Neetel Inside 文芸新都
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みんなのヒーロー
第4章「キミは皆野英雄」

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 朝から雨が降っていた。まるでバケツをひっくり返したような土砂降りの雨は窓ガラスを叩き、部屋中にその音を響かせている。天気予報によると今日一日は強い雨に見舞われるらしく、英雄は朝のニュース番組を見ながらため息をついた。昨夜寝る前にネットで天気予報を見たときはたしかに晴れのち曇りと表示されていた。たった一晩で変わる気象条件とはどんなものだ、なんて英雄は誰に言うわけでもなく毒づいた。
 今日は月曜日だ。普段から週の始めは憂鬱でしかたがないのに、雨が余計に拍車をかける。月曜日の唯一の楽しみである週刊少年ジャンプの立ち読みも、昼休みまでこの雨が続いていては外に出るのも億劫になってしまう。
 英雄は雨の日が嫌いだった。洗濯物を部屋干しすると臭くなってしまうし、濡れてしまうかもしれないので漫画を買って帰れない。特に今日のような横殴りの雨は、傘をさして慎重に歩いてもスーツの裾がぐちゃぐちゃになってしまうので仕事に行きたくもない。
 朝食のトーストを齧りながら、英雄はいっそ仮病で休んでやろうかと考えた。手持ちの作業と部下に割り振っている作業を思い出し、一日ぐらい休んでも支障はないことがわかりながらも結局英雄は休まない。これまで何度もサボろうと思ったことはあったが、行動に移す度胸を持ち合わせていないのだ。
 この朝のニュース番組は天気予報のあとに星座占いがあり、それを見終わってから英雄は住まいを出て会社に向かう。せめて占いぐらいは良い結果であってほしいと思ったが、第一位から順番に発表されていく中にいつまで経っても英雄の星座は現れない。そしてようやく発表されたときには最下位だった。
 こんな結果なら見なければよかった。テレビにリモコンを向けたとき、それは英雄の目に入った。
『ラッキースポットは通勤電車』
 ブチン。テレビを消し、床にリモコンを投げ捨てた。
 ビニール傘を持ち外に出ると、雨は強さを増しているように見えた。一度引き返し、替えの靴下を袋に入れてカバンに突っ込み、重い溜息をついてドアの鍵をかけた。

