いくつもの雑談。それからたまに、痛切なくらい真摯な励まし。
 その全てが両親の手書きで、その全てが彼女へのもの。
 平日の昼間、仄暗いリビングで、彼女はこっそりとそれを抱き締める。ぎゅっと、きつく。両親の言葉を抱く。
 それから、どうしようもない自分の不甲斐なさに、涙が止まらなくなった。





              『蝉時雨が枯れていく』





 自室のベッドで目を醒ました時、留鞠(とまり)は言いようのない違和感を感じた。
 じっとりした蒸し暑さも、気怠い身体の調子も、陰鬱な気分さえいつも通りだったけれど、奇妙な直感が彼女に異常を告げている。
 何がおかしいのかは分からない。
 時刻は4時半過ぎ。明るさからして、おそらく午後。
       、、、、、
 時計の秒針がカチカチと音を立てて歩く。
 寝過ぎてしまったのか、と思った。
 けれど、よくよく考えてみればいつ眠りに落ちたのかも記憶がない。
 最後の記憶はリビングで泣いていたところ。そこから先が欠落していた。
 だめだな、と彼女は首を振る。何かを思い出す気が全くしなかった。
 ひとまず寝ぼけた頭を起こすことに努める。カーテンを開く。窓から見る空は曇天の明るさを保ちながら、普段のそれより薄暗い。
 汗で張り付いた下着がいつも以上に不愉快で、彼女はひとまず普段着に着替えることに決めた。クローゼットから引っ張りだしたものを適当に身に付ける。
 二階にある自室を出てリビングに行く。テーブルの上のノートは無い。
 急に不安になった。
 辺りを探し回ってもいっこうにノートは見あたらない。30分以上探しても見つからないと、留鞠の不安はますます膨れ上がった。
 チリチリと熱を持ち始めた焦燥を鎮めようと、リビングの椅子に腰を下ろす。
 ふと目についた、テレビの横の時計。母のお気に入り、小さな振り子時計。
 振り子に合わせて、秒針が進む。

 時刻は、4時半過ぎ。

 思わず立ち上がった。
 階段を駆け上がり、自室の扉を乱暴に開けた。
 時計を見つめる。長針と短針が4時半を過ぎた場所を示す。
 起きてからどう考えても30分以上は経っている。家の時計が同時に壊れてしまうなんて偶然がどれくらいあるのだろう。
              、、、、、
 立ち尽くして考える思考に、カチカチと秒針がノイズを散らす。
 不意に留鞠は今まで感じていた違和感の正体の一つに、今更になって気が付いた。
 留鞠の世界に、音が戻っていた。
 
◆◆◆

 夢に違いないと思った。
 これまでにも音が戻ったような感覚に陥ったことは何度かあったから。
 だから留鞠は何もかも考えることを止めて、この夢の世界で、再び眠りに落ちることに決めた。そうすれば、次に目を醒ました時には何もかもが元通りになるに違いないと。

 望みはすぐに潰えた。
 彼女が目を覚ましたとき、何もかもがさきほど目を覚ました時と同じだった。
 じっとりした蒸し暑さも、気怠い身体の調子も、陰鬱な気分も、それから、時刻も。
 いくら待っても時間は進まなかったし、両親が帰ってくることもなかった。
 カチカチ進む秒針だけが、せわしなく存在感を主張する。
 その音がたまらなく嫌になって、留鞠は逃げ出すように自室を出た。
 階段をゆっくり降りながら、彼女はふと思う。
 この奇妙な世界はなんなのだろう、と。
 秒針が止まったわけではないから、きっと時間そのものが止まったわけではないのだろうとは思う。けれどそれが分かったところで、何かのヒントになるわけでもなかった。
 リビングでテレビを付ける。ザーザーと音を立てるだけで、どのチャンネルにも番組が放送されていない。
 冷蔵庫を開けると、ひやりと冷気が漏れ出した。いつも通りの中身だった。ひとまず、いつもと変らない日常の一部を見つけて留鞠は安堵した。冷えた水を一杯コップに入れて飲むと、彼女はすぐに外出の準備に取りかかった。
 外に出れば何か分かるだろうと考えていた彼女は、家の扉を開けた瞬間に、その考えが想像の遥か上で的中していることを知る。

