ヒトニシズム
哀しく響くヒロイズムの鐘は鳴り止まない
地球が絶え間なく回り続けることと同様に、この僕も誰かを助けるために走り続けなければならないのだ。
これは僕が自らに与えた存在理由であり、償いでもある。
かの有名なお爺さんの古時計の如く、僕のヒロイズムは命が散るその刹那まで朽ち果てることはない。
年中無休、一日二十四時間、正義の魂のため闘うヒーロー『月影ライダー』とはこの僕、星井一のことである。
白いヘルメットを被りゴーグルを装着し、コートを羽織る。それから棚の上にあるマスクを取って耳に掛けた。これで誰がどこからどう見ても星井一だとは気付けないだろう。鏡に映る勇ましい姿は『月影ライダー』以外の何者でもない。増してや不審者などでは決してない。ついこの間、職務質問とやらを受けたが、それは断じて僕が怪しかったからではない。恐らくあの辺りの通りで何かしらの事件が起きていて、それ故に形式的に訊いたに過ぎないのだ。そうに違いがない。
壁に掛かったファンシーな時計へと目をやると、時刻は九時を示している。因みに現在は午後である。
「うむ、パトロールの時間だ!」そう言うと僕は眉間に左手をやり、右足を軽く曲げて正義のポーズを取った。
ヒーローたるもの、どんな些細な悪事でも逃がしてはならない。それこそあの壊れ易いものを運ぶときに使うプチプチ断衝シートの如く、徹底的に潰していかなければならない。そういえば、何故あのプチプチはあそこまで潰したくなるのだろうか? 人間の原始的欲求の表れなのだろうか、それともどこかの大悪党の陰謀なのだろうか。
どうでもいいことだが、昔々のある日のこと、妹と僕のどちらがプチプチシートを潰すかで揉めたことがあった。おやつのプリンだって欲しいと言われれば譲ってきたシスコン兄だったが、何故かあのときの僕は猛反発した。今となっては理由は分からない。ひょっとしたらたまには兄貴振りたかったのかもしれないし、単にプチプチシートの欲求に押し潰されただけだったのかもしれない。
話が逸れたのでもう一度、今一度述べよう。ヒーローたるもの、どんな些細な悪事でも逃がしてはならない。これが数ある僕のモットーの一つである。
だからパトロール中、午後の九時過ぎに十歳前後の可愛らしい女の子なんかを公園で見つけた日には、なんとしてでも叱り付けて家まで送り届けてやらねばならない。
滑り台の天辺から月を見上げる女の子の顔には覚えがあった。月明かりに鮮明に映し出された幼い顔付きは、間違いなく貝塚ほたてちゃんのものだった。彼女はこの辺りに住む小学五年生である。
「また性懲りもなくこんな時間にうろつきおって。貴様の悪事、母父が許しても月影ライダーが許さんぞ」僕は階段の真下へと躍り出て、そう叫んだ。
ほたてちゃんはキョトンとした表情を浮かべたあと、クスリと笑った。「こんばんは。星井お兄ちゃん」
誤解のないようにいっておくが、ここで彼女の述べた『お兄ちゃん』とはあくまで便宜上のものであり、先程の独白にて僕のいった妹とは一切関係ない。ほたてちゃんと僕に血の繋がりはない。こっちとしては血縁関係がないから法的に手を出していいぞぐへへーといった心持ちだが、残念ながら年齢的にアウトである。
……今更、遅いかもしれないが一応訂正しておこう。僕はロリコンではない。ただたまに魔が差すだけの、健全な十八歳である。
「ふん、星井お兄ちゃんなど聞いたことがないな。僕は平和に殉ずる正義の使者、月影ライダーなのだ」
「……いつも思ってたけど、どうしてお兄ちゃんは何にかに乗っているわけではないのにライダーって名乗っているの? ライダーって、何かに乗っている人のことなんでしょう?」
