Neetel Inside 文芸新都
表紙

かくも遅咲き短篇集 参
恋愛デビル。/Kluck

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   1

 私は電撃をまとって、この世界に降り立った。

 そこはとても暗かった。地面に置かれた小さな灯りが、周りをほんの少し照らし、私の立った場所が、円環と直線、それに神秘文字で形作られた魔法陣の中心であることをおぼろげながら見せていた。
 淀んだ空気のニオイが、そこが小さな部屋で、さらに人がいることを知らせていた。
 ぐるりと見渡すまでもなかった。魔法陣の縁の辺りに両手をついて、ひざまずく者がいた。制服姿の格好を見れば、男子高校生といったところだろう。髪は黒かったが、髪型からはオタクっぽさは感じない、どちらかといえば、粋がっているような印象を受けた。
 男はゆっくりと顔を上げた。見下ろす私と目が合う。あどけない顔、と小馬鹿にしてみたい多少驚いたような表情があった。
 理由はわかっている。正直、そんな表情は大好物だ。自然に小さく口角が持ち上がった。そして、今日も見下すような姿勢で私は口を開いた。

 ――それがたった十五分前のことだ。

   * * *

 暑い。熱い。アツい。そう唇が何度か動く。
 季節は夏。季語で言えば、もうすぐ大暑。その午後の一番暑い時間、日差しこそ入り込まないものの、四畳半の洋室には熱風が吹き込んでいた。
 額から大粒の汗がこぼれる。
 私の格好は上の帽子から下のソックス、脱いだ靴まで全部黒。横に置かれているアタッシュケースももちろん黒。あとは私の持ち物であったステッキも黒。黒で足りないのは黒猫ぐらい。こんな暑い日に黒尽くめでも、自分の仕事着が恨めしく感じることはない。
 恨めしいとしたら、この十五分で埃っぽいカーペットの上で正座させられ、立場を明確にされた自分の失態の方だ。
 私をそんな苦境に陥れた張本人は、ベッドに腰掛け、扇風機に当たりながら、コーラの封を切って、口を付けて飲んでいる。キンキンに冷えたペットボトルの水滴が冷たく光る。
「飲む?」
 私の視線に気づいたのか、そんな言葉を掛けてきたが、お前が口を付けて飲んだものなど死んでもお断りだ。そう突っぱねてやる前に「まぁ、やらんけどな」と奴の声。炭酸飲料におぼれて、溶け死ねばいいのに。
 そんな私は奴を見上げる形で、色々な物が散らばる部屋の埃っぽいカーペットに正座している。いや、させられている。慣れているはずもなく、足はもうずっとプルプルしている。これがジャパニーズ・トラディショナル・シッティングの本気か。この姿勢を強要されて、まだ十分も経っていないのにこの威力。悔しいがここは白旗だ。表情を歪め、奴に思いを伝える。
 しかし、ガン無視。私の以心伝心というか、渾身のボディランゲージは受取拒否された。サブカル的に言えば、ナントカフィールド展開!とかそんな感じ。詳しく知らないけど。
 私の苦痛は軽いゲップであしらわれ、続いた言葉が「ま、とりあえず、聞けや」である。相手の話を方向性もわからぬまま、それも一方的に聞かされてはコミュニケーションは成立しない。会話のキャッチボールならぬ、会話のストラックアウトである。無論、こちらが的である。そんなものは断固拒否である。例え、こちらの分が多少、いや大分悪いとしてもだ。
「嫌だね。まずは……」
 奴の左手には私の持ち物であった黒いステッキ。それが振り上げられる。瞬間、目をつぶる。バシッと頭に鈍い音。
「痛ーッ! それはそういう道具じゃないんだからッ!」
「聞けってんだよ、バカ」
 ステッキで殴られた直後の脳天に、不必要にデカい声が響く。
 そうして始まったのは、奴の無駄に詳細かつ鮮明な今日一日の出来事の復習であった。

   * * *

「……すみれの返事は、小さな声で『ごめんなさい』だったんだ」
「ふーん」
 奴の情緒たっぷりの熱弁は二時間半をドブに捨ててくれた。空は夕焼けへ変貌を遂げ、投げつけたい台詞はカラスが代わりに鳴いてくれた。
 話を要約すれば、目の前にいる奴こと高峰陽太は、頭の中が海綿体で構成されている大層な面食いであり、夏休み初日の補習への出席は校庭でクラブ活動中の女子の歓声に耳を傾けるのに使われ、結果、相田すみれというラクロス部員に一目惚れし、ストーカーもドン引きする速度で情報収集を行い、即日の告白を敢行したが、撃沈という当然の帰結に至った、ということだった。
 どんなに恋愛経験皆無な鈍い奴であっても半分も聞けば結末がわかる内容を、この男は零から十まで省略を許さず、みっちりと私に語った。それどころか、つまらなさを態度で示すたびにステッキで頬を小突かれ、バカだとツッコムたびにツッコミの三倍以上の言葉でなじられた。
「で、フラれたのと私はどう関係があるんだ」
 正座で足の限界が八回ぐらい通り過ぎた私はさっさと話を終わらせるべく、五度目の結論を含んだ問いかけをする。
「また、フラれたと早急に結論を出すのか? 最後まで話は聞くもんだ」
 終了要請は即却下。正座の攻撃のターンが続く。
「はい、じゃあ、どうしたんでございましょうか」
 怒りが転じて、話を促すわざとらしい敬語は、もはやこうなると仕様である。
「まぁ、落ち着け。すみれは一度も彼氏を作ったことがない子羊ちゃんなんだ。きっとね。つまり、どう対応して良いのかわからない、そういう状況に違いないんだ。だから、俺は忍耐強く聞き返したのさ。『ずっと、好きなんです! そう簡単に諦めれません!』ってね。でも、彼女の返事は、まだ『ごめんなさい』だったんだ」
 二時間を「ずっと」と表現する男につきまとわれた少女に同情せざるを得ない。
 二度、嫌いであることを通達されても気づかない男には同情する余地はない。
 完全に呆れつつも、にっちもさっちもいかないなので、話を進めるよう促した。
「で?」
「あの子は、全てが俺の好みなんだ。男たる者、そういう高嶺の花を目指さないでどうする?」
「どうするって聞かれても……」
「食い下がるに決まっているだろ?」
 脳みそならざる物質が頭蓋骨内に格納されており、思慮分別に欠けているとしても、ここまでどうしようもない奴だとは思わなかった。
「食い下がるとかバカだろ!」
「お前にバカって言われたくねーよ」
 この扱いは甚だ不本意であり、私は言い返そうとしたが、その前に奴が話を続けた。
「とにかく、俺はわかりやすく言ったさ。『いきなり、告白だなんて、ごめんなさいという気分もわかります。だから、何かわかりやすいチャンスを下さい。そうじゃないと、俺は毎日あの手この手で告白してしまいそうです』。すみれは長く沈黙したよ。だけど、俺は彼女の表情を見て確信したね。これは悩んでいるなって。だから、タイミングを狙って言ってやったよ。『諦めれないんです!』ってな」
 絶対に表情の小さな逡巡など読めていない。もちろん、空気も何も読めているはずがない。だが、そんなことお構い無しに奴の独壇場が続く。
「そしたらな。すっごく悩ましい表情で言ってきたんよ」
 それは思い詰めた表情ではないか、とツッコむ時間は当然与えて貰えない。
「『その、誠意を……見せてくれれば、考えます……』。だから、俺は堂々と言ったわけだ。『わかった。それで構わない』。いやー、すみれのあの顔、やっぱり、俺の熱意は伝わったって確信したね」
 会っていない私の方が正しく表情を連想できた気がした。
「俺は必死に考えたさ。誠意を見せる、つまり形にしたら何になるか。答えはすぐに出た」
 すぐに出る答えは必死に考えたうちに入らないはずだ。そう思った私の脳を右から左に奴の結論が通り抜けた。
「マネーだ」
 ドヤ顔の奴に言うべきことは決まっていた。足も限界だった。足を崩しながら言った。
「お前はバカだ。それ、嫌われてんだよ。金で解決す……」
 奴はベッドに腰掛けた状態のまま、膝関節を軸に右足を持ち上げた。その様子が見えたときには、足首の加速が描く悪意ある放物線は、私の顎にクリーンヒット!
 それが悪魔たる私が覚えていたことの召還直後の顛末の最後だった。


   2

 悪魔。
 そう、私は悪魔だ。比喩とかではない。
 悪魔というと、人を傷つけるだとか、不幸を届けるだとか、とにかく悪というか魔というか、そんな系統の超常能力の使い手を想像される。だが、それは大きく違う。とはいえ、力が何もないわけではないし、残忍なことも行わないわけでもない。というか、力を用いて悪逆非道な行為をしていることの方が多い。それでも、悪魔はそういう行いを望んでしているわけじゃない。もしかすると、望んでやっている奴もいるかもしれないが、私は少なくとも望んでいない。不幸な結果は契約の結末に過ぎないのだ。
 契約、それが悪魔と人間を結ぶ唯一の接点だ。つまり、悪魔は人間の欲望を元に契約を結ぶビジネスマンといったところだ。人の欲に基づいた契約を結び、忠実な完遂を要求する。そのため、契約をしっかりさえすれば、ウィンウィンな関係を結ぶことは十分にある。一方、契約違反が起きれば、それは厳格に対処する。
 欲望を叶えるための力はあるし、代償として金から記憶、魂、それ以上のモノまできっちり取り立てる力もある。ただし、その代償がどういう意味を持つかは企業秘密と言ったところだけど。だが、そのような取り立ても全ては契約のためだ。そういう意味では、悪魔は人間よりも遥かに社会的な生き物であるとも言えるだろう。我々はこんなにもルールに厳格なのだから。
 そして、私はそんな営業職の一員で、将来を嘱望されていた可憐な見習いだ。新人だから力が制限されているとかそんな漫画のようなことはない。新人だろうが中堅だろうが、活躍の場はこの世だ。もちろん、私はまだヒヨッコだから、知らない場所でもっとすごい取引が進んでいるかもしれないのだけども。とにかく、現時点において、過去の実績から「美貌のホープ」なんて二つ名がつけられるぐらいで、そのうちの美貌の方だけ恥ずかしがる程の自信は持っていた……持っていたのだ。

   * * *

 ――三時間前。

 私はこの世の外、わかりやすく言い換えるなら魔界から、いつも通りの仕事として、全てを奪い取れそうな人間を捜していた。当然、私の出世のためにだ。
 ところで、悪魔を呼び出すのになぜ大層な魔方陣が必要か知っているだろうか。実際のところ、あんなものは必要ない。なくても私たちはビジネスチャンスと見れば、どこであろうとスッと現れ、契約に取りかかる。でも、現実には悪魔召還の魔方陣がいくつもの怪しげな文献に残っており、私たち悪魔もそういう魔方陣が描かれたところに積極的に現れている。
 簡単なことだ。そんな風に悪魔に頼ろうとする者ほどつけ込める、カモだからだ。
 だから、私たちはこの世に産み出される魔方陣をよくよく観察している。その魔方陣が緻密であればあるほど、切羽詰まったターゲットである可能性が高いからだ。とはいえ、この世と同じでイージーミッション程、悪魔の間で取り合いとなる。そのため、魔方陣が多少適当であっても、ターゲットが御しやすいと見れば、悪魔は目の前に現れるのだ。
 そんな中、私は少しばかりオリジナリティー溢れる魔方陣を描く一人の男を見つけた。それが高峰陽太だった。魔方陣をぱっと見た感じではぎりぎり及第点。ただ、その男は「金が必要だ」とか「ちんけな額じゃダメだ」とか「バイト程度じゃ彼女は振り向かない」と呟いていた。悪魔でも心の中まで読み取れるわけではない。読み取れたら騙し放題である。そんなわけで、状況だけでそいつがカモかを判定する必要があった。
 悩みは恋と金。頼る先はオカルトじみた錬金術。
 コイツはカモだ、と私は思った。少なくともあのときはそう思った。恋に溺れて、金を貢ぐ。よくあるパターンだ。「頼む、錬金術!」とか言って、呪文唱えていたのだから、金がどうしても必要な御しやすい相手だと誰でも思うだろう。とにかく、私はコイツを契約の対象にすると決めてしまったのだ。