 見上げた空には、太陽がなかった。
 代わりのものは無いはずなのに、光だけがあった。
 けれどそんなものはその他の異常に比べて瑣末なことに過ぎなかった。
 その世界を表現するのに、適当な言葉を彼女は知らない。
 彼女の視界で捉えたものをそのまま記述するなら、世界は球の中に閉じこめられていた。ちょうど地球の内側と外側が入れ替わってしまったように。
 だから、遠くを見渡せば見渡すほど、陸地や海はなだらかに曲面を描いて空へ昇っていき、それはやがて遙かな空の先で地上を成していた。太陽が座すべき空の彼方には、地図のような陸と海が、雲の向こうにうっすらと見える。不思議と見覚えがあった。それは衛星から地上を見たときの光景に似ているのだと気付く。
 靴下を裏返したように、世界は反転してしまっているようだった。
「なに……これ……?」
 見上げ、見渡した光景に、思わず言葉が漏れた。
 すぐ近くを見れば、そこは普段と何一つ変らない町並みなのに、それを包み込む器がまるごと変ってしまっていた。
 呆然と立ち尽くした。
 けれどじっとしていたところで、何かが分かるわけでもない。動かなければいけないと思った。ほとんど期待もせずに近所の家のインターホンを押してみたが、やはり一軒として反応はなかった。当てもなく他の場所を見回ろうとして、家出てすぐの国道を目に入れた瞬間、留鞠は息を飲んだ。
 家の前の小道を出た先の国道。それが、そのまま大きな河へと変容していた。
 道を為すはずのアスファルトはくりぬかれ、代わりに底の見えない大きく静かな濁流があった。水は深い暗緑に濁り、歩道や縁石、小道との境界にちゃぷちゃぷと小さな波を寄せては、ささやかなしぶきを上げている。
 わけが分からなかった。
 理解を越える外界の変化に直面し、留鞠は途方にくれた。
 何すべきか、どうすれば良いか、なぜこんな場所に来てしまったのか、還ることはできるのか。答えの見つかるはずのない疑問ばかりが脳内に溢れ、それは不意に涙になって留鞠から溢れ出た。
「なんなの……これ……帰してよ。帰して……」
 泣きじゃくり、それでも何一つ状況が好転するはずもなく、泣きやんだ時には立ち上がるのも億劫なほど体が重く感じていた。 
 そんな時だ。
 河になった国道に、舟が流れていた。
 人が一人乗っていた。
 まだ若い男だった。
 信じられないものを見たように、留鞠は絶句し、それからすぐに声を上げた。
「……待って! 助けてください! あの! 聞こえませんか!?」
 何度も何度も声が枯れそうになるほど叫んだ。
 十メートルと離れていないその舟の男は、けれど留鞠の方をちらと見ることすらなかった。
 よくみれば、男は今まで留鞠が見た誰よりも虚ろな目をしていた。
 生気すら感じさせない、背筋の冷たくなるような瞳に、自然と留鞠の声は止んだ。
 多分その男はもう終わってしまっている。
 垣間見えたと思った希望が、より落胆を大きくする。道端に蹲って、国道だったはずの河をぼやけた焦点で眺めた。腕時計は、やはり同じ時刻を指したまま。
 涙がぽとりと地面に落ちた。蒸し暑さで熱を持つアスファルトの上で、それはすぐに渇いていく。雫が次から次に落ちた。
「留鞠」
 初め、それは幻聴なのだと思った。
「留鞠」
 二度目の呼びかけで、ようやく我に返った。
 はっと横を見る。
 子供くらいの大きさの何かが、蹲った留鞠の横に立っていた。
 喉に声が詰まった。
 突然話しかけてきたそれは、明らかに異形のモノだったから。
 姿は半透明で、それを透かして背景が滲んでいる。輪郭の部分はぐにゃりと歪み、それ故にその境界が異形の存在範囲なのだと認識できた。立った大きさでもまだ小学校に入る前の子供くらい。
 頭、額の先には小さな角が生えていた。小鬼、という言葉が脳裏を過ぎった。
「やっと気が付いた」
 半透明の異形はうんざりした口調を隠そうともせずに話した。
「さっきから、話しかけてもちっとも気付かない」
 なんと言って良いのか、さっぱり分からなかった。発するべき言葉を見つけられず、無意識に口を開閉するだけの留鞠を、異形はしばらく興味深そうに眺めた。
「なんかしゃべったら?」
「……あ、……え、と……。あなたは、何?」
「ワタシはワタシだよ」
 ソレは酷くつまらなさそうに答えた。留鞠はどうやら自分は異形にとって無意味な質問をしたらしいことを鈍く認識した。妙な気まずさを掻き消すように、次の質問を投げかける。
「ここはどこなの?」
「ここ? ユクエシラズだよ」
「行方知らず……?」
 留鞠は違和感を覚えた。その返答が質問の答えになっていないことだとか、そういうことではなくて、もっと日常的な、もっと瑣末な違和感だった。
「そう。そういうチメイだよ」
「地名? 地名なの?」
「そうだって言ったじゃない」
 異形は物わかりの悪い者に諭すように言う。
「あなたは、えっと……どうして私の名前を知っていたの?」
「そりゃああんたのワタシだからね、知ってるさ」
 留鞠は混乱する。「あんたの私」の意味がさっぱり分からなかった。けれど理解のできないことを追求するより、まだまだ答えて欲しいことがあった。
「どうすれば帰ることができるの?」
「帰る? どこへ?」
「どこって……その、私が元いた場所。みんながいるところに」
「ああ……」
 小鬼の異形はそれで初めて得心がいったようだった。
「そうか、そういうこと」
 声のトーンを落として、ソレは演技がかった口調で呟いた。
 留鞠はなにがなんだかさっぱり理解できない。理解できない以上、できることは愚直に聞くことだけだった。
「何がわかったの?」
「あんたのことさ。あんたが迷い込んだってこと」
「……どういうこと?」
「時々ね、“向こう側”に思い入れがない人間が迷い込むんだよ。あんたもその一人だ」
「“向こう側”って、その、私が元いた場所のこと?」
「そうだよ」
「あの……戻る方法、知っていたら教えて欲しいの」
「……聞いたことならある」
「本当!?」
 喜色が滲んだ声に、小鬼は冷たく返す。
「ああ、まァ一応ね。“向こう側”と“こちら側”の境界がどこかにあるそうだ。どこにあるかは、ワタシは知らない」
「そこに行けば、元の場所に戻ることができるの?」
「さァ……? ワタシは噂しか知らない。還った人間は一人だって知らないから、戻ることができるかどうかなんか、知らない」
「あ……そう、なんだ……」
「そうさ」
 その一言で沈黙が降りる。見えかけた希望に差した影は、理由もないのにとても暗いものに思えた。
「もし良かったらなんだけど」
 いつまでも黙っているわけにもいかず、留鞠はおずおず口を開いた。
「一緒に探してくれない、かな? その境界を」
「……ああ、いいとも」
「本当!?」
 予想に反する答えが留鞠を強く勇気づける。
「ああ」
「ありがとう!」
「気にするほどのことじゃない。いくらかここを彷徨えば、皆すぐに諦める」
 小鬼の表情を見ることはできない。それは半透明の異形だから。見えない表情がたまらなく不安にさせる。暗く笑っているような気がしたのだ。冷水を浴びせられたように、気持ちが萎んでいく。
「嫌になったらすぐにワタシに言うと良い。お望み通り、ここより幾らかマシな場所へ連れて行くよ」
「……それはどこ?」
「言えない」
「元の場所に戻れる?」
「さァ……」
「すぐに着くの?」
「すぐだよ」
「どうやって行くの?」
「舟」
 ぞっと、体の中を冷たいものが流れていく。さきほど見たばかりの生気のない男性の顔が、気持ち悪いくらい鮮明に浮かんだ。
「その河を行くの?」
「そう」
 答えて、小鬼の異形は少しだけ得意げに、暗く濁った河を指した。
「三瀬川が運んでくれる」
 ちゃぷちゃぷと打ちつける波がひどく不吉なものに見えた。

