ヒトニシズム
切り裂きマリー
世の中には、他人の痛みをまったく理解できない人間がいる。理解はできないのにそれらを視野にいれて動き、理解できないからこそ上手く利用することが出来る。自分でいうのもなんだが、例えばあたしがそういう人間だ。一般ではサイコパスとかいうらしい。
理解はしていないのに計算はできるだなんて、形式的な公式をそのまま当てはめて答えを知る数学のようなものだな、とあたしは思った。
そういった解き方をしている限り証明問題で躓いたりするものだが、それを除けば余計なことを考えなくて楽でいい。案外、人間関係もそんなものなのかもしれない。
サイコパスはだいたい三十人に一人程度いる、という話を聞いたことがある。真偽は知らないけれど、クラスに一人の割合だと思うとあまりいい気はしない。そんなにあたしがたくさんいてたまるものか。
そういえば同性愛者も三十人に一人ぐらいだと聞いたことがある。今までいた学校のクラスにサイコパスと同性愛者が一人ずついたのかと思い、クラスメイトの顔と名前を思い出そうとしてみたけれど、ただの一人も顔と名前が一致しなかった。向こうもあたしの名前など覚えていないだろう。随分と薄い交友関係を生きてきたものだ。
この世に一人でもあたしの名前を覚えてくれている人間はいるのだろうか。昔は渾名で呼んでくれる男の子がいたような気がするが、その子のことに関してもやっぱり顔も名前も出てこない。双夜麻裏の名前の部分、アサウラの読み方を変えてマリーちゃんと呼んでくれていたような気がする。
カーテンの隙間から射し込んだ日差しに目を覚ました。あたしはどちらかと言えば夜型の人間だったのだけれども、ここに住んでからは規則的正しい生活に改善されつつあるようだ。それは一般的にはいいことなのだろうが、あたしがあたしではなくなっているような気がしてなんだか落ち着かない。夜行性はあたしの数少ない個性のひとつだったのだから。
あたしが大きく欠伸をしたとき、インターホンが二度鳴った。
ここに来るのはアイツしか有り得ないはずだが、あたしは念のためにドアスコープを覗いた。あたしの予想通り、少し背の低い軽薄そうな笑みを浮かべた青年が玄関前に立っていた。寝ている振りをしてやりすごそうかとも思ったのだが、一応は助けてもらっている身なのだからと思い返し、ドアを開くことにした。
「おはようマリーちゃん」と青年がへらへらと笑いながら言った。
彼の名字は横寺、下の名前は知らない。あたしが覚えていないだけかもしれない。別に興味はないので訊くつもりはないが。
「あなたにその名前で呼ばれるとイライラするからやめてくれない?」
思い出を汚されたような気がして、あまりいい気分ではない。
「じゃあどう呼べばいいのさマリーちゃんよ」わざと挑発するかのように横寺は反復する。
「普通に双夜か麻裏でいいじゃない」
「いいじゃんマリーちゃんで。麻裏なんかよりよっぽどいかしてると思うけどなぁ」横寺はそう言って頭を掻いた。「あ、ひょっとして昔この呼ばれ方をしたことがあったとか?」
「…………」
横寺は妙に鋭いところがある。会って数日しか経っていないのだが、似たようなやりとりがが数回あった。
「あらら、黙ってるってことはひょっとして図星? なんだか悪いね」
「違う」
「そう? まあ本人が否定するなら違うんだろうね」横寺は茶化した風にそう言うと、玄関のあたしを放置して靴を乱雑に脱いで部屋の中へと入っていった。
勝手に入らないでよと言いたいところだが、元々ここは横寺の部屋なのであたしにそれを言う権限はない。あたしは今、訳があって一時的に彼の仕事部屋に匿ってもらっているに過ぎないのだから。
横寺は低身長と幼い顔付きのせいで高校生ぐらいにしか見えないのだが、本人いわく二十歳前半とのこと。ペンネームは教えてくれないのだが作家をしているらしく、仕事のときにはここに篭もって作業をしているらしい。自宅にいると集中できないのだとか。そのためここの表札は横寺となっている。なるべく外には出ないようにしているので、ここのマンションにいる他の住人もあたしのことを知らないだろう。
「で、何しにきたのよ」