 私は軽く念じた。存在が魔界から消えた。
 奴の奇妙な魔方陣の中心に小さな空間の渦が発生する。電撃をほとばしらせながら、自分の体の一部の構築が始まる。構築された箇所しか動かせない金縛りのような気分にはもう慣れた。とはいえ、構築終了までそんな時間が掛かるわけではない。
 そして、奴と対峙した。
 私と初めて出会う人、と言っても悪魔と二度会う人など滅多にいないのだが、は皆驚く。心の中ではどこか信用しきれていなかったオカルトが起こるのだから。本当に召還できた、きっと、そういう思いで一杯になるのだろう。
 奴も床に手をついて、見上げる姿勢を取っていたまま、驚いた顔をしていた。
 見下すような形で、私は口を開こうとした。いや、厳密には開けなかった。私より先に奴が言葉を紡いだ。
「これが……金か」
 「いや、違うから。どう見ても生き物だから」というツッコミを咄嗟に入れることができないほど、謎の言葉が発せられた。先に何か言われるときは「君は何者?」と聞かれるものだ。何、この断定。どうして、ゴールド確定?なんて思って、私の脳内がどう次の一手を打とうか考えている間に、状況は次へと進む。
「想像とちょっと違うが、金ができた!」
 そう言うなり、奴は私の腹の辺りに飛びついてきた。ひゃぅん、なんて言葉は出ていない。出ていたとしても、出ていない。絶対だ。そもそも、「ちょっと」じゃ済まないことに気づけ、なんて思いは通じない。奴は私を抱きしめたまま、「服着て、人型で、金色じゃないけど、これは金に違いない! 俺天才!」なんて、叫びやがる。アホか。
 ようやく一部を理解した私は、この男を引き剥がし、壁の方に突き飛ばした。
「私は金じゃない! 悪魔だ!」
 突き飛ばされた奴は、尻餅をついたようで、当たったところをさすりながら、睨み返してきた。
「俺は錬『金』術を使った。出るなら悪魔じゃなくて、金だ。だから、お前は金だ」
 コイツのロジックによると結果の失敗は存在せず、成功が結果を導くようだ。どこぞの全体主義国家でもそこまで酷くないはずだ。こういう奴は軽くあしらうに限る。
「さてはお前、金を見たことないのか」
「いいや、あるね」
「ほう、それはどんな形だ」
「今、目の前にある!」
「私は悪魔で金ではないと言っている!」
「じゃあ、お前、本物見せれるのかよ」
 今から考えれば、このときの感情はケルベロスにでも食わせて、少し冷静になれば良かった。
 あろうことか、私は胸元の小さなポケットから、手に握れるほどの金の塊を取り出していた。精巧な呪術が彫り込まれた悪魔が悪魔として契約するための担保、悪魔による契約の執行を補助するための魔力の源、そんな金の欠片。悪魔のアイデンティティーと言っても良い。それを奴に見せつけたのだ。
「こういった輝きをするのが金だ」
「なん……だと」
 奴はシゲシゲとそれを眺めていた。次の瞬間、それは自然に取られ、奴の手元に移動していた。
「これが金か。なるほど、これが金なのか」
 奴は掴んだ金を顔に寄せる。わざとらしく角度を変え、色々な向きから眺めるだけ眺めた。そして、そのままズボンの後ろポケットにそれをしまった。その様子を見て、私は呆れ返った。
「おい、それは私のだ。返せ」
「いや、これは俺のだ」
 盗人猛々しいにも程がある。私はムッと膨れた。
「金を見ればわかる。私の名が彫られているはずだ」
「そうじゃない。俺は錬金術で金を産み出した。それで金を手に入れた。箱のお前は不要だ」
「は、箱だと」
「だから、お前はもう帰って良いぞ」
 無茶苦茶な論理である。人で言えば、頭に血が上る状態なんだろう。
 その金は魔力を使うための代償の源泉ではあるが、体に残っている魔力程度あれば、コイツをシバくことはたやすい。右手のステッキに力を入れた。赤く暴力的な魔力が光る。だが、その様子を見た奴の行動は早かった。
「させるか!」
 私の頬を容赦なく殴り、ステッキは奪い取られた。直後、取られたステッキでパカパカ頭を叩かれた。その衝撃でステッキに残る魔力が働いていたら、洒落じゃ済まなかった。
「本当にすいませんでした。どうかその金とステッキを返してください」
 そうして、床に正座させられる悪魔が誕生した。上目遣いで奴の表情が見えた。これをどのタイミングから計画していたのだろう、そう思う他無い表情だった。

   * * *

 それから、長い話を聞かされ、私は泳いでいた。
 服はいつもの黒い服だが、水をはじき、泳いでいた。いつの間にか流されていた。濁流に呑み込まれ、口に鼻に耳に水が流れ込む。目が無理に開かれ、水中であることに気づく。目が覚めても、やはり水中。
 目が覚めても? 急いで顔を持ち上げる。
「現実への再召還に成功」と男というか奴の声がした。眼下には水をはった洗面器。蹴りのクリーンヒットで目を覚まさない私の顔を突っ込んだようだった。
「死ぬわ!」
 そんな私の言葉に「悪魔にも死の概念があるのか……」という反応を示すも、ほとほと興味がなさなそうだ。お前にモラルは無いのか、というツッコミは奴に対してなら、悪魔であっても許可が出るだろう。
「さて、お前に聞くことがある」
「ん、何だ」
「と言っても、お前って呼び続けるのもかわいそうだな。名前だな」
 現れてから、名乗りの機会を失っていた私にチャンスが巡ってきた。
「私の名前はっ――」
「大島! 大島がいい! 大島にしよう!」
「えっ」
「だって、俺が主人で、お前は使い魔みたいなもんだろ。命名ぐらいいいだろ」
「おい、ふざけんな」
 殴られてから痛みがひいたわけではないが、頭が痛くなりそうだ。
「まぁ、そうだな」
 少しは理解してくれたようだ。
「今のは姓だな。名前じゃないな」
 理解とか遠い星の言葉のようだ。
「よし、じゃあ、ベンジャミンだ! お前は今日から大島ベンジャミンだ!」
「ふざけんな!」
「なんだ、大島ベンジャミン? 言っておくが、俺は今からお前がなんと名乗ろうと、俺が決めた立派な名前で呼ぶし、それ以外の呼び名はお前のことだとはみなさないぞ」
 命名神でも味方にいれば良いが、生憎、手駒は特に無し。ここで戦うことも無意味。
「……わかった……大島ベンジャミンでいい」
「よし、よろしくな。大島ベンジャミン。ベンジャミンか。ぷ」
 何が立派な名前だ。死ね。

「じゃあ、ベンジャミン。本題だ」
「……はい」
 人間が結婚したときの違和感が理解できた。それでも、名前は変わらないと思うが。
「お前は悪魔なんだな」
「はい」
「ふーん」
「何がおかしい」
「いや、なんか角とか、尻尾とか、あと翼か。そんなんが生えていると思っていたけど、なんかずいぶん想像と違うもの来たなって」
 どうせ、お前の想像はそれが黒タイツを着ているイメージだろう。それは悪魔じゃなくて、バイ菌の擬人化だ。
「そんな見た目で、抜け目ない契約が結べるはずがないだろう。黒でキめた良い身なりがスタンダードだ。人の社会に溶け込み信頼させる、そういう格好じゃないとダメなんだ」
 舐めるような視線で見られる。キショい。
「それが良い身なりか?」
「うむ」
 私は胸を張った。どんな胸が張られたかは奴にはわかるだろう。
「カワイイ系っていうかゴス系にしか見えないんだけど。なんつーのか、すげーチャらいんだけど、ナメてんの?」
「これでも『美貌のホープ』って言われていたんだ」
 私は過去の実績と共に、今の格好を説明する。
「お前、それ言っていて悲しくない?」
「確かに美貌とか自分で言うのは少し恥ずかしい」
「いや、ホープの方もだろ。現状考えたら、ダメすぎじゃね?」
 一瞬にして、今に至ったこの状況までの過程が脳を満たす。なんか、本当にすごく悲しくなってきた。でも、奴の表情に慰めとか感じない。そもそも、奴の辞書に「いたわる」とか無いだろう。一人で頑張って立ち直る。

「で、悪魔は契約すれば、なんでも願い事を叶えてくれるんだっけ」
 ちょっとまだ立ち直りきれていないけど、返事はする。
「はい」
「じゃあ、金も手に入ったし、とっとと帰れ」
 いきなりこうだ。でも、金とステッキ無いと帰れない。それを盗られてスゴスゴ帰るなんてありえない。ついでに体内に残った魔力ぐらいだと、ゲート的なものが開かない。少なくとも後者は事実であるので、その言い訳で食い下がろうと考えた。けれど、それを説明する前に奴が言葉を続けた。
「と言いたいところだが、困ったことがある」
「な、なんでございましょうか?」
 きっと、すがるような表情になっていたはずだ。
「金の分量が少ない」
「じゃあ、もっとたくさん金を出してみせます!」
「対価とか俺、払うつもり無いよ」
「無しというか、その金の塊とステッキ、返してくれたらやります!」
 悪魔としてのアイデンティティを物質にしたそれを取り戻すために、必死なのが自分でもわかる。
「よし、じゃあ、頼んだ」
 なんとか交渉は成立したかに見えた。
「で、魔力を使うのに、金の塊とステッキが必要なんです。返して貰えませんか?」
「断る」
 容赦無し。
「だって、返して逃げられたら困るし、それで俺がボコされても、バカバカしいじゃん」
「悪魔は契約は必ず守ります!」
「本当に?」
「守らないなら、誰も自分から騙されようと悪魔に手を借りたりしません!」
「そっかー」
 そう言って、奴は悩む素振りを一瞬見せた。
「じゃあ、二つ契約しよう。一つは対価無しに金を生成する契約。もう一つは、金の塊とステッキを現金で俺から買い取る契約にする。そうすれば、俺は現金という保証を手に入れて、金とステッキを返せるわけだ。それからもう一つの契約を遂行して貰う」
「なるほど……」
 信頼を金で代用する。金払ったら、片思いが成就すると思っている奴なら、すぐに出てきそうな発想だ。
 あれ? なんか背負わなくていい負債を余計に背負わされていないか? 間違いなく、負債が増えている。そこは対等な関係を築くべきだ。
「私が余計にそれは負債を背負うことになっている。再検討するべきだ」
「なるほど。じゃあ、この話は無かったことで大ベンにはお引き取り願う」
 詰んだ。あと、その名前の省略は無いと強く感じる。
「すいません、やっぱり、それでお願いします」

 そうして、二つの契約が結ばれることになった。金に縛られた悪魔ができた。


   3

「てか、なんで俺のところに来たの?」
「それは魔方陣描いたのを見つけたからで……」
「お前、目が悪いの? メガネ貸そうか?」
 奴の手には、鼻とヒゲがついているパーティーグッズなメガネ。それは度以前にレンズが入っていない。
「いらない。どうして近視扱いされなきゃならないんだ」
「老眼が正しかったか?」
 いちいち腹が立つが、ツッコミは止めておく。言いたいことも読めた。
 確かに奴の魔法陣は適当すぎた。魔方陣の周りに霊媒を置くのはありがちとはいえ、なぜ、青竜、朱雀、白虎、玄武の四神を置いたのか。中華っぽい違和感を感じないのだろうか。その言い訳としてか、奴が「西と洋の融合が必要なんだ」と呟いているのは魔界でも聞こえていた。そこは東と西だというツッコミも心の中で済ませてある。
 さらに、蝋燭の代用にクリスマスツリーの電飾を使っていたのも気づいていた。この家に仏壇があり、蝋燭を買う必要が無いにも関わらずだ。もっと言えば、四大元素のうち、三つは用意して、なぜ火だけ電気で代用できると考えたのか。
 しまいには、「生け贄はベーコンと魚肉ソーセージどっちが良いのだろう」という悩みを声に出していたのも聞こえていた。どっちも生きていないことに気づくべきだ。
 でも、魔方陣に正解なんてものない。安直に願いを叶えて欲しいと思った者のところに都合良く現れ、口八丁で血も涙もない契約を結ばせて、終わりである。そいつを騙し抜き奪い尽くすことができると見れば、悪魔は現れるのだ。
「つまり、大島ベンジャミン。お前はダメ悪魔ってことだな」
「ダメとはなんだ!」
「じゃあ、ダメじゃなかったらなんて形容すれば良いんだよ? 『美貌のホウプ(笑)』とかがいいのか?」
 カッコとわざわざ声に出すところも腹が立つ。人間同士の契約であれば、コンクリに詰められても良いレベルだ。
 なんだろ。この沸々と体に煮えたぎる邪な気持ちは。なんか、魔力の源泉が体から沸いてくるような気がする。もしかすると、こういう時のために、私たち悪魔には契約無しで殺し尽くすための手段が与えられているのかも知れない。
 もういい。
 消す。
 殺す。
 死ね。

