ヒトニシズム
転生少女は過去を追う
カレンダーを睨む。今日は2013年の十月十一日だ。テレビのニュースでもそのようなことを言っていたので間違いない。ただ、私にはその事実がどうにも受け入れられなかった。
今からだいたい三年と二ヶ月前、私こと四条仄は交通事故にあった。
その日は夏休みなのになんの用事もなくて、特に目的もなく道路沿いを歩いて近所のスーパーへと向かっていた。とりあえずアイスと適当なスナック菓子でも買おうかなと思っていたところ、横断歩道で真っ黒な猫と目が合い、私はほんの数秒間そこで歩みを止めた。止めてしまった。
その瞬間、轟音が耳にこだまして、私は真横に視線を移す。まだ歩行者用信号が青だというのに、大型トラックが私を目掛けて走って来るのが見えた。
避けようにももう遅い。そう思ったとき、私の背中を誰かが勢い良く押した。
白いヘルメットにゴーグル、口許を覆い隠す花粉対策マスク。間違いなく彼は私の幼馴染み、星井一だった。たまたまここを通りかかったところ、私が轢かれそうになっているのを見つけて飛び込んできたようだ。
結果からいうと、私は助からなかった。星井のお陰で直撃は避けられたが、バンパーの右側に跳ね飛ばされ、頭を強打した。薄れて行く意識の中、私を助けようとしていた幼馴染は無事だろうかと、そんなことをぼんやりと考えていた。確信は持てないが、あのときに私は一度死んだのだろうと思う。
それから気が付くとここにいた。何故カレンダーは三年後の十月を示しているのだろうと疑問に思っていたが、ニュースを見て初めてカレンダーが正しいのだと知った。私の意識が途切れている間に三年と二ヶ月もの時間が経過していたのだ。
今の私はきっと幽霊か何かなのだろうと思う。
それともここが死後の世界なのだろうか。そうだとすれば、色んな意味で夢のないあの世だ。台所にシャワールームにテレビまで付いている。ちょっとリッチな、ごくごく普通のマンションの一室である。
鏡を見ると知らない顔が現れる。滑らかな短い黒髪に印象深い二重瞼、淡いピンクの唇はまるで化粧をしたあとのようだ。
「あなたは誰?」
当然ながら、鏡の中の美人さんは何も答えてくれない。私はいったい誰に取り憑いているのだろうか。
ここに来て数日と経つが、私は玄関のドアを開けたことがない。それどころか窓に掛かっているカーテンにだって触ったことがない。何故だかわからないが、それらの行為が酷く恐ろしいことのように思えるのだ。
今の私が他人の目に触れるのが怖い。この体の持ち主ではないとばれたとき、どのような扱いを受けるのかが怖い。外の世界が私の知っているものなのかどうかが怖い。なにより勘では済まないような言葉にできない不吉な予感が、私が外の世界と接触することを許さないのだ。
私は誰か知らない人の体で、どこか知らない一室に閉じ込められている。
冷蔵庫には色々なものが入っているので、食料にはしばらく困らなさそうだ。それでもいつかは尽きる。そのとき私がどうするのか、それはまだ考えたくない。
こんな一室でずっとひとりぼっちだと、急にふと寂しくなることがある。それでも私は誰かに会いたいとは思わない。
私の時間はもう止まってしまっているのだ。何も残せることなく、いつの間にかこの一室で誰にも知られることなく消えていくに違いない。
だから私はもう何も望まない。可愛らしい洋服もショートケーキも、今の私にはただ虚しいだけである。
そんなことを考えていると悲しくなって、急に熱を持った吐き気が込み上げてきた。私は口を押さる。呼吸と動悸が荒くなる。
落ち着いてから、手が少し濡れていることに気付いた。
「今、泣いてたんだ」私はぽつりと、他人事のようにそう零す。
さっきは何も望まないと言ったが、こんな私にも知りたいことぐらいはある。
私を助けようとして車の目前に飛び込んできた、星井の安否である。私が未練によって蘇ったのならば、それはきっと彼のことが気がかりだったからに違いない。
星井の元気な姿さえ見ることができれば、安らかに成仏できるような気がする。そのあとは天国でも地獄でも永遠の無でも受け入れられる自信がある。