 雨の日は嫌いだ。忘れたくても忘れられない、あのことを思い出してしまう。
電車に乗りたくない、雨の日の通勤電車にはどうしても乗りたくない。

 それは英雄がまだ社会人になって間もないころの出来事だった。鬱陶しい梅雨が明けて季節は夏に差しかかり、英雄は春から始めた一人暮らしに慣れ始めて、社会人の財力に明かして漫画やゲームを購入し充実した生活を送っていた。
 その日は雨が降っていた。まるでバケツをひっくり返したような土砂降りの雨で洗濯物は部屋に干すしかなく、徒歩数分のマンションから歩いただけでスーツがずぶ濡れになってしまうほどだった。駅に到着し、持参したハンカチで軽く拭くが靴下だけはどうにもならない。今度から替えの靴下を用意しておこう、そんな教訓を得て改札を抜けた。
 駅のホームはいつもより人が多かった。どうやら先発の電車が遅れているらしく、その影響で二本分の乗客が溜まっているようだ。昨日買ったばかりの漫画を読もうとカバンから取り出すと雨が浸水して無残な状態になっていた。雨に対して苛立ちを抱きつつ、朝から深い悲しみに沈みながら静かにカバンの底に押し込んだ。
 電車が雨を切ってホームに到着し、乗客たちはぎゅうぎゅうと詰め込むように電車に入っていく。英雄は最後に乗り込むと、他の乗客たちに圧迫されて閉まった扉に押しつけられた。普段と比べ二倍ほどの混雑具合で呼吸すら困難だったが、目的の駅までの三駅間、こちら側の扉は開かない。じっと我慢するしかなかった。
 電車が走り出し、英雄は窓の外を眺めていた。雨粒が窓ガラスにバシャバシャと当たって見慣れた風景は見えず、車内広告は乗客が多すぎて隠れてしまっている。漫画は無事だったとしても、これだけ密集していては取り出すこともできないだろう。視覚を満たすものが何もない、たったの三駅とはいえつまらない通勤時間になりそうだ。
 一駅目に到着したものの、降りる乗客と乗り込む乗客の数がほぼ同じだったので混雑具合は変わらなかった。少しぐらい空いてくれよ、と英雄が思ったのも束の間、電車はさっさと走り出した。
 英雄は困っていた。電車に乗り込んだときから目の前にはやや年下の、大学生ぐらいの女性がいたのだが、呼吸が妙に熱っぽく荒いのだ。その不自然なほどに荒い呼吸が気になってしまい、視線は外に向けながらもその女性に注意を払った。すると耳を真っ赤にして、身体を震わせながらじっとうつむいているではないか。
 体調が悪いのだろうか、と英雄は考えた。となると、男性である自分が女性に体調について問いかけるのは抵抗があったが、この出会いは運命的なものかもしれない。ここで声をかけることでさらなる進展があり、うまくいけば生涯初めての恋人ができるかもしれない、なんて漫画のような展開を妄想していた。
 しかし一つだけ、奇妙なことがあった。それは自分以外に気づいている乗客がいないように見えたのだ。目の前の女性は存在しない、それぐらい他の乗客は無関心だった。
二駅目でも混雑具合は変わらず、圧迫感に慣れ始めていた英雄は目の前の女性が心配になっていた。最初に見たときから比べると呼吸がさらに荒く、身体がぐらぐらと前後に揺れているのだ。