「うるさい!!」
 バタッと扉が開くと同時に響いた声は、私の敵対的緊張を破壊した。奴の声ではない、女の子の声。開いた戸の向こうには、パジャマ姿の少女の立ち姿。
「陽兄、静かにしてよ!」
 一つ屋根の下で、そんな呼び方をする間柄。妹であるのはほぼ確定。
 チャンスだ。奴は私の格好を見て、悪魔だと思わなかった。つまり、兄の部屋に見知らぬ女がいたということで、状況としては面白い方向に転ぶ可能性がある。圧倒的に不利な状況であっても、状態がぐちゃぐちゃになれば、勝機を見いだせるチャンスがある。
「あー月子か。とっと寝ろよ。十一時だぞ」
 夜の十一時が正しいなら、私は奴の蹴りで、四時間近く昏倒状態にあったということだ。だが、その辺りの細かい疑問は後に置いておく。今はこの月子と呼ばれた少女がこの場をかき回すの待つだけである。
「って、陽兄。その女の人、誰」
「めんどくせーな。誰でもいいだろ」
「まさか、その女の人……」
 兄妹間のある種の修羅場的展開。このまま、かき回されろ。そう期待した。
「悪魔ね!」
「なぜそうなる!」
 私は声を上げざるを得なかった。
「全否定は肯定の隠蔽。詐称と搾取を血で練り上げた悪魔なら、その隠蔽こそ最大の証拠」
 何、この子。
「エクソシスト志望のこの高峰月子にそのような嘘が通用すると思ったか!」
「なんで、こんな極東のよく分からない家にエクソシストとかいるんだ!」
 最悪だ。こんなところでエクソシストと遭遇するとか想定していない。対エクソシスト用兵器とかロンドンに降り立つならともかく、極東に持って来たりするはずがない。そもそも、能力の担保となる金の小片を失っているときにエクソシストとのガチバトルとか勝ち目が無い。
 数瞬の対峙。先に折れたのは月子の方。
「武装を忘れた。取りに戻る」
 こちらを向いたまま引き下がり、扉の向こうに消えた。私はその隙を逃さない。エクソシストをに打ち勝つなど現状不可能。よって、オプションはこの場からの逃走しかない。
 駆け出す。派手に転ぶ。「痛っー」と足に変な感じがする。後ろを振り向くと陽太に足首を捕まれていた。私は奴を睨み付けた。
「貴様、私を殺すつもりか」
「殺すつもりはない。だが、契約が終わっていないのに、逃がすつもりはもっとない」
 この野郎。己の利益のことしか考えていない。悪魔が死んで地獄に堕ちるとかあるとすれば、奴は地獄の釜の下の火がくべられているところに放り込まれてもおかしくない。いや、私が放り込む。
 「クソ、離せ」、「エクソシストの攻撃を受けたら、私は死ぬんだ」、「貴様の方が悪魔だ」、「スカートの中覗くな」と散々罵り、掴んだ手をパシパシ叩くも奴は離そうとしなかった。
 そうこうしている間に月子と名乗った少女が戻ってきた。
 黒いローブをまとい、右手に十字の形をした杖を持っていた。
 やばい。
 ヤバい。
 ヤヴァイ。
 本能が警告を告げる。
「私はエクソシスト志望、高峰月子。まさか陽兄をたぶらかしに悪魔が来るとは……」
「クッ」
 陽太が手を離す気配は無い。だが、エクソシストの攻撃は周囲の人間にも影響はある。特に見習いであれば、私にのみピンポイントは難しいはず。私が攻撃を受けることにはなるが、陽太も多少は巻き添えを食うだろう。つまり、初撃に耐えれば、陽太の手はゆるむはず。
 そうなれば、この状況を抜け出し、月子の十字架をはたき落とし、その場から逃げる。
 できなければ、消える。
 もはや、そのマグレを狙うしか無かった。だから、待つ。その瞬間を待つ。
 彼女はゆっくりとその十字杖を持ち上げる。
 杖が光る。

 電飾で。
 それはどう見ても、プラスチック製の変身キットか何かだ。
「なんだコイツ」
 脱力してしまい、自然に口から呆れ声が漏れた。
「私はエクソシスト志望の高峰月子だ!」
 今、気がついた。コイツ、見習いですらない。勝ち負け以前の問題だった。
「貴様、陽兄から離れろ!」
 離れてくれないのは、お前が陽兄と呼ぶ存在の方だ。説明するのも面倒なので無視。
 シャー、シャーとその小娘の声。
 どう見ても、エクソシストが必要なのはあんただ。ブリッジしたら、私が本物に連絡を入れても問題が無いはずだ。もちろん、本物が私を見逃してくれるかは疑問なので、やるつもりはないが。
「私の覇気が効かないとは、手強いな……」
 覇気とは何か。さっきのシャー、シャーって声がそれか。それは猫と互角な行為だ。一体これはにゃんにゃんだ。
 小さくため息をついた。陽太は右手を離さないし、さらに月子という妹を真剣に見つめている。兄妹愛でもそれはキモい。
 呆れていた私を尻目に、少女はキリッとした、といってもこの部屋に現れたときから、ずっとそんなマジメな顔付きで怖いのだけど、そんな表情で宣告した。
「仕方ない。私の超魔法で吹き飛ばしてやる」
 ここで、もう少し間が空いたら、それまでをブラフと見て、私は本格的な臨戦態勢に入っていただろう。そのくらいエクソシストは恐ろしいものだ。だが、この小娘はあっさり期待というか、色々なものを裏切ってくれた。
「食らえ、リバース・スーパー・パーフェクト・トワイライト・トライダガー・ガーゴイル・ルナティック・クライシス・スペシャル・ルシファー・アバカム……ム、ムーン、トラベル・ルミナス・ストライク・クリアー・悪霊退散、本能解放・ウルトラ・ライトニング・グレイプニル……ル、ル、ル、ルルが効く・クルセイド・ドリーム・ムハンマド・ドライブ・ブリッツ・ツインブースト・トルーパー・ハイパー・パトリック・クルセイド!」
 人間って楽しいそうでいいなって思った。
「何、効かない……だと」
 しりとりで悪魔が死ぬなら、全国の小学生低学年の日々の遊びで私たちは悶絶している。
 だが、その直後だった。
「ぐはァッー!」
 それは陽太の叫びだった。手こそ離さないものの、奴は苦しんでいた。
「何ッ!」
 なぜあんなデタラメが通用する、その思いが自然に口に出ていた。
「やはり、あなたが諸悪の根源ね。大方、この部屋に【フィールド】でも展開したんでしょうけど」
「そんなバカな……」
 当然、展開してすらいないナントカが打ち破られたことではなく、奴が苦しんでいる理由が謎で出た言葉だ。だが、事実として陽太の左手は虚空を描き、苦しんでいる。
「あが、ががが、うぐああぁぁぁァァァァ」
 黒衣のエクソシストと黒衣の悪魔の対峙が続く。というよりも、私はまたしても現状の理解に苦しみ動きが取れなくて、膠着状態を作ってしまっている。先に折れたのはまたしても月子の方だった。
「うぐっ、私の魔法力じゃ、兄さんを救えない……」
 魔法力以前の問題ですよ、お嬢さん、と声を掛けてあげるべきかどうか悩むほどだ。いや、悩む以前に選択肢にすら上がっているわけでもないのだけど。
 だが、私の呆れたような表情を前にしても自信の表情は崩れない。
「だけど、あなたのフィールドの狭間から、陽兄に魔力を注入したわ!」
「何っ!」
 私に干渉が無かったのはそれが原因だったのか。偽物であってもエクソシスト、そのくらいは考慮せねばならない。
「陽兄の精神力を大幅に上げてやったわ。あなたの呪いがあろうと、兄さんの魂が死ぬことは無いわ。つまり、あなたは私に殺されるまで、兄さんによって永久に束縛されるのよ!」
 コホー、コホーと奴の息。足を離して貰える余地はない。
「そんなことが可能なのか?」
「これは魔力の調整が必要でね。力を込めすぎたら壊れてしまう。私にしかできない高等技術ってところよ」
 彼女は杖を下ろして、言った。
「本格対決は次回にお預けよ。じゃあね、束縛された悪魔《チェーンド・デビル》」
 彼女は去っていった。謎の状況を残して。
 私は壊れかけた陽太の方を振り向いた。だけども、もう謎の呼吸はしていなかった。
「私は逃げない。できる限り早く、契約を完遂する。だから、離せ」
「期待しているぞ。ダメンジャミン」
 手を離した奴の声はいつもの声だった。さきほどをいつもと思えるほど、今の状況は理解しがたかった。エセエクソシストとはいえ、東洋の強力な呪術使いと戦わねばならない。例え、傍若無人な契約対象であっても、それが契約違反でなく人ならざるものに変化するのは、許せな、いや、なってもいい。
 冷静に考えればそうだ。別に、今回の契約は奴の一方的なものによるもの。通知するタイミングを失ってしまったが、悪魔におけるクーリング・オフの権利行使の対象にはなるはずだ。ああ、何にも問題なかった。奴を壊してやろう。そういう考えに至った。

   * * *

 その晩、床で寝るよう命じられた私は、陽太が寝息を立てたのを見計らって、部屋を抜け出した。目指すは月子の部屋。廊下に出て、左右を確認すると、すぐに彼女の部屋が見えた。扉に「つ・き・こ」と文字が踊っていた。音を立てぬように扉を開ける。
 彼女も寝ているようだった。ここでさっくり殺せば、全て解決するように思えたが、それをやるのは死神で悪魔の領分じゃない。彼女を起こさぬよう、そっと進入する。乾燥したヒキガエルに兎の足。どちらかというと彼女の部屋の方が魔術系っぽい。恐らく、陽太は彼女の道具で魔方陣を描いたのだろう。
 すぐに私は目的の道具を手に入れた。
 陽太の部屋に戻り、布団に入っている奴を睨む。私の右手には中央が金メッキと透明な宝石風のプラスチックで構成された例の十字の杖。エクソシストもどきの呪術師が使うとはいえ、所詮はエセの道具である。私が持ってもダメージはないはずだ。
 彼女は言っていた。
『これは魔力の調整が必要でね。力を込めすぎたら壊れてしまう』
 悪魔たる者に備わっている正確な記憶力で思い出す。私の体内に残された最後の魔力を増幅すれば、そのくらいは軽くオーバーするだろう。つまり、高峰陽太に待っているのは精神の崩壊だけだ。
 十字の杖を正面に持ってくる。自分の残された魔力を込める。先ほどの三倍以上の輝きを杖は見せる。まるで日の出のようだ。まぶしさのせいか、陽太がぴくりと動いた。目を覚ましたかもしれない。人生最後の目覚めだ。
 彼女の呪文を正確な記憶力でなぞる。
「食らえ!」
 私の出せるできる限り低い声。
 その一言で、奴はこちらを向いた。さっきも呪文の最後までダメージは無かった。つまり、邪魔されず、唱え切れれば私の勝ちだ。
「リバース・スーパー・パーフェクト・トワイライト・トライダガー・ガーゴイル・ルナティック・クライシス・スペシャル・ルシファー・アバカム・ムーントラベル・ルミナス・ストライク・クリアー・悪霊退散本能解放・ウルトラ・ライトニング・グレイプニル・ルルが効く・クルセイド・ドリーム・ムハンマド・ドライブ・ブリッツ・ツインブースト・トルーパー・ハイパー・パトリック・クルセイド!」
 痛々しい魔法だ。全部記憶しているのも忌まわしい。
 奴と目が合う。さぁ、悶えろ、苦しめ。
「お前、何やってんだ?」
「効かない、だと……」
「はぁ?」
「もう一度だ。食らえ、リバース・スーパー・パーフェクト……」
「お前、否定しているけど、バカだろ。常識で考えて、そんなしりとり効くはず無いだろ」
「いや、でも、さっきさ」
 どうして、私はこんなにもしどろもどもになっているのだろう。
「ベンジャミン。辛くても、現実逃避はいけないぞ」
「でも、さっきの現実は……」
「お前さ、あそこまでイタくても妹なんだ。それに兄としては答えるしかないだろ」
「えー、えー、じゃあ、あれは」
「演技に決まってんだろ。マジであんなことが起こったら、小学生全員エクソシストだろ」
「え、えええ」
「じゃあ、もう寝るぞ。イタベン」
 痔みたいな省略がなされていた。