「ライダーって響き、格好いいだろう?」僕がそう返すと、納得いかなさそうにほたてちゃんが頬を膨らませた。
「理由になってないよ。自転車にでも乗ればいいのに」
「……乗り物、嫌いなんだ。あんなものがなければ交通事故はなかったし、不便ながらにもっと味のある世界が待っていたと、僕は思うんだ」そのとき丁度、バイクが公園の前の通りを走っていった。耳障りなぐらい爽快なエンジン音が、僕の鼓膜を刺激する。「この世の中は、便利になりすぎたよ。きっとそうだ」
「じゃあライダーなんて名乗らなきゃいいのに」
「嫌いなものから逃げてたら、強くなれないだろう」
「それで名前だけ借りたの? 中途半端だよ」
僕は愛想笑いしたあと、使命を思い出してほたてちゃんを勢い良く指差した。「と、談笑している場合ではなかったな。おい女、何故こんな時間に出歩いているのだ。ほんのつい最近、この辺りで通り魔事件が起こったばかりではないか!」
そこでほたてちゃんは、辛そうに顔を伏せた。
「どうしたんだい?」僕は急に冷静になって、星井一の声のトーンでそう尋ねた。
「その一週間前に起こった通り魔事件の犯人、あたしのお友達かもしれないの」ほたてちゃんは溜め込んでいたものを吐き出すようにそう言った。そのことを口にするのが辛かったのか、大きな瞳に涙を溜めていた。
ほたてちゃんの話を纏めると、一週間前の夕方すぎ頃、ほたてちゃんがここの公園の滑り台でうたた寝をしていたとき、道路を挟み公園と反対側に位置する駐車場で起こったその通り魔事件を目撃してしまっていたらしい。通り魔犯は顔を隠していたが、体格が知り合いと似ていたため思わず名前を呼んでしまったらしい。そのとき相手は軽くほたてちゃんの方を一瞥すると、そのまま去ってしまった。怖くなったほたてちゃんは、誰かにこのことを知らせることなく家へ逃げ帰ってしまった……と。
「それで……その通り魔犯は誰に雰囲気が似ていたのだ?」僕は月影ライダー口調でそう言った。
「赤崎、怜さん」
その言葉を聞いて、僕は目を見開いた。赤崎怜とは通り魔事件と同じ日に行方不明になった、女子高生の名前である。
「ふむ、やはり赤崎が通り魔なのか」僕が小声でそう言うと、ほたてちゃんが非難の目をこちらに投げ掛けてきた。
「人違いかもしれないし……それに、本当に怜お姉ちゃんだったとしても、どうしようもない理由があったとしか思えない。きっとそうなの」
「事情がどうであれ、人殺しは人殺しだ。僕は自分の正義を貫き、必ず赤崎を見つけ出す」
「ヒドイよ……。星野お兄ちゃんなら、あたしのお友達を助けてくれるって、信用してこのことを話したのに……」ほたてちゃんは泣きながら僕を睨んでいた。
「安心しろよ、ほたてちゃん。僕の正義は身近な誰かを悲しませないことだぜ」
僕はそう言うと、ほたてちゃんの頭をそっと撫でた。ほたてちゃんはそのまま僕の足へと抱きついた。
やれやれ、また出来ないことを引き受けてしまったものである。どういう事情があったにせよ、通り魔を庇い立てしてやることなんて僕にはできない。それに、罪はしかるべき罰に裁かせることが本人に取ってもいいはずだと僕は思っている。しかし、まだ小学生であるほたてちゃんにそれを納得させることは難しい。増してや僕は、ほたてちゃんを悲しませないと格好付けて宣言してしまったところである。これで赤崎を捕まえて警察に突き出しでもしたら。嘘吐き呼ばわりされても仕方がない。
「……ズボンで涙を拭くのはやめてね」僕がそう言うと、ほたてちゃんは純粋そうに笑った。
僕は心の中で嘘に出来るわけがないよなぁと呟き、空を見上げた。月が暗い雲の狭間から姿を現したところだった。今日は風が速いようだ。