◆◆◆

 “あちら側”と“こちら側”の境界。
 そこへ行けば、もしかしたら元の場所へ帰れるかもしれない。
 今のところ、留鞠にとってはそれだけが心の拠り所で、唯一の行動指針だった。
 彼女は一度家に戻ると、鞄に水筒と近所の地図を入れ、近くを探索してみることにした。
 その傍らには、半透明の異形が付き従う。
「そういえばあの河は泳いで渡れないの?」
「絶対に無理」
「どうして?」
「生き物は浮かないんだ、あの河は。一度沈めば二度と浮かぶことはないから、なるべく近づかない方が良い」
「怖いね……」
「そうさ、ここで一番怖いのはあの河だよ。ワタシの舟以外は何も浮かない」
 静かな流れはそう意識した途端に恐ろしいものに思えてきた。
 加えて三瀬川の存在は、留鞠にとっては想像以上に厄介だった。なにせ街中の道路の殆どが河に置換されている。それは探索のための移動路が著しく制限されることと同義だった。
 留鞠の住む街は、大都会ではないにしろ、地方都市の中枢から電車で三駅ほどの住宅街だ。道路は街を縦横無尽に走り、それが河になれば必然、陸地は区画ごとにばらばらになってしまう。幅数メートル、車が通れるほどの広さの河は、走って飛び越えるには些か広すぎた。ただ留鞠にとって幸いなことに、“あちら側”で横断歩道があった場所には、代わりに橋が架けられていた。橋は緩やかなアーチを描く木製のもので、両端の低い柵は綺麗な朱色に塗られている。
 日本的なつまらない街並みを呈する見知った場所は、入り乱れる河と無数の橋のために、異郷めいた風情が醸し出していた。初めこそその景観は旅情のような感覚で留鞠を励ましたが、すぐにそれは飽きへと変わった。そして探索を続ける内に芽生えた感情は、より淀んだものになった。
「人のいない街ってすごく不気味なんだね」
「そうかな。もうずっとここだから慣れたものだけど」
「ずっと? どれくらい?」
「さァ。何もかもがどうでも良くなるくらいには長くいる。正確な時間は知らないけどさ。ここには時間なんて贅沢なものはきっとないから。まァこんな代わり映えのない場所、たとえ数年いたら永劫と同じことさ」
 留鞠はふと思う。何もかもがどうでもよくなるくらいには、ということは、もしかしたら半透明の異形には初めは何かの目的があったのかもしれない、と。ただ彼女はそれを口に出さなかった。なんとなく、子鬼の機嫌を損ねるような気がした。
 しばらく家の周辺をぐるりと探索した。けれど誰もいないことが分かっただけで、成果はほとんどなかった。ただ、見かけないのは人間だけで、異形のものはそれなりに見かけることがあった。大抵は猫や犬、鳥の姿をしていたが。どれも小鬼の姿と同じく半透明で空間の歪む輪郭だけが見える状態だったので、詳細は判然としなかった。
「猫がいるのね」
「ああ、似たようなものだけど、アレは違う」
「そうなの? でも鳴き声がそっくり……」
「そうさ、猫に擬態したがる」
 低いトーンでしゃべる異形は、どこか軽蔑した口調で答えた。留鞠はあの猫のような異形がなんなのか、聞くことを躊躇った。それが猫に擬態したがる何か恐ろしいものだとして、どう受け止めれば良いのか分からなかった。
「何か気になる? なに、しばらくしたらちゃんとどういうものか見えるようになる」
「え? 見えるようになるの? あなたのことも?」
「ああ、体が“こちら側”に馴染むとね。よく見えるようになる。そして、その時にはもう還れなくなってるさ」
 小鬼の異形は平然とした口調で告げる。
「どれくらい、かな……?」
「さァね。還るつもりなら、早いに越したことはないだろう」
「そう、だよね。急ぐよ」
 それから数時間、留鞠は歩いて『境界』を探し続けた。出所の分からない空からの光は、大した熱量もないくせにじりじりとした暑さで留鞠の体力を奪っていく。いつまで経っても夜は訪れない。鞄の水筒の水をちびちび飲みながら、当てのない探索を続けた。どれだけ歩き回っても、『境界』らしき場所は見つからなかった。