 心配するあまり抱いていた妄想を忘れ、下心抜きで声をかけようとしたとき、英雄はそれに気づいた。
「……あっ」
 思わず漏らしてしまった声を飲み込んだ。英雄はこの女性が体調不良ではなく別の理由で挙動不審であることと、自分以外で気づいている乗客は皆、知らないふりをしていることがわかってしまったのだ。
 英雄の声が聞こえたのか、女性は顔を上げた。顔は耳と同じぐらいに赤く染まり、ぼろぼろと涙をこぼしていた。そんな様子に英雄は驚きのあまり目が釘付けになり、英雄に気づいた女性はゆっくりと口を動かした。英雄は聞き取ることができなかったが、その唇の動きから何を言おうとしているのか想像できた。

『たすけて』

 女性は痴漢に遭っていた。
 下半身を触られているのだろう、もぞもぞと腰を動かして抵抗するが混雑のために身動きが取れず、逃げることができない。そしてすぐ近くに潜んでいる加害者への恐怖と、自分の痴態を他の人に知られてしまうことへの羞恥心で声が出せない。そんな女性がありったけの勇気を振り絞り、目の前にいる英雄に助けを求めたのだ。
 ところが、英雄の頭の中は真っ白になっていた。何を、どうすればいいのか、まったくわからなかった。何より、目の前で起きている犯罪行為に身体がすくんでいた。もし注意したとして、加害者に逆上されて暴力沙汰にでもなろうものなら最悪だ。第三者が怪我を負う事件が過去にあったことを英雄は覚えていた。
 目をそらすことができず、英雄は女性と見つめ合った。女性は何度も口を動かしていたが、英雄はどうすることもできなかった。そうしているうちに電車は三駅目、英雄が降りる駅に到着した。扉が開き、乗客の足音で英雄は我に返り、他の乗客を掻き分けて電車から降りた。
 足元が滑ることも恐れずに階段を駆け下り、改札を抜けて英雄はようやく安堵した。電車はとっくに発車している、もう犯罪に巻き込まれる恐れはない、苦しかった胸のつっかえがなくなって呼吸が楽になった。が、すぐに英雄は自己嫌悪に襲われた。目の前で起きた痴漢の現場から逃げ出してしまった。自分は他人と比べて意識の高い人間で、物怖じせずに注意できると思っていた。けれどそれは漫画やアニメの主人公に自分を重ねていただけで、実際は知らないふりをしている他の人々と同じだった。その一方で、自分の取った行動は間違っていないとも思っていた。もし暴力沙汰になっていたらインドア派の自分は手も足も出ず、身を守ることさえできない。だから逃げることは正解だった。
 英雄は思考と行動の矛盾に苦しんだが、その苦悩はいずれ自己否定に繋がってしまうことに気づき、言い訳をすることで精神の平穏を保とうとした。女性専用車両に乗っていれば痴漢になんて遭わなかった、女性自身に隙があったのではないのだろうか、知らないふりをしていた周囲の乗客も同罪だ。どうして自分に助けを求めたのか、他の乗客ではいけなかったのか。『たすけて』なんて聞こえなかった。
 その日から英雄は通勤中に音楽を聴くようになり、漫画を読むか窓の外から目を外さないようにして電車内での周囲との関わり合いを避けるようになった。そして逆恨みをするように、雨の日を嫌った。