 私は悲しかった。奴を消し去れなかったことではない。実は少しだけ魔力が残っていたのに、こんな無駄なことに使って、空にしたことである。目の前が真っ暗になった。

     

   4

 目が覚めた。目の下が乾いているのに気づいて、複雑な気持ちになる。魔力を感じなくて、昨日の出来事を思い出す。冷静になれなかった自分にやたら腹が立つ。
 だが、それ以上に今動けない事態に腹が立つ。首もろくに動かせないこの状況。窓ガラスの反射に目を凝らし、毛布に巻かれてガムテープで固定されているのを確認。牢獄の囚人なら、両手、両足の自由を金属の錠で奪われると聞くが、拘束具から脱出できる可能性がこちらの方がまだありそうとは言え、五体全てをガムテープで固定する現状とどちらがマシであろうか。少なくともどちらも一般人は受けることがない待遇であろう。
 脱出のために必死にもがいているところ、部屋の主が戻ってきた。
「おはよう、大島ベン、ジャミン君!」
 勝手な命名は諦めたとはいえ、不自然な間に腹が立つ。が、そんな相手をしていたら、この状況はいつまでたっても解決しない。
「なんだ、この状況! ほどけ! バカ!」
「夜中、妹の部屋に行っただろ。拘束して当然だ」
「そんなに悪いことか!」
「人が寝てから、コソコソと……。俺のものになった金を盗る可能性があるだろう」
「あ……」
 奴をシバくことを第一義に考えていたせいで、直接奪い返すというもっとも簡単な手法を行うのを忘れていた。
「俺も甘いが、お前もバカだろ」
 何も言い返すことができない。
「というわけでだ。その拘束を外す前に、契約の追加事項として、強奪禁止を条項に加えたいと思う。いいか?」
 首を縦に振るしかない。契約でここまで酷いことになった経験はない。正直、全く挽回できる気がしない。
「じゃあ、サインしろ」
 嫌々であっても、せざるを得ない。が、簀巻き状態の現状でペンとか持てるはずがない。
「すまない。署名するために解いてくれ」
 私は本心からそう言った。だが、その思いは届くことはなかった。奴は私の口にボールペンを押し込んだ。
「口でも意外と上手く書けるもんだな……」
 興味なさそうな奴の独り言が聞こえた。

 署名すると簀巻きが解体された。毛布で巻いてくれたのは奴なりの優しさなのかもしれない、と少し思った自分が悲しい。
「俺は今から補習に行かないといけない」
「相田すみれさんを見にか?」
「よくわかったな、褒めて使わそう」
 それなら、褒美として金とステッキをくれ。そうなると嫌だから、褒美とか言わないのだろうけど。
「で、俺は出かけるが、お前はどうするんだ」
「私は……」
 お腹から情けない音が出た。
「悪魔にも空腹の概念があるのか……」
 前と同じ悲しい反応。さすがにこれは私も耐えられない。
「すいません、何か食べさせてください」
 土下座して頼み込む。幽体離脱できたら、どれだけ見苦しいかよく観察できるだろう。
「と言っても、俺も朝食終わったしな」
 思案顔の奴を見上げる。きっと、私は捨てられた子犬のような目をしていたに違いない。奴の顔にどうでもいい、勝手に野垂れ死ねと書いているように見えたのだから間違いない。エメラルドの都に向かうハートを持たないブリキの木こりを見習うべきだ。
 だが、想定外に奴の表情が変わった。
 服についていたパンくずが払われた。パラパラと床に落ちるパンくず。
「これを掃除しろと? 掃除したら飯だ、そういう意味か?」
 どこぞの意地悪な義母と義姉の物語みたいだ。綺麗に掃除したら、カボチャの馬車が来るとか、そういう話だ。私は主人公と真逆に位置しそうな悪魔だけど。
「違う」
 奴の声が冷たく通る。
「それが」
 床に落ちたパンくずを指さす。
「お前の飯だ」

「私をメダカか金魚と勘違いしているだろ!」
 キレざるを得なかった。
「どっちかといえば、オタマジャクシだろ。黒いしな」
 奴のからかいを尻目に、きゅー、っとまたお腹が鳴る。魔力も体力も空っぽであることを告げた。まじめにパンくずを拾って食べようかと悩んだ瞬間だった。
「陽兄! 何やっているの!」
 昨日の聞き覚えのある声が響いた。白いヒラヒラした、外に出たら悪い意味で目立ちそうな格好をした、奴のイタい妹が部屋に入ってきた。また、振り回されるのか。そう思うとげっそりする。一食程度では頬は痩けないと思うが、一度の出会いで精神がやられれば、痩せることは確信する。これがエクソシストダイエット、という名の朝飯抜きに違いない。
「悪魔に食事を与えたら、陽兄の精神まで一緒に食われちゃうわ!」
「わかった。俺はやらん」
「それ、片付けて」
 彼女の命令により、奴がパンくずの清掃を開始。決して、パンくずが恨めしいといった目では見ていない。あくまで、彼女の命令にはきちんと従う奴を恨めしく見ていたに過ぎない。床を見ていたのは、奴と目が合うと嫌だからにすぎない。私の食事が片付けられる、なんて思ってもいない。
 陽太が掃除を始めたのを確認して、彼女は腕組みして言った。
「餌付けは、エクソシスト志望に任せなさい!」
 悟ったね。エクソシストは敵だけど、エクソシスト志望は女神だと気づいたよ。ほんと、月子様って崇めたい。空腹ならば、何信仰しても許される気がする。
 けど、どうせ、パン粉でも食わすんだろ。だから、期待はしていない。と思っていたら、目の前においしそうなシナモントーストが登場。わかってますよ。そういう釣りですよね。ものだけ見せて、ボッシュートですね、わかってますよ。
「これをお食べ」
「本当にいいの?」
「いいですよ」
 同性愛とか無しだと思っていたけど、今なら言えるよ。レズはありですよ。格調高く言えば、百合ですよ! 約18リットルですよ! チラと陽太の表情が見えて、何か悔しそうなのを確認。やっぱり、女の子って女の子に対しても優しいんだよと、確信。私はシナモントーストを恭しく頂いて、ほおばった。

 しょっぱい。これが涙の味……なんてことは無い。めちゃ、しょっぱい。顔をしかめる。
「ははは、かかったな! それはシナモントーストに見えるがかかっているのはシナモンと塩だ! 砂糖ではない! 悪霊など塩で清められてしまえ!」
 塩が効くのは霊だけです。実は悪魔には塩は効きません。言わないけど。それ以上に彼女呼ぶに陽兄という存在が、話を合わせろという視線で私をキツく睨み付ける。
「グッ! だが、この程度の力、私の力ならば押し切って見せよう!」
 これで満足か、陽太!なんて気分で奴を見返したが、奴は何も言わなかった。
「何っ! させるか」
 彼女のターン。トーストにさらに塩を盛る。あの、これを食べろと言うのですか? 悪魔も塩分の過剰摂取はダメだと思うよ。救いを求める視線で陽太にアイコンタクト通信。返信到着。
『ガ・ン・バ・レ・ヨ』
 うん、何語なんだろうな。
 食いかけのトーストには白いピラミッドが完成していた。彼女を見た。微笑ましい笑顔だ。陽太はこれを壊したくないんだろうな。私はにっこり笑い返した。
「悪魔の知能がエクソシストより劣るはずが無かろう!」
「何ぃ!」
 私はトーストをひっくり返す。塩は相当ついたが、ばさりと落ちる。一気に口に押し込む。南太平洋な味が舌の上に広がる。
「クッ、さすが悪魔。低級悪霊とは違うな!」
 低級悪霊って、きっと壁のシミだろうな。消すには重曹が効果的だろう。でも、そのこと指摘したら、重曹食べホーダイプラン結ばされそうだからやめといた。
 結局、彼女は一通り捨て台詞を残して去っていった。私は後ろ姿にごちそうさまを唱えた。とてもしょっぱい食事が終わった。食事ができたという幸福感で満たされそうになったが、その弱気な考えは頭からすぐに払う。
 残された陽太が何か差し出した。ここで水でもくれたら、私は奴の抱える全ての問題を自分の命を犠牲にしても解決していたに違いない。
 出てきたのは水じゃなかった。ちりとりとほうきの登場である。
「掃除しろ」
 床に散らばった白い結晶。「スタッフ」がおいしく頂きました。

 手短に掃除を終えると、奴が聞いてきた。
「俺は今から補習に行かないといけない」
「それはさっきも聞いた」
「お前はどうする。家にいるのであれば、念のため、床に固定することになるがな」
 床に固定はまっぴらごめんである。
「貴様のターゲットたる相田すみれを見に行くというのでどうだろう」
「そうか。だが、お前は生徒じゃないだろう」
「私は悪魔だ。舐めるなよ?」
 奴は鼻で笑ったが、会って初めて悪魔らしい態度を取ることができて私は満足していた。

   * * *

 奴と通学路を歩きながら、一つの疑問をぶつけた。
「しかし、貴様、オカルトなど到底信じている風でもないのに、なぜ錬金術などやった」
「ふん、ダメ悪魔はそんなこともわからないのか」
 細かいいじりはもう相手にしない。
「『金が必要だ』そう言いながら、オカルトに頼る。そうすれば、月子がオカルトの悪影響から俺を守るためにお金を持ってきてくれる。それだけのことだ」
「お前、最悪だ!」
 妹の前では話を合わせる優しい兄かと思えば、そういう風に扱った方がメリットが大きいと思っているド屑であった。その思考を理解したから、現状がわかってくる。
「だから、お前はお金を渡せば、相田すみれとつきあえると思っていたのか……」
「それはもちろんだが、『だから』とは何だ」
 底抜けの阿呆である。頭に海綿体しか詰まっていないことは前日中に理解していたはずなので、当然と言えば当然の返事である。もはや呆れた声しか出ない。
「それ本気で言っているのか? 愛とか幸せとか金では買えないぞ」
 魔力で記憶含めてねじ曲げれば可能だが、やれと言われかねないので黙っておく。奴は逆に呆れた表情を見せてきた。
「お前、それでも悪魔か? 俺は幸せを買いたいんじゃないんだ。買い占めたいんだ!」
 力強くそう言いつつ、スマートフォンを取り出す。
「俺、今良いこと言った。メモっておこう」
 うまいこと言ったかもしれないが、良いことは何も言ってねーよ、と心の中でツッコむ。奴はスマホに一字一句正しく入力した上で言葉を続けた。
「冷静に考えろ。幸せには色々なものがあるんだ。喜びも幸せだ。悲しみだって、時が過ぎれば幸せだ。楽しみも怒りも出会ってからの全ての感情が幸せなんだ。だから、幸せは買うんじゃない。買い占めるんだ。な、ちんけな額じゃ足りないだろ?」
 すごく話がすり替えられている気がする。
「そこにいくら払うつもりだ?」
 いくら払っても無駄であると気づいてほしいと思って聞いた。ダメ元で。
「とりあえず、百万持って行くとしよう。ダメなら、一千万持って行こう。それでもダメなら、一億持って行こう。金があれば、人は首を縦に振るんだ。それだけ、金は重いんだ」
 人の首に現金をぶら下げて、胸鎖乳突筋のトレーニングでもさせたいのだろうか。
「お前、金さえ払えば生き返るとか思っているだろ。ゲームと現実を勘違いしているような輩だな」
 奴は口をとがらせる。
「金を払ってどうにかなるのは戦闘不能からの回復だ。死じゃない!」
「知らねーよ」
「わかっている。人の命は買えないんだ」
「ならいいがな」
「だが、人生は買える。これも良い言葉だな、メモっておこう」
 さっとスマホを取り出す様子が見えた。「くそ、私が人間ならこんなやつ殴り飛ばすのに」と小声で言ったが、聞かれていた。
「安心しろ。俺、お前は好みじゃないからな」
 奴は自慢気な顔で右親指を突き立てていた。その指をあり得ない方向にねじりきってもいいですか? いや、今からねじりきる。そう決断した直後であった。