「冷たいな。俺は命の恩人なんだからさ、もっとこう言い方があるでしょ。こっちの気紛れでいつ追い出されるかわからないんだぜ」横寺は椅子に腰を降ろしながらそう言った。
「それならそれでいいわ。いつでも出て行ってあげる」
「ふんふん、クールだねぇ。じゃあ俺が警察にマリーちゃんの場所を教えちゃったって言ったらどうする?」
「そのときは、あなたを殺してここから逃げるだけよ」あたしは平然とそう言った。
「冗談だよ。俺がそんなことするわけないじゃあないか」横寺は別に動揺した様子を見せることもなく、笑ったままだった。「でもまぁまさか、警察も縁もゆかりもない僕が殺人犯を匿っているなんて、冗談にも思っていないだろうね」
「そうでしょうね。あたしにもなんであなたがあたしを匿ってくれているのかまったくわからないもの」
「気になるかい?」
「別に興味はないわ」とあたしはすぐに即答する。
「だろうね」横寺は手櫛で前髪を梳かした。「そう言うと思ってたよ、うん。ただ下衆なことを考えているわけではないということだけはわかっていて欲しかったからさ」
「どうでもいい」
「そう? 年頃の女の子にとってはそこ、結構気になる部分じゃあないのかな」
一般の価値観ではそんなものなのだろうか? あたしは少し『一般の女の子』の枠から外れているようだ。
「別に寝て欲しいならそうするだけよ、あなたの方が立場は遥かに上なわけだし、従っておいて損はないでしょう」
「へぇ、淡白なものだね。あくまで君にとって俺は警察から姿を隠す手段でしかないだろうと思っていたけど、自分自身ですら警察から逃げる脚でしかないみたいだ」
「考え方によってはそうなるかな。考え方によっては、だけど」
「ふーん。考え方によっては、ねぇ。逃げるためなら手段は選ばないって感じだな、よっぽど警察に捕まるのが嫌なようで」
そう訊かれると本当に自分が捕まりたくないのかどうかわからなくなってくる。
ずっと逃げおおせるかどうかはわからないし、未成年の人殺しが捕まるとどうなるのかをあたしは詳しく知らない。いったいどうなるのだろう。
「だって、退屈そうと言うか、惨めでしょう?」少し考えた末にあたしはそう答えた。
「なんだか適当な理由だな、まぁ女学生の生きる理由なんてそんなものか」と横寺は言って、眉を潜めた。「どうして人なんて殺めちゃったんだか」
「さあ、知らない。あたしも前後のことぼんやりとしか覚えてないから。怖くなったから無我夢中で逃げてきて、それで気付いたらあなたに拾われてたって感じかな」あたしは首を小さく傾げた。「お腹に包丁を刺して、首を絞めたのは覚えてるけど、それ以外はぜんぜん……多分、初対面の子だったんじゃあないかな」
「何か深い理由があるのかと思ってたのに、そんなものなのか。拍子抜けというかなんというか、ちょっと残念だなぁ」言葉とは裏腹にどこか横寺は楽しげにそう言った。
「で、あなたはあたしの話を聞きたかっただけなの?」
「そういったところかな」
「小説の参考にでもするつもり?」
「そうじゃあないけど、まぁそう思っておいてもらった方が俺にとってはいいかな、うん」
「ならそれでいいよ。別に余計な詮索する気はないから」
「ふふーん、毎度ながらクールなことだねぇ。もうちょっとぐらいは周りに目を向けた方がいいとも思うけどもさ」横寺はそう言って立ち上がり、玄関へと向かって行った。
「本当に用事はそれだけだったんだ」
「まあ用件は様子を伺いに来たってところかな。いついなくなるともしれないし」
「一応あなたには感謝しているつもりだから、黙って出て行くときは緊急事態だけのつもりよ」
「そっかそっか、ならこっちもそのつもりでいようかな、うん」横寺はドアを開けながら、振り返りもせずにそういった。「そうだ。マリーちゃんが人を殺した夜、女子高生が行方不明になったらしいね」
「え? それってあたしのことじゃあないの」
「さぁどうだろうね。俺にはどうにも判断ができないというか……。そうだ、今度ここに来るときは新聞を持ってきてあげようか?」
「いらない、興味はないから」閉まっていくドアの向こう側にいる横寺にあたしは言った。