◆◆◆

 一度探索を切り上げ、家に戻って休息を取った。
 目を覚ました時、蒸し暑さと、いつもよりずっと重い体と、変らない時刻に、留鞠は嫌でも自分の置かれた状況を認識せざるを得なかった。
 自室のベッド。どれだけ寝たかは分からない。もう数時間以上寝ていた気がするし、ついさっき眠ったばかりのような気もする。歩き回った疲労は脚にから抜けていない。
 這い出すようにベッドから出た。「還るつもりなら、早いに越したことはない」と頭の中の言葉が留鞠を駆り立てる。シャワーを浴びて、着替えて、洗っておいた水筒に新しい水を入れ、玄関を出た。
「ようやく起きた」
「うん、待っていてくれてありがとう」
 小鬼の異形は、家のドアの前、石段に腰掛けて留鞠の外出を待っていたようだった。あるいは、と留鞠は思案する。
 ……見張っていただけかもしれなかった。
 街に出ると、蝉の声があちこちから聞こえてきた。ジジジ、ジージジジジと不規則に、絶え間なく響き続けるその音は夏の風物詩というより、夏に鳴かされている囚人のように聞こえた。
「蝉も、」
「もう聞こえる?」
「え?」
「あんたが来た時から、ずっと鳴いてた」
 つまり、その音が聞こえるようになった分だけ“こちら側”に体が馴染んできた、ということらしかった。
 じわりと体に溶けていく緊張が、肺を締め付けるような気がした。思っているよりもずっと時間はないのかもしれないと。蒸し暑さの中、息苦しさが増していく。追い立てられるように、留鞠は足早に歩き始めた。
「『境界』がどんな場所か、聞いたことはない?」
「さァ……。なにせ辿り着いた人間を知らないからね。根も葉もない噂なら、いくつか知ってるけれど」
「教えて。少しでも手がかりを知りたいの」
「大したことは知らないさ。『境界』は人によって場所が違うとか。三瀬側の底にあるとか。はたまたこの世界の、球の中心だとか。あとは“向こう側”のものが混じるとか」
「……うーん……」
「参考にならないだろうさ。だってもし『境界』に辿り着いたヤツがいるとして、それをどうして“こちら側”にわざわざ残すもんか」
 小鬼は、つまらなさそうに言う。
「三瀬川の底っていう可能性は、」
「噂が信用性を持たない証みたいなものさ。三瀬川に底はない」
 留鞠がまだしゃべり終わらない内に小鬼は吐き捨てた。
「じゃあ空の中心か、“向こう側”と混じる場所、だけだね」
「与太話を信じるなら、ね」
「他に当てにできるものもないから」
「……そうかい」
 その返答には微かにチクりとした感触があった。ほとんど気付かない、普段なら気にも留めない程度の、小さなものではあったけれど。
「それでどこへ行く?」
 急かすような小鬼の質問に、留鞠の感じた淡い違和感は掻き消される。
「ん、と……とりあえず、神宮に」
 その神宮は家から十分ほど歩いた、国道を跨ぐ陸橋の先にあった。それなりに規模も大きく、霊験灼かな雰囲気は『境界』としての絶好の場所に思えた。
 ただ初日に行かないだけどの理由はあった。木々に囲まれ、曇天の中に佇む神宮は、留鞠の恐怖心を煽るに十分過ぎる雰囲気を醸し出している。異形という得体の知れない存在が潜んでいると考えただけで、足が竦むような思いがした。
「人を襲う異形っているの?」
「さァ。聞いたことはないけど、中にはそういうヤツもいるかもしれない」
 小鬼はどうでも良さそうに答える。
 口から出かけた「もし何かあったら、あなたは助けてくれるの?」という質問を、留鞠は寸前で飲み込んだ。きっと期待するような答えは返って来ない。
「……いないことを祈るだけね」
「ま、そうだな」
 国道を跨ぐ陸橋、そのなだらかな階段を上りながら、留鞠は神宮の威容を眺める。辺りの神社とは比べものにならない大きさだ。長方形を歪に曲げたような外形の敷地。横幅はおよそ八○○メートル、奥行きは四○○。その半分ほどは木々の茂り。残りは参道と本殿や宝物館などの人工の建物だ。決して回りきれない広さではないが、探索しようと思うには、その不気味さも相まって気持ちが萎えるものがあった。
 視界の右には神宮がその存在を主張しているが、左にはひっそりと小学校が佇んでいる。四角い運動場をL字型の校舎が囲むように立っている。四階建ての校舎には当然ながら人の姿は見受けられない。もしかしたら異形が潜んでいるのかもしれないが、半透明の彼らを遠目に見つけることは殆ど不可能だ。そういえば、今までは全く住居の中を調べようとは思わなかったが(留鞠は自分の中の『境界』が、屋外という先入観を持っていたことに初めて気が付いた)、あの中も調べた方が良いのかもしれないと考えていた矢先。
 ふと、のろのろと階段を昇る足が止まった。
「……どうした?」
 突然立ち止まった留鞠を小鬼は訝しむ。
「えっ……と、ちょっと待って」
「あん?」
「なんか……あ」
「なんだよ?」
「この陸橋ね、小学校の側だけ大きな柵があったの」
「それが?」
 小鬼は話の続きを促す。
「ほら、この陸橋からだと校舎の教室の中までよく見えるでしょ。それに運動場を一望できる。だからこの場所から小学生のことを眺めてる不審者がいるって問題になってたことがあったの。それで陸橋の小学校側の手すりに、不透明なプラスチックの板と枠を増設して目隠しをつくった。それが三年くらい前のことだったと思う」
「ふーん。なんか意味あるの、それ」
            、、、、、
「分かんない。でもここは三年以上前なのかも」
「へぇ……それで?」
「んと、それはまだ……分かんない、けど」
「じゃあ『境界』に繋がる手がかりかどうかは分からないってことか」
「そうなっちゃうね……」
 言いながら、留鞠は鞄からメモ張を取り出し、一言だけ書き加えて神宮へ向かった。
 神宮の入り口は観光客用に駐車場になっていたが、今は河と同じ暗緑色の水の満たされていた。ただ幸いなことに入り口の鳥居までは橋が架かっており、中へ入ることは可能なようだった。
「この橋って誰が架けてくれたんだろうね?」
「さて。聞いたこともない」
 とことことせわしなく足を動かし、小鬼は留鞠の歩行速度に合わせている。
 言うことは軒並み冷たいけれど、それでも誰とも話さないよりは幾分が気が楽だった。もし小鬼が付き従わなかったら、もっとずっとすぐに諦めていたと、留鞠ははっきり自覚している。
 橋を渡りきって、神宮の入り口の大きな鳥居をくぐる。