「陽太! おはよ!」
 快活そうな女の子の声が後ろからした。陽太はちょっと振り向く。
「おはよう、タンポポ」
 ふーん、タンポポちゃんか。私も振り向いた。少しウェーブした黒髪を揺らして、駆けてくる少女の姿が見えた。同級生かな、そんなことを思った、が。
「向日葵よ! なんで、適当な黄色い花にするのよ!」
 お前、好きな子以外はどうでもいいんだな。
「ごめんごめん。なんか、頭の中でぐちゃぐちゃになるんだよ。今度から気をつけるよ、ナノハナ」
 むぅーと彼女が膨れる。その隙を見計らい奴が小声で「大島ベンジャミンで適当に紹介して良いな?」と聞いてきた。私はしっかりと言ってやった。
「私は悪魔だ。貴様以外に見えなくすることぐらい、たやすいに決まっているだろう」
 彼女がこちらを向いて固まっていた。大方、何も無いところに一人で呟く陽太が不安なんだろう。「向日葵さんと話があるだろ?」と気の効いた言葉をかけて、奴を彼女の方に押しやった。私は奴と向日葵という少女の話を、聞きながら着いて行くことにした。
 少女は少し戸惑い気味に話し始めた。
「……ねぇ、陽太」
「なんだ?」
「陽太、昨日、すみれに告ったでしょ?」
「なぜ知っているんだ!」
「すぐに耳に入ってくるわよ。しかも、かなり無理矢理って」
 奴は嘆願して「金銭授与による交際許可」を貰ったと言っていたが、想像通り、どちらかと言えば脅迫に近かったようだ。
「そんなことはない。愛ゆえの行動だ」
 顔面にゴキブリが飛んできてもそれは愛とは言わないだろう。殺虫剤を吹きかけたが使用期限が過ぎていたため生き残られ、怯えられてOKが貰えたようなもんだ。粘り勝ちって面倒な言葉はこのためにあるんだな、と納得する。彼女の小さなため息を聞いてから、陽太は言葉を続けた。
「今回は秘策がある。必ず成就してみせる」
 無駄な笑顔。秘策とはきっと私のことだろう。
「……私からもすみれにしっかり言っておくわ」
「おう、俺の愛にイエス・アイ・キャン!と答えられるように練習させておいてくれ」
 彼女は大きなため息。
「あんた、そういうのには一生懸命よね」
「もちろん、人生は短いからな」
「じゃあ、なんで、いつも一生懸命なところが好きって言ってる私の告白は断るのよ!」
「えー!!!」
 奴を好いている女の子がいたことに私は驚きの声を上げる。奴に睨み付けられ黙る。というか、透明化しているんだから、黙る必要なかったじゃん。睨まれ損した。
「簡単なことだ。俺は太陽で、お前はひまわりだ。ずっと、お前は俺の方を見つめて、俺はなんとなく照らして、二人とも大満足、だろう?」
「茶化さないでよ!」
「わかった、わかった。まじめに言えば、お前の告白はあんまり一生懸命じゃない。以上」
「陽太より一生懸命だよ! 誕生日にあわせて、ケーキ作ったりしているじゃない!」
「まぁ、そのくらいはあるな」
「バレンタインに本気のチョコレート作って、花言葉まで考えたデコレーションも送ったじゃない」
「そんなこともあったな」
「なんで、そこまでやって、気づかないのよ」
 涙目になりそうな向日葵さんは陽太をまっすぐ見つめていた。陽太は目をそらさない。
「残念ながら、お前にあんまり魅力がない」
 殴ろうかと思ったが、必死な向日葵さんを見てグッと堪える。
「む、胸だって小さくないもん。か、顔も自分で言うのも恥ずかしいけど、悪くないもん」
「確かにそうかもしれない」
 陽太はすごくまじめな、心がそうだとは到底思えないので、顔つきだけがそうなった。
「中東の超巨大ビルを造った社長の言葉だ。『人が覚えているのはナンバーワンだけ。二番や三番は誰も覚えていない』。ナズナ、お前は魅力は何位だ?」
「う、うぐぅ……」
 ナズナが白い花であることにツッコミすら入れれない、かわいそうな状態になっている。表情も半泣きっぽいものになっている。
「で、でも、すみれさんは美人ランキングナンバーワンじゃなかったもん。確かスリーぐらいだもん」
「俺は高峰陽太だ。人がナンバーワンしか覚えていなくても、俺はナンバーワン・トゥー・スリーぐらいまでは覚えている」
 そろそろ、私も表情に困ってくる。困っているところで、
「今のは中々良かったかもしれない。メモぐらいはしておくか」
 言いながら、奴はスマホを取り出す。向日葵さんの表情が、第七艦隊全てを失った大統領の妻みたいな感じになっていた。大統領じゃなくてその妻。そのくらい、説明しにくい顔だった。
 その直後だった。陽太は自然に向日葵の手をひいていた。キャッと向日葵は声を上げる。彼と彼女の場所がちょうど入れ替わった。直後、横を通り過ぎた車が、泥をピャッとはねた。
 陽太の白いワイシャツに茶色のシミが付いた。
「チェッ、汚れたか」
 そう言いながら、陽太は指で汚れを弾こうとした。が、そう落ちるものではなかった。
 向日葵は通学カバンから取り出したウェットティッシュを、その不器用な少年に差し出しながら、泣き笑いのような顔になっていた。
「だから、やっぱり、陽太のこと好きなんだよ……」
 小さく、でも、聞こえる声。私は陽太に聞こえるように言った。
「もう手頃なところで、そのすっごくいい子と付き合っちゃえよ」
 向日葵の方がびくっとして、チューリップというかバラというか、そんな感じに顔の色が一気に変化した。陽太に握られていた手に気づいて、手を抜いて、少し離れた。
 並んで少し歩いていた。埋まらない距離のもどかしさ。
 でも、すぐに彼女は陽太の耳に口を近づける。きっと、小声で内緒話に違いない。
 私は悪魔。
 閻魔様と違うけど、ビジネスチャンスのために耳は良い。だから、聞こえる。
 向日葵の口が小さく動く。

「後ろの黒い服の子、何?」
「妹の友達で、同類だ」
 ガーッデム! そうだよ! 陽太に奴に金もステッキも盗られていたよ! しかも、昨日の無駄魔法で魔力は完全に空になってたよ! 透明化したとき、なんか魔力っぽいオーラ感じなかったよ!
 最悪だ。
 車道に飛び出して死にたい。
「理解してあげることが大切だから」
 陽太の無駄に優しさ一杯の声が向日葵に掛けられる。いや、理解とか必要ないから。今から来るダンプに轢かれるから。エクソシスト相手じゃないけど、多分、灰になって消えるから。
 向日葵さんもこっちを見ていた。
「あ、よろしくね。自称……でいいのか、大島ベンジャミンさん?」
 いびつな笑い方だったけど、彼女のトラウマは作りたくなかったので、車道に飛び込むのは止めておいた。

   * * *

 学校に着いて、私は補講に向かった陽太と部活に向かった向日葵を見送った。私は私で私服で来てしまった生徒のフリをして、校庭で活動しているラクロス部を眺めていた。これが男だったら、変態で御用だけど、女に見えるので、一礼したら、大抵どうにかなると言ったところ。悪魔だし。
 そして、相田すみれを探した。すぐに見つかった。正確に言えば、三階から差し込む、ねっとりとした視線の先に相田すみれがいたという具合だ。
 その視線はずいぶん気の毒に感じた。私の魔力が完全であれば、覆いを作ってやるのに。
 ただ、さっきまでなら、あの男の存在を他の人の記憶含めて消してやるとか思っていたのに、向日葵を見て、思いを変えた。
 なぜか、私には三番目に美人なすみれよりも、向日葵の方が綺麗に見えた。


   5

 昼飯の前に補講は終わった。
 当然、奴と一緒に帰ることになった。途中、奴は私が見えないフリをする遊びに興じていた。確かに、補講が終わって三階から下りてきた奴に、私は今朝の失態を紛らわすべくエアラクロスしており、気付かなかった。だが、そのような遊びをされながら帰るのは非常に不本意であった。
 その後の昼飯は……色々なことがあった。午前中の事態に悶絶する羽目となったが、おかげで大変冷静になれた。まあ、飯は食えたから良しとしよう。それっぽっちでも、良しである。
 そんな昼飯後、私は奴の前で土下座していた。
「金とステッキ返してください」
「カネ」
 二音で返事が完結。悪魔であって、この世の住人でない私に手持ちの現金なんてあるわけなくて、さらにいえば、魔力も封じられている。その辺りの問題がどうにもならないわけで、と思っていると、二音の続き。
「俺の代わりにバイトに行け」
「なるほど、それで働けばいいわけか……」
 職まで斡旋してくれて、優しいな、ってことがあってたまるか。
「私は下僕や使い魔ではない!」
「それじゃ、お前は何なんだ。『美貌のホウプ(笑)』か?」
 全力で無視。
「契約書の下で対等な悪魔だ」
「そうか。じゃあ、金とステッキの契約は破棄して、金とステッキは古道具屋なり質屋にでも持って行くよ」
「あれ? なんだか働きたくなってきた」
 心境は変わっていないのに、口での応対が正反対に。どっかの星のサルと同じ二枚舌。もちろん、比喩的な意味の方なので、キツネザルじゃない。二枚舌をこういう風に使うのは希有な例だと思うけど。