 駅に到着し、英雄は傘の雨水を払った。慎重に、ゆっくりと歩いたがスーツとカバンが濡れてしまった。ハンカチで拭けるだけ拭いて改札を抜けたとき、ふと見上げると電光掲示板には数分の遅延が表示されていた。
 駅のホームは普段よりも混雑していた。遅延している分、乗客が溜まっているからだ。
(……何だよこれ)
 英雄は自分で自覚できるほどに動揺していた。強い雨、電車の遅延、乗客の多さなど、今日ほどあの日と酷似している日はなかった。偶然にしては出来すぎている、何か人智を超える存在の力が働いているのではないかと、英雄は被害妄想に取りつかれてしまう。
(大丈夫なんだろうな、今日の俺のラッキースポットは通勤電車のはずだよな? 悪いことは起きないはずだよな?)
 予定よりも六分遅れて到着した電車は普段よりも乗客が多く、さらに乗る人数も多いため車内が混雑するのは必然だった。ますますあの日と同じで、もはや最下位の星座占いに頼るしかなかった。
 電車が走り出した。あの日のように扉に押しつけられて身動きできない状態だったが、大音量で音楽を聴いているので外界とは切り離れている。あとは窓の外を見続けていればいつもと変わらない通勤ができるはずだと、英雄は自分を奮い立たせた。
 英雄の思惑通り電車は順調に走り、一駅目、二駅目を過ぎた。混雑具合は変わらなかったが、あと少しの辛抱だと思ったそのとき、駅と駅の間で電車が突然止まった。急ブレーキだったので立っていた乗客は全員よろめき、車内は騒然とした。さらに会社に電車遅延を連絡する者、ぶつぶつと文句を言う者など、様々な声が飛び交う中で英雄はイヤホンを外して車内放送を静かに待った。
 しばらくして流れてきた車内放送によると、信号機トラブルが発生して先行電車が次の駅から発車することができず、緊急停止をしている。信号機が復旧次第、順次運転を再開するらしい。
 経験上、信号機トラブルの遅延はさして大きくないことを英雄は知っている。せいぜい十分程度のことだろう、まだ時間には余裕があるので気楽に構えた。今後の車内放送に気をつけないといけない、そう思った英雄は不本意ながらに音楽の音量を抑え、イヤホンをつけ直して再び窓の外を見た。
 雨が小降りになっている。どんよりとしていた空も明るくなり始めていたので、駅に着くころには止むかもしれない。靴の中はずくずくになっているから、会社に着いたらすぐに靴下を履き替えよう。雨が止んでくれたら昼休みの立ち読みに行きやすい。漫画も買って帰ることができる。だから雨よ、止んでくれ――無理に思考を別のところに向けて現実逃避をしていたが、ネタが尽きてしまった。
(どうして……)
 通勤電車はラッキースポットではなかったらしい。先ほど車内放送を聞くためにイヤホンを外したとき、切り離していた外界に戻ってしまった。だから、その光景が見えてしまった。
 英雄は自分の不運を呪った。どうやら数々の偶然は偶然ではなかったらしい。人智を超える存在の意図は読めなかったが、周到に用意されたこの展開には悪意しか感じられなかった。
「やめて……やめてください……」
 目の前で痴漢が起きていた。
 着崩れしていないリクルートスーツを着た、おそらく社会人一年目ぐらいの女性は囁くように拒絶をしていた。だが抵抗らしい抵抗はそれだけで、吊り革に掴まり逃げようとするどころか少しも身体を動かしていなかった。
 それが動かさないのではなく、動かせないということを英雄はすぐに気づいた。女性の真後ろでニタニタと笑みを浮かべ、染めムラが目立つ金髪の男が後ろから女性のお腹に腕を巻きつけ、もう片方の手で胸を鷲づかみにして拘束していた。あまりに大胆な犯行ではあったが、周囲の人間が皆見て見ぬふりをすることを、気弱そうな女性を選んでいるので抵抗されないことをわかっているのだろう。
(そ、そうだ、恋人同士のそういうプレイかもしれない……バカか、僕は)
 うっかり目撃してしまった英雄は、我が身に降りかかろうとする火の粉を振り払うためにこれが痴漢ではないと思い込むようにした。しかしそれは無理がありすぎると、すぐに否定してしまった。
 英雄は必死に目をそらしたが、すがるような視線をずっと女性から感じていた。
(どうして、何で僕なんだよ……)
 偶然目の前にいるだけ、それ以外の理由はないだろう。早く、早く、動いてくれと、英雄は運転再開を心から願い続けた。その願いが届いたのか、ようやく電車が動き出した。英雄はポケットに手を入れ、定期入れを握り締めた。到着し、扉が開いたらすぐに逃げよう。他の乗客を突き飛ばしてでも、この場から離れることが最優先だ。
 正義なんて力がなければ振るえない。悪魔の実を食べていないから手足は伸びない、呼吸法を知らないから波紋は使えない、矢に射抜かれていないのでスタンドも発現しない、手を合わせても等価交換の錬金術は発動しない。勇者の末裔ではないし、サイヤ人ではないし、四代目火影の息子でもない。悪の組織に改造手術を施されていない、三分間どころか一瞬も巨大宇宙人に変身できない、祖父から巨大ロボを与えられていない。自分はヒーローではない、一人では自分の身さえ守れない凡人だ。助ける側ではなく助けられる側なのだ。
(無理だ、僕には無理だ。だって僕は)
 世界征服を目論む悪の組織なんてとんでもない、自分が住む街どころか、目の前の痴漢さえ止めに入ることができない人間だ。それはしかたがないことだ、凡人なのだから。
(……僕はヒーローになれない)
イヤホンを外し、女性に顔を向けるとすぐに目が合った。その瞬間、女性は口を動かした。