 巨大な鳥居は門のようで、薄暗く木漏れ日の落ちる中は異界めいていた。蝉の輪唱が降り注ぐ。ジジジジジと忙しなく、夏の囚人達が鳴いている。命を燃やして彼らは閉じた世界にその音を満たしている。蒸し暑さと彼らの謳い、その熱に浮かされた思考で、留鞠はソレに視線を投げる。木の幹に、半透明の小さな異形。きっと彼らも同じように擬態している。そうでなければ、この世のモノでなければ、その声は留鞠の耳には届かない。
 参道には砂利が敷き詰められている。奇妙なくらい整ったその道の中央を、留鞠は小鬼と並んで歩いた。
「ねぇ、もし『境界』を見つけられたとして、それが『境界』だって、分かるのかな」
「さァ? 考えたこともなかった」
「そっか。困ったな……」
「どうしたって見つけられないさ。境界なんてほとんどお伽噺みたいなものなんだから」
「そっか……。でもね、それを諦めたとしても、私には他にできることがないもの」
「諦めてワタシの舟に乗れば良い。そうすればここよりはいくらかマシなところに行ける」
「本当に疲れちゃったらそうするけど……今はまだ探したいの」
「好きにすると良い」
 参道は十字路になっていた。右手の道は別の入り口に繋がっている。正面は宝物館と宮内の小さな公園。左手は本殿。
「とりあえず本殿に行くけど、良い?」
「ワタシの許可なんかいらない」
「付いてきてくれる?」
「言われなくても付いていくさ」
「ありがとう」
「別に、あんたのためについて行く訳じゃない」
 子鬼はぶっきらぼうに言う。
 本殿までの道のり、留鞠は注意深くあたりを見回したが、特に変ったものは見つけられなかった。蝉の異形以外にも、鶏や鳩らしきいつくかの半透明の異形を見かけたが、それらは特に彼女に興味を示さず、ただ宮内をうろついている。目的地にたどり着いても、そこには木造の人工物があるだけで、普段は立ち入れない本殿の奥にも、めぼしいものは見つけられなかった。
 静寂がまとわりつくだけの人工物はそれだけで薄気味悪かった。留鞠は一刻も早く引き上げたかったが、何かの収穫はないかと探す内に、かなりの時間が経ってしまっていた。子鬼が苛立たしげに、「もう何もないだろ、次に行こう」と言うまで、無益な探索が続いた。
 結局何も分かることはなく、来た道を戻ることになった。十字路を左手に曲がり、宝物館へと向かう。
 宝物館でも大きな発見はなかったが、一つだけ分かったことがあった。
 扉に鍵が掛かっていたため、仕方なく近くの石を使って扉のガラスを割ろうとした時だ。ガラスは割れるどころか傷一つ付くことはなく、石は虚しく跳ね返されただけだった。
「割れない……」
 石をぶつけたガラスの表面を手で撫でながらつぶさに見つめる留鞠に、子鬼は訳知り顔で声をかける。
「物質があるわけじゃないからさ。そこに“そうあるもの”として存在してるんだから、壊したりはできない」
「そうなの?」
「そうなんだろうさ。少なくともワタシはそう思ってる」
「じゃあ中には入れないんだね」
「おそらく」
 宝物館の先には車道と小さな駐車場があり、その奥に公園、そしてさらに大きな駐車場、出入口と続いている。しかし今は車道や駐車場が底なしの河に置換されてしまっている。
「これ以上先には行けそうにないね」
「ワタシの舟なら行けるけど」
「乗せてくれるの?」
「行きだけならタダで乗せてやるよ」
「帰りは?」
「知ったことじゃない」
「……分かった。じゃあやめておく」
 公園への道は、なだらかな傾斜に沿って河が静かに流れている。留鞠がどれだけ覗き込んでも、暗緑の闇に沈んだ底は見えない。行き止まりの先、孤島になったしまった小さな公園には緑の葉を茂らせた銀杏が並んでいる。絶え間なく蝉時雨が降っている留鞠の場所とは対照的に、そこはひっそりとした静けさに沈んでいるようだった。
 子鬼の言った「行きだけなら」という言葉が、あたまの隅に甦る。酷く不吉な感触がした。
「ねぇ」
「なに?」
「私、還れると思う?」
 留鞠は河を眺めたまま、子鬼に背中越しに尋ねる。
「無理だよ」
「……やっぱりそうかな。ねぇあなたは私に“こちら側”に『迷い込んだ』って言ったけど、あなたも同じなの?」
「ああ、違うよ。私は自分で選んだんだ」
「そんなことできるの?」
「できるさ。嫌になるくらい、とても、簡単に。まァ戻るのは無理だけど」
 留鞠は振り返って子鬼を見る。半透明の異形の表情は見えない。
「ここできることはそんなに多くない」
 子鬼は淡々と告げる。
 その足元には半透明の蝉らしきものが落ちていた。死にかけているのか、もぞもぞと動くばかりで飛び立つ気配はない。
「異形になるか」
 子鬼はその異形をそっと指で摘んで、留鞠に見せ付ける。子鬼の小さな手の中で、抜けだそうと力ない羽ばたきで藻掻いている。
「三瀬川に沈むか」
 手の中の異形を河に投げ捨てる。本来ならば仮に水面に落ちても浮き上がるはずのそれは、トプッと小さな水音を立てて静かな流れに沈み込んでいった。
「ワタシの舟に乗るかしかない」
 子鬼は留鞠を見上げる。
「どれだけ歩き回ったって、こんな広い世界で『境界』なんて見つけられるわけがない。ここで藻掻いても意味はない。さっきの蝉の声と同じ。投げ捨てられる前にどれだけ鳴いても、結局何も変わらない」
 饒舌な子鬼を留鞠は黙って見つめながら、頭の後ろの辺りでもやもやとし始めた考え事を整理していた。
 投げ捨てられたソレの断末魔は聞こえていなかった。来たばかりの頃はそもそも蝉の鳴
                             、、
き声が聞こえなかった。初めてその鳴き声を聞いた時、子鬼は「もう聞こえる?」と言った。そして今「異形になる」と。
 留鞠は推測する。体が“こちら側”に馴染むというのは、つまり異形になることと同義ではないか。長く居られないのは、それは異形になるために元の場所に帰れなくなるからではないのか。
 そしてその推測が正しいのなら。まだ聞こえない鳴き声があるのなら。
「……でも私にはまだ時間がある、違う?」
 子鬼は答えない。
「もう少し、付き合って欲しいの。ダメ?」
「いいさ。多分あんたが思っているほどの時間はないけど」
「あとどれくらいなの?」
「さァ。すぐに“こちら側”に馴染むヤツもいるし、しばらくかかるのもいるらしい。だからワタシには分からない」
 子鬼は声の調子を少しも変えずに言う。
「完全に馴染んでしまえば、やっぱり元の場所には帰れないの?」
「そうさ。ワタシになれば、もう戻れない」
 留鞠はその答えを、自分でも驚くほどすんなりと受け止めていた。