 奴のバイトは地元の酒屋もといコンビニの店員である。フランチャイズとなったのか、そういう装いに変わった店舗である、らしかった。奴に連れられて、五分も歩くとそこに着いた。
 キューっと音を立てて、ゆっくり自動ドアが開く。錆びているんじゃなくて、悪魔の入店を拒絶したくて、鳴っているに違いない。もちろん、悪魔は比喩的な意味で私のことではない。多分。
「店長!」
 客もいないし、カウンターにも誰もいない暇そうなコンビニに響く声。火のついていないタバコ咥えたおっさんが、肩を自分でトントンと叩きながら、カウンター奥の小部屋からゆっくりと出てきた。メジャーっぽいコンビニチェーンではないからか、店長もルーズな感じだった。
「遅ぇぞ、陽太」
「まぁ、いつものことじゃないっすか」
「そりゃそうだ。いつもだよな、っていつも遅刻するんじゃねーよ」
「暇だし、問題ないじゃないっすか」
「そういう問題じゃない。大体、お前は高校も遅刻魔だろ。俺の耳にまで入っているぞ」
 学校も普段遅刻しているのかよ。じっとりした視線で睨み付けるも奴にはノーダメージ。さすがに強い。
「大体、お前は中学の修学旅行も、小学校の遠足も遅刻って、近所で有名なんだ。そろそろ、そういう生活態度を改めるなりな……」
「改めたら、自分の有名な特徴が無くなるじゃないっすか」
「直せ」
「努力の無駄遣いですが、頑張ってみます」
「やる前から、無駄とか言うな……で、今からバイトのはずだが」
「今日は俺の代わりにコイツが働きます」
 そう言うと「大島ベンジャミンです、よろしく」と奴の……恐らく私を人形に見立てた腹話術で自己紹介が行われる。口が動いていたので、やる気のない声真似にしか見えなかった。そっちが正しいのかも知れないが。
 店長が顔をしかめる。素人の代用を立てたせいか、ベンジャミンという怪しい名前を聞いたせいか、もしくは両方か、理由は想像しないけど。その店長は何か言おうとしたが、奴はその上から声を重ねて言い放った。
「コイツ、よく働くんで、普段の俺の元取るぐらいしっかり働かせちゃっていいっすから!」
「おい、てめ……あ、いらっしゃいませー」
 店長は笑顔でお辞儀。
 タイミングが良いか悪いかはこの状況に置かれた人にしかわからない、そんなお客が入店してきた。自動扉はキューっといった音は立てずに開いた。普通のお客ですね。
「それじゃ、店長。そういうことでよろしく」
「ちょ、お前、待ちやがれ」
「店長、安心してください! そいつは俺の妹の同類ですから!」
 その言葉は店長に相当効いたようだ。追いかけようとした足が止まったぐらいだ。マジックワード的な何かが含まれていたんだろう。私の名誉のためにも具体的にどれかは追求しないけど。
 そんな捨て台詞を残した奴は猛ダッシュで出口の方に駆けていった。普通なら自動扉の開くまでのタイムラグで退出は阻まれるはずである。が、軋み音も立てずにセンサーでは考えれないほどの速度で自動扉は瞬間的に開き、奴が通り過ぎた瞬間、安全基準を無視するような速度で閉まった。コンビニの意思が奴を閉め出したいと願っていたに違いない。そういう風に私は感じた。もちろん、多感な悪魔である私だからこそ気づいたことなのかもしれないが。

 客一人の会計を終えてから、私を拒絶することを諦めた店長による仕事説明が始まった。店長の頭頂部は少し薄く見えた。
「えーっと、大島ベンジャミンさんね」
「……はい」
 名前に関しては妥協することにした。
「ここで働くとき、守るべきことがあります」
「はい」
「まず、この店は何があろうと霊的にも風水的にも完璧に安定です。魔方陣を書いたり、お札を貼ったりする必要はありません。もちろん、店内のレイアウト変更を大がかりに変更する必要もありません」
「……はい」
「次に、商品は全てこの店に必要なモノです。あなたが嫌いなものがあっても、この店には必要なので、勝手に廃棄しないで下さい」
「…………はい」
「最後に、お客様はお客様です。神様でも閻魔様でも無いです。もちろん、それ以外の変なレッテルを貼らないでください。というか、どういう方であっても、買い物の邪魔をしないであげてください」
「………………はい」
「徐々に返事が遅れているのですが、不満でもありますか?」
「あの、これは守る守らない以前の当然のことじゃないでしょうか?」
「そうです、当然のことです」
「これ、守れない人なんかいるんですか?」
 店長がビクッと震える。ズラが乗っていたらずれていただろう。
「いたんですか……」
「あんたの同類だよ」
 奴の妹か! いや、何となくわかっていたけど、あいつ、妹にも仕事押しつけたのかよ。
 冷静に考えれば、確かにそうだ。店長の驚き方を考えれば、妹が代用に立てられ、散々な目にあったに違いない。私は全力で否定するしかない。
「私は全然違います!」
 店長の顔は晴れずに諦めたように呟いた。
「この手の子は比較するとそれとは属性が違います、とかみんな否定するんだ」
 悲しい運命を知っている草食動物のような目でこちらを見ていた。その言い方だと妹以外にも電波系が来たことがあるんですね。恐らく二回以上。
「君もそうだろう……?」
 何も手伝うなとか言わないところを見ると、そう言って、逆に面倒な目にあったように見える。心に決めた。悪魔だけど、今日はこの冴えないおっさんを対価無しに救います。
 私、頑張るよ。

   * * *

 ピコ。「百四十五円」
 ピコ。「百五円が二点」
 ピコ。「三百五十八円」
 ピッ。「お会計、七百十三円でございます。はい、千円からお預かりします。はい、お釣りの方、二百八十七円になります。ありがとうございました」
 レシートをピリッと切って、客の手のひらに載せ、ほぼ同時に小銭も上から重ねる。会計を終えた人の顔を確認しつつ、笑顔で小さく礼。
 そして、三十代、男性、と画面をタッチ。
 四時間ほどしか働いていないのに、なぜレジ打ちまでやっているのか。非常に不思議だが、きっと、これは半分個人経営のようなルーズなお店だろうから、そして、何よりろくなバイトがいなかったに違いない。
 確かに最初は腫れ物よりも恐怖の存在と認知されていた。だが、過去の電波系少女達と異なり、私は至極まじめに掃除に取り組み、陳列をチェックし、立ち読みのお客様をどかし、気がついたら一人で店番任せられるまで成長していた。
 信用を積み上げるのは難しいけど、信用に飢えている人なら、簡単に積み上げるのかもしれない。今度、悪魔として活動するときに、最大限生かそう、なんて思っていた。
 と、次のお客である。

「はい、フライドチキンですね」
 揚げ物の保温機から、トングでつかみ、紙の袋に入れる。これをやるのは初めてだが、我ながら手慣れた手つきだ。
 ピッ。「お会計、百四十円でございます。ちょうどお預かりします。ありがとうございました」
 深々と礼をする。
「いやぁ、大島さんはしっかり仕事するねぇ」
「いえ、このくらい当然ですよ」
 コンビニスマイルで店長に応対。この笑顔も板についてきた気がする。
「もう、陽太の代わりに今度から来ない?」
 確かにこの人の良い店長のこの店で楽しく仕事ができたら良いとは思うけど、それは突然すぎて様々な迷惑をかけると思う。
「いえ、一応、今日だけのお約束なので、ただ、今日の分はしっかり働かせて頂きます」
 あれ。今、何を思っていたんだろう。私は悪魔なのに。
 そんな思いもつかの間、また、お客が入ってくる。暇なときは暇だけど、お客が入るときは結構固まって入ってくるんだなぁと、どうでもいい知識が獲得される。ま、初めてだから、それが一般的に言えることかどうかはわからないけど。
 なじんできたコンビニスマイルを表情に貼り付ける。
「いらっしゃいませー」
 お辞儀の後、顔を上げると、そこには見知った二人の顔。
「あら、大島さん」とは、お客の一人の向日葵さんの声。
「後藤さん、知っている人?」
 もう一人は奴が迷惑を掛けてるすみれさん。
 二人の格好は制服だが、夕焼け空な時間を考えれば、部活帰りのようであった。
「うん。あれ、陽太は?」
「あ、今日は私が代わりに……」
「まぁ、あいつらしいね。サボるためなら、全力尽くすからね」
「そ、そうなんですか」
「多分、あいつの小学校の知り合いはほとんどここでバイトしているんじゃないのかな。あいつに騙されて」
 向日葵さんの話に「ははは」とコンビニスマイルと苦笑いの二人。今朝見せた奴の裏の顔はその表の顔の酷さで余裕の帳消しが可能だろう。というか、表の顔が酷いとか何なんでしょう。人を騙す職業の悪魔には少なくともいないタイプだな。うん。
「一つだけ言っておくと、仕事終わった後、日給奪われないように頑張ってね」
 スマイルのまま、ため息をついた。私には日給をどうこうする自由は無いのですよ。
「でも、なんかこの働きぶりを見ると大島さんは普通の人っぽいね」
 向日葵さんのセリフが胸をえぐる。ブルドーザーで削られるような心境。
「そうそう、私もそう思った」
 すみれさんも肯定って、直接の知り合いでは無いはずですが、と思う。それが顔に出たらしい。
「ほら、今日、ラクロス部の横で不思議な踊りしていたじゃない」
 ぎゃー。すみれさんにも見られていた。ショベルカーで深く掘られるような心境。確かにあれを見るなと言うのは難しいけど、一時の気の迷いだよ。単なるみんなの真似したエアラクロスだよ。
 そんな気持ちに鍵を掛けて心の奥にしまいながら「忘れて欲しいです」と蚊の泣くような私の声。
「今朝のあれも?」と向日葵さん。
「……それも忘れてください」
 なんで、そんなに悲しい思いをしないといけないんだろう。
 向日葵さんは朗らかな笑顔を見せた。
「いやー、陽太から悪魔憑依系で妹のライバルって聞いたからさ、なんか映画みたいなの想像していた。なんだっけ、ブリッジしながら、階段から下りるホラー映画」
「聞いたことあるけど、知らないなー」
 映画は知らないけど、正体はこれでも悪魔なので、そんなことしないです。
 そんな中、向日葵さんが思い出したような表情を見せた。
「あ、そうだ。聞きたいことがあるんだ」
「なんで……あ、こちらのレジにどうぞ」
 話していたせいで、お客さんが入ってきていたことに気づいていなかったことに反省。

「……はい、お釣りの方、三十八円になります。ありがとうございました」
 深々と礼。やたらコンビニ店員になじんでいる悪魔がいる、と客観視してちょっと悲しくなる。
「で、聞きたいことって何ですか?」
「うん、陽太とどういう関係なの?」
 向日葵さん、声が普通なのに目が怖い。本気です。でも、安心して下さい。私は奴が嫌いで、奴には好みじゃない宣言されています。
 というわけで、それを説明しようと思う。
 どうやって?
 奴が、すみれさんに一目惚れしたけど、金銭が必要になったので、錬金術で金を産み出すことを考え実行した結果、騙せると考えてノコノコ出てきて、逆に嵌められた悪魔です、っていうのを情熱的に説明すれば、理解して貰えるのだろうか。多分、分かって貰えない。叙事的に語ったら理解に繋がるか? というか、悪魔って単語の時点でNGだろ、しっかりしろ、自分。
 一瞬のうちに、そのくらいのことが頭を巡る。って、全部どうでもいいことじゃん。
「高峰月子さんの友達です」
 結局は奴の設定の無難回答。
「じゃあ、何で今日一緒に通学していたの?」
「一応、自分は悪魔という『設定』で月子さんと戦っていて、で、今朝はいきなり陽太さんに憑依したという『設定』で、やむなく学校に着いていくことになりました。通学路中のことは、月子さんが『ちゃんと憑依していたか聞く』って言っていたので……」
 実は心優しいエクソシスト志望をスケープゴートにした説明である。言っていて背中がかゆかったのはなんでだろうか。それ以上に奴のことを陽太さんと呼んだことの方が反吐が出る。ゲロゲロ。
「あいつの妹の友達も大変ね」
 普通の目で向日葵さんが慰めてくれた。すみれさんは小さく笑いながら聞いてきた。
「あれ、じゃあ、校庭端での踊りは何なの?」
「……あれはラクロスの真似です。……ちょっと、面白そうだったので」
 正直に言っているのに、なんでこっちの方が恥ずかしいんだろう。
「なんだー、だったら、言ってくれたら、練習に混ぜてあげたのに」
「え」
「だって、この辺の中学でしょ?」
「……はい」
 本当は中学って年でも無いし、そもそも、この辺どころかこの世に本拠とか無いですけど。
「だったら、有望な後輩育成だし、参加とか大歓迎だったのにー」
 ちょっと、悔しい。でも、やったらやったで、ラクロスに勤しむ悪魔って、後で客観的に考えて悶絶するんだろうな。