私のことを気に病んではいないだろうかと心配すると同時に、私のことで苦しんでいて欲しいなと願ってしまう自分がいることに気が付いた。邪念を振り払うため、私は首を左右に強く振る。
そんなことは考えてはいけないことなんだと、私は自分を説得する。ずっと私のことだけを考えていて欲しいとか、ずっと彼女は作らないでいて欲しいとか、そんなことは考えてはいけない。死者が生きている者を縛ろうだなんて、おこがましいにもほどがある。
「健気な女の子でいたかったのにな」
私のことはもう死んだ女の子として割り切って自分の未来を歩んで欲しいと、そう本心から思えるような綺麗な女の子でいたかった。
私はノートパソコンを起動する。
ネットを使えば星井の安否を確認することなど簡単である。あの日の交通事故について調べれば、彼があの日どうなったかを知ることができる。
軽傷だったのか重傷だったのか。それとも私と同じように死んでしまっているのか。そう考えたとき、彼がいつもヘルメットを被っていたことを思い出す。あれがある限り、車に撥ねられたぐらいでは死なないだろう。まさかこんなところで彼の変人振りが役に立つとは思わなかった。
「私もヘルメット被って暮らしていれば助かっただろうな」と冗談を言ってみる。死んでからすっかり独り言が多くなってしまった。
ネットを見ればすぐにわかることなのに私が今日まで彼の容態を知ることができなかったのには理由がある。このノートパソコンにはパスワードが掛かっているのだ。
画面には青をバックに文字入力欄と可愛らしい鍵の絵が表示される。
今までに何万回と試してみたが、すべて弾かれてしまった。それでも私は今日もめげずにパスワードに挑むつもりだ。
とはいえ目ぼしい言葉はだいたい入力済みなので、キーボードを前にして私は手の動きを止めてしまう。適当な言葉を打ち込み続ける作業に私は疑問を感じ始めていた。
そもそも私は鏡に映る誰かさんの名前も知らないのだ。そんな彼女の考えそうなパスワードなど、わかるはずがない。熱心にあちこちを調べてみたが、この一室の元の持ち主を示す手掛かりはほとんど何も見つけられないでいる。意図的に隠されているのではないかと疑ってしまうほどだ。強いて言えば、この部屋の持ち主は高校三年生の可能性が高いということである。本棚に並んでいる大学入試対策の本がそのことを教えてくれた。
ただし、高校三生という情報だけではパスワードを探ることができない。半ばやけになって『kоukоusei』だとかも試してみたけれど当然のように駄目だった。冷蔵庫にトマトがたくさん入っていたのでトマト好きなのだと思いトマト関連も色々試してみたのだが撃沈。もうこれ以上パスワードになりそうな言葉が思い浮かばない。
目を瞑って溜め息を吐くと、IとDのアルファベットが脳裏に浮かんできた。試しに私はその二文字を打ち込んでみることにする。iと打ったところで、右手の指先が小刻みに震え始めた。
文字入力欄にたくさんのiが入力される。私は左手で震える右手を押さえ、机を蹴って椅子を倒してノートパソコンから距離を取った。
床に倒れ込むと手の震えは止まった。幸い左肩を軽く打撲しただけで済んだようだ。
私は椅子を立て直すと、バックスペースキーでさっき打ち込んだ文字を消しす。それから『id』とあらためて打ち直してみた。画面は素っ気なく『パスワードが違います』と表示しただけだった。私は諦めてノートパソコンの電源を落とす。
今日はもう寝よう。そう考えて私はベッドの方を見る。
ふと星井はどんな二十一歳になっているだろうかと思い、私は少しだけ表情を綻ばせた。
まさかまだヘルメットとゴーグルを付けて街中を歩いているのだろうか。彼ならばありえない話ではない。
時間の止まってしまった私と、今を生きているであろう彼。もう再会することはないだろう。
「一目でいいから、会いたいな」と私は呟いた。
呟いただけで願っているわけではない。きっとそれは星井にとってよくないことだから、私はもう死んだ人間だから、会いたいなんて願っていいはずがない。