 猫の異形を見た時、子鬼はソレが猫に“擬態”していると言った。
 もし、猫が“こちら側”に迷い込み、異形へと変わったとして。
 変わったと気付かずに元のまま振る舞うのなら。
 それは擬態することと一体何が違うだろう。 

 だから。
 それはつまり、猫の異形にも元があったことを意味していて。
        、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、
 それは同時に、子鬼の異形にも元があったことを意味している。
 子鬼の元がなんなのかなんて、考えるまでもない。
 そこまで分かってなお、留鞠は聞いて確かめたかった。
「あなたは人に擬態しているの?」
 その問いに子鬼はぷっと吹き出した。
「人に擬態しているのなら、もう少しワタシは人に優しくするさ」
 そう言ってソレは自らを嘲った。
「まァ、察しの通りワタシも元は人間さ」

 時刻は午後四時半を回ったまま、そこにこびり付いている。
 湿気と熱気に満たされた空間に、それでもまだ不快の密度を上げようと蝉時雨が降り落ちる。
 じっとり湿った肌着の感触が、とても不愉快だった。

◆◆◆

 探索というよりは彷徨と呼ぶべき時間が流れた。
 どれくらい続いたのか、留鞠には分からない。
 時計は時間の流れを教えてはくれなかったし、彼女の横に付き従う子鬼もまたそんなことには無頓着だった。
 三瀬川になった国道沿いに随分遠くまで留鞠は足を伸ばしたし、必要と思えば周囲をくまなく彷徨った。けれど行けば行くほど分かるのは、どれだけ進もうとも終わりなどないという虚しい実感だけだった。徒歩で歩くには、喩え世界が裏返ってしまったとしても、あまりにそこは広すぎた。
 得られた代価は一つだった。留鞠の記憶では随分前に潰れた駄菓子屋が、ちょうど店の解体作業をしている最中だった。それからどうやらここが8年前らしいということが分たた。それ以外には何も分からなかった。『境界』に結びつく手がかりは欠片もなく、歩くほど足は重くなった。子鬼の異形は時間の経過と共に半透明から暗い灰色へと変わり、かつては透けて見えた後背の景色も見えなくなっていた。途中、何人もの人が三瀬川を舟で渡って行くのを見た。留鞠はその全てに見なかったふりをした。

 五度目の眠りから醒め、いつものように玄関の扉の先で待つ子鬼は、それまでと変わらぬ冷めた口調で言った。
「ここまでだ」
 それは、今までと同じようなトーンで、けれど本当に最後だと留鞠に思わせるに十分な重さを持っていた。
 もしかしたら――留鞠は光源のない空を仰いで思う。その言葉を待ってしまっていたのかもしれない。
 どれだけ経過したのかも分からない時間。次第に半透明から黒ずんでいく異形達。当てのない探索。すり減らした精神の屑が、きっともう肺を満たしている。胸の苦しさはその代償だ。
「もう、お終い?」
「ああ、終いだよ」
 その断定的な口調に、少しだけ胸が軽くなったような気がした。
「……なんで私はこんなところに来ちゃったのかな」
 留鞠は子鬼に向かって言う。答えを求めるでもなく、理解を求めるでもない。そんなふうにこぼれ落ちた拒絶ばかりの言葉を、子鬼は憮然と受け止める。
「さァ、ワタシには分からない。けど、“向こう側”に思い入れがない人間しかこんな場所に来やしない。それだけ罪深い連中しか、こんなところへは招かれない」
「“向こう側”に思い入れがない……それってどういうことなのかな」
「そんな複雑なことじゃない。自分と周りとの繋がりが分からない、だから自分が何をしていいか分からない、時間の流れに身を任せて『いつか』を信じることもできない、いくつかあるはずの未来も描けない、そういうことだよ。だから、あんたは喚ばれた」
「そっ……か。それなら、仕方ない、かな」
 留鞠は噛み潰すように言葉を区切る。言い聞かせるように。それから、少しだけ可笑しそうに零した。
「ああ……だから行方知れずじゃないんだね」
「なに?」                 、
「最初ね、違和感があったの。どうして『行方知れず』じゃないんだろうって。普通はそう言うのに。行方が知れない人ではなくて、行方を知らない人の場所なのね、ここは」
「なんだそんなことか……考えたこともなかった」
 子鬼は言い捨て、留鞠を見上げる。
「さて……じゃ舟を出す。来な」
 歩き出しても、留鞠は足を止めたままだった。
「どうした? 置いてくぞ」
 留鞠はまだ、踏み出さない。
「まだ躊躇ってるのか?」
「ううん……違うの。もう多分無理だって分かってる」
「じゃあ、」
「でも、少しだけ猶予を頂戴。まだ……まだ整理できていないことがあるから」
「整理? 何を?」
「私が、ここに呼ばれたわけ。聞いてもらっても良い?」
「聞いてどうする」
「どうってことはないの。ただ誰かに話した方がまとまるから 」
 留鞠はそれで子鬼を不機嫌にさせると思っていた。
 けれど、ソレはただ嘲るように
「ああ、好きにしなよ」
 そう言っただけだった。
「怒らないのね」
「今更」
 子鬼は馬鹿にした態度のまま答える。
 しばらくの沈黙のあと、それは短い呟きから始まった。誰かに話すことよりも、ただ自分が事実を確認していくだけのような作業。
「いじめがあったの」
 とても慎重に言葉を選ぶような、ゆっくりとした口調だった。