「たすけて」

 聞こえた。今回はちゃんと聞こえた。きっと、前のときもそう言っていたのかもしれない。
 駅に到着した。扉が開き、乗客が降りていく。英雄は定期入れを取り出し、ぐっと握り締めて――

「……やめろよ」

 声が震えていた。手も足もひどい風邪のときのようにぶるぶると震えていた。自ら首を突っ込んだことで巻き込まれる恐怖と、きっとみっともない姿をしている自分が恥ずかしかった。
(ヒーローじゃなくてもいい。それでも、助けることはできるかもしれない!)
 おそらく今の自分はとても格好悪い。けれど漫画やアニメで見た、弱者が強者に立ち向かう姿は感動的なほどに格好良かった。命を危険に晒して主人公の危機を救うためにゾンビに立ち向かった臆病な少年や、悪魔超人に勝利することができた超人に憧れるだけの人間など、英雄はそんな登場人物たちから力を振るうだけが正義ではないこと、立ち向かうことに必要なものは強さではなく勇気であることを教えられた。
「あ? 何だよ?」
「わかっているだろ? ここで降りて、駅事務所まで行くぞ」
 男の鋭い眼光が英雄を見据える。相手は英雄がこれまでずっと敬遠し続けていた自分とは真逆の人種なのだ、怖い、ただ怖かった。
 周囲の乗客は二人の様子に見入っていた。被害者である女性も、伏目がちに英雄をじっと見つめている。
「何言ってんだよ、お前」
「き、君が、この子に何かしているところ、み、見ていたんだからな」
 英雄は後悔し始めていた。高揚していた感情は落ち着き、出たとこ勝負をしている自分に焦っていた。とりあえず駅員を呼べばいいかもしれないが、ここから離れるわけにはいかない。先に降りた乗客が呼んでくれるかと考えたが期待はできないだろう。それに男からは今にも手を出しそうな剣幕で睨みつけられている。それだけで英雄は気を失いそうだった。
 英雄はいよいよ返す言葉が見つからず、混乱して足元がぐらぐらと揺れるような感覚に襲われ、握り締めていた両手を力なく開いた。何を言われようと、何をされようと諦めがつき始めていた、そのときだった。
「……この人、です」
 うつむきながら、被害者の女性は先ほどまでとは違う、周囲に聞こえるような声で言った。そのとき男の表情が強張ったことを英雄は見逃さなかった。
「ほほ、ほら、この子も、そ、そそ、そう言っているじゃないか」
「ふ、ふざけんなよ、俺は何も」
「……私も、見ていました」
「お、オレも、見ていたぞ!」
「すぐに駅員を呼んできます!」
 それだけではない、周囲の乗客が連鎖するように次々と男を責め始めた。この一方的な展開に男は大声を張り上げて黙らせようとしたが、それでも静まらない乗客に舌打ちを残して走り去った。
 ようやく難を逃れた英雄は今にも倒れそうなほどに疲労していて、ふらふらと電車から降りた。ちょうどそのときに駅員が駆けつけたが、痴漢行為があったこととすでに犯人はいないことを簡単に説明すると、特に駅事務所に行くようなこともなかった。
 電車は数分遅れで発車した。動き出す電車の中で女性は頭を下げて口をぱくぱくと動かしていたが、何を言っているのかわからなかった。電車がホームから離れたことを確認して、英雄はベンチに座った。まだ足が震えていて動けそうにない。ハンカチで汗を拭き、いつの間にか傘をなくしていることに気づいた。あのとき、知らないうちに傘から手を離してしまったのかもしれない。
 足の震えは止まったが、気持ちの整理ができるまで休むことにした。間違いなく遅刻してしまうが、この際どうでも良かった。
「皆野英雄さん」
 ベンチに背中を預けたとき、声をかけられた。顔を向けるとそこには自分よりもやや年上と思われるサラリーマンがいた。少なくとも英雄の記憶にはない相手だったので、同じ職場の人間ではないはずだ。
「……あの、失礼ですが、どちら様でしょうか」
「先ほど、これを落としましたよ」
 そう言って差し出されたのは定期入れだった。あのとき止めに入る前はたしかに手に持っていた。傘と同じでいつの間にか手から離していたらしい。
「あっ、ありがとうございます……」
「申し訳ないとは思いましたが、定期券に書かれていた名前を見てしまいました」
「そうでしたか、それはそれは……」
 何から何まで情けなくて、英雄は泣きそうになってしまいうつむいた。あんなみっともない姿を晒して、傘と定期入れを落として、名前すら知られてしまった。穴があったら今すぐにでも入りたかった。
「さっきのアレ、見られていましたか……?」
「え? ああ、はい。同じ車両に乗っていましたので」
「そう、そうでしたか、お恥ずかしい……」
「何を言うのですか。あなたの勇気ある行動が、一人の女性を救ったのですよ」
 英雄は驚いて顔を上げた。それは予想していなかった言葉だった。
「大げさな……僕一人じゃ、ダメでした」
「そんなことありません。もしあなたが声を上げなければ、あの女性は救われなかった。たしかにあなた一人では力が及ばなかったかもしれません、でも、あなたがあの女性と周囲の人たちに勇気を与えたのです」
 どうやら慰められているのではなく、褒められているらしい。けれど実感が湧かなかった。自分の行動が多くの人に影響を与えたなんて、これまでの人生で一度もなかったからだ。
「私が言っても何の意味もないかもしれませんが、言わせてください。ありがとうございました、皆野英雄さん」
 男性は深く頭を下げ、駅のホームから去って行った。再び一人になった英雄は、ベンチに身体を預けた。

 いつの間にか雨は止んでいて、雲間からは光が差し込んでいた。
 天気予報も占いも、つくづく当たらない日だ。皆野英雄はようやく追いついた実感を噛み締めながら空を見上げた。

       

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