 また、レジ待ちを処理していると、二人の会話が聞こえた。
「すみれに聞いておかないといけないことがあるんだけど」
「な、何? 向日葵?」
 向日葵さんの目がまた真剣になっていた。
「すみれは陽太好き?」
「ま、まぁ、嫌いじゃないかな」
「すみれは陽太好き?」
 すみれさん、あなたの思いはどうであれ、正解は一つしかないです。多分、その正解とあなたの思いは一致しているはず。だから、レジ打っている私に助けを求める視線を送るのは不要です。私は公共料金の振り込みを処理するので一生懸命なんです。
「しょ、正直言うと」
「正直言うと?」
「あんまり、好きじゃない……」
「ならいいんだけど」
 向日葵さんの目が普通に戻った。
「向日葵。私鈍いから気づいていなかったけど、向日葵は陽太のことが好きなんだよね?」
 すみれの質問で、ファーストフードの看板みたいな真っ赤に向日葵の顔が染まった。
「そ、そんなことはないよ」
 悪魔の私の正確な記憶力によれば、友達設定の月子曰く「全否定は肯定の隠蔽」らしいです。向日葵さん、それ、ばれていますよ。
「だってさ、高峰君に告白された翌日の今日に、あんまり親しくなかった向日葵さんがやってくるんだよ。それで、親身になって、告白断ったらって遠回りに言うんだもん。誰だってわかるって」
「た……たまたまだって」
「だって、高峰君のあのノリっぽい告白の直後、みんな、向日葵さんとそういうことがあったって言っているんだよ?」
 向日葵さん、耳まで赤い。
「えっと、小学校の時からの幼なじみでね」
「うん」
「あの頃はいじめ、って言うよりはからかわれていたのかな。でも、そんなときに助けてくれたのが陽太だから……。まぁ、半年ぐらいしたら、いじめられた転校生を助けにいっちゃったんだけどね……って、ただの幼なじみなんだから!」
 すみれはくすくす笑って、「わかった」と小さく言った。
「お、幼なじみだから言っておくけど、陽太はしつこいから。でも、精神は太いから、はっきり断っても大丈夫だからね」
「わかった。向日葵も頑張ってね」
 領収済みの判を押す頃にはこのやり取りは全て終わってた。けど、悪魔の私は良い耳で全て聞いていた。確信した。どんなに努力しようと、奴の告白は失敗することを。
 ざまーみろ。

 ベンジャミンの由来とか、無いことを並べて、少し話して、二人とも帰っていった。何も買っていかなかったけど。
 自動扉が名残惜しそうに、ゆっくりと開いて、二人を見送っていた。ただ、冷房効率が落ちるので、空気じゃなくて、気温を読んで、早く閉まってくれると嬉しかったのだけども。

   * * *

 八時間シフトの最後の数十分に事件は起きた。
 初日で研修も無しに、ベテランのように働いている自分に惚れ惚れし始めた頃だ。
 自動扉に人がぶつかった。正確に表せば、自動扉が人を拒んだ。ぶつかったのは白い女。女は戸に手を掛け、横に押した。キューじゃなくてキーッと嫌な音が響く。
 上から下まで真っ白い服に身を包んだ少女、高峰月子がそこにいた。
「扉を開かなくしたのは貴様の魔力だな!」
「違うよ!」
 そんな魔力が残っていたら、迷い無くあなたの兄にぶち込んでやる、と思ったのも束の間、彼女はツカツカと奥へと入ってくる。
「ま、悪魔の言い訳など聞くだけ無駄だがな」
 そうして、店内に入った自称エクソシスト志望は陳列棚をざっくり見た。向かった先は酒類コーナー。私も向かった。もちろん、コンビニ店員として。
「あの、未成年の酒類販売は法律ではできないことになっているんですよ」と警告。私も成長したものだ。嫌な成長だけど。月子はバカにしたように笑う。
「購入しなければ、何ら問題ない!」
 すっと、冷蔵庫のガラス戸を開けて、日本酒の一升瓶を取り出した。
「悪魔など、酒で清められて消えてしまえ!」
 アルコール消毒可能なのは、雑菌だけです。なんて、思う暇も無かった。月子が両手で握った出羽桜が私の頭に向かってくる。私は運動神経にて回避。回避できなかったのは、コンビニの床。床が回避したら、それはそれで恐怖だけど。数千円の日本酒は、ガラスの砕ける音とともに床にぶちまけられ、彼女の右手には半壊した瓶が握られていた。
「なかなか、やるわね」
 いや、それを躊躇無くやる時点で悪魔はあなたですよ! というか、本物の悪魔はそんな暴力に訴えないから! というか、午前中のあの女神の月子さんはどこに行ったの? いや、まあ、塩てんこ盛りを食わせてくるぐらいだから、本当は女神じゃないってわかっていたけど。
 こんな意味不明な状況だったけど、私は冷静に叫んだ。
「店長! 高峰月子さんが暴れています!」
 言い終わる前に店長が現れた。大方この惨状の音を聞いて、だろう。
「店長、助けてください!」
「善良な市民をしもべにするとは、さすが悪魔だな」
 そう言いながら、次は冷蔵庫の缶ビールを手にする。二本の缶ビールを両手に掴み、両腕で十字を作り、「地の神ガイア、天の神ウラヌス、この酩酊の水に力を与え給え!」と唱えながら、缶を激しく振り始めた。いや、それ、呪文関係ないだろ!とか脳裏を駆ける。
 彼女の視線の先にはちょっと髪の薄い中年店長がいた。
「雑魚から倒す!」
 私の方に向けた缶が開けられ、ビールが吹き出す。中身が直撃するも、私は怯まない。単なる目くらましだ。
 彼女が私の横を通り過ぎようと駆けてくる。店長への攻撃を行うために、二本目の追加の目くらましがなされるだろうが、躊躇している暇はない。最短距離で止めに掛かる。
 が、二本目は開けられると同時にスナップを効かせて私の方に投げつけられた。缶の開け口は後ろに回った。謎の威力が出ていた。缶は炭酸の力で空を飛んでいた。
 次の瞬間、走っていた月子はジャンプした。彼女の左足は飛びつつあるビールの缶を捉えた。炭酸の力で空中で加速する彼女を止めることなどできるはずがない。否応なく回避。後ろの戸棚が倒れる。
 彼女はそのまま缶を踏み台に、店長に飛び蹴りで突入する。蹴りは胸に直撃。店長は後ろの棚に後頭部をぶつけた。
「使い魔その一、撃沈」と月子は言っているけど、それ、シャレになっていない。
 カウンター内に進入した月子がスローイング動作。本能的に体をそらす。深い音と共に、私が公共料金の支払い処理を行ったときに使ったハサミが壁に刺さる。
 彼女こそ、悪魔憑きとして、エクソシストに引き渡すべきであろう。
 このままでは、コンビニが壊れるまでやりかねない。正確に言えば、私が壊れるまでやるのだろう。私は一世一代の大ばくちに出た。
「月子!」
「何?」
 鋭い目つき。クールというかイっちゃっているヤバい人にしか見えない。
「俺がわからないのか!」
「何?」
「あの悪魔、俺の体を奪いやがった」
「何だって!」
 月子の表情が一転する。
「お前が昨日、俺の精神力を上げたのに対抗するために、精神を混濁させて、直接対決を挑みやがった」
「あの悪魔め、そんな高度なことを……」
「こっちの体は今はダミーだ。本物の俺の体の方の戦いを助けてくれ」
「よ、陽兄!」
「クッ、こっちの戦いは多分、俺の勝……」
 私はその場に倒れた。
「陽兄ぃぃぃ!!!」
 彼女はカウンターから、私の方に走ってきた。そして、倒れた私の手を取った。
「陽兄、私、必ず、勝つから!」
「た……頼……」
 静かに目を閉じた。彼女が立ち上がる音が聞こえ、私は細目を空けて確認した。既に自動扉は全開で開いており、彼女が外に飛び出した直後に、壊れるかと思う勢いで閉まった。
 エクソシスト志望はろくでもない。私はその事実を強く心に刻みつけた。疲れがドッと出た気がした。その疲れを共有できそうな相手の方に私は顔を向けた。店長は腹に蹴り跡を作って、鼻血を垂らしていた。角度的に眼福でもあったのだろう。

   * * *

「いやぁー、大島さんはよくやってくれたよ」
 意識を取り戻し、鼻にティッシュを詰めた店長は、カウンターの片付けを行っていた。私は日本酒がぶちまけられた床をぞうきんで拭く。ボトボトになる。
「でも、お店に損害を出してしましました」
「いやいや、普段はこれじゃ済まないから」
 これよりも酷いのは大地震でも来ない限りないと思う、とは遠慮して言わないでおいた。
「普通の店員だったら、あの子の圧倒的な攻撃力にやられるか、怯えるかしかできないし、同類の店員だったら、店内の物で妄想対決を始めて、もっと酷いことになっている」
 想像ができてしまう自分が辛い。
「それを君は口一つで解決してみせた」
「まぁ、それほどでも……」
「その手の電波系の子から聞いたけど、悪魔は口八丁で契約させるらしいね。君が自称悪魔なのはそういうところかな?」
 笑いながら店長が聞いてきた。当然、冗談には冗談を返し、笑いながら答えるのが礼儀だろう。
「私は人間ですよ」
 悪魔だから言える冗談たる嘘をついた。

 掃除が終わる頃にはバイトの時間は少し過ぎていた。
「はい、バイト代」
 時給を考えても、多い金額が入っていた。
「え、これは貰いすぎですよ」
「大丈夫だ。陽太の分を前借りしている。あいつは本当に働かないんだ。親戚じゃなかったら雇っていない」
 親戚なのかよ。
 私は一部の金を取り出して、店長に渡した。
「これ、月子さんが壊した商品の代金です」
 店長は苦笑いだった。
「マメな子だな」
「この部分はやはり受け取れないと思います」
 店長は唸ってから、それを受け取らず、レジから同じ金額を出した。
「バイト代がちょっと足りなかった」
 私が持っていた封筒にその金額を押し込んだ。そして、手に持っているお金を取った。
「弁償額に使わせて貰うよ」

   * * *

 数十分前まで、できの良いコンビニ店員だった悪魔は正座させられていた。
「バイトご苦労」
 そう言って、給料を取られた。全額。
「まじめに働いてくれる奴を代役に立てると多めにくれるのは知っていたが、ここまで貰うとはさすがだな」
 代役立てて、そいつらの給料徴収するお前にびっくりだよ、とは口には出さない。
「まず、これが契約の分だ」
 そう言って、半分ぐらいの額が抜き取られる。そして、残りを私の方に向ける。私は自然に手を伸ばし受け取ろうするが、フッと封筒を持ち上げられ両手は空を切る。
「初めは返そうと思っていたぞ」
「嘘だろ」
「俺も契約は守る男だ」
 否定していても埒があかないので、折れる。
「お前さぁ、月子によくぞあそこまでデタラメ言ってくれたな」
「いや、あれは必要なことで……」
「というわけで、これは慰謝料として受け取っておく」
 ノーダメージそうな男はそう言って、私の給料を全て盗っていった。まぁ、どっちにせよ、なんか難癖付けられて取られたんだろう。
「痛っ」
 頭に何か当たる。
 私に投げつけられた、金の塊とステッキ。両方を強く握る。久しぶりな魔力な雰囲気。そのタイミングで奴は振り向いた。
「契約は守れよ」
 もう心は決めている。結末も知っている。だから、早く終わらせる。でも、その前に一つ聞いてみた。
「そのお金持って行ったらいいんじゃないのかな?」
「は?」
「だから、それをすみれさんにあげるの」
 奴の高笑いが部屋に響いた。
「こんな額で彼女が振り向くはずがないじゃないか」
「それはやってみないと」
「俺にはわかっている。これは多少でも自分を磨くために使えとな」
 私は思った。向日葵さんのために使うってことね、と。ただ、一瞬でもそう思ったことを後悔した。
「俺の人生を豊かにするために、早速ゲームでも買ってくるわ」
「は?」
「お前は今日中に金作る準備でもしてろよ!」
「おい、お前、ちょっと待て」
「じゃあ、俺は行ってくるわ!」
 そう言って、身勝手な奴は自己愛だけでどこかに行ってしまった。


   6

 深夜、町中を駆ける高校生程度の若い男女がいたら、どう思うだろうか。愛の逃避行を誓った健全ではないカップルであるという見方が多いではないだろうか。では、その関係に愛がないというのが情報として与えられていたら、なんと判断するだろうか。
 そんな状況に陥ったカップルが一組いた。とはいえ、男の方はあくまで偶然その場にいなかったが。
「名前は何ていうの?」
「……大島ベンジャミンです」
「君、ふざけているの?」
「……ふざけていないです」
「えっと、君は夜中に何をしているんだい?」
 警察に職務質問を受けている悪魔がいた。