 最初はね、私じゃなかった。中学校に入ってすぐ、同じクラスの女の子。大人しい子だったと思う。何がきっかけでいじめが始まったのか、私は知らない。気が付いた時には、その子はいじめられてた。単に無視するだとか、持ち物を隠されるとか、授業中に消しゴムのかすをぶつけられるとか、そういうこと。それがもうクラスには浸透していて、その子にそうするのがルールみたいになってた。ルールを破ればその子と同じようになるから、みんな絶対にそのルールを破らないように気を使ってた。私はその子と随分前に偶然少しだけ遊んだことがあった。小学校に上がったばかりの夏、小さな公園で蝉採りをしていた時に、その子と出くわして、どんなやりとりがあったのか忘れちゃったけど、一緒に蝉採りをした。同じ小学校だったから、それからも何度かあって短い話はしたけど、でもクラスが一緒になったことはなかったから、結局はあまり仲良くならなかった。だから、というわけでもないけれど、私は彼女をどうにかして助けようとしなかった。気の毒には思っていたけど、彼女に何かの助けをして自分がいじめの対象になるのが怖かった。彼女に話しかけられるのも、実は少しだけ恐れてた。無視することは嫌だったし、応答することも怖かった。だからなるべく話しかけられないようにしてた。それから一年くらいして、学年が変わっても、彼女を取り巻く環境は何も変わらなかった。夏が来る前に彼女は自殺した。葬儀の時、クラスの子の何人かは泣いていた。無視した子も泣いてた。私も泣いたけれど、どうして自分が泣いているのかは良く分からなかった。でもほっとしてたことだけは覚えてる。もうルールに怯えなくても良いんだって思った。でもね、違ったの。ルールは残ってた。多分ルールだけが残ってた。それから次の対象が私になったの。
 私が選ばれた理由は、やっぱりよくわからない。それまで普通に話してた子たちが少しずつよそよそしくなって、教室の中でちょっとずつ私は浮いていって、それから中心グループが、次のターゲットは私なんだって意識するようになった。それで多分もう全部決まっちゃったんだと思う。誰も話しかけてくれなくなって、持ち物がなくなるようになって、他の人の忍び笑いが怖くなって、休日も学校終わりも楽しくなくなって、昼休みが嫌いになって、休み時間が辛くなって、でもどうしたら良いかも、なんで私がそうなってしまったのかも分からなくて、私がいらないんだってことだけはよく分かって、ずっとそのことばかり考えてた。お母さんに相談して、お父さんに相談して、担任の先生も相談してくれた。色んな意見をもらったの。本当に、たくさん親身になって考えてくれたと思う。慎重すぎたのかもしれないけど、それも全部優しさだったと思う。ずっと応援してくれたの。私は本当に嬉しかったし、どうにかして期待に応えたかった。
 だけど結局ダメだった。なんで私がルールの対象になったのかはずっと考えてもはっきりしなくて、でも私はそれを求めてばかりで、もうクラスの友達だった人に勇気を出すことなんか怖くてできなかった。彼女が私と同じように話しかけられる事自体を怖がっていたら、そうじゃなくても無視されたら、今までの応援が全部無駄になる気がしていたの。そんなこと全然なかったのに。でも話そうと思うとどうしても息が詰まるの。それなのに、今度は応援してくれている人にできないも言えなかった。
 しばらくして私はダメになっちゃった。耳が聞こえなくなったの。突発性難聴っていうんだって。ストレスで両方の耳が使い物にならなくなってお医者さんは説明してくれた。その時に何も考えられなくなったの。自分の体に起きてることをどうにか理解しようとしても、全然認識できないの。入院して何回も筆談の説明を受けても、本当になにも分からなかった。でもね、お母さんとお父さんはずっと励ましてくれた。私がどんなに分からないだけを返して困らせても、どうにかして元気付けようとしてくれた。二人が用意してくれた筆談用のノートはほとんどなんでもないことだけだったけど、そこにある全部のことが私のことを気遣ってくれてるのが分かった。両親のおかげでなんとか持ち直すことができた。ちゃんと物事を認識できるようになった。自分の耳が聞こえないことも分かったし、もう学校に行かなくても良いんだって言われてることも理解できた。最初はそれだけで良かった。二人共すごく喜んでくれてた。回復してしばらくして、耳が聞こえなくなっても日常生活に支障がないことがわかると、障害者用の学校への入学が決まったところまでは良かった。またやり直せると思った。それから、校門の前まで行って初めて気がついたの。同じ学年の子と話すのが怖くて仕方なかった。まだ踏み出してもいないのに、拒絶されることばっかりが怖くて、他のことはもうどうでもいいみたいで、いつもみたいにまともに考えられなくなってた。大人の人とは普通に話せるのに、馬鹿みたいだった。私は家に戻って前みたいにそこで閉じこもる生活を続けることになった。お母さんは私の好きなタイミングで学校に行ってくれれば良いと言ったけど、私にはそれがいつなのかさっぱり分からなかった。いつかは戻らないといけないことだけが分かっていて、他のことは何も分からなかった。どうすれば良いかも、何をすべきかも。ずっと部屋でぐずぐずしているだけの自分も許せなかった。情けなかった。自分の不甲斐なさが嫌いだった。私は結局学校にいた時と同じ袋小路にいた。
 そして気が付いたら、私は“こちら側”に迷い込んでた。罰なんだと思った。

「だからね」
 留鞠はつまらなさそうに聞いている子鬼の隣に座った。
「あなたが罪深いって言った時、やっぱりそうなんだって納得したの」
「へぇ……それがどうしたって?」
「別に、ただ私がここに来てしまった理由はよく分かるっていう話」
「おめでたいことだな」
「でもね、分からないことがあるの」
「何さ?」
 、、、、、、、、、、、、、、、、
「どうして午後四時半過ぎなんだろうって」
「知るかよ」
「本当に?」
 留鞠は子鬼を覗き込む。
「なんだよ。ワタシは知らない」
「じゃあ、今から確かめに行っても良い?」
「は?」
「さっき、話してる途中で気付いたの。もしかしたらその理由が分かるかもしれない」
「もうほとんど時間はない」
「知ってるよ」
「……いいさ。どこだよ?」
 億劫そうに尋ねる。留鞠はぴっと神宮を指して言う。
「あそこ」
「なるほど。ま、たしかに近場だな」
 のろのろ立ち上がる子鬼に合わせて、留鞠はゆっくり神宮へ歩き出した。

