僕を襲った甘い匂い。堅く閉じた唇への信頼が揺らぐ程、口の中に広がる甘さだった。それは例えば熟しきったバナナのような、熱で溶けつつある金平糖のような、ママがくれたチョコレートのような、甘味の暴力という表現が冗談ではなくなる糖衝撃だった。匂いだけでこれなのだから、もしも一口食べてしまったら、脳がジャムになってしまうのではないだろうか。本気で心配になってくる。
そんな甘い匂いの主は、目の前にいる1人の少女だ。言い換えれば今宵の晩餐。僕はカニバリズムを金科玉条とし、守り生きてきた男で、ここ2、3年は人間以外の食べ物を口にしていない。そんな僕が、今夜はこの子を、と選んだのだから美味しい事は間違いないが、それにしてもこの甘い匂いは。食欲が急速に失われていくのを感じる。
「なぁ、君」
眠るその子に顔を近づけ、ささやき、尋ねてみる。かかった声にも、寝室への侵入者にも気づかず、その子の瞼は開かない。
「起きておくれよ。君」
軽く頬でも叩けば簡単な事なのかもしれないが、こうまでして甘いと触るのも嫌になってきて、鼻をつまみながら何度も耳元で声を出す。
やがてゆっくりと目を開いた少女は、ベッドの横に肩を落としながら立ち尽くす僕を認め、寝ぼけ眼をこすった。
「……あなた、誰?」
「君を食べに来たんだけど、少し困った事になった」
いつ以来か、食材と会話をするのはかなり久しぶりの事だ。でも考えてみれば、誰だって今晩のおかずと喋ったりはしないだろう。僕も同じだ。
「私を……食べにきたの?」
「うん。だけど君の匂いが甘すぎて、食べる気が無くなりつつある。どうしたらいい?」
少女は少し考える。僕は心の中で祈る。叫び声をあげて、誰かに助けを求めてくれないだろうか、と。そうしたら、すぐに僕はこの少女を殺し、晩餐の予定を変更し、別の食材を手に入れにいく。だがそうはならないのが僕の不幸だ。
「……そう、それなら少しお話をしましょうか。少しばかり夕飯の時間に遅れても、誰も怒りはしないでしょう?」
まずい人種に会ってしまった、と心から後悔するも、そんな僕への配慮は少女にはない。
「ねえ、なんと呼んだら良い? 名前はあるの?」
「名前くらいはあるが……君に教えてたくはないな。あ、君も名前は言わなくていい。愛着は雑味だ」
「そう、じゃあ食人さんとでも呼ぶわね? 私の事はそうね、『ミミ』とでも呼んで」
なんたる自分勝手と無遠慮。最近の娘はみんなこうなのか。結局名乗ってしまった少女の肉は、グレードが1つ落ちた。
「食人さんはいつから人を食べているの?」
「どうだかな、覚えていないよ」
「ほら、思い出して。最初に人間の肉を食べた時はやっぱり感動した? それとも何とも思わなかった?」
心の部屋に泥に塗れた土足でずかずかと入り、真っ先に冷蔵庫を物色するような少女の好奇心溢れる態度に、呆れを通りこして笑いが出る。この甘い匂いの正体は、この子の楽観主義的な所にあるのだろうか。
「そうだな、5、6年前だったか。当時付き合っていた女性を食べた。好きが行き過ぎて、かな。感動は……したといえばしたけれど、翌日はいつもと変わらない暮らしをしていたから、良い映画を観たのと同じような物だったかな。そういう意味でいえば、なんとも思わなかったとも言える」
何を答えているんだ僕は。と思いながらも、食うにも殺すにも逃げるにもいかず、しかもミミは好奇心満々な様子で聞く物だから、ほとんど縛りつけのような状態に陥る。僕にとっては史上最大のピンチだ。
「それ、とっても素敵な話ね。好きだから食べたなんて。さぞかし彼女も幸せだったでしょう」
「どうだかな、僕が彼女の腕を頬張った時、彼女は僕をイカレた糞野郎って罵ってたけど」
「きっと本心ではないのよ。女の子って、照れ屋さんだから、あなたに食べられる事が嬉しくても、なかなか声には出して言えないものよ」
「そんな物かな?」
「ええ、きっとそうよ」
何の根拠もなくにこにこと微笑むミミ。幸せそうなその顔を見ていると、意地悪な質問をしたくなる。
「ミミ、君は僕が怖くないのか? 君を食うという事は、君は死ぬという事だ。そこの所、君は分かっている?」
「ええ、もちろん」と、ミミは大きく頷く。「一番上の姉があなたと同じで、人を食べないと生きていけない人なのよ。奥さんのいる男の人を誘惑して、焚き火で丸焼きにして食べちゃうの。だから慣れてるのかな?」
そう聞かれても僕には答えようがないが、同じ趣味の人間の存在はちょっとだけ心強い。
「食人さんはどういう風に私を食べようとしているの?」
「そうだな。僕の場合は焼いたりはしない。君の自由を奪って、左の指から順番に、手、腕、足、内蔵、身体、頭の順番で食べるだけさ。でも……」
まだ甘い匂いが収まらない。というより、最初に感じたより強くなっている気さえする。ミミには悪いが、これではとても食えたものじゃない。
「食人さんは甘い物が嫌いなの?」
「嫌いじゃない。むしろ好きだよ。ただ度合いって物がある。いくらなんでも君は甘すぎる」
「そう? 自分では分からない物だけど」
言って、ミミは服を開けて自分の胸をくんくんと嗅いだ。甘さが増す。
「さて、そろそろ僕は行くよ。やっぱり君は食べられない。無理に食べれば舌が壊れてしまいそうだ」
いい加減空腹も限界にきている。この厄介な少女とは、一期一会としよう。
「あ、待って」
と、ミミが僕を呼び止める。
「どうして私が甘いのか、今、分かったわ」
興味深い話だ。原因が分かるなら、晩餐を再開出来るかもしれない。
「私、ある方に恋をしているの。だからきっと、甘いのよ」
聞いて損した。さっさと帰ろう。
「私はその人の話を聞く『耳』でありたい。そう思ったから、そう名乗ったの」
なるほどこの子は重症なようだが、希望がない訳ではない。
「それじゃあ僕が、説法屋を食ったら、君は甘くなくなるのかな?」
最初から分かっていたんだ。何故なら、この3姉妹の2番目の姉を食べたのは僕だ。
僕に食人の悦びを教えたのは鰐の医者だった。大きく開いた口で醜悪に笑う彼は、患者である僕に彼女を喰らうように指示をした。僕はそれに従い、この異常で退屈な世界に一歩を踏み入れた。僕が食べたのは彼女の小指だけ。約束を守る義務はこれで無くなり、残りは鰐医者にくれてやった。
身体の半分が骨だけになった彼女は、今も墓場で鰐医者の相手をしている。最初にして最後、僕が唯一全てを食べ損ねた彼女は、妹が説法屋のファンであるといつか語っていた。1番上の姉を負かした説法屋の話を聞いて、それ以来なのだそうだ。
ミミは言う。
「そうね。もしもその時が来たら、是非確かめにきて。私の味を」
その柔らかい物腰には、挑発が含まれていた。
「いつかきっと、そうするよ」
僕は気づく。甘すぎる匂いが嫌だったんじゃない。
その甘さが、僕に向けられていない事が嫌だったのだ。