 愛を「買い占める」と言った高峰陽太のために、私には金を産み出す契約が残っていた。
 そんなわけで、私は魔術を使い金を生成せねばならなかったが、奴は自分を代償に使うのを拒否した上で、さらには世界規模で大きな問題を引き起こす代償をも拒否していた。もちろん、しっかりと契約に書かれていた。
 私は町の植物の命を数分ずつ頂く形で、金を生成することにした。そのくらいだったら、許容されたからだ。だが、それには町を一周する規模の魔方陣を書かねばならなかった。一番の敵は自動車。次にいたずら。つまるところ、消えたり壊される前に手早く書く必要がある。もちろん、私たち悪魔の正統な魔方陣は一文字どころか三割ぐらい間違ってもきちんと動くし、間違いが多い場合は、ウンともスンとも言わない安全なものではあるのだが。
 いずれにせよ、消えてしまいがちな路上に魔方陣を書くには、消されるのを防ぐため人通りの少ない深夜に、さっさと作業することである。つまり、人手が欲しいのだが、私は買ったばかりのゲームをしている奴を目の前にして、どう仕事に引き込むか思案していた。
 結末としては、契約者本人が魔方陣をある程度を書かなければ、契約は承認されないというデタラメで、連れ出すことに成功した。無論、どの程度書く必要があるかという設定を具体的に決めていなかったので「大島ダメンジャミンは下級だからわからんのか」と根も葉もないことでなじられたが、手伝わせることに成功したので気にしないでおく。
 そんなわけで、夜の街をチョークを持って作業をしていたわけだが、半分ほど完成したろころで、奴は「ちょっとトイレ」と言って、公園の公衆便所へ向かっていった。それを見送ったところで、二人組の警官に声を掛けられたわけだ。なんで、こういうときだけまじめに仕事するんでしょうか。裏を返せば、こういうときほど、端から見れば怪しい行動に見えるわけですね。

 というわけで、警察に根掘り葉掘り聞かれているわけだけど、金作るために魔方陣書いています、なんて回答は何かもっと窮地に陥りそうな気がした。
「……特に何も」
「うーん」と警官。もう一人は無線に「応援お願いします」とか言っている。増えるのかよ! ワカメかよ!
「この辺り、最近物騒なんだよね。空き巣とかいてね」
「空き巣ですか……」
 私のコスチュームは真っ黒。もしかして、それだけで関係あると見られているのか。
「で、一応、確認のため、そのカバンの中身見せて貰えないかな」
 なるほど、そこにピッキングの道具とかバールのようなものが入っていなければ、とりあえず、セーフってことですね。無罪放免ですね。入っていないから大丈夫。……って、うん、開けれません。他人の目から見たら、痛い契約書って文書が入っているのに、開けれるわけがない。というか、結末は補導しかありえないじゃん。見た目的にも。そして、来るはずもない保護者を待つハメになるんですね。
 私は小さくため息をついた。もちろん、こんな下らないことで魔力を使ってしまうことに対してである。警官が四人に増えて、私を取り囲んでいることに対してではない。
「わかりました」
 そう言いながら、私はステッキを強く握る。カバンを持ち上げ、錠を開いた瞬間、力を解放。パチンという音とともに私の姿が消え、困惑した警官達をその場に残した。

   * * *

 数十メートルも離れていないが、警官からは見えない陰で、奴はゲームをしていた。
「遅いぞ」
「お前が戻ってくる方が先だろ!」
「は? 『ちょっとトイレ』って言ったろ?」
「だから、戻ってくるべきだろ」
「警官見えていたし、どう考えても『ちょっとトイレに逃げるけどお前はどうする?』っていう風にしか聞こえないだろ」
 聞こえねーよ、という否定は言っても無駄なのは、二晩でしっかり学習済み。

 再び、魔方陣の作業に戻ったとき、奴が不意に聞いてきた。
「これ、本当に人間に影響はないんだな?」
「契約したとおりだ、問題ない」
「本当にすみれちゃんに影響がないか、と聞いているんだ」
「全く、問題ないです」
 語気を強めて言った。
「それで、代償的には足りるのか?」
「足りる」
「足りなかったら、向日葵の命を優先的に使っても良いぞ」
 何、この鬼畜男。向日葵さんの命を使うぐらいなら、他の人の命から使うし。できれば、お前の命こそ積極的に使いたいけど、向日葵さんが悲しむだろうから、使うのはやめてる、ってことを言いたいけど、黙っておく。

 その後の魔方陣の設置は淡々とした物であり、また、魔力の執行もあっさりしたものだった。一瞬だけ、世界が夜よりも暗い暗雲に包まれて、雷が落ち、電撃がほとばしりといったことは無い。パンと音を立てて、記述した魔方陣が数瞬で吹き飛ぶ。それだけである。「しょぼい」とか言うなと思っていたところで、案の定言われた。想定済みだから堪えるけど。堪えてばっかりで本当に辛い。
「で、金はどこだ」
「もちろん、魔方陣の中心のお前の机の上だ」
「使えない奴だな」
「影響があったら、嫌だってごねて、魔方陣の外側に行ったのは貴様だろ!」
 陽太がそんなことを言ったせいで、私たちは魔方陣の外縁部、つまるところ、自宅から大分遠い小山から眺めていた。
 そして、歩いてそこそこの距離がある自宅まで戻るのであった。書き終わったときには当然ながら、魔方陣の周縁にいたから、余分に移動とかしているわけではないが、それで怒られるのは甚だしく不本意である。

 奴の部屋の机には二、三センチ角の立方体の金。それをつまんで奴は一言。
「思ったよりも少ないな」
「代償支払わないっていうお前のせいだろ」
「向日葵の命は全部良いって言ったのに」
「……死ね」
 そう言った直後に、私は関節技というか窒息技を決められて、ギブアップをアピールしていた。悪魔式のギブアップではないはずなのに、奴には通じず、私はそのまま昇天することになった。

   * * *

 次に目が覚めたとき、日は低かった。もちろん、「まだ」ではなく「もう」である。夕日が差し込む、奴の部屋で倒れていたが、ガムテープで固定されていなかったことに感謝した。気絶させれたのに、幸福の基準が下がっているようにふつふつと感じる。私は自分の金塊とステッキがあることを確認した。一瞬、「少ないから」と言う理由で勝手に私の金を取っていく陽太を想像していたからだ。部屋に陽太はもういなかった。きっと、補講に行って、そして、すみれさんに……。
 部屋の扉が開く音がした。
 陽太がいた。表情がなかった。
 どさっと、銀行の封筒を落とす。恐らく、高校生が持つはずもない額の現金が入っている。
「あの、すみれさんとはどうだったかな?」
「……ああ」
 でも、そこから奴の返事がない。
「フられたのかな」
「……ああ」
「やっぱり、お金じゃ買えなかったのかな」
「……ああ」
「お前、バカなことを実感しただろ」
「……ああ」
 心境のヤバさを理解しつつあった。
「これは、ダメな感じだな」
「……ああ」
「お前の耳はロバの耳ー」
「……ああ」
 これはダメだ。
 正直、少しかわいそうに思えてきた。でも、それを慰めるのは私の役割じゃない。私は優しさを見せて、すっと立ち上がって、部屋から出た。
 パタン。
 扉を閉めてから、ステッキ等かさばる物を部屋に置いていたことを思い出す。でも、金はちゃんと手元に持っているし、別にいいかという考えが占める。契約も終わったのだから、帰っても良いのに。でも、私のやることはまだ少しだけ残っている。深層ではそう思っているから、置いてきたのかもしれない。
 私は奴の家から飛び出し、町に駆けだした。

 夕日の中、走った。影が長く伸びる。向かったのは昨日のコンビニ。コンビニから出てくる、二人の女子高生の姿が見えた。
 私は走りながら、名前を呼んだ。
「向日葵さん!」
「どうしたの、大島さん」
 走っても息は切れない。悪魔だから。彼女たちの前に着いて、すぐに言葉を続けた。
「陽太さん、落ち込んでいます。きっと、あなたが必要です。お願いします」
 ちょっと慌てた風の私を見て、向日葵さんは微笑んだ。
「陽太は大丈夫だよ。優しいから、ちょっと傷つきやすく見えるだけ」
「でも……」
「それより、わかっていたけど、一緒に落ち込んじゃった彼女を慰めてあげて」
 すみれさんがそこにいた。勇気を持って、正直な思いを伝えたのに、沈んでいた。
「すみれさん……」
「……大丈夫、こうなるってわかっていたし……」
「すみれさん」
 向日葵さんの思いに答えたかった。
「何?」
「今日のこと、忘れないでくださいね」
「え」
 彼女は複雑そうな顔から、不思議そうな、そんな様子も混ざった表情へと変えた。
「陽太さんがあなたに告白したから、すみれさんは向日葵さんと仲良くなりました。向日葵さんと仲良くならなかったら、ここのコンビニに寄ることもなかっただろうし、私と知り合うこともなかったでしょ。きっと、エアラクロスをやっていた不思議な子が誰かはわからなかったはずです。そして、今日、こんなことがあったから、また、ここで私とすみれさんは出会ったんです。だから、今日は交遊を広げる、そんな出来事の象徴的な日なんです」
 すみれさんは小さく笑った。
「友達記念日、とかそんな感じだね」
「その響き良いね」
 向日葵さんがそう言った。
「今度、ラクロス教えてくださいね!」
 私はニッコリと笑いかけると、それに答えるように、すみれさんは少し表情を取り戻した。
 そしていくらかの立ち話をした後、私は二人と別れた。すみれさんは少し立ち直ったようで小さく手を振ってくれた。

 * * *

 奴の部屋の前の扉に戻った。
 念のため、ノックをする。
「どこ行っていた」
 その言葉とともに奴の方から扉を開けてきた。「大丈夫なの?」という私の部屋に入りながらの問いかけは無視。
「そこに座れ」
 奴はあの微妙な魔法陣が描かれていた床を指さした。もちろん、言外ではあるが正座必須である。
 床にちょこんと座って、背筋をピンと伸ばす。その私の姿に満足したのか、奴は私の方には顔を向けず、語り始めた。
「俺は今日、気づいたことがある」
 ようやく過ちに気づいたのだろうか。
「帰り道、水泳部の伊達ふそうさんを見た」
「は?」
「彼女は巨乳系の中で一番の美人らしい」
 嫌な予感しかしない。足にはすでにプルプルが来ている。
「前みたいに話すのに数時間かかるのか?」
「わかった、今日は手短に説明しよう。ふそうさんが好きになりました」
「はぁ」
「つれないなぁ」
 つれないに決まっているだろ。この二日が全部ゴミだよ。
「噂によると誠実な男性が好きだそうです」
「お前とは正反対だな」
「だから、俺をステキなナイスガイにしてくれ!」
 このトンチンカンにはついていけない。当然のことだ。
「無理。つか、契約もう終わっているから」
 もはや、奴の恋の行方なんて知ったことか。私は帰るために、ステッキを握った。
「俺もそう思っていたんだが、契約書の裏にこんなことが書いてあるんだ。『俺の恋が成就するまで、全力で協力する』って」
「ふざけんな、片方の契約書に書いてある奴は無効に決まっているだろ」
「確かにそうだな。だがな……」
 そう言われて、私は最大級に嫌な予感がした。自分のアタッシュケースを瞬間的に開き、奴との契約書を取り出す。パッと裏面をめくった。
 奴の下手くそな字が躍る。
『俺の恋が成就するまで、全力で協力する』
 気づいた。奴がしょぼくれた空気をまとって帰ってきたのが全ての罠だった。私が部屋から出た隙に裏に文面を書いたに違いない。
「それは違うぞ」
 奴がなぜか思考を読む。
「書いたのは昨日、お前を気絶させてからだ。さっきはマジ落ち込んでいたんだぞ」
 落ち込んでいたとか知るか。
 最悪だ、コイツ。しばく。
「ということで、この契約は完了していないってことは、暴力も禁止なんだよね」
 ……死ね。
「というわけで、俺をステキキャラにステップアップしたいんだけど」
「無理だ! 死んでこい!」

 (おしまい)

       

表紙

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