◆◆◆

 神宮の中は、変わらず蝉の声で満ちていた。光源のない日差しの下で、蒸し暑さと同調するみたいに彼らは鳴いている。忙しなく、休みなく、夏の籠の中に閉じ込められて悲鳴をあげている。
 神宮の中を抜け、宝物館を通り過ぎた先に、留鞠たちはいた。
 眼前の深く暗い河が、静謐な流れを絶え間なく生み出している。
「あそこまで、乗せていってくれるって言ってたよね?」
「行きだけな。帰りは知らない」
「帰る時間になんてあるかな」
「ないだろうな」
 子鬼が三瀬川に近づくと、ぷかりと舟が浮かび上がってきた。ちょうど人が一人乗れるくらいの小さな木造の舟。三瀬川の暗緑の水は、不思議と一滴も付着していない。
「来いよ、乗せてやる」
 子鬼は流されてしまいそうな舟を捕まえ、留鞠を呼んだ。
「ありがとう」
 留鞠が乗り込んでも、舟は少しも沈みこまない。子鬼が舟に乗り込むと、緩やかな流れに乗って舟は動き出した。歩くよりもいくらか遅いペースで、かつて道路だったところを下っていく。
「漕がないんだね」
「三瀬川で櫂を使う意味はない。流れだけが行き先を決められる」
「そうなんだ。あ、だから行きだけ?」
「そう。たまたまあの公園に行きつく流れがあった。ワタシはそういう流れが見えるだけ。だからあの公園から帰りたくとも、もう帰れる流れはないかもしれない」
「そっか、そういうこと」
「……聞いてもいいか。なんであそこに行くと分かるんだ? 今の時刻と何の関係がある?」
「もしかしたらあそこが『境界』かもしれないから」
「境界? どうして?」
「蝉の鳴き声、聞こえる?」
「は?」
「いいから。答えて」
「聞こえる」
「だんだん小さくなってない?」
「いや、変わらない」
「でも私には、公園近づくほど小さくなっているように聞こえる」
「それが?」
「私の耳には、“向こう側”の音は聞こえないの」
「……混じってるって言いたいのか。“向こう側”の蝉と“こちら側”の異形が」
「多分。そうだとしたら、あなたが言った噂が正しいのだとしたら、あそこが境界かもしれない」
「いつ気が付いた?」
「ついさっき。一度おかしいと感じたことはあったけれど。ほら、あなたがここで蝉を拾って河に投げ捨てた時、あなたはその蝉が鳴いているような口ぶりだった。だけど私にはその声が聞こえなかったの。その時は、まだ体が『馴染んで』いないから聞こえないのかと思っていたんだけど、後から考えたら、あれが“向こう側”の蝉の可能性もあるのかもしれないって思った。だから、もしかしたら近くが境界かもしれないって」
「……仮に境界だとして、どうしてそれが時刻と関係がある?」
「あなたが私の名前を知っていたから」
 子鬼はその言葉で口を閉ざした。    、、、、、、、、、、、、、
 たしかに初めに子鬼は彼女の名を呼んだ。彼女が迷い込んだと知る前に。
 そして留鞠は知っている。かつてはソレが人間だったと。だから彼女は考えた。“こちら側”に一人だけいる、彼女の名前を知っているだろう人の存在を。そうだとしたら、そんなことがあるとしたら、留鞠は『午後四時半過ぎ』という中途半端な時間に世界が留まっている理由を知っている。小学校の授業が終わり、その家の近くの公園に遊びに行くなら、きっとそれくらいの時間になるはずだから。それは留鞠の子鬼の最初の時間だろうから。
「『あんたのワタシ』って言ったこと、あったよね。その意味が最初はずっと分からなかった。あとであなたが『ワタシになれば、もう元には戻れない』って言った時に、もしかしたらワタシは『わたくし』の意味じゃないかもしれないって気付いた。もしも渡るの『渡し』だとしたら、もしもあなたが私の『渡し』であることに意味があるなら、8年前にも、午後四時半に、もしも全部に意味があるなら、境界はそれと関係している場所だと思った。違うかな?」
 子鬼は何も答えなかった。
 舟が底なし河の流れに沿ってゆるゆると水面を滑る。夏の籠の鳴声は目的地に近づくほど遠のいていた。耳について離れなかった蝉時雨は少しずつ枯れ始めている。どうやらすぐそこに終わりが近づいていた。
 舟が公園の入り口に差し掛かる。子鬼は舟の上から入口のポールを掴んで舟を停めた。
「着いた。降りたら」
「うん」
「もう来るなよ」
「……うん」
 舟から岸になった公園に移る留鞠の背中を子鬼は押す。
 留鞠が振り返った時、もうそこに子鬼はいなかった。
 世界が白く濁った。

◆◆◆

 音がない。
 不誠実なくらいに静かな病室。
 手を握っている人がいた。母だった。手が震えていた。微かな痛みを感じるくらいに、私の手は強く握りしめられていた。
 浅く、その手を握り返す。
 母が私を見た。
「    」
 言葉は聞こえない。聞き返す暇もなく抱きしめられた。

 どうやら還ってきたらしかった。



 ちょうど五日間の間、私は昏睡していたらしい。
 原因はまだ分かっていない。
 心配する両親を宥めすかして、私はずっと「大丈夫」を言い続けた。筆談用のノートは母の涙で濡れて、たくさんの文字が滲んでしまっていた。そこにどれくらいの愛情が詰まっているのか、波打つページは教えてくれない。けれど、途方もないことくらいは胸が痛むほど分かった。

 一通りの検査や診断が落ち着くと、私は病室で意識のなかった間の世界のことを繰り返し思い返していた。
 随分たくさんのことを喋った。いつもよりとても多くのことを考えた。
 迷い込んでしまった意味を私はずっと考えている。意味なんてないのかもしれないけど、考えずにはいられなかった。
 帰りたかった。諦めたくなかった。最後まで諦めなかった。彼女はもう来るなと言った。背中を押してくれた。夢だったのだと思う。だからそこには自分の都合の良いことしかないのかもしれない。ただどこかで彼女を見殺しにしたような意識があったのかもしれない。それを彼女は本当は赦してくれないかもしれない。
 けれどまだ鮮明に覚えている。最後の言葉とあの小さな手の感触を。
 だから、また歩き出さなくては。




       

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Neetsha